しばしば「ナショナリズムも国民主権国家もフランス起源」といわれます。
関係のない話だが
— のぐたそ (@Nogusania_Union) 2017年2月23日
フランス国民国家の形成の背景には、フランス語を通じた"同一化"というものがあると思う。
フランス革命でフランス・ナショナリズムが突然誕生したわけではなく、アカデミー・フランセーズによるフランス語の統一と地方言語の禁止からフランス・ナショナリズムは準備されていた。
「国民国家」「国語」といったナショナリズムを定着させたのがナポレオン戦争だからです。それまでの伝統的なヨーロッパ貴族にとっては「フランス」とか「ロシア」という国家より「ハプスブルク」とか「ホーエンツォレルン」とかの一族のほうが重要だったのです。
— fareast (@psk337) 2016年12月20日
その一方で当時フランスで革命が起こったのは(ロシア革命(1917年)が帝政ロシアで起こった様に)それまでの身分制秩序が限界に到達した「後進国」だったからという事実も忘れてはいけません。
「国民国家(nation state)」とは、主権国家において、国民主権が確立し、憲法と議会政治が実現した国家を指す。ほぼ近代国家は国民国家に該当する。
16世紀から17世紀世紀にかけて西ヨーロッパに成立した「主権国家」は、主権が国王に集中し、絶対王政という政治体制をとっており「国民」の実態とまとまりはまだなかった。
- ところが18世紀の主権国家間の抗争(七年戦争など)を経て絶対王政が動揺し、アメリカ独立革命とフランス革命という「市民革命」が起こって国家主権が国民が持つという意識が生まれる。そして一定の国境の中に居住する人々を国民としてとらえ「主権、国民、国境」という「国家の三要素」を持つ国家が次第に形成されていった。
- ウィーン体制の時期は一時絶対王政が復活したが、1848年革命の前後にフランス・イギリスは、憲法と議会を持ち、国民が主権者である国家を形成させた(フランスは第2帝政となるがそれも国民が選出する皇帝であった)。
- また民族の分裂と他民族支配を乗り越えて国民国家を建設しようとするナショナリズム(国民主義)の運動が起こり、ドイツ、イタリアはともに19世紀後半に統一を成し遂げ、国民国家を形成させる。
西ヨーロッパでは19世紀までに国民国家が形成されたが、東ヨーロッパにおいては20世紀前半の第1次世界大戦(1914年〜1918年)後がその時期に当たり、アジアでは日本などは19世紀に曲がりなりにも国民国家を形成させたが、多くは植民地か半植民地状態にあったため、20世紀後半の第2次世界大戦(1939年〜1945年)後に国民国家となっていく。
*ベネディクト・アンダーソンは「想像の共同体(Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism、1983年)」において「フランス革命は、その実態がどうであったかははともかく、意識して達成すべき目標を設定したという点が違大だった」と主張している。要するにこうしたイメージは吃驚するほど実際の歴史と関係ない。
それでは現実の世界においては一体何があったのでしょうか。「(王侯貴族の私利追求がそのまま外交に反映される)主権国家間の闘争」 がまず実存し、それからの大英帝国の離脱、北欧諸国や帝政ロシアやプロイセン王国といった新興国家の参加が新たな局面を生み出し「アメリカ合衆国独立」なる新展開を産んだのです。
- 歴史のこの時点においてアメリカはまだ「国民国家」でも「主権国家」でもなかった。「その私利追求がそのまま所領の外交になる王侯貴族」が存在しない以上主権国家とはなり得ないし「(家父長制と奴隷制を守り抜く為に中央政権の介入に徹底して反抗する)ジェファーソン流民主主義」の原型を掲げて独立戦争を戦い抜いた奴隷制農場主達にとっては、そもそも「中央政府の樹立」そのものが許されない反動行為だったからである。すなわちアメリカにおいては「連邦主義の登場」こそが国民国家への第一歩となった。
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同時期、外交革命(1756年)によって手打ちしたフランス王室とハプスブルグ家は帝政ロシアも誘って(大英帝国に後援された)新興国プロイセンの包囲殲滅を試みたが「王侯貴族は共通の利害でまとまれない集団である」という現実に直面させられただけに終わっている。
そう、歴史上まず最初に限界に到達したのは「(王侯貴族の私利追求がそのまま外交に反映される)主権国家間の闘争」だったのです。そしてこれが「国民主権国家間の闘争」へと移行する狭間には、ある種の「凪の時代」が存在し、これが北欧やスイスの「絶対中立主義」、アメリカにおける「モンロー主義(Monroe Doctrine)」の原風景となっていきます。当時の歴史はこうした立場から再解釈されねばなりません。
【仏】1784年、ジャック・ピエール・ブリッソー(Jacques Pierre Brissot, 1754年~1793年)が奴隷制を反対する過激な文章のためバスティーユに投獄される。
- ジャック・ピエール・ブリッソー(Jacques Pierre Brissot, 1754年~1793年)は後のジロンド派指導者の一人。パリ近郊のシャルトルの飲食店に生まれ、啓蒙思想(特にルソー)に心酔した(同じくジロンド派指導者の一人に数えられるロラン夫人も同様の経験をしている)。そのキャリアを文筆家として開始しイギリスやアメリカにも渡った後にオルレアン公に雇われ、革命直前に「フランス愛国者」紙を発行。
- 万事行き当たりばったりでしばしば無責任かつ先見の明に欠ける振る舞いに及ぶ性格だった。その為に(ただでさえ大所帯で意思統一の難しい)ジロンド派を迷走へ導く事になる。
- それにしても彼のパトロンとなった「自由主義貴族」オルレアン公爵ルイ・フィリップ2世ジョゼフ(仏: Louis Philippe II Joseph, duc de Chartres, puis duc d'Orléans, 1747年~1793年)の生き様は凄まじい。
私生活は放蕩かつ無節操。自らの宮殿パレ・ロワイヤルを民衆に開放した結果、それは歓楽街へと変貌し政治的危険分子はもちろん、娼婦の溜まり場と成り果ててしまう。、アメリカ独立戦争(1775年~1783年)を支持し、首飾り事件(1785年)が起こるとすかさずマリー・アントワネット攻撃に利用し(両者は互いを不倶戴天の敵とみなしていた)、名士会の代表として第三身分の要求を支持し宮廷の決定に二度も反対する始末。しかし彼の奇矯な振る舞いが本領を発揮するのはフランス革命勃発後なのであった。
*彼をそういう生き方に駆り立てたのは、ブルボン家の分家の一つであるオルレアン家(フランス王国の5%が領地である有数の富豪)に生まれ「ブルボン家を滅ぼして王位を奪おう」という野望に憑かれてしまったからだと考えられている。
【仏】1785年4月14日、財源確保の為にフランス東インド会社が再建される。
- 財務総監カロンヌが王室財政の悪化を貿易収入によって補おうと考え新インド会社を設立。この会社は旧会社の特権をそのまま引き継ぎ、インドとケープタウン以東の商業独占、ロリアン港とドック、パリの商館の利用権を得た上黒人奴隷の売買も以降はこの会社の認可を必要とする様になったのである。資本金は2,000万リーブルで、2万株に分割され、そのうち14,000株が株式市場に放出されたが、御用商人デスパニャックがカロンヌと共謀して買占めたために株価は80%騰貴した。1786年には発行株は倍加され、株式総会が年二回開催されている。12人の理事は国王ルイ16世によって任命されたが、実際に経営権を握っていたのは監督委員で、初代はブローニュ(財政審議会委員)、二代は財務総監ランベールであった。
- フランス東インド会社は7年戦争の結果フランスが植民地の大半を失い、巻き添えで所有船舶の大半を失った事から経営危機に陥った。戦後、会社の再建資金を調達したのは銀行家ジャック・ネッケルだったがこの会社に与えられた排他的特権は重農主義者を中心とする自由貿易論者の激しい攻撃にさらされ1769年にはケープ以東の商業特権が停止されてしまう。これ以降、インド貿易は自由となり、会社と国家との関係も整理されて、本格的な清算が始まった。会社は国王にすべての植民地、動産、不動産、船隊、船員を譲渡し、国庫は会社の債務を引き受けて返済の義務を負い、会社に年利1,200万リーブルを支払うことと定められる。これ以降フランス東インド会社は貿易会社でなくなったが船団をアジアへ派遣する窓口役としては利用され続けた。このままの状態を続け莫大な負債を清算し終えた時点で会社は幕を閉じるはずと誰もが考えていた。
- 英仏通商条約のおかげでこの新会社は大成功を収めた。フランス革命が始まった時点では株価は額面を超えて上昇していたくらいである。大きな利潤を上げたので、配当は1株につき160リーブルが付いていたが、立憲議会で改めてインド会社が持つ特権が槍玉に挙げられる。1790年、ボルドー代表が演説して、奴隷貿易の廃止には反対しながらも、インド会社は商業の発展を阻害しているという理由で廃止を求めた。特権を擁護する意見もあったが、全般的に自由貿易に傾いた立憲議会は、ケープ以東の商業独占を撤廃して、再び自由化した。
- 特権会社ではなくなっても、貿易会社としてのインド会社はその後も経営は順調であった。1791年、新しい定款を定めて、以後はいかなる資金も領土も、植民地建設には利用しない事になる。こうして近代的な株式会社へと改組されたインド会社は、交易と株式の両方で利潤を生み、フランス革命戦争が始まるまでは万事が上手くいっていた。
- 戦争と恐怖政治は、インド会社を苦境に追い込んだ。1791年12月13日、アッシニアの下落を助長する投機への対策として、有価証券移転税が新設されが、インド会社理事は、これを不服として、ジロンド派の財務大臣グラヴィエールの公認のもとに脱税を始める(グラヴィエールはインド会社の理事で大株主のバッツ男爵の友人だったのである)。しかしジロンド派追放で後ろ盾を失った会社には不正を追及する圧力が強まった。国民公会はインド会社を清算することにしたが、この清算で旧ジロンド派系議員と、ダントン派の議員を巻き込んだ大規模な買収と不正が行われ(インド会社汚職事件)それが露見すると、関係者の多くが粛清されるか投獄される事になる。
- 他方、1793年6月にシャンデルナゴルが、8月にはポンディシェリがイギリス軍によって占領され、インド貿易はすべての拠点を失った。さらにイギリスによる海上封鎖によって、貿易活動は停止を余儀なくされたのだった。
【英】 【仏】1786年、イーデン条約(英仏通商条約)が提携される。
- 重農主義者だったデュポン・ド・ヌムール (Pierre Samuel DuPont de Nemours 1739年~1817年)などの活動によって結ばれた自由貿易的色彩をもつ通商条約で、イギリスの工業製品とフランスの穀物・ぶどう酒などを結びつけたものであった。
*ユグノーの時計職人の息子にして経済学者と政府官僚を兼ねたデュポン・ド・ヌムールは重農主義者を雄弁に広めた人物。Gazette du Commerce の編集者で、1769 年からは Ephémérides du Citoyen も編集。かれの著書 Physiocratie は、おそらく重農主義ドクトリンの最も優れた記述だっただろう。デュポンは特に、かれらの政策的立場が持つ社会福祉的な意義をていねいに説明したが、(モンテスキューに逆らって) それがあらゆるところに適用できるとも主張した。冒険家で実業家、放蕩者でもあったデュポン・ド・ヌムールは、かれの名前を冠した有名なアメリカ産業王朝: デュポンの創始者でもある(フランス革命を避けて1799年に一家でアメリカに移住した後、アントワーヌ・ラヴォアジエに師事した時に得た化学知識を利用して黒色火薬工場を設立したのが始まり)。
