諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【ヤムニア会議の衝撃】「ユダヤ人の誕生」の思わぬ余波?

西洋史を理解する上での基本中の基本?

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もともとユダヤ人とは南のユダ王国の国民を指すものでした。しかし王国崩壊後に多くがバビロニア王国内に連れて行かれると(バビロン捕囚)、ユダ王国の末裔という血統による定義としてのユダヤ人という呼称が一般化しました。それを示すようにユダヤ人という言葉が旧約聖書には約90回登場するのですが、その全てがバビロン捕囚の後となっています。バビロン捕囚が始まって約半世紀後、ペルシア帝国によってユダヤ人たちは祖国への帰還が許され、紀元前6世紀終わりにはエルサレムにふたたび神殿が建てられ多くのユダヤ人がユダヤに戻りました。しかし全員が帰還した訳ではなくペルシャに残ったり他の地域に移住したユダヤ人もいました。こうして世界各地にユダヤ人が住み始め、イスラエルに住むユダヤ人とイスラエル外(離散の地/ディアスポラ)に住むユダヤ人の2種類が各々の地で独自の発展を遂げていきました。

こうして多様化していったユダヤ人にとって大きな転機となったのがアレクサンダー大王の東方遠征です。これによってギリシャ文化とオリエントが融合したヘレニズムという考えがうまれたのですが、ギリシャ的なヘレニズムを広めたアレキサンダー大王この文化圏では人種も生まれた地も宗教も全く違う何百万人が混在していました。そんな多民語族・多文化を抱えるヘレニズム文化圏では、ギリシャ的教育を受け共通語であったギリシャ語を話せばギリシャ人として認められました。これは、生まれた土地や血統によって決まっていた従来の定義法とは全く違う革新的な民族観でした。これによってエジプト人ペルシャ人、ユダヤ人であっても同時にギリシャ人でもいれるという、2つの民族的アイデンティティーを持つ形が可能となりました。これは現在欧米では一般的な他重国籍や「…系~人」という表現が発祥した瞬間でもありました。

ではこのヘレニズムがどのようにユダヤ人の定義に影響したのでしょうか。ヘレニズムによって民族についての新定義ができると、イスラエルを中心にヘレニズム文化圏に居たユダヤ人たちは他の民族と同じようにギリシャ人になるか否かを考えると同時に、自らの定義についても再考しなければいけませんでした。ギリシャ人とはギリシャ文化を受け入れた人の事。この新しいギリシャ式定義法を用いると、ユダヤ人とは「ユダヤ文化を受け入れた人」となります。多神教社会であった古代を生きる彼らにとって自分たちのユダヤ文化とは一神教であるユダヤ教の事でした。こうしてユダ王国民でもその末裔という血統とも違う「ユダヤ教を信じる者=ユダヤ」という新しい民族の定義ができたのです。

おそらくエジプトの象形文字から原カナン文字が生まれ、これからフェニキア文字が派生してアラム文字ギリシャ文字に分岐しました。さらにそのアラム文字からヘブライ文字アラビア文字が分岐し、ギリシャ文字からはさらにラテン文字が分岐。とはいえ文字使用だけでは民族的記憶を共有し後世に継承するには不十分だった様なのです。

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  • その出自と展開がかなり重なるのにアラム人とフェニキア人は滅び、ユダヤ人は残った。「バビロン虜囚とエルサレム破壊起源前7世紀)」を契機として民族的記憶の共有と継承を「神殿とその権威にすがる司祭集団」から「文書化された聖典や、時代に合わせてその編纂を続ける在野のラビ達」にスイッチしたからとしか言い様がない。

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  • ギリシャ人も「文献記録を以て集団的記憶の共有と継承を為す」状態を迎えたのはアテナイ人だけだったので、プトレオマイオス朝エジプトの王都アレキサンドリアなどでの編纂を通じて後世に古典期ギリシャの文化として伝わったのはアテナイのそれが中心となる。それはマケドニア王国によって(アイオリス人系都市国家を代表するテーバイが滅ぼされ、共和制ローマによって(ドーリア人系都市国家を代表するコリントスが滅ぼされた結果でもあった。

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ところで所謂「地中海世界」の紀元前までの古代史は、こんな感じで要約出来ます。

