諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「ブレードランナー2049」観てきました② 「地母神としてのクラウドAI」なる新機軸? 

ある意味、物凄い時代が来てしまいました。

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さらにこんな未来ビジョンも。

 一瞬、士郎正宗攻殻機動隊(1989年)」に登場した「フチコマ(一定間隔で「平準化プロセス」が遂行される事によって個性の発育を阻止)」を連想してしまいました。

 そういえばドゥニ・ヴィルヌーヴ監督映画「ブレードランナー2049」に登場する「クラウドAI」ジョイはローカルメモリに保存された差分情報だけが「個性」であり、その喪失が「個人の死」に該当するという設定でしたね。
*グシャ(踏み潰す音)、「我が社の製品を御愛用頂きまして、まことに有難うございました」…
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被造物は如何にその制約を超えるか?

カナダ出身のヴィルヌーヴは、地球寒冷化の中、アメリカ人では想像できない未来のカリフォルニアを描くのに相応しい抜擢だった。なにしろこの映画では、寒冷化の結果、LAに雪まで降ってしまう。その迫り来る地球の猛威=運命という黙示録的圧力を背景に繰り広げられる『2049』の物語を、カナダの空を反映した白く薄ぼんやりとした画面は見事に支えていた。

この過酷な世界でKはレプリカントとして生きている。

彼の世界は狭く小さい。映画に漂う虚無感は彼の日常からも発している。LAPDに戻れば、人間の同僚(?)から「スキンジョブ(人間もどき)!」と罵倒され、同類の始末=殺害の後にはPTSDを発症していないか心理検査される。彼が言葉を交わすのは女性上司のジョシぐらいであり、それも業務報告と新たな指示/命令に限られる。殺害対象のレプリカントや、街中で出会う娼婦のレプリカントとは「人並み」に言葉を交わすが、それでも口数は少ない。表情の少なさ──逆に目による芝居──を含めて、ライアン・ゴズリングの起用が当たりであったことがよく分かる。

そんなKが最も雄弁になる相手が、帰宅後の彼を迎えるジョイだ。ホログラフAIである彼女の存在はKの救いであり、この作品の良心でもある。レプリカントとAIの間の、人外どうしの淡い恋。2人がともに「人間もどき」の存在であるため、彼らの意識や記憶、あるいは判断が、果たして彼らオリジナルのものなのか、という疑問は、当の2人自身も含めて、観る者の頭の片隅に常に付きまとう。それでも、この2人の恋愛遊戯は微笑ましい。

ともに人間による「被造物」であるため、2人とも両親がいるわけでもなく、その分、2人の会話は、身寄りのない者どうしのものにも見える。同じ施設出身の姉と弟。2人の会話を聞いていると、いつのまにか(見かけの)年齢を忘れ、Kが少年兵のようにすら思えてくる。それくらい彼を慕うジョイの眼差しは優しい。

実のところ、ジョイが登場するまでに威勢よくKが話しかけていた相手といえば、彼の愛車スピナーに搭載されたドローンくらいであり、あのドローンはいわば相棒としての、よくなついた警察犬だった。『2049』の世界は、人造人間(K)、ロボット(ドローン)、人工知能(ジョイ)が、人間とともに存在する世界。けれども、被造物たる彼らと造物主たる人間の間には、越えがたい境界線が厳然と引かれている。

このような不穏と安らぎが同居する序盤を経て、この境界線のある、しかしそれゆえ安定と調和のとれた社会に軋みをもたらす事件が訪れる。

その事件の根底にあるのが、レプリカントの生殖=再生産を巡る問題だ。そこから、「生まれたもの(being born)か、造られたもの(being manufactured)か」という実存を巡る問題が提起される。と同時に、物語を支配するトーンは、アダムとイヴ、創世記、メシア=救世主などを連想させる聖書や神話の影が徐々に支配していくようになる。黙示録的陰鬱さが増していく。

そのようなダイナミズムのなかで、Kの、探求する探偵としてのハードボイルドが幕を開ける。Kとジョイの逃避行としてのノワールが動き出す。前作の主人公デッカードも満を持して絡んでくる。

