諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

英国宮廷を騒がせ続けた「外国人妖姫」達

中世英国宮廷史は輿入れしてくる外国人妖姫の大量暗躍に彩られている。

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背景には「フランス国王の家臣にしてイングランド」といった奇妙な政治的状況などがあった。

 
 

 
 

 
 

ノルマンディー公リシャール1世の娘エンマ(Emma of Normandy、 985年頃〜1052年)イングランド王エゼルレッド2世(在位978年〜1013年,1014年〜1016年)の未亡人として北海三国王クヌート大王(イングランド王1016年〜1035年、デンマーク王1018年〜1035年、ノルウェー王1028年/1030年〜1035年)と結婚。アングロサクソン朝の王統にノルマン公の血を混ぜた事でノルマン・コンクエスト(1066年)の遠因を生む。

 

アキテーヌ女公エレノア(Aliénor d'Aquitaine、 1122年〜1204年。フランス全土の3分の1にも及ぶ広大なアキテーヌガスコーニュポワチエの領主)…十字軍国家アンティオキア公国支援を巡るフランス国王ルイ7世(在位1137年〜1180年)との結婚と離婚、そして腹いせとも思えるイングランド国王ヘンリー2世(在位1154年〜1189年)との再婚によってプランタジネット朝の開闢を促し英仏百年戦争(1337年〜1453年)の遠因を生んだ。

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

マティルダ皇后(Empress Matilda、 1102年〜1167年)イングランド王ヘンリー1世とその王妃たるスコットランド王マルカム3世の娘マティルダとの間に生まれた王女。モード皇后(Empress Maud、Maud はサクソン語で Matilda)、イングランドマティルダ(Matilda of England)とも。イングランド初の女性君主だが、実効支配者として君臨したのが対立王を一時的に捕獲していた1141年の数ヵ月間に限られること、女王として戴冠することがついになかったこと、そして自らの手で王権を統合することができなかったことなどから、後世の史家はこのマティルダを正統な君主として認めながらも歴代のイングランド王には数えないという、玉虫色の扱いをするに至っている。
薔薇戦争における悲劇のヒロインだが「英国宮廷を騒がせ続けた外国人妖姫」の範疇に含むのには無理がある?


◎イザベラ・オブ・アングレーム(Isabella of Angoulême、 1188年〜1246年)…フランス名はイザベル・ダングレーム(Isabelle d'Angoulême)。プランタジネット朝イングランド国王ジョンの2度目の妃。父はアングレーム伯爵エマール。1200年、ラ・マルシュ伯爵の息子ユーグ9世・ド・リュジニャンと婚約の身でありながらジョンと結婚。フランスと甥のブルターニュ公アルテュール1世(アーサー・オブ・ブリタニー)支持のアンジュー、メーヌ、トゥルネー、それらと対峙する母アリエノールの所領アキテーヌとの間に楔を打つのが目的であったが、この強引な結婚が元となってポワチエで蜂起が発生。1220年にジョンが死没するとかつての婚約者ユーグ9世の息子ユーグ10世と再婚。1241年末に息子ヘンリー3世とユーグ10世を扇動してフランス王ルイ9世に反乱を起こしたが、鎮圧され1246年に死去。

◎イザベラ・オブ・フランス(Isabella of France、 1295年頃〜1358年)…その美しさから、広くヨーロッパの各宮廷に「佳人イザベラ」として知られたイングランド王エドワード2世の王妃。エドワード2世を廃位に追い込みエドワード3世摂政にして愛人だったロジャー・モーティマーと共に実権を握る。フランスと講和し、エディンバラノーサンプトン条約ではスコットランド王国の独立を認め、スコットランド王太子デイヴィッド(後のデイヴィッド2世)とエドワード3世の妹ジョーンの結婚による同盟を締結するなど数々の屈辱的外交を行い,1330年10月に親政開始を望むエドワード3世がクーデターを開始。ノッティンガムで逮捕されたモーティマーは11月末の議会で「悪名高き罪」により絞首刑を宣告され市中引き廻しの上、タイバーン刑場で処刑され遺体を切り刻まれた。王太后イザベラが一切の権限を剥奪されライジング城へ幽閉されただけで済んだのはカペー本家出身でフランス王位継承権まで主張可能な立場にあり、エドワード3世が傍系ヴァロワ家出身のフィリップ6世の即位に異議を唱え、自らフランス王位継承を求めていた立場上罪人として捌けなかったからである。

