19世紀末から20世紀初頭にかけての国際情勢を分析する上で欠かせないのが、この人についてどう考えるべきかについて、自分なりに決定する事です。
プロイセン国王・第三代ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世(在位1888年〜1918年)
プロイセン王子フリードリヒ(フリードリヒ3世)とイギリス王女ヴィクトリアの長男としてベルリンに生まれる。1888年に祖父ヴィルヘルム1世、父フリードリヒ3世が相次いで崩御したことにより29歳でドイツ皇帝・プロイセン王に即位した。
祖父の治世において長きにわたり宰相を務めたオットー・フォン・ビスマルク侯爵を辞職させて親政を開始し、治世前期には労働者保護など社会政策に力を入れ、社会主義者鎮圧法も延長させずに廃止した。しかしその後保守化を強め、社会政策にも消極的になっていった。1908年のデイリー・テレグラフ事件以降は政治的権力を大きく落とした。
一方外交では一貫して帝国主義政策を推進し、海軍力を増強して新たな植民地の獲得を狙ったが、イギリスやフランス、ロシアなど他の帝国主義国と対立を深め、最終的に第一次世界大戦を招いた。オーストリア=ハンガリー、オスマン=トルコ、ブルガリアと同盟を結んでイギリス、フランス、ロシアを相手に4年以上にわたって消耗戦・総力戦で戦うこととなった。
1916年にパウル・フォン・ヒンデンブルク元帥とエーリヒ・ルーデンドルフ歩兵大将による軍部独裁体制が成立すると、ほとんど実権を喪失。大戦末期には膨大な数の死傷者と負担に耐えきれなくなった国民の間で不満が高まり、ドイツ革命が発生するに至った。革命を鎮めるために立憲君主制へ移行する憲法改正を行なったが、革命の機運は収まらず、結局オランダへ亡命して退位することになった。そのままなし崩し的にドイツは共和制(ヴァイマル共和政)へ移行し、ホーエンツォレルン家はドイツ皇室・プロイセン王室としての歴史を終えた。
ヴィルヘルム2世自身は戦後もオランダのドールンで悠々自適に暮らし、ドイツ国内の帝政復古派の運動を支援した。
1925年にドイツ大統領となったヒンデンブルクは帝政復古派であったが、ドイツ国内の議会状況から帝政復古は実現せず、最終的に反帝政派のアドルフ・ヒトラーによる独裁体制が誕生したことにより復位の可能性はなくなった。独ソ戦を目前にした1941年6月4日にドールンで崩御した。
ついた渾名が「プロイセン主義の狂犬」…ただし当人の判断によって遂行されたと考えられている事跡の多くが「周囲を囲む取り巻き連中が勝手にやった事」とする立場も。
実際、過去には「バカ殿」と決めつける投稿もしてきましたが、実際その振る舞いのバカ殿振りが群を抜いているのです。
①1896年、イギリスの支援を受けた勢力が南アフリカのトランスヴァール共和国に侵入した時、トランスヴァール首相クリューガーに激励の電報を送り、イギリスとの関係を悪化させた。
②1898年、彼の支持に基づいて海軍次官ティルピッツが艦隊増強の指針を定めた「艦隊法」を制定した結果、イギリスとドイツの建艦競争は激化した。
艦隊法(Flottengesetze) - Wikipedia
ドイツ帝国で1898年、1900年、1908年、1912年に成立した4つの法律の総称である。皇帝ヴィルヘルム2世と海軍大臣アルフレート・フォン・ティルピッツに擁護されたこれらの法律は、イギリス海軍に対抗できる海軍を建設するというものであった。
ヴィルヘルム2世は、ドイツが彼が呼ぶところの「日のあたる場所」であることを保証する大規模な海軍を欲していた。強大な海軍は、ドイツの植民地や権益の獲得の助けになるであろうと考えたのである。ヴィルヘルム2世は同様に海軍拡張に熱心であったティルピッツの支持も受けていた。
1898年に成立した第1次艦隊法は、防衛のための艦隊建設を目的としたものであった。しかし、1900年成立の第2次艦隊法はイギリスに対抗できる艦隊の建設を宣言するものであった。それは17年で戦艦、潜水艦、巡洋艦や他のさまざまな艦艇を建造するものであった。1914年の開戦までにドイツ海軍は世界第2位の規模となり、イギリス海軍の60パーセントの戦力を有するようになった。
ドイツ海軍の増強にイギリスは強い警戒感を持ち、対抗して海軍拡張を開始した。これによりイギリスとドイツの間で建艦競争が始まった。これは両国の緊張を増加させ、第一次世界大戦勃発の一因ともなった。
コナン・ドイル「ブルースパーティントン設計書(The Adventure of the Bruce-Partington Plans、1908年)」 - Wikipedia
コナン・ドイル「最後の挨拶(His Last Bow、1917年)」 - Wikipedia
*こうして英国の探偵シャーロック・ホームズの愛国エピソードが英独の軍備諜報合戦にフォーカスしたのに対し、フランスの泥棒紳士アルセーヌ・ルパンの愛国エピソードはもっと踏み込んでくる。例えば「オルヌカン城の謎(L'ÉCLAT D'OBUS、1915年)」では第一次世界大戦初期の戦場において(屈辱的敗北を喫した普仏戦争に対する雪辱を賭した)フランス人のドイツ人に対する凄まじいまでの憎悪を背景に独仏国境に近いオルヌカン城を巡る政治的謀略が展開。ヴィルヘルム皇帝の放蕩息子コンラート王子なども配される。
オルヌカン城の謎その1
オルヌカン城の謎その2
*ルパンが「大統領の密かな友人」スペイン貴族にしてフランス外人部隊の英雄、ドン・ルイス・ペレンナに化ける三部作の「金三角(黄金三角、Le triangle d'or、1917年)」においては傷痍軍人達の苦悩を描きつつ(銀行での地位を利用した金貨密輸で蓄財した)売国奴の犯罪が暴かれた。当時の人種観を反映して黒人の元セネガル兵がルパンの忠実な部下、英国籍のエジプト人を装ったトルコ人が悪の権化として配されたりしている。
*第二作「三十棺桶島(L'île aux trente cercueils、1919年)」ではポーランド貴族の偽装を暴かれスパイ容疑をかけられたドイツ人王子が所持していた「人を生かしもし、殺しもする神の石(何と正体は人類に未来を左右する新技術発見につながる古代ケルト人の信仰対象だった放射性物質)」を巡る連続殺人事件が展開する。
三十棺桶島その1
三十棺桶島その2
三十棺桶島その3
*第三作「虎の牙」にはアメリカを第一次世界大戦に参加させる謀略や、モロッコのモーリタニアにベルベル人部族を糾合した帝国を築いてフランスに進呈する冒険が登場する。ちなみに「三十棺桶島」には後者で築造した潜水艦が登場。「ベルベル人は人でないから殺してもフランス人の人道主義に反しない」なる問題発言は、江戸川乱歩「黄金仮面」における「日本人は平然と殺す義賊ルパン」の造形に影響を与えた。
虎の牙その1
虎の牙その2
虎の牙その3
③東アジアにおけるイギリス勢力を牽制する為に従兄弟に当たるロシア皇帝ニコライ2世に「余は大西洋提督とならん。貴殿は太平洋提督となられよ」と甘言を弄し、ロシアに満州方面への勢力拡大を勧めて日露戦争の原因を作った。日露戦争でロシアが敗れると、黄禍論を発表して白人優位の世界秩序構築と、そのために日本をはじめとする黄色人種国家の打倒を訴えた。これにはドイツ帝国主義の正当化と、海軍力増強を対英戦ではなく対日戦のためと世界に認識させる意図があったが、効果は無かった。
ハインツ-ゴルヴィツァー「黄禍論とは何か―その不安の正体-(1962年)」
「黄禍(Yellow Peril)」には先駆けとなったスローガンがあった。「米禍(American Peril)」がそれで、1870年代以降ヨーロッパでひしひしと感じられる様になったアメリカ農業(後にはアメリカ工業)による経済的脅威を意味した言葉である。
とりわけ鉱山業と工業の分野で凌駕されていたイギリスの反応は敏感で、英国人経済学者スタンレイ・ジェヴォンス(1834年〜1882年)は以前から経済危機を乗り切る方策として限界効用論や太陽黒点説を唱えてきたが「炭鉱問題(1865年)」でやっといささかのセンセーションを巻き起こす事が出来た。
ベルギーの自由貿易論者で経済界の論客でもあったギュスタブ・ド・モリナリ(1819年〜1911年)と並んでドイツ語圏にはオーストリアの活力溢れる経済学者で著作活動も精力的に行っていたアレキサンダー・フォン・ベーツ(1829年〜1911年)も声高に警鐘を鳴らしている。1890年オーストリア財界で行った講演の中でアメリカの脅威を盛んに警告した上で「オールアメリカン」に対してはこちらも一丸で対抗しなければならないと説いている。ドイツ産業連盟の論客D.W.ヴェントラントも1902年に発表した「ドイツから見たアメリカンペリル」という論文の中で、1879年にビスマルクが定めた新たな独仏通商同盟をアメリカの挑戦から守るにはどの様にすべきか論じている。
フランスの立場からは、先に名前の挙がったモリナリがフランス、ドイツ、オーストリア・ハンガリー・オランダ・ベルギー・スイスからなる中欧関税同盟を成立させるべきと提案しているが、ライン川左岸の地域でこの様な努力に邁進したのはモリナリ一人だけではなかったのである。ドイツ国内でもこれとほとんど時を同じくして同一歩調を取る者がいた。それはカトリックの社会福祉政治家フランツ・ヒッツェ(1851年〜1921年)とプロテスタンントの保守的社会主義者ルドルフ・マイヤー(1839年〜1899年)で、マイヤーには「アメリカの脅威の原因」という著作もある。
当時の大英帝国
大英帝国にとって19世紀とは何よりもまずナポレオン戦争終結後の安価な大陸穀物流入に対抗した穀物法(Corn Law、1815年)が1846年に破棄されてジェントルマン階層が地主として君臨し続ける事を不可能を悟って金融業界に進出していくブルジョワ化の時代、さらにはフランス革命からナポレオン戦争にかけての時代を主導した小ピット率いる独立派ホイッグ(Independent Whig)やポートランド公爵やアイルランド系ブルジョワ政治家のエドマンド・バークを擁するロッキンガム派ホイッグ(Rockingham Whig)を併呑したトーリー党(Tory)の発展型たる英国保守党(Conservative and Unionist Party)が「トーリー・デモクラシー(Tory Democracy)」を標語に掲げるプリムローズ・リーグ(Primrose League)の大衆動員力を武器に普通選挙を制していく時代であった。
その一方で南アフリカ戦争に取材したホブスン「帝国主義論(Imperialism: A Study、1902年)」が指摘した「私益増大の為に国を動かしたい植民地の経営者や官僚と、内政の不備を隠す為に海外戦争に国民の目を向けさせたがってる国内政治家の公私混同に満ちた利害の一致」がボーア戦争(Boer War、Anglo Boer War、1899年〜1902年)を泥沼化させてしまい、余力を失ったい英国はその隙を突いたロシア帝国のアジア方面における南下に対抗すべく日英同盟(Anglo-Japanese Alliance、1902年〜1923年)締結を余儀なくされる。
*そして大日本帝国は日露戦争(1904年〜1905年)に勝利し、第一次世界大戦(1914年〜1918年)に参戦して太平洋に面するドイツ帝国の植民地を次々と占領して米国の隣国となり、シベリア出兵(Siberian Intervention、1918年〜1922年)において他の列強同様の領土的野心を剥き出しにする。ただでさえややこしい「ベルサイユ体制」は、内部にこんな新顔を抱え込む事になってさらにややこしい事になる。
当時の「フランス帝国」
産業者思想の受容によって「権力に到達したブルジョワジー(bougeoisie au pouvoir)」あるいは「二百家」と呼ばれるエリート階層による寡占支配が確立する一方で(初代ナポレオンを見習った)ルイ・ナポレオン大統領/皇帝ナポレオン三世による海外積極進出策が進行した。
普仏戦争(1870年〜1871年)敗戦以降はビスマルク包囲網によって国内発展が絶望視される様になり、資産家の投資は東欧諸国やロシア帝国、軍の展開は海外植民地に向けられる事となった。ちなみにシベリア鉄道が極東にまで到達し、義和団事件(1900年)に便乗して満州進駐が強行され、これを遠因の一つとする日露戦争(1904年〜1905年)が遂行する流れを資金面で支え続けてきたのは前者となる。
*「産業者(industriels)思想」…復古王政時代にサン=シモンが「産業者教理問答(Catéchisme politique des industriels、1823年〜1824年)」などにおいて「フランス人はランティエ(rentier、地主などの不労所録者)と産業者(industriels、実経済を動かす関係者全て。統合の象徴として君臨する国王や金融方面を担う資本家を容認するのが特徴)に二分されてきたが、後者が勝利すべきである」と提唱。この考え方が7月革命(1830年)から「馬上のサン=シモン」ルイ・ナポレオン大統領/皇帝ナポレオン三世の時代にかけて主要イデオロギーとして採用され、フランスに産業革命を根付かせたばかりかドイツ帝国や大日本帝国やアメリカに「後進国に産業革命を根付かせる社会革命モデル」として採用されたのである。
*国体にこだわらずランティエ(rentier、地主などの不労所録者)の打倒のみを標榜する「サン=シモン主義」はベトナムや中国といった共産主義国の資本主義導入にも一役買ったとする説も。
*「海外積極進出策」…アフリカ・アジア方面におけるフランス植民地拡大、メキシコ出兵、明治維新期における徳川幕府後援などが有名。世界中に「日本の武士の切腹」の概念を広めた堺事件(Incident de Sakai、1868年)もまたその一環として起こった悲劇だったのである。
*ここで興味深いのが宣教師が建国に関わった阮朝(Nhà Nguyễn 1802年〜1945年)時代からのフランスとベトナムの密接な繋がり。しかも中国も清朝時代よりアロー戦争(Arrow War、1856年〜1860年)や清仏戦争(簡体字: 中法战争、繁体字: 中法戰爭、ベトナム語: Chiến tranh Pháp-Thanh/戰争法清、フランス語: Guerre franco-chinoise、1883年8月と1885年4月)という形で独自接触の歴史を重ねてきた。
阮朝(Nhà Nguyễn 1802年〜1945年) - Wikipediaヨーロッパ諸国との関係では、建国の経緯もあってフランス人をはじめとする欧米人やキリスト教を敵視することは少なく、嘉定城総鎮の黎文悦もキリスト教徒であった。中国的な支配体制が整備され、儒教のウェイトが高まるにつれて排外的な傾向があらわれるようになり、明命帝はキリスト教を禁止し、排外政策に転じた。また、黎文𠐤の乱で多くのキリスト教徒が反乱側に味方したことも、キリスト教への迫害を強める要因となった。
