諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【進化の多様性と多態性】今日なお人類は遺伝子的進化を続けている?

人類は今日なお遺伝子的進化を続けている?

f:id:ochimusha01:20180428104521j:plain

ほとんどの人は、水中で息を止めていられるのは長くて2、3分ほどだろう。しかし、バジャウ族の人々は素潜りでどんどん潜ってゆき、水深60メートルのところに10分以上もとどまることができる。彼らは、フィリピン、マレーシア、インドネシアの周辺海域で、素潜りで魚を獲ったり、手仕事の材料にする天然資源を採集したりして暮らす漂海民族だ。

このほど学術誌『セル』に発表された論文で、バジャウ族の人々には脾臓が大きくなるDNA変異があり、遺伝的に水中での活動に適した体になっていることが初めて確認された。

これは凄い…

f:id:ochimusha01:20180428104550p:plain

性選択」を疑う声も。要するに「(素潜り漁でバリバリ稼ぐ脾臓の大きい男達」の方が漁の最中死亡率も低く、かつ嫁もドンドンきて子孫も残せる…

実は最近話題になっているのには経済要因も。

そういえば古代世界においては国際的にこんな循環史観が支配的で、中国に至っては歴代の中華王朝全てがこの段階に留まっていた事を認めていたりするんです。

中世イスラム世界を代表する歴史哲学者イブン・ハルドゥーン(1332年~1406年)のアサビーヤ(عصبية 'aabīyah)論

田舎や砂漠بدو badw、バトウ)」の集団は質実剛健で団結力が強く「都市حضرḥaḍar、ハダル)」の住人を服属させて王朝を建てる。だが代替わりが重なると、建国の祖たちが持っていた質素で武勇を尊ぶ気風が失われ、奢侈や富裕生活への耽溺により王族同士の団結力が弱まり、かつて服属させた都市の住人のようになる。そうして支配力が低下するうちに、田舎や砂漠から来た別の集団につけ込まれ、実権を奪われたり王朝が滅ぼされてしまう。かくしてその集団によって新たな王朝が誕生するが同じ道をたどり、また次の連帯意識を持った集団に取って代わられていく。
*近代到来以前にユーラシア大陸やアフリカ大陸で勃興した諸王朝を考察する上で絶対に欠かせない仮説とされている。

1399夜『歴史序説』イブン=ハルドゥーン|松岡正剛の千夜千冊

1404夜『遊牧民から見た世界史』杉山正明|松岡正剛の千夜千冊

f:id:ochimusha01:20180430072014j:plain
*五大陸仮説において「ユーラシア大陸&アフリカ大陸」とそれ以外(南北アフリカ大陸、オーストラリア大陸南極大陸)を分ける重要区分をも形成している。

①歴史上それが最初に観測されるのは古代メソポタミア地方に起こった(大地王エンキ(Enki)/生命神エア(Ea)を守護神とする)エリドゥ(Eridu)(地母神イナンナ(Inanna)/イシュタル(Ishtar)を守護神とする)ウルク(Uruk)や(至高神マルドゥクMarduk)を守護神とする)バビロン(Bāb-ilim)といった祭政一致形態の神殿宗教を奉じる都市国家群において。
*ある意味、まさにハイデガーいうところの「集-立(Gestell=ゲシュテル)システム(特定目的の為に手持ちリソース全てを動員し様とする総動員体制)」の起源。当時の記録はそれが「メー(文明の恵み)」を中心に構築されていたと記すが、その正体は(その先進性に魅了されて絶えず周辺地域より流入し続ける)奴隷労働力に立脚する灌漑農業(天体観測技能を有する神官達の農業暦によって統制される)や、(何度焼き払われても再び人が集まって再建される)交易需要を満たす特定地域の繁栄などであった。このシステムは労働者階層だけでなく、支配者階層すら使い捨てにして「前1200年のカタストロフ」前後まで存続。

②システムを殺せるのはシステムのみであり、この種の神殿宗教を神殿破壊や住民の強制入れ替え(旧住民の分散追放と新住民の移入)によって破壊したのは(アッシリアによって始められ、新バビロニアによって模倣され、アケメネス朝ペルシャによって最初の完成形が提示された)帝国なるシステムだった。これに対抗すべくヘブライ人は信仰の拠り所を(集-立(Gestell=ゲシュテル)システムの拠点としての)神殿から経典に移し、史上初めての「啓典の民」となる。
*そして(あくまでヘブライ語のみが尊いと考える)ユダヤ教徒から(ギリシャ語の使用も正当と考える)キリスト教徒や(アラビア語こそ尊いという結論に至った)イスラム教徒が分離。

