ああ、やっとこの話に触れる準備が整いました。
「初めバビロニアに星の知識を伝えたのは、BC3000年頃、東の山岳地方から侵入してきて、そこに建国したカルディア人であった。彼らは放牧民であったので、夜をこめて羊の番をする間に星空に親しんで、星を”天の羊”、惑星を”年寄りの羊”と呼んでいた。そして星占いを深く信じていたので、その必要から、太陽が空を一年でめぐる黄道を12の星座に分け、その他の部分にもそれを考えていた。」
*日本の星座の本はなにがしか野尻抱影氏の著作に影響を受けており、「羊飼い説」も著書「星座」の中にでてくる以下の記述を孫引きしているものと考えられる。
私も子供の頃は無邪気に本気で信じたりしてましたね。
まずは近代以前の西洋の状況について。
- 近代(19世紀)以前の西洋において「(紀元前4世紀~紀元前3世紀のそれを中心とする)ギリシャ古典の世界においては占星術やそれにまつわる天文学の起源はカルデア人とされている」「旧約聖書ではカルデア人のウルの羊飼いアブラハムがイスラエルの民を連れてエジプトに移住した」といった知識から「羊飼いのアブラハムがカルデア人の天文学をエジプトに伝えた」なる伝説が生まれた。おそらくこれに尾ひれがついてキリスト教の国でカルデア人羊飼いの星座起源伝説(Chaldean Shepherds)が生まれた。
- 後にバビロニアの発掘や楔形文字の解読により紀元前三千年期より都市文明が発達した事が明らかになると(元来は紀元前5世紀頃に成立した)黄道12星座や高度な天文知識も当時から存在したと信じられる様になった(バビロニアの楔形文字が最初に解読されたのは1857年,本来の星座の起源であるシュメール人のシュメール語が解読されるのは1940年代なので, この間にかかる俗信が広まったとも)。
日本にもこの説は伝播し学説として常識となった。例えば明治時代の旧制中学教科書(1904年版)にこうある。
- 紀元前3800年頃統一されたカルデア国はシュメール・アッカド・古バビロニアの三国を合わせた呼び名である。
- カルデア人は天文数理に精通し、日月の食を前知し、黄道を十二に分け星宮に命名していた(黄道12星座)。
以降昭和初期にかけてこの説は教科書をはじめ学者や作家も本や雑誌に書き大衆にも広まったが、何故か昭和5年(1930年)頃を境に古代カルデア王国は学術書から消えた。そしてギリシャ人が元々呼んでいた紀元前7世紀に新バビロニア王国(カルデア王国)を建国した人々のみがカルデア人となった。
既にRobert Brown「Primitive Constellations(1899年)」において「星座の起源羊飼い説」に準拠するのは「無知な作家」の証と指摘されている。
- さらにO.Neugebauerの「The exact sciences in Antiqyity(1957年初版, 1969年版p.101-102)」などによると、1957年(昭和32年)にはもうバビロニアで数理天文学が発達したのは紀元前三千年期~紀元前二千年期の古代ではなく、ギリシャ人がカルデア人と呼んでいた新バビロニア王朝(カルディア王国)より新しい紀元前5世紀頃(19年7回の閏月の発見)からであり、さらに発達したのがアレキサンダーのメソポタミア征服後のセレウコス朝時代(紀元前312年~紀元前63年)であった事まで判明していたという。
- ところが、冥王星の和訳命名者として知られる日本の天文民俗学者野尻抱影(1885年~1977年)および彼の支持者達はこうした知識のアップデートを怠ってしまったのだった。
1903年に旧制中学を卒業した野尻抱影は、戦後になってもシュメル人東方侵入説を吸収しつつ古代カルデア説の伝承を続ける。星座本は学術書ではないのでそれが許されてしまってきた。現在ではそれが間違いであることさえ誰も分からなくなった。
かくして処女作「星座巡礼(初版1925年, 新版1940年)」において「空を斯く初めて星座に区画したのは、天文学者では無くて、紀元前三千年にも遡る古代カルデアの羊飼いです」と断言し、戦後も「星の神話・伝説(白鳥社1948年, 縄書房1949年, 講談社学術文庫1977年)」以降はこれに手を加え「紀元前三千年期に東方からバビロニアに侵入した牧羊の民カルデア人(羊飼い)の天文起源説」を主張する様になった野尻抱影の著作は平成に入っても「校閲」もかからず重版再版が繰り返され続けている。
ちなみに現在の私の立場は以下となります。
*たった今検索したら「星座を考えたシュメール人は農民(だから羊飼い説は間違い)」とする別説が流行してて衝撃。シュメール文明はチグリス・ユーフラテス川流域に集まった農民と狩漁民と遊牧民の混交の結果成立するので「シュメール人=農民」と決め付けてもまた間違いなのでは?