①「紀元前1200年のカタストロフ」の結果、オリエント世界から大国の影響力が消失するとフェニキア人が地中海全域を商圏として手中に収めた。

②新アッシリア帝国の王ティグラト・ピレセル3世 (Tiglath Pileser III, 在位紀元前744年~紀元前727年)登場を契機に紀元前7世紀前後に内陸部の多民族帝国が復活。レバノンの本拠地(レバノン杉の原産地)を叩かれたりしている間に東地中海の制海権を(黒海沿岸やアナトリア半島沿岸に積極的に植民市を建設した)ドーリアに奪われる。
*当時の民族は神殿宗教を中心にまとまっており、多民族帝国側は反抗的な民族の神殿を破壊し、その住民を帝国領内に分散して強制移住させる一方、その故地に別の民族を植民する事で抵抗力を奪うのを常としていた。新アッシリア帝国新バビロニア王朝、マケドニア王国、ローマに継承されたこの手口は、最終的にソ連スターリンによって模倣される展開を迎える。

紀元前6世紀~紀元前5世紀にかけては、さらにアテナイドーリア商圏を蚕食。

  • 一方「死人に口無し」とは、まさにテーバイの事?

アレキサンダー大王の東征(紀元前334年~紀元前324年)とそれに続いたディアドコイ戦争後継者戦争, 紀元前323年~紀元前281年)によってオリエント世界を巻き込む形で「ヘレニズム世界 」なる新たな地域区分が誕生。

⑤最終的には共和制ローマがヘレニズム諸国全てを併呑。「フェニキア人最後の砦カルタゴも「ギリシャ人最後の砦コリントスを破壊し尽くしてローマ人による地中海制海権が完成した。そう、物理的には…

弓削達地中海世界』新書西洋史② 1973 講談社現代新書 p.128>

こうして地中海諸地方は、拡大しつつあるローマ市民共同体による数多の従属共同体(ローマ法的に言えば外人共同体であり、その成員は外人〔ペレグリーニ〕)の支配という構造にまとめ上げられることによって、地中海世界という単一の世界へと生まれ変わったのである。この構造の形成過程を支配共同体に即していえば、共同体の分解の阻止と復元のための征服と支配、支配の果実を利用しての支配共同体の拡大(外延的拡散)、支配の貫徹のための支配共同体の拡大(ローマ市民権付与による増大)といった運動であったが、拡大が再び支配共同体の内部に分解を呼び起こすのである。
*そしてこうした流れが到達した終着地点の一つがカラカラ帝(在位209年~217年)の代のアントニヌス勅令(212年)における帝国内、つまり地中海世界全域の全自由人への市民権付与だったといえる。

しかしある意味「ヘレニストの逆襲」は、まさにこの状態から幕が開けるのです。

レイモンド・P・シェインドリン「ユダヤ人の歴史」より

ユダヤ人の「経典の民」への移行は1世紀~2世紀に掛けてローマ帝国に逆らい、エルサレム神殿がまたもや破壊されユダヤ人がエルサレムから全追放されて信仰の中心が祭司からラビに移った時点で決定的なものとなる。

台風の目玉となったのは、冒頭の引用にも登場する「ギリシャ人および彼らに混ざるギリシャ語を話すユダヤ(ヘレニスト)」達でした。上掲の商圏併合過程で彼らは帝国領内のあらゆる場所に点在する様になり、独自のネットワークを構築したのです。

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  • エジプトアクティウムの海戦(紀元前31年)に破れて滅ぼされた「最後のヘレニズム国家プトレオマイオス朝古希Πτολεμαῖοι、Ptolemaioi, 紀元前305年~紀元前30年)故地。他のヘレニズム諸国同様、グレコマケドニア人の支配者を本国から招聘されたギリシャ人やマケドニア人の官僚や傭兵が支える体制だったが、これに比較的公平な扱いに魅了された「ギリシャ語を話すユダヤ」も少なからぬ人数が参加して(ヘブライ語を忘れるほど)土着した。

    ヘレニズム時代は古代世界における学問の革新的成果が多数生み出された時代であったが、とりわけプトレマイオス1世からプトレマイオス2世の時代に整備されたアレクサンドリアのムセイオンと付属図書館はこうした学術発展の潮流の中の中心となった。プトレマイオス朝の惜しみない支援に惹かれたギリシアの学者達が大挙してアレクサンドリアへと渡る様子を現代の物理学者スティーヴン・ワインバーグはその様を20世紀におけるヨーロッパからアメリカへの人の流れに例えている。

