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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

恋愛と自殺と「政治的」浪漫主義

金色夜叉

一般に「恋愛とロマンス(俗語で執筆される読物)を最初に結びつけたのはルソー」とされる事が多いです。「世界初のラブロマンス」として名高い「ジュリまたは新エロイーズ( Julie ou la Nouvelle Héloïse、1761年)」を発表したせいですね。
*ただしその内容はあまりにも18世紀啓蒙主義的=百科全書派的。(普遍的世界観が未知の世界観によって転覆される可能性を抹消すべく)地上のあらゆる知識を網羅し尽くそうとする妄執が全編を覆い尽くしているせいで、現代人の再読に耐えない。当時はそれが良かったのだが…

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もちろんそれ以前より恋愛を扱った物語なら存在してました。アベ・プレヴォー「マノン・レスコー(Manon Lescaut、1731年 )」とか。そういう作品を望む根強いファン層も沢山いたのです。ルソーが巧みだったのはパッケージ戦略。有識者の間で根強い人気を誇るピエール・アベラール(Pierre Abélard 1079年〜1142年)とエロイーズ(Héloïse、1090年/1100年〜1164年)のラテン語往復書簡に手本を求め、恋愛をある種の宗教的苦行として描きます。そしてこれが大ブレイクの契機となったのです。この戦略は即座にゲーテの「若きウェルテルの悩み(Die Leiden des jungen Werthers、1774年)」という形で応用展開され、ドイツでも大成功を収めます。
*ただし「若きウェルテルの悩み」は単なる模倣ではなかった。英国やスイスやベルギーやチェコカタルーニャやアメリカでは自然発生的に広がった産業革命。その導入方法がフランスやドイツに波及する過程で他地域へも伝播可能な内容に編纂されたのと良く似ている。ここで重要な鍵を握ったのは「地上のあらゆる知識を網羅し尽くそうとするフランス啓蒙学的妄執」の「知り得た事の限りを尽くして自らの世界観を構築しようとする一個人の苦悩」への置換。それで全体の分量が大幅に削減され、内容も現代人の再読に耐えるものになった。実際現代日本でも「若きウェルテルの悩み」は相応に読み返されているが「新エロイーズ」の場合は、それを読破する事そのものが宗教的苦行と認識され、敬遠されていたりする。

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ロココ調絵画の完成者として名高いフラゴナール(Jean Honoré Fragonard、1732年〜1806年)も「宗教的苦行としての恋愛」をテーマとする絵画を何点か残しています。それが当人の発案であったか、パトロンの要望であったかまでは不明ですが、当時における影響力の大きさを偲ばせる次第。

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その一方で当時のフランスでは(デュ・バリー夫人に取り入った)新古典派がアカデミズム界を牛耳る事に成功し、その後も革命政権時代、ナポレオン政権時代を乗り越えて体制側芸術として君臨し続けます。
*その歴史的流れを決定付けたのが「妖怪」ダヴィット(Jacques-Louis David, 1748年〜1825年)。しかしてその正体は実はポンパドゥール夫人のパトロネージュを受けてロココ調絵画を基礎付けた宮廷画家フランソワ・ブーシェ(François Boucher, 1703年〜1770年)の甥だったりするからややこしい。要するにロココ芸術の華美が宮廷の浪費を弾劾する清流派の槍玉に挙げられた時、彼らに迎合する形でバロック権威主義を、ただしあくまで古代ギリシャ・ローマ風に質実剛健なスタイルで再構成してのけたのが新古典主義。当時のフランス芸術家の一族は、存続を賭して自らを二手に分けた。フラゴナール一族にも(好事家の好奇心を満たす)人体解剖標本の製造販売という別口の収入源があった様に。「王侯貴族や聖職者が消費の主体だった時代」にあっては当然の配慮だったとも。

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しかし退廃的の烙印を押されて宮廷から追放されて在野へと下ったロココ芸術はそのままでは終わりませんでした。消費の主体が王侯貴族や聖職者からブルジョワ階層や一般庶民に推移するとかえって再評価され新たな生命を得るのです(皇帝ナポレオン三世やウジェニー皇后が新古典派様式に傾倒した反動とも)。「白雪姫(Snow White and the Seven Dwarfs、1937年)」に始まるディズニーのロココ・リバイバル、「アマデウス(Amadeus、初演1879年)」に活写された、なまじ「時代の寵児モーツァルトを理解してしまったが故の宮廷音楽家サリエリの苦悩…
サイバーパンクを知ってる世代なら「ミラーグラスのモーツァルト」なんてキーワードも思い出すかも。ロココ趣味の再評価は、ニューロマ運動などを経てGoth層にまで浸透するのである。ただここでややこしいのが(バロック様式の勇壮さがロココ様式の華美と表裏一体の関係にあった様に)新古典派様式の質実剛健さが(ウジェニー皇后が第二次帝政期にリバイバルした)ルイ16世の治世を席巻したマリー・アントワネット王妃の優美な生活様式と表裏一体の関係にあったという事。しかも話はそれだけにとどまらない。カール・シュミット政治的対立図式それ自体は現実と無関係に成立し進行する」と指摘したが、確かに両者は政治的対立図式と無関係に芸術様式としてしっかりと連続性を保っていたりもするのである。そもそも手掛けた芸術家層まで二分されていた訳ではないから、それはそれで当然の話だった。そして大衆は常にそうした細部について良い意味でも悪い意味でも関心を持たない。

アナと雪の女王(Frozen、2013年)」に象徴的場面があります。ディズニーは既に「塔の上のラプンツェル(Tangled、2010年)において世界観の原イメージをフラゴナールの「ぶらんこ(1767年頃)」に求めているのですが、この作品ではさらに一歩踏み込んでその作品が宮廷を飾る絵画の一枚として登場してくるのです。

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まぁ元来が宮廷芸術ですから別に違和感はありませんが、それは歴史上においては決っして有り得なかった展開でした。何しろ国民からの非難を恐れるデュ・バリー夫人がフランス宮廷にロココ様式の絵画や家具を置く事に終始反対し続けたとされているのですから(新古典派の扇動に完全に引っ掛かってしまった結果)。しかしむしろそれゆえにGoth精神を知る世界中の若者達はこの場面を王の帰還と認識して惜しみない拍手喝采を送りました。ついに政治的復讐は果たせり、という訳です。
*カールシュミットの政治哲学風に言い直すなら「ポンパドゥール夫人の時代」とは宮廷においてルイ14世時代を懐かしむ男性的バロック様式に対して(その女性的バリエーションたる)ロココ様式が政治的勝利を収めた時代だったのであり、「デュバリー夫人の時代」とは(浪費を愉しみ過ぎる)ロココ様式に対して(バロック時代はおろか古代ギリシャ・ローマ時代の質実剛健への回帰を要求した)新古典主義様式が政治的勝利を収めた時代だった事になる。そしてさらに「(ウジェニー皇后が第二帝政時代に再現した)マリー・アントワネット王妃の時代」とは(男性的勇壮さを誇示する)新古典主義様式に対して(その女性的バリエーションたる)彼女自身の優美な生活様式が政治的勝利を収めた時代となる訳だが、良い意味でも悪い意味でも細部に関心がない大衆は「こまけぇこたぁいいんだよ!」と叫ぶばかりなのだった。

