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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【国民と臣民と市民の違い】ならば「インテリ」とは「リベラル」とは一体何者なのか?

未来を花束にして

 これまでの投稿を振り返って「国民」と「臣民」と「市民」の概念がごっちゃになってる事に気付きました。そもそもこの三者の厳密な区分って何?

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「国民」とはフランス革命によって成立する概念であり、感情である。小難し言い方で定義するなら「等質性を持った人々が、自己を国家と同一視する事によって生まれる抽象的単一体」という事になる。

臣民(subject) - Wikipedia

君主国において、君主に支配される者としての人民を指す語。

  • 中国文化及び儒学においては、臣と民は全く異なる存在であった。「臣」とは朝廷に仕える士大夫即ち政府高官であり、「民」とは朝廷に統治される民衆であって、皇帝は臣の輔弼のもとに民を統治するものとされた。そのため、行動様式も倫理も、臣と民では根本的に異なっていた。例えば、国家が滅んだ際、民が新国家の民となるのは普通のことであったが、臣がそれを行うと「弐臣」として厳しく批判された。
    朱子学の誕生した宋朝(960年〜1279年)代に入ってなお、この原理原則はそのままだった。そしてモンゴル帝国(1206年〜1634年)や清朝1616年〜1644年〜1912年)や中央アジアのテュルク / タジーク制において「臣」となる事は「民」を裏切り、異民族支配者に奉仕する事を意味した。そして間に栄えた明朝(1368年〜1644年)においては、秦(紀元前778年〜紀元前206年)が中国統一に用いた法治原理「律令」と、モンゴル帝国が残したテュルク / タジーク制と、科挙制度の融合が進行し、結果として「異民族王朝」清を迎え入れる準備が整えられたのだった。そして中国共産党もまた、当初は「臣(中国共産党人民解放軍)」と「民(それ以外の一般中国人)」の分裂状態からスタートしたが、2004年における「和諧社会」宣言はこの状態を克服しようという試みに他ならない。

    律令」体制秦朝のそれもまた、アケメネス朝(紀元前550年〜紀元前330年)やクシャーナ朝(1世紀〜3世紀)やササン朝(226年〜651年)といった「中央アジアの多民族帝国」の統治バリエーションの一つに過ぎなかった。日本にも「唐」が伝来して古代的分裂状態からの脱却に大いに役立ったし、近代法の時代に入るまでは「明」や「清」の差分吸収につとめている。「日韓併合」が比較的スムーズに進行したのも、朝鮮王朝(1392年から1910年)もまた律令国家で、現地に送り込まれた行政官がちゃんと先例に配慮しながら土地訴訟などを迅速に捌いたからといわれている。また同時に大日本帝国は「鴨緑江より向こう側には律令は通用しない」という恐るべき現実に直面する事になる。

    テュルク / タジーク制…軍事力に秀でたテュルク系の騎馬民族が次々と政権交代していく一方、在地有力者にして官僚供給階層でもあるタジーク(ペルシャ系)が行政の実務を担うシステム。イブン・ハルドゥーン(1332年~1406年)の「都市-辺境」循環論の起源でもある。

    *(ヴェネツィアとの交易を経てレパント交易の旨味を最初に知った)セルジューク朝(1038年〜1308年)もそのバリエーションの一つに過ぎなかったが、後継国家となったオスマン帝国(1299年〜1922年、レパント交易独占に成功)においては17世紀後半以降、徴税権売買による地方分権化の進行と合わせて商業分野のギリシャ人独占、軍事と官僚の分野におけるアルメニア人独占が進行(ちなみにオスマン帝国を模倣したワラキア公国ではギリシャ人が商業と軍事と官僚を全て独占)。軍事力の主体が「絶対君主に忠誠を誓う騎馬軍団」から「陣地を構築して銃砲や大砲で敵を殲滅する常備軍」に推移するにつれて国家そのものが麻痺状態に陥っていく。こうした状況に止めを刺したのが「負け組」となったユダヤ商人(セファルディム)の私財と商業ノウハウの欧州流出だった。

    そもそもの皮肉は「ヴェネツィアオスマン帝国によるレパント交易独占」こそがポルトガルによるアフリカ十字軍を発端とする大航海時代、すなわち欧州経済中心地の地中海沿岸地域から大西洋沿岸地域への変遷を招いた点にあったというべきかもしれない。

