諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「魔法少女」は各時代、何を象徴してきたのか?

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ジョージ・ロメロ監督にとってのゾンビ映画」同様、時代ごとに「魔法少女なる概念」に投影される内容は変遷を遂げてきたんです。

 歴史のこの部分だけ拾っても壮絶な闇鍋状態が想定される次第。そもそも「魔法少女なるもの」は、如何なる変遷を経てこんな濁流へと成長を遂げてきたのでしょうか?

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① そもそも「ひみつのアッコちゃん(1962年〜1965年)」原作者の赤塚不二夫が映画「奥様は魔女(I Married a Witch、1942年)」について、「魔法使いサリー(1966年〜1967年)」の原作者横山光輝がアメリカの人気ドラマ「奥さまは魔女(Bewitched、1964年〜1972年)」について言及している以上、「魔法少女物」の大源流がアメリカにある事実は動かない。

  • 映画「奥様は魔女(I Married a Witch、1942年)」…ソーン・スミスとノーマン・H・マトソンのファンタジー小説「The Passionate Witch(1941年)」を原作とし、後の人気テレビシリーズ「奥さまは魔女」制作の原点にもなったとされる。17世紀末の「セイラムの魔女裁判」に取材した作品。自分達を火炙りにした一族に「代々間違った相手と結婚する」呪いをかけたら、最後には1942年に封印から解放された自分が間違って惚れ薬を飲んで自ら振り回されるコメディ。
    *背後に間違いなく「東海岸的陰鬱さを笑い飛ばそうとする西海岸流諧謔」が見て取れる。

    *同じ要素を逆に東海岸流に編纂したのが「パラノーマン ブライス・ホローの謎(ParaNorman、2012年)」で、これに登場する「魔女」は、海外においては「ブレンダンとケルズの秘密(The Secret of Kells、2009年)」のアイスリンクや「物語シリーズ(2008年~)」の忍野忍と並べられる形で海外の魔法少女ファン層で「ロリババァ(Etarnal Loli)」なる分類で固定ファンを有する。


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    *「ロリババァ(Etarnal Loli)」…あくまでその発想の大源流もまた日本ではない。その出発点はあくまでアメリカに亡命したロシア人作家ナボコフ「ロリータ’(Lolita、1955年)」に登場する「時として大人の男性を破滅させる美少女」ドロレス・ヘイズであり、ウィリアム・マーチ「悪い種子(The Bad Seed、原作1954年、映画化1956年)」のローダ・ペンマーク。興味深いのは横溝正史「三つ首塔(1955年)」に登場する「悪の美少女」佐竹由香利にその投影が見られる辺りで、しかも彼女は死後も怨霊となって暴れ回る(この展開のせいで「三つ首塔」は(映画版「八つ墓村」を除く)金田一耕助シリーズ唯一のオカルト物となった)。こうした「ロリータ」概念が本質的に備えた悪魔性を念頭に置かないとLana Del ReyのLolitaが米国ティーンに愛好されている真の意味が見えてこない。国際SNS上の関心空間に滞留する女性アカウントはかかる概念と邂逅し、様々な形態での同一視と惜別を経て自意識を確立していくのである。従ってその概念そのものは逆説的に「永遠の触媒」として存続を続ける事になる。もちろんアメリカ女性全員がそんな険しい道を辿る訳ではなく、実際彼女達のコミュニティはJustin Bieberの熱狂的ファン層たるBelieberや(NarutoやThe Legend of Korraを好む)武闘派、さらには「お騒がせセレブ」を愛好するパリピ派などを敵に回してきた。その一方で「Emily the Strange」を好むGoth派などとは親和関係にある。