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ここで私たちは本来「ぽかーん」となるべきです。なぜならこうして欧州大陸を宗教的苦行としての恋愛ブームが席巻する時代以前から、英国には既にシェークスピアロミオとジュリエット(Romeo and Juliet、初演1595年前後)」が、日本には近松門左衛門の道行物(ロードムービー元祖)が存在していた訳ですから。ここで案外重要なのは、権威主義的体制下で検閲を担う当局側が概ね(当局側の検閲を潜り抜ける為に未成就か心中という形で終わらざるを得ない)身分違いの恋や不倫を身分制に対する政治的挑戦と認識してしまうという事実。実際、近松門左衛門の心中物や「若きウェルテルの悩み」の流行は若者の自殺を急増させ、それぞれの国の当局はこれを「既存秩序に対する無言の抗議」と覚悟せざるをえない状況に追い込まれてしまうのです。

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この問題、もちろん直接対応の結果ではないのですが、日本や英国では「身分制を維持する為の身分間流動制の確保」という方向で緩和される事になります。貴族になりたいブルジョワは土地を買ってジェントリー階層に加われば無問題。日本でも八百屋の娘が大奥入りを果たし、養子縁組を使ったありとあらゆる抜け道が用意された、といった感じ。

  • そもそもロミオとジュリエット」で描かれたモンタギュー家とキュピレット家の対立は大昔の外国での出来事である。
    *中世に神聖ローマ帝国とイタリア諸国を騒がせたゲルフ(Guelfi=教皇派)と皇帝派(Ghibellini=ギベリン)の対立がモデル。そもそもこの物語は心中物ではないし、心中ブームも起こしてない。

  • 日本における心中の急増も、実は金のないストーカー貧民が便乗して遊郭から憧れの遊女を誘拐してきて無理心中するケースが相応の比率を占めていた。
    樋口一葉にごりえ(1895年)」のヒロインの一人も最後そうやって殺されていくし、それ自体は「歴史ある古い問題」に分類される模様。

だから「ぽかーん」なのですね。なまじ上手く立ち回り過ぎたせいで、どうしてそんな事で騒ぐのか分からなくなってしまった筈なのです。江戸時代も中盤を過ぎると観客の舌が肥え「累物」とか「安珍清姫物」とか「おかる寛平物」とか「東海道四谷怪談」とか「桜姫物」とか「八百屋お七物」とか、さらに複雑なバリエーションを次々と用意しないと感動を呼べなくなってしまいました。その意味での「いまさらー?」感を私達日本人は再発見すべきなのです。
*江戸幕藩体制下の日本では、さらに複雑な展開があった。「可愛いものと同じくらい猟奇が好きで、その矛盾を解消すべく猟奇的題材も可愛いく仕上げたがる」女性心理を背景とする「累物」や「安珍清姫物」の明るいミュージカル化。およびそれに違和感を感じた「あくまで登場人物の悲劇的宿命に酔いたがる」男性的心理を背景とする「東海道四谷怪談」や「桜姫物」の提言。当時両者は激しく激突したが、案外表裏一体の関係にもあったようで、東海道四谷怪談」におけるお岩の悲劇は女性も楽しみ、最終的に八百屋お七物」をリバイバルさせた「人形振り」という演出に行き着く。善悪の彼岸を超越した内的衝動に突き動かされ放火という大罪に走る八百屋お七の悲劇。そしてこれを政治的挑戦としか受け止められない体制側の視野狭窄…あれ、これ欧州における政治的浪漫主義の図式そのものじゃね? 案外60年代米国を席巻したヒッピー運動にもそういう側面が存在するが、ここで興味深いのは日本芸能に深く通じていたエイゼンシュテイン監督が、遺作となった「イワン雷帝(Иван Грозный、1944年〜1946年)」の中でスターリン同様、苛烈な独裁者としてロシアに君臨したイワン雷帝を同様の演出で描いた点かもしれない。スターリンへの抗議を込めてそうしたとも、スターリンの要求に従ってそういう演出を選んだともいわれているが、いずれにせよ個人的自由を究極まで追求せんとするロマン主義は最後には必ず「完全なる自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」なる矛盾に突き当たる。その事が明示された実例として大変興味深いのである。

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しかし神聖ローマ帝国やフランスの当局は既存秩序を脅かす悪の根源はあくまで一つ」という普遍論的立場にあくまでこだわり続けます。そしてその結果、かえってこうした流行の裏側に潜んでいた真の意味での既存秩序に対する脅威、いかなる拘束下でも遂行可能な究極の抗議方法、すなわちタナトス(Thanatos=死への誘惑)を解き放ってしまうのです。その結果、自殺だけでなく結核などによる病死や発狂、無謀な蜂起による自滅などがまとめて憧憬の対象に。その拡散に重要な役割を果たしたのがシューベルト(Franz Peter Schubert、1797年〜1828年)やE.T.A.ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann, 1776年〜1822年)とされています。そもそもフランスのロマン主義も、その発端には「狂詩人」ネルヴァルの手になるゲーテE.T.A.ホフマンのフランス語訳でが存在したのです。
*そういえばなまじ絶対王政期、革命政権期、ナポレオン政権期に渡ってずっと監獄と精神病院に幽閉され続けてきたが故にかえってマルキ・ド・サドが文学者として覚醒してしまったのもこの時期。正直本性はただの変態に過ぎないのだけれど、むしろそれ故に社会動向からの逸脱を病的に恐れ、驚異的なまでのマーケティング能力を備えるに至り、当時の裏世相を現在に伝える役割を担う事に。

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かくして江戸幕藩体制下における当局側の検閲が、取り締まられる側の嘲弄によって「男の娘」や「触手物」なんて新ジャンルを次々と編み出す方向に暴走していったのと同時期、神聖ローマ帝国やフランスでは当局の強硬的姿勢が「政治的浪漫主義」なる新ジャンルが型抜きされる展開となりました。このジャンルに属する芸術家の多くがルソーを自らの起源と仰ぎましたが、当人は日本人や英国人同様にこうしたドロドロした権威主義的世界とは無縁な生粋のスイス人でしたから、事実を知ったらやはり「ぽかーん」状態だったかもしれません。しかし二月/三月革命(1848年〜1849年)によって「国王と教会の権威」が絶対視される時代が終焉するとこのジャンルに最後まで残った人々もまた勝手に自滅していきます。

