諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

十字軍国家としてのポルトガル王朝

戦国時代に描かれた日本の南蛮屏風などを眺めると、ポルトガル商人とイエズス会宣教師がセットで登場してくる事が多い。

https://www.rekihaku.ac.jp/english/exhibitions/project/old/050323/img/pic13.jpg

どうしてこの組み合わせになったのか、考え出すと結構深かったりする…

 そもそもポルトガルの起源は「イベリア十字軍」すなわち、10世紀頃からレオン王国アストゥリアス王国などが着手したレコンキスタポルトガル語ではルコンキシュタ)と呼ばれる宗教的情熱を背景とした国土回復運動であった。

そして16世紀中旬になると日本に「隙あらば火縄銃や火薬と奴隷の交換貿易を求めてくる貪欲なポルトガル商人」と「ポルトガル国王が彼らの目付役として貼り付けた対抗革命の戦士イエズス会」がセットで現れる。この間一体何があったのか?
  1. そもそもレコンキスタ(Reconquista)完了直後のポルトガル王国は貧乏な辺境の後進国に過ぎなかったが、1248年にカスティーリャ王国がセビーリヤを征服し、ジブラルタルから大西洋への出口が確保された事から首都リスボンをはじめとするポルトガルの諸港が「北海と地中海を結ぶイベリア半島における安全な交易拠点」に変貌を遂げるとフランドルやイギリスとの交易が活発化し、外国人商人(ことに内紛が酷く本国の発展が望めないジェノバ人)が押し寄せ都心部に冨が集中する様になる。これによってポルトガル最初のブルジョワ階層が形成される一方で発展から取り残されたフィダルゴ(血統を重んじるが貧乏な農村貴族)との間に緊張感を抱える事となった。この両勢力が二人三脚となって後援した事が元宗主国カスティーリャ王国の干渉を廃しアヴィス朝開闢を成功させた主原動力となる。
    *異説もある。建国前から既にフランドルやイギリスとの交易は活発であり、その結果既にブルジョワ階層の形成は始まっており、そもそも彼らの自立精神を汲み取る形でブルゴーニュ朝もアヴィス朝も開闢されたというのである。

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  2. 建国直後、管財能力に長けたテンプル騎士団(Pauperes commilitones Christi Templique Solomonici)が誘致された事も見逃せない。パリ本部が1312年にフランス国王に接収されて以降もポルトガル支部は「キリスト騎士団」と改名して存続。その団長だった航海王子エンリケはここから探検隊費用を捻出するとともに小貴族や商人層にも協力を求めた。その事業の目的が中小貴族の次男、三男にも所領を取得させ、商人が陥っている通貨不足を解消することにあったので両者の間に利害の不一致は存在しなかったからである。かくして「アフリカ十字軍」が始まる。
    *さらなる背景として14世紀における黒死病の大流行と、それに伴う人口激減を原因とする国内農業の不振という「背水の陣」状況が挙げられる。十字軍運動ゆえに「(中世欧州に流布していた伝承に拠ればイスラーム教徒の彼方にいるという)伝説上のキリスト教王プレスター・ジョンと連合して、イスラーム教徒を打破する」といったロマンティックな目標も掲げていたが、要するに最大の目玉は(マグリブチュニジア以西のアフリカ北岸)と西アフリカ諸国を結ぶ)サハラ交易(岩塩と砂金の交換で著名だった)に食い込む事だった。

  3. 本当の意味で騎士修道会が「探検」の主役だったのはセウタ制圧が完了した1415年から、キャラベル船の登場で比較的手軽に探検に参加出来る様になった1440年代までの四半世紀程度に過ぎなかったとされる。その一方で1434年に「不帰の岬」として恐れられてきた西サハラのボジャドール岬を越え、1488年には喜望峰をも越えた「聖戦」は、最初からジェノヴァ人の航海術と(奴隷交易や海賊行為で生き延びる事さえ辞さない)冒険心、さらには融資力と商機を商売に結びつける才覚なしに成立するものではなかった。実際「不帰の岬」越えには当時最先端だった「(三角帆を取り付けることによって、逆風でも間切りという航法で前進できる)カラヴェラ船」、喜望峰より先の航路では荒波に負けない外洋走破力を有するナウ船、船が陸地を離れても自らの位置を確認出来る天文航法の投入が不可欠だった。こうした努力の結果、1471年から黄金海岸(現ガーナ)でスーダン金の継続的取引が開始。奴隷や象牙、マラゲッタ胡椒の輸入も次第に持続的で安定したものになり十分に採算の合うビジネスへと変貌したこの事業は、勧誘するまでもなく参加者が集まる様になっていく。その一方でインド航路が開通した頃には当初の宗教的熱意など微塵も残っておらず、むしろ利益を優先するあまりのモラルハザードを警戒しなければならない状況に陥ってしまう。
    *例えばインドに到達したヴァスコ・ダ・ガマの航海(1497年)の主要金主はフィレンツェだった。ジェノヴァ人に至ってはポルトガルを中継点として北欧・地中海間の交易に介入し、次第にポルトガル商人を締め出すほどの影響力を及ぼすまでになっていく。

  4. そもそも十字軍運動は最初からイタリア商人間の覇権争いの代理戦争という側面が濃厚で、第1回十字軍(1096年〜1099年)及び1101年の十字軍はジェノヴァ商人を、東ローマ帝国を滅ぼした第4回十字軍(1202年〜1204年)はヴェネティアをそれぞれ勝たせてきた。「アフリカ十字軍」にも実はレパント交易を独占し胡椒などの高額商品を独占してきたヴェネティアに対する他のイタリア商人の「封鎖破り」という側面があったのだが、ポルトガル王国自らが利権独占を画策し始めた結果、肝心のイタリア商人達を敵に回してしまう。特に「ジェノヴァ略奪(Sacco di Genova、1522年)」以降のジェノヴァ本国のスペインへの鞍替えが痛かった。
    ポルトガル王室の交易独占はインドのゴアから遠くなればなるほど緩和、開放され、それがインディア州の勤務者に対する特権としてばかりでなく、インディア州に居留する民間人にも譲渡されるようになり、しかもそれが競売に付される様になっていく。「ポルトガル海洋帝国の版図においては交易権は国王が下賜するものである」という文書上の建前自体は16世紀ばかりか17世紀まで維持されたが、次第に実体を伴わなくなりポルトガル王室に入る交易関連収益は激減。小国ゆえに充分な規模の海軍が運営出来ず、軍事的庇護を口実とする徴税もままならない状況が続く。そうした没落過程にあっても奴隷貿易だけはニーズが高まる一方で実入りの目減りがほとんどなく、ポルトガル王室は次第にそれへの依存度を高めていく。

  5. ちなみにポルトガル王国が絶対王制と呼ぶべき強勢をを誇り続けたのは1500年代から1530年代にかけて(「マヌエル様式」と呼ばれる王権や神権の超絶性をアピールする装飾過剰な内装様式がポルトガル本国の宮廷を飾った時期に該当)。一方強引に「スペインの大名貸し」に仕立て上げられたジェノヴァ銀行家の全盛期は1530年代から1560年代にかけて(彼らが本国の邸宅を「(巨万の富を誇示するかの如き)荘厳なる装飾過剰」で満たした時期に該当)。どちらもアントウェルペン/アントワープの黄金期と重なるが、現地に対応する芸術運動は存在しない(ゾンバルトいうところの「贅沢はおうちでこっそり」時代の始まり)。一方「ローマ略奪(Sacco di Roma;1527年5月)以降のローマで始まった対抗革命には二つの流れが存在した。(プロテスタント同様に)使徒伝教団の時代の純朴で質実剛健な精神に還ろうと呼び掛けたイエズス会と、カトリック教会の威信低下を政治的権威を芸術活動によって補おうとしたシクストゥス5世(在位:1585年〜1590年)やパウルス5世(在位:1605年〜 1621年)の「(巨万の富を誇示するかの如き)荘厳なる装飾過剰」路線がそれで、16世紀末から17世紀初期にかけてローマで広まった後者はその後フランス絶対王制に継承されて太陽王ルイ14世のもとで絶頂期を迎え、当時の強国オーストリア大公国、プロイセン王国スウェーデン王国ロシア帝国などへも広まった。王権の絶対視を好まないイギリスは黙殺したが、その一方でボヘミアボヘミアンバロック様式)やスペインとポルトガルの植民地では教会建築として独自の発展を遂げている(ウルトラバロック様式)。
    *後世「バロック芸術」と総称される事になる系譜だが「バロック」という語の語源はポルトガル語のBarocco(歪んだ真珠)とされる事が多い。注文者が求めたのはおそらく細かい様式の継承というより「鑑賞者を物療的に圧倒しようという意志」そのものだった。確かにそれこそがポルトガル王室のマヌエル様式、ジェノヴァ銀行家の邸宅、ローマ教皇の対抗革命的芸術、そしてフランス絶対王制のバロック芸術全てを貫くコンセプトなのだった。

  6. その一方で前者の路線を支えたのが衰退期に入った16世紀後半のポルトガル王室だった。彼らはすっかり世俗化してしまった騎士修道会が次々と妻帯や財産の私有を許されていくのに絶望してイエズス会を後援する道を選んだのである。1559年には国内にイエズス会がエヴォラ大学を創設。イエズス会の影響下、エヴォラは対抗改革の中心となり、ここで教育を受けた多くの宣教師たちが布教のために世界へ渡って行く事になる。
    *意外にも当時の交易品の中で最も人気が高かったのは中国の珍しい文物で、その為に歴史のこの時点で既にメキシコのポトシ鉱山の銀の年間産出量のうち 1/3が確実に中国に流れ込み続ける構図が既に出来上がっていた。この図式が年々酷くなっていき、最後には阿片でも密輸入しないと貿易バランスが取れなくなって19世紀に入ってから阿片戦争を引き起こす。 

  7. 1556年に即位したポルトガル王ドン・セバスティアン(在位1557年〜1578年)は強まるスペインの圧力をひしひしと感じつつ1578年に無謀なモロッコ再征服をこころみて大敗、本人も戦死し、国の財政を大きく傾けてしまった。その後継として、ジョアン3世の孫に当たるスペイン王のフェリペ2世(在位1556年〜1598年)が、1580年ポルトガル国王(在位1580-98)を兼任することになる。
    *かくして1580年から1640年にかけて「スペインによるポルトガル併合」あるいは「同君連合時代」が続く事となる。
かくして「見るからに貪欲そうなポルトガル商人と、そのお目付役たるイエズス会士の二人三脚」という世にも奇妙な凸凹コンビが日本に登場する事となった次第。

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ポルトガルの「大航海時代」と東アジア交易(現在はリンク切れ状態)
当時のポルトガル海上交易について金七紀男編「ポルトガル史(増補版:2003(1996))」は次のようにまとめる(フェルナンド1世(在位1367-1383)もほぼ同様な政策を実施しており、それも含む内容となっている)。

