諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【欧州封建制】【英仏第二次百年戦争】議会民主制はロマネスク時代の直系?

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最近国際的に「ヨーマン民主主義」という表現をあまり見掛けなくなりました。
ジェファーソン流民主主義 - Wikipedia
ジェファーソニアン・デモクラシーとは - コトバンク

代わって台頭しつつあるのが「バイキング時代のハスカール従士制こそ英国議会制民主主義の大源流」なる考え方。

そして(革命が勃発してしまった)フランスと異なり、イングランドではかかるアンシャン・レジームのジェントリー制への接ぎ穂が実にスムースに進行したのです。

そして、こうした展開の延長線上において「大英帝国が世界中の制海権を手中に収める」流れが急浮上してきたという話…

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第2次百年戦争(英Second Hundred Years' War、仏Seconde guerre de Cent Ans, 1689年〜1815年) - Wikipedia

ヨーロッパ内の国境紛争と王位継承、主に北アメリカ大陸を舞台として南アジア・アフリカをふくむ海外植民地の争奪、そして、それらに起因するアメリカの独立・フランス革命ナポレオン帝国を背景にイギリス(イングランド)とフランスの間で繰り広げられた一連の戦争の総称である。英国人歴史家ジョン・ロバート・シーリーが「英国膨張史1883年)」の中で名づけたのが始まりとされる。一連の戦争の結果、イギリスが優位に立ち、後世「パクス・ブリタニカ概ね1815年のナポレオン戦争終結から1899年のボーア戦争のはじまりまでの約80年間を指す)」と呼ばれる繁栄の時代の基礎が築かれた。「長い18世紀」と称されることもある。

承前主権国家黎明期、14世紀〜17世紀

常備軍を中央集権的官僚制の徴税によって養う主権国家は、イギリスやフランスの様に対等なライバルと隣接していないと発達上、色々と障害を抱える事になるのかもしれない。第一次百年戦争英Hundred Years' War、仏Guerre de Cent Ans、1337年/1339年〜1453年)によって分離と主権国家化が始まった両国の様に「既得権益護持と地方分権状態存続を望む大貴族連合の自滅英国における薔薇戦争(1455年〜1485年 / 1487年)、フランスにおける公益同盟戦争(1465年~1483年)とフロンドの乱(Fronde, 1648年〜 1653年))」と「政教分離英国における国教会創建、フランスににおけるガリカニスム(Gallicanisme)運動)」がきっちり遂行されるケースはむしろ希であり、それでスペイン王国神聖ローマ帝国帝政ロシアといった大国が(特に内政面での実践に手間取って)衰退を余儀なくされていく。しかもこれらの国々が敗北を認め消滅していくのは第一次世界大戦1914年〜1918年)敗戦後であり、それまでは「(成り上がり者の自画自賛に過ぎない主権国家と異なり我々こそが由緒ある正当な政体である」と主張し続けた。

ファルツ継承戦争1688年~1697年)/ ウィリアム王戦争1689年~1697年

イングランドでは名誉革命の直後、ウィリアム3世支持派(ウィリアマイト)とジェームズ2世支持派(ジャコバイト)のあいだでウィリアマイト戦争が起こり、ルイ14世を戴くフランスはジャコバイト支持のかたちで介入、アイルランドなどが戦場となった。それに対しウィリアム3世神聖ローマ皇帝などによる反フランス同盟(アウクスブルク同盟)の側に立ち、ルイ14世の膨張政策に対抗。

ボイン川の戦い

内政においてウィリアム王は、即位後の数年はホイッグ、トーリーの両党から大臣をとっていたが、1694年には反仏的なホイッグ党からのみ大臣をとるよう転換した。これには、フランスとの戦争を効率的に進めようというねらいがあったとされる。また、ウィリアム3世アイルランド遠征や対仏戦争のための戦費が膨張し、財政難に陥ったため、それを補うためにイングランド銀行の創設を認める特許をあたえた。

イングランドは1692年のバルフルール岬とラ・オーグの海戦において優勢だったフランス艦隊を破り、英仏海峡での制海権を得た。1697年にライスワイクの和議が成立し、フランスはストラスブールサン・ドマング現在のハイチ)を獲得、南インドのポンディシェリとカナダのノヴァスコシアアカディア)を回復した。スペインはフランスに占領されたカタルーニャルクセンブルクほかを回復し、長くフランス支配下にあったロレーヌ公国神聖ローマ帝国領となった。イングランドは領土的に得たものはないが、ウィリアム3世イングランド王として認められ、今後ルイ14世ジェームズ2世およびジャコバイトを支持しないことを約束した。また、スウェーデンは、プファルツ家の継承地プファルツ=ツヴァイブリュッケン公国をフランスより主権奪回した。そして以降、イングランドは数年間に渡って平穏な状態を保つ。

スペイン継承戦争1701年~1713年)/ アン女王戦争1702年~1713年) 

1700年にスペイン王カルロス2世が子のいないまま死去したことで、イギリスは深刻な状況に陥った。ルイ14世の孫であるアンジュー公フィリップがフェリペ5世として16歳でスペイン王位につくことになったからである。フランス・スペインの両大国が合同することは、両国艦隊によりイングランド艦隊が圧倒され、両国植民地によってイングランド植民地が包囲されて西欧の勢力均衡がくずれ、それまでイングランドに対し開かれていたスペイン領アメリカ植民地が閉鎖的になることを意味していた。