    政策的な支援と豊富な資金、そして各地から集まった学者たちによる研究によって多くの分野において特筆すべき成果が生み出され、後世に重大な影響を残した。まず研究が奨励されたのは古典文献の蒐集と校訂といった文献学的な研究であり、エフェソスのゼノドトスビュザンティオンのアリストファネスサモトラケアリスタルコスといった文献学者らによって進められたホメロスの研究を嚆矢に現代に伝わる古代ギリシア時代の文学作品の多くがアレクサンドリアで行われた研究と整理の結果を通したものである。具体例としては例えば、ホメロス叙事詩イリアス』と『オデュッセイア』を現在のような24巻本に校訂したのはアレクサンドリア図書館の初代館長とされるエフェソスのゼノドトスであると伝えられており、また完本が現存する最古の歴史書とされるヘロドトス歴史』が現在の9巻構成にまとめられたのもアレクサンドリアにおいてであった。

    こうした文学的研究の他に隆盛を迎えたのが各種の「科学」研究であった。当時のギリシア世界ではアテナイミレトスも学問の中心地となっていたが、アレクサンドリアにおける学問の特徴はギリシア世界で盛んであった万物の根源についての思索などの包括的な問題の研究などではなく、観察によって成果を得ることができる具体的な事象の研究の重視だったのである。そうした知的風土の下、光学、流体静力学、そして特に天文学が特筆すべき発達を遂げた。当時のアレクサンドリアで活躍した主要な天文学者には、初めての学術的な太陽や月の大きさと地球からの距離の計算(それは不正確であったものの)を行ったサモスのアリスタルコスや、日食を利用して月までの距離の計算精度を大幅に高めたヒッパルコス、地球の大きさを計算したエラトステネスなどがいる。

    アレクサンドリアにおける天文学の伝統はプトレマイオス朝滅亡後のローマ時代にも継承され、後世における天動説の理論的基盤を形成したクラウディオス・プトレマイオスを輩出した。またサモスのアリスタルコスも地動説に通じる事実(太陽が地球の周りを回っているのではなく、地球が太陽を周回している)に気付いていた事を示す記録が残されている。光学(光の性質)の研究も盛んに行われ、それは数学者エウクレイデス(ユークリッド)の研究にまで遡る。幾何学の公理、諸定理の証明などを述べた数学書原論』の著者として名高く、ムセイオンにおいて数学科を設立したとも言われる人物である。ユークリッド幾何学に名を残しているように、エウクレイデスの数学・幾何学分野における後世への影響は巨大であるが、透視図法について述べた「オプティカ」などの著作もあり、光の反射の研究においても大きな足跡を残している。

    ユダヤ教徒のヘレニスト化

    プトレマイオス朝ユダヤ教の発展の重要な舞台ともなった。コイレ・シリアをはじめとして、プトレマイオス朝の領域には相当数のユダヤ人が居住しており、また貢納の義務を負ってはいたものの、エルサレムを中核とするコイレ・シリアパレスチナ)のユダヤ人たちの共同体は、ハカーマニシュ朝アケメネス朝)以来の自治的単位(ユダイア)を維持していたのである。ユダヤ人達の統治は大祭司と長老会議(ギリシア風にGerousiaと呼ばれた)が行っており、王に対する税を徴収する義務も大祭司が負った。

    自発的な移動、または強制移住、あるいはその両方によってエジプト本国、特にアレクサンドリアユダヤ人達が移住した。アレクサンドリアユダヤ人知識階層はプトレマイオス朝時代に支配的地位にあったギリシア人社会との関わりを求め、ヘレニズム文化を摂取しギリシア語を用いるようになっていった。彼らは、もはやヘブライ語を理解できない同胞たちのためか、あるいはギリシア系知識人に対してユダヤの歴史の古さ、あるいは優越性を訴えるためか、ユダヤ教聖典旧約聖書)のギリシア語訳を行うことを決意する。このアレクサンドリアで作成されたと見られるギリシア語訳聖書は今日、一般に『七十人訳聖書セプトゥアギンタ)』と呼ばれている。明らかに読者の中にギリシアの知識人がいることを想定し、地名を極めて説明的に翻訳する他(ヘブライ語の音をそのままギリシア語風の発音にするのではなく、地名の語源をギリシア語訳する)、ヘブライ語版の「原文」に様々な意訳を行って、ギリシア人の宗教的習慣への配慮や、ユダヤ人の起源の古さ、偉大さを強調するような一種の「改変」が施されている。後世の宗教思想に大きな影響を残し、初期キリスト教著作家達の中から「翻訳版」というよりももはや「聖書」そのものとして扱う人物すら現れる。

  • リビア沿岸のギリシャ人植民地キュレナイカ…裕福な交易地で「アフリカのアテネ」の異名を持つほど学問も伝統的に盛んであった(エラトステネスの生誕地であり、後の功利主義に近い思想が特徴のキュレネ派哲学者を輩出)。帝政ローマ支配下のエジプトでユダヤ人が迫害された1世紀~2世紀にかけて同様にギリシャ語を話す亡命ユダヤ人の受け皿になったと考えられている。プトレマイオス朝支配を経てローマ属領化し、乾燥化の影響もあって3世紀以降衰退。