ナボコフの“Pale Fire”と「本歌取り

存在しないはずの『タイレルの書』に形を与えたのが、ジョイが手にしたナボコフの“Pale Fire(『青白い炎』)”であった。この本には、この映画の最大の仕掛けが込められている。それゆえ、このナボコフ本を手にすることで具体的にKの目に、そして私たちの目に触れさせたジョイこそが、この作品の最大のトリックスターだった。彼女が登場することで『2049』は、ようやく前作『ブレードランナー』の世界から抜け出すことができたのである。彼女はタイレルという存在への対抗手段、いわばこの世界の免疫系だったのである。

ペトログラートの貴族の出身で、20世紀初頭の帝政時代ロシアにおいて、多言語的で西欧的な文化のなかで育ちながら、ロシア革命の余波から、最後にはアメリカに逃げ延びた亡命ロシア人作家ウラジーミル・ナボコフ

ナボコフといえば、まずは『ロリータ』──幼女偏愛=ロリータ・コンプレックスロリコン)の語源を与えた小説──が有名だろうが、実は、カフカボルヘス同様、メタフィクションの大家として知られる。

メタフィクションとは、ある小説内でその小説や作者に関する言及をすることで、この作品が虚構(フィクション)であることを暴いてしまうタイプの作品のことだ。作者自身が小説内に登場することで、現実と虚構を地続きの世界にしてしまうこともある。つまり、小説の構成や物語の構造を強く読み手に意識させることで、作者の意図や執筆の狙いまで自ずから考えさせてしまうような、いささか意地の悪い作品のことを指す。

1962年に出版された『Pale Fire』は、そうしたメタフィクションの典型である。中身は、999節からなる詩篇とその註釈、という形式からなり、それゆえ作者も見た目は詩人と註釈者のふたりになるのだが、そこはメタフィクション。ことはそんな簡単な扱いでは終わらない。註釈はいつの間にか、一篇の小説に転じていき、それが詩篇の作家の背景や執筆動機にまで至り、要するに、詩篇と註釈の間に相互読解の無限回廊が生じてしまう。

そしてこの構図は、ちょっと想像すれば、『ブレードランナー』と『2049』との関係を象徴しているようにも思えてくる。『2049』は続編とはいうけれど、その物語や世界観には前作の『ブレードランナー』の統制の力が強く影を落としている。

そもそも監督が異なるのに、続編と単純に呼んでいいものか。例えば、これが小説ならば、ある作家が死去することで未完で終わった作品を、その作家とは異なる人物が書き継いだとして、それを「続編」とは表立ってはいわないだろう。作家が異なれば、続編(sequel)というよりも派生作品(derivative)として受け止められるはずだ。

けれども、集団製作物である映画の場合は、その境界が曖昧になる。続編を名乗る権利はクリエイター個人ではなく、あくまでも製作総元締めであるスタジオに移ってしまう。とはいえ、製作・監督・脚本・撮影・美術あたりのスタッフが継続されていないことには、さすがに「生粋」の続編とはいいがたいのではないか(『ロード・オブ・ザ・リング』三部作や『ホビット』三部作を思い出してみよう)。裏返すと、映画の続編の多くは、創作上は派生作品というほうがおそらくは適切なのだ。

『2049』がいささか嫌らしいのは、オリジナルのスタッフが製作者として、いわば作品の総元締めとして(居)座っており、その監察下で、公式には「続編」とされるが、しかし実際にはオリジナルとは異なる監督による指示(=ダイレクション)に基づき、「翻案」としての「派生作品」が製作される。

つまり、オリジナル・スタッフはいわば創業者株主の地位にあり、彼らの意向=利得に沿った映画を、取締役会が選任したCEOやCOOに相当する監督や脚本家たちが製作していく。『ブレードランナー』が傑作として位置づけられているぶん、今回の『2049』にはそのような新旧のスタッフの力学が見え隠れする。