1701年、スペイン継承戦争がはじまり、ウィリアム3世ルイ14世の攻勢をおさえるため、オランダ・オーストリアとの三国同盟を組織した。1702年、ウィリアム3世が没してアン女王が即位すると、イングランドの支配層はこれを機にスコットランド併合を進める政策を推進した。スコットランド国民の多くは反発し、イングランド国内からも反対論があったにもかかわらず、この政策が推し進められたのは、イングランドがフランスとスコットランドとの同盟によって両者に挟撃されることを怖れたためであった。戦争のさなかの1707年、イングランド議会とスコットランド議会が合同してグレートブリテン王国が成立した。

この戦争にはルイ14世も苦しみ、かれによって何度も和平提案がなされたが、ホイッグ党はその都度これを拒否。トーリー政権の成立によってようやくユトレヒト条約1713年)・ラシュタット条約(1714年)が成り、スペインとフランスが合同しないことを条件にフェリペ5世のスペイン王位継承が承認されてブルボン朝スペイン王国が成立した。スペインはジブラルタルとメノルカ島をイギリスに、ミラノ公国ナポリ王国サルデーニャ・南ネーデルラントオーストリアにそれぞれ割譲し、フランスはアカディアハドソン湾地方・ニューファンドランド島などの北米植民地をイギリスへ譲渡。ブルボン家としては、王冠ひとつを得るために数多くの領土を失う結果になった。ユトレヒト条約ではまた、イギリスがスペイン植民地に対する奴隷貿易独占権を獲得。すなわち、イギリスは年間4,800名の黒人奴隷を30年間スペイン植民地に輸出しうるとしたのである。これは莫大な利潤を得てリヴァプールマンチェスターに資本が蓄積されるもととなった。そしてまた、奴隷貿易の許可は事実上他の商品の貿易の許可をも意味しており、以後、30年にわたってイギリスの貿易は5割も増えつづけた。北米や西インド諸島の開拓もすすんで砂糖のほか材木、タバコ、コメの生産が激増し、これによりインドで獲得した富がイギリス社会に流れ込んで「インド成金ネイボブ)」の発言力が大きくなった。

ウォルポールの平和1713年〜1739年) / ジェンキンスの耳の戦争英War of Jenkins' Ear、西Guerra de la oreja de Jenkins、1739年

ウィリアム3世以来、主としてホイッグが中心となって進めてきた反仏政策であったが、すぐれた財政家であり、南海泡沫事件の処理による功績で第一大蔵卿(事実上の首相)となったホイッグ党ロバート・ウォルポールは、「国民的重商主義」の見地から戦争は貿易の障害になるとして平和外交をおしすすめた。これは「長い18世紀」のなかでは例外的なことであったが、その執政中にあっても戦争の危機は存在していた。イギリスのジブラルタル領有に不満なスペインはオーストリアハプスブルク君主国)と結び、1726年、ジブラルタルを奪回すべくこれを包囲。それに対し、ウォルポールはスペイン領西インドに艦隊を派遣したが、けっして相手を攻撃しないという条件が付けられていた。ウォルポールはまた1733年に勃発したポーランド継承戦争にも参戦しなかった。
*海外識者と異なり、英国歴史家自身は別に当時の平和主義を理想視してなどいない。これはただ単に当時政権を担った「ホイッグ党穏便派」の支持基盤がカリブ海の砂糖農園不在地主であり、彼らが(そこに領土を有する英国王と異なり)大陸内での紛争に関心を持てなかったから起こった事なのである。彼らは政権を(「インド成金」を支持基盤等する)

このようにウォルポールは戦争を回避しようと努力していたが、イギリス商人がユトレヒト条約の契約(アシエント)に違反したためスペインが捜査権を行使してイギリス船舶と積荷を没収したところから、再び戦争の危機が訪れた。平和的な外交交渉によって問題解決をはかろうとするウォルポールに対し、トーリー党はもちろんホイッグ党の一部も反発し、ウォルポール派は多数派を維持できなくなった。1738年、スペイン船に拿捕された際に虐待を受け、耳を切り取られたとしてレベッカ号のジェンキンス船長が自身の耳の塩漬けを議会に示した。これは一大センセーションをまきおこし、ウォルポールも議会の主戦論におされて1739年、スペインに対して宣戦を布告した(ジェンキンスの耳の戦争)。この戦争はオーストリア継承戦争につながり、「ウォルポールの平和」は終焉をむかえる。

オーストリア継承戦争1740年~1748年)/ ジョージ王戦争1744年~1748年)/ 第1次カーナティック戦争1744年~1748年

オーストリア継承戦争は、オーストリアマリア・テレジアの帝位継承を機にプロイセン・フランス・スペインが一斉にハプスブルク領に襲いかかったことから始まったが、イギリスは、オーストリアネーデルラントがフランスの手に陥ることは本土防衛を脅かすことにつながり、また、プロイセンの強大化は国王ジョージ2世の故郷ハノーファー公国の危機でもあるとしてマリア・テレジアに与力した。ジョージ2世はみずから軍勢を率いて大陸に遠征し、1743年のデッティンゲンの戦いでは仏軍を破ったが、同年スペインがイギリス南海会社のもつ貿易独占権を破棄して、これをフランスにあたえたため正式な宣戦布告がなされるに至った。1745年、ネーデルラントがフランスの手に帰し、さらに同年チャールズ・エドワード・ステュアートがフランスの助力のもとスコットランドに上陸してジャコバイトと合流し、手薄になったイギリス政府軍を破る事態となった。1746年、カロデンの戦いでイギリスはこれを撃退し、チャールズをフランスに追い返した。

