個人が個人を超えて持続する共同体から一人抜け出した時、初めてその個人の生涯がおのれの享楽の尺度となった。個人はおのれ自信が、事物の変化から出来るだけ多くの体験を得ようと欲する様になった。王でさえ己自身になりきり、自らが建てた宮殿に住みたいと欲する様になったのである。
マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus,1904年~1905年)」が資本主義社会の下部構造の起源を「プロテスタント的禁欲主義と聖職意識と貯蓄欲」に求めたのに対して、ヴェルナー・ゾンバルトの「恋愛と贅沢と資本主義(Liebe, Luxus und Kapitalismus、1912年)」はそれを「個人主義の発展=自由と贅沢の追求」に求めた。
「権力は、何者がそれを行使するにしても、それ自体においては悪である」という立場に立ったスイスの文化史学者ブルクハルトは、それに対抗する倫理的力を個人の名誉心に求めた。「何しろイタリア人は個人にしか感動しない」とブルクハルトは断言する。*現代風の言い方では「自負心(塩野七生)」の方が通りが良いかもしれない。当時の「名誉心」の概念には「一族の」というニュアンスも色濃いが、今日ではそうした発想自体は随分と薄まってしまっている。
①この感情は古代にはまた別のニュアンスで知られており、中世には特定の階級に付属する特定の行動指針と考えられていたが、それとは切り離して考えねばならない。しばしば名声欲に移行するが、両者は本質的に異なる。
- 「古代の名誉心」…おそらくアリストテレスの実践知「中庸(Mesotes)」あたりを指す。原義では「(蛮勇と臆病のバランスで成り立つ)勇敢」「(快楽と苦痛のバランスで成り立つ)節制」「(放埒と吝嗇のバランスで成り立つ)貴富」を指し、アラビア哲学者にしてスーフィー(イスラム神秘主義者)だったガザーリーは「(神との合一による)陶酔と(日常生活における)規律の順守のバランス維持」というニュアンスを追加した。
- 「中世の名誉心」…おそらくノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)の様な義務意識あたりを指す。
②それは良心と利己心の不思議な混合物で、信用と愛と希望を失った近代人の心にさえ残っている。人の心に最後まで残る一切の高貴なるものの根源でありながら、同時にたやすく私情に屈し、罪悪と手を結んで大いなる欺瞞を為す。
- ブルクハルトはこれについて「個人としての発達は、必ずと言って良いほど道徳や宗教といった外的束縛からの解放を伴うものだから、暗黒面に落ちる可能性の増大は避けられない」とする。
- その一方で「もし個人の無制限の発展が世界史的摂理であり、その誘惑が個々の人間の意志より強大になればなるほど、対抗する名誉心の力もより偉大なる領域に近づく」とも述べている。
③もちろん良心だけが人間の本質的な原動力であった方がより一層美しく立派であろう。しかしこの感情は、普通に考えられているより遥かに広範な意味で(個人として発展した)近代人にとって決定的な行動規範となっており、他の道徳や宗教を今日なお忠実に守り続けている人々でさえも、しばしな重要な決断を無意識のうちにこの感情に委ねているものである。
- グイッチャルディーニ著作「金言集」の言葉…「名誉を重んじる人は労苦も危険も出費も厭わないから必ず成功する。私は身をもってそれを試してみた。だから次の様に言い、そして書く事が出来る。人間の行動で、この強い衝動から発しないものは、生命のない、虚しいものであると」
- 同時代を生きたラブレー「ガルガンチュア」に見られる表現…「彼らの規則は、自分の欲する事をせよ、という一句に他ならない。生まれが良く、よい教育を受け、申し分のない仲間と交わっている自由な人々は、生まれながらにして、常に彼らに徳を行わせ、悪を避けさせる様な本能と刺激を備えている。それを彼らは名誉と呼んだ」。ブルクハルトは「これぞルネサンスが色と形を失ったらどう見えるか」であるとし「それは18世紀後半に生気を吹き込み、フランス革命への道を開いた人間本性の善に対する信念となった」と畳み掛ける。
④その一方でルネサンスによって古代を知った人々の中には無意識のうちに「歴史的偉大」の思想が「神聖」というキリスト教的生活理想に取って変わった人々も混じっていた。そして、そうした人々の意識は(ユリウス・カエサルの様に)偉大な人物は過失があっても偉大だから、過失そのものは問題視しない方向に向かっていく。