  • イタリア半島コルシカ島サルディニーヤ島シチリア島、そして南イタリアマグナ・グラエキア羅Magna Graecia故地ナポリやタラントなど)。

  •  南フランスマッサリア(Massalia, 現マルセイユ)およびプロヴァンス地方(La Provence、プロヴァンス語:ProvençaまたはProuvènço)。

  • イベリア半島アンダルシア地方Andalucía)およびカルターニャ地方カタルーニャ語Catalunya, スペイン語Cataluña, アラン語Catalonha

  • コリントス紀元前146年の完全破壊後、紀元前44年に再建。当初入植したのはローマの解放奴隷中心だったが、やがてギリシアローマ人ユダヤの混住地となる。

実はこれらの土地の多くは後世、マグリブベルベル人イスラム王朝たるムラービト朝(1056年~1147年)やムワッヒド朝(1130年~1269年)における非ムスリム迫害、イングランド国王エドワード1世在位1272年〜1307年)によるユダヤ人追放(1290年)、フランス国王フイリップ4世(在位1285年〜1314年)によるユダヤ人追放(1306年)などに際して逃亡ユダヤ人の受け入れ先として機能する事にもなるのです。

その一方で…

当時のテッサロニキキリスト教の拡大の中心としても重要で、パウロによって新約聖書の一書テサロニケの信徒への手紙一が書かれている。おそらくコリントスで執筆されたものと推測されている、 

キプロス島北部の古代主要都市。エジプトのプトレマイオス朝の支配を経て,紀元前58年にローマ領となったが、この地を使徒パウロバルナバが訪れている。 115年~117年ローマに対するユダヤ人の反乱および地震で破壊されたが,4世紀頃ローマ皇帝コンスタンチヌス2世が再建,コンスタンチーナと命名した。
*115年(または116年)にユダヤ人の反乱が発生したが、ローマ軍が鎮圧。

コリントス - Wikipedia

古代ローマ時代には属州アカエアの州都として繁栄し、キリスト教文化においてはパウロ書簡の宛先としても知られている。

使徒パウロは複数回コリントスを訪れている。1回目の滞在時、総督はルキウス・アンナエウス・セネカの弟のガリであった(使徒行伝18:1-18)。パウロはこのとき18ヶ月コリントスに滞在した。2回目の滞在時、おそらく『ローマの信徒への手紙』が書かれた。 

 新約聖書使徒言行録 2章1~11節

わたしたちの中には、パルティアメディアエラムからの者がおり、また、メソポタミアユダヤカパドキアポントスアジアフリギアパンフィリアエジプトキレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタアラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。

*その一方ではローマ統治下で多数派のギリシャ系住民と少数派のユダヤ人住民の軋轢が次第に酷くなり、ウェスパシアヌス帝の時代(西暦73年)やトラヤヌス帝の時代(117年)におけるユダヤ人住民の蜂起として噴出したりもしている。後者の暴動はマルキウス・トゥルボによって鎮圧され、多くのユダヤ人住民が殺された。

そう、これらの地域は1世紀~2世紀にかけてキリスト教の布教が真っ先に成功した地域としても知られているのです。一方、その多くでキトス戦争(115年~117年)に連動したユダヤ人蜂起が勃発、しかもどうやら以降も既存ユダヤ教徒社会は存続していくらしいのです。

第一次ユダヤ戦争(66年~73年)の後もユダヤ人たちの反ローマ感情と独立願望は高まっていた。115年~117年には皇帝トラヤヌス率いるローマ軍がパルティア戦争で東に動いた隙を突き、ユダヤ本国だけでなくキレナイカエジプトキプロスメソポタミアなどのディアスポラユダヤ人が東地中海各地で同時多発蜂起を起こしている(キトス戦争)。こういったユダヤ人の鬱憤が指導者を得ることで爆発したのがバル・コクバの乱(132年-135年)であった。

イタリア語ではキトス戦争115年~117年)を第2次ユダヤ戦争と考え、バル・コクバの乱を第3次ユダヤ戦争 Terza guerra giudaica と呼ぶ。。

キトス戦争第二次ユダヤ戦争と言う歴史家も

紀元115-117年の間、ローマ帝国内のキプロスリビアキュレネあるいはキレナイカ)、エジプトアレキサンドリア)、メソポタミアユダヤ地方ユダヤ人による反乱が勃発しました。原因はギリシャ系住民との紛争でした。