    日本のゴスロリバンギャよ、これがゴスだ

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    *その一方で「魔女はあくまで人類に対して仇なす事しか考えない絶対悪」という立場を貫いたのが「サスペリア(Suspiria、1977年)」「インフェルノ(Inferno、1980年)」「サスペリア・テルザ 最後の魔女(伊: La Terza madre、英: The Mother of Tears、2007年)」といったイタリアン・サスペンス・ホラーの世界。ハマー恐怖映画「妖女ゴーゴン(The Gorgon、1963年)」や「バンパイア・ラヴァーズ(The Vampire Lovers、1970年)」に引き続き「女性モンスターは男性モンスターより日常に溶け込みやすい恐怖」「(異性愛を脅かす)レズビアン的変態性欲のエロティズム」の世界を加速。「ロリータ美少女」同様「レズビアン・モンスター」もまた当初は「人類を滅ぼす絶対悪」として台頭したのだった。

    これはマレーシアの守旧派が今日なお「小説や青娥の世界でLGBTQを描くのが悪いとは一言もいってない。ただ人類の尊厳を守る為、それを正義を脅かす絶対悪としてのみ描き、作中で必ず滅ぼして勧善懲悪を貫く必要性があると主張しているだけだ」と主張しているのとも重なってくる。実際1930年代に制定され1960年代までハリウッド映画の指針とされてきた倫理規程Hays Codeにも同種の規定があったし、江戸川乱歩横溝正史のホラー作品に登場する同性愛者やロリコン美少女はこの規定に忠実に従って滅んでいく。ここで興味深いのは、そういう規制を行なった側に見られる「一切表現を禁じるよりはるかに進歩的」という傲慢な意識。そして実際「悪としても表現を許してしまった事」が後世における価値観の逆転を用意し、むしろ逆に彼らの側を破滅に追い込んでいく皮肉な展開。同種の流れは「シェークスピア戯作におけるユダヤ人や黒人の扱い」においても見られた。

 ②ただし執筆陣を男性漫画家が占めていた1960年代の少女漫画の世界では「恋愛御法度」が当然視されており、そうした傾向が「若さを(恋愛でなく)スポーツにぶつける」スポ根ブームへ誘導した側面まであった。こうした保守的思考の拘束からの脱却を可能としたのは、一般に1970年代におけるウーマンリブ運動の影響だったと目されている。要するに永井豪キューティーハニー(1973年)」の影響も受けながら「魔女っ子メグちゃん(1974年〜1975年)」が登場してくる流れ。この過程で暴力とセックスアピールが解禁となったのが以降の展開上大きい。

  • 実は「キューティーハニー」と「魔女っ子メグ」の間には「ミラクル少女リミットちゃん(1973年〜1974年)」なる実験作品も存在したのである。

    ミラクル少女リミットちゃん - Wikipedia

    手塚プロアシスタント経験者らで構成された企画集団「ひろみプロ」が企画した「少女版SF変身物作品」を具体化したもの。月曜19時の放送枠での「女の子を視聴中心対象とした児童一般向けの企画」として、対案に『キューティーハニー』が出されていたが、コンペの結果、本作が月曜19時の放送作品に採用された(『ハニー』は土曜20時30分枠にて放送された)。
    *待て、それは本当にサイボーグなの? 「鉄腕アトム」じゃないの?

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    当初の企画書には「正義を貫くと、一年しか延命できない寿命がさらに縮まる」といったハードな設定が存在していた。NETサイドはこうした設定がともすれば作品を陰鬱にすると考え、「女子児童向け」として少女物の要素を強くし、魔法少女物にみられる学園ドラマを物語の主軸として再構築。キャラ原案として漫画家の永島慎二を迎え、小松原一男のデザインワークを経て、現行の形にまとめられた。
    *「初期設定」…「作品制作者には社会批判を行う義務感がある」なる正義感が横行した時代だったのを受け、彼女の「ミラクルパワー」は原子力に擬えられた。「無理して人間の希望を叶える都度リミット(崩壊限界)が迫り、最後はメルトダウンを起こして何もかも吹き飛ばしてしまう(無邪気に頼みごとをしてくる人間側はそういう過酷な設定について一切考えない)」緊張感は横山光輝「マーズ(1976年〜1977年)」のそれそのもの。

