諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【黒澤明】【石原慎太郎】【三船敏郎VS石原祐次郎】【宝塚】1950年代におけるドストエフスキー「白痴(1868年)」に関する2つの解釈

昭和は遠くなりにけり…ですか。

おそらくアロハ・シャツに慎太郎刈り(角刈り)の「太陽族の時代(1955年〜1956年)」と、レザー・ジャケットやウェスタンにリーゼントの「ロカビリーの時代(1958年以降)」は、決っして混同してはいけないのです。実際には両方の時代がかなりの程度まで重なってるとしても。
ウエスタンからロカビリーの時代

太陽族映画三部作」の掉尾を飾る石原慎太郎原作映画「狂った果実(1956年)」では「太陽族=裕福な家庭の出身ながら、大人達への失望から堕落を望んでる大学生の若者達(ただしマリンスポーツ好きで体を鍛えており、割と体育会系)」の中心的存在となっている年長の日系人平沢フランク(岡田眞澄)だけがリーゼント姿。

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  • 舞台は逗子海岸のヨット・ハーバーで、拠点となるのは彼が管理を預かってるヴィッラ(villa=別荘)だが、おそらく彼が好き放題使ってる車もヨットも預かり物。ちなみにヴィッラの語源は古代ローマ帝国時代、すなわち地中海沿岸の、あの空ばかり青い渇いた地中海沿岸の景色をイメージさせる。
    *それは国際的にアメリカの西海岸と日本の逗子海岸を結びつけるキー・イメージでもある。

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  • 太陽族の連中が争う様にウィスキーを飲みたがるのを横目に、自分は焼酎。太陽族の若者達と異なり、彼自身にはアメリカ文化への憧憬などなく、だからこそ日本に活路を見出そうとしている雰囲気が見受けられる。
    *物語の進行過程で「スノビズムからウィスキーを飲みたがっていた太陽族の連中」は一人残らずヴィッラ(villa=別荘)から消え失せてしまう。彼らは期待に胸を膨らまして新しく出来たクラブに馳せ参じたもの、他のクラブと何ら変わらない事に失望し「どこへ行っても日本は日本ですよ」と嘆く。しかしながらフランク側からすれば、単純極まりないアメリカへのスノビズムに陶酔する彼らの存在こそが「どこへ行っても日本は日本ですよ」状態だったのかもしれない。映画の進行は、それがフランク側の堪忍袋の尾が切れて追い出した結果か、それとも「太陽族の連中」側の堪忍袋の尾が切れてフランクと決別した結果について、観客に判断を委ねる体裁を取っている。

  • 女は世間の回りもの」と達観し、人から容赦なく奪う一方で、何の躊躇もなく手放す。その態度はこの物語において滝島夏久(石原裕次郎)・春次(津川雅彦)の人生を狂わす「魔性の女」恵梨(北原三枝)の浮気を容認する外国人の夫(ハロルド・コンウェイ)のスタンスに通じる。
    *フランクいわく「女と魚はいつの間にかいなくなるものさ」。しかし両者はその「軽薄な」スタンス故に「魔性の女」恵梨(北原三枝)と、夏久(石原裕次郎)・春次(津川雅彦)兄弟の破滅を食い止められない。どちらも「さらなる深淵」には近づかない事で命脈を保っているリアリストなのである。これが当時の日本人の目に映ったアメリカ?

  • 意外にも射撃の名手。射撃に興じている瞬間だけ、心の奥底に抱えている鬱屈を垣間見せる。GHQ占領時代(1945年〜1952年)には、多くの日系人米兵が通訳として来日した。元その一人だったか、あるいはその息子という設定?
    日本人部隊「442連隊」の活躍 | 日系アメリカ人の歴史 | 現地情報誌ライトハウス

おそらくフランク自身は生粋の上流階層ではなく「日本の上流階層に取り入って立身出世を果たそうと考えている下賎の出自」といったイメージなのでしょう。まさしくスタンダール「赤と黒』(Le Rouge et le Noir、1930年)の世界。当人にエリートとしての驕りはありませんが、それでも、いやむしろそれ故に「太陽族の連中」には(少なくとも一時的には)眩しい憧憬の対象となった訳です。こういう複雑な人物がオスカー・ワイルド「ドリアン・グレイの肖像(The Picture of Dorian Gray、1890年)」におけるメフィストフェレス役、すなわち「逆説的道徳家」ヘンリー・ウォットン卿を演じるのですから、坂口安吾が「堕落論(1946年)」でいくら「まず堕ちてみよ」と煽ったとしても、その堕落にはおのずから限界があったとも。いやむしろ、こういう展開を見据えたからこその「堕落論」だったとも。