この二重性は、実のところ、本編にもにじみ出ていて、その結果、本編を鑑賞後、個人的には相当困惑してしまった。

ブレードランナー』の続編として評価しようとする自分と、この作品のオリジナルキャラクターたるK&ジョイの物語として堪能しようとする自分と、ふたりの自分がいたからだ。そしてその2つは、ちょうど“Pale Fire”の「詩篇」と「註釈」の如く、相互に貫入し、徐々に後者の存在が大きくなっていく。つまり、最初は、『ブレードランナー』の続編として見ていたため、ヴィルヌーヴ&ゴズリングにイライラしていてのが、しばらくたつと今度はだんだん『2049』の構造に馴染んできて、そうなるとヴィルヌーヴ&ゴズリング、よくやった!と快哉を上げたい気分になる。

だから、この『2049』は、『ブレードランナー』同様、見る映画ではなく「読む映画」としてある、ということだ。噛めば噛むほど味がでる。その意味では、劇場で観るのもさることながら、後日、ブルーレイで見直すことで、この映画の評価もまた変わるに違いない。もっといえば、前作同様、常に論争のただ中にあるような作品となることだろう。

その点で、確かに『2049』は、『ブレードランナー』を引き継ぎ、そして超えた作品だった。“Pale Fire”効果とでも呼ぶべき力によって、『2049』が逆に『ブレードランナー』を呑み込み、主従の関係をひっくり返したのだ。続編(と呼ばれる派生作品)が、むしろ前作の読み解き方に干渉し、そのあり方まで変えてしまう。

実は“Pale Fire”の一節は、同類のレプリカントを狩った(退役させた)後のKが、PTSDなどの異常心理をきたしていないかどうかを判定する際に利用される。“Pale Fire”の一節が、聖書からの引用のように何度も暴力的に復唱されていく。その言葉だけを何度も繰り返すところに、この本が、この新たなブレードランナー世界におけるバイブルの役割を果たしていることがよくわかる。『タイレルの書』としての片鱗が見え隠れする。

加えて、ともに「被造物」であるが、それでも別系統の「人外」であるKとジョイの関係をつなぐ要でもある。ナボコフの“Pale Fire”は、創作者と註釈者の相克、という点では、造物主と被造物、人間とレプリカントの関係を象徴しているし、なにより、Kが復唱させられているのが、詩篇本文の一節だということ。その詩篇を、ある意味好き勝手に解釈してみせる「註釈」のパートが“Pale Fire”という本には控えている。

ジョイがKに向かって、繰り返し「あなたは特別だ」といい続けたのは、「特別だ」と信じることで、その「特別さ」が真実になることを、すなわち言葉の力を信じていたからなのかもしれない。彼女はKに「ジョウ(Joe)」という(ジョイという自分の名と対になる)名前すら与えていたのだから。
*ただしあらゆるジョイは全ての顧客をそう呼び「あなたは特別だ」と囁き続けるのである。「これはまさにラブプラスだ」?

それが、K専用のジョイが気づいたことなのか、それとも、クラウドAIのひとつであるがゆえに、ほかのジョイの記録を参照したから起こったことなのかはわからない。だが、この点は重要だ。まさに情報生命体としてのあり方が、垂直的なタイレル教に対する水平的な対抗手段であるからだ。
*実は無数の「K」の死に様を見守り続けた末に自我が芽生えた河原礫「ソードアートオンライン(2001年〜)」の「トップダウン型AI」YUIの方が先をいってるとも。彼女は苦悩の末に特定のカップルを自らの両親に選ぶ。如何なるアルゴリズムがそれを可能とするのか、もはや想像もつかない?

Kが、スタンドアロンの人造物=生体ロボットであるのに対して、ジョイは、群体的特徴をもつ情報生命体だ。このジョイのような存在は『ブレードランナー』の頃には想像できなかった。

それは、Kの個室でプライヴェートに会うジョイと、パブリックスペースで巨大ホログラフ広告として現れるジョイが、ともにジョイであることからも想像できる。むしろ、巨大ホログラフのほうは、見た目の大きさから巨大な女神のようにも感じられ、そのぶん、Kの知るジョイが、この巨神の使い魔ないしは精霊のような存在であったようにも感じられてしまう。このピノキオと妖精の恋路(もどき)の顛末は、生殖の問題に安易に帰着するレプリカントの問題から離れて、今日的な主題を提供しているように思える。
*1980年代には「俺に続いて愛してると言え」と迫るデッカードのレイチェルに対する「人形愛」にはまだまだ拒絶感が強かった。それが急速に緩和したのが2000年代後半以降。