北米では、この戦いはジョージ王戦争と称されたが、イギリスのニューイングランド植民地軍がカナダ東部ケープ・ブレトン島の要衝ルイスバーグ要塞を陥落させている。いっぽうムガル朝インドでは、カーナティック戦争カルナータカ戦争)が英領マドラスと仏領インドの首都ポンディシェリとの間で3次にわたって繰り広げられた。第1次戦争(1744年〜1748年)では、インド総督ジョゼフ・フランソワ・デュプレクスのもとでフランス側が優勢で、イギリスはマドラスフランス軍に奪われている。

やがてアーヘンの和約(1748年)が成り、それによってオーストリアプロイセンにシュレージエン地方を、スペインにパルマピアチェンツァを割譲、各国はマリア・テレジアの相続人としての所領の不可分を定めた国事勅令を確認、さらにハノーヴァー朝がフランスより承認を受けた。北米では、陥落させたルイズバーグ要塞をマドラスと引き替えに返還することとなり、せっかくの植民地軍の奮闘もイギリス本国の国益のために無視された格好となった。また、4年の期限で貿易独占権を回復。

なおカーナティック戦争は第2次(1749年〜1754年)、第3次(1758年〜1763年)ともに南インド東海岸の貿易拠点と荷物の集散地をめぐって争われ、オーストリア継承戦争後も続いた。北米でも英仏両勢力の抗争はつづいていた。

七年戦争1756年~1763年)/ フレンチ・インディアン戦争1755年~1763年) / プラッシーの戦い1757年) 

マリア・テレジアはシュレージエンの奪回を企図して外交革命(独Umkehrung der Allianzen, 仏Révolution diplomatique, 英Diplomatic Revolution、1756年)を遂行。それはイタリア戦争(伊Guerre d'Italia、仏Guerres d'Italie、ハプスブルク・ヴァロワ戦争(英Habsburg–Valois Wars)、1494年 〜1559年)以来のフランス王統ブルボン家神聖ローマ帝国皇統ハスプブルグ家の宿縁に終止符を打った。

かかる(フリードリヒ2世のプロイセンに対抗する為のブルボン家ハプスブルク家の防御同盟に対抗すべくイギリスはプロイセンと同盟を結んだが、同年発生した七年戦争においては緒戦(地中海西部のバレアレス海に位置する)メノルカ島をフランスに奪われ、北米でもオンタリオ湖沿岸のオスウィーゴ砦の戦いで英軍要塞が奪われるなど振るわなかった。

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当時のイギリスの政権を担当したのは内政には詳しいものの外交に疎い初代ニューカッスル公であった。1756年、ニューカッスル公が議会の攻撃を受けて辞任し、デヴォンシャー公が代わって大蔵総裁になると、いわゆる「インド成金」の後裔で、後世「帝国の地図をいつも頭にもっていた唯一の政治家」とも評されるウィリアム・ピット(大ピット)が台頭し、国務大臣として実質的な首相の役割をになった。大ピットはイギリスをヨーロッパの一国として考えるのではなく世界政策的にとらえ、ウォルポールの平和外交を批判して台頭した人物である。大ピットの意見は、すべてにおいてハノーヴァーを軸に考える国王ジョージ2世とあわず、そのことが原因でいったん職を退いたものの、ピット以外に適任がおらず、ニューカッスル公との連立内閣を成立させてみずからは戦争指導をおこなった。大ピットは欧州戦線ではフリードリヒ2世に資金を提供して少数の兵を派遣するにとどめ、北米・インドのフランス勢力を掃討することに主眼をおいたが、その成果はおおいにあがった。北米戦線(フレンチ・インディアン戦争)は欧州の七年戦争に先んじて戦闘がはじまっていたが、1758年ルイスバーグ、デュケーヌ(デュケイン)要塞、1759年ケベック、1760年モントリオールを次々に陥落させ、大ピットの支援を受けたイギリスの北米13植民地軍がインディアンと連合したフランス勢力に勝利した。

こうした一連の戦いの和議となったパリ条約(1763年)やフベルトゥスブルク条約(1763年)では、欧州においてのシュレージエンのプロイセン領有を再確認するにとどまった。北米大陸では、カナダおよびミシシッピ川以東のルイジアナがフランスからイギリスへ、フロリダがスペインからイギリスへ割譲された。なお、ミシシッピ川以西のルイジアナはフランスからスペインに割譲されている。ここに、フランスは北米植民地のほとんどを失うこととなった。
*フランスから東西ルイジアナを獲得したイギリスは穀物の輸出地として必要なスペイン領フロリダと西ルイジアナを交換。アメリカ独立戦争後の1783年にフロリダはスペインに返還され、西ルイジアナ1800年にナポレオン率いるフランスが奪回したが、アメリカ合衆国が西ルイジアナをフランスから(1803年)、フロリダをスペインから(1819年)それぞれ購入する展開を迎える。