産業革命を経験したヨーロッパでは通商貿易の拡大を求めアジア市場に進出、17世紀初めにはベトナムに通商を求める使者が訪問している。阮朝成立直後の1804年、イギリス使節ロバーツが通商関係の改善を求めてダナンに来航している。そして1832年にはアメリカからの使節も来航しているが、これを拒絶している。阮朝建国の際にフランス人のアドラン司教、ピニョーらの支援を受けていたため、フランス人を優遇し、当初はキリスト教を保護していた。1799年のピニョーの死後、フランス革命やナポレオン戦争の影響で、しばらくベトナムとの交渉がなかった。ナポレオン戦争終了後、フランスは通商関係を求めてベトナムに使者を派遣している。嘉隆帝は建国の功績を認めフランス人を優遇していたが、通商要求に対しては一貫して拒否していた。1815年の嘉隆律例発布以来、儒教的な統治を理想とするようになった阮朝は、祖先崇拝を否定するキリスト教に違和感を有するようになった。
1820年に明命帝が即位するとキリスト教に対する弾圧が実施され、越仏関係を悪化させた。さらに、明命帝の時代になると一転してフランス人も冷遇するようになり、次第にフランス人に対する優遇措置も認められなくなった。1824年には建国の際の功績者であるフランス人ジャン=バティスト・シェニョー(Jean-Baptiste Chaigneau、阮文勝)が帰国を命じられた。1826年には開国を求めるフランス軍艦の艦長との引見を拒否、1826年にはシェニョーの甥ウジェーヌ・シェニョー(Eugène Chaigneau)が領事資格で訪越したがこれも拒否し、ベトナムとフランスの公的関係は一時中断している。黎文𠐤の乱(1833年〜1835年)にキリスト教徒が多数参加したことなどがあり、キリスト教迫害が激しくなり、1836年にはピエール・デュムーラン=ボリーらヨーロッパ人宣教師 7名が逮捕され、1838年に死刑となった。数百の教会が破壊、弾圧を恐れた数万の民衆が山野に逃れている。その後、アヘン戦争によるヨーロッパ諸国の軍事力に脅威した阮朝は、キリスト教への迫害を緩和した。
1834年には第一次泰越戦争の結果、カンボジアのトンレサップ湖以南の地域を支配下に置き史上最大の版図を記録した。
1841年に即位した紹治帝の時代になると、投獄されていた宣教師をフランス軍艦に引き渡している。しかし、頑なな鎖国政策に変更はなく、1847年に来航したフランス軍艦が国書の伝達を請求したが、阮朝はこれを拒否。さらに海上防備を固め、ついにはフランス軍艦の砲撃が開始され、ダナン港で阮朝艦船5隻を撃沈する武力衝突に発展した(ダナンの戦い)。この武力衝突は阮朝の態度を硬化させた。
1847年に即位した嗣徳帝はキリスト教弾圧を強化、1851年から1857年にかけてフランス、スペイン人宣教師を斬首刑に処した。ナポレオン3世は1857年にシャルル・ド・モンティニーを派遣し、事態の善後策を協議するものの交渉は失敗。外交交渉での解決を断念したフランスは、スペインと連合してベトナムへの武力侵攻を決意した。
1858年8月、シャルル・リゴー・ド・ジェヌイ提督率いる仏西連合軍がダナンに侵攻、9月1日に占拠している(コーチシナ戦争、1858年-1862年)。その後、サイゴン川を遡行し嘉定城を攻略、1859年2月にはサイゴン(現在のホーチミン市第一区、第二区)を占拠、根拠地をダナンから移している。これに対し阮朝軍も反撃を加えたが、フランス軍は1861年にはミト、ジャディンを、1862年にはビエンホア(辺和)、バリア(把地)に続いてビンロン(永隆)を占領している。当時、トンキン地方で発生した飢饉とそれに続く反乱などもあり、南方のサイゴンより穀倉庫としてのトンキン地方の確保を優先した阮朝は、フランス軍との講和交渉を行い、潘清簡と林維浹をサイゴンに派遣し、1862年6月に壬戌条約(第1次サイゴン条約)を締結した。この条約により阮朝は国内のキリスト教布教の自由を認め、コーシャンシーヌ(南圻)東部三省(辺和、嘉定、定祥(現在のティエンザン省周辺))及び崑崙島をフランスに割譲するとともに、10年年賦で2千万フランの戦費賠償金を支払うことが定められた。
南圻東部三省を入手したフランスはメコン河を遡上し中国南西部へ至る水路の調査を着手した。しかしメコン河中流域はカンボジアを通過しており、その地域での主導権掌握を企図したフランスは、カンボジア国内の内訌を利用して1864年にカンボジアを保護国とすることに成功する。しかしカンボジア国内ではシャムの支援を受けた反乱が続いており、この反対勢力を排除するために南圻西部三省の割譲を阮朝に迫った。嗣徳帝はこの割譲要求を拒否、するとフランス軍は1867年に西部三省への軍事侵攻を開始、南圻全省をその支配下に収めた。
南圻の植民地化に成功したフランスは、メコン河を利用した中国への通商ルート開発を推進した。詳細な調査が行われた結果、メコン河中流は現在のラオス - カンボジア国境地帯を中心に急流および岩礁が存在し、通商路として利用することは困難であった。このため、代替案として、トンキンから紅河を遡上して雲南へ至る通商路に注目した。
この時期の阮朝では反乱が頻発し、また、太平天国の系統を引く呉鯤の軍団が侵入するなど、弱体化が進んでいた。1873年4月、たまたま一介のフランス商人であるデュピュイによる外交問題が発生。原因は紅河航行に関することであったが、コーチシナ総督デュプレは11月、事件調査を名目に海軍大尉フランシス・ガルニエをハノイに派遣した。しかし、フランス人の紅河交通を要求するフランス側と、それを拒否する阮朝側の交渉は決裂、フランス側は武力行使に及び、1873年にハノイを占拠した。しかし12月にはハノイ奪還を目指す黒旗軍が反撃し、フランス軍を撃退している。
当時のフランスは普仏戦争の敗戦処理に忙殺されており、ベトナムでの拡張政策に反対の姿勢を示しデュプレ提督にトンキン攻略中止の訓令を発令した。そして戦後処理の講和会議が開かれ、1874年3月に第2次サイゴン条約(甲戌条約)が締結された。この条約によりフランスはベトナムの主権を確認すると同時に武器の供与や技術者の派遣を約束、また阮朝は南圻六省のフランス主権を承認し、施耐及び寧海(現在のハイフォン)を開港することが定められ、懸案であった紅河の通行権をフランスに対し認めている。
1882年末、紅河を遡行していたフランス人がラオカイ(老街)で黒旗軍に阻止される事件が発生した。コーチシナ提督ル・ミル・ド・ヴィレルは甲戌条約違反を問責するためアンリ・リヴィエール海軍大佐をハノイに派遣した。ハノイに到着したリヴィエールは外交交渉を無益と判断し直ちに軍事行動に着手、ハノイを占拠した。嗣徳帝の救援要請を受けた清朝はトンキン地方に出兵(清仏戦争)、黒旗軍もソンタイ(山西)を拠点としてフランス軍と対峙した。結果としては黒旗軍がフランス軍を撃破、リヴィエールも戦死している。この敗戦を受けたフランス政府はベトナム征伐の軍を派遣することを決定し、阮朝とフランスの間での緊張が一気に高まった。フランスは阮朝都城であるフエ(順化)攻略を決定、1883年にフエの外港であるフアン(順安)を攻略(トンキン戦争、1883年6月〜1886年4月)、そのままフエへの進撃を開始する。
対外的危機を迎えた阮朝であるが、1883年7月に嗣徳帝が崩御する。これに伴いあまり素行の良くない育徳帝が即位したが、実の母である慈裕太后の命で、阮朝の実権を掌握していた阮文祥と尊室説により僅か2日で廃立され、1883年7月23日に代わって協和帝が擁立された。これ以後、"Tam Cung"("three harems")と呼ばれる慈裕太后、儷天英皇后、学妃の三人の皇族女性と阮文祥と尊室説による皇帝の廃立がつづく。
阮朝は抵抗することができずに講和を要請し、1883年8月25日に癸未条約(第一次フエ条約、アルマン条約)が締結された。この条約で阮朝はフランスの保護国となり、アンナン(中圻)は従来どおり阮朝による統治を認めるが、トンキン(北圻)にはフランス理事官を設置することとなった。協和帝は阮文祥・尊室説の両名を排除してフランスに接近しようとしたが、慈裕太后の命で逆に両者により捕縛され、8月18日に反対した陳践誠も殺害された。11月29日に協和帝は廃位され毒殺され、建福帝が擁立された。1884年6月6日には甲申条約(第二次フエ条約、パルノートル条約)が締結され、ここに至り阮朝はフランスの支配下に入ることとなった。
建福帝は、性淫を好む性格から阮文祥と養母学妃とが密通していることに気付き、彼らを処罰しようとしたが、1884年7月31日に即位後僅か半年で学妃に毒殺された。嗣徳帝崩御1年足らずで4人もの皇帝が即位する異常事態に阮朝内部での混乱が続くこととなり、1884年に建福帝の弟である咸宜帝が即位した。フランスが清仏戦争に勝利し、1885年6月に天津条約を締結。清がフランスの阮朝領土(越南国)保護領化を承認し、ここに清が阮朝に対する宗主権を喪失している。7月(旧暦5月23日)、フランスの高圧的な態度に反発した尊室説は対仏クーデター(Cần Vương movement)を起こし、フエのフランス駐屯軍及び在留フランス人を襲撃してフランス勢力の一掃を企てた。フランス軍は直ちに反撃を開始し宮城を占拠(「失守京都」)した。尊室説は咸宜帝を擁して北方の広平省に逃れ、フランス勢力に対抗すべく檄文をベトナム各地に発した。フランスは咸宜帝のフエ帰還と尊室説の逮捕につとめたが、山間部で対抗する両者を捕捉することができず、9月にはフランスは咸宜帝の退位を宣言、同慶帝を擁立した。
その後もフランスに対する反乱は続いたが、近代的なフランス軍の前に敗北していく。咸宜帝も広平奥地で抵抗を続けたが、1888年11月にフランス軍に逮捕されアルジェリアに流刑となり、尊室説は清朝へ亡命している。潘廷逢(ファン・ディン・フン)や黄花探(ホアン・ホア・タム)による抵抗が僅かに続いたが、それらも19世紀末にはほぼ鎮圧され、フランスによるベトナム統治時代を迎えることとなった。大日本帝国により占領された一時期を除きフランスの支配下にあったインドシナ半島(インドシナ)東部地域である。現在のベトナム・ラオス・カンボジアを合わせた領域に相当する。仏印(ふついん)とも略する。
1940年6月ナチス・ドイツのフランス侵攻によってパリが陥落してヴィシー政権が成立した。ヴィシー政権がドイツと休戦すると、日本政府は同年7月雲南鉄道による中華民国国軍への援助補給封鎖をジョルジュ・カトルー総督に要求して、西原少将を長とする軍事監視団をハノイに派遣した。
日本はヴィシー政府に日本軍の駐屯を認めさせ、同年8月には25,000の日本軍が「北部仏印(トンキン)」に進駐させた。大部分のフランス軍部隊は日本軍の進駐を平和裏に受け入れたが、中華民国との国境のランソンに駐屯していたフランス部隊は日本軍と交戦しつつ、中華民国国軍支配下の雲南省に退却した。
1941年7月、大日本帝国は東南アジア侵攻時の基地とするために「南部仏印進駐」を求めフランスのヴィシー政権は、インドシナにおけるフランスの主権を日本が認めるのを条件に承認した。こうしてドクー総督のインドシナ植民地政府は太平洋戦争の大部分の期間、日本軍と共存することとなった。アメリカおよびイギリスはこの南仏印進駐を行わないよう求めており、日本の進駐は太平洋戦争への回帰不能点をもたらすこととなった。
- 戦争中、インドシナ植民地政府は日本に駐留費やホンゲイ炭やゴム、米などを供給。一方でインドシナ政府は、植民地支配継続のための軍事力を得ることになった。この体制は現地住民にさらなる負担を強いることになり、現代のベトナムでは「一つの首に二つの首枷」と評されている。
- しかし、1944年にパリが解放され、ヴィシー政権が崩壊すると、ド・ゴール派からの働きかけも活発化し、インドシナ植民地政府の立場は微妙なものとなった。このため、日本軍は1945年3月9日『明号作戦』を発動してフランス植民地政府を武力によって解体し(仏印処理)、フエの宮廷にいたバオ・ダイ(保大)帝にベトナム帝国を独立させた。また、3月12日にはカンボジアのシアヌーク国王にもカンボジア王国の独立を、4月8日にはルアンパバーン国王のシーサワーンウォン王にもラオス王国の独立を、それぞれ宣言させている。
1945年8月14日に日本政府がポツダム宣言を受諾したため、ベトナムでは中国国民党軍が北ベトナムに、英印軍第20歩兵師団が南ベトナムに進駐して、日本軍の降伏を受け入れた。
- ベトナム八月革命によってハノイを占拠したベトミンのホー・チ・ミンは、バオ・ダイ帝の退位を説得し、9月2日にはポツダム宣言調印と同時に大統領としてベトナム民主共和国の独立を宣言。
ベトナム八月革命 - Wikipedia
- ラオスでは一旦独立が撤回されたが、8月18日にラーオ・イサラが結成され、臨時政府を樹立し、10月に独立を宣言。
ラーオ・イサラ(Lao Issara=「自由ラオス」1945年〜1949年) - Wikipedia
- なお、広州湾租借地(現・広東省湛江)は1945年8月、仏印からの中華民国軍撤収の見返りとして中華民国へ正式に返還されている。
しかし、フランスは、これらインドシナ諸国の独立を認めていなかった。1946年に植民地再建のためインドシナに戻ってきたフランス軍は、コーチシナ植民地をコーチシナ共和国として他地域から分離した上で、アンナン、トンキンにいるベトミンの制圧戦争(第一次インドシナ戦争)を開始。当初ハノイなど都市部を占拠していたベトミン軍は農村部に後退してゲリラ戦を余儀なくされたのである。
*フランスのインテリは「第二次世界大戦後の我々のナチスへの反省は完璧だった」と自慢するが、二重の意味で欺瞞に満ちている。まず第一に彼らは自らの手でそれを行ったのではく「手を汚すのにふさわしいならず者集団」植民地軍人にこれを任せ(彼らがフランスがナチス・ドイツの影響下に屈してきた時期も徹底抗戦を続け国際的評価を勝ち取ってきた事もあって)結果として戦後政治のイニチアシブを握られてしまった事を隠している。そしてさらには第二にフランス植民地軍人は外人部隊などにナチス残存兵力を温存し、こうした植民地戦争において(徴兵を拒絶する本国人の代替兵力)として有効活用していった事実を黙殺しようとする。しかし、1949年に中華人民共和国が成立し、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、ソビエト連邦と中華人民共和国はベトミン軍に対する軍事援助を活発化させ、強化されたベトミン軍は1954年のディエンビエンフーの戦いでフランス軍を敗北させた。このため、フランスはジュネーヴ協定によってインドシナ3国の独立を承認し、フランスのインドシナ連邦は正式に解体。
その後のラオス
1949年、フランス保護領ラオスは、ラオス王国(1949年〜1975年)として独立するも1953年にラオス内戦(1953年〜1975年)が勃発している。
ラオス内戦(1953年〜1975年) - Wikipediaその後のカンボジア
1954年、フランス保護領カンボジアは、カンボジア王国(1954年〜1970年)として独立したが、カンボジア内戦(1967年〜1975年)が勃発し、1970年にロン・ノル政権のクメール共和国(1970年〜1975年)が樹立された。ポル・ポト政権の民主カンプチア(1975年〜1979年)が誕生したが(クメール・ルージュのベトナム系市民ホロコーストに反発した)カンボジア・ベトナム戦争で崩壊。1979年、ベトナムの支援するヘン・サムリン政権のカンプチア人民共和国(1979年〜1993年)と三派連合の民主カンプチア連合政府(1982年〜1993年)に分裂。国際連合カンボジア暫定統治機構(1992年〜1993年)を経て、カンボジア王国となったが、キュー・サムファン政権のProvisional Government of National Union and National Salvation of Cambodia(1994年〜1998年)がパイリンに割拠した。