- 当時のフランス重農主義者の目に映るフランス農業の状況はこんな感じである。「フランス農業は中世的規制にとらわれ過ぎていて事業性に富む農民の足を引っ張っている。例えばcorvée (賦役:国に農民が無償奉仕せねばならない労務)といった昔からの封建主義的役務。例えば町の商人ギルドの独占(農民達には産物を一番高値をつけた買い手に売る自由も、一番安いところから買う自由も許されてなかった)。さらに問題なのが地域間の穀物移動にかかる国内関税(農業取引を深刻な形で妨害)公共事業の放棄(道路や排水が悲惨な状況に)、農業労働者の移住規制(労働市場の成長を阻む)。かくして生産的な地域で働く農民は労働力不足に直面し、賃金コストが高騰すれば生産量を下げざるを得なくなる一方で、生産性の低い地域では失業労働者の大群が極貧に苦しんでいる。賃金をあまりに低く抑え過ぎた結果、もっと生産性の高い農業技術の導入をしようという気さえ起こらないのである。」。だからこそ「自由放任 (laissez-faire)=自然秩序(ordre naturel)」を礼賛してコルベール主義(フランス絶対王政時代に採用された特定産業の庇護と保護貿易を重視する重商主義)を攻撃した訳で、そもそもそもそもフランソワ・ケネー (Françis Quesnay1694年~1774年)の「重農主義(Physiocratie 1767年)」が書かれなければアダム・スミスの「国富論(1776年)」の中に「見えざる手(invisible hand)」の概念が織り込まれる事はなかった。
- 当時イギリス首相だったウィリアム・ピット(William Pitt、1759~1806年)は、アメリカ独立戦争(1783年9月3日終焉)による政治の混乱と国王ジョージ3世と大衆の支持に乗じて1783年12月19日 に24歳の若さで首相に就任して17年にも渡る長期政権を築いた俊英。英国保守勢力を糾合し、当時野党だったホイッグ党指導者フォックスともにイギリスの二大政党政治を基礎付けた人物であり、経済封建でもアメリカ喪失後の帝国再建(カナダでの行政改革と東インド会社への支配力強化)を推進して国家財政を再建し、フランスとの対抗上プロイセンやオランダと三国同盟(1788年)を締結し孤立外交からの脱却を図った。いつも自由貿易主義者のバイブル「国富論」を持ち歩いていた事でも知られる。
- 同年、ウィリアム・ピットは議会において「フランスは本来、イギリスが工業生産の役割をあてがわれているように農業とぶどうの栽培をあてがわれており、この両国民は、ちがった部門で取引をいとなみ商品交換によって相互に富裕になる二人の大商人のような関係になる」と演説している。「フランスは気候その他の自然のたまものに関してはイギリスよりも利点を持っており、従って原始生産物の点ではイギリスにまさっている。これに対してイギリスは加工製品に関してはフランスに凌駕している。フランスのぶどう酒、ブランデー、オリーブ油、食用酢、ことに最初の二つのものは、わが国の自然生産物の価値が到底それらと比較することのできないほどの重要性と価値をもつ品目である。しかし他方、イギリスがいくつかの工業製品の生産をまったく独占し、他の工業製品の場合にもフランスのどんな競争にも安心して対抗できるほどの利点を持っていることも、同じく確かな事実である。これが相互の制約であり、両国民のあいだの利益の多い結合をその上に築くべき土台である。両国民は各自がその固有の大市場向けの商品を持ち、各自が他方に欠けたものを所有しているのだから、両国民はちょうど、違った部門で取引をいとなみその商品の相互の交換によってそれぞれおなじように利益を上げることができる、二人の大商人のような相互の関係にある。さらにまたわれわれは、隣国として交易しているフランスの富、その大人口、その近さ、そこから生まれてくる急速で規則的な売行きを考慮してみよう。―そうすれば自由という制度に賛同することに一瞬でもためらう者はいるだろうか。またその制度をできるだけ早く確立しようと熱心にまた性急に望まない者がいるだろうか。このように広大で確実な市場の所有はわれわれの貿易をきわめて異常に発展させるにちがいないし、しかもその場合に密貿易者の手から国庫へ移されるはずの関税支払額はわが国の財政に役立つであろう。したがってイギリスの富とイギリスの勢力との二つの主要な源泉は、さらに豊かになるであろう」。
- ところが結果は散々たるものだった。イギリス人はイベリア半島のぶどう酒になじんでいた為、フランスのぶどう酒が期待されたほど消費伸びなかったのである。それに反してイギリスの製造業者達はあらゆる必需品について、価格の安さの点でも、商品の質や信用の供与の点でも、フランスの製造業者達を遙かに凌駕して莫大な利益を上げる事になり、その結果ルーアンの綿織物を筆頭とするフランス産業界は衰退を余儀なくされ、工業界は滅亡の危機に見舞われる事になった。フランス政府はあわてて、条約の廃止によって破局の進行を食い止めようとしたが、既に生じたイギリス商品への嗜好は条約破棄によっても抑え難く、ただ密貿易を横行させただけであった。
- 当時の他国に目を配るとオスマン帝国がヨーロッパ諸国に与えたカピチュレーション(capitulation。オスマン帝国が領内在住の外国人に対して恩恵的に認めた特権で、通商・居住の自由、領事裁判権、租税免除、身体・財産・企業の安全などを保障したもの。1536年にスレイマン1世がフランス王フランソワ1世に与えたのが最初で、1579年にイギリス、1613年にオランダにも同様の特権が認められている。実は18世紀に日本を筆頭とするアジア諸国が欧米列強と結ばされた不平等条約の原型)を背景として特定の輸出用農産物に頼るプランテーション経営者(なかば国家から独立した守旧派在地領主)の台頭を背景に中央集権的官僚制度を崩壊させ「瀕死の病人」と化していく過程にあった。またハンザ同盟への農産物輸出で経済力を蓄えて強国の仲間入りを果たしたポーランドもまた、かえってその経済構造故にマグナート(農奴を全人格的支配下に置く特権領主)の台頭を許して無政府状態に陥り「第三次ポーランド分割(1795年)」によって地上から消滅する過程にあったのである。そうした悲劇的展開に比べたら、イーデン条約締結にともなう自由貿易振興について「フランス国内における産業と工業の構造変化を促進し、時代に適応した新しいタイプの産業投資家や工場経営者などを台頭させた」という積極的評価を与える事すら可能かもしれない。
- ただしもちろん「フランスにおける新興ブルジョワ層の台頭(この文脈ではルイ14時代にコルベールが重商主義を採用した時点まで遡ってイーデン条約によって直接不利益を被った伝統的産業主や工場主も含む点に注意)」には、フランス革命勃発後の国民軍創設に伴ってその供給源として政治的発言力を増したサン・キュロット(無産小作人集団)との軋轢がジャコバン恐怖政治とリヨン、トゥーロン、ボルドーなどでの虐殺を招いてフランス革命を終焉させ、ナポレオン迎合の準備を整えたという側面もある事は決して忘れてはならない。そして最近のフランスにおける富裕税導入の挫折を見ても、この問題は度重なる政変を経てなお現在まで未解消のまま継続している様だという事を。
*ほぼ確実に言える事。それは歴史のこの時点においてフランスは政治的にも経済的にも英国の遥か後塵を仰ぐ存在に過ぎなかったという事である。ロシア革命(1917年)前夜の帝政ロシアがそうであった様に。そして逆に現実を無視して「いやむしろフランスやロシアこそが(大英帝国の様な腐り果てたった劣等国と比べたら)政治的にも経済的にも遥かに先進国だったのだ」という立場を選んだ事がそれぞれの国におけるナショナリズムの萌芽となったとも。
*そして当時の英国が「政治的にも経済的にも先進国だった」のは国民(主権)国家への移行プロセスとは何ら関係ない。フランスとはまた違った意味で当時の英国は貴族社会であり「庶民の政治参加への意志」はまだ胎動すら始めてない。実際にそれを牽引していたのは「(戦争に向けて国内リソースを動員する能力を遥かに引き上げた)計算癖の全人格化」の遥かなる先行だった。
*後にマックス・ウェーバーやゾンバルトといった20世紀初頭のドイツ社会学者達はこのプロセスが清教徒革命(Puritan Revolution または Wars of the Three Kingdoms、狭義1641年〜1649年、広義1638年〜1660年)や17世紀商業革命(英国経済基盤の欧州から大西洋への移行)に端を発したと想定する様になる。その固有のナショナリズム故に「当時はフランスこそが政治的にも経済的にも最先端だった」という方向に思考停止した当時のフランス学会に、そうした思考的柔軟性は見られない。
- こうした状況が産業家達の間で産業保護の要求を高め、労働者の間に不況をこの条約のせいにする風潮を生んで「王権はかならずしも国民的利益を代表しない」という考えを広く浸透させた事をフランス革命勃発の遠因の一つと見る向きもあるが、当時のフランス経済が未だ農本主義的側面を強く残しており国家保護下で振興した産業が短期間で壊滅的打撃を受けた程度でどれほど衝撃を受けたかあくまで未知数とせざるを得ない。実際、後にヨーロッパ全土を手中に収め「現今の世界情勢下にあって自由貿易の原理に従う国家はかならずや粉砕されるであろう」と豪語し排他的占有と封建的諸制限の撤廃によって国内市場の復興を企図したナポレオンもまた最終的には当時英国からの砂糖供給を断たれたのを契機として台頭した砂糖大根の栽培農家が西インド諸島における奴隷労働型プランテーションを圧倒するといった成果を生み出したとはいえ当人は国力低下を招いて敗戦に追い込まれただけであった。
*ビーツ栽培によって「大英帝国の砂糖産業」を打ち倒したのがフランスやオーストリアの政治的中心地ではなくベルギーやチェコといった周辺地域だった事もまた示唆的とも。
- ちなみにフランソワ・ケネーの最初の取り巻きの一人となった「大ミラボー」ヴィクトル・ド・リケティ、ミラボー侯爵(Victor de Riqueti, Marquis de Mirabeau 1715年~1789年)は、フランス革命初期に活躍した「小ミラボー」オノレ・ガブリエル・ド・リケッティ, ミラボー伯爵( Honoré-Gabriel de Riquetti, Comte de Mirabeau 1749年~1791年)の父親であった。ただし当時の「小ミラボー」は素行が悪く、何度も牢獄に叩きこまれた上にとうとう勘当の憂き目にまで遭っている。
【米】1786年08月29日 シェイズの反乱(Shays' Rebellion)が勃発(~1787年3月)
- 1786年から1787年にマサチューセッツ州中部と西部(主にスプリングフィールド)で起こった武装蜂起。アメリカ独立戦争の退役兵ダニエル・シェイズが率いたのでその名を冠し、反乱軍は「シェイサイツ」あるいは「レギュレーターズ」(世直し屋)と称した。反乱自体は1786年8月29日に始まり、1787年1月までに1,000人以上のシェイサイツが逮捕され、私的軍隊として立ち上がった民兵隊が1787年2月3日にシェイサイツ軍主力によるスプリングフィールド武器庫に対する攻撃を破った事で収束に向かった。その過程で数々の制度的欠陥が明らかとなり、連合規約の再評価の声が活気付いて1787年5月17日に始まるフィラデルフィア憲法制定会議に強い推進力を与え、連邦主義者(Federalist)を台頭させる事になる。