インドでも、フランスのインド提督デュプレクスの召還後にイギリス東インド会社書記ロバート・クライブ率いる英軍が、フランス・ベンガル土侯連合軍を撃破してイギリスのインドでの覇権が確立した。東インド会社は設立当初から1640年頃までは貿易がおもな業務であったが、やがて植民、さらに武力による領土獲得を主とするようになり、1680年代になると徴兵権、士官任命権、土侯に対する宣戦・交戦権を獲得。そしてプラッシーの戦い1757年)以降は明らかにインド人に対する統治機関へと変貌を遂げ1764年のブクサールの戦いでベンガル地方を制圧し、1765年のアラハバード条約によってイギリス東インド会社ベンガル・ビハール・オリッサの地租徴収権を獲得した(徴税権を与えたムガル皇帝は、その代償としてイギリス政府から年金を受けることになる)。1774年には初代ベンガル総督としてヘースティングスを赴任させて首市をカルカッタに置いた。さらに、4次にわたるマイソール戦争(1767年~1799年)は南インドの、3次にわたるマラータ戦争(1775年〜1818年)は中部インドデカン高原の植民地化を推し進めるものであった。

*一方、インドからの撤退を余儀なくされたフランスはアジアではインドシナへの転進を図る。1775年フランス人宣教師ピニョーがコーチシナに上陸、1802年にはピニョーの援助により阮福暎がユエを都として阮朝越南国を建国した。

アフリカ大陸西部のセネガルもイギリスがフランスより奴隷供給地として獲得したが、アメリカ独立戦争後にフランスに返還(1783年)割譲されている。

イギリスはこの戦争でカリブ海マルティニークグアドループをフランスより一時的に獲得しているが、両島は安価な砂糖を供給するところから、同じ砂糖生産地のジャマイカなどのプランターがその領有によって砂糖価格が下がることを心配し、国会議員を動かして両島を放棄することとなった。それと引き替えに得たのがカナダであったが、当時カナダは広大ではあるものの、雪に覆われた、経済的にはうま味の少ない荒地と考えられていたのである。

イギルスはユトレヒト条約1713年)によって地中海航行の中継地としてジブラルタルとメノルカ島もスペインから獲得したが、メノルカ島は、アメリカ独立戦争後(1783年)にスペインに返還。ジブラルタルは現在もイギリス領。

マヨネーズ仏Mayonnaise=マヨン風ソース?)」の語源には諸説ある。

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ヨーロッパ全体に広まるにつれ様々な油が利用される様ようになっていったが、地中海沿岸発祥らしく当初はオリーブ油を使うのが正統とされた。オランデーズ(仏Hollandaise =オランダ風ソース?)が当初からバターを使うのが正統とされてきた様に。こうした歴史的な油脂の使い分けが起源の一つ。

またメノルカ島のマオンやマヨルカ島など地名由来とする説もある。それに拠れば18世紀半ばに(小説「三銃士」における悪役として著名なイタリア人枢機卿)フランス宰相リシュリューの甥の息子ルイ・フランソワ・アルマン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ(Louis Francois Armand de Vignerot du Plessis、 duc de Richelieu:1696年~1788年:ブルボン朝のフランス王ルイ14世ルイ15世ルイ16世の3代に仕える)が七年戦争1756年~1763年)期間中に行われた英国からのメノルカ島奪還作戦(1756年)の最中に名付けたとされる。この説によれば現地で指揮をとっていたリシュリュー公爵が港町マオンの料理屋で肉に添えられたソースが気に入り、後にパリで「マオンのソース」として紹介したのが広まった最初という事になる。
ナポレオン戦争時代を舞台とする帆船ロマン小説であるセシル・スコット・フォレスターホーンブロワー(Horatio Hornblower)シリーズ(1948年〜1967年)」にも、英国人将校付きの料理人がマヨネーズを作って貴族趣味と罵られる一方でフランスの密偵と疑われ、逃亡を余儀なくされるエピソードが存在する。

*ちなみに(本来は叩き上げの)ホーンブロワー(Horatio Hornblower)のもう一つの「貴族趣味」は「シャワーを浴びる習慣」とされる。

かくして17世紀の三十年戦争Dreißigjähriger Krieg、1618年〜1648年)において樹立された「(国際協調機構としてのヴェストファーレン体制」は18世紀中葉には完全に瓦解したのです。ただし、主権国家間の均衡構築体制としてのそれは姿を変えながらも今日まで続いていたりします。

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 アメリカ独立戦争American War of Independence、1775年〜1783年) /  フランス革命1789年〜1799年) /  ナポレオン戦争仏Guerres napoléoniennes、英Napoleonic Wars、独Napoleonische Kriege、1796年〜1815年

18世紀後半は皮肉な時代で「フレンチ・インディアン戦争French and Indian War、1755年〜1763年)」によって北米大陸から(それまで英国と勢力争いを繰り返してきた)フランスの影響力が消失すると植民地13州が英国からの独立を志向して「アメリカ独立戦争American War of Independence、1775年〜1783年)」を起こし、「外交革命独Umkehrung der Allianzen, 仏Révolution diplomatique, 英Diplomatic Revolution、1756年)」によって17世紀以来敵対関係にあったフランス王統ブルボン家神聖ローマ帝国皇統ハプスブルク家が和睦して双方の宿敵たるプロイセン王国を沈静化させると戦争の種が尽きてフランス国民の不満が一人勝ち状態のフランス国王にのみ向かう様になって「フランス革命1789年〜1799年)」が勃発してしまう。