当時、トライヤヌス帝がパルティア王国攻略の際後方でユダヤ人の反乱が生じ、ローマ帝国各地でローマ軍の警備が手薄になったところで反乱が拡大しましたが、最終的にはローマ軍の手によって鎮圧させられました。

  • シリアキレナイカ(?)では、首謀者であったルカス(Lukuas(注1))が自ら「」を名乗り、反乱を組織しギリシャ、ローマ系の神殿を次々に破壊し、ギリシャ系、ローマ系の住民と交戦し殺害しましたが、ルシウス将軍率いるローマ軍によって鎮圧。ルカスエジプトのアレキサンドリアへ移動しそこでも抗戦を続けましたが、トライヤヌス帝が別動隊を動かして鎮圧させました。ルカスユダヤ地方に逃れましたが、そこで処刑されました。
    *(注1)歴史家ディオ・カシウス(Dio Cassius)著のHistoriaによりますと、キレナイカでの反乱首謀者はアンドレアス(Andreas)という人物と記録している。Lukuasと同一人物かどうか不明。

  • キプロスではアルテミオンArtemion)というローマ名を持つユダヤ人の指導により反乱が組織され、大勢のキプロス人を殺害しましたが、パルディア戦役に参戦したローマ軍団によって鎮圧させられ、生き残ったユダヤ人を追放し、ユダヤ人のキプロスへの立ち入りを禁止しました。

キトス戦争と呼ばれるのは、シリアで鎮圧にあたったルシウス・キエタス将軍(Lusius Quietus)の「キエタス」が「キトス」に変化し、その名が付けられたためです。(Wikipedia "Kitos War"より引用。

また、この時のユダヤ人の反乱時、ユダヤキリスト者は「ユダヤ教信仰に対する裏切り者」として、他の異邦人と一緒に殺害されたことが記録されています。(Dio Cassius, Eusebiusなどの記録より

(ヘブライ語に執着する保守的ユダヤ人が圧倒的に少なそうな)テッサロニキコリントスは蜂起なし? で、(そもそもユダヤ人やヘレニストがあまり集住してなさそうな)メソポタミアで何があったの?

どうやら歴史のこの時点(紀元1世紀~2世紀)の時点では、どちらかが圧勝を飾った訳でもなさそうです。それでは全体構造を改めて俯瞰してみましょう。
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①古代から継承されてきた神殿信仰一般信徒に共有され継承される聖典に拠らず神殿を牛耳る神官が伝統的共同体に根差す密議を中心として宗教的真理を司る宗教形態)は、最終的にアスワンエジプトとヌビアの国境地帯)にあるフィラエ島のイシス神殿を最期の「総本山」とする決戦に破れ歴史の掃き溜めへと消えていく。

  • 最後の統一ローマ皇帝テオドシウス大帝在位379年~395年)は、キリスト教を国教に定めて帝国内全ての古代神殿を閉鎖してようとし、その一環として385年キリスト教徒最大の拠点の一つとなっていたアレクサンドリアにおいてイシス信仰の拠り所となっていたセラペウムを破壊した。しかしフィラエ神殿だけは徹底抗戦を続け、ついに453年に締結された条約で周辺地域の宗教的自由が保証される事になったのである。

  • そのおよそ100年後550年、「帝国の統一は宗教の統一なしには成し遂げられない」と固く信じた東ローマ帝国ユスティニアヌス大帝在位527年〜565年)により550年に閉鎖されてしまった(閉鎖後は、4つのキリスト教会として再利用されるという、多くの古代エジプト神殿と同じ運命を辿る)。

  • 地方の下層階層出身だったユスティニアヌス大帝は幼少時より法学と神学と「栄光ある」ローマ史を叩き込まれてきた人物であり、古代ローマ法の集大成である「ローマ法大全Corpus Iuris Civilis)」の編纂を命じて後世の法学の基礎を固めたり、内乱で焼失したハギア・ソフィア大聖堂アヤソフィア博物館)を再建して完成時の奉献式において祭壇に立って手をさしのべ、古代イスラエル王国のソロモン王の大神殿を凌駕する聖堂を建てたという思いから「我にかかる事業をなさせ給うた神に栄光あれ! ソロモンよ、我は汝に勝てり!」と叫んだと伝えられるが(実際ソフィア大聖堂はビザンティン建築の最高峰として現代まで伝えられる事になる)、その一方で古代からの伝統的多神教異教)には狭量で529年から弾圧を開始。この時にアテネアカデメイアも閉鎖され、そこで学んでいた学者も全て追放。