◎アン・オブ・ボヘミア(Anne of Bohemia、 1366年〜1394年)神聖ローマ皇帝ボヘミア王カール4世と4番目の妃エリーザベトの娘。ハンガリーボヘミア王ジギスムントの同母姉でイングランド王リチャード2世の最初の妃となった。父の死後1382年1月22日にウェストミンスター寺院で成婚。仲睦まじい夫婦だったが子供をもうけないまま1394年ペストによって27歳で死去し、ウェストミンスター寺院に葬られた。リチャード2世はその後,1397年にフランス王シャルル6世の娘で当時まだ7歳のイザベラと再婚。彼女がチェコ語訳された聖書を持っていたことが、ジョン・ウィクリフによる英訳聖書作成の動機となる。

◎イザベラ・オブ・ヴァロワ(Isabella of Valois、 1389年〜1409年)…フランス名はイザベル・ド・ヴァロワ(Isabelle de Valois)またはイザベル・ド・フランス(Isabelle de France)。イングランド王リチャード2世の王妃。フランス王シャルル6世と王妃イザボー・ド・バヴィエールの娘で、イングランド王ヘンリー5世の妃キャサリン・オブ・ヴァロワ、フランス王シャルル7世の姉。1397年、7歳でリチャード2世の2番目の王妃となるも1399年、ヘンリー・ボリンブロク(のちのヘンリー4世)がリチャードをロンドン塔に幽閉すると彼女もロンドン北西のソニングに幽閉され、夫に会うことを禁じられ、翌年の夫の死も知らされなかった。1401年にフランスへ帰国を許されるが、未亡人が故国へ戻る際に返還されるものである持参金は返還されなかった。1406年、従弟であるオルレアン公シャルル(フランス王ルイ12世の父)と再婚したが,1409年に一女ジャンヌを出産した際に死亡。その後ジャンヌはアランソン公ジャン2世と結婚。