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    *しかし考えてみればこうした設定、気付くと現代の魔法少女物にはしばしば当たり前の様に組み込まれている。意外と対象たる少女側の自己認識と合致していた模様。

    「サイボーグ少女」という画期的要素をもった本作であったがSF要素は薄められ、サイボーグ化によって得られた「ミラクルパワー」も単に魔法に代わる超能力のような扱いとなってしまった。その為にこれが発揮されなくとも成立する平凡なドラマ作りが行われる事となり、結果として視聴率も振るわなかったが、本作でみられた作劇の実験的手法がのちの『魔女っ子メグちゃん』にて開花することになる。
    *この過程で(おそらくスポ根ブームの影響もあって)ライバルとの競争なる要因が導入される展開となる。そういえば1970年代は1970年代初頭の女囚映画や日活ニューアクション映画を皮切りとする「Cat Fight(女同士の格闘)」全盛期でもあった。

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    2006年リリースの本作DVD-BOX解説書において「本作は魔法少女物というより、同枠前作の『バビル2世』や、『新造人間キャシャーン』、昨今の『新世紀エヴァンゲリオン』の流れに位置すべき作品として再評価されるべきであろう」という趣旨の解説が述べられている。

  • この様に魔女(正確には「魔法の国の王侯貴族」)要素とサイボーグ(正確にはアンドロイド?)要素とスポ根要素(正確には「ライバルとの競争」要素)がスムーズに奇跡的融合を果たした背景には「超常能力の存在を一般に知られてはならない」なる厳然とした秘密主義設定の存在が重要だったと考えられている。そして「世間には隠し通さなければ自分が破滅に追い込まれる」なる意識なら当時のLGBTQ界隈にも存在したという説も。
    *この事は恐らく「怪奇/心霊/オカルト/超能力/UFO/サイキック・ブーム」に湧いた当時の日本人の「絶対他者に対する意識」とも密接な関係がある。

    *もちろん「富野由悠季監督が1stガンダム(1979年)を発表するまで、日本のアニメ・ヒーローが戦う相手は(特撮怪獣映画の衣鉢を継いで)異星人や超古代文明の残党などに限定されていた」なる指摘とも連動してくる。

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    謎の巨大組織タロンに身を委ねエスパーサイボーグとして生まれ変わった銀髪の美少女「ソネット」。そして古代超人類の血を引く唯一のエスパー「ラン」。二人の対決を描いた1980年代を代表するSFコミック!!
    *21世紀の感覚では「全部入り」にもほどがある!! 「伝奇小説」なるジャンルも、同様の混沌の坩堝から生まれたといってよい。 

 ③そして1980年代に入ると日米ともに「青春搾取映画(Youth Exploitation film)」の時代が始まる。それは大友克洋が「現体制を支えるので精一杯の大人に体制そのものを変革する力は備わってない。それを成し遂げるのは子供や老人や障害者といった体制外の存在」と豪語した時代でもあった。

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  • アメリカの場合、ヒッピー運動の挫折と黒人公民権運動の成功が1970年代前半における「黒人搾取映画(Blaxploitation Movie)」や(アジア系市民を観客に狙った)カンフー映画の大流行に繋がった前史が存在する。当時の007シリーズを見てもその流れは明白。

  • 「青春搾取映画(Youth Exploitation film)」そのものの大源流となったのは国際的ディスコ・ブームの火付け役となった「サタデーナイト・フィーバー(Saturday Night Fever、1977年)」とも。
    *扱う音楽のジャンルも(まさしく当時全盛期を迎えていた「商業至上主義」の要請を受けて)次第にロック方面へと推移していく。

