「保守主義の父」エドモンド・バークの手になる情報リテラシー(information literacy)論(18世紀末版)みたいなもの。
アイルランド生まれの国教徒政治家エドマンド・バーク(Edmund Burke、1729年~1797年)の手になる「フランス革命の省察(Reflections on the Revolution in France、1790年)」
弱い心の持ち主にとって、迷信は宗教の代わりになるものと言える。これらの人々が、 程度の差こそあれ、何らかの迷信を抱くことは容認されねばならない。もっとも強靱な精神さえ、信仰という 形でよりどころを必要とするのだ。精神的な弱者から、よりどころを奪って良いはずはない。
真に賢い者は、迷信が愚かであろうと必ずしも目くじらを立てない。文句をつけずにいられなくなるのは、別種の迷信に取り憑かれ た者と決まっている。かくして、愚かさと愚かさが仁義なき戦い を繰り広げ、無節操な大衆をたまたま味方につけたからといって、相手側を容赦なく叩きのめす顛末となる。
思慮深い人間なら、こんな暗闘には中立を保つ。迷信は本来、積極的に肯定するのも、断固として否定するのもふさわしくない。くわえて熱狂的な迷信となると、間違いや行きすぎがつきものである。
とはいえ、その中でも許容できるものと、どうにも許せないものを選ぶとすれば、こうなるのではあるまいか ─ ─建設的な内容の迷信のほうが、 破壊的な迷信よりも我慢できる。国をもり立てる迷信のほうが、国を歪める迷信より望ましい。間違った理由からであっても、人を善行に導く迷信のほうが、悪行を奨励するものより有益だ。
でも巧みな言葉に御用心。実際、こういう事件もあったのだ。
「政敵」ジョゼフ・プリーストリー(Joseph Priestley, 1733年~1804年)との確執
ユニテリアン神学者プリーストリーは1785年、Corruptions をめぐる小冊子での論争合戦に突入し、The Importance and Extent of Free Enquiry を出版して宗教改革は教会を真に改革したわけではないと主張した。その中で次のように書いた。
「従って、今はユニテリアンを公然と表明する教会が少ないとしても落胆しないようにしよう…… 我々はいわば、誤りと迷信の古い建物の下にすこしずつ火薬を置いているようなもので、一度火花が飛べば瞬時に爆発するだろう。結果として、その体系は長い時間をかけて積み上げられたものだとしても、同じようなものが2度と構築されないくらい一瞬で転覆するかもしれない……」
友人たちからはそのような扇情的な言葉を使うことをやめるよう諭されたが、プリーストリーはそのまま出版し「火薬のジョー」の異名を持つことになった。フランス革命のころだったため、この小冊子は革命を呼びかけているようにも受け取られ、プリーストリーへの攻撃はさらに激化し、教会ともども訴えられさえした。
1787年、1789年、1790年と非国教徒は(非国教徒の人権を制限する)クラレンドン法典の廃止を求める動きをしている。当初、その動きが成功したかに見えたが、1790年、革命の噂が広まり、議会ではその廃止が成立しなかった。当時最も影響力のあったメディアである政治風刺画では、非国教徒とプリーストリーが槍玉にあげられた。議会では非国教徒が頼りにしていたウィリアム・ピットとエドマンド・バークが廃止反対にまわり、プリーストリーらはその裏切りに怒った。プリーストリーは Letters to William Pittや Letters to Burke と題して一連の文書を公表。2人を説得しようとしたが、これらは単に一般大衆がプリーストリーへの怒りを募らせる結果を招いた。
プリーストリーをはじめとする非国教徒はフランス革命支持を表明していたため、革命を画策しているのではないかという疑念が徐々に蔓延していった。ピット政権はプリーストリーの上述の文章を彼らが政府の転覆を画策している証拠だと主張。バークは「フランス革命の省察(1790年)」 で自然哲学者、特にプリーストリーをフランス革命と結びつけた。バークはまた共和国体制を錬金術やもろい空気と結びつけ、プリーストリーとフランス人化学者らによってなされた科学的業績を嘲った。バークはその後も「火薬のジョー」と科学とラヴォアジエを結びつけ、ラヴォアジエがイギリスとの戦争に向けて火薬の改良を行っているなどとも記している。世俗の政治家であるバークが科学に反対して市民社会の基礎は宗教であるべきだとしたのに対し、聖職者だったプリーストリーは宗教を市民社会の基礎にせず個人の私生活に留めておくべきだとした、という逆転現象が起きている。
非国教徒やアメリカおよびフランスの革命支持者に対する敵意は徐々に高まっていき、1791年7月に爆発する。プリーストリーと他の非国教徒らはバスティーユ襲撃2周年を祝う宴会を催した。これはフランス革命に大多数が反対し、自国にも革命の波が押し寄せるのではないかと恐れていた国では、極めて挑発的な行為だった。暴力沙汰になるのを恐れた友人らはプリーストリーに出席を見合わせるよう説得した。暴徒は宴会の行われたホテル前に集結し、宴会が終わって出席者が出てきたところを襲撃した。さらに暴徒はユニテリアンの2つの教会に押し寄せ、両方が全焼。プリーストリーと妻は自宅から逃げ出した。息子のウィリアムや他の人々が財産を守るために残ったが、押し寄せた群衆には勝てず、実験室を含めた家屋敷と家財が破壊され、燃やされた。他の非国教徒の家も3日間の暴動の間に燃やされた。プリーストリーらは数日間を隠れて過ごし、やっとロンドンに安全に行けるようになった。群衆による襲撃が極めて効率的になされていることから、バーミンガムの行政長官がこの暴動を計画したという噂が流れ、現代の歴史家にもそう考える者がいる。暴動鎮圧のために軍を派遣したジョージ3世は「プリーストリーが彼とその仲間が教え込んだ主義のせいで受難者となったこと、人々が真実の光で彼らを見たことをうれしく感じないではいられない」と述べた。
バーミンガムに戻ることができないプリーストリー夫妻はロンドン近郊、ミドルセックス州ハックニーのロウワー・クラプトンで1794年まで暮らした。友人たちが生活再建を支援し、資金や本や実験器具を集めた。バーミンガム暴動で破壊された財産について政府に補償を求めたが、完全な補償は得られなかった。An Appeal to the Public on the Subject of the Riots in Birmingham (1791年)を出版し、暴動の発生を許したバーミンガムの人々を非難し「英国政府の原則への違反」だと主張。しかしトマス・ペインとプリーストリーの肖像が燃やされる事件が発生。危険な風刺漫画も依然として出版され続けており、プリーストリーを悪魔やガイ・フォークスと比較した手紙も全国から送りつけられており、王立協会の会員もプリーストリーから距離を置き始め、政府への抗議に対する刑罰も重くなった事を勘案して米国ペンシルバニア州へと移住。
これが本当の「炎上案件」?
皮肉にも実際に「軍人と官僚の指示には従順に従う享楽的小市民」に包囲されたビーダーマイヤー期(Biedermeier、1815年〜1848年)のドイツ人インテリ達は、このエドモンド・バークの発想の是非を巡る議論に否応なく巻き込まれていく。(大学都市ゲッティンゲンと隣接する)ハノーファーが英国王の所領で、宗教戦争時代からの因縁でザクセンや(金融都市フランクフルトと隣接する)ヘッセンも同一文化圏にあったからである。これらの地域では「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」を後ろ盾にプロテスタントとカソリック、ドイツ人とユグノーとユダヤ人が「共存」を強要されてきた。近代化によって伝統的権威主義が崩壊すれば葛藤が恐るべき域まで到達するのは、あらかじめ分かっていた事だったとも。