アメリカ独立戦争1777年のサラトガの戦いに13植民地が勝利すると、イギリスとの植民地戦争に敗れたフランス・スペイン・オランダが相次いでイギリスに宣戦布告し、独立側に立って参戦した。さらにロシアのエカチェリーナ2世の提唱する武装中立同盟が、ロシア・プロイセンポルトガルスウェーデンデンマークによって結成され、イギリスは国際的に孤立していき、最終的には1783年のパリ条約でアメリカ合衆国の独立を承認した。

これはイギリスにとっては手痛い敗北となった。戦略的には本国から4,800キロメートル離れた戦地に兵員・物資を補給しなければならず、戦術的にもイギリス兵の多くが新大陸での戦闘に不慣れで、地の利を得なかったという点もあるが、主要国のすべてがイギリスの潜在敵となりうる国際環境こそが敗北の要因だったのである。1783年9月の段階でイギリスは2億4,290万ポンドもの戦時債務をかかえ、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世から「もはや富も力もなく、デンマークスウェーデンなみの二流国にすぎない」と酷評されるほどであった。

この時期のジェームズ・ハリス(1746年〜1820年、初代マームズベリー伯爵)の活躍は英国外交史上きわめて重要である。ハリスは、マドリード、ベルリン、ペテルブルク、ハーグの公使を歴任したが、最初の任地では海外領土フォークランド諸島をめぐって対立したスペイン相手に強硬策をとって譲歩を勝ち取ったうえで戦争回避に成功、その外交手腕はヨーロッパ外交界に鳴り響いていた。晩年のフリードリヒ2世とも対等にわたりあい、アメリカ独立戦争に際しては、ロシアのエカチェリーナ2世に直接はたらきかけ、その敗北によって孤立する祖国イギリスをギリギリのところで支えたといわれる。また、従来よりイギリスでは外交問題を専門に扱う大臣・省庁の必要性が意識されていたが、アメリカ独立への対処の失敗を踏まえ、1782年、外相自身と8名のスタッフから成るイギリス外務省が創設されている。

ジェームズ・ハリスより外交について薫陶を受けた首相ウィリアム・ピット(小ピット)が登場したのもこの時期である。小ピットがめざしたのもヨーロッパ国際社会における孤立からの脱却であり、また、経済の立て直しであった。ピット政権は対仏関係を修復し、ハーグ駐在公使のジェームズ・ハリスはオランダにおける英・仏・普の勢力争いを制して、フランスを逆に孤立させ、1788年、オランダ・プロイセンとのあいだに三国同盟を結んだ。ピットは一方で軍艦を新規に建造するための予算を議会に要求、その承認をえて海軍力を増強している。

イギリスは当初フランス革命に対して不干渉の立場をとっていたが、ルイ16世の処刑をきっかけに第1回(1793年〜1797年)、ナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征の際の第2回(1799年〜1802年)、ナポレオンの皇帝即位の際の第3回(1805年)、ナポレオンのロシア遠征失敗後の第4回(1813年〜1814年)の4度にわたって対仏大同盟を結成し、同盟において主導的立場に立った。第1回大同盟は英首相ピット(小ピット)の提唱によるものであり、その実現を可能にしたのが「ピット氏の黄金」と呼ばれる、イギリスが同盟各国にばらまいた援助金であった。ただし、にもかかわらず同盟国側は足並みがそろわず、幾度となく同盟は廃棄された。

他方、ヨーロッパ大陸制圧後のナポレオンはトラファルガー海戦の敗北ののち、大陸封鎖令(ベルリン勅令)を出してイギリス封じ込めを企図したものの、成功しなかった。最終的には、ライプツィヒの戦いに敗れたナポレオンが退位、ウィーン会議が開かれ、ブルボン朝が復活する。途中ナポレオンの百日天下もあったが、再開されたウィーン会議では、フランス外相タレーランが「正統主義」を主張、ヨーロッパの秩序はフランス革命以前の状態に復することとなった。

このあいだイギリスは新興国アメリカとのあいだで英米戦争を戦っている。1814年には首都ワシントンD.C.を占領するにいたっているが、ヨーロッパにおける戦争の帰趨が決定的に重要であり、新大陸での戦いは二の次であった。この戦争は決定的な勝敗をみることなく終結した。

ナポレオン戦争はまた、世界的にはイギリスの覇権をより強固なものにする契機となった。オランダが革命フランスの勢力下に置かれたため、イギリスはケープ植民地やセイロン島、東インドインドネシア)などオランダ植民地を次々に占領した。イギリス船はオランダ商館が置かれた長崎にまで来航し、フェートン号事件を起こしている(1808年)。ウィーン議定書によって東インドはオランダに返還されたが、セイロンやケープ植民地は返還されず、イギリスは1815年セイロン島内陸部のカンディー王国を征服してセイロン植民地を成立させた。

なお、フランス革命奴隷制度は少なくとも理念の上では廃止された(1794年)。

1807年にはイギリスやアメリカでも奴隷貿易が廃止され、公式の場ではそのように表明されたが、密貿易は依然続いたといわれる(イギリス議会の奴隷制度廃止決議は1833年)。

