ヨーロッパ絶対王制の遺産たる「ゴシック=ロココ様式」がリバイバルを果たした第二帝政期(1852年〜1870年)をリアルタイム生きたフランスの詩人シャルル・ボードレール。彼はそれを成立させる必須要素として「(視野外に追い出された)高貴なるメランコリー(憂鬱)」を見て取っています。
そもそも欧州近世の建築様式には「内装から始まって外装に至る」なんて奇妙な共通点が見受けられる気がします。重要なのは細かい様式の変遷でなく発注者側の心理。
ところがその一方で「ゴシック=ロココ様式」にはその後、ウォルト・ディズニーのメルヘン世界に継承され「白雪姫(Snow White;1937年)」「シンデレラ(Cinderella;1950年)」「眠れる森の美女(Sleeping Beauty;1959年)」といったアニメ映画やディズニーランドといった形態で完成された側面もある訳です。実は最初にこの路線に先鞭をつけたのはライバルのフライシャー・スタジオでした。ロトスコープ(rotoscope)やミュージカルといった技法の投入も含めて。
しかしディズニーは「予算に糸目をつけない長編アニメミュージカル映画」として換骨奪胎する事によって完全に新境地を開いてしまいます。
その感動については、かのゲッベルスですら日記に賛辞を残しているくらい。
この世界において「高貴なる憂鬱」はどうなってしまったんでしょうか。「アニメ化によって完全に払拭された」とは断言出来ません。世の中には日曜日にサザエさんの放映を見ると憂鬱になる人もいるくらいですから。例えばこんなプロモーションビデオが存在したりもします。
まぁ、あくまで「陰鬱な人間には何でも陰鬱に見える」というだけの話かもしれないのですが…この問題について坂口安吾が興味深い日本論を残していたりします。
坂口安吾「日本文化私観」
*初出:「現代文学 第五巻第三号」1942(昭和17)年2月28日発行
フランスという国は不思議な国である。戦争が始ると、まず真っ先に避難したのはルーヴル博物館の陳列品と金塊で、パリの保存の為に祖国の命運を犠牲にしてしまった。確かに彼等は伝統の遺産を受継いできたが、祖国の伝統を生むのが自分自身に外ならぬ事を全然知らない様である。
伝統とは何か? 国民性とは何か? 日本人には必然の性格があって、どうしても和服を発明し、それを着なければならないような決定的な素因があるのだろうか。
講談を読むと、我々の祖先は甚だ復讐心が強く、乞食となり、草の根を分けて仇を探し廻っている。そうした侍時代が終ってからまだ七八十年しか経たないのに、これはもう、我々にとっては夢の中の物語である。今日の日本人は、およそあらゆる国民の中で、恐らく最も憎悪心の尠すくない国民の中の一つである。
僕がまだ学生時代の話であるが、アテネ・フランセでロベール先生の歓迎会があり、テーブルには名札が置かれ席が定まっていて、どういうわけだか僕だけ外国人の間にはさまれ、真正面はコット先生であった。コット先生は菜食主義者だから、たった一人献立が別でオートミルの様なものばかり食っている。僕は相手がなくて退屈だから、先生の食欲ばかりもっぱら観察していたが、猛烈な速力で、一度匙を取り上げると口と皿の間を快速力で往復させ食べ終るまで下へ置かず、僕が肉を一切れ食ううちに、オートミルを一皿すすり込んでしまう。先生が胃弱になるのはもっともだと思った。テーブルスピーチが始った。コット先生が立上った。と、先生の声は沈痛なもので、突然、クレマンソーの追悼演説を始めたのである。クレマンソーは前大戦のフランスの首相、虎とよばれた決闘好きの政治家だが、丁度その日の新聞に彼の死去が報ぜられたのであった。コット先生はボルテール流のニヒリストで、無神論者であった。エレジヤの詩を最も愛し、好んでボルテールのエピグラムを学生に教え、又、自ら好んで誦む。