- 首謀者の一人たるダニエル・シェイズはアメリカ独立戦争勃発時はマサチューセッツの貧しい農家の働き手に過ぎなかった。大陸軍に加わって、レキシントン・コンコードの戦い、バンカーヒルの戦い、およびサラトガの戦いに参戦。戦闘中に負傷している。1780年には大陸軍を無給のまま除隊し、故郷に帰ると負債を払っていなかったために裁判所に訴えられていた。シェイズはまもなく負債を払えないのが自分だけではない事を知る。負債を払えないために病気で寝ていた女性がそのベッドを取り上げられる場面にさえ遭遇した。
*もう一人の首謀者のたるルーク・デイもまたウェストスプリングフィールドの退役兵であり、シェイズ同様不当な扱いを経験して怒りに燃えていた。かくして退役兵達は農民達の組織化に手を貸し、マサチューセッツ邦議会が招集されるまで押収の為の審問を延期するよう判事に求める事になったのである。かくしてマサチューセッツ邦全体で編成された農夫や退役兵が裁判所の敷居を隔てて民兵隊と対峙する景色が現出する事になったが、多くの民兵は境遇の似通る農民や退役兵に対して同情的だった。
- 彼らを蜂起に向かわせた直接の契機は1786年09月19日にマサチューセッツ邦最高裁判所が「反乱指導者11人(集会を開いて不当な扱いをされた大衆、農夫、耕作人を集め、何年にも渡ってボストンのマサチューセッツ邦議会に平和的嘆願を行う事を決めた人々)」を「乱暴で、暴動を起こし、治安妨害を行う者」として告発したことだった。この告発に激怒したシェイズは、戦争の退役兵が、その大半が武装した農夫700人を率いてスプリングフィールドに進撃を開始する。その過程で隊列はさらに膨れ上がっていった。
- 1760年代や1770年代における「自由のポール」や「自由の木」を同調者の象徴に用いたのを見ても判る様に、参加者達は自らが「アメリカ独立の精神」で行動していると確信していた。その大半が貧しい農民であり「生活を破壊する」と考えられていた負債や税金に激怒していた。支払いが滞ると債務者刑務所に収監されたり、郡によって資産を没収されたりする羽目に陷る事が多かったからである。そうした立場から彼らは紙幣の発行と減税による負債の軽減、マサチューセッツ西部の裁判所を強制閉鎖する事で裁判所が負債を負った農夫から資産を没収するのを不可能にしようと試みたのだった。その一方でこうした動きはアメリカ独立の民主主義的勢いが「抑えが効かなくなる」という恐怖心をも生み出したのだった。
*ジャーナリストとしてベトナム戦争(1955年〜1975年)を支えてきた「伝統的共同体の独立性を守り抜きたいだけの農民層」を礼賛してきた本多勝一が戦勝後、ベトナム共産党から切り捨てられたのも同種の理由による。中国共産党もそうだが、現存する共産主義政権は全て同様の「頭の切り替え」を遂行してきたといって良い。
- 事態をここまで悪化させた主要因は当時の金融状況にあった。発端となったのは「特にヨーロッパの戦争投資家が金と銀による返済を求めたが、マサチューセッツを含む国内には十分な正金(金銀)がなく返済に困っていた事」、そして「国全体で富裕な都会の事業家が田舎の小自作農から取れるだけのものを取り上げようとしおた事(もちろん小自作農も債権者が要求する金を持っておらず、その家屋を含めて何もかも没収される事態が相次いだ)」である。そしていざ貧民達が蜂起した時、ボストンの特権階級層が最初に感じたのは「屈辱感」であった。
- シェイズの反乱が勃発すると判事達はまず1日審問を延期し、続いて法廷を休会にしている。この時点で、ボストンで開催されていた議会はジェイムズ・ボードイン知事から「侮辱された政府の権威を守る」よう告げられている。
- 「ボストン茶会事件」の扇動者だったと目されているサミュエル・アダムズは外国人(イギリスのスパイ)が大衆の間に反逆を扇動していると主張し、当局が裁判なしで人々を投獄することを認める為に騒擾取締令の起草を助け、また人身保護令を一時的に停止する決議案も書いている。それだけでなく「共和国における反乱は専制政治の下でのものとは異なり、処刑をもって罰すべし」とも書き添えた。
- 議会は気が動転している農夫達に幾らかの譲歩案を作る動議も行い、特定の古い税金は金の代わりに物品でも払えるようにすべきとしたが、この決定は却って農夫と民兵隊との対立を増長する結果しか産まなかった。その一方で同様の同情心を一切持ちあわせてなかったジェイムズ・ボードインは独立戦争時の将軍ベンジャミン・リンカーンが指揮する民兵隊大部隊を派遣。ウィリアム・シェパード将軍指揮下の民兵隊900名と併せてスプリングフィールドの裁判所を守り、より多くの資産を押収出来る様に後援させたのだった。そして1787年1月に1,000人以上が逮捕されて反乱軍が四散するとアメリカは法律の規制に従わない限り「無政府、混乱および隷属の状態」に成り下がると宣言する。しかしその後の展開は予想の斜め上をいく形となった。
- 1787年1月25日、ペラムのダニエル・シェイズは、デイに対してリンカーン揮下兵(ボストンとスプリングフィールドの民兵隊4,000名)が到着する前にスプリングフィールド武器庫から武器を確保する様に提案すると自らも武器庫に接近した。デイの返事は「1月26日までには部隊の準備が出来ない」というものだったが、それがシェイズに届く事はなかったのである。
- その一方で(ボストンの商人達から多額の寄付が得られたリンカーン部隊と異なり)無給で働かされ食糧や適切な武器の供給も受けられずにいたシェパード将軍の兵士達は、スプリングフィールド武器庫に収められている武器の使用許可を求めても、陸軍長官ヘンリー・ノックスは「連邦議会に承認を得る必要のある事項であり、議会は現在休会中」と拒絶された事からシェイズより先に武器庫に到着し、ノックスの返事を無視して備蓄武器を徴発する道を選ぶ事にしたのだった。シェイズとその部隊が武器庫に近づいた時、既にシェパードの民兵隊が待ち構えていた。シェパードが威嚇射撃を命じると2門の大砲が直接発砲され、シェイズ部隊のうち4人が死亡、20人が負傷した(双方ともマスケット銃の発砲はなし)。反乱者達は隣人や仲間の退役兵が自分達に向かって発砲してくるとは思ってもいなかったので「殺人だ!」と叫びながら北に逃げ散った。川の反対側ではデイの部隊も北に逃亡。民兵隊は2月4日にピーターシャムで反乱者の多くを捕まえた。3月までに武装した反抗は起こらなくなった。シェパードは上官に、許可無く武器庫を使わせたことと、武装紛争が終わった後では良い状態で武器を戻したことを報告。反乱者の中のある者は罰金刑、禁固刑さらには死刑を宣告されたが、1788年に全体の恩赦が認められた。告発された者達の大半は仮釈放されるか、死刑が減刑されたが、ジョン・ブライとチャールズ・ローズの2人だけは1787年12月8日に絞首刑に処された。シェイズ自身は1788年に仮釈放され、マサチューセッツに戻って1825年に貧しく無名のまま死んだ。
- 当時駐フランス大使だったトーマス・ジェファーソンはシェイズの反乱を警鐘とすることを拒んだ。そして友人に宛てた手紙の中に「ここかしこの小さな反乱は良いことである。自由の木は時間の経過と共に愛国者と暴君の血によって新しくされなければならない」と書き記している。
*このセリフ、ロバート・A・ハインライン「宇宙の戦士(Starship Troopers、1960年)」冒頭における引用で初めて知った。アメリカ人は今日なおこの反乱とそれに対するトマス・ジェファーソンのこの反応についてどう考えるべきか悩み続けているのである。
- 最終的にこの蜂起は1780年代におこった一連の出来事の頂点となり、均一な経済政策を生み出し、資産所有者が地方政府によって権利を侵害されることから守ることのできるよう、国の政府は強力である必要があるとアメリカの強力な集団を確信させた。
- この蜂起に対する制度的対応に数々の欠陥があった事から、連合規約の再評価の声が活気付く。そうして、かかる動きが1787年5月17日に始まるフィラデルフィア憲法制定会議に強い推進力を与え、連邦主義者(Federalist)を台頭させる結果を生んだのだった。かくしてこの反乱は、結果としては却って「個人がその資産所有権をしっかりと享受する自由が、大衆の手にある公的自由や抑制の無い力によって脅される可能性」を排除する動きを加速させる結果しか産まなかった。ジェームズ・マディスンはこの新概念について「自由は自由の悪用によって、また権力の悪用によって危険に曝される可能性がある」と要約している。
- その後、ジェイムズ・ボードインは1787年マサチューセッツ知事選で1780年から1785年までその座にあったジョン・ハンコックに敗れ政界からの引退を余儀なくされている(第二期ハンコックの任期は1787年5月~1793年10月8日で、現職のまま病に倒れ不帰の人となった)。概ねそれはこの反乱への対応の拙さを咎められた結果と考えられている。
- もっともその演説能力および議長としての技量をもって多くの人から賞賛されたハンコックだが、アメリカ独立戦争中のマサチューセッツ州知事として仕事のメインは資金を集めて軍隊に物資を供給する事だった様である。特にハンコックの商業貿易の腕をもってしても、飢えた軍隊に牛肉用牛を送りたいという大陸会議の要求には悩まされた。「(1781年1月19日、ワシントンがハンコックにあてて警告書)多くの物資を繰り返し申請して貴殿を煩わせるべきではないと思うが、この川のこの基地での安全と、軍隊の存続そのもののより小さな目標はステーキである。昨日届いたヒース少将の手紙を抜粋して同封するが、我々の現況と将来の見通しがお解りになると思う。それ故に貴殿の州からの議会要求になる牛肉用牛の供給が通常軍隊のためではないというのならば、ウエストポイントの守備兵を養っていくこと、あるいは戦場でのたった一つの連隊を続けていくことも私では責任をとれないと考えています。」
*ベネディクト・アンダーソンは「想像の共同体(Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism、1983年)」の中で「アメリカやフランスの市民革命において実際何があったかは関係ない。革命の成功そのものが新たなる歴史的可能性とそれに挑戦するビジョンを生み出した事のみが重要である」と述べている。その反面、こうした展開、すなわち「(革命において重要な役割を果たした)無政府主義者の(革命成功後における)粛清」なるプロセスが現実の革命には必ずつきまとう。ベトナム戦争中は「ベトナム共産党の宣伝塔」として重宝された本多勝一が、戦後あっけなく切り捨てられたのもまたそうした流れの一環だった。そもそも本多勝一が「これぞまさに真の市民精神」と絶賛し、実際にベトナム戦争遂行を支えてきた「あくまで半独立状態の維持のみを要求し続ける地域共同体の強い意志」は終戦後の新国家建設に際してむしろそれを阻害する要因として立ちはだかったのだった。
*この問題を解決するにはオーギュスト・ブランキの様に「革命の成功は常に新たなる革命の始まりに過ぎない」と割り切って永遠に叛逆を続けるか、革命が目的を達成して革命政府がその役割を終えて「新たな憎悪対象としての反動政府」に変貌しない様、徹底した搾取と反進歩的政策によって国民を未来永劫(新たな革命を起こす事を思いつけないレベルの)窮乏状態に置き続けるしかない。その意味においては、本多勝一が最終的にポル・ポト政権(クメール・ルージュ)に「市民革命の完成形」を見たのも、今日なお「北朝鮮こそ市民革命の最終的到達地点」と理想視を続ける人々が存在し続けているのも実に理に適っている。