*60年安保を経験したばかりの安部公房が「砂の女(1962年)」の中で名言を残している。「罰がなければ逃げる楽しみもない」。

それ以降も政治的後援を失ったアカデミズム界の新古典派支持層と表現の自由を求める新興芸術家グループの党争は続きました。
*何しろ勝手に「裸体や性描写は聖書や神話をモチーフにした場合のみOK」といったルールを設定し、違反者は訴訟によって社会から抹殺しようとしたのだから滅茶苦茶である。しかも皮肉にもエロティズムの洗練に関してはアカデミズム絵画の方が極めていた。
フランスでは19世紀後半が、ドイツでは20世紀初旬が主戦場となります。こうした闘争から印象派、抽象画、フォーヴィスム(Fauvisme、野獣派)といった新たな芸術様式が次々と誕生するのですが、同時進行で消費の主体が王侯貴族や聖職者から「スノビズムを満たしたがり、超絶技巧を見たがるブルジョワ階層や「ハッピーエンドを望む」大衆へと推移し、戦いは新たな次元へと突入していきます。
*というかこれ以降はもう個別のマーケティング戦略に基づく個別の勝敗しか存在しない。普遍主義的価値観から離れ「生産と消費の自由」を勝ち取ったという事はつまりそういう事。

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とはいえ、こうした「反社会運動もエロも体制を脅かす悪の根源は一つ」と盲信する当局の普遍論的立場、困った事に大日本帝國成立に伴って日本に改めて輸入される展開となったのです…どうしてそうなった?

 「ジュリまたは新エロイーズ( Julie ou la Nouvelle Héloïse、1761年)」

恋愛は幻想に他なりません。恋愛はいわば、自らに別の〈宇宙〉を創り上げるのです。恋愛は、存在しないもの、もしくは恋愛のみが存在を与えたもので取り巻かれています。感情を全てイメージで表現するため、恋愛の言語は常に比喩的なのです。

 この段階において既に「ロマン主義的恋愛」は、ほぼ完成形に近い形で表現されている様に見えます。ただしこんな指摘も。
阿尾安泰「ルソーとロマン主義」なるもの

近代において現れる心理的な審級としての「内部」は単独の存在ではない。では「外部」とは何か。「内部」は純粋性を保つために,それを脅かす存在としての「外部」を必要とするのである。近代において現れる「大衆」の存在を忘れてはならない。民衆,大衆という姿形のはっきりしない不特定の塊が近代において出現する。逆に言えば,外にこうした多数者集団を想定してこそ,特権的主体としての近代的個人なるものを考えることができたのである。ロマン派の自然に向かう視線はその対抗力として,自分を取り囲む不特定者との距離を意識する必要があった。その人々を取り込むにしろ,また退けるにしろ,彼らと自分たちとの距離を意識化することで,創作行為を支えることが可能となったのである。

近代的主体の場が内部と外部の共犯関係から成立の地平を築く一方で,その運動を記述
するものとして,「時問」を持ってくることも強調しておくべきだろう。18世紀が空間の多様性に依拠して,博物学的な知を形成したのに対し,続く世紀はむしろ事象の連続的な記述を目指そうとした。連続的な「時剛指標を想定することで,あらゆる状況を記載することを考えた。こうした空間的に多様な対象は歴史という秩序のもとに配置され,多かれ少なかれ進歩主義的な見方から判断されることになった。なぜこうした時間軸の設定に拘るかといえば,均質的な時間の成立を考えなければ,特権的な時聞による「語り」の機能を説明しがたいからである。ロマン派の人々が自然との特権的一体感に拘るのは,それが日常的な時間との隔絶を意味するからであった。しかし,逆にいえば,その特権性が最高度に達するためには,その対抗たる日常的時間が揺るぎない形で存在することが必要だったのではないだろうか。日常的時間の連続性が確保されていなければ,それを逃れる時間の特権性は希薄なものとなるだろう。

確かにルソーには近代人意識に固有な「自己・他者」「時間的空間的日常/時間的空間非日常」と言った二項対立意識が希薄です。しかし「だがそれがいい」というのがロマン主義者の立場だったりもするのです。宮沢賢治やキルコゲールも目指した「法華経における久遠仏の世界(他人の視線からも時間からも空間からも完全に解放された始源の境地)」に回帰したいという渇望。というのも…

D.R.クーンツ「フランケンシュタイン:支配」

神と違ってヴィクター・フランケンシュタインは自らの被造物に自由意思を与え様とはしなかった。ユートピア提唱者が皆そうである様に。自分の考えこそ唯一の解答と固く確信していたので、それぞれの個人が全面的服従せず独自の考えを持つ事が許せなかったのである。しばしば絶望が怒りを生み、狂気と暴力に行き着いた。何か原因がある訳でもないのに夜中突然それらがどんどん膨らみ、荒れ狂った波の様に分別と自制心を押し流してしまいそうになる。

*現代作家がリニューアルした「フランケンシュタイン物」の一節。ロマン主義者って割とエンターテイメントの世界には「ユニバーサル・モンスターズ(Universal Monsters)のモデル」とという形でしか爪痕を残せなかった側面がある。そのGothな内面描写としても読めそうな気がする。

*要するに日本のTV放送黎明期の1953年にプロレス団体を立ち上げ成功させておきながら夜の街で暴れ続け、最後はつまらない喧嘩で亡くなった力道山、「巨人の星(1965年〜1971年)」「タイガーマスク(1968年〜1971年)」「あしたのジョー(1968年〜1973年)」といったスポ根マンガの原作者として名を挙げながら文学青年として挫折した経験からか数々のスキャンダルを引き起こし続けた梶原一騎の様な人物像を思い浮かべれば良い。時間も空間も超越した久遠仏の世界に憧れるのも、そうして絶えず内側から自分を突き上げる衝動に苛まれる自分の肉体から脱却したいと考えるから。


*こうした人物像を後世に分かりやすい形で伝えたのが「フランケンシュタイン(Frankenstein、1819年) 」のメアリー・シェリー(フランケンシュタイン博士とその被造物たる「怪物」)、「吸血鬼(The Vampire)」のポリドリ(バイロン卿をモデルとした吸血鬼ルスヴン卿)「嵐が丘(Wuthering Heights、1847年)」のエミリ・ブロンデ(復讐鬼ヒースクリフ)と第三者的立場の作者の手になる作品ばかりなのが興味深い。こうしてロマン主義は当人の問題から、その脅威に曝される社会側の問題へと推移していくのである。