    しかし因果は巡る…ローマを含む西ローマ帝国の領土を部分的に回復し、東ローマ帝国の版図を最大にしつつも543年黒死病流行ユスティニアヌスのペスト)によって計画自体が破綻。そして以降の時代は「政敵」ササーン朝ペルシャとの紛争の泥沼化に向けてブレーキも踏まず突き進んでいく…

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②一方、ユダヤ人はディアスポラによる存続危機を見事に乗り切った。その信仰形態を「神殿宗教」から「啓典の民」に更新する形で…

ローマは反乱の制圧後も、ユダヤ人たちがイスラエルの地に住むことを認めていましたが、2世紀ユダヤ人たちは再びバル・コクバの乱を起こし、再び失敗します。そこで、ついにローマはイスラエルの地からユダヤ人を追放。エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤと呼ばれていたイスラエルの土地を「パレスチナ」と改称しました。

そして離散を余儀なくされたユダヤ人は、ヨーロッパや中東、北アフリカなど地中海周辺各地に移住して行きました。

離散の地で、ユダヤ人の生活・信仰の規範となる法典「ミシュナ紀元2世紀頃)」、さらにその注解である「エルサレムタルムード紀元4世紀末)」と「バビロニアタルムード紀元5世紀末)」が編纂されました。ユダヤ教はかつての神殿祭祀ではなく、ラビの指導による聖書やミシュナ及びタルムードの研究解釈と言うシステムを確立して行きました。 また各地に祈りの場としてのシナゴグを建設し、ユダヤ教の信仰と民族のアイデンティティを守り続けました。

特にユダヤ教の定めである「安息日を守る、割礼を行う、食事規定」といった厳密な戒律は、他宗教との軋轢を生みましたが、ユダヤ人が他民族と同化して消えてしまうことを防ぐ役割も果たしました。

エルサレムの第二神殿が崩壊するまでは、ユダヤ教においては「サドカイ派」という神殿祭儀を執り行う人たちが力を持っていたが、神殿が崩壊した後は、神殿祭儀を行えなくなったため、サドカイ派も神殿とともに姿を消した。これに伴い、神殿に依存しない、ラビによる律法(ミツヴァー、ハラハー)についての実践と学びを中心とした「ファリサイ派」のみが生き残る事となったのである。
*「イエス」をラビと考えた場合、「イエス」の教えは実際には先代の多くのラビ、クムラン教団など当時の多くのユダヤ教宗派に由来し新しいものではないので、ラビ・ユダヤ教の変種・異端と考えることもできる。


こうした展開を受けて「ファリサイ派」は紀元90年代エルサレム南西部のヤブネ/ヤムニアYibnah)に集い、これからは「トーラー(Torah, モーセ五書)」に加え「タルムードTalmud, 口伝律法)」も信仰の拠り所として使っていく事、ただし以降はヘブライ語で執筆された聖典のみしか認めない方針などを固めたとされる。
*まさしく今日我々が知る意味でのユダヤ教徒が誕生した瞬間であった。

その実態はいわゆる現代的な意味での「会議」ではない。ユダヤ教学校に拠った学者達が長い時間をかけた議論を通じて聖書ヘブライ語聖書)の正典マソラ本文)の範囲を定義していったのである。

  • 最も重要なのはこの会議によって(既にユダヤ教の一分派という枠を超えて地中海世界へ飛躍しようとしていた)キリスト者シナゴーグからの追放が決定的になった事。何しろ当時のキリスト教徒達が主要テキストとして拠っていたのはギリシャ語版の七十人訳聖書である。もちろんそれについても議論が重ねられ、その末に「この文書はヘブライ語にルーツを持つものではないので、正統なものではない」という結論が下されたのだった。その結果、キリスト教ユダヤ教は以降「理論上」完全に袂を分かたざるを得なくなってしまう。
  • また旧約聖書の「外典」という時、この会議で除外された文書群を指す。

ヤムニアにおける静かな研究の日々は長く続かなかった。キトス戦争(115年~117年)やバル・コクバの乱(132年~135年)の結果、ローマ当局の目がさらに厳しくなり、彼らはヤムニアの地を追われてガリラヤに移ることになったのである。

ただし、如何なる判断にも犠牲はつきまとう。ユダヤ人が払った代償とは「未来永劫少数精鋭の立場に留まり続ける」事。特に「ヘブライ語文献のみを聖典と認める」と断言しちゃった辺り…