坂口安吾 堕落論

映画「狂った果実」の予告編では思いっ切り「背徳の世界に乱れ狂う若さ!!、若さ!!、若さ!!」とか煽ります。しかしながら「メフィストフェレス」のフランク(岡田真澄)や魔性の女」役の恵梨(北原三枝)が見知った深淵と比べれば、彼らの求める退廃など所詮は「お坊っちゃまの悪戯心」の域を出るものではなく、それ故に逆説的に安全だったりしたとも。

*現代人の感覚では「ホウボウの様に美しいが棘だらけの魔性の女と出会いたい」という表現が今ひとつピンとこない。でも、まさにその率直な感想こそが「不良だけど肉体だけは鍛え上げたマリン・スポーツ青年だった太陽族」を読み解く鍵とも。そういえば大正時代、学生ゴロやヤクザを叩きのめした「華族愚連隊」も、正体は案外「ボクシング・ジムに真面目に通うスポーツ青年」だったりしたのである。その起源はさらに幕末、身分を問わず解放されて独特の空気を醸成した剣道道場にまで遡るとも。

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*そういえば黒澤明監督映画でも「生きる(1952年)」に登場する小説家(伊藤雄之助)、自称「代償を求めない善良なメフィストフェレス」も、岸田國士が「最大の悪党」と表現した「どん底(1957年)」における遍路の嘉平(左卜全、原作では巡礼のルカに相当)もそういう存在が現世と半次元ズレてる感じのキャラクターながらそれなりに「安全」な存在として描かれている。マルキ・ド・サドの如き、鬱屈のあまり近づく者全てを堕落させ餌食とし、同等の相手とは騙し合いと殺し合いしか存在しない18世紀リベルタン(Libertin)的暗黒ロマンティズムはむしろ無縁なのが、フランス人にとってすらある意味心地よかったとも。

40夜『ドリアン・グレイの肖像』オスカー・ワイルド|松岡正剛の千夜千冊

学生時代、サド裁判(1959年〜1969年)というものがあった。

ぼくが初めて公判という場に行ってみた裁判である。サドの『悪徳の栄え』の翻訳が猥褻罪であるということで開かれた裁判だった。まだ若かった澁澤龍彦が裁かれるのである。

マルキ・ド・サドが裁かれるという、当時の思想者たちがやたらに興奮していた“思想的話題”にはそれほど関心がなかったぼくは、ただ澁澤龍彦を見るために公聴券を手に入れた。当時の澁澤龍彦が、ぼくの当面のヘンリー・ウォットン卿だったからだ。

その後、澁澤龍彦とは土方巽アスベスト館や神田の美学校で出会い、さらに鎌倉の書斎で何度も話しあうことになった。

ところが、その澁澤さんと最初に話してみたかったことはヘンリー・ウォットン卿のことだったのに、ぼくはついに一度もその話題を交わせなかった。

その話題を持ち出せなかったというより、持ち出さないほうがずっといいように思えたからだったろう。それに澁澤さんはちっとも悪魔主義的ではなかったのだ。ちなみに、ぼくが澁澤さんと交わした話題は、澁澤さんとよく話しこんだのが亡くなる十年前ほどの時期が多かったせいもあるのだが、むしろ中世日本の神仏習合についてのことだった。
*またもや鎌倉!!

 こうした「壁」を突破したのが「大人達に失望し、本能のおもむくまま振る舞う事に活路を見出そうとした」世慣れた兄・夏久(石原裕次郎)」ではなく「まだまだ人生に意味を求める潔癖性から抜け切ってない」純真無垢な弟・ 春次(津川雅彦)だった皮肉。しかもその先に待っていたのは「全てを破滅に追い込んで嘲笑する虚無」だけだったという皮肉。「狂った果実(1956年)」を読解するには、まずこの二重底状態をしっかりと認識しなければいけません。

黒澤明監督映画「白痴(1951年)」冒頭言

ドストエフスキーはこの作品の執筆にあたって、真に善良な人が書きたいのだ、といっている。そしてその主人公に白痴の青年を選んだ。皮肉な話だが、この世の中で真に善良である事は白痴に等しい。