③以降、宗教者集団は、特定の集-立(Gestell=ゲシュテル)システムから離れ(僻地の無学な野蛮人から成り上がった)新支配階層に「正しい統治の仕方」を指導する超越的存在として君臨する様になる。その一方で支配階層側も「自らの統治の仕方」を正当化してくれる宗教者集団を自前で養成して対抗する様になる。
*いわゆるアラビア哲学(10世紀〜12世紀)は、こうした緊張感が産んだ産物であり、それが欧州に伝わってスコラ学となる。ところがこうした「支配階層側が自らの統治の仕方を正当化してくれる宗教者集団を自前で養成するシステム」は、その発祥の地たるイスラム世界においては最終的に根絶やしとなってしまう。

「啓典研究」には、その範囲を選定して各聖典の文言を徹底吟味していくプロセスこそが実証主義史学の先駆けとなったり、その各国語への翻訳が各国における民族主義運動の出発点となった歴史も存在するのだが、同時に「すでに研究は完了した。新解釈の追加も翻訳も原典に対する侮辱」と考える反進歩主義原理主義に陥って思考的停滞状態に陥る可能性も秘めていたりする。

  • そもそもアラビア語以外を真理を語り得る言語として採用せず、ガザーリーによるスンニ派古典思想の完成によって古代ギリシャ哲学との比較を諦めてしまったイスラム教。さらにワッハブ派の様な近代原理主義者は、そのスンニ派古典思想からさらにイスラム教に国際的普遍性を持たせたスーフィズムイスラム神秘主義)の「人は観想を通じても真理に到達可能である」とする発想すら排除しようとする。
    *そもそもイスラム王朝の運用主体がペルシャ系やティルク系に移った事すら認めないアラブ・ナショナリズムには「ラテン語原理主義の立場から現在の欧米諸国の存在そのもの在り方を全面否定する」様な反民族主義的側面が存在する。ISIS団も「イスラム聖典にはローマ陥落に成功したとは書いてない」とし(テュルク系民族によって開闢された)オスマン帝国によるコンスタンティノープルの陥落(1453年)すなわち(東)ローマ帝国滅亡を認めない立場を採用していた。

  • そもそも漢語以外を真理を語り得る言語として否定する儒教。特に禅宗から出発しながら「人は観想を通じても真理に到達可能である」なる観点を放棄し「読書と静坐の積み重ねによる漸修」のみを認める朱子の「四書(論語孟子、大学、中庸)」注釈が科挙科目に採用されて絶対権威化されて以降、教学研究が完全停滞状態に陥ってしまう。
    *清代に入ると明朝滅亡と異民族王朝復活のショックから儒教の原点を経書・史書に求め、史料批判技法の研鑽を通じて六経への回帰を目指した考証学実証主義的古典学)や習行(繰り返しの実践)を重視する行動主義的哲学に到達した顔李学派も登場したが、いかんせん「科挙合格者(朱子学の盲目的受容者)のみが国政に参加可能」とした(外国人皇統にとっても都合の良い)中華王朝運営理念の壁までは破れなかったのである。

  • 概ね英語で執筆された「欽定訳聖書(King James Version / Authorized Version、1611年)」から出発するプロテスタント原理主義。実は「聖書は最初から英語で執筆された」とか「聖書に記述のないダーウィン進化論が正しい筈がない」などと言い出し、かつ「人は観想を通じても真理に到達可能である」なる観点についても妄言と退ける辺り最もカルト度が強烈。

そして結果としてラテン語を捨て聖典の各民族言語への翻訳を許し、かつまた実証主義史学に到達した欧米文化圏だけが「中世の闇」を不可逆的な形で突破する事に成功する。

ナショナリズムの発生以前にあった共同体の代表としてアンダーソンが取り上げるのは「宗教共同体」と「王国」という二つの文化システムです。

  • この二つの共同体は「聖なる言語」とそれを読む文人を中心にして想像される共同体でした。「聖なる言語」は領土や民族にも限定化されません。つまり、その言語を学びさえすれば原理上誰でも「聖なる想像の共同体」に編入可能だったのです。
    *欧州においてはラテン語が、中華王朝の影響を受けた文化圏においては漢文が、この「聖なる言語」に該当する。当然知識の蓄積もこの言語を用いてのみなされていったが、中にはインドの影響を受けた文化圏におけるサンスクリット語の様に「強力な呪文」としてのみその権威性を残した言語も存在する。