エス様が話された言葉はアラム語で、弟子たちはおもにヘブル語でしたので「なぜギリシャ語?」というご質問は大変興味深いものです。

新約聖書がおもに弟子たちにより書かれたのは紀元50年~紀元120年とされていますが当時の聖書の世界を考察する必要があります。
*概ねマルコ福音書が編纂されたのが60年から65年、マタイ・ルカ福音書が編纂されたのが80年から85年、ヨハネ福音書が編纂されたのが90年から95年、聖書として成立したのが150年頃から200年頃とされる。

すなわち、舞台背景はギリシャペルシャ時代からローマ帝国へと転換していましたが、文化的には、それ以前におけるマケドニアアレキサンダー大王による東方遠征の影響を受け、広大なヘレニズムの世界が展開されており、ギリシャ文化とペルシャ文化の融合が進む時代でもありました。ローマ帝国の言語はもともとラテン語でしたが、多くの地域においてはラテン語よりもギリシャ公用語あるいはlingua franca(リンガ・フランカ--言語を異にする人々の間で共通的に使用される外国語)としての地位を保っていました。またユダヤ人自身もこの世界に拡散し、ギリシャ語しか解せないユダヤ人もいましたし、ヘブライ語を読めないヘレニズムの世界(ギリシャ語圏)の在外ユダヤ人のため旧約聖書(ユダヤ教聖典)のギリシア語訳聖書、いわゆる七十人訳聖書(Septuaginta--セプトゥアジンタ)も紀元前3世紀中葉~紀元前1世紀の間に成立していました。

弟子たちは聖書の教えがひとりユダヤ世界だけに閉じ込められることなく、より広い地域で読まれ、確かに後世に伝えるためにギリシャ語を選んだものと思われます。すなわち、現代では学術論文やグローバルな資料が英語で著されるようなものと考えてよろしいでしょう。なお、聖書に使用されるギリシャ語はKoine Greek(コイネーギリシャ)といい現代ギリシャ語の基礎となっています。コイネーとは「共通の」という意味です。

レイモンド・P・シェインドリン「ユダヤ人の歴史」より

ところで紀元1世紀に入るとローマ帝国の多くの市民がギリシャ=ローマ神話の神々に素直に畏敬の念が抱けなくなって来る。そして代わりに東方の異国の宗教の中に自らを導いてくれる何かを見出そうとし始める。

*「古(いにしえ)よりの今来神」ディオニュソスとか、そういうイメージ?

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①もちろん既に自分達の宗教に異国情緒あふれるフレーバーをちょっと挿入うする試みくらいなら絶えず繰り返してきたのである。

紀元前1世紀には牡牛を屠るミトラス神が地中海世界に現れ、紀元後2世紀までにはミトラ教としてよく知られる密儀宗教の体裁が整い、ローマ帝国治下で1世紀~4世紀に興隆したと考えられている。

密儀故に詳細は後世に伝わらなかった。それくらいが神秘的で丁度良い?

プトレオマイオス朝エジプト経由でローマで広まり、紀元後2世紀頃までにほぼ帝国全域で信仰されるに至った。

ところでエジプトへキリスト教の伝来時期はイシス信仰ブームと重なる為、現地で聖家族像「父・精霊・イエス」の三位一体説の原点)」「処女受胎イシスは夫オシリスの死後イシスを身籠もった)」「マリアおよびその母アンナに対する地母神的信仰」「太陽神ラーの日々の死と再生パウロの故郷キリキアにも同様の信仰があり峻別は難しい)」といったイメージの混淆が起こった可能性が指摘されている。当時の文献史料を見ても結構、混同されている。

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あと(ギリシャ人の匂いが全くしない)コプト教会(紀元1世紀に始まり、2世紀頃からローマ支配下のエジプトで広がったキリスト単性説を信仰する人々)の問題もあるからややこしい。そして(ユダヤ人が国外追放されていた117年~270年頃の状況は?

第二次ポエニ戦争(紀元前219年~紀元前201年)の最中の紀元前203年4月12日には既に、この女神の別名たるマグナ・マテルへの最初の戦勝祈願が公式に遂行されている。リウィウス「ローマ史(紀元10年頃)」によれば、以降もMegalesianの祭日(4月4日~4月10日)が祝われ続けたという。

エフェソス公会議(431年)で聖母信仰が公認されるとローマに「聖母マリアに捧げる大聖堂」が次々と建築されたが、そのうちサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂キュベレー神殿跡地に築かれた。