この物語は一つの単純で正常な魂が、世の不信、懐疑の中で無残に滅びていく痛ましい記録である。

この作品を観て考えるのは、結局のところ太陽族って何だったんだろうということ。

太陽族は当時社会問題にもなったようですが、それはアロハシャツに慎太郎刈りだとか不純異性交遊だとか、映画の表面的な部分ばかりを真似た結果がそのような事態に発展してしまったわけですよね。でも、石原慎太郎が描きたかった若者の本質というのは、決してそのような薄っぺらなものではなかったのでは。

たしかに倫理性に欠けるような描写は多々あるものの「太陽族=単なる不良」で済ませようとするのはいかがなものか。それは、上っ面の部分しか見ていないからではないでしょうか。

戦後の大きく時代が変わりゆくうねりの中で、何か鬱屈としたものを抱えた若者の深い根っこの部分に渦巻くものは何なのか。

太陽族映画で描かれている学生たちというのは、終戦当時は就学するかどうかという年齢だったと思うのですが、幼い頃から信じ込まされていた「神話」が終戦により全て崩壊してしまい、それまで正しいと思い込んでいた価値観はなんの意味もなさないものになってしまったわけですよね。何を信じてよいのかという不信感や、この先どう生きて行けばよいのかという迷いは子ども心にも少なからずあったはずで、それが幼い純粋な心に影を落とした結果が太陽族の誕生に繋がったのではないかと考えてしまったりするのです。

同じ時代を生きてきた人間でも真面目に必死に生きてきた人たちはいたわけで、太陽族みたいなのは甘えだ堕落だというご意見も当然あるでしょう。しかし、太陽族というのは実はとても不器用で弱い人間の集まりで、その繊細さゆえに誕生した悲劇とも思えるのです。

人間、衣・食・住が揃って生活に余裕が出てくると不満が外に向かいがちになる…というのを何かで読んだことがあります。

映画に出てくる太陽族は裕福な家庭で育った若者たちなのですが、裕福であるが故に暇を持て余して外に発散の場を求めた結果がこれだったんでしょうかね。終戦直後の貧困と混乱の中では、このような若者などいなかったでしょうし。

どんなに裕福になったところで空虚な心は全く満たされなかったという悲しさも感じます。

まぁ、私はこの時代には生まれておりませんので、ここに書いたことも全て憶測でしかないのですが、でも太陽族映画は単なる不良映画ではないということだけは確かだと思います。

映画「狂った果実(1956年)」冒頭の状況説明的場面

日系人青年の平沢フランク(岡田眞澄)が留守を預かる湘南のヴィラ(別荘)に集まった若者達(大学生くらい)は、全員暇を持て余しているようだった。

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 滝島春次(津川雅彦)「(カード賭博に興じてる連中に対して)他に何かすることないんですか?」

平沢フランク「お前達が単なるヤクザだって言ってるんだよ」

平沢フランクの取り巻き「けっ、何言ってやがる。ヤンキー・ゴー・ホームさ」

春次「もっと他のことすりゃ良いじゃないか」

平沢フランクの取り巻き「他にって何よ?」

滝島夏久(石原裕次郎)「考えてみると、その他ってのがねぇのよ。インテリどもは色々理屈をこねてみせるけど、言葉の紙屑みてぇなもんでさ。そんなのどんなに飾られて綺麗でもよ、結局あの熱帯魚(水槽の中のネオンテトラ)みてぇにもろいものさ。見ろよ、こうやって泳いでてもよ、ちょっと水が濁ったり冷えたりすりゃじき死んじまうじゃねえか(灰皿の吸い殻を水槽の中に落として春次を驚かせる)」

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夏久「昔と違って、今の俺たちがそんな上品な思想に溺れてられるかってんだ。話すにしても、考えるにしても、もっとぴりっとした言葉が欲しいじゃないか」

平沢フランクの取り巻き「学校の教授どもの話を聞いてみろよ。節気一陽(これからが新たなる季節の始まり)。昔はあれで通ったかもしれねえが、今じゃ時代錯誤の世迷い事じゃねえか」

平沢フランクの取り巻き「ふざけるのもいい加減にしろよな。"諸君は今の時代のCaptain of industry(英国産業革命を牽引した新興産業階層)である"とか抜かしやがる。サイレント映画の時代じゃあるめぇしよ、ソ連中共のいる今時によ、良くそんな見果てぬ夢を追ってられるもんだよな」

平沢フランクの取り巻き「ああいう奴らが、日本を代表する学者や思想家で通っているんだ」
夏久「大人達が俺達にそっくり受け渡そうとする考え方や感じ方を見てみろよ。俺達にピンとくるものが一つでもあるかよ」