【米】1787年09月17日、フィラデルフィア憲法制定会議の結果がアメリカ合衆国憲法としてまとめられる。
- 当初は連合規約の改定のみを意図した会議だったが、その提唱者達、特に中心となったジェームズ・マディスンとアレクサンダー・ハミルトンの意図は、当初から現存する政府を「修正」するのでなく(各邦の主権を制限し)新たなる中央政府を創造する事だった。
- 憲法草案が出来上がるとハミルトンは早速ジェームズ・マディスンやジョン・ジェイと組んでこれを擁護する論陣を張った。10月27日から翌年5月28日まで新聞紙上等に発表され、後に『ザ・フェデラリスト』という著作にまとめられた論文がそれである。
- 「アメリカ建国の父」達のうち、アムステルダムからの借款の鍵を握り英国とのパリ条約締結を主導してジョージ・ワシントン大統領下で2期副大統領を務めたジョン・アダムス、そして後にその共和主義的主張でハミルトンの政敵となるトーマス・ジェファーソンはどちらもヨーロッパ出張中で出席してない。
- 一方、ベンジャミン・フランクリンはこう要約している。「この憲法には今も認めていない幾つかの部分があるが、将来も決して承認しないかは確かでない。...我々が開いた会議とは別の会議を開いてもよりましな憲法を作ることができるかについても疑問である。...それ故にこの仕組みが完全なものに近付いて行くのを見るのは私を驚かせ、また私の敵をも驚かせるだろう。…」
1788年、第一次ロシア・スウェーデン戦争が勃発(~ 1790年)。スウェーデン王グスタフ3世(Gustav III, 1746年~1792年)が、ロシアとのバルト海におけるバランス・オブ・パワーを確立することを目論んでフィンランドで起こした戦争。最終的にスウェーデンが海戦に勝利したことでロシアと和解が成立し、スウェーデンの国際的地位を高めた。
- この時、当時スウェーデン王国の従属国に過ぎなかったフィンランド士官112名が、ロシア女帝エカチェリーナ2世への和平嘆願書を作成する「アニアーラ事件」が勃発した。結局密議は露見して失敗に終わり112人の士官のうち、17人に死刑の判決が下りたが、グスタフ3世は、首謀者1名を除き全て赦免している。
- スウェーデンがバルト海の覇者から脱落し、代わって東方の帝政ロシアが急速に強大化し北方の覇者となっていく過程で起こった事件であり「ロシアからの策謀。愚かな国家的反乱罪に過ぎない」とする説と「19世紀に湧き上がるフィンランド・ナショナリズムの先駆的な出来事」と賞揚する立場がある。また後にロシア皇帝アレクサンドル1世(アレクサンドル・パヴロヴィチ・ロマノフ Aleksandr Pavlovich Romanov、1777年~1825年)がスウェーデンを攻撃する際にこの事件をヒントに「フィンランド大公国」建国を通じてバルト帝国を分裂させる戦略を思い付いたという話もある。
- グスタフ3世は、アニアーラ事件が起きた頃、周囲にこう漏らしたと言う。「私は祖国を救い、軍事を強化し、文芸を推奨し、また、内政にも尽くした。そして祖国は、戦争に勝利する事によってかつての栄光を取り戻すだろう。しかし、その時には、私は国民から見捨てられ、裏切られる事になるだろう」。
【蘭】1788年、まずネーデルランドが革命騒ぎで揺れ、神聖ローマ帝国やプロイセンに叩き潰される。
- フランスに端を発する啓蒙思想の浸透でネーデルランド共和国では立憲革命、南ネーデルランドでは独立運動が勃発。
- 元来この国は(デン・ハーグやロッテルダム、ユトレヒトといった)北ネーデルラント諸都市の都市議会代表が首都アムステルダムに集合して国家を運営する合議体制だったが、統領職を代々世襲するオラニエ=ナッサウ家の振る舞いが次第に怪しくなってきた。特に当時当主だったオラニエ公ウィレム5世(Willem V van OranjeNassau, 1748~1806年 在位1751年~1795年)は優柔不断な性格で、伝統的な「総督派VS都市門閥派」という対立軸に加えて共和主義的愛国派(パトリオッテン。自らを古代ローマ時代にネーデルラント北部から現在の南ホラント州一帯にかけて定住していたゲルマン系種族のバタウイー族になぞらえて「ネーデルランド(低地)人でなくバターフェン(バターフ人、バタヴィア人)」と自称)までもが増殖して政局を混乱させ始めたのである。
- 1785年の共和主義的愛国派(パトリオッテン)の蜂起に際してウィレム5世はハーグからナイメーヘンへの避難を余儀なくされている。しかし1787年になると義兄のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世がブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公カール(2世)・ヴィルヘルム・フェルディナント(Karl (II) Wilhelm Ferdinand von Braunschweig-Wolfenbüttel, 1735年~1806年)率いるプロイセン軍を派遣してこれを掃討、この年に英国とプロイセンと同盟を結ぶ形で総督の地位を保障してもらう事になったのだった。
- 前年フランスなどに亡命して生き延びた共和主義的愛国派(パトリオッテン)はこの年に再び議会側の一員として集まり、公妃を拉致して立憲革命を遂行する計画を立てていた。しかし事前にプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に察知されてしまい、密かにオラニエ側支援の援軍が送られた為に計画は未遂に終わる事になった。
- その一方、1780年代に入ると神聖ローマ帝国領ネーデルラントでは、ハプスブルク家の皇帝で啓蒙君主の一人に数えられるヨーゼフ2世(Joseph II, 1741年~1790年)が急速に近代的かつ中央集権的な政治と司法と行政の制度を立ち上げるという大規模な改革が推進されてきた。その結果、伝統的在地有力者がそれぞれ仕切ってきた地所は全帝国的に均一な司法制度の適応される行政区に置き換えられる事となり、帝国領ネーデルラントの独立州は9つの地域(Kreitsen)と35の区域(Districten)へと変貌を遂げる事になったのである。同時進行でヨーゼフ2世は教育制度と宗教を分離し、多くの宗教的階級を改革したり廃止に追い込んだ。この過程で改革に反対する「シュタティスツ(Statist)」、最初は改革に賛成だったものの改革の理念と実施内容の不一致に気づいて反対に回った「フォンキシュツ(Vonckists)」といった反対派閥を抱える様になった。
- 最初に蜂起したのはブラバントで、1789年1月「もはや皇帝の決めた規則は認められない」という宣言に端を発する。党派リーダーのヘンドリック・ファン・デア・ヌートはネーデルランド共和国の国境を越え、ブラバント州の北ネーデルラントにあるブレダで軍を揚げると10月からブラバントへの進軍を開始し、10月27日のターンハウトの戦いでオーストリア軍を破るとターンハウトを占領した。さらに11月13日にはヘントが占領され、11月17日には帝国領ネーデルラント総督に任じられていたテシェン公アルベルト・カシミールとその妃マリア・クリスティーナ大公女(ヨーゼフ2世の妹)がブリュッセルへと逃走する。残った帝国軍はルクセンブルクとアントウェルペンの城壁の中にそれぞれ撤退。ファン・デア・ヌートはブラバント独立を宣言し、ルクセンブルクを除く他のオーストリア領ネーデルラントがただちにそれに続いた。1790年1月11日、彼らは(1581年におけるネーデルランド=スペイン間の宣誓と1776年におけるアメリカ独立宣言に影響を受けた)和平条約に調印しベルギー合衆国樹立を宣言した。
- 1789年には同時進行でリエージュ司教領の独自開放が進んでおり、やがて同盟の一種としてベルギー合衆国に合流してきた。ファン・デア・ヌートはさらにネーデルランド連邦共和国に統一の提案と支援を求めて接近するも失敗。その一方で国内ではシュタティスツ派とフォンキシュツ派の対立が激化して内戦寸前となっていた。
- ちょうどその頃、神聖ローマ帝国ではヨーゼフ2世が死去し、王弟レオポルト2世(Leopold II 1747年~1792年)が帝位を継いでいた。レオポルトはオーストリア領ネーデルラントを奪還すべく迅速に行動。10月24日には早くもナミュールを占領してナミュール州に皇帝支配を認めさせている。2日後ウェスト=フランデレン州もそれに続き、12月までに全ての領土は帝国の手に戻された。
【仏】1788年06月08日、「屋根瓦の日(Jounee des Tuiles)」が勃発。
- ブルジョワ出身の法服貴族で構成されるパリ高等法院が全国三部会のみが課税の賛否を決める権利があると主張すると、広範囲の第三身分(平民)がこれを支持した。ルイ16世はパリ高等法院を閉鎖させるべく軍隊を出動させたが、市民はこれに対抗して城門を閉め、家の屋根から手当たり次第石や瓦を軍隊に投げつける。この勢いに軍隊は撤去を余儀なくされた。
*この「屋根瓦の日」に参加した市民の中には後に革命を引っ張っる事になるジャン・ジョゼフ・ムーニエ(Jean Joseph Mounier 1758年~1806年)やアントワーヌ・ピエール・ジョゼフ・マリ・バルナーヴ(Antoine Pierre Joseph Marie Barnave, 1761年~1793年)も混じっていた。あくまで三部会の召集を要求するパリ高等法院と自由主義貴族に対する支持表明が形になった程度の蜂起に過ぎなかったが、人によってはこれを「最初のフランス革命」と呼ぶ。
- 実は既に1780年代からフランス宮廷においては45億リーブルにもおよぶ財政赤字が問題として浮上していたのである(当時の国家財政の歳入は5億リーブルほどであり、実に歳入の9倍の赤字を抱えていた事になる)。その主な内訳はルイ14世時代以来続いてきた対外戦争の出費と宮廷の浪費、ルイ15世時代に財務総監ジョン・ロー(John Law de Lauriston 1671年~1729年)が招いた開発バブル崩壊といった「過去の遺産」であったが、新王ルイ16世もアメリカ独立戦争への援助などを行って結果として放漫財政を踏襲する道を選んでいる。
- また当時はヨーロッパ全域でアイスランドの地で起きていたラキ火山の噴火噴煙による日照量激減が農作物不作引き起こしており、これによる収穫量減少と飢饉が都市部への穀物供給を滞らせて食糧事情を悪化させ、パンの価格を上昇させて貧困を生み出し、国庫収入を激減させ、債務償還計画を暗礁に乗り上げさせていた。
【仏】1789年、エマニュエル=ジョゼフ・シェイエス(Emmanuel-Joseph Sieyès、 1748年~1836年)が『第三身分とは何か』を刊行
- シェイエスはこの中で「フランスにおける第三身分=平民こそが、国民全体の代表に値する存在である」と訴え、この言葉がフランス革命の後押しする事になる。
- 第三身分議員として国民議会に当初から参加し1789年8月に貴族の特権が廃止され際に貴族に補償金を払うべきと提案したが、他の第三身分議員から却下されている。ジャコバン派が権力を握った恐怖政治の時代には逼塞して生き延びた事から「革命のモグラ」の異名を頂戴した。
【仏】1789年、ルシー・シンプリス・カミーユ・ブノワ・デムーラン(Lucie Simplice Camille Benoist Desmoulins、1760年~1794年)がパレ・ロワイヤルで「武器を取れ」との演説をしてパリ市民に決起を促してたことで一躍脚光を浴びる。
- 財務長官ジャック・ネッケル罷免の情報でパリが騒然としていた時期の出来事だった。
