諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

ハチ「砂漠の惑星」が示唆する2010年代後半のサバイバル術① 「始原の海」から直接語彙を汲み上げる?

最近私の脳内ではこの曲が無限ループを続けてます。

現時点における私の解釈は以下。

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  • 歌詞中に繰り返し出てくる「Thunder storm」はおそらく始原の海に生命を宿した黒い雷光の事。
    *そしてそれがVocalodの誕生や「思い出は電子音」なるノスタルジー溢れる表現に結びつけられる。

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  • 「今後千年草も生えない」はパイオニア状態ゆえの安定なき試行錯誤状態を指し、カンブリア爆発の如きその多様性の追求の多くが後世につながらないと承知しつつ「のらりくらり歩き回るしかない」現状を指している。

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そもそもこの曲は単体で成立している訳ではなく、最初から以下の様な展開を想定して発表されている様に思えてならないのです。

*そしてまさかのデュエット曲化。

*関西芸人バージョン?


*性別逆転ヴァージョン? まぁこういうのもあっていい。

*英訳バージョン。流石に「Do you Wa-wa-wa-wa-wanna Panda Hero? I wander if they'll save us?」「Dancehalls and Mozaic Rollls, there's nothing new on scroll.」はストレート過ぎるだろうとも思ったが、これまで国際SNS上の関心空間の重要な一角を占めてきたSoundCloudの苦境を思えば「彼らがまさに今必要とされた曲が供給された」とも思えてくる。で「後はだれかが勝手にどうぞ」は「Good lack to the ones who try come after」に。

*アルファベット表記だと「rendzevous」がフランス語源なのが丸わかりなのが興味深い。西部開拓史上においてその言葉は「開拓者と現地インディアンの邂逅史上におけるあまりにも短か過ぎた祝祭期へのノスタルジー」を想起させるのである。で「天空の城」の部分が「(The place whitch)it's  so up high」 となるのは何か「カモメのジョナサン」っぽい。

*そして安定したクオリティで追随してくる韓国語クラスタ。こういうムーブメントではしばしば中国語クラスタが一歩出遅れる。何故だろ?

*日本語で普通に歌っちゃうクラスタも案外分厚い。

*以下は以下でオリジナル要素満載。ボーカルノアレンジも凄いが、何よりバイオロンのソロが凄すぎる?

 ところで何らかの化学的方法で蓄積されてるらしい長期記憶と異なり、短期記憶はある種の電子的信号のループとして保存されてるらしく、電気ショックなどによりあっさりキャンセル出来たりもする様です。

おそらくそれは例えばコールバック関数の連鎖によって複数のCPUを操るNode.jsの様な並列処理言語の世界。

要するにそうして生み出される無数の「割り込み待ちループ」と様々なプロトコルを通じて結びつけられた「記憶装置(レジスタ/メモリ/HDD等)」「(水晶発振器などを用いて正確な時を刻む)時計ユニット」「乱数発生ユニット」「量子コンピューター・ユニット」「ネットワーク接続機器」「入出力装置(スキャナ/OCR/プリンタ)」といったデバイス類のネットワークが紡ぎ出す(「メカニック(Mecanique =機械論的因果律によって構造化された)」の対語としての)マシニック(Mcinique=機械状)な世界。

上野俊哉「四つのエコロジー フェリックス・ガタリの思考(2016年)」

そもそもガタリにとって、「実存的なもの」existential はすでに機械状、マシニックなものであり、決して機械論的な因果関係や決定論には左右されない。なぜ実存が機械状(マシニック)であるかと言えば、それはあらかじめ決定されたルールやコードからはみだして、様々な選択や決定を異質な要素の結合の可能性に開いていくのは、人間の意志や選択ではなく、機械状の組み合わせであるからだ。

その担い手は人間のみならず、バクテリアや細菌、電子回路や工学機械、視聴覚装置にいたるまで何でも機械状の仕組みにはまりこんだものとしてとらえられる。機械が決定し、人間がしたがうと言ってるのではない。

*「時計ユニット」「乱数発生ユニット」「量子コンピューター・ユニット」…厳密に扱おうとすればするほどその区別が曖昧になっていく側面もあるらしい。

カントは「物(独Ding、英thing)の世界=人間に認識可能な範囲内」と「物自体(独Ding an sich、英thing-in-itself)の世界=人間に認識不可能な絶対他者の世界」の峻別を試みましたが、これも「世界に働きかける文法(コンピュータ言語)」と「働きかけられる対象(CPU)」と「世界そのもの(接続デバイス)」を分けて考える思考様式の産物。そして並行処理言語は、このうち「世界に働きかける文法」と「働きかけられる対象」を「互いに通信プロトコルで結ばれたマシニックな割り込み待ちループの集合体」に平準化する事によってカント哲学を踏まえている様な踏まえてない様な新しい境地へと足を踏み入れるのです。