平沢フランクの取り巻き「まったくお手上げだね。俺たちは俺たちに合ったやり方で生きてくよ」
春次「じゃあ、今のそれがそうだっていうのかい。ただ、だらだら生きているだけじゃないか」
夏久「だらだらだと? これでも精一杯なんだぞ」
春次「結局、兄貴達のやってる事はただの出鱈目だよ。結局兄貴達は、自分で自分のやろうとしていること、良く分かってないじゃないか。だから退屈なんて言うんだ。兄貴たちみたいなのを太陽族って言うんだ。僕はそんなのは嫌だ!」
夏久「それじゃ、他に何をすりゃ良いんだ?」
春次「何って」
夏久「俺たちが、思い切ったことをしたくても、正面切ってぶつかる何があるんだよ?」
フランクが人から奪った女で、春次を坊や扱いする道子(東谷暎子)「要するに退屈なのよ、現代ってのは」

夏久「そうだよ、そうなんだよ。その退屈が俺たちの思想ってもんで、その中から何かが生まれるかもしれない」

道子「そうよ、そうなのよ。ところでお腹空かない?飯にしよう!」
話はこの後「女といっても雑魚ばっかりだ。大物はいないかね。水族館で見たホウボウみたいな、まばゆいばかりで棘のある女がよ」という女談義に進展し、夏久と春次の兄弟は「魔性の少女」恵梨(北原三枝)に翻弄される形で破滅へと突き進んでいく。
*まさしく米国における「オルタナ右翼(Alt-Right)」の供給源たる「絶え間なく冗談を言い続ける事で自分をHighに保ってるが、その実何も信じてないニヒリストの若者達」そのもの。

三作の「悲劇」の内容を比較してみましょう。 

  • ドストエフスキー「白痴(1868年)」 …「世俗の悪徳にまみれた」ロゴージンが「魔性の女」ナスターシャを独占したいあまり殺害してシベリア送りとなり、「純粋なる善意の象徴」ムイシュキンが発狂に追い込まれる。

  • 黒澤明監督映画「白痴(1968年)」ナスターシャ役の那須妙子(原節子)はやはり殺されてしまい、ロゴージン役の赤間伝吉(三船敏郎)とムイシュキン役の亀田欽司(森雅之)の双方が発狂に追い込まれる。

  • 狂った果実(1956年)」…純真無垢だったムイシュキン役の春次(津川雅彦)が、自分を裏切った夏久(石原裕次郎)と「魔性の女」恵梨(北原三枝)を殺し、ただ一人自分だけ生き延びる(とはいえ殺人犯となってしまった以上、もはや未来は閉ざされている)。

狂った果実(1956年)」の展開こそ「(例え次の瞬間には破滅が待つだけと頭では分かってはいても、本能の命ずるまま善悪の彼岸を超え様とする)ロマン主義的英雄」そのものの。だからこそフランス人に諸手を挙げて歓迎されたともいえそうです。「特攻型ムイシュキン」とは要するにこれ。身体的健全さゆえにむしろ「発狂エンド」など跳ね除けてしまうのです。ある意味黒澤明監督映画「生きものの記録(1955年)」における「原水爆に対する神経症的恐怖から発狂した家父長(三船敏郎)」と重なる?
*アメリカ人の感覚でいうとハーマン・メルヴィル「白鯨(Moby-Dick; or, The Whale、1851年)」におけるエイハブ船長。そして「新世紀エヴァンゲリオン(TV版1995年、旧劇場版1996年〜1997年)」における碇ゲンドウ。共通点はどちらも「自分を裏切った世界への復讐者」である事。

これはまさに「酔いどれ天使(1948年)」「野良犬(1949年)」「悪い奴ほどよく眠る(1960年)」「天国と地獄(1963年)」において「例え振り切れないにせよ、悪は悪として切り捨てねば、正義が存続出来ない」なる基本的立場を貫きつつ、「羅生門(1950年)」における多襄丸(三船敏郎)や「どん底(1957年)」における泥棒の捨吉(三船敏郎、原作では泥棒ペーペルに該当)に同情を表明してきた黒澤明監督の価値観に対する真正面からの告発に他なりません。