  • また「時間の了解」形式も、当時と現代とでは違っておりました。「聖なる想像の共同体」における時間の了解形式は、当時のステンドグラス等を見れば感じられるように「円環的」でした。つまり当事において、過去の出来事は「歴史という原因・結果の数直線をたどって現在へとたどり着く」というようなものではなく、宇宙論と歴史とは区別不可能なものだったわけです。アンダーソンはこの観念を、ベンヤミンの言葉を借りて「メシヤ的時間」と呼びます。
    メシア的時間について
    直線的時間と円環的時間

ナショナリズムの発生と歴史的変化は、この二つの共同体と、それを構成する「聖なる言語」や「メシヤ的時間」という観念を掘り崩し「国民共同体」へと変貌させていく過程として描かれます。

  • 時間の了解形式における「メシヤ的時間」から「均質で空虚な時間」への変化…これが「私有財産的言語」と結合して国民という観念が生まれ、ブルジョワジーと知識人を苗床として広まっていく。

  • 「聖なる言語」の特権性が「出版語」によって相対化・領土化されていく変化人文主義者の古典発掘と欧州の全地球的規模への拡大を背景として出版資本主義(Print Capitalism)と俗語ナショナリズムが政治利用される様になっていく。

そして最終的に実証主義的科学に基づく歴史観ナポリの歴史哲学者ジャンバッティスタ・ヴィーコがその主著「新しい学 Principi di scienza nuova(1725年)」で提唱した「真理を認定するだけでなくその発見過程も同時に保存され続け、認定済みの真理に誤謬が発見された速やかに適切な修正が施される知識体系」として完成したのです。
*ここで大事なのが、実証主義的科学導入には「あらゆる仮説に対する反証可能性の保証」が不可欠だという事で、ジャンバッティスタ・ヴィーコ歴史観はその条件を満たした史上初めての歴史観だという事。
874夜『新しい学』ジャンバッティスタ・ヴィーコ|松岡正剛の千夜千冊

ベネディクト・アンダーソンアメリカ独立戦争フランス革命を契機に生まれた「革命史観」こそが「中世の闇」を不可逆的な形で突破の鍵となったと主張するが、その「革命史観」における「革命」の概念が(実際の歴史との関係が不明瞭であるにも関わらず)一切の反証を拒絶するという点において実証主義史学の範疇に含み得ないという問題点を抱えていたりする。
*その一方でベネディクト・アンダーソンの「革命史観」は(イブン・ハルドゥーンのアサビーヤ論から自由な)アメリカや南米の独立戦争の産物と指摘している点が実に興味深い。
821夜『想像の共同体』ベネディクト・アンダーソン|松岡正剛の千夜千冊

*何しろそこからは(対外戦争においてのみ団結し、全体を統括する大首長の登場を絶対に許さない地方分権状態の維持こそが主目的たる)部族連合段階から直接現れたイロコイ連邦などを「あるべき民主主義のマスターピース」として崇める流派が台頭した。確かにドイツ系住民とマジャール系住民の連合がかえって他民族の独立運動を促進してしまったオーストリアハンガリー二重帝国、ティルク系支配階層に対するギリシャ人やアルメニア人などの癒着体制が同様の効果を招いたオスマン帝国、帝政時代やソ連時代の「民族アイデンティティ抹消政策」が却って体制の自滅を招いたロシア、オランダ系先住民と英国系新移民による権力独占を目論んだアパルトヘイト政策が却って「黒人連合」成立を促進してしまった南アフリカの歴史からはポジティブな教訓は見出せないのである。
イロコイ連邦 - Wikipedia