    *まさしく、とあるアメリカ人評論家が「スター・ウォーズ(1977年)以降、ハリウッド映画界はブロックバスター映画に立脚する商業主義に徹っする様になり、大人向けの映画を撮らなくなった」と嘆く時代の始まり。しかし彼が挙げる「大人向けの映画」もまた(黒澤明作品に感動した)フランシス・コッポラ監督やマーティン・スコセッシ監督が製作した「イタリア系移民のプロレタリアート映画」に偏っており、スター・ウォーズを生み出したのも同じコミュニティだった事を(おそらくは故意に)失念している。そしてもちろんシルヴェスタ・スタローンもジョン・トラボルタもイタリア系アメリカ人だったのである。こうした流れは、次第に軽薄化していく側面も含め個人単位というより「産業市場主義時代の要請に従った社会的動き」と把握すべき内容だと思われる。

  • シンディ・ローパー「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン(Girls Just Want to Have Fun、1983年)」やマドンナ「ライク・ア・ヴァージン(Like a Virgin、1984年)」が少女達の熱狂的支持を集めて大ヒットとなったのもこの時期だったが、今から思えば当時のそれは「パーティで輝きたい」だけの既存価値観に拘束された(中産階級以上の白人)少女達に阿った「フェミニズム風味の清涼飲料」程度に過ぎなかったのかもしれない。

    *「本物のフェミニズム(すなわち女性の社会進出)」の浸透はむしろ「青春搾取映画(Youth Exploitation film)」や「ハードボイルドSF」といった周辺領域から始まった。すなわちリドリー・スコット監督映画「エイリアン(Alien1979年)」「ブレードランナーBlade Runner1982年)」やジェームズ・キャメロン監督映画「ターミネーター(The Terminator、1984年)」「エイリアン2(Aliens、1986年)」において掲示された「白人エリート男性博士が善導するのではなく、プロレタリアート女性が主人公となる世界観」。「フラッシュダンス(Flashdance、1983年)」で称揚された「男性に対する身体能力的ハンデを重機や溶接の免許獲得によって克服したガテン系女性の登場」。サラ・パレツキーV・I・ウォーショースキー。シリーズ(1982年〜)」に代表される「女ハードボイルド探偵物」なるジャンルの確立。当時の認識ではホラーSFのバリエーションに過ぎなかった「エイリアン(1979年)」におけるリプリーがシナリオ初稿段階では性別未確定で「観客の予想を裏切るべく」あえて女性に設定され、当時は全くの無名だったシガニー・ウェーバー(ただし実はその正体は米国TV局NBC社長の娘で母親は英国女優というサラブレッド)が配役された逸話を思えば隔世の感すら覚える。そのリプリーが「エイリアン2(1984年)」では(同じ母性の体現者たる)エイリアンの女王と一騎打ちを演じたのが1980年代前半を象徴するムーブメントだったとも。

  • デビッド・ボワイやアラン・ムーアクライブ・バーカーティム・バートンといった「カルト世界の住人」がメジャー業界での大抜擢を受けたのもこの時期の特徴。そして欧米の産業至上主義は次第に自ら放った彼らの「毒」を次第にコントロール出来なくなっていく。
    竹宮ゆゆことらドラ!(2006年〜2009年)」の原作最終章がクライブ・バーカー的描写で覆い尽くされていったのと同様のロマン主義風圧倒的墜落感がそこには存在する。

 ④当時は日本でいうと「角川春樹商法(メディアミックスを駆使したプロパガンダ的技法)黄金期」に該当する。映画界もTV業界もアイドルの売り出しに必死だった。

  • むしろ「国家間の競争が全てだった」総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)の衣鉢をマスコミや企業が継承し「国民総動員」を狙ったという意味ではキャンディーズ(1972年〜1978年)やピンク・レディー(Pink Lady)といった1970年代の「国民的アイドル」の方が商業至上主義の理念から見ても完璧を誇っていた。1980年代アイドルにはむしろ「(趣味の多様化によって)国民的アイドル歌手が出し得なくなった時代の試行錯誤」という側面すら見受けられるのである。