その後のベトナム
トンキン、アンナン、コーチシナを統合するベトナム民主共和国が1945年に独立宣言をする一方、それに取って代る勢力としてフランスが後押しするベトナム国が1949年に成立した。ジュネーヴ協定の結果、両者は北緯17度線付近に引かれた軍事境界線を境として暫定的に北(民主共和国)と南(ベトナム国)に分かれ、1956年までに総選挙を経て将来の体制を決定することになった。
だが、冷戦の激化に伴い、フランスの肩代わりでアメリカが東南アジアでの反共活動を継続、ベトナム国のジュネーヴ協定への参加を見送らせ、1955年にゴ・ディン・ジエムを大統領に擁立してベトナム共和国(南ベトナム)を成立させた。これを受け南ベトナムでは南ベトナム解放民族戦線によるベトナム戦争(1960年〜1975年)が勃発、サイゴン陥落で反共政権が崩壊するまで激しい内戦が続いた。
1975年、ベトナム民主共和国の指導下にある南ベトナム共和国臨時政府が南ベトナムを掌握、1976年にベトナム民主共和国へ吸収されることでベトナムの独立闘争は終焉した。しかし、その過程で共産主義国家から脱出するベトナム人が大量発生し、1981年にはボートピープル問題(ベトナムからのボートピープル)が国際問題化した。日露戦争を契機として英仏関係、日露関係、英露関係は急速に改善し、それぞれ英仏協商、日露協約、英露協商が締結。こうした動き全ての元凶ともいえる露仏同盟と併せ三国協商(英仏露協商)が成立した。また大英帝国は日露戦争に勝利した日本への評価を改め、1905年8月12日にはそれまでの日英同盟を攻守同盟に強化した(第二回日英同盟協約)。
*当時大英帝国は「教育勅語」こそ日本発展の原動力として、菊池大麓博士に講演を依頼したほどであった。またドイツのヴィルヘルム2世もドイツ軍に「汝らは日本軍隊の精神にならえ」と訓話している。露仏同盟(露Франко-русский союз、仏Alliance franco-russe) - Wikipedia
フランスとロシアの間で成立した軍事同盟。経済的対立をふくむ欧州情勢の混迷を背景として、両国の交渉は1891年から公然化した。公式の同盟は1894年1月4日に締結され、そこで三国同盟を仮想敵とする集団的自衛権が定められた。
- ロシアはクリミア戦争やシベリア鉄道等に多額の融資を必要としてきた。この需要に対して各国同様、ドイツの銀行団も貸していた。ロシア・ドイツ間の取引は1822年の600万ポンド借款までさかのぼる。翌年にルドウィッグ・スティグリッツはベアリングス銀行とホープ商会の協力を得て4千万ルーブルを起債した。
クリミア戦争(英Crimean War、仏Guerre de Crimée、露Крымская война、土Kırım Savaşı、1853年〜1856年) - Wikipedia
- 大局的には1848年革命でウィーン体制が動揺し、ユグノーに寛大なプロイセン王国が台頭した。ここでより大切な点は経済的国情であり、プロイセンはメリノ・ウールの無敵ともいえる国際競争力を武器とし、特にロシアに対する経済的な影響力を獲得したのである。カトリックのハプスブルク帝国としては、ライバルの羊毛生産に貢献したコッカリル(Cockerill)をベルギーの金融シンジケートに落ち着け、またローマ教皇とも息を合わせて啓蒙思想による産業合理化を進めた。しかし普墺戦争(Deutscher Krieg、1866年)に敗れてしまう。
- ベルギーがラテン通貨同盟に参加していた。そこでアウスグライヒの1867年9月、親ハンガリーかつ新教徒迫害歴のあるザルツブルクでフランツ・ヨーゼフ1世がナポレオン3世と会見した。ナポレオンは同年4月、オットー・フォン・ビスマルクにルクセンブルク買収計画を挫かれていた。ナポレオンはリソルジメントに対する影響力を用いて教皇庁を守るという連携に出たが、普仏戦争に敗北して武力的な戦略がとれなくなった。しかし、ドイツがイタリアにもつ経済的な影響力は資金力が脆弱な兼営銀行に限定されていた。そしてアルザス・ロレーヌを奪われたフランス大資本がベルギーを通してロシアへ投資を繰り出すようになった。
普仏戦争(仏Guerre franco-allemande de 1870、独Deutsch-Französischer Krieg、1870年〜1871年) - Wikipedia
- フランスがベルギー投資を続けるには、ドイツに払った賠償金50億フランの代償をどこかで得る必要があった。それがオスマン債務管理局を通した地中海開発事業である。オスマン帝国の財務を握っていたカモンド家、借款を使ってスエズ利権を手にしたディズレーリ首相、いずれにも顔の利くロスチャイルド家をチャンネルとして、フランスとイギリスはオスマン分割に精を出した。壮大なビジネスであったから、ドイツはロシア国債の引受を断ってでも資金を振り向け、先客の英仏に嫌悪されながら、オーストリアに近いドイツ南部諸邦の利益となる範囲で、アナトリアの鉄道事業等に食い込んでいった。
オリエント急行 - Wikipedia
- 1888年11月12日の機密第73号電報で、募集額5億フラン中、フランス銀行団が3億2500万フランを引き受け、残りはロンドン・アムステルダム・ベルリンおよびサンクトペテルブルク数行のシンジケートが引受けると発電された。ロシアは翌年にも7億フランと12億フランの外債をパリ証券取引所で募集し、引き受け手を見つけることができた。
- 1890年、ドイツ帝国の宰相であったビスマルクの辞任にともない、従来のドイツ外交に変化がもたらされた。これまでのドイツ外交は、フランスの孤立化を重視する観点から対ロシア外交を重視したが、この年より親政を行う皇帝・ヴィルヘルム2世はこのことに固執しなかった。そして、1887年より継続していた独露再保障条約が更新されないことになった。1891年、金銀比価が元に戻れないような勢いで開き始め、大不況のクライマックスがドイツにそびえるユリウスの塔(Juliusturm, 賠償金の一部を保管)を輝かせた。
*ドイツ帝国のヴィルヘルム2世は世界政策(Weltpolitik)を掲げ、艦隊法の制定以降イギリスとの建艦競争に突入した上、3B政策を企図してロシアとの関係も悪化させた。露仏同盟は三国協商の土台となったが、それは日英同盟と結びつき対独包囲網を形成した。
- そしてオスマン債務管理局の開設年に即位したアレクサンドル3世の近代化がはじまる。彼の治世とその前後にベルギー資本が動いた。先代のアレクサンドル2世はサンクトペテルブルクでポーランド人に殺された。
アレクサンドル2世 - Wikipedia
- そのときすでにプラハでコッカリル系のワルシャワ製鋼(Towarzystwo Warszawskiej Fabryki Stali)が正式認可を受けていた。1888年ともなると、コッカリル本社がクリヴォイログの鉄鉱山に進出、ワルシャワ製鋼と合弁で南ロシア製鉄株式会社を設立した。コッカリルは1894年にアルマズナイヤ炭鉱を、1895年にはニコライエフ造船所を設立した。これらの生産力は親会社に匹敵し、高配当をもたらした。うらやましくなったソジェンもロシア資本と提携して1895年にロシア・ベルギー製鉄を設立した。この世紀末にベルギーの産業資本が次々とロシアへ進出したが、1900年から1901年にかけての恐慌で大きな損失を被った。これらの救済融資はサンクトペテルブルクへ進出していたフランスの大銀行が行ったので、やはりメインバンクの支配下となった。
露仏同盟は露清銀行を代表とする外資の呼び水となった。1891年より建設に着手するシベリア鉄道等、ロシア企業へ巨額の外資、特にベルギー資本が流入した。債権を除いた国別外国投資をフランス・イギリス・ドイツ・ベルギーの順に100万ルーブル単位で記す。1890年は61.4、29.8、68.8、17.1であった。それが1900年に210.1、102.8、197.4、220.1となった。この1900年、ロシアの銀行の総資本に占める外資の割合は28.3%に達していた。それから第一次世界大戦勃発まで、フランスからの国別対外投資額はロシアが断然首位であって、2-4位のスペイン・オーストリア・オスマン帝国への3カ国投資額合計が1902年でロシアを少し越えていたのが、1914年わずかに届かなくなった。1890年から1912年の統計によると、フランスは好況下のロシアには民間投資をし、不況下のロシアには一層の巨額を公債に投じた。不断に投下され続けた資本はロシア革命で回収が問題となってシベリア出兵へと発展する。
英仏協商(Entente Cordiale、1904年) - Wikipedia
1904年4月8日にイギリスとフランスの間で調印された外交文書、およびそれによる英仏間の外交関係。原語の意味は「友好的な相互理解」を意味する。これにより両国の植民地政策の対立は解消され、中世の百年戦争以来の数百年にもわたった英仏間の対立関係に終止符が打たれた。
この条約の起源は、1881年3月にブルトイユ城で行われたフランスの政治家レオン・ガンベタとイギリスのウェールズ公アルバート・エドワード王子との会見にさかのぼる。ウェールズ公が1901年にエドワード7世として即位すると彼は両国の対立解消を望み、フランス外相のテオフィル・デルカッセとイギリス外相の第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスとの間の交渉を仲立ちした。
この間、イギリスによるアフリカ大陸縦貫政策とフランスによる横断政策が交錯したことによって生じた小競り合いがファショダ事件である。アフリカ大陸の植民地化(アフリカ分割)を競う、イギリスの大陸縦貫政策とフランスの大陸横貫政策が衝突した事件である。この事件を契機として、英仏は接近することとなった。
イギリスは1815年、早くもアフリカ最南端のケープ植民地を領有して、その支配地を北に拡大し始めた。その後、1875年にはスエズ運河を確保し1882年にエジプトを事実上の保護国化した後、ナイル川に沿って南下し始めた。1885年、エジプト統治下のスーダンでマフディー教徒が蜂起し、スーダンを完全に支配下に置くために、10年間ほどイギリスの南下政策は停滞した(マフディー戦争)。しかしその後、イギリスは2万5千の大軍を動員し、鉄道を敷きながら南下し、マフディー教国を破ってスーダンを支配下に置いた。このとき、イギリス軍の先遣隊が、さらに南のファショダ村(現南スーダン上ナイル州)にフランス国旗が掲げられていることを発見し、急遽、軍を派遣した。
フランスは1830年にアルジェリアに進出して以来、1881年にはチュニジアを、次いでセネガル、マリ、ニジェール、チャドのサハラ砂漠一帯を領有した。また、紅海沿岸のジブチ(仏領ソマリランド)を領有し、東部アフリカに橋頭保を築いた。
英領であるカイロとケープタウンを結ぶ直線と、仏領であるダカール(セネガル)とジブチを結ぶ直線は、スーダンのファショダ付近で交差する。このようにファショダは両国のアフリカ戦略上きわめて重要な地点に位置していた。
フランスはサヘル地域からさらに東部への進出を図って、マルシャン大尉率いる200名の武装探検隊を送った。一行はブラザビル(コンゴ)から蒸気船でウバンギ川を遡上し、ジャングルと砂漠地帯を横断し、1898年7月10日、ナイル河畔のファショダ村に到着した。
他方、キッチナー率いるイギリス軍の船隊はナイル川を南下して同年9月18日にファショダに到着した。
ファショダで遭遇したイギリス軍とフランス軍はあわや衝突かと思われた。しかし両軍の司令官(キッチナーとマルシャン)の会見で、事態の処理を本国にゆだねることになった。
フランスの外相テオフィル・デルカッセはこの場面でイギリスとの軍事衝突を選ぶことは得策ではないと考えた。当時急速に勢力を拡大していたドイツとの衝突に備えてイギリスとの関係を悪化させることは避けるべきであったし、また、ドレフュス事件をはじめとする不祥事で当時のフランスの軍部は国民の信頼を失っており、遠くスーダンで戦争を遂行することは世論の賛同を得られないと思われたからである。結局、フランス軍が譲歩し、翌1899年ファショダから撤退した。
本事件は帝国主義の時代において英仏両国の関係が最も緊張した出来事であり、本事件以後、英仏関係は融和に向かうことになる。先述のとおりドイツ帝国の勢力拡大に直面した両国は、1904年、英仏協商を結んだ。その協商で、フランスはエジプト・スーダンでのイギリスの優越権を、イギリスはモロッコにおけるフランスの優越権をそれぞれ認めることで決着をみたのである。 その後、第一次世界大戦でイギリスが、敗北したドイツからドイツ領東アフリカ(タンガニーカ)を獲得したため、イギリスの大陸縦貫政策は完遂した。ファショダ事件でスーダンから撤退したため、フランスの横貫政策は成らなかったが、フランスはアフリカ大陸の西半分の広大な地とマダガスカルを領有し、事実上アフリカ大陸をイギリスと2分割したも同然であった。もともとの英仏の国力差に加えて、ブーランジェ事件やドレフュス事件などの不祥事により軍への不信感が増大していたフランスが譲歩し、対外積極政策に批判的な国内世論に配慮した。結果としてはイギリスの政策が貫徹されたが、イギリスもまた南アフリカでボーア戦争で苦戦を強いられたため、かねてより勢力に翳りを見せていた大英帝国の一強時代は終焉を迎えることになる。このため伝統的な「栄光ある孤立」政策は放棄され、極東においてはロシア帝国の脅威に備えるために、アジアで初めて立憲政治を確立し近代化を果たした大日本帝国との日英同盟を締結した。
さらに、産業革命を迎えて工業化に成功し次第に台頭しつつあった新興国のアメリカ合衆国やドイツ帝国、とくにヴィルヘルム2世が親政を開始して以降は「新航路」政策と呼ばれる積極主義を掲げたドイツに対抗するため、ヨーロッパ情勢における英仏の接近は急速に進展していった。
協定は、最終的に第5代ランズダウン侯とフランスの駐英大使ポール・カンボンにより1904年に調印された。協定ではエジプト、モロッコ、マダガスカル、タイ、西アフリカ、中央アフリカそしてニューファンドランド沖の漁業権についての権益が取り決められた。これらに加え、イギリスが支配していたスエズ運河の自由通行権も明記された。
1905年に発生したタンジール事件において現状の変更を求めたドイツに対してイギリスがフランスを支援したのは、この協商によるところが大きい。またサラエヴォ事件から第一次世界大戦勃発に至るまでの外交においても、イギリスは常にフランスを支援し続けた。英仏協商と露仏同盟に後に締結される英露協商をあわせてイギリス、フランス、ロシアの関係を三国協商と言い表す場合もある。
英仏海峡トンネル(1990年開通)を走るユーロスターの終着駅であるロンドンのウォータールー駅とパリの北駅には、両国の国旗と“Entente Cordiale”の文字が掲げられている。クルマに乗ったまま英仏を往来できる「英仏海峡トンネル」ってご存知ですか?