◎キャサリン・オブ・ヴァロワ(Catherine of Valois、 1401年〜1437年)…フランス名はカトリヌ・ド・ヴァロワ(Catherine de Valois)、またはカトリーヌ・ド・フランス(Catherine de France)。イングランド王ヘンリー5世の王妃で、ヘンリー6世の母。フランス王シャルル6世と王妃イザボー・ド・バヴィエールの末娘。弟にフランス王シャルル7世、姉にイングランド王リチャード2世の王妃イザベラ・オブ・ヴァロワがいる。たびたび精神異常に陥る父と、悪妻と名高い母の間で、キャサリンら幼い王子や王女はまともに育てられなかった。王妃が宮廷費を使い込むため、王子王女らは衣食にも事欠き、窮状を見かねた宮廷官により、北フランスのポワシーにある修道院に預けられるほどであった。キャサリンとヘンリー5世の結婚は、ヘンリー4世在位時から持ち出されていたが、キャサリンの姉イザベラが命からがらフランスへ逃げ帰ってくるような目に遭っていたため、フランス側が強く反発していた。しかし1415年のアジャンクールの戦いイングランドが大勝すると、その戦果としてヘンリー5世はフランス王位継承権とキャサリンとの結婚を求める。ヘンリー5世が次々と領土を拡大し、現在のフランスの半分に及ぶ領域を押さえると、フランス側はこの屈辱的条件を呑んだ。1420年6月、2人はトロワで結婚。翌1421年12月、キャサリンウィンザー城で王子ヘンリー(のちのヘンリー6世)を出産。1422年8月、ヘンリー5世が赤痢で亡くなると、結婚から2年余りで未亡人となった王太后キャサリンは、政治の実権は握らずにベイナーズ城へ移る一方で自分付きの秘書官オウエン・テューダーと通じるようになり、オウエンとの間にエドマンド、ジャスパーら3男1女をもうけた。そしてエドマンドの息子ヘンリーが、のちのチューダー朝開闢者ヘンリー7世(在位1485年〜1509年)となる。1437年1月3日、バーマンジー僧院で病没。中世イングランドの最高潮と言われているヘンリー5世とキャサリンとの結婚は、結果的にはプランタジネット朝族滅への布石となったとも。というのもこの結婚の結果、シャルル6世の狂気の遺伝子がヘンリー5世とキャサリンの子ヘンリー6世にもたらされたからである。百年戦争に敗れたイングランドでは、王権の失墜とヘンリー6世の精神異常が原因で薔薇戦争が勃発しその結果プランタジネット家は断絶。薔薇戦争の最終的な勝利者であるヘンリー7世は男系ではエドワード1世に滅ぼされたウェールズ大公の末裔に当たり、ヘンリー5世の征服で最高潮に達したウィリアム征服王以来の大陸との連合国家構想を捨て、アーサー王以来のブリテン島回帰主義を採った。それゆえにテューダー朝開闢はイングランド史における中世の終わり・近世の始まりともされる訳である。
オウエン・テューダー(Owen Tudorウェールズ語:Owain Tudur、 1400年頃〜1461年)イングランド王家となったテューダー家の祖。12世紀における南ウェールズのデハイバース(Deheubarth)国王リース・アプ・グリフィズ(Rhys ap Gruffydd)の末裔とされる。イングランド王ヘンリー6世の母后キャサリン(ヘンリー5世の未亡人)の納戸係秘書官として仕えていたが、後に事実上の婚姻関係を結ぶ。若くして未亡人となったキャサリンは、枢密院の許可がない限り再婚が認められておらず,1437年に38歳で没するまで、生前は二人の結婚が正式な手続きに於いて認められることはなかった。薔薇戦争ではランカスター派の一員としてウェールズの軍勢を率いたが,1461年にモーティマーズ・クロスの戦いでマーチ伯エドワード(後のエドワード4世)に敗れて捕らえられ、処刑される。エドマンド及びジャスパーと、異父兄ヘンリー6世の仲は良く、暗黙の了解の上で(事実上)公認の弟となり叙爵された。その後エドマンドはサマセット公の娘マーガレット・ボーフォート(サマセット公ジョン・ボーフォートの娘)と結婚し、マーガレットの血筋により二人の子ヘンリーは王位継承権を持つこととなり、ヘンリー7世となる。ただしエドマンドはヘンリー7世の出生する3か月前に戦場で捕えられて刑死しており、親子が生前に対面する事はなかった。キャサリンの墓には「ヘンリー5世の未亡人」であることしか書かれていなかったが、ヘンリー7世により、彼の出自を明確にする意図から「オウエン・テューダーと結婚」した旨が追加される。このことによりキャサリンとオウエンの結婚が公認のものとなった。
 
シェークスピア史劇において徹底して悪女として描かれるマーガレット・オブ・アンジュー(Margaret of Anjou、 1429年〜1482年)…ロレーヌ公とアンジュー公を兼ねたナポリ王ルネ・ダンジューとロレーヌ女公イザベルの娘。フランス王シャルル7世の王妃マリー・ダンジューの姪に当たるヴァロワ家の傍流で,1445年イングランド王ヘンリー6世と政略結婚したが、フランス側からの持参金は一切無く、むしろイングランド側がアンジューとメーヌを割譲する(アンジュー家に返還する)という形だったのでイングランド宮廷内においては最初から評判が悪く薔薇戦争の遠因の一つとなった。精神的に不安定だったヘンリー6世に代わってランカスター家を支えたがエドワード4世の即位によってヘンリー6世とともに追放される。しかし1470年、キング・メーカーのウォリック伯リチャード・ネヴィルを取り込んでヘンリー6世を復位。以降は夫を差し置いてランカスター派の旗印となり自ら戦争の指揮まで取ったが翌1471年、巻き返したエドワード4世に敗れ、夫と世嗣エドワードを殺された。ロンドン塔幽閉後従兄に当たるフランス王ルイ11世の身代金支払いにより釈放され1482年アンジューで没。
 