おそらくこの様な「(カントやマルセル=モースが夢想した様な)体系立てられた象徴体系」と完全に手を切った「平準化されたイメージ空間」こそがハチ/米津玄師の歌詞空間を読み解く鍵なのです。
*で、アメリカ人は割とこれを「マカロニ・ウェスタン」みたいなモードで受容する。この現象についてそのうち誰か名前をつけて欲しい。

ここで重要なのは、それがあくまで「ボードレールがその起源をエドガー・アラン・ポーに仮託した)20世紀までの象徴主義」と異なり「背後に暗躍する全体を統合する何か」を想定する必要を一切認めていないという辺り。

それは結局「人類は絶対意思と完全融合し、自らの役割を与えられる形でしか幸福感を得られない」なる伝統的世界観に再捕捉されてしまったヘーゲル哲学の真逆のアプローチというべきでしょう。そこで誰にも自らの自由意思を売り渡さない為、真っ先に投げ捨てられたのが「(人を導く)希望に縋る態度」。

迷子のサーカス(別役実) | 後味の悪い話まとめサイト@2chオカルト板

ある国のサーカス団が、ある大きな街のカーニバルで公演するために馬車で旅をしている。 方向などの一切分からない巨大な砂漠を通るのだが、その砂漠に差し掛かったサーカス団は ある方角に輝く、1つの大きな青い星を目印として進んでいた。

 

夜にならないと進めないため、専ら昼は休んで夜になると、ただひたすら星の方角へ歩く。 ある夜、向こうの方から同じようなサーカス団が馬車を連ねて歩いてきた。 話をすると、どうやら目的地は全く一緒の街であり、カーニバルでの公演以来が来たから、そこへ向かっているという。 ところが、そのサーカス団は、自分達の目印にしている方角とは反対方向の 赤い大きな星を目印にして旅をしていると言うではないか。

 

自分達の方が正しい、いや自分達が正しい、2つの団は言い争う。 2つの団の占星術師?が数時間にも渡って話し合うが、どうも埒が開かない。 2つの団が話し合った結果「両方が間違った方角へ進み、両方とも街へたどり着けなかったらカーニバルは盛り上がらない。 せめてどちらかの団だけでも行けたら、それで良いじゃないか。それにどうせ、一つの街に2つのサーカス団が辿り着いたって仕方ない」と、互いの星を目印にして旅を続けることを決意する。

元話の結末部

「やっぱりここで別れて、あなた方は青いお星さまの方向、私たちは赤いお星さまの方向へ行ったほうがいい。そうすれば、少くともひとつは街へ行き着けるのだからね。ここで二つがまとまって、一つの方向を目指し、それが間違っていたら、あの街のカーニバルのために、サーカスがひとつもなくなってしまうじゃないか」

「そうだ、そうだったね」

二つのサーカスは、それぞれ赤いお星さまと青いお星さまを目指して、静かに出発しました。三十六人の団員と、五十六人の団員は、それぞれの馬車が見えなくなるまで、手を振り続けました。

「あの街に着いたら、よろしく」

「そっちこそ、あの街に着いたらよろしく」

「さようなら」

「さようなら」

星明りの下にぼんやりと白い砂漠の砂を、キシキシと踏みながら、十二台の馬車は相変らずゆっくりと進みました。

「考えこむことはないよ。これまでだってずいぶん沢山のサーカスが、砂漠の中で行方不明になっているんだからね」

団長さんは、しょんぼりとうずくまっている案内の男をなぐさめて言いました。

「サーカスは危険な商売だし、それくらいのことは、みんな覚悟してるさ。それに、この方向が間違ってるって決ったわけじゃないんだしね。もしかしたら、あっちのサーカスの方が、間違った方向を選んでしまったのかもしれないよ。そのことを考える方が、私たちにはつらいことじゃないか」

でも、三日目の夜、小高い丘の上にようやくたどりついた十二台の馬車と五十六人の団員たちはあたりを見まわして、自分たちの方が間違えたことに気づいたのでした。あたりは見わたすかぎり広い砂漠だったのです。

「いいじゃないか。あっちのサーカスは、いま頃もう街について、大騒ぎで準備を始めているよ」

「きっと、にぎやかなカーニバルになるんだろうな」

団員たちは馬車のかたわらにうずくまって、星空を見上げました。そうすると、その奥の方から、高らかなファンファーレや、人々のドヨメキや、赤や黄色の旗が風にあおられてバタバタと鳴る様子が、聞こえてくるような気がしたのです。

いつの間にか風が吹いてきて静かに馬車や人々を埋め始めました。でも、誰も動くものはありません。次第に華やかになってゆく星空のむこうのサーカスに、みんなじっと耳を傾けていたからです。

 私の記憶の中にあった「同じ街に二つのサーカスが到達する事に意味はない」なる一説はラジオドラマ脚本家のオリジナルか私の記憶違いだったらしいです。それは「改良」だったのでしょうか。それとも「改悪」だったのでしょうか…