そういえば海外では田亀源五郎「My Brothers Hasband(弟の夫)」が永田カビ「My Lesbian Experience with Loneliness(さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ)」とセットで評価されていたりします。
さらには、こんな話も。
BLというと、カップリングが成立すると、受側がそれ以前にどんな「男らしい」生活してても、途端に「夫の帰りをごはん作って待ってる甲斐甲斐しい嫁(メス)」化する描写があるのが苦手なんだけど、「弟の夫」で同性婚ならどちらも夫(女性同士なら妻)、っていう話にものすごく安堵したんだよなぁ
— 犬鍋奉行 (@inunabe_tk) 2018年3月13日
べつに男性で料理や家事が好きな家庭的タイプがいても違和感はないけど、そういう、いわゆる「女子力」とか言われちゃう要素をより持っている方が「女役」を当然として引受けされされて、現実の男女夫婦的「良妻賢母観」に染まっちゃうことには、何とも言えないもやもやを覚えるという。
— 犬鍋奉行 (@inunabe_tk) 2018年3月13日
男女関係が多様であるように、同性関係もまた、股間の性別と関係なく「亭主関白×家庭的なヨメ」みたいな役割バランスが成立するのは、それが当人の素の要素なら問題ないけど、カップル化前後でいきなり人格変わったみたいに「ヨメの役割」としての描き方がテンプレ化するのだけは、いつだって違和感。
— 犬鍋奉行 (@inunabe_tk) 2018年3月13日
だってそれって結局、たとえば「男並み」にバリバリたくましく仕事頑張ってたOLが、彼氏できて結婚した途端「やっぱり『女』は家庭に入って『主人(という大きい子供)』を支えながら子育てするのが『真の幸せ』よね!」という価値観一色にされる、フェミが戦ってきた何かそのものじゃないの?っていう。
— 犬鍋奉行 (@inunabe_tk) 2018年3月13日
BLは所詮「女性向けファンタジー」であって、現実の男性同士とは別物、とはよく言われるけれど、男女でなく同性、それも女からすれば異性である男同士というのをファンタジーとするなら、なんでそこに敢えて「現実の男女」の古典的理想像を持ってくるのかなーというところに、現実社会の呪いを感じる
— 犬鍋奉行 (@inunabe_tk) 2018年3月13日
まぁそれは、昨今ブームの百合にも言えることで、「男役」側が亭主関白でさばさばした性格、「ヨメ役」が家庭的で自我弱め、っていう「現実の男女の理想像」を同性で演じているだけ、という場合も多い気がする。BLほどではないし、宝塚っぽいと言えば「そういうもの」かもしれないけどw
— 犬鍋奉行 (@inunabe_tk) 2018年3月13日
自分がBLや百合モノがあまり好きじゃない(というか、ストライクゾーンがガチすぎorz)のは、そういう「けっきょく現実社会の男女マウント関係の焼き直しじゃん」という「推し込め」られてる雰囲気のところにもんやりしてしまうからかもなぁ、と思うなど。
— 犬鍋奉行 (@inunabe_tk) 2018年3月13日
まぁあくまで個人の感想な。
「亭主関白×従順で貞淑な良妻賢母」でない個性的カップル関係は、ほんらい異性/同性に関わらずいくらでも描けるはずで、そういう「独特の関係性」を見られるものであれば、異性カップルでも同性カップルでも、特に気にせず面白がれるんだけどな。と。
— 犬鍋奉行 (@inunabe_tk) 2018年3月13日
こういう話が以前のこの投稿につながってきます。
①東北大震災の影響で放映延期となっていた「魔法少女まどか☆マギカ(TV版2011年、劇場版2012年〜2013年)」のTV版最終回が放映される(2011年4月22日)
メインヒロインまどかが自らの身を犠牲にして世界を救う展開だったが、アメリカのネット上では(子供と一緒に鑑賞していた)親達が「ああいう場面では親は、子供を殴り倒して気絶させてでも自分が身代わりになるべき」と言い出したり、ネットに書き込んだりしてちょっとした議論に。
*後から思えば次第に表面化しつつあった「Facebook上における親の子供監視サービス競争の過熱」と連動した動き。そして、これを嫌う子供達が匿名SNSサービスへの集団逃亡を図った事が2010年代前半における「国際SNS上の関心空間」勃興の大きな原動力の一つとなったのである。*ちなみに日本には「本当に親が肝心のところで子供を殴り倒して代わりに特攻して主役の座を奪ってしまう漫画」も存在する。中平正彦「破壊魔定光(1999年〜2005年)」。
考えてみればギレルモ・デル・トロ監督映画「パシフィック・リム(Pacific Rim、2013年)」もこのパターン?