イブン・ハルドゥーンのアサビーヤ論における「田舎者」は概ね「(しばしば部族連合段階から出発しつつ強大な首長を抱く様になった特定の国土を中央集権的に領有しない馬で移動する砂漠や草原の遊牧民族、あるいは船で移動する漂海民族」を指します。ユーラシア大陸の多くの地域においては、メソポタミア地方に都市国家群が登場した世界史上最古の段階から(技術革新を積み重ねてきた結果、この地まで大英帝国帝政ロシアの影響が及ぶ様になった)Great Gameの時代までこれが繰り返されてきたのでした。
*特にアサビーヤ論の循環論的歴史観が当てはまるのは「古代メソポタミア諸都市を巡る支配権の争奪戦」や「(やがてイニチアシブをペルシャ人やティルク系所属に奪われた)イスラム帝国や(やがてイニチアシブを欧州諸侯に奪われた)ヴァイキング運動や(やがてイニチアシブをペルシャ人やティルク系所属やチベット人に奪われた)モンゴル帝国の興亡」などとされる。

f:id:ochimusha01:20180428141831j:plain

  • 海の商人】フェニキア人(古代ギリシャ語Phoiníkē、羅Phoenices / Poeni、英Phoenicia)…「前1200年のカタストロフ」の影響で神殿宗教も帝国も一時的衰退を迎えた紀元前10世紀頃に台頭したが、あまりにも詳細不明でこの枠組みに含めて良いか正直不明。在地有力者を政略結婚によって取り込み、現地に神官を送り込んで「バール(男主人)/ バーラト(女主人)二重信仰」を広める形で地中海沿岸部一帯を比較的均質な交易圏に再編。しかしながら紀元前8世紀以降、地中海西部をギリシャ商人に奪われ、残りも紀元前後に(共和制から帝政への移行期に該当する)ローマに滅ぼされた。
    *ここではとりあえず「前1200年のカタストロフ」の主体たる「海の民」や、フェニキア商圏とアケメネス朝ペルシャの狭間で一瞬だけ輝いた「ギリシャ商人」なる存在自体については割愛。その出自が極めて複雑怪奇で、今日なお全貌が解き明かされていない為である。例えばイオニア人ドーリア人と並ぶ古代ギリシャを構成した三大集団のひとつとされるアイオリス人は紀元前3000年頃にドナウ川流域から移住してきたと考えられているゲルマン所属の先輩格であり、彼らの持ち込んだ神話には明らかにゲルマン諸族のそれとの共通項が存在する。

  • 【海の商人】タミル人(Tamil)南インド沿岸ののタミル・ナードゥ州やスリランカの北部・東部が出身地。紀元前から3世紀にかけては古代地中海文明を代表するフェニキア商人やギリシャ商人やローマ帝国と中継貿易しながら(逆に地中海文明にまで影響を与えた「黒い地母神」を流心とする)独自文化を育ててきた。外洋走破に不可欠な竜骨を備えた「崑崙船」を武器に東南アジアを超えて中国沿岸部・朝鮮半島・日本列島といった東アジア地域にまで到達。
    モルジブ諸島起源の「鰹節文化」を日本まで伝播させた人達とも推測されている。

    鰹節 - Wikipedia

    モルディブ起源説は、鰹節の製法が交易によりモルディブから東南アジアを経由して日本にもたらされ、その後日本においてカビ付けの工法が考案されたとする説である。

    今日、鰹節が広く伝統的な食習として定着している国は日本だけであるが、インド洋の島国モルディブには、モルディブ・フィッシュ(Maldive fish)と呼ばれる、サバ科のハガツオ(Sarda orientalis)を原料とするカビ付けをしていない荒節が古くから伝わる。本説は、このモルディブ・フィッシュの製法が日本に伝わった、というものである。

    本説においては、鰹節の日本における最古の起源は沖縄にあると言われている。スリランカ等を含む周辺地域で郷土料理の味つけに用いられるものの、削って用いるのではなく、袋に入れて棒でたたき割ってから用いられる。手間を省くために工場で粉砕した粗い粒状の製品も市販されている。しかし、明確な伝来過程などは証明されていない。

    実際のところ、魚を乾燥させて固くした食品は、中国の咸魚、スペインのバカラオなど、世界各地に存在し、日本でも他に棒鱈が存在するため、製法が伝播したというよりも普遍的なものである。また、煮出して出汁として用いる魚、魚の加工品も多々存在し、日本には他に煮干しが存在する。鰹節とモルディブ・フィッシュの共通性は、細かくしたものを煮出し、出汁として用いるという点にある。つまり、鰹節に似た使い方をする魚を乾燥させた食品が、別の地域にあった、という程度に過ぎない。

    f:id:ochimusha01:20180428140210j:plain

    タミル人は長崎県に住んでいた?『日本語の起源(新版)』(大野晋著)より | INDIA GO!