2004年には、調印100周年を記念して様々な行事が行われた。
日露戦争後に締結された大日本帝国と帝政ロシアがお互いに権益を認め合った4次に亘る協約。1907年7月30日に第1次条約が調印され、1916年7月3日に第4次条約が調印された。秘密条項では日本はロシアの外モンゴルにおける権益、ロシアは日本の朝鮮における権益を認めた。
- 承前…日清戦争後、朝鮮半島・満州への進出をめぐり日露間の対立が高まると、日本国内では「臥薪嘗胆」論により、近い将来の両国の開戦を不可避としこれに備えようとする意見と、もう一方は両国の利害は調整可能であり開戦は回避すべきとする意見が対立した。後者の立場に基づき、朝鮮に関する利害については山縣・ロバノフ協定(1896年)や西・ローゼン協定(1898年)など関係調整がはかられると同時に「満韓交換論(満州をロシア、朝鮮を日本の勢力範囲とし両国の棲み分けを画定しようとするもの)」に基づき、より包括的な同盟関係(日露協商)を結ぶべきであるとする伊藤博文らの意見が一定の影響力を持った(このため伊藤は反対派から「恐露病」と罵倒された)。伊藤は「日露協商」実現へと働きかけたが、ロシアを仮想敵とする日英同盟(1902年)の成立により挫折し、かくして日露両国は開戦に向かったのである。
- 第一次日露協約…全権大使はロシア:アレクサンドル・イズヴォリスキー外相、日本:本野一郎在ロシア日本大使。1907年(明治40年)7月30日調印。公開協定では日露間及び両国と清国の間に結ばれた条約を尊重することと、清国の独立、門戸開放、機会均等の実現を掲げる一方で、秘密協定では日本の南満州、ロシアの北満州での利益範囲を協定した。また、ロシアの外蒙古、日本の朝鮮(大韓帝国)での特殊権益も互いに認めた。
- 第二次日露協約…全権大使はロシア:アレクサンドル・イズヴォリスキー外相、日本:本野一郎在ロシア日本大使。1910年(明治43年)7月4日調印。アメリカの南満州鉄道中立案(ノックス提案)の拒否を協定し、両国の満州権益の確保を確認。
- 第三次日露協約…全権大使はロシア:セルゲイ・サゾーノフ外相、日本:本野一郎在ロシア日本大使。1912年(明治45年)7月8日調印。辛亥革命に対応するため、内蒙古の西部をロシアが、東部を日本がそれぞれ利益を分割することを協約。
- 第四次日露協約…全権大使はロシア:セルゲイ・サゾーノフ外相、日本:本野一郎在ロシア日本大使。1916年(大正5年)7月3日調印。第一次世界大戦における日露の関係強化と第三国の中国支配阻止、極東における両国の特殊権益の擁護を相互に再確認した。
*過去の投稿において「大日本帝国が帝国主義の原義に最も近づいたのはシベリア出兵や西原借款があった1910年代後半」としている点に注目されたい。
1917年のロシア革命でロシア帝国が滅亡すると、協約はソビエト連邦政府によって破棄され、日本は中国権益の危機を迎えることとなる。
英露協商(英Anglo-Russian Entente、露Англо-русское соглашение、1907年) - Wikipedia
イラン、アフガニスタン、チベットにおける大英帝国と帝政ロシアの勢力範囲を決定。これによりイギリスとロシアは対立関係が解消し、露仏同盟、英仏協商と合わせて三国協商(英仏露協商)が成立。
- ペルシア(イラン)に関する協定…北部をロシア、南部をイギリスの勢力範囲として、両国の勢力下におかれない中立地帯も設定した。カージャール朝の独立を尊重することと、この地域における機会均等も確認された。
- アフガニスタンに関する協定…アフガニスタンがイギリスの勢力圏であることと、それをロシアが尊重することを確認した。ただし、イギリスのアフガニスタン支配は平和的意義(ロシアと敵対しない)のもとに行われることになった。
- チベットに関する協定…チベットに対する領土保全・内政不干渉を確認し、清の宗主権を両国が承認した。
経緯
- 南下政策を推進していた当時のロシアにとって、その対象となる地域は大きく三つあった。ただし極東からの南下に関しては、1905年の日露戦争敗北によって頓挫しているため、残された二つの選択肢はペルシア(イラン)・アフガニスタンからの南下か、バルカン・小アジアからの南下であった。当時の外務大臣であったアレクサンドル・イズヴォリスキーは、このうち海路(ボスフォラス・ダーダネルス両海峡)からの南下を戦略的に重視する立場をとっていた。
- 1906年より、イズヴォリスキー外相と駐露英国大使サー・アーサー・ニコルソンの間で交渉が行われ、1907年8月31日、サンクトペテルブルクにて英露協商が成立した。
アーサー・ニコルソン (初代カーノック男爵) - Wikipedia
これによって、既に成立していた露仏同盟、英仏協商とあわせ、三国協商が成立した。イギリスがこの協約を成立させたことは、暗にロシアのバルカン半島への南下を、自国の国益に反しない範囲で容認するものであり、ドイツの3B政策や汎ゲルマン主義を牽制する狙いもあったとされる。
こうして欧州情勢は日露戦争以前の英・露仏・独墺伊の三勢力が鼎立していた状況から、英仏露の三国協商と独墺伊の三国同盟の対立へと向かっていく。そして大英帝国は仮想敵国を、日露戦争の敗北により国力が疲弊したロシアからドイツに切り替え、ドイツはイギリスとの建艦競争を拡大していくのである。
当時の帝政ロシア
戦時中の国民生活の窮乏により、血の日曜日事件や戦艦ポチョムキンの叛乱等より始まるロシア第一革命が発生。
そして日露戦争後は不凍港を求める伝統的な南下政策の矛先は再びバルカンに向かい、ロシアは汎スラヴ主義を全面に唱えることになる。このことが汎ゲルマン主義を唱えるドイツや、同じくバルカンへの侵略を企むオーストリア・ハンガリー帝国との対立を招き、第一次世界大戦の引き金となった。
汎スラヴ主義(Pan-Slavism) - Wikipedia
当時の「アメリカ帝国」
フロンティア消滅宣言(1890年)以降、リストラを恐れる軍部の海外進出が活発化。米西戦争(1898年、カリブ海、太平洋沿岸)、ニカラグア干渉(1909年、カリブ海)、ハワイ併合(1898年)、パナマ運河を巡る千日戦争(Guerra de los Mil Días、1899年〜1902年)などが繰り返されていきた。
こうした流れが金鍍金時代(Gilded Age、1865年〜1893年)に成り上がった米国資産家階層や政府機関や民間の科学者やエンジニアのネットワーク網に立脚する米国科学万能主義と統合されたのはセオドア・ルーズベルト大統領(任期1901年〜1909年)からウィリアム・タフト大統領(任期1909年〜1903年)の時代にかけてとされ、進歩主義を掲げて共和党より政権を奪取した民主党のウッドロウ・ウィルソン大統領(任期1913年〜1921年)の時代になっても一切の干渉を受け付けなかった。それで心労が溜まったせいかウィルソン大統領は1919年に脳梗塞で倒れ、以降2年は妻のイーデスが政務を担当。米国発の女性大統領、およびインディアン大統領(イーデスはディズニー映画で有名になった酋長の娘ポカホンタスの末裔)が誕生した瞬間でもあったとされる。
*米国科学万能主義(American Scientism)…サン=シモンと袂を分かったフランス人社会学者オーギュスト・コントが"Voir pour prevoir, prevoir pour prevenir(予見するために観察する。予知するために予見する)"というモットーで有名な実証哲学(Philosophie positive)を社会基盤とする科学者独裁構想をを提言。これが英国の社会進化論学者ハーバード・スペンサー経由で米国に伝わったのがその最初の契機になったとも、新カント主義が1870年代に伝わりプラグマティズム(pragmatism)哲学が形成されたのが発端となったとも。
科学主義(Scientism) - Wikipedia*フランス第二帝政時代(Second Empire Français、1852年〜1870年)の基調文化もこれで、だからこそダーウィンの進化論やクロード・ベルナール「実験医学研究序説(初版1865年)」やロンブローゾの犯罪遺伝説の影響を受けたエミール・ゾラ(Émile François Zola、1840年〜1902年)が自然主義文学を構想したり、「SF小説の父」ジュール・ヴェルヌ(Jules Gabriel Verne、1828年〜1905年)がディストピア小説元祖「二十世紀のパリ(Paris au XXe siècle、1861年)」を執筆したとも考えられる。
ルーゴン・マッカール叢書(Les Rougon-Macquart、1870年〜1893年) - Wikipedia*同時期には「(男装の麗人概念を出発点とする)ブルマーを履いて自電車を乗りこなしたり、ワンダーフォーゲル活動に勤しんだり、煙草を吸ったり選挙権拡大集会に参加したりする新女性」なるイメージも登場してきた。(銃社会化や工場や建築現場への重機導入やオフィスオートメーションの進行といった)社会の機械化や家電製品の普及こそが男女格差撤廃につながっていくという現実に寄り添う形で以降も科学主義とフェミニズムの蜜月は続き「(任天堂のTVゲーム「メトロイド」に登場するパワードスーツを着こなす女戦士)サムズ・アラン」みたいなビジョンに発展していく。
*それにつけても調べれば調べるほど19世紀欧米における価値観の多様性と多態性がカール・シュミッツの政治哲学の中核を為す「友・敵関係(Freund-Feind Verhältnis)」が歯も立たない絶対的分断状態に置かれていた事が明らかとなる。「庶民を軽蔑し貴族主義と男女差別の伝統に執着し続ける民族主義者」と「 王侯貴族や聖職者や彼らを擁護する王党派を人権天賦説の対象から外して虐殺し続ける無神論的人道主義者」の対峙。「選民主義や男女差別を科学主義と結びつけた進歩派男性」と「投票権を与えられても保守党にしか投票しない労働者や女性」の対決。この問題自体は今日なお根本的解決を見ていない?