    イングランドは新興ジェントリー階層を「王国の藩屏」として取り込む事に成功したが、フランスは既得権益護持に執着する帯剣貴族や法服貴族階層と新興産業階層の利害不一致が表面化してフランス革命(1787年〜1789年〜1799年)が勃発してしまう。そしてイングランドとフランスはナポレオン戦争(1803年〜1815年)の時代を経て「臣と民の時代」から「臣民の時代」への最初のパラダイム・シフトを経験する事になったのだった。

    *ちなみに歴史のこの時点(19世紀前半)におけるドイツ語権はあくまで周回遅れ。それはプロイセン中心にヘーゲル哲学がイニチアシブを握る様になっていく一方、庶民の間では反理想主義的で、個人主義的で、享楽的なビーダーマイヤー文化( Biedermeier)が栄えた辺りによく表れている。とはいえドイツ庶民は伝統的に「官僚や軍人の権威主義的命令に絶対服従する精神」なら継承してきたのであり、その意味でこの二つの方向性に矛盾はなかったとも見て取れる。

    678夜『ビーダーマイヤー時代』マックス・フォン・ベーン|松岡正剛の千夜千冊

  • ヨーロッパの歴史においては臣民の呼称は封建主義から絶対王政へ移る中での近代国民国家形成の重要な意味を持っている。封建主義時代のヨーロッパは身分制のもとにあって身分別特権があり、法的にも社会的にも様々な不平等が存在したが、絶対王政期には国王は特権をとりわけ多く保有する貴族と教会に対して君主権力の絶対性・無制約性(国家主権)を主張することでこれを剥奪した。これによって君主以外のすべての者は君主の臣民として平等化されていった。すなわち臣民とは国民形成の第一段階を成すものだった。
    *だが実際の絶対王政は案外「複数の伝統的政治勢力(社団)が大貴族連合に対抗すべく国王を調停者として抜擢する場面」から始まり、「国王の一人勝ち確定=全国民の憎悪を一身に集めての革命勃発」となるジレンマとの戦いに終始してきた。
    絶対王政/絶対主義
    *フランスにおいてすらこの抗争は2月/3月革命(1848年〜1849年)を経てなお「守旧派」の暗躍は続き、「二百家」あるいは「権力に到達したブルジョワジー(bougeoisie au pouvoir)」と呼ばれるインテリ=ブルジョワ階層が最終勝者となるまで続いたのだった。

    *ドイツ語圏の対応はさらに悲壮。まずハプスブルグ帝国(オーストリアハンガリー二重帝国)は、ロシア帝国オスマン帝国同様、さらに周回遅れとなる道を選んでいる。

    *逆にイタリア王国ドイツ帝国はイギリスやフランスに追いつこうとした。

    カール・マルクスが「ヘーゲル哲学に対する反逆者」だったとしたら、、その精神の忠実な継承者は「鉄血宰相(Eiserner Kanzler)」ビスマルク(Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck-Schönhausen、1815年〜1898年)だったといえよう。

    要するにビスマルクナポレオン戦争を通じて「臣と民の分裂状態」から「臣民体制」への移行を成功させたフランツイギリスの先例に学び、「国民に絶えず誰が敵か吹き込み続け、実際に攻撃させ続ける」戦略を選択したのだった。そして第一次世界大戦(1914年〜1918年)勃発の遠因の一つとなったこの選択を、後世の人間は「魔法使いの弟子」に例える事になる。

  • 日本においても身分制を基礎とした江戸時代が終わって近代に入ると大日本帝国憲法第18条において「日本臣民タルノ要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ル」と定められ、天皇と皇族以外の国民を指す語として使用されるようになった。官僚であれ民衆であれ、同じく天皇に従属すべき者として「臣民」という名称が用いられた。皇族でも軍人としては「臣民」であるとされ、現役海軍将校だった頃の高松宮宣仁親王が、紀元二千六百年式典の際に「臣・宣仁」と称した例がある。戦後になると、日本国憲法国民主権の建前からこの表現を公的に使用するのは避けられるようになった。私的に用いられることも極めて稀で、吉田茂昭和天皇に対し「臣・茂」と称した程度。
    *日本においては「精神面における臣民化」は概ね平安時代(794年〜1185年/1192年)までに達成したが(公家と武家勢力争いがダラダラと続いたせいで)これに政令体制としての実態が伴ったのは元禄時代(1688年〜1704年)の頃とされる。

