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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「皇帝ナポレオン」は誰が誕生させたのか?

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フランスがナチスドイツの占領下に入った時、フランス有識者は「ナポレオンの再来」と考えたそうです。「どっちの?」ではなく「どっちも」なんですね、この場合。

maash.jp

  • ナポレオン・ボナパルトは大統領はコルシカ島の貧乏貴族出身。ルイ・ナポレオンは亡命生活が長かったせいでフランス語よりドイツ語が達者だった「帰国子女」。そしてヒトラーもオーストリア人。
    *だからただのフランス人やドイツ人にはない発想が可能とも。その一方で「常に我々は手遅れになってから気づくのだ。もしかしたらこの人物は何人殺そうと自国民の様に心を痛める事はなく、かえって復讐の快感さえを得ているのかもしれない、と」なる猜疑心に満ちた指摘も。

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  • どちらも既存秩序が崩壊して密室政治が常態化したタイミングにおいてシェークスピア史劇「リチャード三世(The Tragedy of King Richard the Third、初演1591年)」ばりの「宮廷遊泳術」を駆使して成り上がった。
    宮廷遊泳術…誰をも「利用価値こそあれ、所詮は自ら大それた陰謀など企む器量もない小悪党」と安心させてしまい、粛清対象となるのを免れる能力。

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  • 当時の政局を硬直状態に追い込んでいた無限闘争状態、すなわち皇帝ナポレオンと皇帝ナポレオン三世の時代における「赤旗組(急進派共和主義者)と白旗組(王党派とカソリック勢力)の対立」、ヒトラーの時代における「大統領内閣(ワイマール政権)とレーテ派(極左勢力)とフライコール(ドイツ義勇軍)の三つ巴状態」を「調停」する才覚を備えていた。また、どの闘争も国民感情、特にブルジョワ階層と中小ブルジョワ(都市住民)の生存欲求から乖離した形で展開したが、彼らの心理的掌握にも長けていた。
    レーテ(Räte、労兵評議会ロシア革命における「ソビエト」のドイツ語訳。無数の領邦国家に分断されていた神聖ローマ帝国時代の延長線上においてスパルタカス団や革命的オップロイテといった極左無政府主義者集団に理想視された。

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    フライコール(Freikorps、ドイツ義勇軍…その中核を占めたのは就職先が見つからなかった第一次世界大戦の帰還兵。軍事力だけは正規軍の何倍もの規模を誇り、当時のドイツにおいてサン=キュロット階層がフランス革命を過激化させた様な役割を果たした。
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    ブルジョワ階層…歴史のこの段階では完全に産業資本家への転換が終わっていない点が要注意。フランスの場合は宮廷銀行家、あるいは血縁関係や既得権益において王侯貴族や教会と結ばれた素封家、ドイツの場合は(官僚や軍人の供給階層であった)ユンカー(エルベ川以北の農園領主)やライン川流域の「工業領主(「ヘル・イム・ハウゼ(Herr im Hause)」体質の財閥)」がこれに当たる。

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    調停…実際には期待だけさせてやらずぶったくりに終わる事の方が多い。

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ヒトラーナポレオン三世のケースは検分済みなので、ここでは皇帝ナポレオンの場合について見ていきたいと思います。

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 ナポレオンが台頭してきたのは、右翼も左翼も政敵を殲滅するのに容赦なく「霞弾(大砲で発射する散弾)」を用いる物騒な時代でした。支持基盤を壊滅させる為なら集落を女子供ごと焼き払うなんて極端な事まで行われています。その背景にあったのは周囲を敵国に囲まれながら経済は常に破綻スレスレという極限状態でした。

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総裁政府(Directoire、1795年11月2日〜1799年11月10日)

1793年のフランスでは、過激な政策を掲げるジャコバン派ロベスピエール派が実権を握っており、有力者を次々と死刑や海外に流刑するという恐怖政治を実施していた。しかし評判が悪くなってきたので現場で虐殺と略奪を担当してきた派遣議員の切り捨てを検討。しかし先手を打たれて自分達の方がスケープゴートとして処刑される結果を迎える(テルミドール反動、1794年7月27日)。首謀したのは「リヨン霞弾乱殺者」ジョゼフ・フーシェマルセイユトゥーロンで市民虐殺と財産没収を手掛けたポール・バラス、そして九月虐殺(Massacres de Septembre、1792年)とボルドー虐殺を手掛けたジャン=ランベール・タリアンら。ナポレオンも、バラスの配下として活躍した。
ナチスドイツでいうと、ヒトラーが「汚れ役」を担ってきたゲシュタポや親衛隊を「蜥蜴の尻尾」として切り捨て様としたら、逆に全責任を被せられ処刑された形とも。

この時権力を掌握したジャコバン穏健派や派遣議員ら既得権益層で構成された反ロベスピエール陣営をテルミドール派と呼ぶが、所詮は烏合の衆で政策上は必ずしも一致していなかった。そして次第に革命の理想を未だ燃やし続ける「革命派」と、急激な改革を嫌う「王党派(必ずしも王政復古を望んでいるわけではなく、ややもすると行き過ぎることの多い革命派に対して、古い体制を否定しないという立場)」の2派が対立する構造となっていく。


これまでの政治制度を大きく変えた。まず経済面では1794年12月24日までに輸入自由化、統制価格の撤廃が徐々になされていく。ただしそのせいで猛烈なインフレが起こって国債アッシニアの暴落を招いて総裁政府破綻の原因の一つとなった。その一方で武器商人や金融業者など資本を集める者も現れる。

1795年2月21日に政教分離原則に基づいて聖職者民事基本法が撤廃さ、信教の自由が保障された。また政府の祭式予算が撤廃された一方で、1795年5月30日には教会に祭祀が再び許された。