①13世紀中旬には早くもポルトガルにおけるレコンキスタが終焉。首都をリスボンに移したポルトガル王国ディニス王(在位1279-1325、農夫王)の代から聖俗貴族勢力を抑えて王権を強化が開始され、農業や交易を振興して最初の黄金時代が現出する。1193年には早くも商館がフランドル(現ベルギー)のブルッへ(ブリュージュ)に設置され、また同年イギリスとの間で交易協定が結ばれた。
*1248年のセビーリヤ征服で、ジブラルタルから大西洋への出口が確保されると、首都リスボンをはじめポルトガルの港は、地中海と北海をむすぶ航路の寄港地として繁栄するようになる。

②外国貿易がこの時期著しい発達を見た。建国以前から既に北欧ことにフランドルやイギリスとの交易が行なわれ、ワイン・乾果(干し葡萄・干し無花果・アーモンドなど)、蝋・塩・コルクなどが輸出され、各種の繊維製品・武器・装飾品などが輸入されていたのである。この貿易を行なうリスボンポルトの商人たちは次第に商業ブルジョアジーとして1つの社会階層を形成するようになり、国王もさまざまな免税特権を与えて彼らを保護した。1293年には北欧と取引する商人に対して海上保険制度が作られ、14世紀後半には100トン以上の船を建造する者には王領地の森林から無償で木材が与えられる様になった。
*この時期にはもうジェノヴァ商人進出の萌芽が見られる。特にリスボンへの進出や砂糖きび農場への投資がめざましい。実際、1290年にアフリカ南端を迂回してインドに到達しようとしたヴィヴァルディ兄弟こそがポルトガル大航海時代の先駆けとされている(その航海計画自体は失敗)。

③13世紀後半にはイタリアとフランドルの間に航路が開設されたが、この時期急成長したリスボンジェノヴァヴェネツィア、イギリス、ドイツ、フランドルの商館が設置されている。その人口は13世紀半ばで1万4000人、14世紀末には3万5000人に増加し、大航海時代が幕開けする前夜となる15世紀初頭にはもう既に毎年40隻から50隻の商船が来航していたという。
*1317年、ディニス王はジェノヴァ商人のエマヌエレ・ペサーニョと協定を結び、彼を世襲提督とするとともに、イタリア人船長20人をして招いて海軍を創設。

しかし1320年代頃からそれまでの経済的繁栄に陰りが見え始める。ことに1348年に蔓延した黒死病によってポルトガルの人口は3分の1に激減。それによって農民不足となって耕地の放棄が起こり、飢えに苦しむ貧民が食料を求めて都市に集中し社会不安が醸成された。こうして黒死病によって深刻化した国内の経済不況が15世紀末まで続いた事がポルトガルにおいてヨーロッパ最初の市民社会が成立し、大航海時代の先駆者を生み出し、冨の集中とヨーロッパ最初の絶対王制とバロック芸術を誕生させたのだった。
アヴィス朝開闢と「アフリカ十字軍」
1383年にフェルナンド1世が死去すると、その王妃レオノール・テレスがカスティーリャ王を後ろ楯にした専制を始める。これに対してリスボン市民は、前国王の異母弟でアヴィス騎士団長のドン・ジョアンらを味方して、反乱を起こした。彼は、1385年コインブラで開かれたコルテス(身分制議会)においてジョアン1世(在位1385年~1433年)に選定され(アヴィス朝の始まり)、アルジェバロツタの戦いでカスティーリャ軍を破った。この1383-85年の民衆蜂起あるいは革命とカスティーリャとの戦争の勝利によって、ポルトガル市民は一体感を獲得し、ヨーロッパ最初の市民国家がここに成立したという見方もある。

①しかしちょっと待って欲しい。確かに当時ジョアン1世に勝利を導いたの一環は莫大な戦費の一部を賄ったリスボンポルトブルジョアジー達であり、それによって彼らは国政に相応の影響力を持つ様になった。とはいえこの政変の主体があくまでレコンキスタ遂行の主体として膨大な資産と威信を独占してきたアヴィス騎士団やキリスト騎士団(元テンプル騎士団支部)であった事を忘れてはならない。
テンプル騎士団のフランス本部は1312年にフランス国王に接収されて消滅し、ドイツ騎士団もタンネンベルクの戦い(1410年)でポーランド諸公国に敗北して以降は衰退期に入ったが、ロードス島に拠ってイスラム商人への海賊行為を続けてきたヨハネ騎士団は(フランス国王のテンプル騎士団接収の分け前に与った事もあり)まだまだ血気盛んだった時期であり「ポルトガルにおけるレコンキスタ終焉」「国内農産物の不調」という厳しい現実に直面したポルトガル騎士修道会も同様の生き様を模索せざるを得なくなったという事である。

*とはいえポルトガルは地中海に向かうことができない。それで王権と騎士修道会と都市ブルジョワジーの関心が自然と大西洋に向けられ、1世紀半をかけて「ヨーロッパ最初の海洋帝国」が築造される展開となる。

②1415年、ジョアン1世は200隻、兵士5万人という大艦隊を送って、北アフリカ商業都市セウタを攻略。これこそが後世にはヨーロッパの「大航海時代」の始まり、そしてヨーロッパの植民地建設の始まりと目される事となった。1405年から四半世紀余にわたって中国の明が派遣した鄭和の大航海と同じ様に国家事業ではあったが、それとは明らかに異なるのはまだまだ領土拡大への野心を棄てき切れずにいた王権と騎士修道会が主導する形で始まったという事。そしてこの運動は少なくとも当初の段階では「(中世欧州に流布していた伝承に拠ればイスラーム教徒の彼方にいるという)伝説上のキリスト教王プレスター・ジョンと連合して、イスラーム教徒を打破する」といったロマンティックな側面や十字軍運動独特の宗教的情熱を伴っていたという事である。

*セウタはイスラーム教徒の船の発進基地であっただけでなく、ブラック・アフリカから金が流れ込み、その背後には沃野が広がっていたがイスラーム教徒は交易都市をセウタからタンジェに移す。そのタンジェを、ポルトガルが征服するのは、1471年になってからである。
*セウタ攻略に当たって勇名を轟かせたジョアン1世の第3王子エンリケ(1394-1460)は「航海王子」という渾名を頂戴した割りには艦長になった事など一度もない。ただひたすらグローバル・ヴィジョン(世界的視野)をもって西アフリカ沿岸の探検と植民に邁進した人物であり、ザグレスに航海学校を設置して、航海者や天文学者、地図制作者、数学者などを集めたともされるが確証はない。

エンリケは航海と探検の事業に必要な莫大な経費に、1420年から彼が団長になっていた膨大な資産を持つキリスト騎士団(元テンプル騎士団)の収入を当て、それに小貴族や商人層が協力した。その事業の目的が中小貴族の次男、三男にも所領を取得させ、商人が陥っている通貨不足を解消することにあったからである。

エンリケは海賊行為に精を出す一方でサイドビジネスとして探検を展開。1418年マデイラ諸島、1427年アゾーレス諸島が再発見され、前者が1433年エンリケに譲渡されると植民が進められる。

1419年ポルトガル船がマディラ諸島のポルト・サントに漂着。翌年からポルトガルよりの植民が始まる。一時期黒人奴隷を移入して砂糖黍栽培が行われた。

「江戸時代の鎖国」とは、一体何だったのか? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)


④1434年、「不帰の岬」として恐れられていた西サハラのボジャドール岬を越えてヨーロッパ人にとって未知の領域に進出。その後、ポルトガルに雇われたジェノヴァ人が活躍し出す。

*ジル・エアネスの成功は、1430年代における技術進歩に負うところが大きかった。三角帆を取り付けることによって、逆風でも間切りという航法で前進できるカラヴェラが出現したのである。しかし、喜望峰回航後、軽快なカラヴェラでは荒天にたえられないことが判明。ナウ船に主役の座を譲った(ラテン語のナーヴィスあるいはナーヴィゴーに由来するという。ナビゲートの語源とも)。また天文航法によって船が陸地を離れても自らの位置を確認できるようになった事も大きい。ポルトガルの船乗りたちは、アストロビオ(天体観測機)やクァドランテ・ナウティコ(海洋象開機)などによって、緯度や正午の太陽の高さを測定して航海したのである。

*1441年、ジェノヴァ人のアントニオ・デ・ノリ(1415年?〜1497年)ら3人は、エンリケからギニア湾に入って、香辛料や金、奴隷を探索する権利をえている。その成功により、アフリカから最初の奴隷が入ってくる。そして、インドの胡椒の代替品となるマラゲッタ胡椒(唐辛子)の輸入がはじまる。これがアフリカ航路における最初の交易の成果とされる。アントニオ・デ・ノリはカーポベルデ諸島の「発見者」でもあった。エンリケは、1445年自ら奴隷輸送船を仕立てまた奴隷商の総監となり、ポルトガルを世界に冠たる奴隷交易国になさしめる。

*まさしくポルトガルは大西洋における奴隷交易の先駆けであった。西アフリカ探検が進められたエンリケ王子の時代、その積極的な成果として奴隷交易がはじまるが、その初期も奴隷狩りの比重が大きい。1441年、アンタン・ゴンサルヴェスを船長とする船がモーリタニア北部のリオ・デ・オロに上陸して、黒人でないアゼネゲ人を12人捕らえ、ラゴスに連れ帰った。1444年には、ランサローテ・デ・フレイタスが奴隷の最初の輸送船団となる6隻を率いて、さらに南のアルギン礁に赴き235人の捕虜を拉致してくる。

*1466年には、ベルデ岬諸島サンティアゴ島に砦が建設され、セネガル川からパルマス岬までの、上ギニア地域の交易拠点になる。また、1482年には黄金海岸にサン・ジョルジュ・ダ・ミナ砦(通称エル・ミナ)が建設され、金交易の拠点となる。1488年、バルトロメウ・ディアスがアフリカ最南端の希望峰に到達すると1493年には下ギニアのベニンやギニア湾のサントメ島が平定された。それ以後、サントメ島は奴隷の収容所、かつ砂糖生産地となる。

ポルトガル人は、マディラ諸島やカナリア諸島に加えてサントメ島においても、砂糖業を発達させるが、それに黒人奴隷が送り込まれることとなる。ポルトガル王室は、奴隷交易を自らの管理下におくため、1486年にリスボンに奴隷局を創設する。布留川正博氏によれば「この組織の役割は、まずアフリカからリスボンに運び込まれてきた奴隷を受け取り、検査し、標準価格をつけ、オークションで売却することであった。また、奴隷商人に交易許可証を発行し、特許料を受領した。この許可証によって貿易を営む商人は、さらに売上高の4分の1を税として奴隷局に納めなければならなかった。これは現金でよりも奴隷そのもので支払われる場合の方が多かった」という(池本幸二他著『近代世界と奴隷制 大西洋システムの中で』、p.97、人文書院、1995)。