    f:id:ochimusha01:20180428134644j:plain

  • 【草原の民】テュルク(Turkic peoples / Turks)/タジク(Tājīk)二重体制…現代ではタジキスタンを中心に、アフガニスタン北部、ウズベキスタン東部、中国領新疆ウイグル自治区の西部などに居住するイラン系民族を指す近現代的民族区分となっているが、その起源は中世から近世にかけての中央アジアイラン高原といった中央ユーラシアの乾燥地帯において、住民を2つのグループに大別しタージーク(タジク)とテュルクと呼び分けていた時代まで遡る。ここでいうタジクとは、ペルシア系の言語を使い、都市あるいはオアシス集落定住民が多く、都市文化になじんだ諸集団に属する人々。一方テュルクとは、テュルク系の言語を使い、多くは都市やオアシスの間に広がるステップ地帯で遊牧生活を送る遊牧民の諸集団に属している人々の意味であった。後者は上掲のイブン・ハルドゥーンのアサビーヤ論に従ってしばしば入れ替わる支配階層として各王朝で君臨。前者はそれぞれの管轄地の地方行政を担うと同時に支配階層が支配を遂行する為の官僚団の供給階層として機能してきたのである。
    *後者はさらには、いわゆるシルクロード中継貿易の重要な担い手の一環でもあり続けてきた。

    f:id:ochimusha01:20180428134847j:plain

  • 【海の商人】ハドラマウト(حضرموت (Hadramawt) / Hadhramaut)…現在はイエメン共和国領となっている南アラビア沿岸地域を本拠地とする。古代フェニキア文化を継承し灌漑農業や航洋技術を駆使した商業で暮らしを立ててきたが、6世紀頃に東ローマ帝国ササン朝ペルシャの戦争が泥沼化すると代替交易路の担い手として急成長。7世紀にアラビア半島内陸部にイスラム教が勃興すると、その伝達者として地中海沿岸沿いのマグリブ(Maghreb、チュニジア以西のアフリカ大陸北岸地域)やアンダルス(al-ʾandalus、イベリア半島南部)ばかりかさらなるアフリカ奥地、そしてインド南岸を超えて東南アジア一帯へと進出した。イスラム教の学派としてはセルジューク朝(Büyük Selçuklu Devleti、1038年〜1157年 / 1308年)の国教だったシャーフィイー学派を継承。
    *表面化してきた時期こそ遅いが、彼らもまたユーラシア大陸を横断する中継貿易網を担う重要な一環であったと考えられている。むしろ当時は(一時期のギリシャ商人同様に)それに寄食する海賊だった色彩が強いとしても。

    f:id:ochimusha01:20180428134044j:plain

    オマーンからわが国への主な輸入品目(輸入額ベース)の第1位は原油であり,第2位は液化天然ガス(LNG)として輸入される天然ガスとなっています。第3位には,2009年にソハールのアルミ精錬プラントが稼働を始めたことに伴い,突如としてアルミニウム塊が現れています。第4位もエネルギー関連品目でありますが,第5位にはいんげんまめ,第6位にはもんごういか(冷凍),第7位にはめばちまぐろ(冷凍)が入っています。特にいんげんまめは当地の冬場の温暖な気候を活かして栽培されており,冬場のわが国のいんげんまめのシェアの9割を占めています。

    反対に,わが国からオマーンへの主な輸出品目は,自動車,機械,電気製品となっており,街中では多くの日本車が走っている他,日本の機械,電気製品にも高い信頼が寄せられています。また,輸出額として大きくはありませんが,オマーンは香港に次いで日本のマスクメロンの世界第2位の輸出対象国となっています。