- シュメール都市文明の成立期、すなわちウバイド期(紀元前5500年頃~紀元前3800年)の主要都市エリドゥからウルク期(紀元前3500年~紀元前3100年)の主要都市ウルクへ「メー(文化の恵み)」の移転事件があり、それが前者の衰退による終焉と後者の発展の開始を決定付けたとする伝承が存在する。
メソポタミア神話において、イナンナは知識の神エンキの誘惑をふりきり、酔っ払ったエンキから、文明生活の恵み「メー(水神であるエンキの持っている神の権力を象徴する紋章)」をすべて奪い、エンキの差し向けたガラの悪魔の追跡から逃がれ、ウルクに無事たどりついた。エンキはだまされたことを悟り、最終的にウルクとの永遠の講和を受け入れた。この神話は、太初において、政治的権威がエンキの都市エリドゥ(紀元前4900年頃に建設された都市)からイナンナの都市ウルクに移行するという事件(同時に、最高神の地位がエンキからイナンナに移ったこと)を示唆していると考えられる。
- 「啓典の民」としてこうした異教的環境から距離を置こうとしたヘブライ民族の士師や預言者達は、かかる「メー(文化の恵み)」の実態が「天体観測結果に基づいて農業暦を管理する神殿宗教を中心に人がまとまる政教一致体制」であり、例えば(カナン諸族的異教信仰に継承された)豊穣神信仰が農耕民の生活と完全一体化していたりする事実を発見し衝撃を受ける。旧約聖書の内容はまさしくこれとの戦いの歴史だったが、結論からいえば現代イスラエルのユダヤ暦にも四月の呼称として穀物神Tammūzの名前は残った。
- ちなみにシュメール文明においては、ここでいう「天体観測結果に基づいて農業暦を管理する神殿宗教を中心に人がまとまる政教一致体制」が少なくともとウルク期とそうやって成立したウルク型都市国家が次々と複製されて政争を始める初期王朝時代(紀元前2900年~紀元前2350年)の狭間に現れたジェムデト・ナスル期(紀元前3100年頃~紀元前2900年頃)に確立。後世、世界中で時間単位などの標準となる60進法などもこの時期から使用され始めている。実際(起源としては山岳信仰に由来すると考えられ、紀元前三千年期より築造が始まった)ジグラート(英Ziggurat, アッカド語:ziqqurat, 古代メソポタミアで盛んに建築された日乾煉瓦を数階層組み上げて建てられる巨大な聖塔)も神官達の天体観測に利用されていたとも考えられている。
所謂「メソポタミア天文学」は、数理天文学とは別にこうした歴史的側面も備えているのです。実はかかる恐るべき文化面での硬直化こそが「紀元前1200年のカタストロフ」の遠因の一つとなったとする説もあります。その一方で、少なくともヘレニズム時代(紀元前323年~紀元前30年)までは完全にこれ式で運用されてきた都市国家が確認されています(ただしその多くが後に気候変動か環境破壊の影響で砂漠に消えていく)。そして古代神殿信仰が完全に歴史上からその痕跡を断つのはさらに時代を降って西ローマ帝国滅亡(476年)後の紀元後6世紀に入ってからだったりします(東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世によるエレファンテネ のフィラエ神殿閉鎖, 550年)。
最近は紀元後250年頃~800年頃に「古代末期(英: Late Antiquity, 独: Spätantike, 仏: Antiquité tardive)」なる新しい歴史区分を導入しようという国際的動きがあって、その流れとも関わってくる歴史事象だったりもしますね。果たして「古代が終焉した」とは如何なる概念を指す言葉なのでしょう?
むしろその一方で「バビロニアにおいて数理天文学が発達し始めたたのはアケメネス朝ペルシャ時代(紀元前550年~紀元前330年)に入った紀元前5世紀頃(19年7回の閏月の発見)からで、それがセレウコス朝シリア時代(紀元前312年~紀元前63年)に加速し、最終的にはプトレマイオス朝エジプト(紀元前323年~紀元前30年)故地に残存したアレキサンドリア図書館で完成する」歴史的流れも動かないのが厄介なのです。
まさしく山本義隆「小数と対数の発見(2018年)」が描いた「数理の神学や形而上学からの脱却過程としての」技術史観へと繋がっていく訳ですね。
*出発点はやはり中国古典「易経」と同じく「天人相関説」だったっぽい。
*ただ古代エジプトや古代メソポタミアの灌漑農業では「洪水の毎の再測量問題」が存在し、この辺りが数理導入の萌芽となるっぽい。
果てされ、背後に如何なる時代を超越していく精神解放史を想定すれば良いのやら…