- カミーユ・デムーランは親戚のソワッソン代官ヴエフヴィル・ド・エサルの推薦状で奨学金を得て、パリのルイ=ル=グラン学院に進学。ルイ=マリ・スタニスラ・フレロン(Louis-Marie Stanislas Fréron、1754年~1802年)やマクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(Maximilien François Marie Isidore de Robespierre, 1758年~1794年)と同級生だった。
- 1789年3月には全国三部会の議員に立候補するも、吃音だった事や当時体調不良だった事が重なりあえなく落選している。その一方で、パンフレット作家および編集者として活動しており、旧体制を批判するパンフレット「自由なフランス」などを刊行して、次第に名を知られるようになっていった。
【仏】1789年7月14日、バスティーユ襲撃事件を契機にフランス革命が始まる。
- 未曾有の財政危機を前にまずはテュルゴーが財務長官に任命される。(すでにこれ以上増税しようがないほど徴税されていた第三身分の代わりに)聖職層や貴族階級の免税特権を制限する財政改革に着手しようとしたが猛反発を受けて全て撤回を余儀なくされ(この時「国内関税撤廃」「corvée(賦役)廃止」「単一地租」といった重農主義的政策が提言されているのが興味深い)十分な改革を行えないまま辞任に追い込まれてしまった。次いで財務長官に任命された銀行家ネッケルも最初こそ反対の大きい税制改革を避けてリストラと募債による構造改革を目指したものの逆に赤字を増やしてしまい、免税特権廃止による税務改善に着手せざるを得なくなった時点で挫折を余儀なくされる事になった。そしてマリー・アントワネット一派の圧力もあって遂に1789年7月11日にネッケルが財務長官職を解任されるとついにこの事態と相成った訳である。
- 全国三部会は1788年7月に国王が開催を約束し、翌1789年に各地で選挙が行われて議員が選出され、5月5日にヴェルサイユで開会式が開かれた。こうして1614年以来、久し振りに全国三部会が開催される事になったが、あくまでる強硬派の貴族や僧侶は特権保持に執着し一歩も譲ろうとしない。業を煮やした第三身分議員が1789年6月20日に「球戯場の誓い(ジャン=シルヴァン・バイイ(Jean-Sylvain Bailly, 1736年~1793年)が議長)」で国民議会の開設を宣言すると、軋轢を避けたいルイ16世が正式な議会として承認し、王の説得により第一身分(僧侶)や第二身分(貴族)の一部議員も合流を果たした。
*ちなみに有名な『球戯場の誓い』の絵の中央で手を上げ宣誓している人物がバイイである。
- この時期の革命は、貴族出身ながら第三身分議員に選出されてその声を代表した雄弁家の小ミラボー、市民軍から総司令官に任命された自由主義貴族ラファイエット侯爵といった立憲君主制派に牽引されていた。庶民はまだ自分達の望みを代弁させる代表も言辞も持ち合わせていなかったのである。
- もちろん、こんな祭にかのオルレアン公が関与しない筈がない。1789年6月25日に進歩派貴族46名を引き連れて国民議会に合流。さらにバスティーユを占領することになる民衆は、彼の宮殿パレ・ロワイヤルから行列を組んで出発している。
*当時「自由主義貴族」を主導していたのはあくまでバイイやラファイエットや小ミラボーらであり、オルレアン公は彼らと対立していた。子飼いの論客に過激なパンフレットを執筆させたり、バスティーユ牢獄襲撃事件や十月行進を仕掛けたのも彼らからイニチアシブを奪いたい一心からだったが、その試みが成功する事はなかったのである。 - バスティーユが襲撃されて以降はフランス全土で暴動を起こした農民達が貴族や領主の館を襲って借金の証文を焼き捨てる事件が各地で相次ぐ。事態収拾の為に国民議会は1789年8月4日に封建的特権の廃止を宣言した。さらに1789年8月27日に人権宣言を採択したが、国王がこれを承認するのは政治的混乱と前年不作の影響でパリの物価が高騰したのを背景に「ヴェルサイユ行進事件(1789年10月05日)」が勃発して国王一家がパリのテュイルリー宮に移されるタイミングまで待たなければならなかった。
- ちなみにこの時三部会の第一身分(聖職者)議員に選出されたシャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール(Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord 1754年~1838年)は「金儲けに精を出していないときは、陰謀を企んでいる」と酷評された人物で、司教でありながら教会財産の国有化という反カトリック教会的な政策を推進。1790年に国民議会議長に選出されるとともに司教職を自ら辞したが、ローマ教皇ピウス6世から、それまでの反カトリック教会的行為を咎められて破門されている(1792年に外交使節としてイギリスに派遣されるが本国で恐怖政治が始まるとそのまま亡命しアメリカ合衆国に渡ったとされる)。
【仏】1789年07月15日、バイイがパリ・コミューンの最初のパリ市長に選ばれる(~1791年11月16日)
- パリ・コミューンとはフランス革命の最中、1789年から1795年まで存在したパリ政府の事である。バスティーユ襲撃の直後オテル・ド・ヴィルに設立されて以降、フランス中央政府からの命令を断固として拒絶し続け1792年の夏以降は反乱者となった。
- 1792年、辞退条令により立法議会に参加していないジャコバニスト達が主導権を得ると8月10日事件や9月虐殺の拠点として利用される事になった。
1789年11月00日(仏) カミーユ・デムーランが「フランスとブラバンの革命」と題した新聞を自ら刊行。
- より自由な立場からの発言の場として企図された新聞で1791年7月まで週刊で発行され続けた同紙の中で、デムーランは先鋭的な政治・社会論評を行い、高い人気を得た。
- こうした活動を通じてかつての貧困生活からは完全に脱却し、1790年12月29日には、大蔵官僚で資産家の娘リュシル・デュプレシと交際7年で結婚している。意志が弱く軽薄な一面を持つデムーランは、革命が進むにつれ悩み、リュシルとの家庭生活に逃避しようとした時期も少なからずあったとされる。
【仏】1790年、エドモンド・バークが『フランス革命の省察』を発表
- 原題「Reflections on the Revolution in France」。著者自身がフランス革命を全否定して、ジャコバン派完全追放の為に革命フランスを軍事力で制圧する対仏戦争を主導し、後に保守主義のバイブルとされるに到るが、そうした一連の著作の中でプリーストリー(Joseph Priestley 1733年~1804年2月6日)ら非国教徒をフランス革命と結びつけた事は後の「バーミンガム暴動(1941年)」の遠因の一つとなった。
- 本質的には英国でユニテリアン主義を確立した聖職者にして「合理主義の実践者」として多くの実績を残した科学者に過ぎなかったプリーストリーの関心を政治分野に向かわせたのは非国教徒の権利を制限するクラレンドン法典(1661年~1665年制定。非国教徒はイングランド国教会の三十九信仰箇条 (Thirty-nine Articles) を受け入れない限り、政治家になれず、軍に入隊できず、オックスフォード大学やケンブリッジ大学にも入学できないとし、事実上二級市民扱いを決定づける内容だった)に対する反感だった。非国教徒の経験した不正行為を弾劾し、クラレンドン法典の廃止を求める一連の著作の中でも特にEssay on the First Principles of Government (1768) は当時としては珍しく政治的権利と公民権を明確に区別して公民権拡大を主張、公私を明確に区別して政府は公的な面だけ統制すべきと主張した事で後世には近代的自由主義の先駆けとなったと見なされる事になる。
- とはいえ当時の彼がAn History of the Corruptions of Christianity(1782年。Institutes4巻目) の中で「原始キリスト教の教えがいか「堕落」し歪んでいったか」記し、1785年におけるCorruptions をめぐる小冊子での論争合戦の一環をなす「The Importance and Extent of Free Enquiry」の中では「宗教改革は教会を真に改革したわけではない」という持論を展開し、An History of Early Opinions concerning Jesus Christ, compiled from Original Writers, proving that the Christian Church was at first Unitarian (「キリスト教は本来ユニテリアン主義のようなものだった」1786年。)では三位一体説まで否定する過激な言説を展開する過程で次第に社会から危険分子としてマークされる様になっていった事実までは否定出来ない。クラレンドン法典の廃止を求める運動が一向に進展しない苛立ち故であったとされているが、アメリカ独立宣言(1776年)の主要著者であり共和制理念の追求者として知られるトーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson, 1743年~1826年)などは後にこの2冊の本に強い影響を受けたと記している。
- 政治思想家としてのプリーストリーの論敵となったのは、例えば事実上イギリス法の標準的解説書となったCommentaries on the Laws of England (1765年~1769) の中で「非国教徒であること自体が犯罪であり、非国教徒が愛国者であるはずがない」としたウィリアム・ブラックストン(「非国教徒である事自体が犯罪だ」理念までは覆す事はなかったが、後に「非国教徒が愛国者であるはずがない」という記述は削除)、科学的合理主義が庶民にまで浸透する事を恐れ「市民社会の基礎は宗教であるべき」としたエドマンド・バーク、An History of Early Opinions concerning Jesus Christ, compiled from Original Writers, proving that the Christian Church was at first Unitarian の中でも特に物議を醸し出した「今はユニテリアンを公然と表明する教会が少ないとしても落胆しないようにしよう…… 我々はいわば、誤りと迷信の古い建物の下にすこしずつ火薬を置いているようなもので、一度火花が飛べば瞬時に爆発するだろう。結果として、その体系は長い時間をかけて積み上げられたものだとしても、同じようなものが2度と構築されないくらい一瞬で転覆するかもしれない…」という一節を政府転覆の陰謀に結びつけたウィリアム・ピット(小ピット)などであった。
- エドマンド・バーク(Edmund Burke 1729年~1797年)には文壇に出るきっかけとなった論文『崇高と美の観念の起源』の中で英国において初めて美学を体系化し「ピクチャレスク=崇高美」という概念を後世に残した美学者、絶対王政を批判しつつ議会政治を擁護し「議会=国民代表」という理念を提唱して近代政治政党を定義付けて近代政治哲学を確立した政治といった側面もあるのだが、この著作の中では共和国体制を錬金術やもろい空気と結びつけ、プリーストリーやフランス人化学者らの積み重ねてきた科学的業績と一緒くたに嘲っている。さらにその後も「火薬のジョー」と科学とラヴォアジエを結びつけ「ラヴォアジエがイギリスとの戦争に向けて火薬の改良を行っている」などと記し英国人の恐怖を煽り続けたのだった。