黒澤明監督作品「羅生門(1950年)」杣(そま)売り(志村喬)の証言

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多襄丸(三船敏郎)「俺はこれまで悪念に悩まされると、その悪念に命ぜられるままにしてきた男だ。それが一番苦しまない方法だと信じてきた。しかし今日は駄目だ。お前を手に入れたが、俺はますますお前が欲しくなるばかりだ。ますます苦しくなるばかりだ。頼む、俺の妻になってくれ。洛中洛野にその名を知られたこの多襄丸が、分かって両手をついて頼む。俺はお前がそういうのなら、この渡世から足を洗ってもいい。お前一人贅沢に暮らせるくらいの金銀は隠してある。いや、その様な汚れた金銀は好まぬというのなら、汗水垂らして働く。物売りに身を落としても、お前一人には苦労はかけん。お前が俺のものだと決まりさえすれば、俺はどんな苦労も厭わん。な、頼む。俺の妻になってくれ。頼む、もしお前が嫌だと言ったなら、俺はお前を殺すほかない。頼むから俺の妻になるといってくれ!! 泣くな。泣かずに俺の妻になるといってくれ。言わんか!!

女(京マチ子)「(それまで泣き崩れていたのに、突然すくっと身を起こし)無理です。あたしには言えません。女のあたしに何が言えましょう(短刀を手にして縛られた夫に駆け寄り、縛めを断ち切った後で再び泣き崩れる)」

多襄丸「わかった。これを定めるのは男の役目というんだな(剣の柄に手を掛ける)」

夫(森雅之)「待て、こんな女の為に命を賭けるのは御免だ。二人の男に恥を見せて、なぜ自害しようとせぬ!! 呆れ果てた女だ。こんな売女、惜しくはない。欲しいというならくれてやる。今となってはこんな女より、あの葦毛(の馬)を盗られるのが惜しい」

女「(呆れ果てて立ち去ろうとする多襄丸に向かって)待って!!」

多襄丸「来るな!!」

夫「(再び泣き崩れた女に向かって)泣くな!! どんなにしおらしく泣いてみせても、その手に乗る者jはおらぬ!!」

多襄丸「よせ。未練がましく女を虐めるな。女というのは所詮、この様にたよりないものなのだ」

女「(突然笑い出す)頼りないのはお前たちだ。(夫に対して)夫だったら、なぜこの男を殺さない? あたしに死ねという前に、何故この男を殺さないのだ? この男を殺した上で、あたしに死ねと言ってこそ男じゃないか。(多襄丸に対して)お前も男じゃない!!(破裂したかの様な笑い声を炸裂させる)多襄丸と聞いた時、あたしは思わず泣くのを止めた。このグジグジしたお芝居にウンザリしていたからだ。多襄丸なら、この私の救い様もない立場を片付けてくれるかもしれない。そう思ったんだ。このどうにもならないあたしの立場から助け出してくれるなら、どんな無茶な、無法な事だって構わない。そう思ったんだ。(再び破裂する様な笑い声)ところがお前もあたしの夫と同じで小利口なだけだった。覚えておくがいい。女は何もかも忘れて気違いみたいになれる男のものなんだ。女は腰の太刀に賭けて自分のもにするもんなんだ(二人が剣を抜いいて対峙したのを見て再三、破裂する様な笑い声
*明らかにゴーリキー「どん底(1901年〜1902年)」に登場する泥棒ペーペルを意識した展開。黒澤明監督は1957年に「どん底」映画化も手掛け、この泥棒ペーペルに該当する泥棒捨吉(三船敏郎)にオリジナルの台詞も言わせている。そのイメージは「白痴(1968年)」におけるロゴージン役の赤間伝吉(三船敏郎)とも重なる。だがもっと複雑怪奇なのはトラウマからこの女のニヒルな笑い声に感染してしまった多襄丸(三船敏郎)、そのキャラを引き摺った「七人の侍(1954年)」の菊千代とも。

ZEN in TECHNICOLOR (From the masterpiece ‘Rashomon’, directed by Akira...)

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黒澤明監督自身は1950年代に入ってから「焼け跡的センチメンタリズム」の払拭ないしは発展的解消を真剣に考えていた感がある。しかしながら、そんな彼にとって「太陽族ブーム(1955年〜1959年代)」や「松本清張が主導した社会派ミステリー・ブーム(1957年〜1960年代前半)」は、まさに「異次元からの侵略行為」に他ならなかったのではあるまいか?