アメリカ独立以前を「第一次帝国」または「旧帝国」、独立以後を「第二次帝国」または「新帝国」と呼ぶことがある。一方フランスは北米植民地とインドでの拠点をともに失い、国内では絶対王政のゆきづまりが明らかとなって、フランス革命以後パリ・コミューン終結に至るまで政治的激動の時代が続くのである。

この時(フランス革命の現実を体験してきた)サン=シモン伯爵(Claude Henri de Rouvroy、Comte de Saint-Simon、1760年〜1825年)や「パサージュ論の祖」シャルル・フーリエFrancois Marie Charles Fourier、1772年〜1837年)は(三十年戦争(1618年〜1648年)を経験したデカルト同様に)かかる現実を直視しつつ「(あれだけ堅牢だったフランス身分制を崩壊させるには、それだけの破壊が必要だったのだ。だから今こそ新しいフランスの再建を始めよう」と提唱し「馬上のサン=シモン」皇帝ナポレオン三世がその遺志をついてフランスに産業革命を根付かせる。かくして「(英国やオランダやスイスの様に自然発生的に産業革命が需要可能だった国々とは異なる後進国なりの産業革命導入プロトコル集-立(Ge-Stell)システム)」が確立されると、その影響が(南北戦争(American Civil War1861年〜1865年)における北軍勝利を通じてやっと導入条件が満たされたアメリカ合衆国や(皮肉にも普仏戦争勝利によって建国原資を獲得したドイツ帝国や(まさにオランダとの腐れ縁を打ち切って文明開化期を迎えたばかりの大日本帝国にまで及ぶ形となる。

ところで欧州には「ロマネスク時代10世紀〜12世紀)」なる歴史区分が存在します。

ハスカール(従士)制によって組織されたヴァイキングカール大帝ザクセン征伐を契機に文明化が始まった北欧諸族の略奪遠征)のうちデーン人がグレートブリテン島侵略後に祖国で王国群を建築し、ノルマン人(ノルマンディ泊地に拠った集団)がフランス国王の家臣となる一方でイングランドシチリアと中東で国王となってイスラム世界の技術を習得しつつ(西ゴート王国末裔たるアストゥリアス貴族や(ランゴバルト王国末裔たるロンバルディア貴族や(ブルグント王国末裔たるブルゴーニュ貴族と(アニミズム色が強い壮麗な)クリューニュー修道会運動や(日本でいうと修験道に近い僻地での修行に執着する)シトー修道会運動を展開し、ロシア平原に進出したヴァリャーグが冒険商人として東欧に都市国家群を建築したり黒海まで出て東ローマ帝国の傭兵になったりしている。とはいえ彼らの多くは次のゴシック時代(12世紀〜14年)に名家として残れず、圧倒的多数を占める領民にただ飲み込まれていってしまったのだった。
*そして西欧ではこれ以降「強力な部族的紐帯を有する別の辺境部族が台頭して全文化圏を席巻する」サイクルが繰り返されず、独自の歴史を歩み始めるのである。

*その一方で同時期東欧に到着して神聖ローマ帝国服従を誓ったマジャール人は以降もハンガリー貴族として存続し「オーストリアハンガリー二重帝国(独Österreichisch-Ungarische Monarchie または Kaiserliche und königliche Monarchie、ハンガリー語: Osztrák-Magyar Monarchia、1867年〜1918年)におけるハプスブルグ家の相方にまで選ばれている。こうした「多民族帝国におけるドイツ系市民の相対的冷遇」がアドルフ・ヒトラーの選民的ルサンチマンにつながっていったのは有名な話。そしてここから「(帝政ロシアも含め)東欧は本当にイブン・ハルドゥーンいうところの王朝交代史観から脱却出来ていたのだろうか?」という問題が浮上してくる。

そして欧州は次いで(より中央集権的な)ゴシック時代(12世紀〜14世紀)に突入します。

ゴシック建築(Gothic Architecture) - Wikipedia

12世紀後半から花開いたフランスを発祥とする建築様式。最も初期の建築は、パリ近くのサン=ドニ(聖ドニ)大修道院教会堂(Basilique de Saint-Denis)の一部に現存する。イギリス、北部および中部イタリア、ドイツのライン川流域、ポーランドバルト海沿岸およびヴィスワ川などの大河川流域にわたる広範囲に伝播した。

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  • 歴史的区分としては1150年頃から1500年頃までの時代を指し、フランス王国からブリテン島、スカンディナヴィア半島、ネーデルランド神聖ローマ帝国イベリア半島イタリア半島バルカン半島西部沿岸部、ポーランドおよびポーランド・リトアニア共和国の版図に伝わった建築様式をいう。しかし、これら歴史的・地理的条件が必ずしも相互に対応しないという点や、建築の形態的・技術的要因、図像などの美術的要因の定義づけが難しいという点で、他の建築様式に比べるとかなり不明瞭な枠組みであると言わざるを得ない。特に後期ゴシックは、地方様式とも絡む複雑な現象で、装飾や空間の構成を包括的に述べることはたいへん難しい。

  • 北フランス一帯において着実に発展していた後期ロマネスク建築のいくつかの要素を受け継ぎ、サン=ドニ修道院付属聖堂において一つの体系の中に組み込まれて誕生した。12世紀中葉から、サンスやラン、パリ、そしてシャルトル、ランス、アミアンでは、これに倣って大規模かつ壮麗な聖堂が建てられることになった。当然、西ヨーロッパでは、このほかにもたくさんの建築物が建設されていたが、イル=ド=フランス地方をはじめとするフランス王国の中心地においてのみ、初期から盛期にいたるゴシック建築の首尾一貫した発展の状況を見ることができる。