行政面では公安委員会の権限が軍事と外交に縮小される一方で、保安委員会が引き続き警察権を保持し続け、立法委員会が大きな権限を握った。

各委員会は毎年4分の1ずつ入れ替わり、再任されるには1ヶ月の間を置くこととされた。

 周辺国との関係

テルミドール派が政権を取ってからも、戦争はしばらく続けられた。例えば1794年9月からオランダに向けて侵攻を開始したが、内乱と財政状況の悪化で国が疲弊していた為に1795年春以降、それまで戦争状態にあった国々と講和を結んでいく。まず1795年4月5日、バーゼルの和約でプロイセン王国と比較的有利な条件で講和した。続いて5月16日にはオランダと講和を結ぶ。さらに7月22日にはスペインともフランスに有利な講和条約が締結されたのである。

しかしオーストリアとの講和には失敗して戦争が続けられ、10月1日にはベルギー併合に成功する。ただしライン川を挟んだ戦いでは敗れ、12月になってようやく停戦。しかしあくまで一時的なもので、翌年6月に戦闘は再開される。 

共和暦3年憲法の制定

1795年、革命色の強すぎる1793年憲法を修正して、共和暦3年憲法を制定。2ヶ月間議論した末の1795年8月22日、普通選挙制による採否を問う投票が行われる。投票数105万に対し、反対はわずか5千票だった。

憲法を受けて行われる最初の選挙ではテルミドール派よりも王党派の方が有利と予想されたので「退職後の議員の職が保証されていないため、新たに議員に立候補する者は少ないであろう」と主張して、国民公会から3分の2の議員を留任させる法案を提出し、憲法と合わせて採択された。この採決を受けて9月23日、新憲法が公式に発足。

これに対して各派、とりわけ王党派は選挙妨害があったしてパリで集会を開いた。1795年10月5日、これがヴァンデミエールの反乱と呼ばれる暴動に発展したため、政府はポール・バラスに事態の解決を命じた。それを受けて若きナポレオン・ボナパルトが副官として2、3千の政府軍とよく訓練された大砲隊を指揮し、軍事力に劣る反乱軍を翌日には鎮圧した。
ジャコバン派独裁期に活躍した霞弾(大砲で発射する散弾)がここでも大活躍。

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共和暦3年憲法の内容

この憲法は権力分立を旨としており、立法権、行政権、徴税権それぞれの独立が謳われた。また、条文は124条から377条にまで増やされた。

  • 選挙権に関しては、普通選挙が廃止され、一定の税を納めている者にのみ認められた。これにより、成人男子700万人のうち有権者は500万人となった。

  • 立法権は五百人会と元老会(250人)の二院制とされた。これは一院制では極端な法案がすぐに通ってしまうのを防ぐのが狙いであった。両院とも毎年3分の1が改選された。

  • 五百人会議員は25歳以上、元老会議員は40歳以上かつ既婚者または寡夫(妻と死別した人)でなければならなかった。五百人会の法案に対し、元老会には修正権が無く、拒否権のみがあった。

  • 行政権は、5人の総裁に委ねられた。任期は5年とされ、毎年1人ずつ改選されることになった。総裁は五百人会が1人のポストにつき10名の候補のりストを作り、その中から元老会が選んで決められた。選任後の総裁は議会に罷免されることはないとされた。総裁の権限は行政と外交にあり、立法権は無かった。また、各官庁の長官が総裁を補佐したが、長官は内閣や議会の一員ではなく、政府全体を動かす権限がなかった。

  • 徴税権は行政権と別途に6人の経理官に委ねられた。経理官は総裁の命令を受けることはないとされた。

  • その他、信教の自由、報道の自由職業選択の自由が保証された。一方、集会の自由は認められなかった。ただし個人、組織のいずれにも政府への請願書提出が認められた。

聖職者の中には、憲法と神に共に忠誠を誓うことに矛盾を感じるものも多く、憲法への宣誓を拒否する者(忌避僧侶)も多く現れたが、彼らの人権は制限された。

 共和暦3年憲法の実施

憲法下での初めての選挙が1795年10月20日に行われ、10月26日に国民公会は解散した。10月31日に総裁が選出された。

総裁に選ばれたのはルーベル、バラス、ラ・ルヴェリエール、カルノー、ル・トゥルヌール。バラスは貴族の出身だが残りの4人はブルジョア階級。ルーベル、バラス、ラ・ルヴェリエールの思想はジャコバン派に近く、急激な改革を好んだが、カルノーとル・トゥルヌールは、急激な改革を好まなかった。

総裁政府の苦境

総裁政府は当初から財源不足に悩まされた。国債アッシニアの暴落は止まらず、税制改革も行われたが財政は回復しなかった。1795年12月にはラメルが財務長官となり、1796年3月18日にアッシニアが廃止され、変わって土地手形が発行された。

議会の王党派は、忌避僧侶の許容、亡命者 (émigré) の親類に関する法の廃止、亡命者とその親類に対する寛容を要求したが、総裁政府はこれを拒否した。

1796年5月25日に土地公有化などを主張するバブーフ(François Noël Babeuf)が、政府転覆の陰謀を企てていたため逮捕され、翌年5月に処刑された。
*所謂「共産主義」の創始者とも。

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その一方では1793年からフランス西部で続いていたヴァンデの反乱がオッシュによって鎮圧され、1796年5月26日のフランソワ・ド・シャレットの処刑によって事実上終結した。

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そして1797年1月、総裁のラ・ルヴェリエールと、サン=ピエール、シェニエ、ドーヌーらはカトリック教会に対抗して、新宗教の敬神博愛教を始める。
敬神博愛教フランス総裁政府時代に起こった理神論の一派。ヴォルテールやルソーの影響を受けている。シュマン・デュポンテス(1761-?)が創設者。ルソーの影響を受け、神の存在と魂の不滅を信じ、「神の人間の友」であることを誇ったという。総裁政府の人員にメンバーがいたことからパリ市内の教会を借りることができ集会に利用した。共和暦10年葡萄月17日(1801年10月21日)にジャコバン派のシンパと疑われて教会の使用が禁止され、まもなく姿を消した。