◎エリザベス・ウッドヴィル(Elizabeth Woodville、 1437年頃〜1492年)イングランド王エドワード4世の王妃。父は初代リヴァーズ伯リチャード・ウッドヴィル、母はサン=ポル伯ピエール1世の娘ジャケット・ド・リュクサンブール。ヘンリー6世の王妃マーガレット・オブ・アンジューの侍女で,1452年にランカスター派のジョン・グレー卿(Sir John Grey、 7th Baron Ferrers of Groby)と結婚するも1461年、セント・オールバーンズの戦いで夫ジョンは戦死。未亡人になったエリザベスはエドワード4世に近づき、ジェーン・ショア(Jane Shore)を始めとする多くの愛人を差し置いて、その寵愛を獲得。1464年5月1日、エドワード4世と密かに結婚した。政権の有力者ウォリック伯リチャード・ネヴィルは結婚に反対し、エドワード4世と激しく対立。1471年、ウォリック伯を倒したエドワード4世は国内を平定した後,1483年に病死した。エリザベスとの間の息子エドワード5世が父の後を継いだものの、グロスター公リチャード(リチャード3世)派による議会工作で戴冠式前に王位継承の無効を宣言され、ロンドン塔に送られる。エドワード4世とエリザベスの結婚が重婚と見なされ、不法とされたためである。エドワード4世が以前エリナー・バトラーと結婚しており、エリナーがエリザベス・オブ・ヨーク誕生の頃まで生きており、エドワード4世がその後もエリザベス・ウッドヴィルとの結婚を合法化する策を講じなかったため、リチャード3世は自身が即位するほか何もできなかったとも言われる。エリザベスは家族とともにウェストミンスター寺院に逃れて、細々と命脈を保った。リチャードはエリザベスに危害を加える気は全くなかったが、罪悪感と欲に駆られたエリザベスが持てる限りの宝飾品を持って立てこもり、いくら説得されても出てこなかったともいわれる。1485年にリチャード3世が戦死すると、ヘンリー7世がエドワード4世とエリナー・バトラーの結婚の証拠を全て破棄し(国外には残った)、エリザベスは再び元王妃としての権利を得た。また、長女エリザベス・オブ・ヨークはヘンリー7世の王妃になり、その子孫を通じて以降のイングランド王および女王はすべてエリザベスの子孫となる。王の未亡人としての年金も復活し、晩年はバーマンジー僧院(Bermondsey Abbey)に引退して平穏に生きた。ただしこれを僭称者ランバート・シムネルの反乱に関わりがあることを疑われ、ヘンリー7世に強制された結果と見る向きもある。
薔薇戦争における悲劇のヒロインだが「英国宮廷を騒がせ続けた外国人妖姫」の範疇に含むのには無理がある?