- ブルクハルト自身のユリウス・カエサルに関する言葉…「歴史はときに、突如一人の人物の中に自らを凝縮し、世界はその後、この人の指し示した方向に向かうといったことを好むものである。これらの偉大な個人においては、普遍と特殊、留まるものと動くものとが、一人の人格に集約されている。彼らは、国家や宗教や社会危機を体現する存在なのである。(中略)危機にあっては、既成のものと新しいものとが交ざり合って一つになり、偉大な個人の内において頂点に達する。これら偉人たちの存在は、世界史の謎である」。
⑤ブルクハルトは、ここで足を引っ張るのが当時のイタリア人を特徴付けるイメージ力の過剰だと指摘する。そのせいで未来の富や享楽が生き生きと脳裏に浮かんでしまって賭博に耽溺し、不正の映像記憶がいつまでも去らないが故に復讐の連鎖が繰り返される。短編小説家や喜劇詩人は「恋愛は享楽に他ならず、それを手に入れる為には悲劇的手段でも喜劇的手段でも一切が許されているどころか、大胆や軽佻であればあるほど面白い」と煽り立て、抒情詩人や対話篇作者も「情熱の究極最高の表現は魂と魂が神的次元において本源的に合一する事である」なる古代的理念を高らかに推奨するが、ここに嫉妬心や不貞を隠したい気持ちが絡むとやっぱり死体の山が積み上がる。イタリア人の生活が徐々にスペイン化していった16世紀には手段の点で極めて無法な嫉妬が流行したが、これが17世紀の終わりまでにすっかり逆転し、チチズベーオ(公然たる情夫)を家庭に欠くべからず人物とみたり、さらに他に複数のバティート(女たらし)が存在する状況が黙認される様になる。当時のイタリアにおいては「完全に高貴で善良な男性」は、社交界デビュー前の未婚の少女ではなく、夫婦生活によって既に完成された夫人(特に妊婦や授乳期の母親は生理的に不義の子供を生む可能性が皆無)に惹かれるのが健全とされていた。これではトラブルが起こらない方が不思議といえよう。
- 同時代人パンデロの記述…「今日、世上に見掛けるのは、自分の欲望を満たす為に夫を毒殺し、そうすればやもめとなるのだから、したい放題の事をしてもよいと考える女。禁じられた交際が発覚するのを恐れて、愛人に夫を殺させる女。そうなると父親や兄弟が夫が、恥辱を目の前から取り除かんと、毒、剣、その他の手段を用いて立ち上がる。それでも人妻の多くは自分の命も名誉も顧みず、情熱のおもむくままに生活を続ける」「ある者は妻が不貞を働いたらしいと考えて妻を殺した。またある者は娘が密かに情を通じたので絞殺した。またある者は姉妹が自分の思惑通りに結婚しようとしないので、姉妹を殺させた。こんな事、何とかして毎日耳にせずにすませたい。それにしても、我々は思いつく事を何でもして、哀れな女達にはそれを認めようとしないのは酷く残酷な事だ。しかも女達が何か我々の気に入らない事をすると、すぐに紐や短刀や毒薬を手に取る。男達の、あるいは一家の名誉が、一人の女の欲望にかかっていると予測するのは、何たる男の愚かさであろう‼」
- まさしくイタリアのB級ハードボイルド小説や猟奇サスペンス映画が得意としてきた「ジャーロ(Giallo)」の世界。ちなみに今日ではイタリアのフェミニスト集団の包囲下、やっと滅びつつあるらしい。
⑥概してルネサンス期のイタリアは他の国々より犯罪が多かった様な印象があるが、それは情熱のあまり心が荒んで司祭が盗賊の首領となってしまうといった劇的逸話に事欠かないからである。そもそも教皇派と皇帝派、スペインとフランスが入り乱れて争った時代には多くの特権を有する聖職者や修道士の監督に手が回らず、殺人者や誘拐魔や強盗といった犯罪者が多数紛れ込んでいた(17世紀に入ると追放され人里離れた地域に出没する野盗へと変貌)。また金で雇われた第三者による犯行も頻発したが、その震源地としてナポリは明らかに抜きん出ており、さらにその僻地では自らの手中に落ちた外来者の命をことごとく奪う農民が跋扈していたとされる。そしてコンドッティエーレ(Condottiere/Condottieri、イタリア傭兵隊長)の中には、モントーネのブラッチョ(Braccio da Montone,1368年~1424年)とその同僚ティベルト・ブランドリーノ(Tiberto Brandolino/Brandolino Conte Brandolini,1375年~1456年、ラヴェンナ県バニャカヴァッロ(イタリア語: Bagnacavallo、 ロマーニャ語: Bagnacavàl)を統治する貴族)、ウルスリンゲンのヴェルナー(Guarnieri d'Urslingen/Werner von Urslingen; 1308年~1354年)といった「完全に良心の呵責から解放された無法者」が混ざっていた。