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オーストリアとの戦い

1796年3月2日、ナポレオンはイタリア方面軍最高司令官に任命され、新たに部下となったミュラ、ベルティエ、マッセナ、ピエール・オージュローを従えて戦場に赴いた(イタリア遠征)。4月に開始され、連戦連勝の末、5月15日にはミラノに進駐。ナポレオンはサルデーニャ王ヴィットーリオ・アメデーオ3世と1796年5月に和解し、ニースとサヴォワを獲得し、さらにピエモンテの要塞にフランス軍の駐留を認めさせた。
*この頃からナポレオンはただの軍人の枠組みに収まらない活躍を見せる様になっていく。逆を言えば所謂シビリアンコントロールの規定から踏み出したとも。
イタリア遠征

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*この遠征に同行したネオ・ジャコバン派がイタリアに根を下ろし「秘密結社」カルボナリ(炭焼党)の歴史が始まる。

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一方、ドイツ遠征は苦戦した。1796年6月にモローはライン川を渡り、ジュールダンがケルンを占領したが、8月にはカール大公によって各個撃破されてしまったのである。


同月フランスはスペインと第2次サン・イルデフォンソ条約を結んで同盟。さらにナポレオン率いるイタリア遠征軍はこの月にナポリも制圧した。その後ナポレオンはオーストリア軍とイタリア北部で激突、11月17日にはアルコレの戦いで勝利し、1797年1月14日に勝利を決定的にした。4月18日にはレオベーンでオーストリアと仮講和条約が結ばれる。さらに10月にはオーストリアとカンポ・フォルミオ条約を結んでヴェネツィアと引き換えにイタリアロンバルディア州と南ネーデルラントを獲得した。イギリスは1797年、サン・ビセンテ岬の海戦で勝利したものの、フランスのオランダ征服を認めざるを得なかった。
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*この戦いが巡り巡ってオーストリア帝国に「海」さらには「イタリア文化への興味」をもたらすのである。

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これらの勝利はいくつかの意味を持った。まず、ナポレオンが英雄としてフランス国民の尊敬を集めた。また、占領地からフランスに送られた戦利品は総裁政府の財政をやや助けた。逆を言えばそれによってナポレオンに財政を握られた形となり、総裁政府はナポレオンを恐れ始めた。ナポレオンの強さはいちいち本国の訓令を待たずに即断することにもあり、その点でも総裁政府はナポレオンに不安を持った。

王党派の躍進

1797年3月と4月に行われた3回目の評議員選挙では、王党派が多数党となった。王党派の要望を受けて、ル・トゥルヌールが総裁から外され、代わりにカルノーと思想が近い著名外交官のバルテルミーが当てられた。総裁政府は、バラス派とバルテルミー派が対立する構図に。

議会の王党派議員は革命による急すぎる改革を嫌い、制度を旧時代に少し戻した。亡命者の親類に対する政治活動制限が無効とされ、忌避僧侶にも市民権が戻された。

 フリュクティドール18日のクーデター

総裁のバラス、ルーベル、ラ・ルヴェリエールらは巻き返しを図り、クーデターで政府から王党派を追い出すことにした。そのため、まず陰謀の得意な警視総監フーシェを仲間に引き入れた。また、議会に強い人脈を持つタレーランも外務長官の地位と引き換えに仲間にした。

1797年9月4日(共和暦フリュクティドール18日)、先にヴァンデの反乱を平定したオッシュと、ナポレオンの部下ピエール・オージュローをパリに呼び寄せ、いわゆるフリュクティドール18日のクーデターを起こした。
*ナポレオン本人が行かなかったのは、仮にクーデターが成功したとしてもバラスの政権は長くないと見て、新政権の失敗のあおりを受けることのないようにとの配慮からとされる。

クーデターは成功。選挙で選ばれた198人の代議士の当選が無効とされ、多くの著名人が逮捕された。総裁となったばかりのバルテルミーは南アメリカカイエンヌに追放され、カルノーは亡命。その後任総裁にはドゥーエーとヌフシャトーが就いた。政府要員は共和派が占め、亡命者の親類に対する法律も復活された。軍事法廷が設けられ、亡命者は有罪であるとして、フランスへの帰国を命じる判決が下された。忌避僧侶は、再び虐げられることになった。何百人もがカイエンヌ送りとなり、あるいはレ島やオレロン島の廃墟に閉じ込められた。

こうした状況を背景にラ・ルヴェリエールは自らの宗派を拡大し、多くの教会が敬神博愛教の施設に変えられた。政府は、十曜日を公的な祭礼の日として仕事を休むことを義務とし、これまで教会で行われていた日曜日の礼拝を禁じた。報道の自由は制限され、新聞は発行禁止処分、ジャーナリストは軒並み追放された。

また旧貴族全員をフランスから追放することが提案された。その案は実現されなかったが、旧貴族は外国人扱いされ、市民権を得るためには帰化する必要ができた。さらに公債の利子の3分の2は無効扱いされた。

その他の政策として、まず大蔵長官のラメルが支出切り詰め、各種支払の引き下げと凍結、間接税の復活などの政策を実施した。また、内務長官のヌフシャトーが学校や政府統計などに力を注いだ。

「名将」ルイ=ラザール・オッシュ(Louis Lazare Hoche、1768年〜1797年)死没

フランス革命期の軍人。ナポレオンの同僚にしてライバルでもあり、ナポレオン自ら「戦争の達人」と評した。

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  • 1768年、馬丁の子としてモントルイユで生まれる。1784年、16歳で兵卒として軍隊に入隊。革命勃発時には既にフランス近衛隊伍長となっていた。