  • 【ゲルマン系諸族】ブルグント族(英Burgundians、羅Burgundiones)スカンジナビア半島からボーンホルム島(Bornholm、古ノルド語による古い表記ではBurgundarholmr)、後にヨーロッパ大陸へと移住した東ゲルマン諸語を話すゲルマン人。フランスにおけるブルゴーニュ地方の語源。スウェーデンの詩人であり初期の神話学者でもあったヴィクトル・リュードベリ(Viktor Rydberg、1828年-1895年)は、中世初期の文献『Vita Sigismund』に基づき、ブルグント族は自らの起源がスカンジナビアであると口承していた、と述べている。ローマ帝国滅亡期のどさくさにまぎれて支配下にあるガリア人傀儡皇帝の権威によって5世紀に王国を維持。これが後に叙事詩ニーベルンゲンの歌」の一部となる英雄伝説のテーマに選ばれ、さらにそれを元にワーグナーが「ニーベルングの指環」を作曲する運びとなる。イスラム教が勃興した7世紀には一時期イスラム教団の支配下に入っているが当時受けた影響などについて詳しい調査は行われていない。
    *欧州の地中海沿岸地域において共有される「ナスを使った郷土料理」の大源流をイスラム教団やヴァイキング冒険商人の軍粮に求める声もある。

    f:id:ochimusha01:20180428141541j:plain

  • 【ゲルマン系諸族】ランゴバルド人(英Lombards, 伊Longobardi, 独Langobarden, 仏 Lombards, 羅Langobardi, ギリシア語ラテン翻字: Langobardoi)西ローマ帝国が滅亡し、東ローマ帝国ササン朝ペルシャの戦争が泥沼化した6世紀後半にまぎれて南下し、イタリア半島の大部分を支配する王国(ランゴバルド王国)を築いたゲルマン系部族。日本語ではしばしば英語形に基づきロンバルドとも表記される。またロンバルディア地方の語源。
    ランゴバルド人 - Wikipedia
    *その末裔がイタリア半島にノルマン人を傭兵として引き込んだのが最後の足跡となる。そして以降、ロンバルディア諸都市の市民達は教皇庁に忠誠を誓って神聖ローマ帝国の南下に備える様になる。

    【草原の民】マジャール人(Magyarok / Magyár)…原住地はウラル山脈からボルガ川流域地方にかけて。9世紀末よりハンガリーへの侵攻を開始して「(カロリング朝フランク王国起源の)鎧で踏ん張る衝突重装槍騎兵の密集突撃」を武器とするザクセン辺境公末裔にして初代神聖ローマ皇帝となるオットー大帝(Otto I. der Große、在位962年〜973年)にレヒフェルトの戦い(955年)で破れ、キリスト教を受容して定住。次第にその歴史的独自性を喪失していった。

    ハンガリーはスペインと並んで「地中海沿岸地位行きの味覚」パプリカの産地としても知られる。

    f:id:ochimusha01:20180428142051j:plain

  • 【海の民】ヴァイキング(英Viking、典Viking、独Wikinger)…所謂ヴァイキング船(Viking Ships)」、すなわちフェーリング (færing=四本櫂船)、クナール(knaar / knarr / knorr / knörr=大西洋向け貨物船)、ロングシップ(longship / Dragonship=喫水が浅い長船/竜船)、カーヴ(Karve=小型のロングシップ)といった海上の武器だけでなく「(カロリング朝フランク王国起源の)鎧で踏ん張る衝突重装槍騎兵の密集突撃」なる陸上の武器も後天的に獲得。しかし次第にその強さの鍵だった部族連合的結束を失い13世紀までに歴史的独自性を喪失。
    *最近ではヴァイキングがフランスのノルマンディ地方やブリテン諸島イタリア半島南部や中東に拠点を築いた時代には英国やフランスに陣取るノルマン系貴族(ピレネー山脈によって当時のイスラム文化圏と隔てられていた)とイベリア半島北岸のアストゥリアス系貴族(西ゴート王国貴族末裔、レコンキスタ運動の起点)、ブルゴーニュ地方のブルグント系貴族、ロンバルディア地方のランゴバルド系貴族などと緩やかな部族連合状態を維持しており、ロマネスク建築などにその足跡を残したと考えられている。そしてこうした文明の精瑞ともいうべきクリュニー修道会やシトー修道会の腐敗に反旗を翻す形でフランチェスコ修道会やドミニコ修道会設立に象徴される「12世紀ルネサンス」はその産声を上げる事になったと考えられる様になったのである。