だから先生が人の死について思想を通したものでない直接の感傷で語ろうなどとは、僕は夢にも思わなかった。僕は先生の演説が冗談だと思った。今に一度にひっくり返すユーモアが用意されているのだろうと考えたのだ。けれども先生の演説は、沈痛から悲痛になり、もはや冗談ではないことがハッキリ分ったのである。あんまり思いもよらない事だったので、僕は呆気にとられ、思わず笑いだしてしまった。――その時の先生の眼を僕は生涯忘れることができない。先生は、殺してもあきたりぬ血に飢えた憎悪を凝こらして、僕を睨にらんだのだ。
このような眼は日本人には無いのである。僕は一度もこのような眼を日本人に見た事はなかった。その後も特に意識して注意したが、一度も出会ったことがない。つまり、このような憎悪が、日本人には無いのである。「三国志」における憎悪、「チャタレイ夫人の恋人」における憎悪、血に飢え八ツ裂きにしてもなお飽き足らぬという憎しみは日本人にほとんどない。昨日の敵は今日の友という甘さが、むしろ日本人に共有する感情だ。およそ仇討にふさわしくない自分達であることを、恐らく多くの日本人が痛感しているに相違ない。長年月にわたって徹底的に憎み通す事すら不可能にちかく、せいぜい「食い尽きそうな」眼付ぐらいが限界なのである。
伝統とか国民性と呼ばれるものにも、時としてこの様な欺瞞が隠されている。およそ自分の性情にうらはらな習慣や伝統を、あたかも生来の希願のように背負わなければならないのである。だから、昔日本に行われていたことが、昔行われていたために、日本本来のものだということは成立たない。外国において行われ、日本には行われていなかった習慣が、実は日本人に最もふさわしいことも有り得るし、日本において行われ、外国では行われていなかった習慣が、実は外国人にふさわしいことも有り得るのだ。模倣ではなく、発見だ。ゲーテがシェクスピアの作品に暗示を受けて自分の傑作を書きあげたように、個性を尊重する芸術の世界においてすら、模倣から発見への過程は最もしばしば行われる。インスピレーションは、多く模倣の精神から出発し、発見によって結実する。
京都という所は、寺だらけ、名所旧蹟だらけで、二三丁歩くごとに大きな寺域や神域に突き当る。建築の工学的なことについて全然僕は知らないけれども、少なくとも寺院建築の特質はまず第一に住宅ではないという事にある。ここには、世俗の生活を暗示するものがないばかりか、つとめてその反対の生活、非世俗的な思想を表現する事に注意が集中されている。それゆえまた世俗生活をそのまま宗教としても肯定する真宗の寺域がたちまち俗臭芬々とするのも当然である。だから古来孤独な思想を暗示してきた寺院建築の様式をそのまま借りて世俗生活を肯定する自家の思想に応用しようとする真宗の寺(京都の両本願寺)は落着がなく俗悪である。俗悪なるべきものが俗悪であるのは一向に差支えないが、要はユニークな俗悪ぶりが必要だということである。なるほど寺院は、建築自体として孤独なものを暗示しようとしている。炊事の匂いだとか女房子供というものを連想させず、日常の心、俗な心と繫がりを断とうとする意志がある。しかしながらそういう観念を、建築の上に於てどれほど具象化につとめてみても、観念自体に及ばざること遥に遠い。日本の庭園、林泉は必ずしも自然の模倣ではないだろう。南画などに表現された孤独な思想や精神を林泉の上に現実的に表現しようとしたものらしい。茶室の建築だとか(寺院建築でも同じことだが)林泉というものは、いわば思想の表現で自然の模倣ではなく、自然の創造であり、用地の狭さというような限定は、つまり絵におけるカンバスの限定と同じようなものである。けれども、茫洋たる大海の孤独さや、沙漠の孤独さ、大森林や平原の孤独さについて考える時、林泉の孤独さなどというものが、いかにヒネくれてみたところで、タカが知れていることを思い知らざるを得ない。