  • 1789年7月14日、革命の理念と国民議会を熱烈に支持してバスティーユ襲撃では民衆側に加担。8月、フランス近衛隊の解散とともに国民衛兵隊に軍曹として入隊し、10月のヴェルサイユ行進へも参加。

  • 1792年4月に戦争が勃発すると従軍して昇進。北部戦線の攻囲戦、ネールウィンデン会戦に参加して、1793年3月に幕僚中佐に任命されるが、反革命容疑で逮捕される。 しかし証拠不充分だったことから無罪判決を勝ち取って、ダンケルク守備隊に転属。ダンケルク攻防戦において大きな武勲を上げて准将に昇進した。さらに勲功を重ねて一ヶ月後には将軍に昇進し、26歳にして軍司令官に任命される。

  • 10月に軍隊を率いてプロシア軍と戦い、カイザースラウテルンの奪取に失敗するが、体勢を立て直すと、12月にはヴルトにおいてオーストリア連合軍を叩いて彼らを撤退に追い込みライン西岸を確保した。94年、ラザール・カルノーに罷免されるが、イタリア軍司令官への栄転が決まった。

  • サン=ジュストの配下の将軍の告発によって、ニースで逮捕され、パリへ移送される。一週間前に結婚した16歳の新妻を残して、しばらく牢獄で日々を送っていたが、隣部屋となったジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと愛人関係となった。5月16日には処刑は目前だったが、テルミドールのクーデターが発生したため釈放された。

  • その後、西部方面軍への転任を受けてヴァンデの反乱鎮圧に派遣される。赴任すると寛容政策を取りヴァンデ反乱軍を瓦解に追い込んだ。1795年6月15日、イギリスの支援 で王党派部隊がキブロンに上陸すると、これを撃退して大半を捕虜にした。1796年7月までにヴァンデ地方の平定を宣言。

  • 同年、アイルランド遠征軍司令官に任命される。12月にブレスト港を出港するが暴風雨のために艦隊が散り散りになり失敗に終った。
     
  • 翌1797年2月、軍司令官に就任するとオーストリア軍を撃破して幾つか戦勝を収める。議会での王党派勢力拡張に危機感を持って、軍隊を派遣してパリを包囲。 戦争大臣への就任を要請されるが、短期間務めたあと総裁ポール・バラスの腐敗に抗議して辞職し、軍隊に戻るが体調を崩して1797年9月19日、30歳で戦地ヴェツラーで病死(毒殺説もある)。

彼が生きていたらナポレオンが軍内でただ1人頭角を現し、皇帝に即位する展開はなかったとも言われている。
*彼の最も興味深い点は「拠点を奪う為に集落を女子供ごと焼き払う」徹底的な殲滅戦ですら弱体化出来なかったヴァンデ反乱軍を寛容政策によって陥落させた点にある。もしかしたら生き延びて権力の頂点に上り詰めるべきはナポレオンでなく彼だったのかもしれない。

フランス共和国の干渉戦争

どれだけフランス内部が動揺しても、総裁政府は周辺諸国への干渉をやめなかった

  • 1797年12月、議会は将来のドイツ侵攻に備えて、国境の都市ラシュタットを占領。占領の成功は、フランスの世論に好影響を与えた。

  • 1797年12月28日、総裁政府はフランス軍司令官デュフォーが殺された報復として、ルイ=アレクサンドル・ベルティエに命じてピウス6世が治める教皇領を侵攻させ、ローマ共和国を建国。その際、ピエモンテ州を事実上フランスに併合。

これらの侵攻には略奪行為が数多く伴った。
*「フランダースの犬(A Dog of Flanders、1872年)」原作に登場する「もう一つのはルーベンスゆかりの教会」聖ヤコブ教会も、必死の策略によりナポレオン軍の略奪から逃れた歴史を有する。(その価値をイデオロギー上は否定しつつ)美術品を漁れるだけ漁っていった点ではナチスドイツ軍もフランス軍も大差なかったのである。

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ヘルヴェティア共和国(1798年4月12日〜1803年2月19日)

総裁政府はベルン獲得のため、ギヨーム=マリ=アン・ブリューヌにスイスを侵攻させた。フランス共和国軍がスイスに侵攻したのは1798年3月5日。激しい略奪も伴う猛攻にスイスの盟約者団は崩壊。4月12日にヘルヴェティア共和国の建国が宣言された。それまでのカントンの独立性の高い政治体制と封建的権利は廃止され、フランス革命の諸原理を取り入れた中央集権的な新政府が樹立された。

こうした「進歩的」政策はスイスの国情と合わず反発を招いた。ニトヴァルデンで発生した蜂起は占領軍によって鎮圧されたが、政情不安と財政問題が続き国家として機能しなかった。

1803年2月19日、ナポレオン・ボナパルトの仲裁により以前の盟約者団が復活し、中央集権的な政府は廃止された。この過程でいくつかの領域がカントンへ昇格し、憲法の規定も見直されるなど、その影響は今日でも残っている。

フロレアール22日のクーデター

1798年4月の選挙で、議会は規定改選数の3分の1だけでなく、フリュクティドールの革命で不足した議員の補充が必要となった。王党派は無力化しており、有権者の関心は低下するばかりだった。当選したのは現政権に批判的な共和派議員が多かった。

総裁政府は反対派を抑えるため、1798年5月11日(共和暦花月22日)、当選者154人中、政府に反対する106人の選挙結果を無効とする法律を強行採決した。これはフロレアール22日のクーデターと呼ばれる。そこまでしても、総裁政府と議会の関係はしっくりいかず、議会は総裁政府の腐敗と悪政の責任を追及した。

ヌフシャトーが引退し、1798年5月15日、トレヤールが総裁となったが、議会はトレヤールを支持しなかった。

計画通りだったエジプト遠征失敗

ナポレオンの功名心と、総裁政府が国民に人気のあるナポレオンを遠くに追いやりたいとの思惑が一致し、共和国軍と司令官のほとんどを引き連れてのエジプト遠征が実現した。1798年5月19日に兵5万と船舶232を率いてまずは地中海の島国マルタを目指した。6月8日にはマルタを占領し、7月1日にはエジプトのアレクサンドリアについた。近代兵器を有するフランス軍は早くも7月24日にエジプトの中心都市カイロを占領した。
ナポレオンのエジプト遠征