*その一方でゲーテバイロン卿が残した吸血鬼譚は格調高過ぎてどちらかというと古典主義的だったりする。というのも実はこの路線、17世紀末から18世紀初旬にかけて神聖ローマ帝国オスマン帝国に対して優勢となり「東欧の解放」が相次いで吸血鬼譚を含む現地の土俗的伝承が大量に流れ込んできた事に端を発するからである。あらゆる知識の糾合を目論む18世紀啓蒙主義は旺盛にこの問題に取り組み、解放運動の最前線は18世紀末から19世紀初旬にかけて「欧州文明の起源」ギリシャにまで到達した。ゲーテの様な古典主義者が夢中となり、バイロン卿の様な地中海文明ファンもこれに引き摺られたのはある意味当然の話。しかもその気負い故に通常のロマン主義的アプローチは取るにとれなかったとも見て取れる。

ゲーテ物語詩「コリントの花嫁(The Bride of Corinth、1798)」
バイロン卿「不信者(The Giaour 1813年)」

ochimusha01.hatenablog.com

 いずれにせよ歴史のこの時点においては、むしろ読者側の受け入れ体制が不十分でした。例えば日本人の間に幅広く「自由恋愛を許容する雰囲気」が浸透したのは1930年代後半以降とされてています。

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グラフ化すると、きわめて興味深い動きを示しているのが分かる。1930年代前半まではほぼ横ばいで推移し、それ以降はじはじわと上昇を見せている。横ばいで推移している時期は、江戸時代までの慣習(適齢期になると自分の立ち位置に従った伝統などに基づき結婚することが常識とされていた)が残っていたからで、多くが「見合い婚」かその類似様式による婚姻(具体的には親同士の話し合いで結婚相手を決める「取り決め婚」と呼ばれるもの)。

そして経済・文化の発展や西洋化と共にこの慣習も薄れ、結果として初婚年齢も上昇を見せ始める。結婚周りの近代化……いやむしろ脱江戸時代化が確認できるのは、1930年中盤以降と見ても良いかもしれない。

「裸体に対する態度」がやっと現代人にも納得いく形に整えられるのもこの頃。

小泉 凡(小泉八雲曾孫)「ラフカディオ・ハーン(1850年~1904年)とギリシャ企画展」序文

ハーンはよく子どもの頃、ノートの余白に筋肉の絵を描いていたという。その後も古代ギリシャ彫刻にみる並外れた肉体美について永く自問してきた節がある。ハーンが出した答えは、羞恥心がない時代だからこそ「愛の直観を通して、彼らは人体についての神々しい幾何学的観念の秘訣を発見したのです」(チェンバレン宛書簡)というものだった。つまりギリシャ芸術はキリスト教的な倫理観にとらわれないからこそ美しいと考えた様なのである。後年、ハーンはみずからも、10キロのダンベルで体を鍛えることを怠らなかった。

夏目漱石同様にオーギュスト・ロダン1840年~1917年)やアントワーヌ・ブールデル(1861年~1929年)の様なフランス自然主義彫刻を嫌い「古代ギリシャ人はただ単に裸を彫ってたんじゃない。人体から抽出可能な最も美しい曲線を崇拝対象としてたののである」と書き残している。


ギリシャへの愛着と憧れは肉体美だけではなかった。弟ジャームズに宛てた手紙に、自分の長所はあの浅黒い肌をしたギリシャ人種の魂から受け継いだものだと書いている。「私が正しいことを愛し、間違ったことを憎み、美と真実を崇め、男女の別なく人を信じられるのも、芸術的なものへの感受性に恵まれ」たことも。つまり、自らが自信をもって貫いてきた価値観をギリシャからの賜り物と考えている。


後にハーンが「夏の日の夢」に書いた「ある場所と、ある不思議な時の記憶」「小さな王国」「神さまのようなその人」が、原風景のギリシャと母のイメージを重ねたものであるとすれば、ギリシャへの憧憬は母への愛惜の念がその中核をなしていたといえるかもしれない。松江の大雄寺に伝わる子育て幽霊の話を「母の愛は死よりも強し」と言い換えて結んだことからも母への強い想いが伝わる。

夏目漱石「草枕(「新小説」1906年)」

三味線の音色が思わぬパノラマを僕の眼前に展開したと思うと、突然風呂場の戸がさらりと開いた。

誰か来たなと、身を浮かしたまま、視線だけ入口に注ぐ。湯槽の縁の最も入口から隔たった場所に頭を乗せているから、槽に下る段々は、間二丈を隔てて斜めに僕が眼に入る。しかし見上げたる僕の瞳にはまだ何物も映らぬ。しばらくは軒をめぐる雨垂の音だけが聞える。三味線はいつの間まにかやんでいた。

やがて階段の上に人影があらわれた。広い風呂場を照てらすのは小さい釣りランプ一つのみだったから、この隔りでは澄切った空気を控えてさえ、しかと物色するのは難しい。まして立ち昇る湯気が細やかな雨に抑えられ、逃場を失っている今宵の風呂では相手の容姿を見定めるのが難しい。一段を下り、二段を踏んで正面から照らす灯影を浴びた後でなくては、男とも女とも声は掛けられぬ。

黒い影が一歩を下へ移した。

踏む石がビロードの如く柔らかと見えて足音もおぼつかず、動きはあくまで優雅で緩やかである。しかしとにかく、やっとその輪廓は少しは浮き上がった。僕は画工だけあって人体の骨格については存外視覚が鋭敏である。それですぐざま僕はこの風呂場の中で女と二人きりと覚ったのだった。

注意すべきかしまいか漂いながら考えるうちにも、女の影が遺憾なく僕の前に滑り込んできた。みなぎり渡る湯煙の柔らかな光線を分子ごとに含んだ薄紅色のソフトフォーカスの奥に、漂う黒髪を雲の様に流して背丈のあらん限りをすらりと伸ばした女の姿を見た時は、礼儀だの作法だの風紀だのという言葉が脳裏から離れ、ただひたすら美しい画題を見出し得たと思っただけだった。

古代ギリシャの彫刻ならいざ知らず、今世フランスの画家が命と頼む裸体画はあまりにも露骨であからさまな肉の美を極端まで描がき尽そうとする痕跡がありありと見て取れる。それを目にする都度、どことなく気を削がれる様な心持が僕を苦しめてきた。むろんその折々はただどことなく下品だと評するまでで、なぜ下品であるかが解らなかった。それ故にかえって答えを知りたいという煩悶に悩まされつつ今日に至ったのである。肉を覆えば美しさが隠れる。隠さねば卑しくなる。さらに当風の裸体画は隠さぬ卑しさに加え、その上にさらに技巧を重ねんと試みる。衣を奪った姿をそのまま曝すだけでは気がすまずこの衣冠の世における裸体を追求する。人間の常態を忘れ服を着た人々に挑戦すべく赤裸にありとあらゆる権能を詰め込もうとする。十分足りてるのに、十二分にも、十五分にも、どこまでも進んでひたすらに「裸体であるぞ」感を強調せずにはいられないのである。こうした技巧が極限に達っするとかえって窮屈になる。元より美しいものを、さらに美しくしようと焦れば焦るほど、美しさはかえってその度合を減ずるのが通例である。「満は損を招く」という諺もある。