龍安寺の石庭が何を表現しようとしているか。如何なる観念を結びつけようとしているか。林泉や茶室というものは、禅坊主の悟りと同じことで、禅的な仮説の上に建設された空中楼閣なのである。仏とは何ぞや、という。答えて、糞カキベラだという。庭に一つの石を置いて、これは糞カキベラでもあるが、又、仏でもある、という。これは仏かも知れないという風に見てくれればいいけれども、糞カキベラは糞カキベラだと見られたら、おしまいである。実際において糞カキベラは糞カキベラでしかないという当前さには、禅的な約束以上の説得力があるからである。龍安寺の石庭がどのような深い孤独やサビを表現し、深遠な禅機に通じていても構わない、石の配置が如何なる観念や思想に結びつくかも問題ではないのだ。要するに、我々が果てしない海の無限なる郷愁や沙漠の大いなる落日を思い、石庭の与える感動がそれに及ばざる時には、遠慮なく石庭を黙殺すればいいのである。無限なる大洋や高原を庭の中に入れることが不可能だというのは意味をなさない。
芭蕉は庭をでて、大自然のなかに自家の庭を見、又、つくった。彼の人生が旅を愛したばかりでなく、彼の俳句自体が、庭的なものを出て、大自然に庭をつくった、と言うことが出来る。その庭には、ただ一本の椎の木しかなかったり、ただ夏草のみがもえていたり、岩と、浸み入る蝉の声しかなかったりする。この庭には、意味をもたせた石だの曲りくねった松の木などなく、それ自体が直接な風景であるし、同時に、直接な観念なのである。そうして、龍安寺の石庭よりは、よっぽど美しいのだ。と言って一本の椎の木や、夏草だけで、現実的に、同じ庭をつくることは全く出来ない相談である。
だから、庭や建築に「永遠なるもの」を作ることは出来ない相談だという諦らめが、昔から、日本には、あった。建築は、やがて火事に焼けるから「永遠ではない」という意味ではない。建築は火に焼けるし人はやがて死ぬから人生水の泡の如きものだというのは『方丈記』の思想で、ブルーノ・タウトは『方丈記』を愛したが、実際、タウトという人の思想はその程度のものでしかなかった。しかしながら芭蕉の庭を現実的には作り得ないという諦らめ、人工の限度に対する絶望から、家だの庭だの調度だのというものには全然顧慮しない、という生活態度は、特に日本の実質的な精神生活者には愛用されたのである。大雅堂は画室を持たなかったし、良寛には寺すらも必要ではなかった。とはいえ彼等は貧困に甘んじることをもって生活の本領としたのではない。むしろ彼等は、その精神において余りにも欲が深過ぎ、豪奢であり過ぎ、貴族的であり過ぎたのだ。すなわち画室や寺が彼等に無意味なのではなく、その絶対のものが有り得ないという立場から、中途半端を排撃し「無きに如しかざる」の清潔を選んだのだった。茶室は簡素をもって本領とする。しかしながら「無きに如かざる」精神の所産ではないのである。「無きに如かざる」の精神にとっては、特に払われた一切の注意が、不潔であり饒舌である。床の間がいかに自然の素朴さを装うにしても、そのために支払われた注意が、すでに「無きに如かざる」の物である。
「無きに如かざる」の精神にとっては、簡素なる茶室も日光の東照宮も、共に同一の「有」の所産であり、詮ずれば同じ穴の狢(ムジナ)なのである。この精神から眺むれば、桂離宮が単純高尚であり、東照宮が俗悪だという区別はない。どちらも共に饒舌であり「精神の貴族」の永遠の観賞には堪えられぬ普請なのである。