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戦線が広がるにつれ、軍は恒久的な人手不足となり、1798年夏、近代になって初めての国民皆兵に関する法律が可決された。その実施に反対してベルギーでは農民の反乱が起こった。この時は聖職者8000人が罪に問われて流刑されそうになったが、民衆の支援を得てほとんどが逃亡。政府の指導力が低下しており、徴兵できた兵士は極少数であった。


こうした状況の中、1798年8月1日、いわゆるナイルの海戦において、イギリスのネルソン提督がフランス海軍を大いに破った。この勝利でイギリスは地中海の制海権を決定的にし、エジプトのフランス軍は孤立した。

ナイルの海戦の勝利は、フランス周辺国の同盟を促進した。ナポリ王国、オーストリア、ロシア、トルコがイギリスと同盟し、フランス包囲網が構築される。いわゆる第二次対仏大同盟である。もっともナポリ王国のフェルディナンド4世(後の両シチリア王フェルディナンド1世)は、軽率にも同盟国が戦争準備を整える前にフランスを攻勢したため、逆に破られてシチリアに逃亡するはめになった。

次々と奪還されていくドイツとイタリアの占領地

1799年、フランス軍はフランス周辺の各戦線で敗北を続け、占領地を奪還されていった。

  • 1799年1月、フランスはさらにナポリを占領し、パルテノペア共和国を建国したがこの勝利は前線を拡大し、軍を分散させただけだった。

  • 1799年2月にイタリア戦線においてはロシアの陸軍元帥(後に総司令官)のアレクサンドル・スヴォーロフがロシア軍最高司令官に復帰。同盟国側は彼にオーストリア・ロシア連合軍を指揮を委ね、北イタリアにおけるオーストリア軍のフランス反攻が始まった。

  • 総裁政府は3月12日にオーストリアへと宣戦布告。この時点で事実上第二次対仏大同盟が成立した。ライン方面軍司令官ジュールダン率いるフランス軍は3月初旬にドイツに向けてライン川を渡河してカール大公率いるオーストリア軍と衝突しシュトックアッハの戦い(1799年3月25日)においてで敗北。ジュールダンは解任され、マッセナ将軍が新司令官となった。
    *フランス軍は4月5日から4月6日にかけて全軍をライン河の背後へ引き上げ、孤立を恐れたベルナドット監視軍も退却した。以降はこの方面は防勢を余儀なくされたが、カール大公もスイス方面こそ主戦場と判断し積極的攻勢を避けた。

  • 1799年4月17日、モロー率いるフランス軍はカッサーノ・ダッダで破れ、さらにミラノ、トリノも落とされた。そのためフランスによるイタリアの傀儡政府の権威は急落してナポリから撤退、スヴォーロフはトレッビア川の激戦(6月17日〜6月18日)で再びフランス軍を破った。イタリア方面軍司令官モローは8月までにジェノヴァへと後退。

戦争終結を目的として1798年1月19日から続いていたラシュタット会議も15ヶ月間なんの成果もなく、1799年4月にオーストリアの軽騎兵がフランス使節を殺害して終了。

プレリアール30日のクーデター

1799年3月から4月にかけての選挙で、共和派が躍進し一時的に総裁政府の権威が上がった。5月、ルーベルが引退し、後任はエマニュエル=ジョゼフ・シエイエスになった。

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シエイエスは共和暦3年憲法に反対していたが、市民の絶大な支持を受けた。総裁政府の人気が低迷していることを敏感に読み取ったシエイエスは権力を望み、憲法改正して共和派の力を抑える必要性を感じる。そしてバラスと手を組む道を選び、他の3人の総裁と距離を置き始めた。

6月16日、議会は総裁トレヤールの就任を無効とし、さらにドゥーエーとラ・ルヴェリエールをフロレアール22日のクーデターの張本人として解任を要求。結局6月18日(プレリアール30日)に認められた。これをプレリアール30日のクーデターと呼ぶ。
*シエイエスがポール・バラスの協力を得て他の現職総裁を厄介払いすることに成功したこの時点をもって総裁政府崩壊の始まりとする歴史家もいる。この日、ジャン=バティスト・トレヤールの総裁選挙上の不正が明らかになったことで、トレヤールが総裁から辞任してルイ=ジェローム・ゴイエが後任総裁となったうえ、フィリップ=アントワーヌ・メルラン・ド・ドゥーエーとルイ=マリー・ド・ラ・ルヴェリエール=レポーも総裁からの辞任を余儀なくされてジャン=フランソワ=オーギュスト・ムーラン男爵とロジェ・デュコが後任総裁となったが、3人の新総裁はほとんど有名無実であった。

1799年7月、政府は恐怖政治を真似て富裕層に大増税国債購入かの選択を迫り1億リーブルを起債した。

プレリアール派の政策

ドイツとイタリアの占領地が次々と奪還されていく中、フランスは内部混乱のために有効な手を打つことができなかった。まず財政は破綻していた。政府の反宗教方針によりフランス各州は反乱寸前だった。道路の破壊と盗賊の増加により、商流は滞った。この当時のフランスに政治的自由はなかったが、かといって独裁による政治的速断もほとんどなされなかったのである。五百人会は過激派が占め、人質法、強制借款法といった極端な法律が作られた。累進課税制も採用された。ジャコバン派が再び結成され、かって不遇の死を遂げたジャック・ルネ・エベール、ジャン=ポール・マラーの再評価が行われた。
*共振共和派は常に「背後からの一突き」を狙っている?