放心と無邪気は余裕の賜である。画にも詩にも文章にも不可欠な必須条件である。近代芸術最大の弊害は、いわゆる文明の潮流がいたずらに芸術家を急き立て、様々な齟齬を引き起こさせる点にある。裸体画はその好例であろう。都会の芸妓は色を売り、人に媚こびるのを商売としているが、彼女らは嫖客の前では自らの容姿がいかに相手の瞳に映ずるかを絶えず気にし、自然な表情を覗かせる事はまずない。毎年目にするサロンの目録に掲載されているのは、この芸妓に似た裸体美人ばかりである。彼女らは一秒たりとも自らが裸である事を忘れないばかりか、全身の皮膚と筋肉を駆使して観察者にそれを誇示する事ばかり考えている。

今僕の面前に飄々と現われた姿には、こうした眼を遮る俗埃が一塵たりとも感じられなかった。かといって常人がまとった衣装を脱ぎ捨てた様といえば、それはそれで俗っぽ過ぎる。もとより着るべき服も振るべき袖も知らぬ神代の裸族の姿。あたかもそれを雲の中に呼び起した様な自然さだ。

湯煙が後から後から絶え間なく湧き起こり、屋内に充満する。部屋一面に春の宵の灯を半透明に崩し拡げたかの様な虹の世界が広がり、それらが細やかに揺れる向こう側で、朦朧にやっとそれと認められる黒髪を透かして真白な姿が雲の底から次第に浮き上がって来る。その輪郭に視線が釘付けとなる。

首筋を軽く双方から包み、すらりと肩の方へ流れ落ちる髪の流れていく先は豊かに丸く折れ、五本の指に掻き分けられているのだろう。ふっくらと水面に浮く二つの乳房の下では、揺らめく引き波が滑らかに盛り返しながら、水面下に隠された下腹部の張り出しを微かに垣間見せる。吐口から強く噴き出す湯に当たり、勢の尽きるあたりで分れた肉が平衡を保つべく少しく前に傾いている。膝頭の方はまともに流れを受けて長いうねりを踵まで届かせ、平たい足の裏で始末している。世に、これほど錯雑した配合はあるまいとも、これほど統一された配合もないとも思われた。これほど自然で、柔かで、滑らかで見苦しくない輪廓など、そう安々とみつかるものではない。

なにより嬉しいのは、この裸体が普通のそれと異なり僕の眼前に露骨に突きつけられている訳ではないという事だ。あくまで全てを幽玄に見せる霊気の中を彷彿とさせられ、十分の美が奥ゆかしくも仄めかされてるだけに過ぎない。もしここに筆と墨と紙あらば何が出来るか想像するだけで楽しい。芸術に観じて申し分のない空気や温かみや幽玄な調子が備わる。鱗が一つ一つはっきりと丁寧に描かれた竜の絵を見るとかえって神秘的な雰囲気が失われてしまうというが、それなら彼女の一糸まとわぬあられもない肉体をあえてはっきりと目に止めるより、こうして湯煙ごしに清らかな裸体を想像している方が神が来て去った後の様な余韻にひたる事が出来る。その考えに思い当たった僕の眼には、突如としてこの輪廓が、桂の都より逃れてきた月界の嫦娥に見えてきた。彩虹の追手に取り囲まれて途方に暮れている姿の様に思えてきた。

その輪郭が次第に白く浮きあがる。あと一歩踏み出せば、せっかくの嫦娥が、あわれ俗界に堕落する。そんな事を考えた刹那、緑髪が波を切る霊亀の尾のごとく風を起してぶわっとなびいた。渦巻く煙を切り裂いて、白い姿が階段を飛び上がる。ホホホホと鋭く笑いう女の声が廊下から響いてきた。その声が向こうへ遠のくにつれ、次第に風呂場に静寂が戻ってくる。僕はがぶりと湯を呑むと湯槽の中に突っ立った。揺り返しの波が胸に当たる。縁を越す湯泉の音がさあさあと鳴る。

*頑張って現代日本語化を試みてみたが…本文の堅苦しさはその程度の事で収まる筈もなかった。

太宰治「美少女(1939年)」

*あらすじ。 妻に付き合って温泉に出かけた「私」は、混浴の浴場で湯治に来ているらしいある美少女を見かける…

私と対角線を為す湯槽の隅に、三人ひしとかたまって、しゃがんでいる。七十くらいの老爺、からだが黒くかたまっていて、顔もくしゃくしゃ縮小して奇怪である。同じ年恰好の老婆、小さく痩せていて胸が鎧扉のようにでこぼこしている。黄色い肌で、乳房がしぼんだ茶袋を思わせて、あわれである。老夫婦とも、人間の感じでない。きょろきょろして、穴にこもった狸のようである。

そのあいだに、孫娘でもあろうか、じいさんばあさんに守護されているみたいに、ひっそりしゃがんでいる。そいつが、素晴らしいのである。きたない貝殻に附着し、そのどすぐろい貝殻に守られている一粒の真珠である。私は、ものを横眼で見ることのできぬたちなので、そのひとを、まっすぐに眺めた。十六、七であろうか。十八、になっているかも知れない。全身が少し青く、けれども決して弱ってはいない。大柄の、ぴっちり張ったからだは、青い桃実を思わせた。お嫁に行けるような、ひとりまえのからだになった時、女は一ばん美しいと志賀直哉の随筆に在ったが、それを読んだとき、志賀氏もずいぶん思い切ったことを言うとヒヤリとした。けれども、いま眼のまえに少女の美しい裸体を、まじまじと見て、志賀氏のそんな言葉は、ちっともいやらしいものでは無く、純粋な観賞の対象としても、これは崇高なほど立派なものだと思った。

少女は、きつい顔をしていた。

一重瞼の三白眼で、眼尻がきりっと上っている。鼻は尋常で、唇は少し厚く、笑うと上唇がきゅっとまくれあがる。野性のものの感じである。髪は、うしろにたばねて、毛は少いほうの様である。ふたりの老人にさしはさまれて、無心らしく、しゃがんでいる。私が永いことそのからだを直視していても、平気である。老夫婦が、たからものにでも触るようにして、背中を撫なでたり、肩をとんとん叩いてやったりする。この少女は、どうやら病後のものらしい。けれども、決して痩せてはいない。清潔に皮膚が張り切っていて、女王のようである。老夫婦にからだをまかせて、ときどきひとりで薄く笑っている。白痴的なものをさえ私は感じた。すらと立ちあがったとき、私は思わず眼を見張った。息が、つまるような気がした。素晴らしく大きい少女である。五尺二寸もあるのではないかと思われた。見事なのである。コーヒー茶碗一ぱいになるくらいのゆたかな乳房、なめらかなおなか、ぴちっと固くしまった四肢、ちっとも恥じずに両手をぶらぶらさせて私の眼の前を通る。可愛いすきとおるほど白い小さい手であった。湯槽にはいったまま腕をのばし、水道のカランをひねって、備付けのアルミニウムのコップで水を幾杯も幾杯も飲んだ。