 しかし日活映画は次の石原裕次郎主演映画「嵐を呼ぶ男(1957年)」以降の「アイドル映画」にこうした問題意識を引き摺る事はなかったのでした。ジャズとともに「ロカビリー」が本格登場するのはこの作品以降となりますが、逆に「世界」は遠のく事に…

石原裕次郎 - Wikipedia

父が亡くなった頃にショックから自暴自棄になった裕次郎は、家から金目の物を持ち出しては換金し、その金で銀座などへ繰り出す遊行三昧の日々を送り、兄・石原慎太郎から心配された。

そんな頃に兄は水の江瀧子より『太陽の季節』の映画化を促されたため、「裕次郎って弟がいるんだけど、遊び人でどうしょうもない奴で…弟を出してくれるんなら」という条件を提示したのである。瀧子はその条件を呑み、裕次郎は同作品で俳優デビューし、脇役ではあったが主演格に匹敵するダイナミックな存在感で注目されることとなる。

1956年3月28日、日活撮影所内の理容室で『太陽の季節』の撮影に際し、太陽族に扮する連中の「慎太郎刈り」のモデルを引き受けたのが日活での初仕事となった。

裕次郎本人は「太陽の季節」への出演は至って遊び感覚で、迎えの車に乗り初めて日活撮影所へ降り立った時は素肌にヨット・パーカーを羽織り、海水パンツにゴム草履履きといったいでたちに、その場に居合わせた宍戸錠小林旭は「何だ!ありゃあ?!?」と仰天したという(テレビでの小林旭談)。

さらに『狂った果実』が映画化されることとなり、シナリオを書き上げるため有楽町の日活ホテルに缶詰状態だった兄は左手で書くのは早かった。しかし読み難かったため裕次郎が「俺が清書しなきゃあ誰も読めない!」と付きっ切りで清書しながらも自身が演ずる役のセリフを少なくするよう慎太郎に催促するという具合であった。だが兄弟で一つの仕事を成し終えるその姿に世間は「太陽族の美しい兄弟愛」と褒め称えた。

幕末太陽傳(1957年) - Wikipedia

日活は当初文芸映画や新国劇との合作を主としていたが、1956年に『太陽の季節』を大ヒットさせると、石原裕次郎という新時代のスターが主演する若者向けの映画会社へと変貌を遂げていた。しかし、この映画によって登場した太陽族に対する世間の風当たりは強く、日活内部でも「太陽族映画」を拒否する傾向が強かった。そんな中で川島の提出した脚本はまさしく幕末の太陽族を意識させずにはおかないものであり、以後映画が完成するまでの間、川島と日活上層部との軋轢は絶えなかったという。
*もしかしたら「四谷怪談(1965年)」で伊右衛門仲代達矢)が放つ「首がとんでも動いて見せらぁ」は、この作品で居残り佐平次フランキー堺)が放ったセリフが起源?

また、3周年を記念する大作が古典落語をつなぎあわせた喜劇映画であったこと、石原裕次郎などスター俳優を脇に回して軽喜劇で人気を博していたフランキー堺を主役に据えたこと、品川宿のセット予算など制作費の問題で会社と現場との間で軋轢があったこと、そして川島がかねてから抱いていた待遇の不満などが積み重なり、結局川島はこの映画を最後に日活から東京映画へと移籍することになる。
*そういえば黒澤明監督が「どん底(1957年)」を撮影するのもこの年。

幕末太陽傳(1957年)」冒頭ナレーション

東海道線の下り列車が品川駅を出るとすぐ初山の陸橋の下を通過する。この陸橋の上を通っているのが京浜工業地帯を通過する最大の自動車道路、京浜国道である。この京浜国道にやや並行して横たわる街、これが東海道五十三次一番目の親宿、品川宿の現在の姿。この至って特徴のない街でやや目立つものとしては、北品川カフェー街と呼ばれる16件の特飲店、従業の接客婦91名、平均年齢34歳。
*画面に「城南の楽天地、北品川のカフェー街」の看板

しかしこの赤線地帯も、売春防止法制定(1956年5月24日制定、1957年4月1日施行開始、1958年4月1日完全施行)のあおりを食らって1年以内の閉鎖を余儀なくされており、354年の伝統を持つ品川宿もここに遊郭としての歴史に幕を降ろす訳になるのだが、これからこの映画が語ろうとするのは現代の品川ないしは売春問題の推移などではなく、文久2年(1862年)末の品川についてである。文久2年といえばあと6年で明治になる年である。幕末はいよいよ喧騒。北の吉原と並び称された南の品川塾もようやく衰えを見せ始め、とはいえそこは東海道の親宿、百軒に近い遊女屋に千人以上の女が妍(けん)を競い、それ相応の賑わいを見せていた。
売春防止法 - Wikipedia