しかしながら「無きに如かざる」の冷酷なる批評精神は存在しても「無きに如かざる」芸術というものは存在することが出来ない。存在しない芸術などが有る筈はないのである。そうして「無きに如かざる」の精神から、それはそれとして、とにかく一応有形の美に復帰しようとするならば、茶室的な不自然なる簡素を排して、人力の限りを尽した豪奢、俗悪なるものの極点に於て開花を見ようとすることもまた自然であろう。簡素なるものも豪華なるものも共に俗悪であるとすれば、俗悪を否定せんとしてなお俗悪たらざるを得ぬ惨めさよりも、俗悪ならんとして俗悪である闊達自在さがむしろ取柄だ。この精神を、僕は秀吉において見る。
一体秀吉という人は、芸術においてどの程度の理解や、観賞力があったのだろう? そうして、彼の命じた多方面の芸術に対して、どの程度の差出口をしたのであろうか。秀吉自身は工人ではなく、各々の個性を生かした筈なのに、彼の命じた芸術には実に一貫した性格がある。それは人工の極致、最大の豪奢ということであり、その軌道にある限りは清濁合せ呑むの概がある。城を築けば、途方もない大きな石を持ってくる。三十三間堂の塀ときては塀の中の巨人であるし、智積院の屏風ときては、あの前に坐った秀吉が花の中の小猿のように見えたであろう。芸術も糞もないようである。一つの最も俗悪なる意志による企業なのだ。けれども、否定することの出来ない落着きがある。安定感があるのである。
いわば、事実において彼の精神は「天下者」であったと言うことが出来る。家康も天下を握ったが、彼の精神は天下者ではない。そうして、天下を握った将軍達は多いけれども、天下者の精神を持った人は、秀吉のみであった。金閣寺も銀閣寺もおよそ天下者の精神からは縁の遠い所産である。いわば、金持の風流人の道楽であった。
秀吉においては風流も道楽もない。彼の為す一切合財が全て天下一でなければおさまらない狂的な意欲の表れがあるのみ。ためらいの跡がなく、一歩でも控えてみたという形跡がない。天下の美女をみんな欲しがり、得られない時には千利休も殺してしまう始末である。あらゆる駄々をこねることが出来た。そうして、実際あらゆる駄々をこねた。そうして、駄々っ子のもつ不逞な安定感というものが、天下者のスケールにおいて彼の残した多くのものに一貫して開花している。しかも全てを意のままにすることは出来なかったという天下者のニヒリズムをも覗う事が出来るのである。大体において極点の華麗さには妙な悲しみがつきまとうものだが、秀吉の足跡にもそのようなものがあり、しかも端倪すべからざる所がある。三十三間堂の太閤塀というものは、今、極めて小部分しか残存していないが、三十三間堂とのシムメトリイなどほとんど念頭にない作品だ。シムメトリイがあるとすれば、いたずらに巨大さと落着きを争っているようなもので、元来塀というものはその内側に建築あって始めて成立つ筈であろうが、この塀ばかりは独立自存、三十三間堂が眼中にないのだ。そうして、その独立自存の逞しさと落着きとは、三十三間堂の上にあるものである。そうしながらその巨大さを不自然に見せないところの独自の曲線には、三十三間堂以上の美しさがある。
「妙な悲しみがつきまとう極点の華麗さ」…これぞまさにフランス絶対王制期にルイ14世が志向したバロック精神。シャルル・ボードレールいうところの「(視野外に追い出された)高貴なるメランコリー(憂鬱)」。どうやら鍵は「一番じゃなきゃ嫌だ」という執着心にありそうです。
もしかしたらウォルト・ディズニー作品における「妙な悲しみがつきまとう極点の華麗さ=高貴なるメランコリー」はウォルト・ディズニー当人の心の中にこそ宿っていたのかもしれません。あえて作品名を挙げるなら「アニメを芸術の域まで高めてみせる」という思いが強く詰まった「ファンタジア(Fantasia、1940年)」とか「本当にこれ子供向けでOK?」と思わせる「ダンボ(Dumbo、1941年)」とか「バンビ(Bambi、1942年)」とか…