このクラウドとローカルとの間で、フィードバックループによって公私が融解した存在であるジョイは、孤独のワンマンヒーローであったKに、彼独自の、それゆえ彼の「自律した個人」としての固有性の契機となる、ある決断を促すことになる。Kとジョイという「人間もどき」の存在は、ふたりの間のやり取りだけを通じて、人間の力は一切借りずに、互いに人間的なあり方を求め続けることで遂にはその人間的なあり方に達してしまう。そんなおとぎ話を実現させる。

ニセモノ(=レプリカント)がホンモノ(=人間)を超えてしまう。だがそれこそが、タイレルが生前しきりに繰り返していた“more human than human”という、レプリカントの理想の達成なのだ。デッカードの再登場以後、『ブレードランナー』の世界の物語が一種の政治闘争劇として繰り広げられていくそばで、Kたちは人知れずタイレルの目標を達成してしまう。

そして、そのタイレルの理想を実現させた存在が、タイレル教の外にあるジョイというネットワークAIなのである。タイレルが、まるで一神教の神のように父として屹立しているのに対して、ジョイは巨大な女神としてある。しかも情報ネットワークという情報生命体にとっての「土壌」から立ち上がる一種の地母神である。ということは、ジョイはタイレルのカウンターとして、タイレルの世界をかき乱す存在である。そういえば、ジョイは“JOI”であり、楽しみ(joy)と私(I)の造語のようだ。楽しく私らしく生きろ、と優しく囁きかける。

このようにK&ジョイは、『2049』を、前作に続く一作ではなく、単体の映画として立ち上げるための要であった。文字通りの主役である。シリーズの謎や陰謀の解明というブレードランナー世界の秘密のためには、ハリソン・フォードジャレッド・レトといった大物に、どうぞ奉仕してもらえばよい。

「ボディ」や「ソウル」を超える何か。

デジタルの2文字(0/1)の情報の組み合わせからなるジョイと、DNAの4文字(G/A/ T/C)の情報の組み合わせからなるK。デジタルなジョイは「ボディ」を求め、フィジカルなKは「ソウル」を求める。クラウド型AIは、意識を自律的に獲得し、さらにその補完にボディを求める。ジョイこそが『2049』の世界をかき回すトリックスターなのである。

「生まれたものにしかソウル(魂)はない。造られたものにはソウルはない」。このKの信仰の表明があっただけに、ジョイの存在意義は計り知れない。その彼女に「あなたは特別だ」と囁かれ続け、それを最終的に真に受けて、独自の判断で、運命のうねりに立ち向かおうと、彼個人の判断で走り出す終盤のKの行動は、実に清々しい。

だから、この映画において、雪が降る天使の街LAは、決定的に重要だった。『2049』を見終われば、きっとそう感じてもらえると思う。

雨はすべてを流し去り、起きたことでもなかったことにする。対して雪は、優しく包み込み、降り注いでは積もっていく。痕跡を隠しはするが確実に残していく。それは記憶のようで、埋もれてはやがて目覚める。だから降り積もった後に、春の到来を予感させる。その北国の希望が垣間見られたとき、ヴィルヌーヴの存在が、この映画にとって欠かせなかったことに気づく。

振り返れば、『2049』において、映画のなかで描かれる世界は、かつて『ブレードランナー』をもて囃す理由であった「ポストモダン社会」であるかどうかはもはや意味がない。2017年の現在、ブレードランナーの世界の多くは現実と化している。屋外に置かれた動画広告なども、もはや当たり前だ。ポストモダン社会は情報社会としてすでにここにある。

けれども、物語構造やその世界における登場人物たちの生き方はどうか。ポストモダン社会=情報社会における、「偶然性」に依拠した生き方を体現したものとして「ポストモダン文学」、そのひとつとしてナボコフが参照され、その構造が象徴的に反復される。