  • 物語は横浜村のヘボン先生に養生を言い遣わされて品川宿に転がり込んだ労咳持ちの「居残り佐平次フランキー堺)」と、上海を訪ねてそこが完全に欧米列強の植民地と化しているのに衝撃を受け、幕府の異勅に抗議するため文久2年12月12日に同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを遂行した高杉晋作(1839年〜1867年、石原裕次郎)の束の間の邂逅を軸に描く。ちなみに高杉晋作が最初に狙ったのは横浜村だった。あくまでイメージだが、黒澤明監督映画「天国と地獄(1962年)」における「米軍兵の歓楽地横浜」を連想させる。
    英国公使館焼き討ち事件 - Wikipedia

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  • 英国軍が行軍の際に奏でるスコットランド兵のバグパイプに楼主夫婦が「南無妙法蓮華経」の御題目といわゆる「法華の太鼓」で対向する場面が出てくる。もしかしたらマーティン・スコセッシ監督映画「沈黙 -サイレンス-」に登場する「南無阿弥陀仏の念仏ばかり繰り返している寺」の元ネタかもしれない。ちなみに朝鮮の庶民はキリスト教が伝来するとパードレに聖書の内容を三行に要約させ、日本統治下に入ると日本人に教育勅語の内容を三行に要約させ、それだけは完全に暗記して繰り返す一方で、それ以上は決して何も覚えなかったという。ある意味これこそが「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的体制」における生々しい庶民の姿だったとも。

  • 高杉晋作が作ったとされる天保年間、江戸の寄席ではやった都々逸(どどいつ)「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」が繰り返し詠唱される。そもそも(誓いを破ると熊野権現の使いであるカラスが一羽(一説に三羽)死ぬとされた)熊野牛王符にまつわる伝説を念頭に作られた内容で、遊女が馴染み客相手に乱発するそれの回収を居残り佐平次が請け負って生活の足しにするのである。

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  • ドロドロの御歯黒溝に(多くの遊女が飼っている)猫の死体が浮いてる雰囲気は黒澤明監督映画「酔いどれ天使(1948年)」「醜聞 -スキャンダル-(1950年)」「生きる(1952年)」に登場する汚水溜まりを連想させる。花柳界の花は生きているうちが花。死んだら死体すらゴミ扱いでどこに葬られるかすら分からない。そういう状況下で遊女達が貸本屋の持ち込む心中物を読み耽ったり、実際に心中に及んだりする。

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作品自体はあくまでコメディタッチだが、この様にその背景となる世界観はあくまで重いのである。

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高杉晋作石原裕次郎)」と「居残り佐平次フランキー堺)」の邂逅

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高杉晋作「(英国異人館の絵図面入手を打診して)ここまで打ち明けた以上、断れば斬る」

佐平次「おっと、あっちら旦那方が異人館を焼こうが焼くまいが、関わりのねぇ事でござんすよ」

高杉晋作「そこまで知られていては、生かしては返せぬ」

佐平次「それが二本差しの理屈でござんすかい。ちょっと都合が悪くなりゃ、こりゃ町人申し訳ないが命はもらったときやすかね。どうせお侍様方は百姓町人から絞り上げた御上のお金でやれ尊王だ攘夷だって騒ぎ回ってりゃそれで気が済むだろうが、百姓町人はそうはいかねぇってんでぇ」

高杉晋作「何?」

佐平次「手前一人の才覚で世渡りするからにゃ、へへっ、首がとんでも動いて見せまさぁ」
*まさに「臣民(サブジェクト)」から「市民(シチズン)」への移行期。この映画は幕末期の尊皇攘夷志士を太陽族と重ねる事で、彼らもまたそういう段階に差し掛かった事を示唆したのだった。「虎の尾を踏む男達(The Men Who Tread on the Tiger's Tail、1944年〜1945年、公開1952年)」における武蔵坊弁慶大河内傳次郎)と強力(喜劇王エノケンこと)の束の間の邂逅を嚆矢とし、黒澤明監督が生涯にわたって描き続けた「伝説の人々(Legends)と庶民の束の間の邂逅」には、こういうバリエーションも存在したのだった。

キモノは別腹 2012年03月03日

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嵐を呼ぶ男(1957) - みんなのシネマレビュー

錆びたナイフ(1958年) - Wikipedia

赤いハンカチ(1962年) - Wikipedia


日活ってこのパターンが多過ぎる気も?