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そして有名なスペインのマドリード広場の噴水…

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②当時「キリスト教の対抗馬」として現れたグノーシス主義にも「シモン・マグナスあるいは魔術師シモントロイア戦争で争奪戦の対象となったヘレンの生まれ変わりと称する女性売春婦ともを連れ歩いた」なる伝承があり、このエピソードが対州的想像力を刺激して中世ドイツにおいて「悪魔と取引したファウスト博士伝説の核となった。大半はその程度の粗雑さと最初から心得ておけば、そんなに絶望を重ねる必要もない。

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1世紀頃サマリアパレスチナヨルダン川西岸地区の北部)を本拠地とする魔術師シモン(シモン・マグス)が(多くのグノーシス派導師がそうした様に)自らの教義にキリスト教の教義を取り込む事でキリスト教徒たちを取り込もうとしたが、それを本家たる使徒集団に睨まれ、以下の様な伝説を残した。

  • シモンはサマリヤの魔術師で多くの魔術を行い信者を集めていたが、使徒フィリポに出会ってキリスト教に改宗したという。そして、ペテロとヨハネが宣教に来たとき、彼らが手で聖霊を授けるのをみて、その力が欲しくなった。そこで、ペテロに金を出して、その力を売ってくれるように頼んだ。ペテロは「この金はお前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられるとおもっているからだ」とはねつけた。これ以来、「聖職売買」のことを、彼の名を取ってSimonieと呼ぶようになった(新約聖書使徒行伝第8章」)。

  • シモンは邪悪な教えを広げたペテロの敵対者で、その宣教を散々妨害した。しかし結局はペテロが惑わされた人々を正しいキリスト教の道に導いた(新約聖書外伝「ペテロ行伝」、教父文書の偽クレメンス文書)。

  • シモンは、ペテロとキリストを馬鹿にし「お前の神がそんなに凄いのなら、なにか証拠を見せてみろ。俺はお前と違って天に昇る事も出来るのだ」と自慢して魔術の力で、空を飛んでみせた。それに対しペテロは、神に祈っただけでシモンの術は破られ、地面に落下。骨折して死んだという(新約聖書外伝「ペテロ行伝」収録「シモンとペテロの術比べ」)。

また「パプテスマのヨハネの一番弟子だった」「キリストの真似をして復活を実演しようとして自分を生き埋めにさせ、惨めにもそのまま死んでしまった」といった伝承も伝わる。実際のシモン教団は教祖の死後もしばらく続き2世紀に入ってから「大いなる宣教」なるものをまとめた文書まで編纂したという。そこでは教主当人が「最高の力」として崇拝対象とされているが、当初からそうだったかまでは判らない。

③こうした試行錯誤の一環としてユダヤ教も正統派からキリスト教化したものまで東方地域よりローマの上流階層にかけて支持者を得たが、苦痛を伴う割礼などの儀式を経て本格的にユダヤ教に改宗するものはほとんどおらず、安息日にランプを灯したり、シナゴーグに通ってみたり、あるいは他の宗教を覗く様にユダヤ教の祭式を見学するに留める者が大半であった。そしてこういった人々が当時のローマ知識人からしばしば「神を畏れる人々」と呼ばれ嘲笑の対象とされてきたのである。

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④その点、既にパウロ62年没)によって改宗の為の煩雑な手続きを一切省略されていたキリスト教は、改宗を勧める上で極めて有利な立場にあった。儀式廃止に際してパウロは「元来パレスチナディアスポラユダヤ人はイスラエルの宗教の正当な相続者の立場にないので、それを守る必要はない」とし「本当のイスラエルはイエスに帰依する精神の中に存続する」と断言した。こうしてユダヤ教の持つ伝統的価値を利用しつつ、民族固有の歴史や生活様式は排除し「本当のイスラエル」とは、見込みの無い願望を抱えたユダヤ地域に逼塞するローカルな人々ではなく、世界中に広がろうとしているキリスト教徒の世界としたのだった。

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4世紀初頭まで、ローマ帝国ユダヤ教よりキリスト教との間に多くの問題を抱えていた。パレスティナにおけるユダヤ人の人口は激減し独立国家を持つ夢が完全に潰えて脅威でも何でもない存在と成り果てたユダヤ人と異なり、キリスト教には世界宗教独特の勢いの様なものが感じられたからである。そして2世紀に渡る迫害の歴史の後でキリスト教ローマ帝国の公式宗教として認められると復讐が始まり、パレスティナにおける状況は突如として悪化の一途を辿り始めたのだった。

まぁ「ユダヤ人観点から編纂した当時のキリスト教の歴史」とか、確かにこんな感じになります。で、因果は廻り、()ローマ帝国のかかる暴走はさらなる鬼子、すなわちイスラム教団西ローマ教会を生み出してしまうのです…