「おお、たくさん飲めや。」老婆は、皺の口をほころばせて笑い、うしろから少女を応援するようにして言うのである。「精出して飲まんと、元気にならんじゃ。」すると、もう一組の老夫婦も、そうだ、そうだ、という意味の合槌を打って、みんな笑い出し、だしぬけに指輪の老爺がくるりと私のほうを向いて

「あんたも、飲まんといかんじゃ。衰弱には、いっとうええ。」

と命令するように言ったので、私は瞬時へどもどした。私の胸は貧弱で、肋骨が醜く浮いて見えているので、やはり病後のものと思われたにちがいない。老爺のその命令には、大いに面くらったが、けれども、知らぬふりをしているのも失礼のように思われたから、私は、とにかくあいそ笑いを浮べて、それから立ち上った。ひやと寒く、ぶるっと震えた。少女は、私にアルミニウムのコップを、だまって渡した。

「や、ありがとう。」

小声で礼を言って、それを受け取り、少女の真似して湯槽にはいったまま腕をのばしカランをひねり、意味もわからずがぶがぶ飲んだ。塩からかった。鉱泉なのであろう。そんなに、たくさん飲むわけにも行かず、三杯やっとのことで飲んで、それから浮かぬ顔してコップをもとの場所にかえして、すぐにしゃがんで肩を沈めた。

「調子がええずら?」

指輪は、得意そうに言うのである。私は閉口であった。やはり浮かぬ顔して「ええ。」と答えて、ちょっとお辞儀した。

隣で湯船に浸かっている家内は、顔を伏せてくすくす笑っている。私は、それどころでないのである。胸中、戦戦兢兢たるものがあった。

*ちなみにこの太宰治「美少女」はKindle本化されて無料の部のトップクラスに君臨し続けている。それにつけても、何度読み返しても「まさかの時に志賀直哉 」。

しかし当時の日本当局はエロも共産主義も一緒くたに危険視していたので(そもそも海外文献を翻訳して頒布するルートが重なっていたせいとも)、日本検閲史に大きな足跡を残した「おかる勘平事件(1910年)」が勃発してしまいます。

「おかる勘平」とは?

仮名手本忠臣蔵」5-6段目に挿入されるエピソードで、後にモーリス・ベジャール演出でバレー化されたりもしている。

①主君塩冶判官が殿中で高師直に切りつけた時に、門外で話し込んでいて役目を果たせなかった勘平とその恋人おかるは、山崎に住むおかるの親元の所に身を寄せている。

②勘平は亡君の敵討ちに加わる為の資金を工面しようと必死になっていたが「到底無理」と見切りをつけたおかるは京の街で自らの身を売って50両を調達し、義父の与市兵衛に託す。

③さっそく帰路についた与市兵衛だったが、夜の山崎街道を急ぐ途中で突然銃声が鳴り響いた。猪狩りをしていた勘平に間違えて撃たれてしまったのだ。あわてて助けようと駆け寄った勘平だったが、懐の50両に目がくらんでしまってそれを懐に入れると「しばし借りました」と言い残して走り去る。

④翌日与市兵衛が死体で発見され、その上犯人が勘平であると判明すると、おかるの母は鬼の様に激しい勢いで勘平を責め立て、切腹に追い込んだ。その直後に「金は女房を売つた金」と知れて窃盗の冤罪は晴れたが、既に勘平は虫の息である。それでも勘平は最後の力を振り絞って同志に50両を託し、連判状に加名してから息絶えた事で後の世に討入浪士の一人として認められる資格を得たのだった。

*誰がどう見たってこの物語の主役は『金』である。それが擦れ違う人間全てを惑わし、その心を破滅させながら、最後には「(どうせ本人が討入に参加しても足手まといにしかならなかった)ヘタレ若造」の代わりに仇討ちに向かって目出たし目出たしとなる。とはいえヒロインの存在も無碍には出来ない。何故なら彼女の「女としての評価」が飛びぬけていたからこそ、それとの等価交換が発生した訳だから。その結果本人は「事件当日、お喋りのせいで必要な時必要な対応が取れなかった罪悪感からの開放」と「(身分を超えての)女房と呼ばれる資格の獲得」を得る事になった。

 北原白秋「おかる勘平(1910年)」

おかるは泣いてゐる。
長い薄明(うすあかり)のなかでびろうど葵の顫へてゐるやうに、
やはらかなふらんねるの手ざはりのやうに、
きんぽうげ色の草生(くさぶ)から昼の光が消えかかるやうに、
ふわふわと飛んでゆくたんぽぽの穂のやうに。

泣いても泣いても涙は尽きぬ、
勘平さんが死んだ、勘平さんが死んだ、
わかい奇麗な勘平さんが腹切つた……

おかるはうらわかい男のにほひを忍んで泣く、
麹室(かうじむろ)に玉葱の咽(む)せるやうな強い刺戟しげきだつたと思ふ。
やはらかな肌(はだ)ざはりが五月(ごぐわつ)ごろの外光(ぐわいくわう)のやうだつた、
紅茶のやうに熱(ほて)つた男の息(いき)、
抱擁(だきし)められた時(とき)、昼間(ひるま)の塩田(えんでん)が青く光り、白い芹の花の神経が、鋭くなつて真蒼に凋れた、
別れた日には男の白い手に烟硝(えんせう)のしめりが沁み込んでゐた、
駕にのる前まで私はしみじみと新しい野菜を切つてゐた……

その勘平は死んだ。

おかるは温室(おんしつ)のなかの孤児(みなしご)のやうに、
いろんな官能(くわんのう)の記憶にそそのかされて、
楽しい自身の愉楽(ゆらく)に耽つてゐる。
(人形芝居(にんぎやうしばゐ)の硝子越しに、あかい柑子の実が秋の夕日にかがやき、黄色く霞んだ市街しがいの底から河蒸気の笛がきこゆる。)
おかるは泣いてゐる。
美くしい身振(みぶり)の、身も世もないといふやうな、
迫(せま)つた三味(しやみ)に連つれられて、
チヨボの佐和利(さはり)に乗つて、
泣いて泣いて溺(おぼ)れ死にでもするやうに
おかるは泣いてゐる。
(色と匂にほひと音楽と。
勘平なんかどうでもいい。)