- 「完全に良心の呵責から解放された無法者」…甲冑に「神の敵、哀れみと慈悲の仇」と刻んでナポリにおいて略奪の限りを尽くしたドイツ人傭兵隊長ヴェルナー・フォン・ウルスリンゲンも、北イタリア横断時は完全におとなしくしていた。また賛美歌を歌う修道士達が気に入らなかったというだけの理由で塔から投げ落とさせたブラッチョの様な無道の人物が、その一方では「配下の兵士達にとっては、まことに誠実で偉大な将軍だった」という逸話も残している。もしかしたら彼らの放埓な残虐行為の少なくとも一部は、誰かの威嚇といった何らかの打算に基づく計画的行動だったのかもしれない。スペイン出身の「優雅なる冷酷」チェザーレ・ボルジア、「過去にも未来にも存在しない悪人」にして「イタリアの汚辱」とまで呼ばれたリーミニ(Rimini)の専制君主シジズモンド・マラテスタ(Sigismondo Pandolfo Malatesta,1417年~1468年)などはさらに沢山の逸話を残したが、これには政敵を恐れさせる為のプロパガンダや、逆に政敵が流したネガティブ・キャンペーンが数多く含まれているとされている。
- その一方でこうした文化はイタリア移民経由で海外に輸出されてきた。エンリオ・モリコーネの主題歌で名高いフランスのフィルム・ノワール映画「Le Clan Des Siciliens(1969年)」、「The Godfather (1972年,1974年,1990年)」「Rip Van Winkle(1985年)」のフランシス・コッポラ監督。「Taxi Driver(1975年)」「Gangs of New York(2002年)」のマーティン・スコセッシ監督。また「ニューシネマ運動(New Holliwood)を終わらせた」不朽の名作「Rocky(1976年)」に主演と脚本で関わったシルベスター・スタローンも父はシチリアにルーツを持つイタリア系アメリカ人だった(母はロシア系ユダヤ人とフランス系アメリカ人のハイブリッド)。
優雅にして冷酷。先進的にして退廃的。だがブルクハルトはあえてここに近代人の心性の萌芽を見てとる。人間の意識が完全に伝統的共同体的理念の拘束下にあった古代には有り得な勝った感情。直系の弟子たるニーチェが「(アポロン的合理主義への対抗から生まれた)ディオニュソス的叙情主義」と呼んだロマン主義的何か。
なにしろブルクハルトによれば、当時のイタリア人の性格上の欠陥は、それがそのまま偉大さの条件と直結するというのである。すなわち「発展を遂げた個人主義」がそれである。
無論、こうした中世までの「神聖」すなわちキリスト教的生活倫理の拘束を盲目的に受容する理念に背を向ける振る舞いが同時代人に歓迎される筈がない。
- それは我が身を違法で専制的な既存国家からまず内面から切り離す。すると以降、彼の発言も行動も全て反逆と受け止められる様になるが、どこまで妥当か、それだけではよく判らない。
- 勝ち誇る利己主義の関心は自らの権利の擁護に移る。復讐によって内面的平和を回復しようとする企てはかえって闇の奥に続き、その愛は隣家の妻といった他人が発展させた個人主義を征服する試みに向かう。ありとあらゆる種類の客観的な制限や法則に対して反感と超克の意思を有し、その内心には絶えず名誉心と利益、打算と情熱、諦念と復讐心が共存し続け、その全てについて他人が価値判断を挟む余地を一切認めず、全て自らの自主的判断によってのみ解決しようとする。
こうした利己心の暴走が一切の悪の根幹だとしたら、それだけでもう当時のイタリア人は他のあらゆる国民より悪に近づいた事になってしまうだろう。しかしブルクハルトによれば、それ自体は善でも悪でもなく、単なる必然に過ぎない。そして、それはやがてヨーロッパの他の国民にも及び、その過程で近代の善と悪が、中世までのそれとは本質的に異なる倫理的責任感が芽生えてくる事になるのである。