    *だから「大政奉還(1867年)」「廃藩置県(1871年)」「藩債処分(1972年)」「秩禄処分(1976年)」がスムーズに進行した事そのものには何ら不思議はない。とはいえ歴史のその時点においても「(欧州における教会中心主義と各国の王権の対立めいた)朝廷と幕府の二元体制」の残滓は強烈な形で残っていた。一方は「薩長幕府に切り捨てられた不平士族の怨恨」という形で。もう一方は「(戦前労農派が接近を図った)天皇のみを上に仰ぐ社稷的無政府主義」という形で。

    労農派 - Wikipedia

    93夜『権藤成卿』滝沢誠|松岡正剛の千夜千冊

    日露戦争がおこってポーツマス条約が結ばれると、明治政府は朝鮮統監府を設置、伊藤博文が初代統監となった。

    このとき伊藤は内田良平と矢上錦山を統監府嘱託にして京城におもむいている。このことを助言したのは玄洋社杉山茂丸だった。ここには、やがていっさいの厄災の元凶となる日韓合邦運動が芽生えていた。この密かな運動計画は、一進会の財団結成とともにしだいに濃いものになっていく。

    そのシナリオには、日韓合邦が成就した暁には、一進会100万の会員を率いて満州移住を実現し、やがておこるであろう“支那革命”に乗じて満州独立をかちとろうということが書きこまれていた。これはのちの昭和になって肥大する“東亜連邦構想”の第一歩にあたる。ロシアの極東進出を阻むシナリオがそこに下敷きになっていた。

    またここには奇妙な「鳳の国」構想というものも描かれていた。「鳳の国」というのは大高麗国建設の夢ともいうべき破天荒なもので、古代の沿海州勢力をはっていた扶余族の版図をふたたび蘇らせようというものである。そんな天一坊めいた計画もあったのである(ここにはのちの五族協和大東亜共栄圏の骨格もあらわれている)。

    しかし、当時はこれらの奇々怪々の構想には、黄興も孫文も、かれらを支援した宮崎滔天松永安左衛門も、さらには康有為も梁啓超も、また犬養毅も柏原文太郎も賛同していた。熱心だった。ようするに当時のアジア主義者の大半がこの構想の裡にあったのである。 

    1201夜『アナーキズム』浅羽通明|松岡正剛の千夜千冊

    大正生命主義というのは、大杉栄の「生の充実」を基台に、そこへさらに、三宅雪嶺の真善美主義による宇宙観、クロポトキンの相互扶助論、ベルクソンの「生命の飛躍」(エラン・ヴィタル)にもとづく創造的進化論、平塚雷鳥岡本かの子の生命主義っぽいフェミニズム、さらには岩野泡鳴の神秘的半獣主義や白樺派の思想などなどをまぜこぜにして、資本主義的な「利害追求の自由」を求める傾向に対して、断乎として反論したいという、やむにやまれぬ生命観にもとづいて噴出してきた思想動向のことをいう。ただし、全体としての理論的なまとまりはまったくなく、中心的人物もいない。

    しかし、大正期がこうした「生命主義」や、本書にも『ナショナリズム』にもとりあげられていないが、田中智学や北一輝石原莞爾に噴出した「日蓮主義」などによって、かなり激越なものを沸騰させていたことは事実で、そこに汎アナーキズムともいうべき風潮との連動があったことは否めない。

    生命主義は、どこかで田園や稲作にも結びつく。また農村共同体の自治主義にも結びつく。こうして浅羽君が選んだ4冊目は、滝沢誠の『権藤成卿』になる。どういう人物かは「千夜千冊」93夜に詳しく書いたのでここでは説明を省くけれど、なかなか複雑な人物だ。本書でも「社稷(しゃしょく)あるいは自治アナーキズム」として扱う一方、橘孝三郎農本主義や樽井藤吉・橘樸(たちばな・しらき)のアジア主義的合邦論と関係づけている。「社稷あるいは自治アナーキズム」はまた、伊藤野枝が提案していた「十数件ごとの組合、六つの組合からなる聯合」という発想にも、また石川三四郎の「土民生活」とも関連する。