ポルトガル商人が獲得した奴隷の数は、15世紀後半においては年間数百人から2千人程度、16世紀前半には順調にいった場合、年間5500人程度であったという。このうち3500人がモーリタニアから上ギニアで獲得され、残り2000人が下ギニアならびにコンゴで獲得された。それら奴隷のうち約2000人がリスボンに運ばれ、その半数がヨーロッパ諸国に転売された。その残りは、西アフリカの砂糖プランテーションに送られ、またミナ砦において金と交換された。

*1455年カボ・ヴェルデ諸島を発見したアルヴィーゼ・カダモトも、ジェノヴァ人であった。同年には教皇ニコラス5世(在位1447-55)がポジャドール岬以南のアフリカ大西洋岸の征服と貿易独占権をポルトガルに認めている。この教書は1452年の教書とともに、ヨーロッパ人による植民地主義と大西洋の奴隷交易を正当化するために利用された。同年ポルトガルは現モーリタニアのアルギン島に、サハラ以南のアフリカで、最初の商館を設立。エンリケが1460年に死ぬまでにポルトガルセネガルからガンビアまで進み、アフリカの最西端をまわって、シェラレオネ近辺にまで進出した。

エンリケ死後もアフォンソ5世(在位1438年〜1481年)治世下では金を目指したアフリカ西岸の開発が続いたが、この期間の初期の開発は個人の請負で行なわれる事になった。それにも関わらず1474年には西アフリカ事業を王室の独占とすることを宣言し、それの権利をジョアン王子に譲渡する。しかしポルトガル自体は1481年にアフォンソ5世が死ぬまでカステイリアとの戦争に忙殺されてアフリカ西岸開発に国力が避けなかった。
*安部眞穏によれば「1468年(リスボンの富裕な商人)フェルナンド・ゴーメスという商人は、1472年までの5年間、毎年2万レイスを王室に支払い、シエラ・レオーネ以南の海岸を100レグアずつ開発するという条件で、全ギニア海岸の交易独占権を取得、1473年この条約はさらに1年延長された」という。また、ゴーメスは奴隷海岸のサン・ジョアン・バティスタ・デ・アジアュダに商館を置いて、小麦、織物、衣類、毛布などと交換して金を取得する事に成功した。

ポルトガルは1457年からクルザ金貨に鋳造を開始。ギニア湾岸をその交易品から、胡椒海岸(現リベリア)、象牙海岸黄金海岸(現ガーナ)、奴隷海岸(ナイジェリア、ベナントーゴ、そしてガーナ東部の海岸部)などと呼び分けていたが、幸い1471年からは黄金海岸(現ガーナ)でスーダン金の継続的取引が開始。奴隷や象牙、マラゲッタ胡椒の輸入も次第に持続的で安定したものとなっていった。

⑥こうして遠洋航海と遠距離交易が十分に儲かる事業に成長するとイタリア商人の進出が加速した。ことにジェノヴァ人は、ポルトガルを中継点として北欧・地中海間の交易に介入。しだいにポルトガル商人を締め出すほどの影響力を及ぼすようになる。
*そもそも15世紀初頭から本格的海外進出に着手したポルトガルはその時点では貧乏な辺境の後進国だったに過ぎず、最初からジェノヴァ人の交易や金融、航海の知識、そして資金を頼ってきたのだからこれは当然の帰結とも言えた。

*1488年にはブルッへの商館がアントワープに移され、イングランドやスペイン南部のセビーリア、ヴェネツィアにも商館が設けられた。

1479年、ポルトガルは西アフリカ沿岸を争ってきたカスティーリャとアルカソヴァス条約を締結。ヴェルテ岬以南の沿岸を確保した。レコンキスタ完遂を間近に控えたスペインも海上貿易には注目していたが、ポルトガルと直接覇権を争うのは得策ではないと考えたらしい。

 赤道を越えて

ポルトガルジョアン2世(在位1481年〜1495年)は即位すると、直ちにカラベル船10隻、ナウ船2隻に兵士約500人、建築工約100人を乗せ、また石材や木材を積んで送り出し、1482年カスティーリャ人やフランス人の侵入を防ぐため、ギニア黄金海岸のサン・ジョルジュ・デ・ミナに商館(要塞)を建設する。そこで商人達は生糸、麻、羊毛、絨毯、馬、腕輪などを交換手段として、黒人から金や象牙、マラゲタ胡椒などを取得した。
*アフリカの金はアルギン島、ガンビア、シエラレオーネ、そしてミナなどで取引されたが、ミナの金が過半を占めるようになる。ミナ進出以後、1520年代まで、毎年500キログラムの金がポルトガルに流れ込んだ。

ジョアン2世の時代のポルトガルは初めて赤道を越えた。
ディオゴ・カンという航海者が1482年(さらに1488年)にジョアン2世の「赤道を越えよ」との命を受けアフリカ西海岸を南下したのである。彼はコンゴ川のデルタに到着した際、ポルトガル王がこの地を占有したことを示す、パドランという十字架のついた石柱標識を立てた。それ以後ポルトガルの征服者達はそれを見習う様になったが、バスコ・ダ・ガマ喜望峰の近くに建てたパドランは離岸してすぐ原住民に破壊されている。

ジョアン2世は1483年にジェノヴァ人の冒険商人クリストファ・コロンブス(1451年〜1506年)から「西回り航路」開拓の為の援助要請を受けるも却下。アフリカ大陸を南下する計画を続け、1487年にはバルトロメウ・ディアス(1450-1500)をアフリカのさらなる探検に海上から、そしてペロ・デ・コヴィリャンとアフォンソ・デ・パイヴァを「プレステ・ジョアンの国(エティオピア)とインド洋航路の探索に陸路向かわせた。そして1488年にディアスはアフリカ南端を迂回。その南端を「嵐の岬」と呼んだが、ジョアン2世によって「喜望峰」と命名された。さらに進もうとするが乗組員の反対にあって帰国。インド洋航路開拓の観点からも貴重な情報がもたらされた。
*スペインに鞍替えしたコロンブスは1492年すなわち喜望峰発見から4年後、新大陸を「発見」して帰帆する際リスボンに漂着して、ジョアン2世に謁見する。それに呼応するかの様に2年後の1494年、地球を二分するトルデシリャス条約をポルトガルとスペインとの間に締結。ここにおいて、ポルトガルは初めてインド洋に入り込んで、アジアの香辛料を獲得する意志を固めたと見られている。

しかしこうした一連の動きにも関わらずジョアン2世は何故か直ちには反応しない。1490年嫡子の王子が死んだとか、1494年には深刻な飢饉が起きたとか、後継者争いが起きたとか、総じて気弱になったからとされる。あるいは、コヴィリャンからの報告を待っていたからだともされる。このコヴィリャンは、1520年ポルトガルがエティオピアに使節団を派遣したとき、その国の宮廷に仕えていたという。
ポルトガル絶対王政」期(マヌエル時代)の到来
ジョアン2世のいとこのマヌエル1世(在位1495年〜1521年)は、ディアス後の10年目となる1497年になって、ヴァスコ・ダ・ガマ(1469-1524)の率いる4隻の船(100-120トンのカラベル船3隻、小型輸送船1隻、乗組員170人)を、インドに派遣する。その艦隊が1498年遂にインドに到達した。

ポルトガルは、1510年ゴア、1511年マラカといった胡椒の産地・集散地を攻略して要塞化する。1522年には、丁字や肉豆蒄の産地であるマルク(モルッカ)諸島のテルナテ島に進出。アデンの攻略には失敗するものの、1503年にはソコトラ島に要塞を構え、1515年にはホルムズを制圧。さらに東進して早くも1513年に中国に接触し、その30年後日本に到る。こうした一連の流れの中で香辛料などアジアの産品は紅海やペルシア湾―地中海経由ではなく、喜望峰―大西洋経由で輸入されるようになり、その担い手はイスラーム教徒やヴェネツィア人からポルトガル商人に取って替わったのだった。
*こうしたポルトガルのアジア進出は、海のシルクロードにある交易拠点を武力支配して制海権を握り、海のシルクロードにおける交易路を大西洋に引き込み、ヨーロッパ向けアジア交易を独占しようとしたものであった。ヴェネツィアがヨーロッパの香辛料交易を支配していた15世紀末には胡椒の価格が高騰して、1501には1キンタル(約50キログラム)が131ドゥカド(クルザド)まで跳ね上がっていたが、リスボンに胡椒が海路持ち込まれると、1503年40クルザド、20クルザドに暴落する。それでも、ポルトガル人は現地で1キンタルの胡椒を3クルザドで買い入れていたので、十分採算がとれたのである(16-17世紀の通貨換算率は、およそ、 クルサド、ドゥカド、スクードは同額、1タエル=1-2クルザド、日本の銀1貫=100ドゥカドとされる。)。

ジョアン2世の時代、西アフリカのミナ商館などから年間800キロの金をはじめ、奴隷・象牙・マラゲッタ胡椒が、マヌエル1世の時代、喜望峰経由でインドの香辛料が直接リスボンに入ってきた。この時代の国家歳入の状況は次のようであった。なお、1クルザド=400ミルレイス、1ミルレイス=1000レイスである。「インド航路開設まもない1506年では[総額約50万クルザドのうち]国内歳入(リスボン税関の収入を含む)19万7000クルザド、それに対して海外からの収入は30万3500クルザドと全体の61パーセントを占め、香料[の取引]だけで早くも4分の1に近い23パーセントに達している。アジアの香料とミナの金だけでも25万5000クルザドと全歳入の51パーセントを占めることになる。これがインド香料貿易の最盛期の1518-19年度になると[総額約77万クルザドのうち]、アジアの香料だけで30万クルザドに上り、国内収入の28万5000クルザドを上回って、全歳入の38.8パーセントを占め、海外収入は48万7500クルザドで、全体の63.1パーセントになる。この数値から改めて16世紀前半のポルトガルの国家財政が海外収入に大きく依存していることが分かる」(金七紀男編「ポルトガル史(増補版:2003(1996))。なお、いずれの場合も、ミナの金の収入は12万クルザドである。

*16世紀初頭から半世紀にわたって、毎年6-7隻の船が喜望峰を経由してインドに渡り、年間1500-2000トン前後の香料を、ヨーロッパに持ち帰ってきた。当時の積み荷の8割は胡椒で、そのほか肉桂・生姜・丁子・肉豆蒄等の香料、宝石・真珠などであった。しかし、それ以降になると、インドやペルシアの宝石・ダイヤモンド・絹、インドのグジャラートベンガルの綿織物、中国の陶磁器などの取扱いが次第に増える。