何たる逆説!! ブルクハルトによれば、ルネサンスに向かうイタリアでは身分の平等が確実に実感されていった。
「このことにとって第一に重要なのは、すくなくとも十二世紀以来、諸都市に貴族と市民が雑居したことである。それによって運命や娯楽が共通となり、山上の城から世間を見おろす見方が、最初から成立を妨げられていた。」
「そしてダンテ以来の新しい詩歌文芸が万人のものとなり、さらに古代の意味の教養と人間そのものにたいする関心がこれに加わり、一方では傭兵隊長が王侯となり、名門の出たることはおろか、摘出たることさえ王位に登る必要条件でなくなるに及んで、人々は平等の時代が始まり、貴族の観念が完全に消えうせたと信じることができた。」
その一方で男女平等も実感されていった。
「ルネサンスの高級な社交を理解するには、最後に、婦人が男子と対等にみなされたことを、知ることが重要である。」
「なかんずく、最高の階級における女子の教養は、本質的に男子におけると同様である。〔中略〕人々は、この新古代的文化を人生最高の財産と見たので、女子にも喜んでこれを恵んだのである。」
その結果がこれだったのだ。しかし別に驚くには値しない。
- ボローニャ出身のパゾリーニ監督は遺作「サロ、またはソドムの120日(Salo、 or the 120 Days of Sodom 1975年、邦題『ソドムの市』)」において「究極の自由主義は完璧な専制によってのみ達成される」というジレンマに突き当たった。
- 最近の研究によれば、戦国大名がこぞって「楽市楽座(あらゆる規制を撤廃した完全自由市場)」に取り組んだのは、領内経済を牛耳らせるに足る御用商人を選別する為だった。
- ブルクハルトは学問と芸術を好み、時代に先駆けた近代的君主として振る舞った事からシチリア王フェデリーコ1世(Federico I、在位1197年~1250年)/ホーエンシュタウフェン朝神聖ローマ帝国フリードリヒ2世(Friedrich II.、 在位1220年~1250年)を「王座上の最初の近代人」とする。ゾンバルトもその延長線上において、イタリア・ルネサンスの自由主義滝雰囲気こそがポデスタをシニョリーアへと進化させ「王座からの自由主義」すなわちフランス絶対王政に先例を示したとする。
ポデスタ(podestà)…ラテン語の potestas(「力」の意)を語源とする中世イタリアのコムーネにおける封建領主。神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世によりロンバルディア地方のコムーネの勢力を阻止する目的で定められた執政長官を起源とする。
シニョリーア(signoria)…イタリアで「紳士」「主人」「領主」などを意味するシニョーレ(signore)の派生語。特に歴史上13世紀後半から15世紀頃のイタリア諸国に現れた僭主が支配する政治体制を指す。
一方、フランス絶対王政は「太陽王」ルイ14世と同時に虎視眈々と王統交代の機会を狙い続ける「フランスの御三家」オルレアン家を生み出した。この次元における確執はもしかしたら「何でも一番じゃなきゃ嫌だ」という駄々っ子精神に収束するのかもしれない。
坂口安吾は同様の天分を豊臣秀吉に認める。それ以外の「反骨の士」は概ね英国においては薔薇戦争(1455年〜1485年/1487年)、フランスにおいては公益同盟戦争(1465年〜1477年)やフロンドの乱(1648年〜1658年)で滅んでいった「中央集権化に反対する貴族連合」に分類されてしまう。
- そして18世紀に入るとスペイン継承戦争(Guerra de Sucesión Española,1701年~1714年)によってスペインの封建政治から解放された南イタリアにおいて(コルベール重金主義(Bullionism)やドイツ官房学(Kameralwissenschaft)との相互影響下)「国家(脇目も振らず贅沢と戦争に邁進する国王)こそ経済活動の主体」とするナポリ経済哲学が誕生する。
ここには間違いなく(領主が焦土と領民を全人格的に代表する)農本主義的伝統の影響が見て取れる。近世欧州(特に国際的貨幣経済網にまだ完全には巻き込まれていなかった大陸部)において支配的だった「自由がもたらす機会均等とは狼が羊を食らう権利の保障である」という考え方。それは皮肉にも自由主義だけでなく、共産主義へも継承されていく事に。
さて、私たちはいったいどちらに向けて漂流しているのでしょうか…