    このような農本的で土民的なアナーキズムは、もとをさかのぼっていくと、朝鮮半島花郎による弥勒信仰や、日本では桃山時代から流行した弥勒下生による「ミロクの世」を待望した、一種の弥勒浄土現実論とも結びつく。6冊目として選ばれた宮田登の『ミロク信仰の研究』は、そうした“日本の千年王国運動”がどこまでアナーキズムっぽいのかを検討した。

    9冊目に松本零士の『宇宙海賊キャプテンハーロック』が選ばれたのは、意外だった。ぼくは松本マンガはまったく読んでこなかったし、実はアニメ『宇宙戦艦ヤマト』も一度として一回分の放映すら見なかったので、いったいどうして松本マンガがアナーキズムの“名著”に入るのか、さっぱり見当がつかないのだ。

    浅羽君によれば、『宇宙戦艦ヤマト』というのは、人類を破滅から救うための決死の任務を担う戦士らの使命感を、大日本帝国ナショナリズムと重ねて描いたものだという。そこには「公」への献身と自己犠牲の賛美があって、それが戦後教育の「個のおすすめ」に対する反論だったらしい。もっとも、アニメがそうなったのはプロデューサー西崎義展の意図で、松本の原作にはそこまで描かれていなかったとも言う。

    それが『宇宙海賊キャプテンハーロック』では、松本と監督りんたろうと脚本家上原正三によって、無気力な地球人を見放してでも、あえて決戦で散っていくキャプテンや副長の精神と行動が描かれていくことになったらしい。そしてそれは、かつて福田善之が『真田風雲録』で、60年安保の全学連の闘士たちの姿を、豊臣の滅亡をものともせずに散っていった、かの真田十勇士の姿に重ねたものと匹敵するというのである。

    ぼくも福田の『真田風雲録』や『袴垂れはどこだ』は、当時衝撃をおぼえた舞台だったので、浅羽君が言いたいことの半分はわかるのだが、なにしろ松本アニメを知らないので、これ以上のことは判定がつかない。ましてアナーキズムとの関連も、よく見えない。

    けれども、『真田風雲録』と『宇宙海賊キャプテンハーロック』とのあいだの15年間で、日本が徹頭徹尾に「プチ個人主義」に向かってしまったことの理由を問おうとすると、そしてそれがあるとき『キャプテンハーロック』や大友克洋・矢作俊作の『気分はもう戦争』になったことを説明しようとすると、このアニメの意味を浮上させるしかないらしい。

    その15年間で何が日本におこったかといえば、70年代にはオイルショックチープシックと「シラケ世代」が、80年代にはポストモダン思想とジャパンバッシングと「新人類」が、90年代はレーガノミックスとMBAの君臨と「おたく」と「引きこもり」がおこった。そしてバブルが崩壊した。

    そんななか、もし21世紀のアナーキズムがあるとすれば、その方向は『AKIRA』や『新世紀エヴァンゲリオン』のほうにはみ出していたのではないか。短絡すれば、そういうことなのである。

    *この著作において「宇宙海賊キャプテンハーロック」が大きく取り上げられているのは、この作品で活写される「誰も参加を強制される事はない」「自分が納得が行く時だけ戦えば良い」「ただし一度アルカディア号に乗った(無政府主義者となった)以上、ハーロック船長の許可がない限り船を降りられない(無政府主義者としての看板を下ろせない」という三原則がアナキズムの本質を突いているからとされている。案外、遠藤周作の「何度裏切っても寄り添い続けるイエス・キリスト像」に通じる部分が少なくない何かなのである。晩年のクロポトキンソ連体制下で地方行政に専念した逸話なんて、まさしく「沈黙(1966年)」そのもの。

  • イギリスでは「イギリス臣民(British subject)」は現在も公的に国民を指す語として使用され続けている表現である。イギリス国民は「王の臣民=王の保護と臣民の忠誠」という概念のもとにある。
    *まぁ「名探偵シャーロック・ホームズ」や「007」の世界である。一見影響は希薄な様に見えるが、ハリーポッター・シリーズやスティングの歌詞の世界にもその投影は見て取れる。

ちなみに日本では昭和期、皇道派軍人が「大日本帝国とは(皇族の家父長でもある)天皇ただ一人を市民とする共和制である」という奇妙な表現を用いている。ここでいう「市民」は「主権者」といった意味合いで、案外「絶対王政とは何か」という問いに対する日本人に理解可能な一側面について正しく言い当てていたのかもしれない。
皇道派 - Wikipedia