  • 【砂漠の民】ベルベル人(Berber)あるいはアマーズィーグ(al-Amāzīgh)…古代より想像を絶する複雑怪奇な歴史を繰り返してきたマグレブチュニジア以西のアフリカ北岸)原住民。ただし文明化されたのはフェニキア商人全盛期にまで遡る。優秀な傭兵の供給地として名高く、帝政ローマ支配期にはラテン文化、ヴァンダル族支配期を経て東ローマ帝国支配下に入ってからはギリシャ語、イスラム帝国勃興後はアラビア語を受容。「田舎者」としての全盛期は(アッバース朝衰退後、イスラム教の衰退を嘆く神秘的秘密結社が辺境部で形成され、マグレブばかりかアンダルス(イベリア半島南部)まで脅かした)ムラービト朝(1040年〜1147年)やムワッヒド朝(1130年〜1269年)辺りで、その宗教的熱狂から領内のキリスト教徒やユダヤ教徒に改宗を迫る姿勢が(東ローマ帝国セルジューク朝への大敗北を契機とするアナトリア半島失陥と並んで)十字軍運動開始の主要因の一つとなったし、またイベリア半島北部や南仏プロブァンス地方に逃げ込んだセファルダム系ユダヤ人とアシュケナージユダヤ人の邂逅がカバラー(ユダヤ神秘主義)を誕生させたり、彼らの育てた(新プラトン主義やアリストテレス文献に立脚する)アラビア哲学が欧州に伝わってスコラ学が形成されたりしている。宗教的寛容性を取り戻し、地中海貿易で栄えたモロッコ地域のマリーン朝(1196年〜1465年)やチュニジア地域のハフス朝(1229年〜1574年)やアンダルスのナスル朝グラナダ王国(1232年〜1492年)といったベルベル人諸王朝はしかしその代償に大幅に国勢を落とし、それを補う意味でも砂漠の遊牧民族との融合が進行する(トゥアレグ族問題などの起源)。そしてスペイン帝国のモスリコ追放に際してはイベリア半島から追い出されたイスラム教徒の受け皿として機能。16世紀以降はオスマン帝国支配下に入ってアラブ化が進行し、捕虜としたキリスト教徒の奴隷化を生業とするバルバリア海賊の本拠地となった。19世紀に入るとキリスト教徒の奴隷を解放する為に第一次バーバリ戦争(1801年〜1805年)、第二次バーバリ戦争(1815年)、アルジェ砲撃(1817年8月27日)などが遂行され、最終的にはフランスに植民地化されて以降はフランス語がアラビア語に代わる公用語となった。現地アラブ人同様にその一部はアラビア語を捨てフランス語に乗り換え、フランスの植民地支配に協力的な知識人層を形成し、フランス支配の中間層として働く様になる。その一方で植民地支配に対する抵抗も継続し、この過程でベルベル人はアラブ人とムスリムとしての一体性を高めた。そして独立後のマグリブ諸国ではアラブ・ナショナリズム台頭によってベルベル文化への圧迫とアラブ化政策がかつてない規模で進められる展開を迎える。
    ベルベル人 - Wikipedia

  • 【草原の民】モンゴル民族(英Mongol、蒙Монгол、中蒙古族…7世紀頃よりモンゴル高原に現れた遊牧民族の集合単位で13世紀から14世紀にかけてユーラシア大陸の大部分を版図とする世界帝国を建築した。衰退後は次第にチンギス・ハーンの血統の継承者を至高とする統一原理だけでは回らなくなり「イスラム教の宗教的主導者による善導」や「チベット仏教の宗教的主導者による善導」を受動せざるを得なくなっていく。
    *モンゴル民族による均質的統治を可能としたのは、上掲のテュルク(Turkic peoples / Turks)/タジク(Tājīk)二重体制の伝統である。元朝(1271年〜1368年)成立以降の中華王朝ではこれと科挙制度が融合を果たし、その枠組みが明朝(1368年〜1644年)や清朝1616年〜1912年)にも継承された。