どうしてこの詩が大日本帝國当局の逆鱗に触れ「帝國の根幹を揺るがす悪からの挑戦」のレッテルを貼られて徹底弾圧される事になったかは正直言って不明です。真の権威主義とは一切の説明義務を伴わず、それを行使される側が生き延びる為にオロオロと様々な推測に振り回されるだけ解いう状態を理想とする訳ですし。

いずれにせよ以降北原白秋はロマン派詩人の世界から足を洗い、児童文学の世界へと逃げ込む羽目に陥ります。江戸川乱歩も同様の経緯から「少年探偵団」の世界に専念せざるを得なくなりました。こうして「網走番外地」化した日本の児童文学は戦後国際的に見ても異形の発展を遂げる事となるのですが、その話はまた別途。

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そもそも日本でやっと自由恋愛を許容する雰囲気が整ったのが1930年代後半という状況も悪かったのです。日本初の本格的なトーキー映画「マダムと女房(1931年)」が「エロ100%」を流行語とした時代でもありましたが、貧富の格差が広がり社会主義思想が次第に影響力を強める一方で、戦時下故にそれに対する弾圧が熾烈を極めていった時代でもあったのでした。その過程で日本のロマン主義に対する認識にも特徴的な変化が訪れます。北村透谷島崎藤村が日本に初めて紹介したロマン主義文学は英国作品中心で、坂口安吾フランス文学を専門としていましたが、当時日本のカウンター・カルチャー界で優勢となった左翼陣営は、マルクスの影響もあってドイツ・ロマン主義の系譜を至高としつつ「だが足りないところが多かった」という立場をとる様になっていくのです。

戸坂潤 「現代唯物論講話(1938年)」

近世的な自由概念はルネサンスに始まると見るべきだろう。イタリヤの商業資本主義の発達につれて、商業都市の隆盛をきたし、そこにいわゆる古典文芸の復興の物質的地盤が用意されたが、そればかりではなくこの初期資本主義によって個人=個性の自覚もまた発生した。かくてメジチ家その他の紳商によって、芸術家が養成されることになり、従来のギルドの徒弟上りに過ぎなかった工人の位置に芸術家が代って就くことになったのである。芸術家は自分自身の個性に従って、制作・創造・の活動をするが故に、もはや単なる工人ではないのである。われわれはここに近世的な自由概念の故郷を見ることが出来る。
*マクニール「ヴェネツィア――東西ヨーロッパのかなめ、1081-1797(1979年)」はむしろレオナルド・ダ・ビンチやラファエロミケランジェロの個人的才能より、経済的に追い詰められたヴェネツィアが苦肉の策として産み出した「携帯可能な小型書籍(グーテンベルグが印刷したのは教会に常設される効果な巨大本)」「観光の目玉としてのオペラ上演(フィレンツェでは古代ギリシャ悲劇の再現が試みられただけ)」「土産として売られるキャンバス絵画(東欧のイコンを真似て発明)」などに「経済的にパトロンに全面偉人せざるを得ない状況からの芸術家の解放」の端緒を見る。

自由は個性に基く独創的な生産活動を意味している。これはもはや決して消極的な、何ものかからの非生産的な自由ではない。ここでこの自由は、ダ・ヴィンチミケランジェロ、或いはボッカッチョにおいて見受けられるような、芸術的創造の自由またはロマン的自由に他ならぬ(ロマンは俗語(ロマンス語)による世俗人情的物語で、浪漫主義の歴史的起源をなす。デカメロンが典型的なロマンスであることは人の知る通りだ)。この自由の特色は遥か後になって、ドイツ浪漫派哲学者のシェリングの初期の思想の中心をもなしている。世界を構想(想像・幻想)する自由、自我の内から世界を出し、又世界の随処に自我を見る自由がこれだ。

近世的自由はただし何よりも民主主義のものであることを忘れることは出来ぬ。政治的自由として、近世的自由の内容が積極的になって来たのは、いうまでもなくフランス大革命を契機としてであり、ルソーの所謂『民約論』に於ける主権の概念に結び付いてである。ルソー自身、浪漫主義の端初をなすといわれるが(物語『新エロイーズ』)、そうすればロマンス的・芸術的な・個性の自由が、ここで政治的な市民の自由へ結び付いたといっていいかもしれない。

シェリングにおける自由は、その「人間的自由の本質に就いて」においては、もはや個性の自由ではなくまたなおさら政治の自由でもない。人格の倫理的自由が、ここでは人間の宗教的自由にまで押し進められているのである。自由なるものの興味は、他からの強制を否定する自己原因的な自律の内に存するよりもむしろ、完全に無原因なアービトラリネス(arbitrariness、恣意性)の内に、すなわち悪をさえなし得る自由の内に見出される。これは神学的自由である。懐古的な小ブルジョア反動分子のイデオロギーであるロマンティークの行きつく処は、文学的には中世的カトリックへの憧憬であったが、哲学的には神学へ赴かざるを得なかったのである。

歴史観が完全に入れ替わってしまいましたね。ここでフェミニズム問題が台頭してきます。全社会的に進行した権威主義的志向の高まりによって、当時の女性は「体制側」だけでなく「背後の味方」とも戦わざるを得ない状況に追い込まれてしまったからでした。

宮本百合子「婦人党員の目ざましい活動―エロ班のデマに抗議する―(1933年)」

資本主義的限界を戦争と勤労階級搾取で乗り切ろうとする偽善的ブルジョワ階層ばかりか、男性党員まで婦人党員が活躍すると、それを家政婦的役割とか色仕掛で金をまき上げる毒婦とか論う。
宮本百合子日本共産党元委員長宮本顕治の妻で、夫とともに投獄、執筆禁止などを繰り返した筋金入りの共産主義者にしてフェミニスト

竹宮恵子が70年安保に参加しつつも「男尊女卑も死守せんとするアナクロニズム」を見て取って離脱した状況は、この当時まで遡るらしい。ちなみに1960年代に米国を席巻したヒッピー運動にも似た様な側面があったらしい。

この状況は戦後になってもあまり変わりません。「ブラックパンサー党(Black Panther Party, BPP)」や「ネーション・オブ・イスラム (Nation of Islam, NOI) 」が武力抗争を繰り広げた公民権運動(African-American Civil Rights Movement、1950年代〜1960年代)も、60年代米国を席巻し「シャロン・テート惨殺事件(1969年)」や「ガイアナ人民寺院(Peoples Temple)集団自殺事件(1978年)」によって命脈を断たれたヒッピー運動も、日本の60年安保や70年安保も「反体制運動=男権主義護持運動」と図式化したくなるほど男尊女卑的で、それに嫌気がさして政治運動から離脱した竹宮恵子や、彼女が見出した萩尾望都といった「24年組」が少女漫画の新時代を切り拓いた結果が、現在なお国際的に通用するコンテンツとして通用し続けている「日本少女漫画の世界」を現出させる訳ですから病膏肓に入るとはまさにこれ。