当時のドイツ帝国
まさに関税同盟の盟主として台頭してきたプロイセン王国がシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題を通じてナショナリズムが滋養され、普澳戦争(1866年)と普仏戦争(1870年〜1871年)に勝利していく建国期そのものだった。
歴史のその時点ではユンカーを中心とする東部地主層(自由貿易を希望)と西部工業家層(クルップやジーメンスといった重工業初期段階を担う企業家群が切実に保護貿易を希望)の利害が対立していたが、大不況時代に入ると外国産の安い農産物がヨーロッパ市場に大量に流入してきて経済問題となった事からビスマルク宰相が主導する形で保護関税法(1879年。別名「鉄と穀物の同盟」)が成立し、西部工業家層はイギリスを出し抜く形でアメリカに次ぐ規模の鉄鋼産業育成に成功したが、その一方では海外在住のドイツ商人中心に「他の列強同様にドイツ帝国も植民地を獲得すべし」とする声が高まる。
*日本の明治維新の影でもこうしたプロイセン人の姿は暗躍していた。そして1890年に「植民地の獲得と経営は採算に見合わない(だからこそフランスがそれに邁進するのを放置してきたのだ)」という立場に立つビスマルクが失脚して以降、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はその声に応えるべく世界中で強引なまでの植民地獲得に邁進する一方(三国干渉(1895年)から膠州湾租借(1898年)に至る過程で完全に怒らせてしまった)大日本帝國を牽制すべく最初はロシアに日本との対決を煽り、日露戦争(1904年〜1905年)以降はアメリカに日本との対立を煽り続けたのだった。その一方では汎スラブ主義と汎ゲルマン主義の激突する東欧の金融業界にも積極的に進出し第一次世界大戦の重要な遠因の一つを生み出していく。
当時のオーストリア帝国
どうしても(産業革命導入には不可欠な)国内諸族の対立構造が解消出来ず、遂には皇太子暗殺事件勃発により第一次世界大戦の引き金を引いてしまう。
当時のオスマン帝国
18世紀末に入ると、ロシア帝国の南下によってオスマン帝国の小康は破られた。1768年に始まった露土戦争で敗北すると、1774年のキュチュク・カイナルジャ条約によって帝国は黒海の北岸を喪失し、1787年からの露土戦争にも再び敗れて、1792年のヤシ条約でロシアのクリミア半島の領有を認めざるを得なかった。改革の必要性を痛感したセリム3世は翌1793年、ヨーロッパの軍制を取り入れた新式陸軍「ニザーム・ジェディード」を創設するが、計画はイェニチェリの反対により頓挫し、廃位された。かつてオスマン帝国の軍事的成功を支えたイェニチェリは隊員の世襲化が進み、もはや既得権に固執するのみの旧式軍に過ぎなくなっていた。
Ceddin Deden(祖父も父も) – Menuet in fantasica
この時代にはさらに、18世紀から成長を続けていたアーヤーンが地方政治の実権を握り、ギリシャ北部からアルバニアを支配したテペデレンリ・アリー・パシャのように半独立政権の主のように振舞うものも少なくない有様で、かつてオスマン帝国の発展を支えた強固な中央集権体制は無実化した。さらに1798年のナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征をきっかけに、1806年にムハンマド・アリーがエジプトの実権を掌握した。一方、フランス革命から波及した民族独立と解放の機運はバルカンのキリスト教徒諸民族のナショナリズムを呼び覚まし、ギリシャ独立戦争(1821年〜1829年)によってギリシャ王国が独立を果たした。ムハンマド・アリーは、第一次エジプト・トルコ戦争(1831年〜1833年)と第二次エジプト・トルコ戦争(1839年〜1841年)を起こし、エジプトの世襲支配権を中央政府に認めさせ、事実上独立した。
*ハプスブルグ君主国からイタリア王国やドイツ帝国が分離独立を果たしていくプロセスに相似。これに加えて、バルカン半島への勢力拡大を目指すロシアとオーストリア、勢力均衡を狙うイギリスとフランスの思惑が重なり合い、19世紀のオスマン帝国を巡る国際関係は紆余曲折を経ていった。このオスマン帝国をめぐる国際問題を東方問題という。バルカンの諸民族は次々とオスマン帝国から自治、独立を獲得し、20世紀初頭にはオスマン帝国の勢力範囲はバルカンのごく一部とアナトリア、アラブ地域だけになる。オスマン帝国はこのような帝国内外からの挑戦に対して防戦にまわるしかなく、「ヨーロッパの瀕死の病人」と呼ばれる惨状を露呈した。
しかし、オスマン帝国はこれに対してただ手をこまねいていたわけではなかった。1808年に即位したマフムト2世はイェニチェリを廃止して軍の西欧化を推進し、外務・内務・財務3省を新設して中央政府を近代化させ、翻訳局を設置し留学生を西欧に派遣して人材を育成し、さらにアーヤーンを討伐して中央政府の支配の再確立を目指した。さらに1839年、アブデュルメジト1世は、改革派官僚ムスタファ・レシト・パシャの起草したギュルハネ勅令を発布して全面的な改革政治を開始することを宣言、行政から軍事、文化に至るまで西欧的体制への転向を図るタンジマートを始めた。タンジマートのもとでオスマン帝国は中央集権的な官僚機構と近代的な軍隊を確立し、西欧型国家への転換を進めていった。
1853年にはロシアとの間でクリミア戦争が起こるが、イギリスなどの加担によってきわどく勝利を収めた。このとき、イギリスなどに改革目標を示して支持を獲得する必要に迫られたオスマン帝国は、1856年に改革勅令を発布して非ムスリムの権利を認める改革をさらにすすめることを約束した。こうして第二段階に入ったタンジマートは宗教法(シャリーア)と西洋近代法の折衷を目指した新法典の制定、近代教育を行う学校の開設、国有地原則を改めて近代的土地私有制度を認める土地法の施行など、踏み込んだ改革が進められた。そして、カモンド家の支配するオスマン銀行が設立された。
改革と戦争の遂行は西欧列強からの多額の借款を必要とし、さらに貿易拡大から経済が西欧諸国への原材料輸出へ特化したために農業のモノカルチャー化が進んで、帝国は経済面から半植民地化していった。この結果、ヨーロッパ経済と農産品収穫量の影響を強く受けるようになった帝国財政は、1875年、西欧金融恐慌と農産物の不作が原因で破産した。
こうしてタンジマートは抜本的な改革を行えず挫折に終わったことが露呈され、新たな改革を要求された帝国は、1876年、大宰相ミドハト・パシャのもとでオスマン帝国憲法(通称ミドハト憲法)を公布した。憲法はオスマン帝国が西欧型の法治国家であることを宣言し、帝国議会の設置、ムスリムと非ムスリムのオスマン臣民としての完全な平等を定めた。
*大日本帝国も憲法制定まで苦難の道を歩んできた。だが憲法発布から間もない1878年に、オスマン帝国はロシアとの露土戦争に完敗し、帝都イスタンブール西郊のサン・ステファノまでロシアの進軍を許した。専制体制復活を望むアブデュルハミト2世は、ロシアとはサン・ステファノ条約を結んで講和する一方で、非常事態を口実として憲法の施行を停止した。これ以降、アブデュルハミト2世による反動専制の時代がはじまる。一方でしかしオスマン債務管理局などを通じ帝国経済を掌握した諸外国による資本投下が進み、都市には西洋文化が浸透した。また西欧の工業製品と競合しない繊維工業などの分野で民族資本が育ち、専制に抵触しない範囲での新聞・雑誌の刊行が拡大されたことは、のちの憲政復活後の民主主義、民族主義の拡大を準備した。
アブデュルハミトが専制をしく影で、西欧式の近代教育を受けた青年将校や下級官吏らは専制による政治の停滞に危機感を強めていた。彼らは1889年に結成された「統一と進歩委員会(通称「統一派」)」をはじめとする青年トルコ人運動に参加し、憲法復活を求めて国外や地下組織で反政権運動を展開した。1891年には、時事新報記者の野田正太郎が日本人として初めてオスマン帝国に居住した。
1908年、サロニカ(現在のテッサロニキ)の統一派を中心とするマケドニア駐留軍の一部が蜂起して無血革命に成功、憲政を復活させた(青年トルコ革命)。彼らは1909年には保守派の反革命運動を鎮圧、1913年には自らクーデターを起こし、統一派の中核指導者タラート・パシャ、エンヴェル・パシャらを指導者とする統一派政権を確立した。統一派は次第にトルコ民族主義に傾斜していき、政権を獲得するとトルコ民族資本を保護する政策を取り、カピチュレーションの一方的な廃止を宣言した。
*「青年トルコ」なる呼称は当然、フランス7月革命(1830年)に現れた「青年フランス」や「イタリアの吉田松陰」ジュゼッペ・マッツィーニ(Giuseppe Mazzini, 1805年〜1872年)が組織した「青年イタリア」に由来する。
青年トルコ人 - Wikipediaこの間にも、サロニカを含むマケドニアとアルバニア、1911年には伊土戦争によりリビアが帝国から失われた。バルカンを喪失した統一派政権は汎スラヴ主義拡大の脅威に対抗するためドイツと同盟に関する密約を締結し、1914年に第一次世界大戦で同盟国側で参戦した。
この戦争でオスマン帝国はアラブ人に反乱を起こされ、ガリポリの戦いなどいくつかの重要な防衛線では勝利を収めるものの劣勢は覆すことができなかった。戦時中の利敵行為を予防する際に、アルメニア人虐殺が発生し、その後、トルコ政府も事件の存在自体は認めているが犠牲者数などをめぐって紛糾し、未解決の外交問題となっている。ムドロス休戦協定により帝国は1918年10月30日に降伏し、国土の大半はイギリス、フランスなどの連合国によって占領され、イスタンブール、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡は国際監視下へ、アナトリア半島もエーゲ海に隣接する地域はギリシャ統治下となった。そしてアナトリア東部においてもアルメニア人、クルド人らの独立国家構想が生まれたことにより、オスマン帝国領は事実上、アナトリアの中央部分のみとなった。
敗戦により統一派政府は瓦解、首謀者は亡命し、この機に皇帝メフメト6世は、専制政治の復活を狙って、連合国による帝国各地の占拠を許容した。さらに、連合国の支援を受けたギリシャ軍がイズミルに上陸、エーゲ海沿岸地域を占拠した。この帝国分割の危機に対し、アナトリアでは、一時期統一派に属しながら統一派と距離を置いていた大戦中の英雄ムスタファ・ケマルパシャを指導者として、トルコ人が多数を占める地域(アナトリアとバルカンの一部)の保全を求める運動が起こり、1920年4月、アンカラにトルコ大国民議会を組織して抵抗政府を結成したが、オスマン帝国政府はこれを反逆と断じた。
一方連合国は、1920年、講和条約としてセーヴル条約をメフメト6世は締結した。この条約はオスマン帝国領の大半を連合国に分割する内容であり、ギリシャにはイズミルを与えるものであった。結果として、トルコ人の更なる反発を招いた。ケマルを総司令官とするトルコ軍はアンカラに迫ったギリシャ軍に勝利し、翌年にはイズミルを奪還して、ギリシャとの間に休戦協定を結んだ。これを見た連合国はセーヴル条約に代わる新しい講和条約(ローザンヌ条約)の交渉を通告。講和会議に、メフメト6世のオスマン帝国政府とともに、ケマルのアンカラ政府を招請した。1922年、ケマルは、オスマン国家の二重政府の解消を名目として、これを機にパーディシャー(スルタン)とカリフの分離と、帝政の廃止を大国民議会に決議させた。廃帝メフメト6世はマルタへ亡命し、オスマン帝国政府は名実共に滅亡した(トルコ革命)。
翌1923年、大国民議会は共和制を宣言し、多民族帝国オスマン国家は新たにトルコ民族の国民国家トルコ共和国に取って代わられた。トルコ共和国は1924年、帝政の廃止後もオスマン家に残されていたカリフの地位を廃止、オスマン家の成員をトルコ国外に追放し、オスマン帝権は完全に消滅したのである。
④モロッコ事件に際して自ら諸外国に列国会議の開催を呼びかけて1906年にアルヘシラス会議を開催したまでは良かったが、フランスと三国協商を結んでいたイギリスとロシアはフランス・スペイン側を支持し、三国同盟を結んでいたイタリアも仏伊協商を結んだばかりのフランスとの関係を重視し、唯一の支持国だったオーストリアも消極的支持に留まったので、結局フランス・アフリカ領うち最も何も資源のない領域のドイツへの割譲だけで話が済んでしまった。
モロッコ事件(Moroccan Crisis) - Wikipedia
20世紀初頭のモロッコを巡って生じたドイツ、フランスを主な当事者とする国際紛争。1905年及び1911年の2度にわたって発生し、前者を第一次モロッコ事件(タンジール事件)、後者を第二次モロッコ事件(アガディール事件)と称する。英語表記は通常 "Moroccan Crisis"(「モロッコ危機」)であるが、日本では「モロッコ事件」と呼ぶことが多い。
第一次モロッコ事件…モロッコは、鉱物資源が豊富であるとともに戦略上の要衝であったことから、紀元前の時代から衝突の絶えない地であった。19世紀後半の世界分割の時代にはイギリス、フランス、スペインの競争の対象となったが、20世紀初頭には、フランスがほぼ全土で優越的地位を確立した。これに対して1905年3月31日、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は突然モロッコ北端の港湾都市タンジール(Tangier)を自ら訪問。フランスのモロッコ進出を牽制し、問題を国際会議に付すよう要求した。1905年6月、フランスのルーヴィエ首相は主戦論者のデルカッセ外相を更迭し、ドイツの示した会議の提案を受諾。1906年1月、スペインのアルヘシラス(Algeciras)において国際会議が開催された(アルヘシラス会議)。しかし、ドイツの意に反して大半の参加国はフランス支持に回ったため、モロッコにおけるフランスの優位が事実上追認される結果に終わった。
第二次モロッコ事件…1911年にモロッコで起こった内乱に際し、フランスは鎮圧のため出兵した。これに対してドイツは7月1日、突然砲艦パンター号(Panther)をモロッコ南西の港湾都市アガディール(Agadir)に派遣して威嚇した(Agadir Crisis)。ドイツはモロッコ放棄の代償としてフランス領コンゴの譲渡を要求したが、イギリスの支持を得たフランスはこれを拒否。開戦の危機が叫ばれた。しかし独仏間の交渉の結果、11月4日に協定が成立した。ドイツはフランス領コンゴの一部であったノイカメルーンを獲得し、ドイツ領カメルーンの領土を拡大した。翌1912年3月30日、モロッコは正式にフランス(及びスペイン)の保護国となり(フェス条約)、モロッコを巡る独仏間の係争は一応の帰結をみた。
モロッコ事件は第一次世界大戦前夜における国際危機のうちでも、ファショダ事件と並び特に重大な事件とされている。直ちに戦争に突入するという事態こそ回避されたものの、この両事件を通して独仏両国の相克は決定的となり、大戦の大きな要因となった。また、この事件は結果的に、数世紀にわたる対立を解消したばかりの英仏の関係を確認、強化することとなるとともに、ドイツの国際的孤立を深めるという、ビスマルクが最も恐れていた事態に繋がった。しかしモロッコの側からすれば、いずれの方向に転んでも自国の主権が脅かされることに変わりはなく、この事件は列強の領土的野心の発露に過ぎなかったのである。