②「香辛料交易のもたらす富によってリスボンは空前の繁栄を見、国王マヌエル1世はサン・ジョルジュの山城を下りて、テージョ川に面して壮麗な王宮を建造する。香辛料がもたらす富に引き寄せられてヨーロッパ各国からフッガー 、ウェルザー、フェヒリンなどの国際商人がリスボンに集まった。彼らは、国際的商人団を組んでポルトガルの編成する船団に投資した。ヴェネツィアは香辛料の流入が止って大きな打撃を被り、しばし低迷の憂き目を見ることになる(金七紀男編「ポルトガル史(増補版:2003(1996))」
ポルトガルを海洋帝国にのし上げた財務的裏付けは16世紀を迎えてもなお外国資本(特にイタリアやドイツの商人)であった。ガマの第1回遠征もフィレンツェ商人の出資なくして成り立たなかったとされ、それを代表するのはバルトロメオ・マルキオーニである。彼らは、後続のアルメイダやアルブケルケといったインド副王たちの遠征には、イタリアやドイツの商人は多額の出資をしただけでなく、自前の船や代理人をインドに派遣さえしていた。

*かくしてアジアの香辛料、アフリカの金や象牙、マディラ島の砂糖、ブラジルの蘇芳(パウ・ブラジル)が流入したリスボンは未曾有の繁栄を迎える。1519年頃には、王室が香辛料や金、銀の交易を独占することによってえた収益は、国家の歳入の60%を超えていた。

*マヌエル1世やジョアン3世(在位1521年〜1557年)はその富を背景にそれまで勢力を誇っていた貴族を押さえ込んで絶対王政を敷き、中央集権化を推進。ポルトガルの王たちはテージョ川に面して王宮をはじめ、郊外にはヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見を記念したジェロニモ修道院テージョ川の守りとなるベレンの塔を建設する。それらは、いわゆるマヌエル様式という、天球儀、船の錨や綱、異国の植物などが施された、まさに大航海時代を象徴する装飾様式によって壮麗に飾られた。

③マヌエル様式は後期ゴシック様式と合体して、さらに装飾過剰な方向を目指した。そして16世紀末からバロック芸術の時代が始まるとたちまちその影響下に入る。その後16世紀末の伊太利亜に始まるバロック様式の影響下に入るが、そもそもどちらも伝統を無視して中世のフォルムや、建築のオーダーや、ペディメントや、古典的なモデナチュールを題材として王権の絶対性を誇示すべく「壮麗なる何か」を追求した結果なので親和性は高かった。
*有名な実例の一つがサン・フランシスコ教会で、建物の外観はゴシック様式そのものだが、内部は豪華絢爛な「バロック=マヌエル様式」となっている。17正規から18世紀にかけてその礼拝堂は「ターリャ・ドゥラーダ」と呼ばれるポルトガル独特の金泥の木工細工で飾られたが、あまりにも装飾過剰な為に清貧なシトー派の宗義に合わないと、ここでのミサが行われなくなったという話まである。またここにある「キリストの木」はバロックの最高傑作の一つとされている。

*日本ではサントリーの「赤玉パンチ」が商標として使っていた事で名高いポートワイン(Port Wine)またはヴィーニョ・ド・ポルト(Vinho do Porto)の出荷港として知られる北部のポルト港にある15世紀建立のサンタ・クララ教会も貴重な遺産で祭壇の内部装飾はポルトガルバロックの代表作といわれている。

*15世紀に建立された修道院を美術館に転用したアヴェイロ美術館は祭壇の装飾で有名であり、大理石のモザイクで飾られた王女ジョアナの石棺は、バロックの傑作とされる。16世紀に建立されたマデレ・デ・デウス修道院を転用したリスボンアズレージョ美術館の祭壇装飾も見事で、内部の装飾は18世紀のもの。ポルトガルバロックの華麗さと、アズレージョ(装飾タイル)の美しさを堪能出来る。

④「バロック芸術」の「バロック」は概ね真珠や宝石のいびつな形を指すポルトガル語のbarrocoから来ているとされる(ただし名詞barrocoはもともとはいびつな丸い大岩や、穴や、窪地などを指していた。いずれにせよ、この語にはいびつさの概念が含まれていたと思われる)。また中世学者が論理体系を構築するうえで複雑で難解な論法を指すのに使ったラテン語のBarocoからきたとする説もある。いずれにせよ16世紀末のローマで生まれた言葉だった。そして現在における「バロック芸術」という概念は、様式の時期や呼称の大半がそうであるように、後世の美術評論家によって作り出されたものであり、17-18世紀の当事者によるものではなかった。
*当時の芸術家は自身を「バロック」ではなく「古典主義」と考えていた。中世のフォルムや、建築のオーダーや、ペディメントや、古典的なモデナチュールといったギリシア・ローマの題材を利用していたからである。これは「ポルトガルにおけるバロック様式」マヌエル様式も同じで建物の外観はゴシック建築そのもの、内装のみがその影響を受けつつも装飾過多を特徴とするこの様式で飾られたのだった。そう丁度、ロココ様式がバロック建築の内装として始まった様に。

*フランスにおいては、この語は1531年段階ではあくまで真珠の状態に対する比喩に過ぎなかった。それがバロック芸術の最盛期たる1694年にはアカデミー・フランセーズの辞書において「極めて不完全な丸さを持つ真珠のみについて言う」「バロック真珠のネックレス」と定義されていた。その一方でバロック期の終結した1762年頃には、第1義に加え「比喩的な意味で、いびつ、奇妙、不規則さも指す。」という定義が加わっていた。そして19世紀に入るとアカデミーは定義の順序を入れ替え、比喩的な意味を第1義とする。

*1855年になって初めて、スイスの美術史家ヤーコプ・ブルクハルトが『チチェローネ イタリアの美術品鑑賞の手引き』においてバロックという語をルネサンスに続く時期と芸術を表すのに用いた。この用法が生まれたのがドイツ文化圏であったのは偶然ではない。フランスやイギリスは様式の変化を表すのに(「ルイ14世様式」のように)その王の名を使用することができたが、ドイツは当時Kleinstaatereiと呼ばれる無数の小国家に分裂していたからである。
 
普仏戦争(1970年)後の1878年になってようやくフランスでも「バロック様式」がアカデミーの辞書の見出しとなり、定義の軽蔑的な意味合いが薄まった。皇后ウジェニーは 気取ったものやルイ15世様式を再び流行させ、今日ネオバロックバロックリバイバル)と呼ばれる様式を生んでいる。バロックの復権が始まり、スイスの美術史家ハインリヒ・ヴェルフリン(1864-1945)はその著作でこのバロックというものが如何に複雑であり、激動し、不規則であり、そして根底においては奇妙である以上に魅惑的であるかを示してみせた。その過程でバロックを「一斉に輸入された運動」ルネサンス芸術へのアンチテーゼとして定義する。ヴェルフリンは今日の著述家たちのようにはマニエリスムバロックの間に区別を設けず、また18世紀前半に開花したロココという相も無視していた。フランスとイギリスではその研究はドイツの学界でヴェルフリンが支配的な影響力を獲得するまでまともに受け止められなかった。

⑤しかし海外進出の主目的が富の蓄積となって国内が潤うにつれ、レコンキスタの延長線上で大航海時代初期に参画した騎士修道会から宗教的情熱が失われていく。
*アフリカ十字軍は何時の間にかその目的を領土拡大でなく交易ネットワーク構築に移して単なる商業組織へと変貌し、教会の支持は金銭調達のための建前に利用されるばかりとなり、1551年までに騎士団の全権限が国王に掌握される様になっていた。騎士団の収入は国王の手に渡り、陸軍、海軍の費用に利用される様になる。騎士団の宗教精神は消え、修道生活を送る者も少なくなり、1502年には教皇アレクサンデル6世が騎士達に妻帯を許し、1551年にはユリウス3世が財産所有を認める事となった。

*こうした流れを受けてポルトガル王は当時対抗改革(カトリック教会の組織を建て直してプロテスタントの教勢拡大を食い止めようとした運動)の目玉となっていたイエズス会を新たな目付役に選任。例えばフランシスコ・ザビエルは「西インド植民地の高級官吏たちの霊的指導者になってほしい」というポルトガル王の要請を受けて1541年にインドのゴアへ赴いた(その後、ゴアはアジアにおけるイエズス会の重要な根拠地となり、イエズス会が禁止になった1759年までイエズス会員たちが滞在していた)。ザビエルはインドで多くの信徒を獲得し、マラッカで出会った日本人ヤジローの話から日本とその文化に興味を覚えて1549年に来日。二年滞在して困難な宣教活動に従事する(その後、日本人へ精神的影響を与えるには中国の宣教が不可欠という結論にたどりつき、中国本土への入国を志したが、果たせずに逝去)。日本でのイエズス会事業は以降ルイス・フロイスやグネッキ・ソルディ・オルガンティノ、ルイス・デ・アルメイダといった優秀な宣教師達に引き継がれた。またイエズス会は1559年になるとポルトガル国内にエヴォラ大学を創設。イエズス会の影響下、エヴォラは対抗改革の中心となり、ここで教育を受けた多くの宣教師たちが布教のために世界へ渡って行く。

*ところで対抗改革の心理的起点はローマ略奪(Sacco di Roma;1527年5月に神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世の軍勢がイタリアに侵攻し、教皇領のローマで殺戮、破壊、強奪、強姦などを行った事件)とされる。敬虔なカソリック教徒はこれを驕り高ぶって贅沢の粋を極めたローマ教会とフィレンツェメディチ家に対する神罰と考えたというのである。するとポルトガル王室は自らをどう認識していたのであろうか。

ポルトガルの絶対王制には、フランスのそれを支えたコルベット重商主義や、オーストリアやドイツ諸侯の官房学(Kameralwissenschaft、カメラリズム(独: Kameralismus, 英: Cameralism) )が欠けていた。こうしたものは全て宗教戦争による国家破産の連続と、そうした混乱が生んだ徒花ともいうべき(税収と公的サービスに対する国民満足度を費用対効果で見る発想に最初に行き着いた)18世紀ナポリ経済学の末に現れたので、仕方がないと言えば仕方のない事である。また全交易範囲に睨みを効かせ徴税を強要できる規模の海軍も保有していなかった。その為に折角手に入れた繁栄も急速に指の間から擦り抜けていってしまったのである。

 「ポルトガル絶対王政」の実態

ポルトガルの海外進出は、ポルトガル王室の事業あるいはその管理のもとで行われた。実際マヌエル王は、インド洋における海上交易の画期的な意義を認識して、1505年に司令官フランシスコ・アルメイダ(在任1505-09)を初代副王として派遣し、インド洋の制海権を獲得させている。そして、1507年アルブケルケを2代総督に任命し、インド洋の要地を征服して要塞や商館を建設することとし、さらにそれら要塞や商館を維持する経費は現地で支弁させることとした。インド洋における航海や交易は王権に直属するリスボンのカーザ・ダ・インディア(インド商務院と訳されている)が統轄していたが、その機構や実態は体系的に知るところとはなっていない。

