諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

プロテスタンティズムの倫理と鯨捕りの精神

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マックスウェーバーが「資本主義の創始者」と信じたかったタイプのプロテスタンティズム。実際には近代化に失敗してただ消滅していっただけだったケースも存在しました。実例として代表的なのは、例えば17世紀から19世紀初頭にかけて栄えた「ナンタケット島の捕鯨産業」あたり。

マックス・ウェーバー自身はこれを古代ギリシャ人の歴史区分になぞらえて「資本主義の英雄時代」と呼んでいます。

旧約聖書の規範によって生活 を隅々まで律することがどのような性格学上の結果を生むか、それ を明らかにすること(これは、ユダヤ教そのものについてさえ、まだ十分に 解明されていない興味ぶかい課題だ)は、この素描の枠内では不可能だろう。さきにユダヤ人的な〈神の選民〉という信仰が,ピューリタンのうちで壮大に復活したことを考察したが,これがピューリタンの気質の全体に,重要な意味をもっていたのである。穏健なバクスターでさえ,神が自分をほかの場所ではなくイギリスに,そして真の教会のうちに生まれさせたことに感謝している。神の恩寵によって道徳的に非難すべきところのない者となることができたというこのような感謝は,ピューリタン市民の生活の雰囲気の全体に浸透していた。資本主義の英雄時代を代表する人々に特有にみられるように,これが形式主義的な正しさをどこまでも追求する性格を形成する条件となったのである。

リチャード・バクスター(Richard Baxter,1615年〜1691年)…イギリスの清教徒の牧師,神学者。 1638年にイギリス国教会の叙任を受けたが監督制度に反対し清教徒となり,1641年キッダーミンスターの牧師となる。市民戦争に際しては議会側に属し,1645年から1647年にかけてクロムウェル軍の軍隊付き牧師となる。マックス・ウェーバーも注目した職業倫理論で知られる。
救済予定説とプロテスタントの職業倫理

メイヴィル「白鯨(Moby-Dick; or, The Whale、1851年)」のモデルとなった「エセックス号漂流事件(1821年)」に取材したナサニエル・フィルブリック「白鯨との戦い(In the heart of sea、原作2000年、映画化2015年)」。彼らの偏狭なまでの反知性主義が成功を切り拓く鍵となったのは最初だけで、最後にはそれが全員を破滅に導くおぞましい碇に変貌していく過程を冷徹な筆致で描いた名作とされています。

それではどういう形でマックス・ウェーバーの期待は裏切られていったのでしょうか…

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 島の名前の由来は先住民ワンパノアグ族の言葉で「遠くの土地」の意。港口にほど近いナンタケット砂州をはじめ島じゅうが絶えず変化し続ける浅瀬に囲まれています。出入り自体が困難な土地柄で、特に激しい嵐に藻回れる冬にはほとんど毎週の様に軟派が起こり、波の荒い海岸には誰とも知れぬ船乗りの骸が打ち上げられたりするのです。そうして絶えず海の残酷さの浸食を実感させられる毎日が、船乗りばかりか一度も効果に出た事がない島民まで迷信深くさせたといわれています。この残酷な原風景を常に思い出し続ける事が「ナンタケット島を舞台に展開されたピューリタニズム英雄時代の悲劇」を振り返る上で重要な鍵となるのです。

  • カニバリズムまで引き起こしたエセックス号漂流事件(1821年)だって、母船をマッコウクジラに沈められた後で目の前のソシエテ諸島でなく南米を目指したのが発端だった。迷信深く無知で外国人恐怖症の強い彼らは当時広まりつつあった「ソシエテ諸島は人食い人種の島ではない」という常識をどうしても認める事が出来なかったせいである。

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  • ナンケタットの人々は、自分達が直接体験した事しか信じず、同じナンケタット人の口から聞いた情報以外は全て疑ってかかった。彼らの捕鯨分野における圧倒的成功も、実は革新的技術屋や大胆な冒険の結果というよりかたくなな保守主義の産物であり、先人達の業績を時間をかけて慎重に発展させてきた結果に過ぎなかったのである。その一方で危険に満ちた捕鯨の仕事は彼らに災難や苦難に耐える力を与え、しばしばそれを過信し過ぎた。その結果彼らは「人食い人種を恐れるあまり、自分達が人食いとなる」展開を迎え「漂流中の極限状況において人種問題が浮上し、白人乗組員が生き延びる為にまず黒人乗組員が食われた」疑惑まで後世に残していく羽目に陥ったのだった。