    *「魔法のプリンセス ミンキーモモ(1982年、1991年)」や「魔法の天使クリィミーマミ1984年〜1885年)」における魔法少女像には、その水面下でまさにこうした時代における「制作側」と「供給側」の葛藤が蠢いていたという。同時期富野監督は「伝説巨神イデオン(TV版1980年、劇場版1982年)」を制作。

    *当時の日本の魔法少女アニメ制作側が抱えていた問題は、欧米でいうとロマン主義文学や人気シリーズの作家達が「産業革命導入による大量生産・大量消費の時代の到来が、消費の主体を(王侯貴族や聖職者といった旧世代インテリ層から)より俗物でハッピーエンドを好むブルジョワ階層や庶民の趣向への対応を強要された」歴史と重なってくる。まぁこうした苦悩を経ないと「政治に影響を与えない文学など存在する価値はない」とか言い出す「総力戦体制時代の残党」を根絶やしに出来なかったりするので、それはそれで経験の必要があったとも。

    *そしてこの路線はその不可能性故に「訳の分からない不条理性」を引き摺る展開へと堕していく。まぁ「モンパルナスのグラン・ギニョール恐怖劇場」の起源にも同じ様な逸話が存在した。「商業至上主義の最闇部」とも。こうした「(カルト文化やLGBTQ文化の潜伏先としての)制作者側の叛逆」はウォシャウスキー兄弟(後に姉妹)の「マトリクス三部作(1999年〜2003年)」へと継承されていく。

    *こうした過渡期にアイドルと表裏一体の形で人気を博したのが「不良少女」の概念となる。和田慎二スケバン刑事(原作1974年〜1983年、TVドラマ化1985年〜1987年)」の時代…「警視庁に死刑囚たる母親の命を人質に取られた暴力面における天才少女」なる1970年代劇画的設定を引き摺る。ちなみにクエンティン・タランティーノ監督映画「キル・ビルKill Bill、2003年)」 には虚無的なヤクザの用心棒として登場。

     

  • その一方でフェミニズム的シンボル性といった文化的に重要な部分は(ランキン。スタジオの下請けとして経験値を高めてきたトップクラフトを継承した)宮崎駿監督映画「風の谷のナウシカ1984年)」「天空の城ラピュタ(1986年)」などにあらかた持って行かれてしまうのである。
    *ちなみに国際SNS上の関心空間に滞留する女子アカウントは「ラスト・ユニコーン」「風の谷のナウシカ」「魔女の宅急便」「アリーテ姫」「マッド・マックス怒りのデスロード」という作品展開に「フェミニズム勝利していく過程」を見ていたりする。
    時の旅路にて 「ラスト・ユニコーン」

     

  • こうして全体像を俯瞰してみると「日本の産業至上主義」もまた、ある意味1980年代後半においては既には完全崩壊を遂げている。それでも即死に至らなかったのはバブル経済の恩恵を受けていたからに過ぎないとも?
  • TV局はこれを追い風として受ける形で「ふぞろいの林檎たち(1983年〜1997年)」「男女7人夏物語(1986年)」「男女7人秋物語(1987年)」といったトレンディードラマ路線を開拓。

    その一方でTHE BLUE HEARTS(1985年〜1995年)や狩撫麻礼原作漫画「ア・ホーマンス(1985年)」「迷走王ボーダー(1985年〜1986年)」「天使派リョウ(1990年〜1992年)」の様な若者の熱狂的支持を受けるコンテンツも登場してきた時代。ただそのどれもがバブル崩壊後は生き残る事が出来ず庵野秀明監督映画「ラブ&ポップ(1998年)」や榎本ナリコセンチメントの季節(1997年〜2001年)」において活写され上遠野浩平ブギーポップ・シリーズ(1998年〜)」の出発点となった「商業的に搾取され尽くした残骸としての少年少女(および、それでもなお搾取を続け様とするおぞましき大人達)」ばかりが残される展開に。