◎アン・ネヴィル(Anne Neville、 1456年〜1485年)イングランド王リチャード3世の王妃。ウォリック伯リチャード・ネヴィルとアン・ボーシャン(ウォリック女伯)の末娘としてウォリック城で生まれ、その短い生涯を政治のコマとして使われることになる。14歳の時、父親によって国王ヘンリー6世の息子の王太子エドワードと婚約させられた。父ウォリック伯は、それまでヨーク派としてエドワード4世の戴冠などにも尽力してきたものの処遇に不満で、この時にはヘンリー6世の王妃マーガレット・オブ・アンジューと同盟して、ランカスター派側に寝返っていた。だが、姉イサベルが王弟クラレンス公ジョージと結婚したことで、マーガレット王妃はこの寝返りの動機を、自分と同盟して王位を王太子エドワードに継承させるのではなく、クラレンス公を担いで次期国王にしようとしているのではないか、と疑い始めた。アンとエドワードが公式に結婚式を挙げた記録はないが、恐らく1470年12月13日にフランスのアンボワーズ城で結婚していたか正式に婚約(この場合は法的には結婚したのと同じ)していた。ヘンリー6世を復位させるため、マーガレットによってイングランドに派遣されていたウォリック伯は,1470年10月にこれに成功したが、その数ヶ月後にバーネットの戦いで敗れて殺される。アンは新郎と義理の母と一緒にイングランドに帰国して初めて、父親が亡くなったことを知った。またさらに1471年5月4日のテュークスベリーの戦いでエドワードが戦死して未亡人となった。アンがロンドンで使用人として働いているところを、エドワード4世の弟グロスター公リチャードによって見いだされたという逸話がある。それが本当かどうかはともかく、個人リチャードとしての少年時代からの彼女への想いと、政略的に彼女の財産と称号(その大部分は母アン・ボーシャンの家系から来る)の相続を狙ったのは事実であった。アン・ネヴィルとグロスター公リチャードの結婚は,1472年7月12日にウェストミンスター寺院で行なわれ、リチャードがイングランド北部の知事に任命されたという事で、慣れ親しんだミドルハム城に新居を構えた。1473年頃、彼女らの唯一の子であるエドワードがミドルハムで生まれた。アンの健康状態は決して思わしくなく、結核と見られる症状に苦しんでいた。1483年4月9日にエドワード4世が死去し、息子エドワード5世が後を継いだ。しかし1483年6月25日、エドワード5世とその弟ヨーク公には王位継承権がないと宣言される(エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルの結婚が重婚と見なされたため)。そしてグロスター公がリチャード3世として即位した。アンは王妃となり、息子エドワードはプリンス・オブ・ウェールズに叙せられた。しかしエドワードはシェリフ・ハットンで1484年4月9日に急死。そのためアンは、自身と夫の甥であるウォリック伯エドワード(クラレンス公ジョージとイザベル・ネヴィルの遺児)を養子にし、リチャードは(恐らく彼女の願いを聞き届けるために)少年を法定相続人に指名した。リチャードがアンと離婚して姪(エドワード4世の娘)エリザベスと結婚することを計画したという噂が彼らの息子の死亡後に広まったが、リチャードがアンを毒殺したという噂とともに証拠は何も残っていない。アンは1485年3月16日に、恐らく結核のためウェストミンスターで死去し、そこに埋葬された。
薔薇戦争における悲劇のヒロインだが「英国宮廷を騒がせ続けた外国人妖姫」の範疇に含むのには無理がある?


英国産業史でいうと「イングランドがただの羊毛輸出国に過ぎず、しかも交易は外国人に任せっきりだった時代」に該当する。

チューダー朝時代の英国宮廷は政略結婚によって大陸ゴタゴタに巻き込まれるのをなんとか防ごうとする動きが活発だった。

しかし次のスチュワート朝の時代には、英国王チャールズ1世の寵臣バッキンガム公爵が(スペインとオーストリアの両ハプスブルグ家の血統ゆえに宮廷内で冷遇されていた)フランス王妃との悲恋に落ちてしまう。こうしたゴタゴタでバッキンガム公爵を失ったチャールズ1世は清教徒革命でギロチンの露と消える無残な最期を遂げる事に。

歴史なんてどうやら、人間ドラマ的に面白くない方が無難みたいですね。

チューダー朝以前は、そもそも「国家」じゃなかった? ただの所領だった?

 

 

 


 

ちなみに最近「自動車駐車場の王(The King in the Car Park )」がヨーク朝イングランドの最期の王リチャード3世(Richard III、在位1483年〜1485年)と特定された結果、DNA検査によってやっぱりチューダー朝にはプラジネット朝の後継を争ったヨーク家ともランカスター家とも血の繫がりがない事が改めて明らかとなった。元々の伝承でもよく読むとそうなってるけど…

英国立憲君主制は外国人君主(チューダー朝断絶後もスコットランド人→オランダ人→ドイツ人と推移して今日に至る)が育てた?

そして「妖精の女王」ティタニアが登場…

さて、私達は一体どちらに向けて漂流してるのでしょうか…