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①英国の植民者達がナンタケット島に移住し始めたのは1659年以降。この三日月型の土地には草が茂り、あちこちに池があり狼がいなかったので当初は羊を飼って生計を立てていました。しかし家畜や農家の数が増大すると海に目を向けざるを得なくなリます。毎年秋になると島の南に何百頭ものセミクジラが現れ、初春までそこに留まりました。ケープコッドとロングアイランド東部の植民者達は捕鯨で暮らしていましたし、現地の先住民ワンパノアグ族は岸に漂着する鯨の遺体を貴重な蛋白源としていのです。彼らがこの分野に乗り出したのは1690年代、ケープコッドから呼ばれたイカポド・パドックという男が捕鯨技術を伝えて以降となります。

  • 最初は全長6メートル程度の6人乗りの小舟によるセミクジラ漁が中心だった。18世紀初頭になると借金のカタにワンパノアグ族を労役する様になり、1720年代中半以降は植民者の人数の方が多くなる。1760年までにナンタケット島周辺の鯨はほとんど取り尽くされてしまったが、1712年に初めてマッコウクジラを仕留めたのを皮切りに煉瓦製の鯨油精製炉を積み込んだ大型のスループ帆船による遠洋捕鯨が中心となり、独立戦争が勃発した1775年頃までに北極圏からアフリカ西岸、南米東岸、そして南はフォークランド諸島の辺りまで航海する様になっていた。英国政治家エドモンド・バークも1775年の議会演説でナンタケット島民を新時代の米国の主導者、すなわち捕鯨の成功によって全欧州を凌駕する力を得た「近代的な人々」と礼賛している。こうしてほぼ英国とフランスほど本国から隔たった島に住むナンタケット島民の間では、自分達が他と違う優れた人間、ラルフ・ウォルドー・エマーソンいうところの「ナンタケット国」の特権的国民であるという英国的優越意識が滋養される事になった。

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  • 米国独立戦争1812年米英戦争に際して英国海軍は沖合の船舶を襲撃したので捕鯨産業は大打撃を被ったが、幸いな事にナンタケット島民は卓越した資本蓄積と捕鯨技術を備えており1819年までにほぼ立ち直った。捕鯨船は太平洋にも進出し、ナンタケット島はますます栄えたが、それまで平均で9ヶ月程度だった航海の長さが2年から3年に伸びて船員が家に居られるのはその狭間の3ヶ月から4ヶ月程度となる。この状況は捕鯨業者と海に乗り出さず鯨も見た事がないそれ以外の島民を分断する一方で、女性が家事や子育てだけでなく様々な事業を自分達で運営する伝統を生み出した。島の女性達の社交生活は活発で、難しい取引や交渉も多くがそうした互いの訪問の際に行われていたという。その一方では「船乗りの女房達や未亡人の間では、寂しさを紛らわす為に阿片チンキや張形が流行している」という口さがない噂も流れている。また夫や父親との死別が避けられない現実で、1810年のナンタケットには父親がいない子供が47人もいたし、23歳(結婚の平均年齢)以上の女性の約四分の一は夫を海で亡くしていた。初公開に乗り出す少年船乗りにとって、高級船員(オフィサー)が初めて出会う権威を持った男性という展開もおそらくそう珍しい事ではなかった。
    「私ははやいところ船乗りと結婚して彼を海に送り出す。
     自由な生活が好きだから。
     でも時々は彼の顔が見たくなる。
     それはとても男らしく魅力的
     額は優雅に広く、黒い目は思い遣りに溢れてる
     彼がそばに居ると心がときめく。
     でも彼が「さようなら、愛しい人よ、海へ行くよ」というと
     別れが悲しくて泣き、自由が嬉しくて笑う」
    島民のエリザ・ブロック「ナンタケットの女の歌」より
    *亭主元気で留守がいい?
  • ハーマン・メルヴィルはナンタケットの捕鯨における圧倒的優位性について「白鯨(Moby-Dick; or, The Whale、1851年)」14章において次の様に記している。