①インディア州(領)の最高責任者は副王あるいは総督であった。副王には現地に駐留する艦隊の司令官を兼ね、東アフリカ海岸、マラカ、マカオなどの役人や軍隊、艦船に対する支配権が与えられていた。彼らは過去にインディア州で勤務し、功績をあげた人物のなかから任命されるのが原則であった。その任期は3年で、再任あるいは重任される場合があった。なお、副王と総督の区別は任命される者の身分による呼称で、その権限は同じであった。
*副王(総督)は、はじめはコチン、1530年以降はゴアに駐在した。そのもとに、事実上の総督府が作られた。通常3人の監督官がカーザ・ダ・インディアの指示を受けて、インド洋各地にある商館や船舶に配置された商務員を指揮した。1563年以後、正式に副王を議長とする諮問機関が置かれ、ゴア大司教、首席異端審問官、ゴア市のカピタン(軍事指揮官)、ゴア市のフィダルゴ(血統を重んじるが貧乏な農村貴族)、財務管理官、高等裁判所長、その他によって構成された。

ポルトガル人は、インド洋各地に建設された要塞あるいは商館、それに付属する区域を本国と同じように都市(シダーデ)と呼んでいた。それらのうち、コチンとゴアは早くから本国の都市と同じ特権が与えられ、またマカオには1582年、コロンボとマラカには17世紀初め、市参事会が設置された。何故マラカでの設置が17世紀初めになったかは不明である。それ以外は基本的には兵士や船員が駐屯するだけの集落であった。

ポルトガル王室は、ガマの帰国後、1500-05年にかけて3回、インドに交易船隊を送り込んでいるが、そのなかにはフィレンツェジェノヴァ、クレモナ、アウグスブルグの商人、そしてポルトガルの貴族が仕立てた船も含まれていた。

ポルトガル王室は、商人あるいは乗組員の区別なく、輸出入ともに積荷の商品価格に対して25パーセント(当初50パーセント)、ベレンジェロニモ修道院建設のために5パーセントの関税を徴収していた。しかし、インドの交易品に対する関税としては、ポルトガル王室が長年にわたる喜望峰航路の開発費や護衛に対する保護費としては不十分であった。
 
②インド交易独占による税収で艦隊と要塞の費用を捻出する事を目論んだポルトガル王室は1507年カーザ・ダ・インディアを設立。これには前史があり、航海王子エンリケの時代の1455年、アルガルヴェラゴスに設置された、アフリカ交易所に起源があった。
*1482年、ジョアン2世はギニアにミナ商館を建設するが、金の取引を国王独占にするとリスボンに移される。そして、1506年になってインド・ミナ商務院規約が公布される。

*カーザ・ダ・インディアは、「テージョ川の岸辺に建てられた王宮の1階に置かれており、その扱う商品別に、香料を扱うインド館、金を扱うミナ館、奴隷を扱う奴隷館に分かれ、国王に直属する商務院長がこの3部門を統括していた。アジアやアフリカの各地に散在する商館から送られて来る香料・金・砂糖などの商品を受取り、それをフランドル商館に送ってヨーロッパ市場に売却するとともに、香料の対価物である銀やその他の工業製品を輸入し、各地の商館が必要とする物資を送付する、まさに海外交易を一手に束ねる中枢機関であった。また、インド船団を艤装し、海外商館の職員を任命する権限をもっていた」という(金七前同、p.104-5)。

*他方、安部眞穏氏によれば、カーザ・ダ・インディアはリベイラ王宮の隣、今日のテージョ河畔のプラザ・ド・コメルシオ広場にあり、近くにはリベイラ・ダス・ナウス(造船所河岸)と、アルマゼン(造船資材、食料の倉庫)があった。そして、4つのメーザ(文字どおりはデスクで、セクションをあらわす)があり、(1)商品デスクは香辛料の通関、輸出入手続、売買、(2)大デスクは宝石や織物の通関、輸入手続、買い取り、(3)武器デスクは船の乗組員、その他インドにおもむく人員の管理、(4)財務デスクは関税の徴収と支払いを分担していたという。

*カーザ・ダ・インディアの設立によって、イタリアや南ドイツの商人たちはインド交易(香辛料の現地買い付け)から排除されることとなった。カーザは、インドで仕入れた香辛料を、自らが決めた価格でもって、彼ら商人に払い下げるようになった。払い下げ価格のうち30-60パーセントが税金であった。それでもイタリアや南ドイツの商人たちは大きな利益を上げた。

*早くも1508年、アントワープにカーザ・ダ・インディアの代理店が置かれ、ヨーロッパ向けの香辛料を扱うことになる。これにより、ヨーロッパの商人たちは香辛料の仕入れ先を、ヴェネツィアからアントワープに次第に切り替えるようになり、ヴェネツィアなどによる地中海交易は後退させられる。

*淺田実氏は、経済人類学者カール・ポランニー(1886-1964)が示した交易の類型から、カーザ・ダ・インディアは「再分配企業体」、すなわち「軍事力の利用と支配を通じて、支配下の商品(胡椒、香料)を一手に集め、それを人びとに再分配する機関であった」とする(同著『商業革命と東インド貿易』、p.61、法律文化社1984)。

ポルトガルのインド洋交易船は、その最盛期の16世紀前半、次のような航程をたどった。「毎年3月か4月、約7隻の船から成るインド船団がリスボンのレステロを出港し、7月喜望峰を迂回してインド洋に入る。船団は南西の季節風に乗って8月後半から9月前半にインド西海岸に到達する。各地で買い集められた香料を満載した船は1月ころコーチンを離れると、今度は北東の季節風を利用して2月に喜望峰を越え、大西洋を北上すると、6月中旬から9月上旬までにテージョ川河口に入港した。往復1年半を要する長い航海であった」。なお、これら艦隊はそのすべての艦船が本国に帰航するわけではなく、そのほぼ3分の1が現地における軍事や交易のために留め置かれた。なお、本国とインドのあいだを往復する航海はきわめて危険で、本国を出航した船の約20パーセントすなわち5隻のうち1隻が難破したとされる。
*その時期、「ポルトガルには年間3-4万キンタル(1500-2000トン)の香料が喜望峰経由で搬入されたが、この量はアジアで生産される香料の約15パーセントに相当した。香料は、いったん商務院内に収められると、25パーセントの関税を上乗せして、1キンタル当たり胡椒22クルザド、肉桂25-38クルザド、丁子60-65クルザド、生姜18-21クルザド、肉豆蒄300-312クルザド、豆蒄花92-100クルザドの価格で売却された」(以上、金七前同、p.105)。

*カーザ・ダ・インディアの実務についてはこんな話もある。「多額の金を納付した業者の船は原則として船団を組んで航海した。[インディア州で]胡椒を買い付けると、普通積荷は4キンタルの荷包み(梱)を単位とし、また乗組員のキンタラーダの積荷を積み込む。リスボンに着くと、積荷はすべてカーザ・ダ・インディアにおろした。そこで、ヴェドール(取締役)が業者とキンタラーダの所有者から香辛料を買い取った。ただ、王室は自ら決定する価格で買い取り、それを都合のよい時期に外国に売却した」。

*一手の買い手である「カーザ・ダ・インディアは、香辛料をポルトガル船、後にはフランドル船やオランダ船に積み込み、アントワープのフランドルの商館に輸送し、ドイツやイタリアの大口買取り業者に売り渡した。これらはフッガース、ヘシュステター、ヴェルセルなどの大商人であった。ポルトガルの領土内では胡椒は王室の独占であったのに対し、国際市場ではこれらの大会社が取引を独占していた」という。

*なお、インド仕向け船の乗組員のキンタラーダの積荷とは、彼らの給与が低いため「司令官から水兵にいたるまで、香辛料の取引に参加できる権利があった。それは、階級に応じた俸給の一部として、一定数量の胡椒を取得する権利であった。それに必要な金額は商館に預託された」(以上、安部前同、p.132-5)。

ポルトガルの初期の香辛料交易時代から、乗組員に香辛料の取引が認められていたとは思えないが、それはともかくとして帆船時代の乗組員には一定量の私交易―カーゴ・スペースという―が広く認められていた。それによって利益をえたのは、小金持ちの乗組員さておき、貧しい乗組員に融資していた、陸上にいる小金持ちであったであろう。

このように、ポルトガルはいち早く海外進出を遂げ、1530年代インド洋に覇権を築くが、それが保有する外洋船は300隻にとどまり、その拡大する支配圏を維持するには不十分だった。さらに、インディア州において造船施設があるのはゴアだけで、しかも小型船を建造するにとどまった。そのため船舶の不足となったが、ダウやジャンクなどのアジアの船でもって、それを補わざるをえなかった。

奴隷貿易の萌芽

1492年にコロンブスがアメリカ大陸を「発見」して以降、スペインの砂糖プランテーションカリブ海諸島に建設されるようになり、黒人奴隷の需要が喚起される。そして1510年以来、ポルトガル人はそれらスペイン植民地に黒人奴隷を、ほぼもっぱら送り込むようになる。

ポルトガルの奴隷交易は、16世紀前半のポルトガル王室にとって重要な収入源であった。1550年代末の奴隷交易による王室収入は約3000万レイスに達している。他方、16世紀初頭のミナの金交易による王室収入は約4800万レイスであったが、50年代にはそれが半分以下に低下したので、王室はますます奴隷交易への依存を余儀なくされていったのだった。

思考停止こそ歴史的悲劇の源泉(18世紀) - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

*西アフリカの奴隷供給国化は既に1450年代から始まっている。最初に手を挙げたのはカシェウ(ポルトガル領ギニア、現ギニアビサウ)、ゴレ島(セネガル)、クンタ・キンテ島(ガンビア)、ウィダー(現在のベニンのギニア湾に面する奴隷海岸)、サントメ(コンゴ)などの地元勢力で、1480年代にエルミナ城(黄金海岸)が建設され、ギニア会社(ポルトガルとスペインと独占契約を結んだ奴隷貿易会社)が設立されるとウィダー王国(古くから大西洋に面する貿易港として栄えてきたベナン南部の都市国家。1727年以降ダホメ王国に併合される)やダホメ王国(17世紀以降ペガンを本拠地として栄えた奴隷貿易を主要財源とする軍事専制国家)やナイジェリア(ラゴス)やセネガンビアセネガル川流域とヴェルデ岬を拠点とするフランスとガンビア川流域を拠点とするイギリスの狭間で16世紀以降育まれた文明圏)などが次々と台頭。ヨーロッパ人に売却する奴隷を狩り集める為に盛んにコンゴ遠征が行われる様になった。

1419年ポルトガル船がマディラ諸島のポルト・サントに漂着。翌年からポルトガルよりの植民が始まる。一時期黒人奴隷を移入して砂糖黍栽培が行われた。
「江戸時代の鎖国」とは、一体何だったのか? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)


③1452年にはローマ教皇ニコラウス5世がポルトガル人に「異教徒を永遠の奴隷にする許可」を与えている。
*これを用いてマディラやブラジルに奴隷制砂糖農場が建築されていくのである。