宮本百合子「婦人作家は何故道徳家か? そして何故男の美が描けぬか?(1953年)」

売春婦への耽溺を隠蔽するブルジョア的偽善文化に立脚している限り、婦人作家は一種の道徳家となるか、淫蕩文学の作家となって性のブルジョア的販売に陥るしかないのである。その立場に留まる限り女には男の美が描けぬ。
*「歴史の最初から全ての女が全ての男に奴隷奉仕を強要されてきたのだから、真の平等社会とは全ての男が全ての女への奴隷奉仕を自ら喜んで受け入れる社会を意味する(それが出来ない男は全てレイシストとして殲滅され尽くすのが国際的正義)」なる信念に立脚するウルトラ・フェミニズムが台頭してくる時代の前夜にはこんな議論もあったという話。実はこれ「歴史の最初から全ての労働者が全てのブルジョワに奴隷奉仕を強要されてきたのだから、真の平等社会とは全てのブルジョワが全ての労働者への奴隷奉仕を自ら喜んで受け入れる社会を意味する(それが出来ないブルジョワは全て守旧派として殲滅され尽くすのが国際的正義)」とするマルクス主義の援用。中国人有識者魯迅の言葉を引用して「奴隷と主人が入れ替わっても奴隷制はなくならない」と嘆いているのに比べると、随分と「ポジティブなスタンス」と言わざるを得ない? 国際的にはスティーグ・ラーソンの「ドラゴン・タトゥーの女(The Girl with the Dragon Tattoo、原作2005年、映画化2011年)やピエール・ルメートル「その女アレックス(Alex、2011年)」の国際的成功、「アナと雪の女王(Frozen、2013年)」におけるハンス王子や「マレフィセント(Maleficent2014年)」におけるステファン王の無残な最期あたりがこの勢力の「宣戦布告」あるいは「戦果」と目されている。

光文社月刊宝石「鬼太郎のベトナム戦記(1968年)」

ベトナムの少女が戦いに行くために水浴後に服を着替えて男に変装する場面をたまたま覗いてしまった鬼太郎ら妖怪軍がベトコンに味方して米軍と戦うストーリー。ワシントンのコンピュータも「妖怪には美女を」と解析し、アメリカ側もベトナムに美女(妖怪)を派遣して色仕掛けで鬼太郎たちの戦意を喪失させようとするが…原案として参加した佐々木守福田善之が思想的な部分を手伝っている。

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ベトナムジャンヌ・ダルク”ホー・チ・キョウ”の水浴を覗き見した事が期せずして妖怪たちを蜂起させることとなった。これは妖怪がヌードを見るとわけもなくコウフンする習性があるからであろう。これはまた妖怪の生きがいが快感ということにあることからもうなづける。

確かに彼らも理念上「政治的自由は男女平等たるべし」という一点では妥協したのですが、むしろそれしか妥協しなかったが故に女性に「政治的平等」と「一般的意味合いにおける男女平等」の峻別を叩き込むという役割を果たしてしまった感すらあります。「女性は一旦男性化する事で初めて冥福を得る」とした前近代仏教の方便と何が違うというのか? まぁそうした女流漫画家達の義憤が日本の少女漫画を国際的に通用する無双コンテンツに押し上げた点を見ても、別に日本だけが後進的だったとは言い難い様なんですが…

変成男子 - Wikipedia 

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しかしその一方で、国際的メインストリームの世界においても前近代におけるロマン主義的恋愛観の伝統は、随分とひねくれた形で後世に影響を与える事になりました。例えばハリウッドにおけるロマンス作品のシナリオは全て「ロマンスの基本は障害ある恋」という前提に立ち「その障害はどの様な性質のもので、作中でどう扱われるのか?」という観点から徹底検証されるとされています。おそらくハーレクイン・ロマンスの様な恋愛小説出版社あたりもこれやってそう。「郵便配達は二度ベルを鳴らす(The Postman Always Rings Twice、1934年)」を発表したジェームズ・M・ケインによれば、シェークスピア悲劇「ロミオとジュリエット」にちなんでバルコニー・システムと呼ばれていたりするそうです。
*ちなみに1853年における(コルシカ島下級貴族ナポレオン家出身の)皇帝ナポレオン三世と(ガチでスペインとスコットランドの上級貴族の血を引く)ウジェニー皇后の結婚について英国『タイムズ』誌は「わたしたちは、フランス帝国の年代記におけるこのロマンティックな出来事が以後最も強い反対と呼ばれてきたことを学び、極度の苛立ちを刺激した」とこき下ろしている。「ロマンテック=(主に恋愛面において)常識で考えてありえねぇー展開」という図式化は歴史のこの時点で既に成立していた模様。ただしあくまでもネガティブな意味合いが強かった?

産業革命の影響で消費の主体が王侯貴族や聖職者からブルジョワ階層や一般庶民に移り大量生産と大量消費が前提となって以降起こった最大の変化はハッピーエンドに対する同調圧力の強まりかもしれません。例えば尾崎紅葉金色夜叉(1897年〜1902年)」も当初は心中エンドだった形跡を残しています。ただしその場面は結局、夢だった事とされ、以降も延々と続いて結局未完に終わります。作者から殺されかけた主人公がここにも?

 

実際、童話や教養小説(Bildungsroman)の世界も19世紀世紀末が近づくにつれ「大量生産を大量消費が支える」時代に迎合するが如くハッピーエンドで終わるケースが増えていきます。しかしその一方でマーク・トウェインハックルベリー・フィンの冒険(Adventures of Huckleberry Finn、1885)」は発表当時「許し難い不良少年がハッピーエンドを迎える」事そのものが徹底弾劾されました。そしてハリウッド映画でも黎明期から次第に「ギャングやその情婦の様な悪役は必ず同情の余地なき非業の最期を遂げるべし」なる不問律が広まっていくのです。このギャップが逆に「両親の属する普遍的世界観」に徹底して反抗したくなる厨二病世代の若者にとっては誘蛾灯の役割を果たし、現在国際的にはGothと呼ばれる集団を滋養する展開になったとも。

一方「Boy meets Girl」物全盛の戦前米国映画界で「或る夜の出来事(It Happened One Night、1934年)」「オペラハット(Mr. Deeds Goes to Town,1936年)」といった「ありえねぇー」シチュエーションの恋愛コメディ映画を次々とヒットさせ「大衆は小さなリアリティより腰を抜かすほど巨大な虚構を信じたがるものだ」とヒトラーばりの名言を残したのがシチリア島出身の映画監督フランク・キャプラでした。「Romantic=非日常性」という図式を作中で次々と実現し日本映画にも多大な影響を与えています。

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「ロマンス(Romance)」の起源に少しは近づけた?