- 世俗の政治家であるバークが科学に反対して市民社会の基礎は宗教であるべきと主張する一方で、聖職者だったプリーストリーが宗教を市民社会の基礎にせず個人の私生活に留めておくべきだと主張する逆転現象は当時における価値観の混乱が如何に酷かったかを暗示しているかの様である。
【仏】1790年、ジャン=ポール・マラー(Jean-Paul Marat 1743年~1793年)がイギリスへの亡命を余儀なくされる。
- フランス革命勃発後は新聞『人民の友』を発行し過激な政府攻撃をして下層民から支持されたが、それ故に敵も多く作ってしまったという事らしい。
- *そもそもはヨーロッパ各地を遊学した後でロンドンで開業医をしていた人物で1777年にフランスへと招聘されてからは1783年までに王弟アルトワ伯(後のシャルル10世)のもとで働いた。反体制運動を始めたのはその頃からとされる。
*兄弟のなかで最も享楽的かつ活動的な性格だった王弟アルトワ伯(後のシャルル10世)は兄王ルイ16世やプロヴァンス伯爵(ルイ18世)とは不仲だった。小太りの兄達とは違ってハンサムでスポーツマンでもあり、若い頃は王妃マリー・アントワネットの遊び仲間の一人で、スキャンダルのネタともなっている。しかし他方では絶対君主制の信奉者でもあり、マリー・アントワネットと共に王権に逆らうあらゆる勢力の迫害を主張して、国民の反感を買っていた。1789年7月14日のバスティーユ襲撃でフランス革命が勃発すると、兄が革命派に屈したのに失望して、真っ先にイギリスに亡命して反革命を策動した。ただし自身では一切戦おうとしていない。
【仏】1790年の3月から6月にかけて、ジャコバン・クラブから立憲君主派が脱退
- この時に脱退したラファイエットやバイイやコンドルセ侯爵マリー・ジャン・アントワーヌ・ニコラ・ド・カリタ(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet, 1743年~1794年)らは89年クラブを創設。このグループは後にフイヤン派へと合流する。
- ジャコバン・クラブの原型は三部会の第三身分の議員のうち、ブルターニュ出身議員で構成されたブルトンクラブであり、ヴェルサイユ行進の後にジャコバン修道院で集会を行う様になった事からジャコバン・クラブと呼ばれるようになった。
- 一方ジャコバン・クラブは1791年6月のヴァレンヌ事件や同年7月のシャン・ド・マルスの虐殺でも国王責任を追及する左派と対立した右派(議会と国王の共存を提唱する立場)が対立してバルナーヴやデュポール、ラメット兄弟などの右派(三頭派)の脱退も招いている。これに先の89年クラブが合流する形でフイヤン・クラブ(フイヤン派)が創設される一方でジャコバン・クラブからはまず立憲君主派が消えて穏健派と急進的共和派だけが残る事になったのだった。
【仏】1790年04月、ジョルジュ・ジャック・ダントン(Georges Jacques Danton, 1759年~1794年)がコルドリエ・クラブを創設
- ダントンはフランス革命が勃発するとこれに共感して参加し、最初はジャコバンクラブに加入している。その後独特の存在感を発揮して9月にコルドリエ地区の議長に選ばれ、コルドリエ・クラブを創設したが1791年07月17日のシャン・ド・マルスでの騒動(国王廃位を請願するデモだったが、最終的にはフイアン派によって立憲君主制を政体に選んだ1791年憲法制定に到る)に巻き込まれて一時イギリスへの亡命を余儀なくされた(1791年末に帰国)。
- コルドリエ・クラブが創設されるとカミーユ・デムーラが入会してきてダントンの秘書となった。また亡命から戻ったマラーもコルドリエ・クラブに入会している。
- どうしてコルドリエ・クラブがサン・キュロット(失業者や流れ小作人の様な賃金労働者)」の巣窟に変貌していく事になったかというとジャコバン・クラブと異なり赤貧の庶民の救済を目指し、入会金も取らなければ会費もなかったからである。興味深い事にジャコバン・クラブが陣取ったジャコバン修道会はドミニコ会系、コルドリエ・クラブが陣取ったコルドリエ修道院はフランシスコ会系で両者は中世から対立関係にあった。
- コルドリエ・クラブの会員証には「大きく見開かれた革命的な用心深さの眼」として「プロビデンスの目(開かれた片目)」が印されており、この意匠はフランス人権宣言の一番上にも、アメリカ合衆国の1ドル紙幣にも見られる。フリーメイソン陰謀論者やそれにまつわる都市伝説ではこれは「フリーメーソンの象徴」とされるが実際には古くから教会建築などに用いられる一般的な紋章に過ぎず特別な意味はないとされている。
- コルドリエ・クラブのジャコバンよりも行動的で、フォーブール・サン・タントワンヌ街の労働者たちの意志を汲み上げ、国民議会が出来てからもたびたび民衆蜂起を呼びかけ加担してきた。特に1792年6月20日のサン・キュロット蜂起と8月10日のテュイルリー宮殿襲撃(8月10日事件)では大きな役割を果たしたと考えられているが、この時期には既にダントンやカミーユ・デムーランがどれだけ関与していた不明であり、むしろジャック=ルネ・エベール(Jacques René Hébert 1757年~1794年)やマラーの影響力が強まっていたと考えられている。
【米】1790年06月20日(米)首都がワシントンに設定された事で公債償還計画が起動に乗り始める。
- ハミルトンとマディソンを招いたジェファソンの自宅の晩餐会においてハミルトンはニュー・ヨークを首都にする案を放棄する代わりに、南部のフィラデルフィアを暫定首都にした後に、ポトマック川沿いに恒久的な首都を設ける案を容認した。そうすることでハミルトンは、公債償還計画に対する南部の支持を取り付けることに成功したのだった。
- 1789年から1901年の『合衆国歴史統計』によれば、連邦政府は実に7722万8000ドルもの債務を抱えていた。当時の連邦政府の年間歳入は441万9000ドルであり、利子の支払いに歳入の半分にあたる231万9000ドルを当てており、さらに貿易赤字まで抱えていた。1791年を例にとっても輸出額が2100万ドルなのに対して輸入額が3100万ドルで差し引き1000万ドルの貿易赤字という有様だったのである。債務は国内にとどまらず、フランス、スペイン、オランダなどへの対外債務もあり、しばしば支払いが滞っていたのだった。
- こうした状況の下、連邦政府の信用を築くことがアメリカの発展にとって不可欠だと考えた財務長官ハミルトンは、1790年1月14日、公債償還計画を議会に提出した。それは政府公債のみならず独立戦争時の州債約2500万ドルを引き受け、課税と新たな借り入れで返済する計画であったが、この計画は様々な利害対立をまねいた。マディソンは連邦政府による州債引き受けは、負債額が多い州にとっては歓迎すべきことだが、それが少ない州にとっては特に利益がないと計画に反対を唱えたし、さらには「公債償還計画によって利益を得るのは北部の投機家だけ」という南部の根強い不信感が渦巻いていたのである。
- こうして頓挫しかけた公債償還計画を救ったのがフィラデルフィア遷都なのだった。既に大陸会議において各州の間で公平を期すために州の領域と分離させた特別区を創設して首都とすることが決められていたが、その特別区をどこに設けるかはまだ決定していなかった。そのため各地で首都誘致合戦が行われていたが、ハミルトンが強く推すニュー・ヨークは既に暫定首都となっており有利な立場を占めていたのである。
- この晩餐会での妥協の結果、最終的に議会が暫定首都をフィラデルフィアに移転させた後に恒久的な首都を建設する案を承認したのは7月16日。公債償還計画も7月26日に上院を通過し、こうして独立国家として今後、発展するために必要となる首都と信用というアメリカの2つの礎が築かれることになったのだった。恒久的な首都の名前が「ワシントンD.C.」に公式決定されたのは1791年9月である(ワシントン自身はそれを「フェデラル・シティ」と呼んでいた。退任後立ち寄った時でさえホワイト・ハウスは建設中。そのホワイト・ハウスに第2代大統領アダムズが移ったのワシントンの死後だった)。
【仏】1790年09月00日、エベールが「デュシェーヌ親父」創刊
- 右派(王党派)を野卑な言葉で辛辣に罵倒し、貧困層から人気が高かった。エベールはその人気を足掛かりとしてサン・キュロットの指導者として頭角を現していく。
- エベールはこれを軍に専売して不正に蓄財し、それを資金源にマリー・アントワネットの処刑、ジロンド派の追放、ヴァンデでの虐殺などを主導してきたと考えられている。それ故にロベスピエール派打倒を企図した『三月蜂起(1793年4月)』も計画可能だった訳で、そうした行動力故に他の全ての党派から危険視され、粛清されたとも考え得る。
*1794年のエベールの処刑により385号を以って廃刊となる(最終号はエベールの死の11日前の3月13日号)。 - トマス・ペインが1791年から翌年にかけて『人間の権利(Rights of Man)』二部作を出版し、1793年までイギリスで200万部を売りつくしたと試算されている。
- エドマンド・バークの『フランス革命についての省察』に反駁する内容だったが土地貴族を攻撃し世襲君主制への敵意を表明した為、イギリス政府から追放される事に。
- トマス・ペインは1785年に鉄橋を考案し翌年には模型を完成させている。その一方で同年『政府・銀行・紙幣』を著して、銀行を擁護。1787年5月にはフランスに渡って学士院で自分の橋梁模型を宣伝。9月からは帰郷して故郷のセットフォードで過ごし『ルビコン川における将来の予想』という小冊子を完成させ、イギリス首相ウィリアム・ピットに対仏戦の非を説いた。また1787年12月から1789年秋までパリにいたアメリカ公使ジェファーソンと文通を続け、その年の暮れにラファイエット公爵から陥落していたバスティーユ牢獄の鍵を手渡されてワシントン大統領に届けるよう依頼され、この任を果たしている。
- 追放後は自著の仏訳を監修する為にパリへと渡る。ちなみにアダム・スミスと併せてトマス・ペインの主要著書を最初に本格的にフランス語翻訳したのはコンドルセの妻だったソフィー・ド・グルシーである。そして1791年10月にはフランスの市民権を与えられ国民公会によって新憲法の草案作成委員会に加えられたが、その時の委員の顔ぶれには、ダントンやシェイエース、コンドルセなどの名前が見られた(憲法草案の前文はペインとコンドルセが書いたといわれる)。
- 1793年1月15日には国民公会でルイ16世の処刑に反対する演説を行い、同年12月28日にジロンド党との共謀と敵性外国人という嫌疑により逮捕されるも駐フランス公使ジェームズ・モンローの助力によって(恐怖政治の終わった)翌年11月4日に釈放されている。12月8日に再び国民公会に迎えられ、翌年1月3日にフランス公教育委員会により「この哲学者は人間の権利でもってイギリスの政治家のマキャベリズムに立ち向かったのであり、2冊の不滅の著書によって新旧両大陸の自由を聖別した」と顕彰されたが、この間に理神論を主張した著書『理性の時代(The age of reason)』を完成させた。
- ちなみにこの間にヴァレンヌ事件以降共和主義者の論客となり、1793年2月にジロンド憲法草案を議会に上程したコンドルセ侯爵もまた恐怖政治に反対したため7月8日に逮捕令状が発せられて逮捕され1794年3月29日に自殺して生涯を終えている。逮捕される直前に一気に書き上げられた「人間精神進歩の歴史」の中で示された「人間の精神は天文学、占星学、純粋数学、神学といった人間の精神と社会活動から離れた学的領域から始まり、やがて文学、経済学、論理学、社会科学といった人間の行動と生活を論理的に究明する人文科学へと発展していく」という理念は19世紀に入るとオーギュスト・コントの社会学に継承されたが、ある意味それは「哲学は神学の婢」という黴の生えた伝統の焼き直しに過ぎなかったかもしれない。