    "Two thirds of this terraqueous globe are the Nantucketer's. For the sea is his; he owns it, as Emperors own empires."
    この水陸から成る地球の3分の2はナンタケットのものである。海はナンタケットのものである。皇帝が帝国を所有するように、ナンタケットは海を所有する。。

    ただし「白鯨との戦い」著者は冷静に「作品発表時のナンタケットは既に衰退期に入っていた筈である」と指摘する。

②こうしたナンタケット独自の文化と経済を精神面で支えてきたのが1702年にジョン・リチャードソンというカリスマ牧師が地元有力者の説得に成功したクェーカー教(キリスト友会)です。その「聖書解釈に重きをおかず、自らの感じる神の存在、すなわち内なる光を生きる指針とせよ」とし使命感と克己心を重んじる独特の教義、平和と男女平等を尊び世俗的なものに価値を見出さない姿勢などから(余所者に対する排外意識と表裏一体の関係にある)島民間の共同体意識、儲けを豪邸や流行服や贅沢品などでに注ぎ込まず捕鯨事業に再投資する資本主義的態度、「神は我々に海の生物を支配する事を許した」とする血生臭い信念などが導出されたという訳です。

  • このプロセスはマックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(1904年)」で展開される「プロテスタンティズムはいかにして資本主義を創造したか」についての推論を彷彿とさせる。英国人やオランダ人が西インド諸島南アフリカ奴隷制プランテーション経営を正当化した論法と重なる部分も少なくない。その一方で、それは(何時まで経っても内紛がおさまらない祖国に絶望した)フランス人政治家トクヴィルが「アメリカの民主政治(前編1835年,後編1840年)」の中で讃えた「アソシアシオン(住民自治)」そのものでもあったりする。
    「ナンタケット島民は一つの大きな家族の様に暮らしている。住む家こそ違っているが、お互いに隣人だけでなく全員を知っており、最初に出会った住民に聞けばその人の家に案内し、彼の職業や他の知りたい事全てを教えてもらえるだろう」
    1821年に不幸な事故を起こしメイヴィル「白鯨(Moby-Dick; or, The Whale、1851年)」のモデルとなったエセックス号の船主の一人だった「島民」ウォルター・フォルジャーの証言
  • その一方で島じゅうに張り巡らされた血縁ネットワークに組み込まれていない者は何世代暮らしても「クーフ(余所者)」扱いされ続けたし「グリーンハンド(主にケープコッドで調達された航海経験のない新米)」は徹底して軽蔑されていた様である。
    「生ける者に死を
     殺し手に長命を
     船乗りの女房に成功を
     そして鯨取りにたっぷりの幸運を」
    ナンケタット島民の間に伝わる伝統的乾杯の音頭
    ナンケタットのクェーカー主義は「人間に対する平和主義」は継承しつつも、こうした血生臭い側面を備えていた。そして彼らの観点では「余所者」は人間の範疇に入らなかったのかもしれない。

  • 19世紀の捕鯨船員は船長がナンタケット人が「フイッシー」と呼ぶ気質、すなわち独裁的で鯨を殺すのが大好きで、素早い判断を妨げる自己不信や内省とは無縁の存在である事を望んだ。その一方で航海士はもっと人間的で社交的な役割が要求された。航海のはじめに新米水夫達を躾け「癇癪持ち」という評判を得て睨みを効かせたり、クルーの間に一体感を芽生えさせる役割だったので、しょっちゅう変わるクルーの気分を敏感に察知し、意思の疎通を図る能力が要求されたのである。
    「不幸な事に(クェーカー教徒は)怒りを表現する事を禁じられている為、それが捌け口を失って胸に溜まっていく。彼らは口では愛を唱えるが…心に抱いた恨みや悪意の為、人間が本来持つ優しさを発揮出来ないのです」
    1820年代にナンタケットから出向する捕鯨船の話を書いたウィリアム・コストック
    こう見えても仕方のない側面をナンケタットのクェーカー教徒の船主達は備えていたらしい。そしてこの問題は最近の「政治的正しさ(political correctness:PC)」問題の根本的問題点をも照明する。さらにはこれを、次々と暴力事件を引き起こす「男としての特権的地位を守るためには何をしてもいい」と考えるアメリカの一部男性が共有する特有のカルチャーの原風景と見る向きさえ存在する。