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この頃、シエイエスはジョゼフ・フーシェを警察担当長官に再任。フーシェは辣腕であり、ジャコバン派を解散させ、何人かのジャーナリストを追放した。シエイエスもまた、権力を強化するため、軍を利用しようとした。
*シエイエス率いる新総裁政府は、来るべき憲法改正において「頭」(シエイエス自身)に対応する「剣」(懐刀となる将軍)の確立を構想。敗戦続きのジャン・ヴィクトル・マリー・モローは適任でないと見做し、バルテルミー・カトリーヌ・ジュベールを将軍に任命して戦局を好転させるためにイタリアに派遣した。しかしノーヴィで同盟国軍のスヴォーロフと遭遇し戦闘初期に戦死。フランス軍はさらなる敗北を余儀なくされてしまう(ノーヴィの戦い、1799年8月15日)。以降ジェノヴァの生命線ともいうべきアルプス山脈南部の占領地の防衛が手薄となり、仕方なくナポレオン・ボナパルト将軍に急遽白羽の矢を立てられる事に。

しかし同盟国側もまた、自国の見栄と利益にこだわったため、決して強くはなかったのである。

  • ロシア及びオーストリアはスイスからフランスを侵略することで、一方イギリスととロシアの連合軍は、オランダを攻撃する事で合意した。

  • かくしてスイス(ヘルヴェティア共和国)方面ではロシア・オーストリア同盟軍とフランス軍が一進一退の攻防が続く。しかし第二次チューリッヒの戦い(1799年9月26日〜27日)でマッセナが同盟軍を破ると、スヴォーロフ率いるロシア軍はグラールスからイランツへのアルプス越えを行なってスイスから退却。翌年にはロシアのパーヴェル1世がフランスと和平を結び、同盟から脱落してしまう。
  • 10月にはイギリス・ロシア連合軍がオランダからの撤退を余儀なくされた。

かくしてフランス周辺での当面の脅威は無くなったが、ジャコバン派独裁政権に引き続いてフランス南部における王党派の反乱、西部諸州(主にブルターニュ、メーヌ果てはノルマンディー)における梟党(Chouannerie)の反乱(1794年〜1800年)、オルレアニストの陰謀などに脅かされ続けた総裁政府はそれでも命運を持ち直すことができなかった。

総裁政府の終焉 - ブリュメール18日のクーデター

ナポレオンはエジプトで苦戦していた。個々の戦闘では勝利を収めていたが、本国からの救援が無く、風土病に悩まされている状態では、エジプトからの撤退しかありえなかったのである。しかし地中海の制海権をイギリスに握られているため、簡単には撤退できなかった。

一方でフランス本国の政治は混乱を極めており、ナポレオンが政権に入り込むチャンスとなっていた。そこで、1799年10月9日、ナポレオンは総裁政府の命令を待たずに、軍をエジプトに残してフランス南部のフレジュに帰還。

総裁のシエイエスは法律の範囲内で事態を収めるのは不可能と判断し、ナポレオンの力を借りて一挙に政権を確立しようと考えた。1799年11月9日、クーデターは成功し、シエイエスとナポレオンは統領政府を樹立した。ここに総裁政府の時代は終わり、統領政府が建てられる。

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統領政府(Consulat、1799年11月9日〜1804年5月18日)

ブリュメール18日のクーデターで総裁政府が倒された1799年から第一帝政が成立した1804年までのフランスの政府。フランス史における当該時代を指して統領政府期(執政政府期)ともいう。この間に後世に残る諸制度が確立されたことから、歴史家のRobert B. Holtmanは当時を「全フランス史における最も重要な時代の一つ」と評している。総裁政府が廃止した間接税を復活。1800年にフランス銀行を設立して国債利子を正貨で支払うようになった。1803年、金銀複本位制に復帰。

  • 共和暦8年ブリュメール18日のクーデター(1799年11月9日)において反乱側はフランスの議会と軍の権力を一挙両得し、総裁政府の現職総裁を辞任させた。そしてブリュメール19日(1799年11月10日)の夜に元老会の残党が共和暦3年憲法を廃止したうえ、共和暦8年憲法により統領政府の政体を定めクーデターを承認。

  • この時点でクーデターの勝者は第一統領(第一執政)に就任したナポレオンではなくシエイエスとみられていた。彼こそ共和国政府の新体制の提唱者であり、それに従って新体制が敷かれるとみられていたからである。しかしナポレオンは巧妙にもシエイエスの提案の対抗馬としてピエール・クロード・フランソワ・ドヌーに新案を提唱させ、両案の対立から漁夫の利を得ようとした。

  • 新政府は、法案の起草を任務とする国務院(Conseil d'État)、専ら法案の審議を任務としてその採決はしない護民院(Tribunat)、専ら法案の採決を任務としてその審議はしない立法院(Corps législatif)という3つの議会から構成された。普通選挙は維持されたが、間接選挙により名士名簿が作成され、この名簿の中から護憲元老院(Sénat conservateur)が議員を選任する制度がとられて骨抜きにされた。行政権は任期10年の統領3人に帰属した。

  • 大選挙者(Grand Électeur)を一人選出して行政の最高権力者に据えて国家元首とするシエイエスの原案をナポレオンは拒否した。シエイエスは自らがこの要職に就くつもりであったが、ナポレオンはシエイエスを閑職に追いやることで自らが就任する統領の職権強化を進めていく。単なる対等な三頭政治の一頭でいることに満足出来ず、年々第一統領としての権力を強化していく事で他の2人の統領(ジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレスとシャルル=フランソワ・ルブラン)はもちろん議会も弱体化・従属化させていこうと目論んだのである。