⑤1908年、イギリスの新聞「デイリー・テレグラフ」のインタビューに答えてドイツの内政と外交について語ったところ、その侵略政策的内容によって内外から激しく批判され、皇帝の権力を憲法で制限すべきだという論議が盛んになった。
デイリー・テレグラフ事件(独Daily-Telegraph-Affäre、1908年) - Wikipedia
1908年10月28日、『デイリー・テレグラフ』紙にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とイギリス陸軍大佐エドワード・ジェームズ・モンタギュー=ステュアート=ワートリーの対談が掲載され、英独両国の世論の怒りを招いたスキャンダルである。
スキャンダルの発端は、ヴィルヘルム2世が休暇でイギリスに滞在中、ワートリー大佐と何度か個人的に対談したことにあった。なお、ヴィルヘルム2世はイギリス王女(プリンセス・ロイヤル)ヴィクトリアを祖母に持ち、英語は堪能であった。ワートリー大佐はインタビューを恣意的に要約し、それを『デイリー・テレグラフ』に送りつけた。
『デイリー・テレグラフ』では従来通りきちんとベルリンに原稿を送り、内容の確認を要請した。これ以前にヴィルヘルム2世は不注意により何度も失敗していたため、政府にその確認を委ねることにした。本来この仕事は帝国宰相のベルンハルト・フォン・ビューローに与えられるべきであったが、彼は休暇でノルダーナイに滞在していたため、書類に目を通すことなく次に回した。ところが、広報室長のオット・ハマンも休暇中であったために、原稿は外務省の下級官吏の手に渡り、確認のサインがされてしまった。ただし、ビューローが本当にインタビューを読んでいなかったのか、異論の余地があるところである。例えば、ペーター・ヴィンツェンの最近の研究ではビューローが読んだことを前提に議論しているものの、以前のビューロー伝記はこの点について懐疑的である。
インタビューについての国際的な憤慨の声は、ヴィルヘルム2世の発言の中でも次の4点によって引き起こされたものである。
ドイツで親英家は少数派で、自分はその少数派に属しており、そのことが自分の意図に反して、ドイツの軍拡に対する英国の怒りをさらに買ってしまったという発言ボーア戦争における仏露の反英的な行動を受け入れなかっただけでなく、そのことをヴィクトリア女王に伝え、ヨーロッパ同盟の中で自主的な外交官としての姿を見せた、という発言ボーア戦争は彼の戦争計画によって勝利できたという、きわめて思い上がった発言ドイツの戦艦建造はイギリスを敵国とするものではなく、極東の国々に対するものであるという、特に日本を挑発するような発言こうした不用意な発言は、思い上がりと外交上の配慮のなさに大きな特徴があった。世界政策上のイギリスとの競争の中にあって、人々は皇帝がイギリスに取り入ろうとしたり、政府組織がまぎれもなく無思慮で無能であることに慄然とした。危機の頂点にあったヴィルヘルム2世が風変りな気晴らしに専心するためにフュルステンベルク侯マックス・エゴン2世のいるドナウエッシンゲンに向かったことで、事態はさらに悪化した。
事件を収拾する過程で宰相ビューローは辞職を願い出、ヴィルヘルム2世の退位を要求する世論まで噴出するなど、事態は本物の国家的危機にまで発展した。
ビューローは取り敢えず最初の地位にとどまったものの、インタビュー記事の検閲で見せた自身の無能ぶりから注意をそらすためにもあってか、これ以降は皇帝から距離を取るようになった。仲介を受けて2人の間で会談が持たれたものの、これがかえってビューロー辞職の一因ともなった。
その一方で、かねてから皇帝の「個人支配」に忠実なグループへの不満がくすぶり続けていたこともあり、立憲君主として政治や軍事などに口を挟むなという声が強まった。帝国議会では常に皇帝を支持していた保守党ですら、皇帝の軽率さに憤慨する始末だった。さすがに大言壮語の癖があった皇帝でさえこれには懲りて、以後は軍に関する発言を明らかに控えるようになった。事件を通して、ドイツ国民にとって帝国憲法が不十分な状況であることが改めて明確になった。
また日本においては、従来は親独派が多かったが、ヴィルヘルム2世即位後の日本を挑発する一連の発言により反独感情が急激に高まり、第一次世界大戦において日本の対独参戦を招く結果につながった。
⑥列強との対立がついにドイツを第一次世界大戦に巻き込もうとした時、オーストリアとの同盟を重視すべきだと主張して世論を参戦に導いた。
*しかし、それ以降は軍事指導権を制限され、大戦末期にはヒンデンブルクとルーデンドルフによって政治的実権も奪われ、最後には宰相マックス・フォン・バーデンより一方的に皇帝の退位を発表されてオランダへの亡命を余儀なくされた訳である。
*今日なお支持派の実在する皇帝ヴィルヘルム2世そのものを悪役に仕立て上げるのは憚られたので、代わりにルーデンドルフが怪物化を引き受けた流れ。ちなみに日本の漫画/アニメ「ベルサイユのばら」にこうした配慮はなく(7月王政でブルボン家に代わって王統となる)オルレアン公が容赦無く「自ら喜んで任務に失敗した部下を粛清して回る殺人狂の宮廷陰謀家」として描かれている。
守勢に立たされつつも、老獪な手腕を発揮して既得権益確保を達成し続けた大英帝国。ビスマルク包囲網による外交的孤立に苦しみながら資本主義的発展を達成しようと足掻き続けたフランス。そして国内民族問題が遂に最後まで解決出来ず「資本主義的発展そのもの」が始められなかった帝政ロシアとハプスブルグ君主国とオスマン帝国。さらには急成長を遂げてこれらの国々を脅かし始めた南北アメリカと大日本帝国…当時の国際協調社会を成立させていたこうした歴史展開と比べると「ヴィルヘルム2世(およびそれを支持したドイツ臣民)の「日の当たる場所」へ出たい願望」というは、何かこう恐ろしいまでにパーソナル過ぎる(集-立(Ge-Stell)システムとして全然成立していない)漠然とした願望追求としか思えない側面が見て取れるのです。
Sehnsucht(憧れ、直訳「日の当たる場所」) という語はドイツ民族が産んだ言葉であって、ドイツ民族とは有機的関係をもっている。陰鬱な気候風土や戦乱の下に悩んだ民族が明るい幸ある世界に憬がれる意識である。レモンの花咲く国に憧がれるのは単にミニョンの思郷の情のみではない。ドイツ国民全体の明るい南に対する悩ましい憧憬である。「夢もなお及ばない遠い未来のかなた、彫刻家たちのかつて夢みたよりも更に熱い南のかなた、神々が踊りながら一切の衣裳を恥ずる彼地へ」の憧憬、ニイチェのいわゆる flügelbrausende Sehnsucht はドイツ国民の斉ひとしく懐くものである。そうしてこの悩みはやがてまた noumenonの世界の措定として形而上的情調をも取って来るのである。英語のlongingまたはフランス語の langueur, soupir, désir などは Sehnsucht の色合の全体を写し得るものではない。ブートルーは「神秘説の心理」と題する論文のうちで、神秘説に関して「その出発点は精神の定義しがたい一の状態で、ドイツ語の Sehnsucht がこの状態をかなり善よく言い表わしている」といっているが、すなわち彼はフランス語のうちに Sehnsucht の意味を表現する語のないことを認めている。
*ドイツ人のギリシャ文化好きの背景にあるのは裸…そう裸なのである!!*そして皮肉にもドイツ人は第二次世界大戦において同盟国イタリアに誘い込まれる様にアフリカへの進出を果たすのだった。
北アフリカ戦線(1940年〜1943年) - Wikipedia
とはいえ見る人が見れば「(不凍港を求め続ける)ロシアの南下願望」も戦前大日本帝国が追求した「南国や極北に向けられた幻想」や「満蒙は生命線」なんてスローガンも同じくらい 恐ろしいまでにパーソナル過ぎる(集-立(Ge-Stell)システムとして全然成立していない)漠然とした願望追求と写ってしまうものなのかもしれない訳ですが。
夢野久作「瓶詰地獄(1928年)」
瓶詰の地獄 - Wikipedia
夢野久作「死後の恋(1928年)」
死後の恋 - Wikipedia
*これほど「萌えで読まされ」て弊害のある作品を他に知らない…何しろ結末が結末なのである。
*そして現在ではかえって「瓶詰地獄」のコミックビーム再掲時に同時掲載された「原発幻魔大戦」が興味深い? そう、これらは一括してソレルが「暴力論(Réflexions sur la violence、1908年初版)」の中で述べた「大衆を動員する神話」に関わってくるエピソードなのである。
【時間の木】芝田勝茂の近況:「原発幻魔大戦」首相官邸前デモ編(いましろたかし)
むしろ「ドイツ植民地帝国の展開」は、こういう観点からアプローチすべきとも? しかもその根幹はベネディクト・アンダーソンが「想像の共同体(Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism、1983年)」の中で弾劾した「公定ナショナリズム(Official Nationalism)=君主側から臣民に強制される信念」というより「君主が臣民の代表であり続ける為に抽出した民意(ただし臣民全体というより業績を上げる機会を虎視眈々と狙う外交官や植民地商人の様なマージナル領域上の有力者の総意)」だったかもしれないのです。
ドイツ植民地帝国(独Deutsche Kolonien und Schutzgebiete)
ドイツ人が植民地を建設した事例は1526年にカール5世がフッガー家とならぶ金融業者ヴェルザー家に負債の棒引きを条件に、今の南米ヴェネズエラ地域の全面的な統治権と司法権を譲渡したのが最も古い例となる。
*ポーランド貴族の委託を受けて修道騎士団だったチュートン騎士団が着手したポーランド貴族の東欧開拓、帝政ロシアよりの委託を受けたストロガノフ家がウクライナ・コサックを派遣したシベリア開拓などを連想させる。「ビジネスとしての植民地事業」とは似て非なるものといえよう。ヴェルザー家はヴェネズエラ探検を(南ドイツで徴募され神聖ローマ帝国の為に働く傭兵隊である)ランツクネヒトに依頼したが、伝説の黄金郷エル・ドラドを求めた探検は、先住民への虐殺無道を極め、それはラス・カサスによって「地上のどのならずどもよりも残虐である」と激しく非難された。
ヴェルザー家はヴェネズエラ経営が採算に合わないことを理由に撤退し、この地はスペインの植民地となった。
【ヴィルヘルム2世即位以前の植民地】ドイツ帝国は1870年代中盤から長期不況に陥った。その時「植民地開拓こそが不況脱出の道」という世論が盛り上がったが1890年まで政府に留まり続けたビスマルクは「儲からない」の一言で片付け続けたという。実際、結果から言えばビスマルクの言葉は全く正しかったのだった。
戊辰戦争さなかの1868年(明治元年)、新政府軍(官軍)と戦っていた会津・庄内両藩が、プロイセン(ドイツ)から資金を借りる担保として「蝦夷地(えぞち)の領地を99年間貸与すると申し出た」と記した駐日公使発本国向けの外交書簡を、五百旗頭(いおきべ)薫東大教授らの研究チームがベルリンで発見した。内容通りなら、ドイツの蝦夷地租借構想が水面下で具体化していたことになる。東大史料編纂(へんさん)所の箱石大(はこいしひろし)准教授は「戊辰戦争が長引いていれば実現していた可能性がある」とみる。
これまでは、日大のアンドレアス・バウマン教授が1995年にドイツ連邦軍事文書館で見つけた文書から、1868年7月に両藩から蝦夷地の土地売却の打診を受けたものの、10月に本国のビスマルク宰相が却下し、交渉は立ち消えになったとみられていた。
その後、ボン大学の研究者と箱石准教授が同文書館で、宰相が3週間後に一転、交渉を認可していた文書を見つけ、本国側ではゴーサインが出ていたことが明らかになっていた。
今回見つかった外交書簡を書いたのは、横浜にいた駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラント。貸与期間を具体的に盛り込むなど、両藩との間で交渉妥結の下地が整っていたことがうかがえる。マックス・フォン・ブラント(Maximilian August Scipio von Brandt, 1835年〜1920年) - Wikipedia
プロイセン王国・ドイツ帝国の外交官、東アジア研究者。黄禍論の提唱者と言われている。
プロイセン王国の将軍で軍事著述家のハインリヒ・フォン・ブラントの息子としてベルリンに生まれる。プロテスタントの堅信を受け、ベルリンのフランス・ギムナジウムに学ぶ。最初軍人となり、1860年のフリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク伯爵の率いるプロイセン王国東アジア使節団に武官として随行し、1861年(文久元年)1月24日の日普修好通商条約調印に立ち会う。
フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク(Friedrich Albrecht Graf zu Eulenburg, 1815年〜1881年) - Wikipediaプロイセンの海外貿易が拡大し、東南アジアや東アジアの交易国を調査する使節団の代表に選ばれた。1859年10月、日本(江戸幕府)や、中国(清王朝)、タイ(シャム)に向けて出発。
1861年1月15日、かねてより助力を得ていたオランダ系アメリカ人ヘンリー・ヒュースケンがプロイセン王国の宿舎善福寺からの帰路で薩摩藩の襲撃に遭い、翌日死去。事件の影響は無く、1月24日に日英修好通商条約をベースにした条約を江戸幕府と締結(日普修好通商条約)。同年9月には清国と、3年前にイギリスとフランスが結んだ天津条約と同様の修好通商条約を締結した。尚、日本では交渉中に担当者の堀利煕が謎の自殺を遂げた為、後任の村垣範正と条約を締結。
帰国後の1862年12月8日、プロイセン内相に任命された。1864年、1866年にプロイセン王国は行政区域を拡大させた為、この機会に旧区域でも包括的な行政改革を実施。ところが、西部ではカトリックの、東部では自由主義者の抵抗に遭ってしまい、交渉は成果が上がらなかった。
普仏戦争前の1870年7月13日にはバート・エムスで療養中のヴィルヘルム1世に随伴してフランス外交官ベネデッティ伯爵と交渉。その内容をベルリンのビスマルクに送ると、電報内容を改竄して公表するエムス電報事件が起こった。プロイセン王国宰相オットー・フォン・ビスマルクが、同国国王ヴィルヘルム1世から受け取った電報に意図的な編集を行って世間に公表した事件。当時のスペイン王位継承問題に端を発するもので、普仏戦争の直接の原因となった。
1868年9月、スペインで非民主的な当時の政権に対し、フアン・プリム将軍がカディスで武装蜂起すると、政権への不満は各地の蜂起を促し、革命は全土に波及した。1865年に王室財産の不正利用が明らかになった女王イサベル2世は軍隊の支持も失い、第二帝政下のフランスへと亡命した。