  • ナンタケットの船主達に貪欲を満たすべく船員に払う給金や食糧の蓄えを不当に切り詰めようとする傾向が強く見られたにもかかわらず、当時「クーフ」や「(黒人を含む)グリーンハンド」が引く手あまただったのは、極度の不況に陥ったアメリカ本土に職がなかったからであり、また捕鯨が過酷な職業である以上報酬を惜しむにも限度があったからであった。

③1835年、オービット・メイシーがウィリアム・コフィン・ジュニアの手を借りて「ナンタケットの歴史」を世に送り出した頃には、ナンタケットに代わってニューベッドフォードがアメリカ最大の捕鯨基地となっていました。ナンタケット砂州は、太平洋捕鯨の初期こそ多少不便を感じさせる程度に過ぎませんでしたが、今やそれが捕鯨基地としての繁栄の阻害要因として立ちはだかる様になってしまったのです。大型化した捕鯨船砂州を越える事が出来ず、積荷を全て艀に移し替えねばならないのですが、そのコストと時間が大きくのしかかってきたという訳です。

④1842年、ピーター・フォルジャー・ユアーが全長40メートルの「キャメル」を2基設計施工しました。いわば船の両側を支える巨大な翼型浮き袋で、一種の浮きドックとして機能し、積荷を満載した捕鯨船の水深を下げて砂州を越えさせるのです。しかしニューベッドフォードの港はただ単に水深が深いだけでなく新たに建設された鉄道網に近く、その程度の事では苦境は覆せませんでした。またナンケタットの捕鯨業が1940年代に急速に衰退したのは、ニューベッドフォードニューロンドンやサグハーバーを拠点とする捕鯨船北太平洋に新たな漁場を開拓したにも関わらず、過去数十年の乱獲でとっくに枯渇した漁場に執着し続けているせいでもあったのです。

⑤島内でも問題が発生していました。それまで島民を一つの家族的共同体として宗教的、文化的に束ねてきたクエーカー主義が、幾つかの対立する宗派に別れてしまったのです。1830年代から1840年代にかけて礼拝堂の数が急増しましたが、クエーカー教徒の数は逆に減少の一途を辿り、「俗物化」したナンタケットの富裕層は従来は大っぴらにするのが忌避された財力を誇示すべくメイン・ストリートに優雅な煉瓦造りの屋敷や、下見板を張ったギリシャ復興様式の大邸宅をこれみよがしに並べて建てる様になりました。そして1846年7月の大火こそ何とか乗り切ったものの、2年後の1848年にカリフォルニアで金が発見されると「楽に手に入る西部の富」の誘惑に負けた何百人ものナンタケット住民が捕鯨船の船乗りとしてのキャリアを棄て、乗客としてかつて自分達が働いていた捕鯨船に乗り込んでカリフォルニアを目指したでした。その結果、ゴールデンゲートはナンタケットの捕鯨船の墓場となりました。無数の船がクルーに棄てられ、干潟に朽ちるまま放置されたのです。
*実際には「一攫千金に成功した坑夫」など一人も現れなかった。その一方で(あれだけマックス・ウェーバーが馬鹿にした)南イタリアからの移民が彼らにオレンジ・ジュースを売って大儲けしたのである。

  • 1846年の「大火("Great Fire")」…鯨油と木材により勢いを得て、町の中心部を壊滅させ、約36エーカーを焼いた。無数のホームレスと極貧者を生み、多くの人々が島を離れた。