*実は新海誠監督映画「君の名は(2016年)」も(五十嵐大介「海獣の子供(2006年〜2011年)」辺りのテーマ性を継承した関係上)同様の「母娘間の葛藤」を内包する世界観だったりする。
そもそもまどかの家庭は男勝りな母親が外に働きに出て、父親が家で専業主夫をしているのだが、ここにも「親世代」の非難が集中。「まどかママは肝心のところで「父親」として振る舞い切れなかった(やはり女は駄目だ)」「まどかパパは本当に役立たず(それでも男か?)」このそのスタンスが「娘世代」の激昂を喚起してしまう。「パパやママはいつまで自分が人生の主役のままでいるつもりなの? 娘に自分の人生を生きる権利なんてないと思ってるの?」「まどかママやまどかパパに対する攻撃を、私達は絶対に許さない!!」。
*そもそも日本においては1980年代頃より「不良少年や不良少女の純情」といった(カレー粉の様に万人の口に合う様に慎重に調合された)多態性(意外な組み合わせ)の商業利用が始まっている。*黒人奴隷を揶揄したショーから始まった「コットンクラブ」が、はからずしも黒人音楽の広まりに重要な役割を果たしてしまった様に、いかなる形においても「不可視化されてきた人々」の「可視化」は既存秩序決壊の第一歩となり得るのである。
*そして1990年代に入ると(タキシード仮面の不甲斐なさ故に美少女戦士達が頑張る)武内直子「美少女戦士セーラームーン(Saylor Moon 1992年〜1997年)」が登場。さらには作中に「ちびうさ」が登場し「人生の主役の座を争う母娘」なる構図が樹立される。ここで興味深いのがドゥニ・ヴィルヌーヴ監督映画「メッセージ(Arrival、2016年)」の原作であるテッド・チャン「あなたの人生の物語(Story of Your Life、1999年)」にもこの図式が見て取れる事。そして映画化に際してその要素が完全に排除された一方で「ブレードランナー 2049(2017年)」に「デッカードとレイチェルの娘」が登場する辺り。
*「セイラームーン」と「あなたの人生の物語」と「魔法少女まどか☆マギカ」を結ぶ鍵…よりによってセーラームーンの二次創作MEME、すなわち母娘喧嘩で母親側が「あんまり悪い子だと過去の私に連絡して産児制限しちゃうわよ」と告げ、娘側が「ママ、それだけは禁じ手よ!!」と涙目になる展開が重なってくる。元ネタは(幼女的狡猾さから)都合良い時だけ「母親」として甘えてくるちびうさに対してヒロイン月野うさぎが涙目で「まだ産んでないのに!!」と言い返す原作ギャグ。国際SNS上の関心空間における女子アカウント間で飛び交う定番ネタの一つだが、当事者が「娘」から「母親」に成長したり「新参組」がちびうさ擁護に回ったりして、次第に複雑な意味合いを帯びる様に。
「したがらない」という生態ですからねぇ基本的に
— 鬼ノ目発進号 (@oninomehassingo) 2017年11月10日
だから「自分の大切な誰かのために」という信念で
働いてる男性の動きも、女性から見たら
「男どもは外に出て自由で得してるに決まってる!」
なんて意味不明な解釈になるわけです…
もう女性進出のスタート地点から【全てが被害妄想】なのだよねぇ
②「米国における同性婚合法化」当日(2014年6月26日)
その当日、とある同性愛者カップルがネット上で「また少し世界が狭くなるね」と発言した。「家族はは人種の再生産の場ではない。異性愛者のカップルが子供が同性愛者である可能性に配慮して偏見を排除した子育てを行わなければならない様に、同性愛者のカップルもまた子供が異性愛者である可能性に配慮して偏見を排除した子育てを行わなければならないのだ」とも。