その後スペインでは、1869年1月に初の普通選挙が実施され、同年6月に憲法が発布されたが、その中で革命後の政体は立憲君主制に定められた。革命後も各地で混乱が続き、共和主義者による蜂起も発生したため、新政府にとって新国王の選出は体制安定のための緊急課題となった。
1870年、フランス亡命中のイサベル2世は、息子である後のアルフォンソ12世に王位を譲ったが、スペインのプリムはこれを認めず、スペイン国王の王位継承問題が発生。この継承候補者として、ホーエンツォレルン家の本家筋で宗教改革後もカトリックに留まっていたホーエンツォレルン・ジグマリンゲン家のレオポルトの名前が挙がり、プリムやビスマルクもこれを推薦。これに対しフランスは(かつてのフランス王フランソワ1世の様に)自国がホーエンツォレルン家の王を戴く国家に挟まれることを危惧し、プロイセン王ヴィルヘルム1世に翻意を求めた。ヴィルヘルムはもともと執着なく、レオポルト自身気乗りがしていなかったこともあってプロイセン側が折れ、7月12日にレオポルトは正式に王位を辞退した。このプロイセンの譲歩によって事態は平和的に解決したかに見えた。
しかし、あくまでも干渉の権利を有すると信じるフランスは、レオポルトの王位辞退だけでは満足できず、将来に渡ってスペインの王位候補者をホーエンツォレルン家から出さないとの約束をヴィルヘルム1世に求めるため、1870年7月13日、ドイツ西部の温泉地バート・エムスで静養中のヴィルヘルム1世に大使を派遣した。同地を訪ねたフランス大使ヴァンサン・ベネデッティ伯爵は国王に会見を求めたが、既に王位辞退という形で譲歩を行っていた国王は無礼な要求としてこれを拒否し、ベルリンのビスマルクに事の経緯を打電。
国王から報告の電報を受け取ったビスマルクは、この電報を政治的に利用することを思いつき、電報の一部を意図的に省略、非礼なフランス大使が将来にわたる立候補辞退を強要し、それに立腹した国王が大使を強く追い返したように文面を編集した上で、7月14日に新聞や各国へ向けて公表した。文章の省略によって国王の大使への拒絶は強調され、さらにビスマルクが故意に事実と異なった状況説明を行ったため、かねてからくすぶっていたフランス・プロイセン両国間の敵対心は煽られ、両国の世論は一気に戦争へと傾いた。
なお、翌朝の新聞報道を読んだヴィルヘルム1世自身が「これは戦争だ」と叫んだといわれる。開戦反対の声がまったく無かったわけではなかったが、戦争を求める強い世論に流されるまま、フランスは7月15日に開戦を閣議決定し、7月19日にプロイセンに宣戦を布告。これにより(最終的に皇帝ナポレオン三世が廃位に追い込まれドイツ帝国が建国される)普仏戦争が始まってしまう。その後、ビスマルクの干渉もあったため1878年11月30日に辞任、後任は甥のボート・ツー・オイレンブルクとなる。
1881年、ベルリンで死去。1862年(文久2年)12月、プロイセン王国の初代駐日領事として横浜に着任、ついで北ドイツ連邦総領事、1868年(明治元年)にはプロイセン王国代理公使、1872年(明治5年)に駐日ドイツ帝国全権公使となった。1875年(明治8年)、清国大使となり、離日した。
駐日ドイツ大使 - Wikipedia
- 明治3年(1870年)、尾張藩主だった徳川慶勝は新政府に対して、名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出た。金鯱は鋳潰して、明治になり職を失った武士の帰農手当や城地の整備費用に充当する予定であった。しかし、マックス・フォン・ブラントと陸軍第四局長代理の中村重遠工兵大佐の訴えにより、明治12年(1879年)12月、陸軍卿・山縣有朋が名古屋城と姫路城の城郭の保存を決定。この時、天守は本丸御殿とともに保存された。
1882年、朝鮮と通商修好条約を締結。東アジアに通じ、知日派と知られ、現地でその歴史や文化を深く学んだ。その知識や飾らない人柄により、北京の外交界で一目置かれており、各国公使の長老的存在だった。外交官としては欧州各国共通の中国権益保護を主張、ドイツの中国における権益拡大に務め、中国への定期郵船航路開通や1889年の上海市におけるドイツ・アジア銀行設立へと導いた。
その東アジアに関する多数の著書は当時のもっとも優れた民族学的記録でもあった。英語、フランス語にも堪能だった。1893年の引退後はヴァイマルに居住した。東アジア美術の収集家でもあり、ベルリンの博物館に多数の中国美術品をもたらしている。
日清戦争後の下関条約の締結を快く思わないブラントは、1895年4月9日、内謁してヴィルヘルム2世に黄禍論を教唆した。この思想は同月の三国干渉を推進する役割を果たした。
1920年8月24日、ヴァイマルで死去。
最初の妻は1891年に死去したが、彼女との間に生まれた娘ヘレネはベルリンでサロンの主宰者となり、フリードリヒ・フォン・ホルシュタインやレオ・フォン・カプリヴィといった有力な外交官や政治家と親交を結んだ。2番目の妻はアメリカ合衆国駐朝鮮総領事・参事官オーガスティン・ハードの娘ヘレン・マクシマ・ハードであった。この妻との間に娘エリザベートが生まれている。とはいえ、ブラントが横浜から本国の宰相に新発見書簡を発信した日付は1968年11月12日で、すでに会津藩の降伏から6日、庄内藩主が降伏を申し出てから5日経過しており、現実には交渉そのものが意味をなさなくなっていた。
書簡の保管先はベルリンの連邦文書館。五百旗頭教授らが2013年に着手したドイツの史料発掘プロジェクトの中で、国立歴史民俗博物館(千葉県)の福岡万里子准教授が読み解いた。
それによると「シュネル(当時東北にいたプロイセン人の仲介役)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間、担保として与えるとする会津・庄内領主の(シュネルに対する)全権委任状を持ってきた。100平方ドイツマイル(5625平方キロ)の土地を得るのに30万メキシコドルで十分だ」などと書かれているという。*そういえば(アメリカ合衆国が南北戦争(American Civil War、1861年〜1865年)へと突入した隙を突いて始められた)皇帝ナポレオン3世のメキシコ出兵(Segunda intervención francesa en México、1862年〜1867年)を牽引したのも(アメリカ大陸におけるカトリック帝国の発展によるプロテスタントとの勢力均衡、ソルフェリーノの戦いなどで敵対したハプスブルグ君主国との関係を修復すべくオーストリア皇弟フェルディナント・ヨーゼフ・マクシミリアン大公を後援といった大義名分こそあったものの)、結局はメキシコ北西の豊かな鉱山資源目当てだったのではなかったか?
メキシコ出兵(Segunda intervención francesa en México、1862年〜1867年) - Wikipedia幕末期の会津藩の領地は現在のオホーツク、根室管内の一部、庄内藩は留萌、上川管内の一部など。書簡には「会津・庄内藩の蝦夷地の領地に良港はないが、ひとたび足がかりをつかめば他の地の購入が容易になるだろう」ともつづられており、海軍拠点確保に向けた意図が読み取れる。
当時のプロイセンは2年前の1866年に対オーストリア戦争に勝利して北ドイツ連邦の盟主となっており、ドイツ帝国の形成に向かう軍備拡張期だった。(報道センター編集委員 小坂洋右)北海道新聞2016年09月21日号より
アメリカ合衆国への移民ブーム(フロンティア独立宣言(1890年)まで、本国における植民地獲得欲を押し下げ続ける)。
「米禍(American Peril)」、すなわち1870年代以降、世界規模での交通網整備を背景とするアメリカ農業(後にはアメリカ工業)産物の欧州到来は全く予想外の動きを生み出した。アメリカ精肉業界の規模拡大に魅力を感じてハンガリーの牧畜民がアメリカへと移住し始めたのである。
*それまでは南イタリア人同様に欧州列強諸国への出稼ぎが中心だった。絶対王政下のパリに上京して仕立屋になったり、産業革命勃興期のロンドンに上京して工場労働者となってチャーチスト運動に参加したり…1870年時点の米国への移民構成はドイツ移民30%(294万人)、アイルランド移民28%(276万人)、イギリス移民19%(188万人)、スカンジナビア諸国移民4%(35万人)と所謂「旧移民(アメリカへの帰化意識を強く有するプロテスタント中心の集団で、家族で移住してきて開拓農民になる事が多かった)」が全体の86%を占めており、彼らの移住がそのままアメリカの農産物生産力の規模拡大に繋がっていく。ただしこの傾向は1880年代に入ると頭打ちとなった。もはや移住しても開拓可能な土地がなくなってしまったからである(1890年の国勢調査において「フロンティアの消滅」が宣言される)。もちろんこうした流れを1840年代から本格化した全国規模での鉄道網整備が下支えした事は言うまでもない
*この工事の為に大量に中国人労働者が連れてこられ、その一部が都市住民としてスラム街を形成する様になり、後に新移民と衝突する事になる。そして1880年代に入ると米国への移民構成がガラリと変わる。移民の主役がイタリア統一運動の割を食った南イタリア移民、及びアシュケナージ系ユダヤ移民やポーランド移民といった東欧出身者を中心とする所謂「新移民」にバトンタッチするのである(1890年代に旧移民を数で上回り,1907年に128万5349人を記録してアメリカ移民史上最大のピークを迎える)。彼らの大半はカトリック教、ユダヤ教、ギリシア正教徒であり、単身渡米して工場や都市で働く事が多かった(入植可能な土地が枯渇し始めた為に出稼ぎ型の非熟練労働者が増加するのは当然といえる)。彼らは定着意識が弱く、アメリカ社会に同化しようとせず、都市で自国の文化・習慣を維持したので、既に先行して都市住民となっていた中国人移民と激しく衝突・対立を繰り広げた。
*1870 年制定のアメリカ連邦移民・帰化法は「自由なる白人およびアフリカ人ならびにその子孫たる外国人」が帰化可能であるとしていたが、ここでいう「自由なる白人 (free white)」は判例の積み重ねによって次第に「コーカサス人種(Caucasian)」に限定される様になっていく。そしてさらに1882年になると、いわゆる「中国人排斥法」で明示的に中国人移民が禁止される事になった(当初10年間の時限措置だったが後に延長がなされる)。まさしく「剥き出しの資本主義」そのもの?
【ドイツ旧植民地帝国】ドイツ領南西アフリカ(1884年~1918年)
今日のナミビア。国内のタバコ事業で成功を収めたドイツ商人のアドルフ・リュデリッツの土地購買に端を発する。
新たな貿易ルートが約束された北西のカプリビ回廊を1890年にイギリス=ドイツ間のヘルゴランド=ザンジバル条約により獲得して以降拡大した。
「ダイヤモンドや石炭の採掘可能性」そして「農地開墾」という夢があり、ドイツ人が多数移住した唯一のドイツ植民地であったが、現地の抵抗も激しく少なくとも当時の時点では夢は夢のまま終わらざるを得なかったのである(今でもドイツ系住人が多数住んでおり、中には夢を掴むのに成功した人物もいるという)。
1914年8月に第一次世界大戦が勃発すると、イギリス軍と南アフリカ軍が南の国境から侵攻。現地守備隊は1915年7月9日(金)に降伏。ドイツはこの土地を失った。
【ドイツ旧植民地帝国】ドイツ保護領カメルーン(1884年~1918年)
ドイツ領西アフリカの一部。1870年代になるとヨーロッパ内の強国となったドイツからの移民が沿岸部の都市ドゥアラを中心に入植し始めた。1884年にはドイツ保護領カメルーンとなり,1911年に全土を掌握。
後には石油が出たが当時の主な輸出用の農産物は北部の綿花、南西部のコーヒーとカカオなどであった。
1914年8月に第一次世界大戦が勃発した時点でドイツ側で動員できた兵力は守備隊(白人185名、現地人1550名)と警察隊(白人30名、現地人 1200名)のみであり、イギリス軍の侵攻を受けて早くも9月27日(日)にはドゥアラが陥落した。部隊は民間人とともにヤウンデに退くが、 1915年12月29日(水)にはここも放棄し,1916年2月14日(月)に約4万人の現地人とともに南のスペイン領であるリオ・ムニへ脱出する。そして、北部の村モラで最後まで残っていたドイツの守備隊も弾薬不足のため2月18日(金)に降伏し、ドイツはカメルーンを失った。
【ドイツ旧植民地帝国】ドイツ領トーゴ(トーゴラント)(1884年~1918年)
ドイツ領西アフリカの一部。今日のトーゴ及びガーナ東部。
1884年にドイツの探検家グスタフ・ナハティガルによって海岸地域が保護下におかれ,1885年トーゴ全域がドイツ保護領トーゴラントと宣言された。
綿花、コーヒー、ココアなどが栽培されていた。
1914年8月に第一次世界大戦が勃発した時点ではトーゴの守備隊はドイツ人2名、アフリカ人560名、これに商社からの志願兵約100名だけであった。そこでイギリス軍が西から侵攻して8月7日(金)にはロメが陥落し、フランス軍が東から侵攻して8月8日(土)にはアネホが陥落。劣勢の守備隊は8月27日 (木)8時に降伏し、ドイツはトーゴを失ったのだった。
【ドイツ旧植民地帝国】ドイツ領マーシャル諸島(1885年~1918年)
すでに1529年にはスペイン人によって知られていた。メキシコからのスペイン商船がフィリピン等へ行く航路の途中にあったが、その時点では積極的に植民地化されることはなかった。
1788年にイギリスのマーシャルとギルバートが探検し、その後各国の探検家が島にいろいろな名前を付けたが、19世紀に入ると広く「マーシャル諸島」と呼ばれるようになる。
1873年からゴーデフフロイ商会やヘルンスハイム商会などドイツの商人がこの地で活動を始め,1878年にはヤルートのいくつかの部族と契約を結ぶまでになった。そしてドイツは1885年10月15日(木)にこの地を保護領として宣言する。
1914年8月に第一次世界大戦が勃発すると日本軍の侵攻により9月29日(火)にヤルートが占領され、さらにオーストラリア軍の侵攻により11 月6日(金)にナウルが占領され、ドイツはマーシャル諸島を失った。
- 1914年 - 第一次世界大戦において日本が占領。
- 1919年 - 国際連盟からの委任で日本の委任統治領(外地)となる。
- 1920年 - 国際連盟が、日本の委任統治領として承認。
- 1944年 - 「ギルバート・マーシャル諸島の戦い」においてアメリカ軍が占領。
ギルバート・マーシャル諸島の戦い - Wikipedia
- 1947年 - 国際連合は、アメリカ合衆国の信託統治領(太平洋諸島信託統治領)として承認。
- 1954年 - ビキニ環礁において、水爆実験(キャッスル作戦)実施。第五福竜丸事件が発生。
- 1979年 - 憲法を制定し自治政府が発足。アマタ・カブアが政権を掌握する。
- 1982年 - アメリカと自由連合盟約を結び、信託統治領から脱却。
- 1986年 - アメリカとの自由連合盟約国として独立。
- 1990年 - 信託統治が終了。
- 1991年 - 国際連合に加盟。国際社会で独立国家として承認された。しかし、自由連合盟約に抵触しない範囲でしか外交権を行使出来ないという制限が加えられている。
2008年には国際オリンピック委員会に加盟。北京オリンピックでオリンピック初出場を果たした。
【ドイツ旧植民地帝国】ドイツ領ニューギニア(1885年~1918年)
