諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「上からの自由主義」がフランスにもたらしたもの

何となく角ばってますな

フランスでは以下の様な人物が「上からの自由主義を目指した冒険者達」として語り継がれる。 

  • ホイジンガ「中世の秋(1919年)」においても多くのページが割かれた公益同盟戦争(1465年~1483年)の盟主ブルゴーニュ公シャルルCharles le Téméraire/シャルル猪突公)。

  • 大蔵卿の地位を利用して莫大な私財を蓄えたニコラ・フーケを粛清させる一方で、彼の豪邸で連日の様に繰り広げられた饗宴を超越する贅沢を顕現させるべくヴェルサイユ宮殿を建てさせた太陽王Roi-Soleilルイ14Louis XIV、在位1643年~1715年)。

  • 没落を決定づけられた帯剣貴族と法服貴族が最後に蜂起した「フロンドの乱La Fronde 1648年~1653年)」と同時代大量に頒布されたマザリナード(Mazarinades、「外国人宰相」ジュール・マザランやアンヌ・ドートリッシュやコンデ公を槍玉に挙げた弾劾を中心話題とした小冊子群)を前兆として台頭したリベルタンLibertin、自由人。原則として「衰退過程で刹那的快楽を追求する様になった放蕩貴族」を指すが、ルネサンス啓蒙主義の間を繋ぐ文化的功績も数多く残す)。

  • 絶対王政末期にフランス最大の素封家として君臨し、フランス革命が勃発した1789年には「バスティーユ牢獄襲撃(prise de la Bastille714日)」も「ヴェルサイユ行進(La Marche des Femmes sur Versailles105日)」も自らの私邸たるパレ・ロワイヤルの中庭から送り出して「平等公(Égalité)」を自称し、紆余曲折の末に「7月革命(La Révolution de Juillet,1830年)」によって復古ブルボン家との王統交代に成功するも二月革命/三月革命1848年)で国外逃亡を余儀なくされたオルレアン公duc d'Orléans)。

 そして彼らの際限なき公私混同の消費活動がブルジョワ階層を経て庶民をも取り込んでいく。まさしく「ある妖怪が欧州を徘徊している ―スノビズム(snobbism)という名の妖怪が」という展開であった。彼らはまた明らかに時代精神の象徴とも目されていた。

日本でも室町幕府の東山文化が所謂「お茶の間」の建築様式に多大な影響を与えている。げに恐ろしきはスノビズム(snobbism)とも?

  • 17世紀後半以降、メディチ家厨房と南仏出身料理人の尽力によってフランス宮廷料理の「高価で異国情緒あふれる輸入香辛料に頼った素朴で野鄙な料理」からの脱却が始まる。18世紀にはその精髄ともいうべき「(コンソメに代表される様な)至高のスープ」がパリの高級料亭(Restaurante)で国内の新興ブルジョワ階層や上京した外国の王侯貴族階層に供される様になる。そしてフランス革命後は在野に放り出された宮廷料理人達がデミグラソースやホワイトソースや(産業革命の一環としてイングランドやスイスやオランダやアメリカが安定的に大量供給する様になった)チーズを使って素材の難を隠す庶民向け料理の工夫に勤しむ事になる。
    *ちなみにこうした「貧乏料理」は次第にフランス本国では滅び、何故か日本の洋食文化にのみ面影を留める展開に。

  • その「産業者(les indutriels、王侯や貴族や聖職者の様な不労所得層ではなく農業者,製造業者,商人といった実際に有益な労働に従事する人々)同盟構想」が7月革命を主導するイデオロギーに採用されたサン=シモンと決別したオーギュスト・コントの「科学者独裁構想(人間社会は実証哲学(Philosophie Positive)の主導下(社会学者や政治学者を含む)科学者に善導されるべきとする立場)」は、英国の社会進化論学者ハーバート・スペンサー経由でアメリカに伝わり科学万能主義(Scientism)を派生させた。
    今日の経営工学は概ねアンリ・ファヨール(Henri Fayol,1841年〜1925年)のPOCCC理論、フレデリック・テイラー (Frederick Taylor,1856年〜1915年)の科学的管理法(Scientific Management、別名「テイラー主義(Taylorism)」)、実証主義科学に基づく実験技法をそのまま生産や経営の現場に応用しようとしたPDCA理論などに立脚するが、その多くは産業革命の先駆けとなった先進諸国自信というより、前近代残滓との悪戦苦闘を余儀なくされた後進国や、むしろ遵守すべき伝統の不在に苦しんだ新興国における試行錯誤の産物だったという次第。

    あえて浮沈の激しい刹那的な生涯を送ったルネサンス期のイタリア傭兵隊長(Condottiere/コンドッティエーレ、Condottieri/コンドッティエーリ)をパトロンに選んで自由奔放な絵を残したヴェネツィア派絵画の重鎮ィツィアーノ。あえて新古典主義に流行が映ったフランス宮廷に背を向け、既に中央での立身出世を諦めた田舎貴族をパトロンに選んでロココ様式絵画を完成させたフラゴナール。そして同時代のリベルタン(Libertin、自由人)を顧客と見据え、牢獄と精神病院に幽閉されながら数々の怪策を残したマルキ・ド・サド侯爵。19世紀後半になるとこうした先例を踏まえ「近代詩の父」ヴォードレールや「近代小説の父」フローベールや「近代絵画の父」マネといった人物が台頭する。
    *ここから「人間を感動させる象徴体系(ただしそれは背後で燃え盛る直接表面化を赦されない仄暗い情熱に情熱によって裏付けられていなければならない)」の研究が始まり、マラルメ(1842年〜1898年)の象徴詩ユイスマンスの「さかしま(À rebours,1884年)」、コッホ やパスツールによる細菌学研究やウィーン世紀末文学と関連付けて語られる事の多いフロイト精神分析、ココ・シャネルの後援を受けたパリにおけるバレエ・リュス(Ballets Russes,1909年〜1929年)の成功などにつながっていく。

日本では太平洋戦争敗戦直後にフランス文学坂口安吾1906年~1955年)が広めた「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」なるスローガンで知られる世界観。「自由のあるところには秩序はない」とする立場と「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」とする立場の究極の意味での中庸。ちなみにアメリカでは「米国叙事詩の父」ウォルト・ホイットマン 1819年~1892年)が同様の事を述べており、これが今日なお若者達の間でまで流布し続けている。どうやら学校の国語の授業で真っ先に叩き込まれるらしい

それは一見、あらゆる存在に「ゆっくりと時代遅れになったアトラクションが更新されていくディズニーランドの様な存在たれ」と説く英国保守主義の対局の考え方に見えて、案外単なるトートロジー(英語:tautology, ギリシャ語:ταυτολογία)に過ぎないのかもしれない。

こうして世界は変貌を遂げていく?