- 1802年に再びアメリカに渡り、ジョン・アダムズをはじめとする連邦党と対立。奴隷反対を説き、理神論を改めようとしなかった為にアメリカではほとんどの友人を失い、不遇のうちにニューヨークで没した。彼の遺体は無神論者との噂がたたって教会での埋葬を拒まれて、ロングアイランドの共同墓地に埋められた。1819年になって、イギリスのジャーナリストで愛国者のウィリアム・コベットが故国に改葬しようとしてペインの遺骨を持ち帰ったが結局イギリスでも埋葬が許されず、コベットの生きている間はその家に置かれたまま、彼の死とともに行方知らずとなったという。
【仏】1791年04月02日、小ミラボーが急死する。
- この享楽的な放蕩者ながら強力な王制護持論者であった人物の死によってオルレアン公も王室も立憲議会との太いパイプを失う事になった。
- ブルジョワ的立場から初期の革命を主導し(英国型)立憲君主制への移行を主張したが、同じ開明貴族のラファイエットや三頭派ら政敵に妨害されて念願の大臣就任は最後まで叶わなかった。その雄弁と開放的な庶民性から国民に絶大な人気を誇ってきたが、死後ルイ16世と交わした書簡や多額の賄賂の存在が暴露されるとその名声は地に落ちることになった。
- ラファイエットはオルレアン公の政敵でもあり、政争に敗れて一時期イギリス使節として中央から逐われていた時期さえ存在した(1790年7月)。
【仏】1791年06月14日、国民議会で「ル·シャプリエ法」が制定される。
- 国民議会議員アイザックルネ·ガイル·シャプリエ(Isaac René Guy Le Chapelier 1754年~1794年)の報告が出発点となった事からこう呼ばれる。「同じ身分ないし同じ職業の市民たちによるあらゆる種類の同業組合を廃止することは、フランスの国政の根本的基礎のひとつである」という立場から策定された同業者組合の結成と労働者の団結を禁止した法律。自由競争を妨げる同業者や労働者の団結を排除しようとするこの法律は経済的自由主義の基礎となる重要な法律となった。
- しかしこの法律は民衆にとっては全然ありがたくなかった。なぜならル・シャプリエ法は同業組合の結成を禁止している一方で、商人や生産者の私的な独占や談合による価格のつり上げは禁じてなかったからである。実際各地の市場では、穀物を出荷する富農や商人達が独占や談合をして穀物価格をつり上げることがしばしばあり、これがパンの価格の高騰を招いて民衆を苦しめていた。しかも、パンが高くなっても賃上げ要求のための労働者の団結が禁止されてしまっている以上民衆にしてみれば苦しめられっぱなしという事になる。
- 革命の推進力となるブルジョワ層が自由主義貴族と手を組んでつくりあげたのがいわゆる91年体制なのだが、ル・シャプリエ法はその本質をよく表しているといえる。
【米】1791年03月03日、米国連邦議会が後の「ウィスキー暴動」の引き金となる内国税法案を可決する。莫大な負債を返済するために必要不可欠な措置であった。
- 同法により、14の徴税区が創設され、蒸留酒へ1ガロンあたり7セントの税が課された。
- 新生間もないアメリカ合衆国政府では、初代財務長官アレクサンダー・ハミルトンの呼びかけでアメリカ独立戦争時の国としての負債を引き受ける一方で1791年、ハミルトンがアメリカ合衆国議会に蒸留酒と運送費に課税する事を認めさせている。この課税にハミルトンが与えた主な理由は国債を償還することだったが「歳入減というよりも社会的規律を保つ手段」とか「(ハミルトンが)新しい連邦政府の権力を高め確実にすることを望んだ(結果)」といった表現も垣間見られる。
- ところが蒸留酒は西部の農民達にとっては重要な産品であり、新たな課税は死活問題となった。そして西部の農民たちは税金支払いを拒否するだけに留まらず1794年7月、ペンシルヴェニア州モノンガヒーラ郡で暴徒が徴税吏を襲撃した。
- ワシントン大統領は、このように法律が踏みにじられれば、「共和主義政府は一撃で終わりを迎える」と考えていた為、8月7日、ワシントンは1万2900人の民兵を招集し、9月1日までに降伏するように暴徒に呼び掛けた。その呼び掛けが無視されると9月25日、遂に暴動の鎮圧を命じる。ほとんどの暴徒が既に検挙されていたか、もしくは逃走するかした為に戦闘には至らなかった。20人が反逆罪で訴追され、2人が有罪となる。その2人にも大統領によって恩赦が与えられた。
- 連邦政府の威信に対する最初の挑戦で、ワシントン大統領自身はこの危機をうまく切り抜ける事が出来たと考えた。幸いにも軍事力による実力行使をできる限り最小限にとどめながらも、社会秩序を回復することができたとも。
- ウィスキー税反乱の抑圧は、ケンタッキー州やテネシー州といった連邦政府の管轄外にある小規模ウィスキー製造者を奨励する予期せぬ効果を生んだ。これら辺境地域ではトウモロコシが良く育ち、石灰岩が漉した水も出る場所があったので、トウモロコシからウィスキーを作り始める。このウィスキーが後にバーボン・ウィスキーになった。
アメリカ合衆国ケンタッキー州を中心に生産されているウイスキー(アメリカン・ウイスキー)の1種。略して「バーボン」とも呼ばれる。
- 1789年(合衆国発足の年)、エライジャ・クレイグ牧師によって作られ始めたのが最初といわれている。
- バーボンという名前はフランスの「ブルボン朝」に由来する。アメリカ独立戦争の際にアメリカ側に味方したことに感謝し、後に合衆国大統領となるトーマス・ジェファーソンがケンタッキー州の郡のひとつを「バーボン郡」と名づけた。それが同地方で生産されるウイスキーの名前となり、定着したものである。
- しかし後にバーボン・ウィスキーとコーン・ウィスキーとはその原料と製法によって再定義がなされ、別物を指すようにアメリカ合衆国の法律で規定されるに至る。
結果としてバーボン・ウィスキーとは、地理的な呼称、つまりケンタッキー州で生産されたコーン・ウィスキーのことを指す呼称となった。
- 1789年(合衆国発足の年)、エライジャ・クレイグ牧師によって作られ始めたのが最初といわれている。
- また反乱と抑圧には人民の支持を連邦党から民主共和党にシフトさせる効果もあった。それが明らかとなったのは1794年のフィラデルフィア議会選挙で、成り上がりの民主共和党員ジョン・スワンウィックが現職の連邦党員トマス・フィッツサイモンズに対して、7選挙区のうち7つ、投票総数の57%を制して圧勝する形となったのである。農夫達の怒りは本物だった。
- 嫌われたウィスキー税は、ペンシルベニア州西部以外ではほとんど法的強制力がなく、ペンシルベニア州西部でも税金を集めることにあまり成功しないまま、1803年に撤廃された。
【仏】1791年6月20日~1791年6月21日、ヴァレンヌ事件が勃発。それまである程度まで国民への影響力を保持してきた元フランス国王ルイ16ルイ一家が国外逃亡を図ってヴァレンヌで発捕らえられる。ただちにパリへ護送され、テュイルリー宮殿に軟禁された。
- 国王主権」に対する信頼感を根底から揺るがしたこの事件を契機としてフランス革命の流れに相反する「立憲君主派(短期的に団結を強めた穏健派と王党派が推進した流れ)」と「共和派(流れの小作人といった賃金労働者や失業者を中心とするサン・キュロット、流れの外国人が多く喧嘩っ早い職人層などを中心とするプチブル層などを糾合した流れ)」という二つの潮流が生まれる事となる。そのうち最初に台頭したのは前者の方だった。
- その一方でハンス・アクセル・フォン・フェルセン(Hans Axel von Fersen 1755年9月4日~1810年)伯爵を操りこの事件の黒幕的役割を果たしたとされるスウェーデン国王グスタフ3世は、フランス王家との繋がりから早くより反革命の立場を表明しとおり、この事件後も直ちにフランスからの亡命貴族(エミグレ)と結んで反革命十字軍の結成をヨーロッパ諸国に呼びかけている。しかしそれに応えたのはロシア皇帝エカチェリーナ2世のみだった為に結成までは至らなかった。
【英】1791年07月00日 バーミンガム暴動
- 英国政府がフランス革命への対抗措置として国教強制色を強めたのに対抗する形でプリーストリーら非国教徒が「バスティーユ襲撃2周年を祝う宴会」を開催。これを嫌悪した過激派暴徒が宴会の行われたホテル前に集結し、宴会が終わって出席者が出てきたところを襲撃した事件。暴徒はさらに幾つものユニテリアン教会や非国教徒の自宅をも焼き討ちにし、プリーストリー夫妻はロンドンからの一時的撤退を余儀なくされる。
- 群衆による襲撃が極めて効率的になされていることから、バーミンガムの行政長官がこの暴動を計画したという噂が流れ、現代の歴史家にもそう考える者がいる。実際、暴動鎮圧のために軍を派遣したジョージ3世は「プリーストリーが彼とその仲間が教え込んだ主義のせいで受難者となったこと、人々が真実の光で彼らを見たことをうれしく感じないではいられない」と述べている。
【仏】1791年7月17日、「シャン・ド・マルスの虐殺」事件が勃発。
*当時人気を博した「優柔不断な王にカエルが訊ねる」と題する風刺画においては、厳戒令を発したバイイは生首となっている
- パリの練兵場に平和的示威行動のために集った5万人の大群衆に対して、解散を命じた国民衛兵隊が発砲した事件。それまでフランス革命を指導する立場だった司令官ラファイエットの人気凋落を決定づけ、またパリ市長バイイの処刑理由ともなった。
- ヴァレンヌ事件以降、バルナーヴらは「国王は誘拐の被害者であった」という虚構をつくって取り繕おうとしていたが「国王を裁くべき」とする声は収まらずどころか1791年07月14日に開催された第二回連盟祭以降、ますます熱を熱を帯びる事になったのである。
*バルナーヴは国民議会において雄弁家として知られた第三身分議員。当初は急進派としてジャコバン・クラブの創立に参加したがヴァレンヌ事件に際して同行役を引き受けた頃から君主制支持者に転じ、フイヤン派を結成した一人。
- そして1791年07月15日にジャコバン・クラブでルイ16世廃位の請願運動が決定されると、これに怒った君主主義者たち多数派がジャコバン派から脱退して、翌日フイヤン派として分離する事になった(この時のフイヤン派のジャコバン派からの分離を「ブルジョワジーの分裂」と呼ぶ事もある)。からっぽの協会では議員資格のある者は5~6人しかいなかったが、請願文が採択され、シャン・ド・マルス練兵場に送られて主権者たる大衆に署名してもらう算段となった。内容は直接的に共和政を求めたわけではないが、(王に代わる)新しい行政権力と(現在の議員に代わる)新しい憲法制定議会の招集を求めるというものであった。これはオルレアン派の新しい王への交代という意味にも解釈できたので(サン・キュロットが多く屯する)コルドリエ・クラブはその曖昧さを非難したが地区民衆がこぞって集まり、サン=タントワーヌ門から練兵場まで行進して平和的な示威行動をすると決まった。
- 1791年07月17日のパリは朝から異様な緊張状態に包まれていた。「祖国の祭壇」の下に二人の男性が隠れていたのが見つかって民衆の手により王党派として近くの窓にぶらさげられ縛り首となる。ただの偶発的事故に過ぎなかったがこれを口実に立憲議会が厳戒令を布告する。実は市長バイイと国民衛兵隊司令官ラファイエットは事前に計画の報告を受けており、国民衛兵1万名を動員して請願運動を中止させ群衆を解散させようと目論んでいたのだった。