③1500年、ポルトガル人のペードロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」すると、以降ブラジルはポルトガルの植民地として他の南北アメリカ大陸とは異なった歴史を歩むことになった。北東部(ノルデステ)で砂糖黍栽培が盛んに行われる様になるのはブラジルへの植民が進めれた1530年代以降。1532年にブラジル南東部のサン・ヴィセンテ、翌年には北東部のペルナンブコに、砂糖業が導入される。

「江戸時代の鎖国」とは、一体何だったのか? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

*初期のブラジルにおいてはスペインの異端審問を逃れた新キリスト教徒(改宗ユダヤ人)によってパウ・ブラジル(蘇芳、染料や楽器の材料となる材木)の輸出が主な産業となり、このために当初ヴェラ・クルス島と名づけられていたこの土地は、16世紀中にブラジルと呼ばれるようになった。

*1549年にはフランスの侵攻に対処する為に、初代ブラジル総督としてトメ・デ・ソウザがサルヴァドール・ダ・バイーアに着任。
*砂糖栽培には最初インディオが使用されたが、彼らは労働意欲を持ちえず、労働生産性は著しく低かった。そうした彼らを駆り立てたため、彼らはポルトガル人に反抗し、砂糖プランテーションの焼き払うなどするようになる。それに対して、ポルトガル人たちは内陸に向けて無差別な奴隷狩りを行って、16世紀末までインディオ奴隷制を採用する。それでも労働力が不足するため、1570年代からアフリカ黒人奴隷の輸入が本格的に行われるようになる。 


④1630年〜1650年代 オランダ西インド会社がブラジル北東部のバイーアや北ブラジル海岸のオリンダで砂糖を生産。
*ブラジルで砂糖産業に将来性を見出したオランダは、ポルトガル領ブラジルの直接支配を図ろうとした。1621年西インド会社を設立。1624年ブラジル北東部の中心都市バイーア州サルヴァドールを攻撃し1年後に撤退。次いで1630年ペルナンブーコ州レシフェ(オリンダ)を攻撃、1641年までにマラニョン州にまで版図を拡大するに到った。植民地住民に寛容であったナッサウ=ジーゲン伯ヨハン・マウリッツがオランダ領ブラジルの総督として赴任し黄金期を築くも伯が西インド会社と対立して辞任すると、問題が表面化。1645年農園主たちが反乱。1654年西インド会社はブラジルから撤退した。ただ現地における奴隷制砂糖農園はこれ以降も経営され続ける。
「江戸時代の鎖国」とは、一体何だったのか? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

17世紀、大西洋奴隷交易にオランダやイングランド、フランスが参入してくるなかにあっても、ブラジル領への黒人奴隷の輸出についてはポルトガルが終始一貫して関わっている。

フィリップ・D・カーティン氏によれば、アフリカ黒人奴隷の輸出量は1451-1600年27万人、17世紀134万人、1701-1810年605万人、そして1811-70年189万人、合計955万人であったという。それぞれの期間において、ブラジル向け輸出量が占める比率は18.2、41.8、31.3、60.3パーセント、合計38.1パーセント(364万人)となっている(『大西洋奴隷貿易―その統計的研究』、p.268、1969)。

*大西洋奴隷交易においてはポルトガルのブラジル領への輸出量が圧倒的であり、それに次ぐのがカリブ海諸島である。ブラジルの輸出量の多さについては、ブラジル内において奴隷の再生産が行われなかったことが指摘されている。

19世紀、奴隷交易や奴隷制の廃止が広がるが、ブラジルはコーヒーブームのなかで、それらの廃止を拒み続ける。その奴隷交易は1850年奴隷制1888年になって廃止する。その時、ブラジルには250万人にものぼる黒人奴隷がいた。

 アジアにやってきたポルトガル人達

ポルトガルからアジアにやって来て、その艦船や現地の要塞、商館に配置されたポルトガル人は、少数の上級貴族のほかは、フィダルゴ(血統を重んじるが貧乏な農村貴族)と、平民の兵士や船員たちであった。彼らのインディア州において勤務できる期間は通常3年であった。

ポルトガルは、その王権が伸張した1527-32年という時期の調査で人口わずか140万人という、小農業国であったので、その拡大する支配圏に要員を補充することは容易ではなかった。平民の兵士や船員たちは、主としてリスボンの他、北部のミーニョやドウロ地方から供給された。その数を補うため、アルブケルケは現地人との混血を奨励したという。

*1540年頃、インディア州にいたポルトガル人の数が10000人を超えることはなかった。このうち、勤務者となる資格のあるのは6000ないし7000人で、実際に勤務についているのはその半数くらいであった。この10000人ぐらいでは、東アフリカのモサンバサから中国のマカオまでの要員としては、明らかに不足であった。

*1000、2000トン級のガレオン(大型で重装備したナウ)はポルトガル人だけで満たすことができず、数人の士官と15-20人の砲手を除いて、それ以外はすべてアジア人かアフリカ黒人奴隷を使わざるをえなかった。また、小型船の場合、船長ひとりがポルトガル人で、後はアジア人が当たり前であった。アジア人はグジャラートイスラーム教徒の船員が多かったといわれる。

②インディア州の勤務者は任期が満了すると、原則として帰国しなければならず、帰国の旅費は自弁であった。ただ、現地の女性と結婚した人びとに限り、現地に住み着くことが許された。そのため、多くの人々が民間ポルトガル人として、アジアに残るようになった。

*民間ポルトガル人はインディア州を構成する都市のほかに、インド洋交易圏を形成する各地の港市にも住み着き、商人、傭兵、職人などになって活躍した。彼らは、現地でポルトガル人町を築いて、来航するポルトガル船のための商品集荷などのさまざまな活動を行った。彼らが特に盛んに活動した地域は、現在のビルマやタイであった。彼らは現地にポルトガル風の生活を持ち込み、「インド=ポルトガル文化」を生んだ。

ポルトガル人傭兵隊が、ビルマのタウングー朝の成立、それをめぐる動乱、そしてアユタヤ侵攻に大きな役割を果たしたことはよく知られている。1543(天文12)年、種子島に漂着した倭寇王直の中国船に便乗していた3人のポルトガル人は商人であり、火縄銃を将来させたことはよく知られている。

かくして日本史に「ポルトガル商人」が登場する。
「江戸時代の鎖国」とは、一体何だったのか? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
①16世紀中旬ポルトガル人が植民地マカオと日本を往来するうちに日本の「茶の湯文化」に接っする。そしてお茶の為の建物や器に莫大な金を払う事、またお茶の為の洗練された作法など幅広い文化を持っている事に驚嘆。これが欧米各国にお茶が伝播する最初の契機となる。
*一方、同時期北京を訪れたオランダ東インド会社の社員は「日本人は茶の葉を粉にして、茶碗の中で熱湯とともにかき混ぜ、これを飲み干すが、中国人は葉をポットに入れ、やがて湯だけを取り出して飲み、葉っぱは口に入れない」と報告している。つまりここで「日本の高級茶」とされているのは抹茶。あくまで一般庶民まで広まった「散茶」ではない点に注意。
②1610年、オランダ東インド会社が西欧に初めて茶を伝える。紅茶ではなく緑茶(平戸で買った日本茶、マカオでポルトガル人から買った中国茶)だった。
*当時オランダは中国やインドネシアとの東洋貿易に関して独占的な立場にあり、同じく東インド会社を経営していたイギリスは、やむを得ずインド貿易に重点を置いていた。インドで新種の茶樹・アッサム種が発見されたのは19世紀のことで、当時のインドにお茶はなかった。

③1662年 ポルトガルからイギリス国王チャールズ二世に嫁いだキャサリン王妃がイギリス王室に茶を伝える。
*イギリスでは既に1650年代から茶や珈琲の普及が始まっていたが、こうして喫茶の慣習は王室も嗜む上品なものとなり、東インド会社も抜け目なく毎年新茶を王室に献上する様になり「王室御用達の茶」「王妃も貴族の夫人たちも飲んでいる茶」と広く宣伝していく。インドのボンベイを持参金として割譲したのも重要で、これを契機として英国のインド進出が始まり、国内にキャラコが伝わった。

ポルトガル絶対王政」の落日
ポルトガルの繁栄は1530年代を境にして衰退し始める。それは、一方で広い海域で制海権を維持することができず、他方でポルトガル王室の交易独占が最初から名実を伴っていなかったからであった。そもそもインド洋の制海権を掌握する為に毎年インドに派遣する艦隊の艤装費用やインド洋からシナ海に張り巡らした商館や要塞を維持する費用は莫大なものであり、これを支え続けるだけの経済基盤をポルトガル王国は備えていなかったのだった。
 
ポルトガルは、毎年6-7隻の艦隊をインド洋に送り込んだが、そうした編成による派遣は1538年以後なくなり、それに伴って制海権の維持が困難となった。かかる状況下現地政府たるインディア州が導入したのが、カルタス(航海許可証)と関税である。それらは、ポルトガルによる航行保護を受け入れ、ポルトガルによる課税を受け入れうることを条件として、現地の商人にも交易を認めることにしたものであり、インディア州にとって重要な収入源となった。
*なお、このポルトガルの艦隊の巡航と監視、カルタスの所持と関税の徴収という強制システムは、インド洋において実施されたにとどまり、マラカ以東においては現地の王や首長と交易協定を結び、カルタスを強制せず、砲艦外交にも走らなかった。

ポルトガルはアデンを攻略できなかったため、紅海交易ルートを閉鎖に追い込めなかった。ポルトガルのインド洋の制海権の掌握には、最初からほころびがあった。しかも、そのルートを支配するマムルーク朝(1250-1517)などに対抗するため、イランのサファヴィー朝(1501-1736)のホルムズ経由のペルシア湾交易ルートを黙認さえしていた。1538年、オスマン帝国がアデンを征服すると、イスラーム教徒の紅海交易ルートは再開され、香辛料は地中海に再び流れ込むようになり、ポルトガルの独占が崩れる。
*その結果、1550年代、インド洋から西に向かう香辛料の海上交易のうち、ポルトガル人たちが支配していたシェアはせいぜい4分の1程度になり、アラブ半島経由の交易量は喜望峰経由に匹敵するまでに回復したとされる。

ポルトガルは、アジアの産品などをリスボンからフランドルのブルッヘに置いた商館に持ち込んで、ヨーロッパ諸国に向けに売りさばいて利益を上げてきた。しかし、アジア産品が紅海やペルシア湾―地中海経由での流入が復活すると、その役割が終わり、1549年ブルッへの商館は破産する。また、後述するように、16世紀半ばからポルトガル王室の海上交易権が譲渡されるようになると、ポルトガル王室独占はますます有名無実なものとなり、インディア州からの収入も激減してしまう。