  • 1800年2月7日、国民投票で新憲法が承認された。この新憲法は第一統領に全実権を掌握させ、他の2人の統領を単なる名目上の役職にとどめるものであった。公表結果によると、投票者の実に99.9%が動議に賛成した。
    *このほぼ満場一致という結果は明らかに疑わしいが、ナポレオンは実際に多数の投票者に人気があり、優勢な第二次対仏大同盟に対し無理でも凛々しく講和を申し入れ続けたこと、ヴァンデを速やかに平定したこと、統治・秩序・正義・節度の安定に関する弁舌をふるったこと等により、乱世の後にあって多くのフランス国民が自信を取り戻したのも確かである。いわば人々はナポレオンを見て、今一度フランスを統治する真の為政者が現れ、ついに有能な政府が政権を担当するようになったと感じた事実は揺るがない。

  • 人気維持の為にもナポレオンはフランス軍を再編し、翌年の攻勢に備えねばならなかった。それでシエイエス、共和国を独断専行にさせまいとする共和派、特にモロー、マッセナら軍内のライバル等を排除する必要が生じたのである。マレンゴの戦い(1800年6月14日)が接戦の末ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼーとフランソワ・エティエンヌ・ケレルマンらの救援で逆転勝利に終わったことは、ナポレオンの人気をさらに高める一方で、彼の猜疑心を後押しした。それで王党派による1800年12月24日のサン=ニケーズ街の陰謀を口実に無実の民主的共和主義者がフランス領ギアナに流刑とされ粛清される。議会は反故にされ、元老院憲法事項についての万能機関となった。

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  • 1801年2月、ホーエンリンデンの戦いにおけるモローの勝利により武装解除したオーストリアとの間でリュネヴィルの和約が調印されるとヨーロッパ大陸に平和が回復し、フランスはほぼ全イタリアを保護下に置くこととなり、民法典論争における反対派指導者は議会から粛清された。1801年の協約は、教会の利権のためではなく政策的関心のもとに立案されたものであり、国民の宗教感情を満足させることで、合憲的・民衆的教会を懐柔し、農民の心をつかみ、何より王党派から最大の武器を奪うことを可能にした。その補足規定である組織条令(Articles Organiques)は、戦友や側近の目に反動と映らないよう、明文上ではなく事実上、教会を国家への服従において再興し、その財源を没収しつつ、その国教的地位を認めるものであった。
    宗教協約/コンコルダート

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  • 英仏にフランスの同盟国スペイン・バタヴィア共和国を加えた4か国の間でアミアンの和約1802年3月25日)が結ばれると、万難を排して和約に調印したナポレオンには、和平実現に対する国家からの報酬として、任期10年の統領から終身統領となる口実がついに与えられた。いわばナポレオンはこの日ルビコン川を渡り共和暦10年憲法に始まる帝政への道を踏み出したのである。1802年8月2日(共和暦10年テルミドール14日)、ナポレオンを終身第一統領として承認するかを問う2度目の国民投票が行われ、またもや99.8%の賛成票を獲得した。

  • ナポレオンは権力を強化するにつれて、アンシャン・レジームの手法を取り入れ、専政を始めた。旧王政のように、きわめて中央集権的かつ功利的な行政官僚体系を敷き、国立大学において権威主義的かつ煩瑣なスコラ学を講じるなど、再集権化を行い、国家機関・地方自治・司法制度・財政機関・金融・法典編纂・熟練労働力の伝承等に必要な財源を改組・集約化したのである。

  • ナポレオン治下のフランスは高度の安寧秩序を謳歌し、厚生水準が向上した。たびたび飢饉に悩み、光熱が不足していたパリでは、取引が盛んになって賃金が上がると同時に、食糧が安価かつ豊富になった。ジョゼフィーヌ、タリアン夫人、ジュリエット・レカミエらのサロンには、成金の豪華絢爛な顔ぶれが並んだ。
    *女性ファッションはまさに(コルセットとパニエの)絶対王政期と(クリノリンの)皇帝ナポレオン三世時代の狭間に現れたシュミーズ・ドレスの時代。

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  • こうして国家機関を増強する中、エリート層に向けてレジオンドヌール勲章を創設し、コンコルダを締結し、間接税を復活するなど、反革命的にも見える政策も行うようになった。

  • ナポレオンは、政権の座にあってバンジャマン・コンスタンやスタール夫人らひときわ発言力のある批評家を放逐することで、反対勢力をほとんど弾圧することができた。サン=ドマング出兵では共和国軍が壊滅し、かつての戦友ナポレオンに猜疑心を抱く軍首脳も絶えず続く戦争に嫌気がさして離散していったが、モローが王党派の陰謀に連座して亡命したのを最後に、ナポレオンの権威に対する大規模な挑戦はなくなった。

反対派の元老院議員や共和派の将軍らと対比して、フランス国民の多くは、粛清への恐れもあり、ナポレオンの権威に対して無批判であった。

 アンギャン公(duc d'Enghien)事件(1804年)

ナポレオンの政権基盤がなお脆弱であったことから、フランスの王党派は、ナポレオンを拉致・暗殺すること、アンギャン公ルイ・アントワーヌ・アンリに、ルイ18世を王位に頂くブルボン復古王政の端緒となるクーデターを指導するよう要請すること等を盛り込んだ陰謀を立てた。

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  • イギリスの小ピット政権は、この王党派の陰謀に100万ポンドを資金提供し、ジョルジュ・カドゥーダルとジャン=シャルル・ピシュグリュ将軍らの一味がイギリスからフランスへ帰国する際の輸送船(中にはジョン・ウェズリー・ライト船長の艦船もあった)も提供した。1804年1月28日、ピシュグリュはナポレオン麾下の将軍の1人でかつての部下でもあるジャン・ヴィクトル・マリー・モローと面会した。翌日、Coursonと名乗るイギリスの密使が逮捕・拷問され、ピシュグリュ、モロー、カドゥーダルらが統領政府を転覆する陰謀を企てていることを自白した。フランス政府はカドゥーダルの使用人Louis Picotを逮捕・拷問し、この陰謀の詳細を捜査した。ジョアシャン・ミュラは、ピシュグリュ、モロー逮捕の翌月までの間、午後7時から翌午前6時までパリの城門を閉鎖するよう命じた。