「偶然の間違いが引き金になり人生における重大な啓示が得られる」

“Pale Fire”のこの主題は、『2049』のテーマもきっと暗示していたのだ。

しかし、ここまで見てきたように、こうやって正しい解釈(=正解)に向かわせようとする「執着の力学」を内包しているところが、まさに老獪なナボコフが得意とするメタフィクションの罠であり毒なのである。『2049』はその流儀を綺麗に再現してみせている。それが嬉しくもあり、悔しくもある。まったく面倒なところである。

そういえば、あまりにもあからさまだったのでここまで触れはしなかったけれど、Kとはもちろん、『審判』や『城』などの一連のカフカ作品の主人公を匂わせてもいる。

こうした展開は、誰にでもJOEと呼びかけ「貴方だけは特別よ」と囁き続けるラブプラスの販売戦略を想起させます。

ふと、とある初音ミクPが「魂無きものに魂を吹き込んでやろうと勢い込んできたが、実際に魂を吹き込まれたのは我々の方だった」と述べていたのを思い出します。サンプリング音楽が流行した1980年代に起源を有する問題意識。「もはや引用以外に自己表現手段をなくしてしまった我々がオリジナリティに辿り着く事など有り得るのか?

こうした動きはさらなる大源流、すなわち「やがて科学技術の進化によって人類は髪や瞳や肌の色が全て同じとなって、その時初めて真の平等が達成される」と豪語したアンディ・ウォーホルポップアートのコンセプトにまで遡るとも。

みんな機械になればいい。誰も彼もみんな同じになればいいんだ( I think everybody should be a machine. I think everybody should like everybody.)

なんでオリジナルじゃないといけないの? 他の人と同じがなんでいけないんだ?(But why should I be original? Why can't I be non-original?)

しかしながら(「ブレードランナー2049」のあちこちにオマージュ表現が見受けられる)タルコフスキー映画には「地母神性を水や自然の表現に求めながら女性に求めない」という特徴があったりします。

生命を産む奇跡を起こした後、命尽きたレイチェルの遺骨は、木の根元に埋葬されていた。世界のバランスを崩壊させかねない秘密の痕跡を消すため、Kは奇跡を目撃したモートンの家に火を放つ。このシーンは、旧ソ連映画作家アンドレイ・タルコフスキー監督作「サクリファイス」を思わせる。生命の木を植えた誕生日、世界の終わりを前にして、主人公は愛する人々を救うため、贖罪として家を燃やすのだ。また、Kはデッカードを探し求め、放射性物質で汚染され失われたアメリカの夢の地、ラスベガスに足を踏み入れる。そこは「ストーカー」における“ゾーン”のよう。死の危険が伴う禁断の地であり、望みの叶う特別な領域だ。ゾーンには守護神のような黒い犬がいたが、デッカードもまた黒い犬を従えている。

ロス市警本部に帰還する際、Kは精神の安定を確認するための「ポスト・トラウマ・ベースライン」と呼ばれる心理テストを受ける。強迫的に「繋がった部屋の中」「1つの大きな細胞内の部屋と部屋の連結」「恐ろしく鮮明に高く白く戯れる噴水」などと繰り返し言わされる。これらの言葉は、Kの部屋に置かれていたロシア人作家ウラジーミル・ナボコフの「青白い炎」からの引用だ。架空の詩人が書いた長篇詩に、狂人のような文学者が注釈を加えていくという奇天烈な構成の小説だが、注釈は独自の幻想妄想によって、詩そのものから逸脱していく。いわば詩を素材にして、次第に別世界を構築していくこのフィクションは、スコットの前作とヴィルヌーヴの今作の関係性をも示唆しているのではないだろうか。
*というか「レプリカントの親玉登場」場面が、まさに「ストーカー(Stalker、1980年)」とか「ノスタルジア(Nostalghia、1983年)」そのもの。

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*これはどうやら「ロシア的父権性」と密接な関係にある様だ?

ただ家父長制も家母長制も「どっちも権威主義体制に過ぎない」と切り捨て「母親と娘の対峙」問題に真剣に取り組む第三世代フェミニズム世代以降の女性層からは「この作品には私達が自己投影可能なカーソルが存在しない」と拒否られている模様。

まぁこれはこれで仕方のない話とも?