③祖国防衛の観点からジェノヴァの主要投資先が1520年代から(火縄銃と堅牢な方陣で武装した)強力な常備軍を有するスペインに移行したのも影響皆無とはいえない。1528年にサン・ジョルジョ銀行神聖ローマ皇帝カール5世に融資を行ったのを筆頭にスペインに遠征費用を融資する様になったのである。
 
④1529年、ヌーノ・ダ・クーニヤ(在任1529年〜1538年)が総督に着任すると、3期9年間にわたって、インディア州の改革に取り組んだ。1530年インディア州の首都をコチンから北方のゴアに移す。彼はグジャラート王国に、ディウに要塞を建設することを認めさせる。1538年、グジャラ-ト王国とトルコ帝国の連合軍が奪還を試みたが、それを撃退してゴア支配を確立し、インド洋の制海権とゴア―ペルシア湾交易ルートを維持する。
*ヌーノ・ダ・クーニヤは、当初、王室の航海と交易の独占を強化しようとするが、勤務者の抵抗あるいはサボタージュによって効果が上がらなかった。そこで、彼は特定の航路を除いて王室による航海と交易の独占を緩和し、その航海権を王からインディア州において功績をあげた勤務者に下付し、彼らの交易に課税するという改革を実施する。

*それはポルトガル艦船乗組員のインセンティブを高め、彼らの持つ資金を積極的に活用しようとしたものであった。この改革は、テルナテ島における丁字交易を勤務者に開放した1538年頃から始まったとみられている。ここで注意すべきことは、王室の独占を放棄したのではなく、それ前提とした緩和あるいは開放であったことである。
 
⑤16世紀後半になると、カーザ・ダ・インディア官僚の腐敗や汚職、密貿易、交易維持費用の増大が起きる。そのため、ポルトガル王室はインドの胡椒交易を商人に次第に委ねるようになり、1570年にはそれから完全に手を引くようになる。カーザ・ダ・インディアは、胡椒買い付けと輸送、そして売り捌きの委託あるいは請け負いを、インド契約やヨーロッパ契約に分けて、商人たちと結ぶようになった。
*カーザ・ダ・インディアの御用を承る商人は、イタリアや南ドイツの少数の大商人たちであり、買い付けや売り捌きのシンジケートを組んでいた。1591年、ヨーロッパへの売り捌きシンジケートのうち、南ドイツのウェルザー家とフッガー家のシェアは32分の12であった。これによって、カーザ・ダ・インディアは単なる徴税機関となり、胡椒交易は自由化されたこととなる。そして、南ドイツ商人の交易独占が確立する。

*1577年のインド胡椒薬種商品取締規定によれば、関税は1キンタル当たり胡椒18クルザド(カーザ・ダ・インディアの払い下げ価格は32クルザドとなっていた)、丁字、肉柱、肉豆蒄、藍30クルザド、生姜50ミルレイス、その他の商品従価10パーセントとなっている。それ以外に、インド副王の収入になる胡椒1キンタル当たり100レイスや、船賃および慈善事業への付加税を支払ったとされている。

*そして、1577年規定でインディア州領域の関税も変更されたらしく、「自由港になったマラッカでは輸出入関税が免税され、またマラッカ経由マラバール海岸に運ばれる胡椒はカナノール、チャーレ、コテン、クーフォンの諸港でも取引が自由化された。ポルトガル向けの胡椒は無税で船積みされるようになったが、ポルトガル本国以外に船積みする場合は6パーセントの輸出関税がかかった。すべての積荷はカーザ・ダ・インディア宛とし、他の地点への輸送や転売は禁じられていた」(以上、安部前同、p.132-5)。

 交易權譲渡の進行

そもそもポルトガル王室の交易独占はゴアから遠くなればなるほど緩和、開放され、それがインディア州の勤務者に対する特権としてばかりでなく、インディア州に居留する民間人にも譲渡されるようになり、しかもそれが競売に付されるようになっていたという指摘もある。日本への航海権もまた王が下付する性質のもので、既に1560年代というかなり早い時期から譲渡が始まっている。

①インド洋と東南アジアにおける海上交易は、まず国王が勤務者に航海権を下付することで開放され、それがさらに民間ポルトガル人に売却されるようになると、インディア州勤務者の地位に応じた利権となる。そうなればインディア州勤務者の地位そのものが利権となる。②16世紀後半は、ポルトガルのインド洋や東南アジアの活動が衰退し始めた時期に当たる。その時点で、それらの航海と交易が王室の独占だという建前はなくなってはいないが、それがインディア州勤務者や民間人にほぼ全面的に開放されつつあったといえる。17世紀になると、海上交易の権利はいまやインディア州勤務者の功績に対する恩恵ではなくなり、競売でもって落札される利権となり、王権に寄生する貴族や高級官僚、高位聖職者の利殖の対象となった。それに伴って王室の収入は次第に減少したとみられる。③それでありながら、王室の独占という建前は国王が航海権を下付する形式で堅持され、またインディア州の艦隊や要塞、商館は維持されなければならない。したがって、インディア州は王室に一定の収入を保障し、またインディア州が現地経費を調達しなければならない。それら王室や現地の経費は、インディア州における関税や取得税などの課税、基幹航路における王室船による交易、交易品に対する王室先買い権の行使、民間船による王室の交易などによって生み出されていたのであろう。それも次第に浸食されていったとみられる。④ポルトガルの海上交易の利権化について、合田昌史氏は「ポルトガル国王は1550年代以降王室貿易の一部を、特権として大貴族や騎士団に譲渡するようになった。インド領の役人や王室船の乗員は船内にスペースを与えられ、自費で香辛料を購入してインド領の経費でそれを輸送した。ポルトガル人の私貿易はとくにべンガル湾と東南アジア島嶼部において目立っていたが、しだいに東アジアへと拡大していった。短期の譲渡益は長期的にみて、王室の損失をもたらした。数千クルザドで売却された貿易権の価値は約200万クルザドに相当したからである」と述べている(同稿「ポルトガルの歴史的な歩み」『世界各国史16 スペイン・ポルトガル』、p.384-5、山川出版社、2000)。
1534年にポルトガル国王を布教保護者としてゴアに同教区が設立されたが、このことはカトリック布教が国家的プロジェクトとなったことを意味している。その一方で1540年9月にはローマ教皇パウルス三世が「大勅書」を発し、イエズス会を修道会として認めている。
*これらのことはポルトガルという国家とイエズス会とが「教俗一体」となってインドにおけるカトリック布教を推進することを意味し、また国家の側からみるとポルトガル領東インドの獲得と経営(武力によると平和裡におけるとを問わず)は「福音の宣布による霊魂の救済」の名のもとに正当化されることを意味した。イエズス会にとってみるとその活動がポルトガル国家を後盾としている以上、国家の勢力の減退は自らの衰退へとつながりを持つことを意味した。要するにポルトガル国家とイエズス会の利害は一致していたのである。

*「東インド」を指向していたのはポルトガルだけではなかった。コロンブスによる新大陸の発見を大きな節目とする時代は地球規模における地理上の発見の時代であったために、海外雄飛をいちはやく指向したポルトガルとスペインとの間には新しく発見した「領土」をめぐって争いが生じる。15世紀に半ばにローマ教皇によって発せられた「大勅書」は異教徒世界を二分する事業(デアルカシオン)に根拠を与え、分割した「領土問題」を解決するために新大陸発見の2年後の1494年、スペインとポルトガル両国は地球を分割するトリデシャリス条約を締結した。そしてトリデシャリス条約締結後80年にわたり両国は競争で地球の分割に精を出し、ポルトガルは東まわりに、スペインは西まわりに進んで次々と発見する地をそれぞれの領土としてきたのである。

*これらの条約は西アフリカ沖ヴェルデ岬諸島の西端から約557㎞の地点(西経50度位の線をもって南米大陸の東側を掠める)において北極と南極を結んで境界線を定め、その西側に発見する土地をスペイン領、その東をポルトガル領とするものであった。西経50度は地球の反対側においては東経130度ぐらいであり、日本列島を真中で分断するあたりがトルデシャリス条約の太平洋における境界である筈だが、当時はそのあたりまでは推定は働いていなかった。だいいち太平洋も発見されていなかった(BAAB誌第50号)。

*しかし西まわりのスペインは遂に1571年にフィリピンを領有するに至り、東インドに展開するポルトガル植民地群に楔を打ち込んだ。そのため条約上ポルトガルの領域であると主張するポルトガルとの間に争いも起きた。中国と日本がポルトガル国王のデアルカシオン司法権の範囲に包含されているということはポルトガル人によって異論のないところであったからである。しかしともかくフィリピンはスペイン領になり、大圏航路(フィリピンから日本列島へ至り更に北へと進み、やがては南へ転ずる航路)の啓開によりメキシコを結び、東洋における交易の一大拠点となった。マニラにはスペイン総督府が置かれた。因みにフィリピンはその後東南アジアにおいて殆ど唯一のキリスト教国となる。

*こうしてポルトガルとスペインとは東インドにおいて覇を競うのであるが、1581年にポルトガルがスペインに併合されると(同君連合と呼ばれはしたが)状況は一挙に変化する。ポルトガル海軍はスペインのそれと一体になり、東洋においてスペインの旗を掲げて遊弋するポルトガル軍艦も現れた。両国の国王はかのフェリペ2世である。ポルトガルとスペインの併合はデマルカシオンの体制をポルトガル/スペインの一極へ集中させ、この国は日の沈まぬ帝国となったのだった。

しかし実はイエズス教会はインドで在地領主となり、日本で長崎を寄進されて交易益を得られる様になり(年1回のナウ船往復が中国で仕入れた生糸と交換に得られる金銀は莫大な収益を上げていた)、その事に経済的に依存しつつも苦悩を続けていた。特にこの頃から既にアフリカ以来ずっと「自ら人間狩りは行わないが、現地勢力に火縄銃と火薬を与え見返りに戦争奴隷を受け取る」ビジネスに手を染めてきたポルトガル奴隷商人と経済的に彼らに依存するポルトガル王家との関係をどうするかという問題を抱えていた事は、イエズス会のジレンマを検討する上で避けて通れない(当然そうした行いは布教の邪魔であり、あまりに大量の朝鮮人戦争奴隷が市場に出されて奴隷価格が暴落した「文禄・慶長の役(1592年〜1597年)」の期間には奴隷を買い戻して「読み書き算盤の出来るキリスト教徒」に教育してから解放する政策まで行っている)。遂に堪忍袋の緒が切れたのは南米でキリスト教化されたインディオまで掠って奴隷化する人狩り団と遭遇した時で、現地インディオを軍隊として組織して徹底抗戦を行い、ポルトガル王国との完全訣別を余儀なくされたのだった。
1559年、イエズス会ポルトガルにエヴォラ大学を創設。イエズス会の影響の下、エヴォラは対抗改革の中心となり、ここで教育を受けた多くの宣教師たちが布教のために世界へ渡って行ったのだった。
 
