諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「あと十年は戦える」中国共産党やベトナム共産党の謎?

一瞬「何このTAMIYAのプラモデルみたいなポージング?」と思ってしまいました。
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どうやら中国共産党一党独裁体制はまだまだしばらく続く様です。

ベトナム共産党もそれなりの安定性を誇っている様です。
ベトナム 共産党

 ところで以前の投稿で、これらの国々はもはや共産主義国というより(初めて産業革命の本格導入に成功した)フランス第二帝政(1852年〜1870年)みたいな「開発独裁体制」に移行済なんじゃないかと指摘しました。そのフランスでさえ共和制への移行には以下の三条件が揃っていなければならなかったとも。

フランスの共和制への移行を可能とした諸条件は以下。

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①皇帝の自滅的退位…皇帝ナポレオン三世が戦争下手のくせに(叔父のナポレオン・ボナパルトへの憧憬心から)大の戦争好きで普仏戦争(1870年〜1871年)に際してもセダンの戦いに親征して大敗。自らも捕虜となり退位に追い込まれる。
プロシア参謀本部~モルトケの功罪 - セダンの戦い/司令官交代

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②王党派の自滅…しかしながら、当時烏合の衆化していた王党派の意見は分裂。せっかくの政権奪取の最後の機会だったというのに代表が立てられなかった。
*より厳密にいうと「スペイン・ブルボン家の王族を推すレジティミスト(正統派)」と「(2月/3月革命で亡命を余儀なくされた)オルレアン家ルイ・フィリップ1世の一族を推すオルレアニスト(オルレアン派)」と「(ナポレオン3世の皇太子であったナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(ナポレオン4世)を推すボナパルティスト」の意見調整の結果選ばれたレジティミスト(正統派)の推すシャンボール伯アンリが頑迷で「(共和制の象徴たる)三色旗の放棄と(復古王政の象徴たる)白旗の復活」に執着して即位を拒絶。国民からの支持を受ける可能性を失ってしまったのだった。

パリ・コミューンの殲滅産業革命導入が軌道に乗った第二帝政下では新興産業階層育成が順調に進行しており、しかも(フランス革命勃発の遠因の一つとなった)既存特権階層が彼らの参入を拒む空気も醸成されていなかった。むしろ彼らの撲滅を叫んでいたのは(急進共和派の象徴たる)赤旗を掲げるパリ・コミューンだったが、短期間で殲滅された為にその構想が実践される事はなかったのである。
*こうして漁夫の利を得る形で「権力に到達したブルジョワジー、あるいはニ百家(政治的エリート階層となったフランスのブルジョワ=インテリ階層)による寡占支配」の時代が始まる。以降もフランスの急進左派が革新的立場を維持し続けるのは皮肉にも「どんなに頑張っても彼らには勝てない」負け犬状態が続くせいとも。

ベネディクト・アンダーソンは「想像の共同体(Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism、1983年)」の中で「実際にアメリカやフランスで何があったのかなど関係ない。「市民革命は可能」という意識が世界じゅうに浸透したのが以降の歴史にとっては重要だった」と述べています。しかしながら、幾らなんでもさすがに「理想が現実の真逆」はやり過ぎだったのでは?
*この問題の元凶が「皇帝ナポレオン三世など馬鹿で愚かなだけで後世に何も残さなかった。本当に歴史に残るのはパリ・コミューンの偉業」なるプロパガンダ展開に成功したカール・マルクスなのは言うまでもない?

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江戸幕藩体制の限界を悟った徳川慶喜なくして明治維新なし」「軍人大統領制の限界を悟った盧泰愚大統領なくして韓国の民主化なし」ともいいます。中国共産党ベトナム共産党も、内部から「全部ぶち壊す大馬鹿」か「政権交代に理解ある権力者」が現れるまでは安泰とも?