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⑥かくしてペンシルバニア州タイタスヴィルでエドウィン・ドレイクが石油を掘り当てた1859年を待つまでもなく、ナンタケットの経済的命運は尽きてしまいました。その後の20年で島の人口は1万人から三千人に激減。ニュー別途フォードでは1920年代に入っても捕鯨が行われていましたが、ナンタケットは1869年11月16日の捕鯨船オーク号の出港を最期に捕鯨港としての歴史を閉じたのでした。

  • 南北戦争までに、捕鯨は衰え、島は大不況に苦しんだ。島の人口は減り、20世紀半ばまで開発されず孤立したままであった。孤立の結果、南北戦争前の建物の多くが手をつけられないままとなり、1950年代までに、積極的な不動産業者が島の多くの地区を買い占め、米国北西部の裕福な人々のための高所得者向けの旅行先を創るために修復を始めた。この高度に秩序だった開発は、近隣のマーサズ・ヴィニヤードに比べることができる。マーサズ・ヴィニヤードの開発は、ナンタケットの開発業者が避けようとするモデルとなった。

  • 1956年7月25日、ナンタケットの南45マイルの濃霧の中でイタリアの遠洋定期船アンドレア・ドリア号とストックホルム号が衝突し、51人の人が亡くなった。

  • 1977年、ナンタケットとマーサズ・ヴィニヤードは、マサチューセッツ州(Commonwealth of Massachusettsが正式名称)から脱退しようと試みたが、不首尾に終わった。脱退の投票は、マサチューセッツ州憲法 (Massachusetts Constitution) を変更して州議会における島の代表の数を減らすという提案が引き起こしたものだった。

  • 1999年10月31日、エジプト航空990便は、ニューヨークからカイロへの途中、ナンタケット沖で墜落し、搭乗していた217人が亡くなった。

  • 現在は観光地となり、有名なリゾート地でもある。島の人口は、観光客と別荘を持つ人のため、夏の間は約10,000人から50,000人に増える。マサチューセッツ州で地価が最も高い地域もある。

  • 米国国立公園局は、ナンタケットとシアスコンセットの入植地に特別な配慮を示し、島全体を国立歴史地区 (National Historic District) に指定している。米国において南北戦争前の構造物が最も集中している地域の一つであるという特色を有する。

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マシュー・ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が「捕鯨船への薪水補給」を求めて日本に到着した黒船来航(1853年~1854年)の裏側では、こんなダイナミックな歴史が展開していたんですね。

それにしても展開時期といい「最初は第三者には無謀としか思えない冒険精神で成功する」「ハードルがどんどん高くなっていき、自助努力だけで乗り切ろうとした結果、どんどん景色が地獄そのものに近づいていくが当事者だけがそれに気付かない」「近代の到来によってあっけなく崩壊」という展開といい、西カリブ海の砂糖産業の盛衰そっくり。不在地主化しなかったという事は「煙草貴族」クラスの成功?

マックス・ウェーバーの観点に立つなら、ナンタケット島の捕鯨漁師達こそが、本来なら神の計画に基づいて最終的勝利を収めるべきだった「神に選ばれた清教徒的義人集団」だった事になります。それなのに近代技術を援用してその成功を模倣して横取りして彼らを滅ぼしたニューベッドフォード(New Bedford)やニューロンドン(New London)やサグハーバー(Sag Harbor)の偽善者達は、決して神から許される事のない、つまり永遠に地獄の業火で焼かれ続ける事を宿命づけられた「同情の余地など一切ない罪人=絶対悪の象徴としてのサタンの使徒」と規定されるばかりか、こうした神の絶対的裁定にほんの僅かでも良心の咎めを感じてしまう人は全員、精神的に頽廃した潜在的同類として同様の運命を宿命づけられるのです。

これこそがまさにマックス・ウェーバーが称揚したプロテスタンティズム的倫理の世界。「白鯨との戦い」著者も、もしかしたらそれを意識した上でこの本を「自分の生業は神に許されていると規定して思考停止してしまった人々を見舞った悲劇的実例の一つ」として構成したのかもしれません。既に当時の住民が現在してないからこそ、思い切って語れる真理もあります。様々な現代的問題をも代弁させる形で…

さて、私たちはいったいどちらに向けて漂流しているのでしょうか…