⑤既にお気づきだろうか。「日本人として主観的に回想可能な歴史」自体には、こういう形で強烈な「断絶」が存在する。その一方で国際SNS上の関心空間に滞留する武内直子美少女戦士セーラームーン(1992年〜1997年)」の熱狂的ファン層の「熱い語り」からサルベージ可能な過去史は、上掲の様な展開と全く絡んでこない。

  • 彼女達が回想する「セーラームーン前史」に登場するのは高橋留美子うる星やつら(1978年〜1988年)」に江口寿史「ストップ!! ひばりくん!(1981年〜1983年)」に高橋留美子らんま1/2(1987年〜1996年)」。ただし、それぞれ日本文化史における位置付けとはずいぶん違ってるから要注意。

  • うる星やつら」には「怪奇/オカルト/超能力/超古代文明/UFOブームをパロディ化したスラップスティック・コメディ(1970年代)」から「ブコメ路線(1980年代)」への転身を見事に果たしたという側面もあるのだが、海外には割とそこまでの認識はない。その一方で今日なお話題とされ続けているのは「男装女子」藤波竜之介、それも「女装男子」潮渡渚とのラブストーリーだったりする。
    *まぁ「高橋留美子トランスジェンダーの旗印」という立脚点から作品を再読するとそういう事になるのも分からないではない。確かに潮渡渚の「あら女なの? でも問題ないわ」が漫画化されたばかりかアニメ化もされているというのは、その筋の人間にとっては国際的に途方も無い事だったりする。

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  • 「ストップ!! ひばりくん!」の海外における高評価は、何と言っても江口寿史個人の画力の高さによる部分が大きい。現実には当時における「作画過程での凝り過ぎ」、およびなまじ当時国際的観点から見ても斬新だったパースペクティブを確立した事による「それをどう活かせばいいか分からず脳内がWhite Outする」現象との直面がこの作品を連載中止に追い込んでしまった訳だが、むしろ欧米人の観点においては、それこそが「(破滅を恐れず内側から込み上げてくる衝動に誠実に生きようとする)ロマン主義の顕現」なのであって、普通の人間ならそもそもそんな高みまで到達し得ないものである。こうした認識があるからこそ海外には江口寿史の熱狂的心酔者が少なくないという展開となる。

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  • らんま1/2」に至っては、今日なお第三世代フェミニストが「男性に勝利する為に女性は一切の女性らしさを放棄せねばならぬ」と主張する旧世代フェミニストを打倒する際においての最も重要な武器の一つに組み込まれ続けている。なにしろ早乙女乱馬なる男、女体化した時は容赦なく平然と「女性としての武器」を無制限に使いまくる。

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  • 同時にまた当時の時代的制約から、こうした表現が必ずしもLGBTQA方面に好意的だったとはいえない状況も認めざるを得ない。高橋留美子江口寿史も「そういう描写が読者に受けるので、どんどん増やしていった」事実は認めており、それは決して人道的配慮に基づく展開などではなかった。ただ当時海外では関連表現そのものが禁じられており、日本におけるかかる展開がこれに風穴を開ける役割を果たした事実もまた揺らがないのである。
    *そしてこうした事前展開こそが「セーラームーン」における同性愛カップルの登場を可能とした事実もまた揺るがない。