  • 一連の検挙で、王党派の陰謀は、ブルボン家の御曹司でブルボン復古王政では王位継承者ともなりうるアンギャン公の積極的関与を予定したものであることが判明した。アンギャン公は当時フランスのエミグレとしてバーデン選帝侯国はフランス国境付近のエッテンハイムの借家に暮らしていたが、ナポレオン政権の外相タレーランと警察相フーシェらの「刺客はどこにでもいる」との警告もあってか、第一統領ナポレオンはアンギャン公を処刑すべきとの政治判断をするに至り、200人のフランス兵がバーデンの邸宅を包囲してアンギャン公を拉致した。

  • フランスへの送還中、アンギャン公は「ボナパルトもフランス国民も断じて許さない、折りさえあれば彼らに対して戦争を仕掛けてやりたい」と述べたという。

  • 3度にわたる暗殺の陰謀に加えてストラスブールでも暴動の予備があり、ナポレオンも頭を抱えていた。ドイツの邸宅での押収物や警察当局からの資料に基づき、アンギャン公は謀反を計画した罪で告発されて軍法会議にかけられ、ヴァンセンヌで大佐7人からなる法廷の審理を受けるよう命じられた。

  • アンギャン公は法廷での尋問中イギリスから年に4,200ポンドの援助を受けていることを認めたが、これについて「フランス国家ではなく当家に敵対する現政権と戦うためである」と述べた。さらに「イギリス軍に出仕を申し入れたが色よい返事を得られず、さしあたり自らの出番を作るためライン川周辺で待機する必要があり、実際そうしていただけである」とも述べた。

  • アンギャン公は1791年10月6日の法律第2条違反、すなわち「内戦により朝憲を紊乱し、市民を武装させて他の市民又は合法的権威に敵対させることを目的とする陰謀を首謀又は共謀した者は、死刑に処する」に該当するとして有罪とされ、ヴァンセンヌ城の壕の中で処刑された。

事件はフランス国内ではほとんど波紋を呼ばなかったが、国外では波乱を呼び、ナポレオンに対して好意的ないし中立的だった者も多くは敵対的になっていった。ナポレオンは処刑を許可した重責を生涯背負い続けることとなったが、自分は結局正しいことをしたのだと信じ続けていた。

第一共和政の終焉

ナポレオン暗殺の陰謀は後を絶たず、ナポレオンの死後すぐに共和政が崩壊してブルボン復古王政軍事独裁ないしジャコバン派独裁が再来するのではないかという懸念が生じ始めた。

  • フーシェはナポレオンに、世代交代を確固たるものにし死後の政変の芽を摘むため、世襲称号を創設することを提案。ナポレオンは当初そのような称号を認めることをためらったが、説得された末、その権力が神権によらず、人民の委託に基づくとすることを条件としてこれを認めた。

  • 1804年5月18日、フランスを帝政に移行させナポレオンを皇帝とする議案が元老院を通過。

そして1804年12月2日、戴冠式が挙行され、ナポレオンはフランス皇帝に戴冠し第一帝政(1804年〜1814年、1815年)が始まる。

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背後でジョゼフ・フーシェ(Joseph Fouché、1759年〜1820年)やダヴィッド(Jacques-Louis David, 1748年〜1825年)といった妖怪が蠢いています。

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まさしくナポレオン三世にとってのシャルル・ド・モルニー(Charles Auguste Louis Joseph, duc de Morny、 1811年〜1865年)とド・ペルシニー(Jean-Gilbert Victor Fialin, duc de Persigny, 1808年〜1872年)。ヒトラーにとってのパーペン(Franz Joseph Hermann Michael Maria von Papen, Erbsälzer zu Werl und Neuwerk, 1879年〜1969年)とゲッベルス(Paul Joseph Goebbels De-Paul Joseph Goebbels.oga、1897年〜1945年)。シュテファン・ツワイクはこういうタイプの人間を「政治的人間」と要約しています。むしろ彼らこそが善悪の彼岸を超越した願望を秘めたファウスト博士やフランケンシュタイン博士であり、「皇帝」や「総統」は彼らが生み出す「製品」に過ぎないのかもしれません。
*皇帝ナポレオン三世はこう言い残している。「皇后はレジティミスト、モルニーはオルレアニスト、ナポレオン公は共和主義者で、私自身は社会主義者。ボナパルティストはただ一人、ペルシニーだけだ。そして彼は狂っている!」。おそらくボナパリズム (Bonapartisme)もナチズム(Nationalsozialismus)も始めた当人にとってはそんなものなのだろう。

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その一方で、当時の資料に目を通していると一般のフランス国民の間に既に「赤旗組(急進派共和主義者)」も「白旗組(王党派およびカソリック勢)」もどっちも信じない中道意識の形成が始まっているのが見て取れます。気づかぬは当事者ばかりなり?

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ナチスドイツ台頭期にも「大統領内閣(役立たずのワイマール政権)もレーテ主義(ソビエト連邦樹立を目指す極左)もフライコール(ドイツ帝国再建を目指す右翼)も信じられない」雰囲気は漂っていました。当時のインテリ層は庶民の「ビーダーマイヤー(Biedermeier)気質(余計な心配事は全て軍人と官僚に押しつけて小市民的享楽を追求する態度)」を弾劾しましたが、それはそれで何か重要な配慮が欠けていた様な気がします。ゲッベルスの様な気の利かせ方が正解だったかどうかはともかくとして。

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ここで最後にして最大のファクターとして浮上してくるのが「自分の生活を良くしてくれそうか?」なる小市民的感覚なのかもしれません。それと、おそらく表裏一体の関係にある「詐欺に乗せられ難い情報リテラシー」。現時点ではまだまだ物凄く抽象的な表現しか出来ませんが…