①実はエヴォラはアヴィス朝ポルトガルの母体とも言うべきアヴィス騎士団の最初の本拠地だった。ポルトガル王室は既に形骸化した修道騎士団の世俗化を容認する一方、彼らに代わる「商人達の目付役」を割り振ったとも。
スペイン合邦とその余波
かくしてポルトガルの香辛料交易が衰微し始めるなか、1556年にドン・セバスティアン(在位1557年〜1578年)が即位すると、ポルトガルの王室へのスペインの影響力が強まる。彼は、1578年無謀なモロッコ再征服をこころみて大敗、本人も戦死し、国の財政は大きく傾く。その後継として、ジョアン3世の孫に当たるスペイン王のフェリペ2世(在位1556年〜1598年)が、1580年ポルトガル国王(在位1580-98)を兼任することになる。かくして1580年から1640年にかけて「スペインによるポルトガル併合」あるいは「同君連合時代」が続く事になった。

フェリペ2世は、ポルトガルを併合しイベリア連合 を成立させるとポルトガル貴族をスペイン宮廷で優遇し、ポルトガルの独自の法律、通貨、政府の保持とその海外支配を保証した。リスボンは王国の首都であり続け、この展開をポルトガルの貴族や聖職者ばかりでなく、商人たちも歓迎した。それはアジアの香辛料交易に不可欠な新大陸からの銀をセビリアから手に入れ、またイギリスやフランスの私掠船が活動するなか、スペインの艦隊の保護を受けたかったからであった。このスペインの寛容な政策とスペインへの市場の拡大によって、ポルトガル経済は好転する。
 
②しかしフェリペ3世(ポルトガルではフィリペ2世)時代から、スペインは帝国を構成するカタルーニャアラゴンナバラポルトガル自治を縮小させ、中央集権化を図るようになった。当時はポルトガル貴族から権力を奪い、ポルトガルスペイン帝国を構成する単なる州に変える思惑まであったという。
*「フェリペ3世(ポルトガルではフィリペ2世; 在位1578年〜 1621年)」…怠惰王と呼ばれ23年に及ぶ実際の治世を取り仕切ったのは首席大臣のレルマ公爵やウセダ公爵であったが力不足であり。1609年にスペイン全土から27万人にも及ぶモリスコ(キリスト教に改宗したイスラム教徒。ほとんどが農民)を追放しスペイン農業に壊滅的打撃を与え深刻な食糧危機を招いてしまう。

③そしてフェリペ4世(ポルトガルではフィリペ3世)の時代には増大する戦費の調達のためポルトガル商人に重税を課し、ポルトガル政府の重職もマドリードから派遣されたカスティーリャ人か親スペイン派ポルトガル人で占められるようになっていく。さらにポルトガル軍が事あるごとにスペインが展開する対外戦争に駆り出された事もあり、スペインに対する反感が確実にポルトガル国内に蔓延してゆき、最終的にはポルトガル王政復古戦争(ポルトガル語: Guerra da Restauração、スペイン語:Guerra de Restauración portuguesa;1640年〜1668年)を引き起こす事となる。1668年1月1日のリスボン条約ポルトガルの独立が再び認められた際、セウタがポルトガルからスペインに割譲された。

*「フェリペ4世(ポルトガルではフィリペ3世、在位; 1605年〜1665年)」…その治世の前半は国政のほとんどを寵臣オリバーレス公伯爵に一任していた。ただし残された公文書を見ると、1630年代以降はオリバーレス公伯爵の言うがままというわけでもなかったようである。1643年にオリバーレス公伯爵を更迭した後は、その甥ルイス・メンデス・デ・アロを首席大臣に起用した。当時のスペインはまだまだヨーロッパの強国としての地位を保っていたし、文化面でも絵画のディエゴ・ベラスケス、フランシスコ・デ・スルバラン、アロンゾ・カーノ、バルトロメ・エステバン・ムリーリョ、ホセ・デ・リベーラ、あるいはスペイン領ネーデルラントの宮廷に仕えたルーベンスら、文芸ではロペ・デ・ベガ、ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカ、ゴンゴラ、フランシスコ・デ・ケベードら、他国を圧する才能を輩出していた。とはいえ統治体制に中世封建制の残滓を色濃く残したままであったが故に国民国家形成という点で後進国であったはずのイングランド、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)、フランスなどに決定的に遅れを取ってしまう。結果としてポルトガルやオランダは独立し(ポルトガル王政復古戦争)、カタルーニャは大反乱を起こし(収穫人戦争)、フランス・スペイン戦争を終結させたピレネー条約でルシヨン地方などをフランスに割譲する羽目になるなど衰退が決定的となった時期となった。国王フェリペ4世の肖像画を描き、国王に気に入られてフェリペ4世付きの宮廷画家となり、以後30数年、国王や王女をはじめ、宮廷の人々の肖像画、王宮や離宮を飾るための絵画を描いた。オリバーレス公伯爵から紹介され自分の肖像画を描いたディエゴ・ベラスケスを大変気に入り、アトリエにもしばしば出入りし、それまで「職人」としての地位しか認められてこなかったこの画家の晩年には宮廷装飾の責任者を命じ、貴族、王の側近としての地位を与えた事でも知られる。
 
*「オリバーレス公伯爵」あるいは「オリバーレス伯公爵」(Conde-Duque de Olivares; 1587年〜1645年)1622年から1643年にかけて国王の代理たる「寵臣(valido)」として三十年戦争への対応、八十年戦争への対応、財政再建、旧態依然とした封建制によって結びついていた大スペイン王国カスティーリャアラゴンカタルーニャポルトガルミラノナポリシチリアネーデルラント、ヌエバ・エスパーニャなど)の近代的国民国家としての統合といった難問に取り組んだ主席大臣。またオリバーレスは当時のスペイン王国の社会発展を阻害していた純血令、騎士団令などの血の純潔を重んじる風潮の改革や、財政面でのジェノヴァの銀行家への過度の依存の解消にも取り組んだが、特権を守ろうとする貴族階級と地域勢力の反発を買ってしまいいずれも頓挫。フランドル戦線やフランス・スペイン戦争(西仏戦争)、マントヴァ継承戦争での劣勢は挽回出来ず、1640年にはカタルーニャで大規模な反乱が起こり(収穫人戦争)、その鎮圧に借り出されたポルトガルにまで独立戦争を飛び火させてしまった責任を問われ失脚。当人は清廉潔白な政治姿勢と驚異的な事務能力、鋭利な政治構想力などを備えた傑物だったがとされる。
 
ポルトガルが衰退したもう一つの理由は蘭葡戦争(1602年〜1661年)であった。かつてオランダ共和国は、互いに共通の敵であるスペインを牽制する為にポルトガルとのヨーロッパでの休戦協定に調印した事もあり、それを契機にオランダはセトゥーバルにある製塩工場の塩の購入を再開し、ポルトガルとのヨーロッパにおけるニカ国間通商を復活させていたのだが、八十年戦争(1568年〜 1647年)勃発後のポルトガル併合 を契機に敵対関係に戻ったのだった。
*蘭葡戦争はオランダ八十年戦争の一部と見なされている。1602年、オランダ東インド会社オランダ西インド会社は、アメリカ大陸、アフリカ、インド、極東にあるポルトガル領植民地への攻撃を開始。スペインが広大な国土を維持すべくヨーロッパで戦争を繰り返す間、手薄になったポルトガル植民地の香料及び砂糖貿易権を可能な限り奪取するのが主目的であった。一時はブラジルやアフリカのポルトガル植民地がイングランドと同盟したオランダに奪われ、ジョアン4世が1640年に再独立を宣言してその承認をオランダに迫った際も、オランダは承認と停戦はしたものの条約までは結ばなかった。なので和平が成立したのは1661年、ハーグ条約ポルトガルとオランダの和平が成立した時となり、この際にはブラジルからオランダが永久に排除された代わり、セイロン島とモルッカ諸島がオランダに割譲されている。

*当時イングランド内戦の渦中にあったイングランド王国では議会派が内戦に勝利しつつあったが故にポルトガル宮廷がイングランドの王子達を正当なイングランド王位継承者として承認していた事を問題視せざるを得なかった(この問題はチャールズ1世の廃位と処刑を行ったイングランド共和国が存在していた期間、ずっと続く)。しかしチャールズ2世の王政復古(1660年)以降、ポルトガルは従来のイングランドとの同盟を刷新し、ジョアン4世の王女カタリナとチャールズ2世の婚姻によって対スペイン関係における国外からの支援を回復することで、フランスからの支援(これは限定的であったが)の損失分を補うことが可能となる。終戦時にスペインとの和平が可能となった大きな要因もまたこうして復活したイングランドとの同盟関係であった。当時三十年戦争で国力を使い尽くし疲弊していたスペインに、他のヨーロッパ強国とさらなる戦争を遂行する余力など残っていなかったのである。なおこの時、ポルトガル側からカタリナの持参金の一部として、港湾都市タンジールとボンベイイングランドへ割譲されイングランドにインドへの足掛かりを与える事となる。そして「メシュエン条約(1703年)」などを通じてポルトガル海上帝国はその拠点たるブラジル植民地などとセットで次第に大英帝国経済圏へと組み込まれていくのだった。

「メシュエン条約(英語:Methuen Treaty, ポルトガル語:Tratado de Methuen)」…1703年にイギリスとポルトガルの間で締結された通商条約。調印はリスボンでなされた。メシュエン通商条約とも称する。1580年から1640年にかけてスペインに併合されていたポルトガル独立戦争を経て再び独立を取り戻したが、その間に国土が荒廃。復興策として葡萄やオリーヴの生産を奨励した為に17世紀後半よりワインの生産量が急増した。その最大の取引先がイギリスであり対英関係が重視される事となった結果がイギリス大使のジョン・メシュエンとポルトガルのアレグレテ侯の間で結ばれたこの通商条約であった。そこでポルトガルは従来の保護貿易政策を転換。すなわちイギリス産毛織物の輸入を受け入れる代償として、イギリスはフランス産ワインより低い税率でポルトガル産ワインを購入することになったのである。その結果、ポルトガルのワイン輸出は増大したがイギリスからの毛織物の流入はそれ以上であり、ポルトガル自国の毛織物産業は壊滅的な打撃を受けた。さらにイギリスはポルトガルを通じてブラジル植民地へも市場拡大を果たす事に成功する。
「江戸時代の鎖国」とは、一体何だったのか? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

かくしてこの方面における最終勝者となったイングランドだが、それは(「奴隷売買と砂糖栽培がセットになった三角貿易」といった)ポルトガルが長年の試行錯誤の結果築造してきた「海洋帝国の暗部」の継承者となる事も意味していたのだった。 だがそれでも「全く別世界の惰眠」を貪っていた大陸諸国よりは恵まれた立場にあったというべきか。

さて、私達は一体どちらに向けて漂流してるのでしょうか…