確かにある意味、宗教界や政治の世界は「生涯貞節を誓う伴侶は一人たるべき」なる伝統的価値観を存続させる為に「その対象は異性たるべき」なる価値観を放棄する道を選んだのである。その判断自体は人類史上における大いなる進歩だが当然「犠牲」もあった。実際には「生涯貞節を誓う伴侶は一人たるべき」なる価値観に同意しこれを精神的救済と考える同性愛カップルが大半であるにせよ、既に異性愛カップルも大半が受容済みの価値観だったにせよ「相手が一人では満足出来ない」乱交派が同時に隔壁の向こう側に決定的な形で切り捨てられたのである。そしてこの日はまさしく、その事実を何の偏見もなく偲べる「最終日」でもあったという事である。(既存価値観を延長するだけでは実現不可能な)パラダイムシフトとは、既存価値観の更新とは、まさにこういう展開を迎えるもの。
*乱交派…ネット上には乱行パーティを至高とするポルノまがいのバイセクシャル・両性具有系ポルノサイトが無数に存在する。当日にはこうした退廃的世界観との決別が特に強調された。「それにつけてもバイは淫乱」なる合言葉まで生まれた。「永遠の革命家」オーギュスト・ブランキ流一揆主義に表現するなら「人道主義が勝利の栄光に輝く事はない」。なぜなら如何なる新体制の勝利も新たな反体制派への弾圧の始まりに他ならないからだ。これまでずっと「事象の地平線としての絶対他者の領域から到来する最初は不可視の人々」は、可視化と無数の闘争の積み重ねを経て(概ねその都度、少なくともその一部が)既存システムに組み込まれ続けてきた。これからも当然そのサイクルは繰り返されていくであろうが、大元たる「事象の地平線としての絶対他者の領域」が完全消失する日だけは決して訪れない。
オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』書評:阿部重夫主筆ブログ:FACTA online
監視塔から受刑者を一望し、一挙手一投足も見逃さないパノプチコンは、近代国家の成立と同期していた。ブランキも果てしなく獄窓が続く監獄を、その宇宙観に同期させたのだろう。受刑者はすべて個を剥奪され、同じ囚人服を着て、無限遠点からの国家の視線に照射されている。ブランキの言う「フォワイエ」(中心星)は国家であり、それを拒絶する彼はいくら「一揆主義」と貶められようと、マニフェスト(綱領)をつくらなかった。
あらゆる政体を否定する陰謀家。胸中には無限の宇宙に戦慄するニヒリズムが宿っていた。本書の数年後にニーチェも、スイスの保養地で同じ戦慄に襲われた。
いつかどこかの時間に生きていた己の分身、瓜二つの自分とすれ違ったという霊感である。
ドイツの批評家、ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ』は「倦怠、永劫回帰」の章で丹念に本書を抜粋し、「地獄が神学の対象になるなら、これは神学的思弁と呼んでいい」と書いた。彼はボードレール論でも、この『パリの憂鬱』の詩人とブランキを並べて論じている。
*誰も絶対他者を完全黙殺する事も、自分をそれと完全に重ね合わせてしまう事も出来ない。まさにその事実が実存不安の源泉になるという次第…
③女子の制服「スラックスOK」、全国で広がる。県内では鹿児島情報高校が導入(2017年11月24日ニュース)。
そしてこれ…
とにかく自由な議論が出来る環境が重要なのです。どの国でも実際の認知は漸進的にしか進まないのですから…