OTHER/日活アクション映画

胎動期(1954年~1956年)…製作再開から石原裕次郎さんのデビューまでの期間。他社の監督、俳優を引き抜いたり、新国劇の役者などを中心に活動。日活生え抜きの監督、俳優は1956年頃になり、やっと補助的な役割を果たす。

興隆期(1957年~1958…「狂った果実(1956年)」「嵐を呼ぶ男(1957年)」で石原裕次郎さんがスターとして注目され独走体勢に入り、それまでの日活株式会社に大きく貢献した。小林旭さんは、一本立ちしているものの後年の活躍はまだ見られない。また、この時期に後に活躍する監督・俳優がデビューした。

全盛期(1959年~1962… 『南国土佐を後にして』の大ヒットによって、始まった「渡り鳥・流れ者シリーズ」に代表される興行的成功により無国籍アクション映画が量産された時期。ダイヤモンドの活躍が中心だったが、トニーの死によって第一期ダイヤモンドライン(石原裕次郎小林旭赤木圭一郎、和田浩治)が崩壊した。 その後、宍戸錠さん、二谷英明さんが加わり、第二期ダイヤモンドラインが始まった。また「渡り鳥シリーズ」がこの時期に終わった。

 

爛熟期(1963年~1967年)… ムードアクションと呼ばれる石原裕次郎さんと浅丘ルリ子さん共演の一連の作品(『赤いハンカチ』『夕陽の丘』など)と、宍戸錠さんのハードボイルド・アクションが新たな日活らしさを発散していた。また、この時期、無国籍アクションに代わるスタイルを模索中であったために多様な作風が生まれた。一方、この時期東映任侠映画が登場し隆盛を迎えていた。
東映任侠映画…しかし「チョンマゲを取った時代劇」、すなわち義理人情に厚く正しい任侠道を歩むヒーローを主人公とする虚構性の強い仁侠映画は1960年代末までに観客から飽きられ、すっかり行き詰まってしまった。その閉塞感を打ち破ろうとする試行錯誤が松竹の山田洋次監督映画「男はつらいよシリーズ(1969年〜1997年)」や東映深作欣二監督映画「仁義なき戦い・シリーズ8作(1973年〜1976年)」を生み出す事に。

再興期(1968年~1971年)… 日活ニューアクションが次々に作られた時期。しかし、皮肉にも公開時には興行的評価が低く、話題になったのは後年に名画座などでの上映によるものだった。渡辺武信先生は『縄張はもらった』をニューアクションの先駆的作品と評価されている。
*『縄張はもらった(1968年)』…小林旭主演作品。共演者は宍戸錠二谷英明梶芽衣子。新興都市の土地買収にからんだヤクザどうしの利権争いを描く。当時人気があった東映映画を敵である新興ヤクザにあてはめると、地元のヤクザを興行的に劣勢の日活とみた場合、東映軍団(高倉健鶴田浩二の二大スターが人気を誇っていた)日活オールスター軍団(全盛期スターと後のニューアクションで活躍するスター)との戦いとして見ることもできる。東映に先駆けて制作された「実録やくざ」路線とも。興行的には振るわなかった。

永井豪原作映画「ハレンチ学園実写版4作(1970年〜1971年)」の爆発的ヒットなどがあり、倒産寸前だった日活はなんとか経営を立て直した。しかし巻き添えで風評が地に落ちてしまう。「戦争と人間(1970年〜1973年)」にその儲けを注ぎ込んだのは、風評回復の為だったとも。

*ちなみに国際SNS上の関心空間においては、タランティーノ監督が絶賛した東映のピンク・バイオレンス映画代表作「女囚さそりシリーズ4作(1972年〜1973年)」を主演した梶芽衣子を発掘した「野良猫ロックシリーズ5作(1970年〜1971年)」の人気が圧倒的に高い。

*とはいえ「女囚さそりシリーズ」の源流には「黒人搾取映画(Blaxploitation Movie、1970年代前半)の女王」パム・グリアーを発掘したロジャー・コーマンのプロデュース映画「女囚シリーズ三部作(1971年〜1974年)」の国際的大ヒットもあった事を決っして忘れてはならない。そしてこれがアメリカやイタリアでは「ナチ収容所物」に化けてしまうのである。
WOMEN IN PRISON MOVIE

そして以降、日活は「ロマンポルノ」路線で身を立てるしかない状態へと追い込まれていく。

 どうして日本って、こうなの?