  • ミラノのドゥオーモの尖塔群と飛び梁ゴシック建築が伝播した他の諸国の政治的・経済的事情は多様で、発達や伝播の過程は複雑な様相を呈し、後期になるとこれが顕著に現れる。

  • それでもゴシック建築が一定の建築的構成をふまえつつ流布したのは、国々を跨いで独自の組織網を構築していた修道院の活動が大きかった。ロマネスク建築と同様に、ゴシック建築においてもベネディクト会やシトー会の影響は大きく、13世紀以降はドミニコ会フランシスコ会などが、ゴシック建築の伝播に寄与することになる。

  • 尖ったアーチ(尖頭アーチ)、飛び梁(フライング・バットレス)、リブ・ヴォールトなどの工学的要素がよく知られており、これらは19世紀のゴシック・リヴァイヴァルにおいて過大に評価されたため、あたかもそのような建築の技術的特徴のみがゴシック建築を定義づけると考えられがちである。しかし、ゴシック建築の本質は、これらのモティーフを含めた全体の美的効果のほうが重要で、ロマネスク建築が部分と部分の組み合わせで構成され、各部がはっきりと分されているのに対し、ゴシック建築では全体が一定のリズムで秩序づけられている。

  • 聖マリアのバシリカ聖堂(グダンスク、14世紀)ブリック・ゴシック建築の典型リューベック、グダンスク、トルン、クラクフなど、北ドイツやポーランドを中心とするバルト海沿岸およびその大河川の流域ではブリック・コシックと呼ばれる、レンガを用いた独特のゴシック建築が発展した。

「ゴシック」という呼称は、もともと蔑称である。15世紀から16世紀にかけて、アントニオ・フィラレーテやジョルジョ・ヴァザーリらが、ルネサンス前の中世の芸術を粗野で野蛮なものとみなすために「ドイツ風の」あるいは「ゴート風の」と呼んだことに由来する(ゴート族の建築様式というわけではない)。

ルネサンス以降顧みられなくなっていたが(この時期をゴシック・サヴァイヴァルと呼ぶ)、その伝統は生き続け、18世紀になると、主として構造力学的観点から、合理的な構造であるとする再評価が始まった。

18世紀から19世紀のゴシック・リヴァイヴァルの際には、ゲーテ、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンフリードリヒ・シュレーゲルらによって、内部空間はヨーロッパの黒い森のイメージに例えられて賞賛され、当時のドイツ、フランス、イギリスでそれぞれが自らの民族的様式とする主張が挙がるなどした。

諸勢力が全体として「友・敵関係Freund-Feind Verhältnis)」の先鋭化を通じて「例外状態」樹立を志向しつつ、結局最後まで「皇帝派と教皇」「国王派と大貴族連合」といった対立図式を解消する決め手に欠けた混沌の時代…

教皇派と皇帝派(12世紀〜13世紀) - Wikipedia

12世紀から13世紀の主に北イタリアにおいて、対立するローマ教皇神聖ローマ皇帝をそれぞれを支持した都市、貴族達を指すが、14世紀から15世紀には本来の意味から離れ、対立する都市間の争いや都市内部の派閥抗争における両勢力の便宜的な分類として用いられた。

  • 元々は、神聖ローマ帝国の帝位争いにおいてヴェルフ派をヴェルフ、ホーエンシュタウフェン派をウィーベリンと言ったものが、ヴェルフ家が教皇と結んで、帝位についたホーエンシュタウフェン朝と対抗したため、これがイタリアに伝わり教皇派と皇帝派(ゲルフ(グエルフィ、Guelfi)とギベリン(ギベッリーニ、Ghibellini))となった。

  • 既に11世紀の叙任権闘争において、教皇と皇帝の争いは始まっており、皇帝ハインリヒ4世と対立するヴェルフ5世は、教皇派のトスカーナ女伯マティルデと結婚したため、教皇派はヴェルフ(ゲルフ)と呼ばれはじめた。

  • ザーリアー朝が断絶するとヴェルフ家のバイエルン公ハインリヒ10世(尊大公、ヴェルフ5世の甥)は、ホーエンシュタウフェン家のコンラート3世と帝位を争い、1140年のヴァインスベルクの戦い の「掛け声」からヴェルフ派がヴェルフ、ホーエンシュタウフェン派がウィーベリンと呼ばれるようになった。

  • ドイツ国内においては、ヴェルフとウィーベリンは文字通り両家を支持する派閥であり、ヴェルフ家のオットー4世が皇帝になった時には、ヴェルフが皇帝派、ウィーベリンが教皇派となっている。

  • しかし、北イタリアではホーエンシュタウフェン朝が積極的にイタリア政策を進めたため、これを支持する都市がギベリン、これに抵抗して教皇の支持を求めたロンバルディア同盟などの都市がゲルフと呼ばれた。一般的には、貴族は皇帝派が多く、都市市民は教皇派が多かったといわれるが、単に対立勢力が皇帝派になったから教皇派になるといった例も多かった。