今日のパプアニューギニア北部地域(カイザー・ヴィルヘルムスラント)、ビスマルク諸島、ソ\ロモン諸島北部、ミクロネシア、マーシャル諸島、パラオ、マリアナ諸島、ナウル。
1873年にハンブルクのゴーデフフロイ商会が島を訪れ、マトゥピを拠点に交易を開始。しかし1879年から経営難に陥り1880年にベルリンの銀行家アドルフ・フォン・ハンゼマンが「南洋商事会社」を設立してゴーデフフロイ商会の経営権を引き継ぐ事になる。その後フィンシュ博士やダルマン艦長を派遣して島の北東部の各部族と交渉を行い領有に成功した。そして1884年11月17日(水)に戦艦エリーザベトがマトゥピに寄港し、この地にドイツの旗が掲げられてドイツによる島の北東部の統治が始まったのである。
同時期にイギリスは島の南東部の統治を開始し,1906年からはそれをパプアの一部としてオーストラリアに統治を移管している。
1914年8月の第一次世界大戦勃発後、ドイツ領ニューギニアでは、8月5日(水)22時15分からラバウルでオーストラリア軍との戦闘が開始され、ヘルベルトヘーエが9月11日(金)、ラバウルが9月12日(土)に占領された。これを皮切りに各地が次々と占領され、ドイツはニューギニアを失う事になる。
【ドイツ旧植民地帝国】ドイツ領東アフリカ(1885年~1918年)
1884年頃、探検家でドイツ植民協会の創設者カール・ペータースがザンジバルから海を隔てたアフリカ大陸東部に入り、原住民の首長らと「ドイツの保護を求める」契約を結ぶ事で獲得された。
*(赤の部分)今日のタンザニアの大陸部分(タンガニーカ)、ルワンダ、ブルンジ。
現地労働力を用いて40,000ヘクタール以上に渡るサイザル麻畑、大規模な綿花のプランテーション、2百万本のコーヒーの木と80,000ヘクタールに渡るゴムの木の栽培を主な収入源としたが、決して祖国のために利益を上げる事はなく最後まで本国財務省からの継続的助成金を必要とした。
1914年8月に第一次世界大戦が勃発すると、軍総指令官のレトゥ-フォルベック(Lettow-Vorbeck)は、現地人も含めた混成部隊でイギリス軍と戦闘を交えた。しかし1916年には南ア軍を主力とする90000人の軍が領内を侵攻してきた上に、コンゴからもベルギー軍が侵攻してくる。この為に南への退却を余儀なくされて、この時点で植民地の大部分がイギリス軍とベルギー軍の手に落ち、事実上ドイツ領東アフリカは消滅した。
ただしドイツ軍として1500名程(内ドイツ人 300人、他は現地人)の兵力が残っていので1917年11月にモザンビークに入り、北ローデシアへ攻め込むなど抵抗を続けた。武装解除させられたのは大戦終結後の1918年11月25日であった。
【ドイツ旧植民地帝国】ドイツ領ヴィトゥ(Deutsch-Witu、1885年~1890年)
今日のケニアの一部。探検家カール・ペータースのアフリカ大陸東部での植民地拡大運動の一環として獲得された。
ヘルゴランド=ザンジバル条約(1890年)によりイギリス領になる。
【ヴィルヘルム2世即位以降の植民地】これで「とにかく植民地さえ獲得すれば儲かる」という素人考えが通用しないと学んだなら良かったのだが、ビスマルク引退後のドイツは「陽の当たる場所」の獲得に執着するあまり、ビスマルクが最も恐れていた「ドイツの国際的孤立」という状況を生み出すに至ってしまう。
ドイツ領膠州湾(1898年~1918年)*強奪の末、義和団の乱を誘発
今日の青島。 日清戦争に勝利した日本への遼東半島の割譲を三国干渉で食い止めた後で1897年に宣教師殺害を理由に膠州湾を占領。翌年に99年間の租借契約締結に成功した。
ここでの宣教師と現地住民のトラブルが「義和団の乱(1900年)」を勃発させ、ロシア軍に満州進駐の口実を与え、最終的に日露戦争を勃発させる事になる。
第一次世界大戦開戦直後、日本はドイツに対し、膠州湾租借地を中国に返還するよう最後通牒を発した。その最終期限の1914 年8月23日、日本は対独宣戦布告した(日独戦争)。
バウムクーヘン - Wikipediaドイツ東洋艦隊は湾の閉塞を恐れドイツ本国へ回航しようとしたが(開戦時には主力は既に青島から脱出していた)、南米のフォークランド沖海戦で敗北する。9月、山東半島に上陸した日本軍は膠州湾を目指し陸路ドイツ軍との戦闘を続け、湾の内外でも艦船同士の戦いがあった。10月31日からの青島の戦いの結果,1914年11月7日には膠州湾は日本軍占領下に入る事になる。
この後、日本政府は中国政府に対華21ヶ条要求を行い、山東省の権益を引き継いだ。1917年10月までは青島守備軍司令部が軍政を敷き、その後は民政長官が行政を行ったが、この間にドイツ風の街路や周囲の地名が全て日本語名に替えられた。
神尾光臣、由比光衛らが青島守備軍司令官を歴任したが、それなりに成功を収めたドイツ支配に対し、中国人を見下す傾向の多い日本人や日本軍軍政は中国人から冷たい目で見られ続ける事になる。そして1919年パリ講和会議での日本の山東権益の承認に対し、中国の民衆や学生は強く反発した(特に五四運動)。
高まる国際的圧力の中、日本は山東省権益などを放棄することを決定し,1922年12月10日には中国政府に膠州湾を返還している(山東還附)。以降膠州湾地区は中央政府直轄の特別地区・膠澳商埠となった。
この時期の山東省には2万人の日本人居留民が住んでいたが、この後も日本軍は1927年から1928 年にかけて山東出兵を行い,1937年から1945 年にかけても青島を占領統治下に置いていた。
ドイツ領カロリン諸島(1899年~1918年)*概ね悪名を残す
主島はパラオ・ヤップ・チューク(トラック)・ポンペイ(ポナペ)・コスラエ(クサイエ)。
1525年から1529年の間にポルトガルとスペインの艦隊が現在の西カロリン諸島を発見してその存在が知れ渡るようになった。1686年にはスペイン王の名前にちなんで「カロリン諸島」と命名される。その後、スペインの宣教師たちが布教を行ったが効果がなく、やがてスペインはこの地を統治する興味を失っていく。
19世紀初めからははポンペイ(ポナペ)が、捕鯨船や商船の補給地として用いられる様になり、ヨーロッパやアメリカの船が数多く寄港する様になった。1830年代前半には年間5隻程度の来訪だったのが,1855年には年間100隻を超えているその一方で船員がもたらした伝染病のせいで1820年代には10,000人を超えていた人口が1850年代後半には約2,000人まで減少した。
1860年頃にハンブルクのゴーデフフロイ商会が東カロリン諸島から西カロリン諸島、パラオ諸島へと調査を拡大していたが、やがてゴーデフフロイ商会が経営難に陥ると、ハンブルクのヤルート会社が引き継ぎいだ。その後1885年8月24日(月)に砲艦イルティスがヤップに寄港してドイツの旗を掲げ、カロリン諸島の領有を宣言する。
これにスペインが反発したのでビスマルクは教皇レオ13世に仲裁を依頼。その結果、スペインに対しては歴史的に見てスペインの植民地であること、ドイツに対してはドイツ人商人の通商と漁業の自由とポナペおよびヤップに船舶用の石炭補給基地を設置する権利が認められた。
その後,1898年にスペインがアメリカとの戦争に敗北すると、ドイツはカロリン諸島をはじめとしてスペインの南洋諸島の権利を買い取るため1899年2月8日(水)にスペインと条約を結び、ドイツからスペインへ2500万ペセタ(1675万マルク)が支払われる。6月18日(日)にカロリン諸島がニューギニア保護領の一部として扱う法律がドイツで制定された後、10月12日(木)にポナペで、11月3日(金)にヤップでそれぞれドイツの旗が掲げられ、ここにドイツによるカロリン諸島の統治が始まった。
パラオではココナッツ、タピオカ栽培、アンガウルにおけるリン鉱石採掘などの産業振興を行った。しかし、他のドイツの植民地と同様に、道路や水道などのインフラストラクチャーの整備や現地人への教育はほとんど行われなかった。
またポナペ(この名前自体ドイツ占領時代に付けられたものである)では当初コプラ産業の振興等、経済発展を視野に入れた懐柔政策が進められたが、次第に伝統への介入・否定や、インフラ整備のための強制労働の法制化等など締め付けの厳しいものになっていき,1910年10月から翌1911年2月まで「ソケースの乱」と呼ばれる大反乱が起こった。
1914年8月に第一次世界大戦が勃発するとオーストラリア軍が9月26日(土)にアンガウルを攻撃、その後日本軍の侵攻により10月7日(水) にヤップとポナペ、8日にパラオ、11日にトラック、12日にアンガウルが占領されてドイツはカロリン諸島を失う。
1920年に日本の委任統治領となった。ボナペでは農業、漁業を中心とする殖産興業が推進され、さらに1922年に南洋庁支庁が設置されると日本からの移民も多数入植した。1945年の終戦時点では13,000人を超す日本人が居住していたが、これはパラオ、サイパンに次ぐ三番目の規模である。
マリアナ諸島は、グアム、サイパン、テニアン、ロタなど18の島からなる。1521年にマゼラン(マガリャネス)がグアムを発見して島々の存在が知られるようになり,1565年にスペインが領有を宣言した。
1668年からスペインのイエズス会がグアムで強圧的な布教を行い、これに反発した部族の反乱を30年がかりで制圧。武力介入と病気の蔓延で5万人いた人口が4000人に激減したとされる。
1898年にスペインがアメリカとの戦争に敗北すると、最大の島であるグアムはアメリカに、他はドイツにカロリン諸島等とともに 2500万ペセタ(1675万マルク)で売却された。1899年6月18日(日)にマリアナ諸島がニューギニア保護領の一部として扱う法律がドイツで制定された後、11月17日(金)にサイパンにドイツの旗が掲げられ、ここにドイツによるマリアナ諸島の統治が始まる。しかしドイツは開拓を放棄して流刑地として使っていただけだった。
1914 年7月、第一次世界大戦が勃発し、10月14日には連合国側であった日本が赤道以北の南洋諸島全体を占領した。この事に伴い、日本国内では彩帆島と呼称される事となる。1920年には国際連盟の委任統治領となり、同島には南洋庁サイパン支庁が置かれ、サイパン島は内地から南洋への玄関口として栄えた。
1943 年8月の時点での人口は日本人(植民地の台湾人、朝鮮民族含む)29,348人、チャモロ人、カナカ人3,926人、外国人11人となっていた。
ドイツ領サモア(1899年~1918年)*恫喝の末、ゴミの様な土地を獲得
1889年3月、ドイツ海軍の軍艦がサモアを襲撃し、アメリカ人の居留地や資産を破壊した。
アメリカの3隻の軍艦がサモアに入港し、3隻のドイツ艦に対する戦闘の準備をしたが戦闘開始前にアメリカの船もドイツの船も台風で沈んでしまい、戦力を失った両軍はドイツが西サモアを領有し、アメリカが東サモア(現在の米領サモア)を領有する休戦条約を結ばざるを得なくなったのだった。
実は西サモアは当初からマウ運動と呼ばれる反植民地運動が盛んでな場所で、アメリカも手を焼いていたのだった。
ちなみに今日こそ鮪の缶詰工場が大収益を上げているが、当時は自給自足の島民が暮らすだけの本当に何もない場所だった。捕鯨船の寄港地として賑わった時代もとっくの昔に終わっていたからである。
1914年8月に第一次世界大戦が勃発すると、8月29日(土)にニュージーランド軍がイギリス軍、フランス軍、オーストラリア軍の援護を受けてドイツ領のサモアに侵攻し、ドイツからサモアを奪った。
そして遂にはモロッコ事件(1905年、1911年)を起こし、フランス領コンゴの一部を得た代償にフランスを完全に敵に回してしまった訳です。
それにしても欧州史って、本当に「(イタリア戦争以来の神聖ローマ帝国皇統ハプスブルグ家とフランス王統ブルボン家の対峙に終止符を打った)外交革命(1756年)」成立と「台風の目玉」プロイセン王国の(主に大義名分と軍資金不足による)沈静化によって天下泰平が実現したフランス革命前夜といい、英仏露三国協商(および日英同盟)によって紛争範囲が「(ボスポラス海峡とダーダネルス海峡によって区切られた)ヨーロッパとアジアの境界線で遂行される紛争(汎スラブ主義を標榜する帝政ロシアと、汎ゲルマン主義を掲げてこれに対抗したドイツ帝国とオーストリア帝国、および汎スラブ主義に反対する立場から後者に加わったオスマン帝国の対峙)」に封じ込められて世界中の大半の地域に平和が訪れた第一次世界大戦前夜といい「戦争の種が尽きると、それまで対応が後手後手に回されてきた国内問題などが次々と破綻して大戦に発展してしまう」印象が強いです。まさか「EUの成立と解体」もそうしたサイクルの一環だったりして。そういうえば近世以降の欧州史(主権国家関係史)はこうも要約可能な訳でして…
- 【グレート・ゲーム時代の大源流】「(スェーデン王国とフランス絶対王政が漁夫の利を勝ち取った)ヴェストファーレン体制(Westphalian sovereignty、17世紀〜18世紀)」にはイングランドと帝政ロシアが参加していなかった。
*帝政ロシアはスェーデン王国から「バルト海の覇者」の称号を奪取する形で台頭してきたし、イングランドは(オランダとの同君統治状態を選択した)名誉革命を契機に「主権国家としてより強固な状態」へと移行する。
- 【アメリカ独立戦争とフランス革命 / ナポレオン戦争の大源流】「(大英帝国とプロイセン王国の同盟をフランス絶対王政とハプスブルグ君主国と帝政ロシアが囲むも大国間の利害不一致でグダグダに終わった)プロイセン包囲網(「3枚のペチコート」時代、18世紀)」成立時点においては、アメリカ合衆国はまだ独立していなかった。
*というよりアメリカ独立戦争は大英帝国が勝ち過ぎて北米植民地における大英帝国とフランスと植民地人の鼎立関係が崩れたせいで起こり、フランス革命は欧州における大国間の衝突が消失したから起こったとも見て取れるという話。 - 【全体主義時代の大源流】フランス革命とナポレオン戦争を総括した「(大英帝国とハプスブルグ君主国が事実上の政治的勝利を飾った)ウィーン会議体制」成立時点ではまだ(第一次世界大戦の遠因の一つとなった欧州内最重要投資先の一つとなる)ベルギー王国も(後にファシズム発祥国となる)イタリア王国も(やがてヒトラー率いるナチス・ドイツが欧州中を席巻する展開を迎える)ドイツ帝国も独立していなかった。
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【冷戦時代の大源流】三国協商+2(英仏露+日伊)と三帝同盟(独墺土)が対峙する図式からはアメリカが意図的に排除されていたが、結局2つの大戦で漁夫の利を得たのはどちらもアメリカだった。そして第一次世界大戦敗戦によって(新勝者アメリカの意向もあって)ドイツ帝国とハプスブルグ君主国とオスマン帝国が解体されると、帝政ロシアの後継国たるソビエト連邦が不気味な影響力の高まりを見せ始める。
三国同盟 (1882年) - Wikipedia
どうやら「眠り姫」においてマレフィセントが果たした役割の様に、常に「宴会に間に合わなかった(あるいはあえて招待状が届けられなかった)新参者(あるいは宴会参加者共通の敵)が次の時代を搔きまわす」展開が繰り返されてきたとも?
おっと、中華人民共和国がアップを始めた様だ?