  • それまでの魔法少女ものにおいては「自分が普通の人間でない事」をカミングアウトする事が徹底してタブー視されてきたが、こうしてLGBTQA文化との融合を果たす過程でその側面は次第に形骸化されていく。こうした展開の先陣を切ったのがアラン・ムーア原作「ウォッチメンWatchmen1986年〜1987年)」であり「カミングアウト問題」はロバート・ダウニー・Jr.演じるトニー・スタークの「I'm Iron Man」宣言へと結びついていく。
    *そしてこの瞬間、まさに「カミングアウト問題」を巡って「魔法少女の世界」と「アメコミヒーロー」の世界が交錯する事案が発生したのである。しかしまぁアメコミ・ヒーローの世界においては「世界的に有名な大富豪トニー・スターク」が自分をアイアンマンと認めたから話題になった訳で、無名の少女が「私実は魔法少女なの」とカミングアウトしても「へー、そうなの(無関心)」と流されてしまうのが良きにつけ悪きにつけ日本の伝統。日本文化側が受けたインパクトは最小限に留まる事に。

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⑥ 一方、日本文化展開上においては「商業的に搾取され尽くした残骸としての少年少女(および、それでもなお搾取を続け様とするおぞましき大人達)」なる図式の顕現が終戦直後の「焼け跡センチメンタリズム」を継承する老人達に再活躍の機会を与えた事が大きい。しかもその過程で多様性の時代の到来に合わせる形で「権威主義的体制に翻弄される若者達の男女平等」が達成され「進撃の巨人」「東京喰種」といった作品がその流れに続く。

  • 高見広春バトル・ロワイアル(1999年)」の映画化を2000年に手掛けた深作欣二監督の再登板。ただしこの過程で「仁義なき戦い」に描かれた「権力者達の思惑によって鉄砲玉として使い捨てにされる若者達」は、その悲劇性ゆえに物語の主人公に浮上する。

  • 山口貴由シグルイ2003年〜2010年)」の原作者としての南條範夫のリヴァイヴァル。ただしその過程で「バトルロワイヤル」の世界観に続いて「権威主義的体制に翻弄される若者達の男女平等性」が織り込まれ、国際性を獲得。

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  • 祖父大坪砂男のハードボイルド哲学を継承した脚本家虚淵玄の台頭。そして「多様化の時代」は「男もすなるハードボイルドといふものを、女もしてみむとてするなり」という雰囲気を確実に備えていた。

何この見事なまでの1980年代パッシング…かくして「魔法少女である事」そのものが人生の課題そのものを象徴する展開に。ここに至る歴史的流れって「欧米人のイメージする日本文化史」上は自然に連続して解釈されているにも関わらずこんな具合に「日本人自身がイメージする日本文化史」と大幅にズレてるから要注意。そして、そこからさらに浮かび上がってくるのが「正義が新たな価値観の台頭を前に敗北し、新たな善悪の境界線が敷き直されるサイクル」の繰り返し。

  • 体制側は、既存価値観を揺るがす新たな価値観が台頭すると、まずそれを「最後には必ず自滅していく」絶対悪認定して勧善懲悪のバランスを保とうとする。
    *「既存娯楽の観客動員数の激減」がこの流れを誘導する。大衆専制主義の恐るべき側面の一つ。

  • だが堤防崩壊は蟻の一穴から生じる。こうして表舞台への台頭を許された「いかがわしい人々」 は次第に既存価値観を形骸化させ、新たな価値観の構築を促進する触媒となる。こうした時代には「今我々が暮らしている世界は偽りの神が作った」とするグノーシス神秘主義が蔓延。
    *そうまさしく「マトリクス」の大流行が当時の象徴。

  • だが決して(表舞台への進出の足掛かりを得た)いかがわしい人々」が「それまでまっとうだと思われてきた人々」に完全勝利する日など訪れない。勝利するのは常に「新たに設定された境界線においてまっとうとされた人々」であり、それは「新たに設定された境界線においてもいかがわしい人々が切り捨てられていくプロセス」でもあるのだった。
    *そうまさに「同性婚の合法化」が同性愛者をも「配偶者への貞操を強要される立場」に引き込む事によって「乱行を好むパリピ文化」を改めて切り捨てた様に。

さて、こうしてもはや日本のものだけとも言えなくなってしまった「魔法少女文化」。次には如何なる展開を迎えるやら…