  • ゲルフ対ギベリンの争いは、1250年にフリードリヒ2世が亡くなり、1268年にホーエンシュタウフェン家の最後の王コッラディーノが教皇の意を受けたシャルル・ダンジューにより処刑されたためゲルフの勝利として一旦終結したが、間もなくシャルルに対抗するものがギベリンと呼ばれるようになり、以降フランス、ナポリ教皇系をゲルフ、ドイツ、スペイン系がギベリンとなるが、実情は単なる都市間、都市内の派閥争いだった。皇帝ハインリヒ7世や教皇ベネディクトゥス12世も、ゲルフ対ギベリンと称して対立することを禁じたが、ルネサンス期を通じて、この呼称はしばしば使用された。

  • よく「神曲Divina Commedia、1307年〜1321年)」の作家ダンテが言及されるが、実際はゲルフ内の白、黒派の対立によるものである。しかし、教皇ボニファティウス8世の意志により白派の主力がフィレンツェを追放された後は、ダンテの友人達が対抗上ギベリンに接近したため、ギベリンと間違えられることがある。同じく白派に近い立場の年代記作家ディーノ・コンパーニは、皇帝ハインリヒ7世がフィレンツェに秩序を取りもどしてくれると考えていた。

  • ヴェローナを舞台にした悲恋物語であるウィリアム・シェークスピアロミオとジュリエットRomeo and Juliet、1595年前後初演)」におけるロミオの実家モンタギュー家(教皇)とジュリエットの実家キャピュレット家(皇帝派)の対立もこの構造に立脚する。

15世紀のイタリア戦争時には、フランス王を支持したのがゲルフ、スペイン王を支持したのがギベリンと呼ばれたが、16世紀に神聖ローマ皇帝スペイン王カール5世がイタリア支配に成功し、これらの呼称は用いられなくなった。

 カール・シュミットを読む:「友・敵関係(Freund-Feind Verhältnis)」

シュミットは言う、「道徳的に悪であり、審美的に醜悪であり、経済的に害であるものが、だからといって敵である必要はない。道徳的に善であり、審美的に美であり、経済的に益であるものが、それだけで、特殊な語義における友、つまり政治的な意味での友とはならないのである・・・友・敵概念は、隠喩や象徴としてではなく、具体的・存在論的な意味において解釈するべきである」(「政治的なものの概念」田中浩、原田武雄)。

マキャヴェリ以来、近代西欧の政治理論は、政治を権力と関連付けて論じてきた。政治というものは、権力の獲得とか配分をめぐる現象であって、権力の動機を持たない政治的な行為というものはありえない。権力をめぐる戦いがあるところには、当然敵・味方の区別が生じるが、それは権力闘争に付随する現象であって、それ自体を独立したものとして概念規定しようとするのは行き過ぎである、とされてきた。ところがカール・シュミットは、政治とは友・敵(敵・味方)の区別が生じるところに始めて成立するものだとすることで、友・敵の区別こそが政治の本質であって、権力はそれに付随するものだとする。つまり、権力と友・敵区別の関係を、伝統的な政治理論とは180度異なった仕方で捉えるのである。権力をめぐる戦いが友・敵の区別を作るのではなく、友・敵の区別の生じるところに権力をめぐる戦いが生まれる、とするわけである。

 それに対し、少なくとも英国保守政治は独自の道を歩んできた事だけは確かです。

英国政治ほど「究極の自由主義専制の徹底によってしか達成されない」ジレンマが勢力拮抗によってしか達成されない現実を体現してきた政体は存在しない。

  • アイルランドプロテスタント出身の政治家エドマンド・バークは「フランス革命省察Reflections on the Revolution in France、1790年)」の中でフランス革命指導者の軽率を攻撃し、英国人に慎重さを喚起する目的で「(ある世代が自分たちの知力において改変することが容易には許されない)時効の憲法prescriptive Constitution)」の概念を提唱した。

  • ハンガリー出身の経済人類学者カール・ポランニーは「大転換 (The Great Transformation1944年)」の中で英国の囲い込み運動を詳細に分析し「後世から見れば議論や衝突があったおかげで運動が過熱し過ぎる事も慎重過ぎる事もなく適正な速度で進行した事だけが重要なのであり、これが英国流なのだ 」と指摘している。

ならば歴史上繰り返されてきた「(英国流の慎重で適切な判断」と「(スペインやフランスといった大陸国家が繰り返してきた軽率で不適切な判断」の違いはどこにあるのか。アメリカ独立戦争を引き起こしてしまった「軽率で不適切な判断」との関係は一体どうなっているのか?

古典的自由主義の完成者ジョン・スチュワート・ミルが「フランス啓蒙主義コンドルセから継承した「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならなず、これを妨げる権力が正当化されるのは他人に実害を与える場合だけに限定される。」なる理念は、そうして庇護された個性が「(カール・シュミっトの政治哲学いうところの友・敵関係Freund-Feind Verhältnis)」を通じて多様で多態的な共闘関係を樹立していくのも想定範囲とも。

 

あれ、そうすると現代社会は「(複数の勢力が例外状態樹立を試行しつつ集約する事なく友・敵関係を結び続けた)」と考えるべきなのでしょうか? それとも「(欧州移民史の最終到達地点となったアメリカ文化の世界化からの再出発」と捉えなおすべきなのでしょうか?

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まぁ「ヴァイキングブリテン島到達」で始まったネタは、当然の事ながらとりあえず「ヴァイキングアメリカ大陸到達」ネタで落ちるのです…