- 軍隊がシャン・ド・マルスにたどり着く前に、祭壇では6千名以上がすでに署名を済ませていたが、この請願書は明確な議会への不信任であったから何としても引き破らなければらなかった。それで午後に軍隊が人垣やバリゲードを突破して練兵場内に入ると、意外にも示威行動は平和裏に行われていて拍子抜けする。しかし殺気だった兵士の乱入に驚いた民衆が投石を始め、これに対してバイイが威嚇射撃を空に向けて命じた事から5万人のひしめく練兵場はパニック状態に見舞われた。人々が押し合いへし合いして逃げ出したのは確かだが何度銃撃があったか、水平射撃だったか威嚇のみだったか記録によって異なる。いずれにしても民衆への軍隊の発砲は衝撃的な事件であった。
- 後世の様々な史家によれば、実際の死者は13 - 15人程度で、病院に搬送されたものは国民衛兵を含めて12名に過ぎないともされている。200名程度の逮捕者も一ヶ月以内に釈放されたが、当時は噂に尾ひれがついて3,000名以上の死傷者が出たと言い広められ、多くの人がそれを「虐殺事件」と信じて憤った。歴史を動かすのはむしろそうした「誤解」の方だったりする。
- なお、このとき厳戒令を意味する 赤旗が初めて用いられたが、この事件がきっかけで後に階級闘争のシンボルとなった。
- この事件で人気を失ったバイイは1791年11月16日に解任されてナントに隠遁する。しかし恐怖政治の荒れ狂う1793年末に逮捕され反革命分子としてシャン・ド・マルスで処刑された。
1791年8月27日、ピルニッツ宣言
- ウィーンとベルリンの宮廷でロビー活動を続ける亡命貴族(エミグレ)に唆される形で神聖ローマ皇帝レオポルト2世とプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(Friedrich Wilhelm II 1744年9月25日~1797年)が共同で発した宣言。決して武力介入を意味するものではなく、口先だけの外交辞令であったが、フランスの革命派と亡命貴族には最後通牒であると誤解されて逆効果となり、革命戦争開始に歩を進める事になった。
- *元来、同年8月24日からザクセンのピルニッツ城にレオポルト2世とフリードリヒ・ヴィルヘルム2世とフリードリヒ・アウグスト3世(ザクセン王)が集まっていたのはポーランド分割に関する共同歩調をまとめる為に過ぎなかったのだがアルトワ伯(Charles X 1757年~1836年、ルイ16世の弟、復古王政期におけるシャルル10世)の熱心な働きかけで発せられる事になった。
- この宣言を文言通りに解釈すれば「フランス国王の現状はヨーロッパ全主権者の共通する利害」にかかわる問題であって、フランス国王を「完全に自由な状態」にするために両国王は「必要な武力を用いて直ちに行動を起こす」と決心したという事になるが実際にはただの威嚇に過ぎず、本当に戦争をすぐに起こす意志も準備もなかった。
- しかしこの宣言を亡命貴族(エミグレ)は非常に喜び、9月10日にはプロヴァンス伯(Louis XVIII 1755年~1824年、ルイ16世の弟。後のルイ18世)が憲法批准に反対する猛烈な抗議声明を発するといった動きに発展してしまう。その文面の中には「もし狂信的な悪業で陛下(ルイ16世のこと)に危害を加えるならば、外国列強の軍隊がパリを粉砕させるつもりであることをパリ市民は知るべきである」といった脅迫めいた一節まであった為に革命派はむしろ激怒し、ジロンド派などから主戦派と称するグループが台頭して、外国と戦って国王の反革命を暴くと息巻くようになった。そして愛国心の高揚はパリのサン・キュロットたちをさらに過激な活動へと駆り立ていく事になったのである。
【仏】1791年09月14日、ルイ16世が1791年憲法に宣誓して復権。1791年10月1日における立法議会招集を経て立憲王政への移行を達成。
- 1789年の蜂起を高揚した理想主義者の幾人かはこれで革命は終わったと信じ、実際に立憲議員の何人かが帰郷している。
- この時成立した立法議会においては(立憲議会で立憲君主制が政体に選ばれる上で中心的役割を果たした)フイアン派が右派勢力として議員264名を擁し、あくまで共和政への移行を主張し続け津左派勢力のジャコバン派136名(当時はジロンド派もその一員)と対峙する形となった。1791年憲法を護持する立場から革命の沈静化に努めたが、シャン・ド・マルスの虐殺の後遺症ともいうべき不人気に悩まされ、その支持は最期まで低迷を続ける事になる。
- フイアン派は人権宣言の精神は遵守するものの、王権の不可侵・神聖を主張する自由主義貴族・右派ブルジョワ層、穏健派の集団などから構成されていた。主要なメンバーとしてはラファイエット、バルナーヴ、ラメット兄弟、シエイエス、バイイらが挙げられるが、ラファイエット派や三頭派など、革命初期には対立していたような人々も烏合しているのが特徴である。1791年12月09日からは責任内閣を運営したが、1792年3月10日に外務大臣ドレッサールが告発を受けた事から罷免され、ルイ16世は次にジロンド派へと内閣を任せた。
【米】1791年10月31日(米)フィリップ・フレノーがフィラデルフィアで「ナショナル・ガゼット」紙を創刊
- フレノーは国務長官ジェファソンの支援を受けており、政敵たる財務長官ハミルトンが後援するジョン・フェノの「ガゼット・オブ・ザ・ユナイテッド・ステイツ」紙への対抗馬として用意されたのは明らかだった。実際、以降両紙は激しい党派論争の舞台となっていく。
- 財務長官ハミルトンを中心とする連邦派は、ニュー・イングランド地方の商人を支持基盤として強力な中央政府、中央銀行の設立、製造業の振興、公債償還、親英姿勢などを推進しようとしていた。その一方で国務長官ジェファソンを中心とする民主共和派は南部諸州の農園主を支持基盤として立法府と州権の尊重、農本主義、親仏姿勢などを推進しようとした。両派は「政党」と目されるが、この時代は、政党は君主制の遺物だという考えが強く、政治を腐敗させる存在として否定的に見られていたからどちらも「正党」とは名乗っていない。いずれにせよ両派が最も激しく対立したのは合衆国銀行設立に関する議論だった。
- ワシントン自身は明らかに連邦派寄りであったが、ハミルトンとジェファソンを何とか和解させようと努力した。1792年8月23日にジェファソンに、同月26日にハミルトンに手紙を送って、両者の意見の相違を仲裁しようとしたが失敗している。1793年7月31日(辞任の発効は12月31日)、その努力にも拘わらずジェファソンは国務長官を辞任した。しかし、これで党派対立が終息したわけではない。
- 当初、ワシントン大統領は党派対立に関して均衡を保とうとする立場にあったが、次第にワシントン自身も民主共和党の非難の的となった。特にジェイ条約は激しい論議の的になり、連邦派と民主共和派の亀裂をさらに広げた。ジェファソンの『トマス・ジェファソン語録Anas of Thomas Jefferson』によると、中傷にさらされたワシントンは激怒して、「神にかけて、今のような状況に置かれるくらいなら、むしろ墓の中に置かれるほうがましである。この世の帝王になるよりも、むしろ自分の農場に居るほうがよい。それにも拘らず、私は王になりたがっていると非難されている」という旨を述べたという。
【仏】1792年03月00日、ジャン=マリー・ロラン, ラ・プラティエール子爵 (Jean-Marie Roland, vicomte de La Platière 1734年~1793年)がフランス政府の内務大臣に就任。
- しかし彼は妻で「ジロンド派の女王」と呼ばれていたジャンヌ=マリー・"マノン"・フィリポン=ロラン, ラ・プラティエール子爵夫人(仏: Jeanne-Marie "Manon" Phlipon-Roland, vicomtesse de La Platière 1754年~1793年)の完全な言いなりだった。
1792年03月16日、スェーデン国王グスタフ3世が暗殺される。
- 仮面舞踏会の席上で背後からピストルで撃たれ、2週間後に合併症を併発して死亡。フランスとの繫がりの深さと絶対君主制護持を誓う立場からフランス革命をこよなく憎んでいたが、その死後スウェーデンが革命戦争に参加することはなかった。
- 暗殺の黒幕として、フレデリック・アクセル・フォン・フェルセン侯爵(ハンス・アクセル・フォン・フェルセンの父)が噂されたが定かではない。実行犯ヤコブ・ヨハン・アンカーストレム伯爵は地所と特権剥奪の上、3日間鞭打ちを受け、右手を切断された上で4月27日に斬首刑に処せられた。
- グスタフ3世の目指していた大国復興プランは一般の市民や農民に支えられながら大貴族と対抗する事を目していたが、彼の死によってその夢は潰え去り以降の北欧は欧州列強のパワーゲームに曝されていく事となる。
- フランス革命と並んで欧州諸国で保守色が広がり国内の統制が強められた契機の一つとされる。
フランス革命を起こした主流派が’(大英帝国の様な)立憲君主制への移行で、欧州の反応も微妙だった「凪の時期」。ベネディクト・アンダーソンが「想像の共同体(Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism、1983年)」において「想像のフランス革命ではなかった事にされた出来事」と述べた箇所。「これまでのフランス革命英雄伝で見た事ない名前ばっかり。覚えるだけ馬鹿らしい」なんて意見まで目にした事があります。
ねえ知ってる?明治維新は年貢で農民が貧困の限界で米も食えないから幕府は倒されたんだよ。
— Urararara57~政治勉強中~ (@Urararara57) 2017年5月15日
ねえ知ってる?フランス革命は税金で市民の限界でパンも食えないから起こったんだよ。
ねえ知ってる?自民党は増税で国民は貧困なのに、外国人や金持ちばかり優遇してる……限界だよ。
- まぁ実際、その多くが自由主義貴族や「王侯貴族に奉仕してきた売文家」で「ジャコバン派の恐怖政治」が台頭してくると大半が処刑されるか海外亡命を余儀なくされたグループなので「世界史に不可逆的に正義の爪痕を残したのはジャコバン派の恐怖政治であり、彼らこそが人類のあるべき未来を示した」と信じる急進左派からの評判は今日なお、まとめてよろしくない。
- 実はこの集団こそが「計算癖が全人格化した」現代社会を予言したコンドルセ侯爵を含んでいるのだが、上掲の様に「ジャコバン派の恐怖政治」を理想しする人々にとっては彼こそがまさに「究極の反動勢力の首魁」という事になる。
- アメリカ独立戦争やフランス革命を理想視する人々は、実際のアメリカ人がシェイズの反乱(1786年~1787年)を武力鎮圧した事で「マサチューセッツ急進派」が米国政治史から脱落した事、実際のフランス人が小ミラボーの死(1991年)や「シャン・ド・マルスの虐殺(1791年)」を契機にバイイやラファイエットといった「自由主義貴族」の凋落が始まってしまった事についてどう考えるべきか今日なお悩み続けている事について完全黙殺するのを常としている。
*こうした人物達こそが実際のアメリカ独立戦争やフランス革命を起こしたのだが、その事実を認めると彼らが大事にしている「想像上のアメリカ独立戦争」「想像上のフランス革命」のイメージはあっけなく瓦解してしまうのかもしれない。そうしたタイプの人間にとってはロシア革命だってレーニン率いるボルシェビキが最初から主導してきたものでなければならないのかもしれない。
そしていよいよ「革命戦争の時代」が始まってしまう訳です。ある意味この歴史展開こそが国民主権国家と戦争を不可分の存在に仕立て上げたとも。