  • 【海の民】アラブ首長国連邦(Emirates)アラビア半島ペルシア湾アラビア語圏ではアラビア湾と呼ぶ)に面した地域に位置する7つの首長国からなる連邦国家で首都はアブダビ。東部ではオマーンと、南部および西部ではサウジアラビアと隣接し、直接国境を接していないもののカタールの一部地域を巡る領有論争が存在する地域。メソポタミア文明インダス文明海上交易の中継地点として栄えたマガン(紀元前2500年頃〜紀元前2100年頃)を起源とし、紀元前6世紀頃に対岸に興ったアケメネス朝ペルシアの支配下に入り、7世紀以降はイスラム帝国に編入された。16世紀に入るとヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見してポルトガルが来航。オスマン帝国との戦いに勝利して一部地域を獲得し、その後150年間ペルシア湾沿いの海岸地区を支配した(それ以外の地域はオスマン帝国の直接統治下に置かれ続ける)。現在のアラブ首長国連邦の基礎となる首長国は17世紀から18世紀頃にアラビア半島南部から移住してきたアラブの部族によってそれぞれ形成され、北部のラスアルハイマやシャルジャを支配するカワーシム家と、アブダビやドバイを支配するバニヤース族とに2分された。18世紀から19世紀にかけてはペルシア湾を航行するヨーロッパ勢力に対立する海上勢力「アラブ海賊」の本拠地「海賊海岸(Pirate Coast、現ラアス・アル=ハイマ)」として恐れられ、同じく海上勢力として競合関係にあったオマーン王国ならびにその同盟者であるイギリス東インド会社と激しく対立。1809年にはイギリス艦船HMSミネルヴァを拿捕して(Persian Gulf campaign)、海賊団の旗艦とするまでに至ったが東インド会社はインドへの航路を守るために1819年に海賊退治に乗り出し、ボンベイ艦隊によって海賊艦隊を破り、拿捕されていたミネルヴァを奪回の上に焼却。1820年には英国とペルシア湾に面するこの地域の海上勢力(この時以来トルーシャル首長国となった)の間に休戦協定が成立してトルーシャル・オマーン(Trucial Oman:休戦オマーン)あるいはトルーシャル・コースト(Trucial Coast:休戦海岸)が出現 。さらには1835年まで航海防衛を続けた東インド会社首長連合間に「永続的な航海上の休戦」に関する条約が結ばれ、この地域における英国の支配権が確立した。この休戦条約によってトルーシャル・コースト諸国とオマーン帝国(アラビア語: مسقط وعمان)の休戦も同時成立し、陸上の領土拡張の道を断たれたオマーン帝国は東アフリカへの勢力拡大を行い、ザンジバルを中心に一大海上帝国を築くこととなる。一方トルーシャル・コースト諸国においては、沿岸の中継交易と真珠採集を中心とした細々とした経済が維持されていく展開を迎え、1892年までに全ての首長国大英帝国の保護下に入った。そして1971年にアブダビ、ドバイ、シャールジャアジュマーンウンム・アル=カイワインフジャイラの各首長国が集合して連邦が建国され、 翌1972年にはイランとの領土問題で他首長国と関係がこじれていたラアス・アル=ハイマが加入して、現在の7首長国による連邦体制が確立する。
    *もちろん「独立」への機運の高まりはは1950年代中盤以降の石油探査成功を起点としている。特に1968年にイギリスがスエズ以東撤退宣言を行って以降は独立しての存続が困難な小規模の首長国を中心に、連邦国家結成の機運が高まった。連邦結成の中心人物だったアブダビのザーイドは当初、北のカタールバーレーンを合わせた9首長国からなるアラブ首長国連邦 (Federation of Arab Emirates:FAE) の結成を目指していたが、カタールバーレーンは最終的に単独独立を選んだのであった。

 

こうしたある種の王朝循環史観からの脱却は「(全国をあまねく覆う官僚制の徴税によって火器を大量に標準装備した常備軍を養う中央集権国家」が登場し、それには同じ中央集権国家しか対抗し得ない状況が広まる事で達成されたのでした。
かくて欧州諸国、オスマン帝国ムガル帝国などが世界史上頭一つ抜けた存在となり、やがてこれに大英帝国からの独立を果たしたアメリカ合衆国、江戸幕藩体制を一瞬にして跡形もなく葬り去った大日本帝国、ハプスブルグ君主国からの独立を果たしたイタリア王国ドイツ帝国が合流してくるのです。

しかし考えてみればこの過程全体が生物学的には「人類の肉体そのものが進化の主題ではなくなっていく」プロセスに該当したとも。それなら代わって「進化の主体」となったシステムは一体何だったのでしょうか?