名前の由来は、理論的な指導者と目される荒木貞夫が日本軍を「皇軍」と呼び、政財界(皇道派の理屈では「君側の奸」)を排除して天皇親政による国家改造を説いたことによる。

永田によれば陸軍には荒木貞夫と真崎を頭首とする「皇道派」があるのみで「統制派」たる派閥は存在しないという。皇道派メンバーを上原勇作が支援していた経緯から、旧薩摩閥も多かったとされる。

皇道派が全盛期の時代、つまり荒木が陸軍大臣に就任した犬養内閣時に陸軍内の主導権を握ると、三月事件、十月事件の首謀者、皇道派に反する者に対して露骨な派閥人事を行い、左遷されたり疎外された者らは反皇道派として団結するようになりを中央から退けたが、この処置が露骨な皇道派優遇人事として多くの中堅幕僚層の反発を招き、同じく皇道派に敵対する永田が、自らの意志と関わりなく、周囲の人間から勝手に皇道派に対する統制派なる派閥の頭領にさせられていったのである。

これら非皇道派の中堅幕僚層は、後に永田鉄山東條英機を中心に統制派として纏まり、陸軍中枢部から皇道派は排除されていくことになる。

両派の路線対立はこの後も続くが、軍中央を押さえた統制派に対して、皇道派は若手将校による過激な暴発事件(相沢事件や二・二六事件など)を引き起こして衰退。

封建社会

ジャック・ル・ゴフ/川崎万里訳『子どもたちに語るヨーロッパ史/子どもたちに語る中世』2009 ちくま学芸文庫 p.197

なぜ中世社会を<封建制>とよぶのでしょうか。<封建制>という語は、この社会が<領主>によって支配され、領主は部下である<臣下>をもち、臣下に収入をもたらす土地<封土>を分封(<貸与>といってもよいでしょう)するところからきています。この語の示す社会システムについて、18世紀の哲学者やフランス革命時の人々は、権力者や裕福な者たちが民衆、農民、<庶民>を抑圧するものだといって、嫌悪し、否定しました。このイメージが<中世>にへばりついています。
*そもそも「封建制(heudalism)」の概念自体に(建前上、全ての国民が直接国王の臣民となった)絶対王政期や(全ての国民が市民となったフランス革命期から振り返っての「後進的」というレッテル貼に由来する側面があるという事。まぁ、ここで貶められているのは連邦諸侯化した神聖ローマ帝国、再版農奴制によって農民が貴族の私有財産扱いされているロシア帝国や東欧諸国などであった。

ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義(Liebe, Luxus und Kapitalismus、1912年)」

個人が個人を超えて持続する共同体から一人抜け出した時、初めてその個人の生涯がおのれの享楽の尺度となった。個人はおのれ自信が、事物の変化から出来るだけ多くの体験を得ようと欲する様になった。王でさえ己自身になりきり、自らが建てた宮殿に住みたいと欲する様になったのである。

そして同時進行で(それまで貴族が精神的自立を勝ち取る手段として修身してきた)功利主義が世に広まっていき「古典的自由主義」成立の契機となる訳です。

市民(Citizen) - Wikipedia

政治的共同体である市及び都市においての構成員。個々の人間を指す場合と、人間集団をまとめて指す場合とがある。構成員全員が主権者であることが前提となっている議論では、構成員を主権者として見たもの(現代社会について述べるときはこの意味合いのことが多い)。政治的共同体とは、語源的に都市を指している(citizenとcityは同語源である)。
*ある意味欧州がヴァイキング(北欧諸族の略奪遠征)とマジャール人の侵攻によって「シテ島を守るフランスのパリ伯」「神聖ローマ帝国最初の王統となるザクセン辺境伯」「ブリテン島ウェセックス王」だけになった10世紀初頭の状況まで遡るとも。

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  • 古代の共和制都市国家における自由市民古代ギリシアのπόλις ポリスや、共和制古代ローマにおける男性の自由市民は、政治に参画するとともに、兵士として共同体の防衛義務を果たした。彼らは都市国家の住民として「市民」と呼ばれた。(ラテン語で civitas)。ポリスはしばしば3種の住民に分割され、最高の階級は、参政権を所持している市民である。次に、参政権のない市民、最後に非市民がいた。投票権を持っていたのはたとえば民主制アテナイでも、自由市民のうち成人男性のみであった。また各ポリスはいくつかの部族かデモス(区、胞族と最終的には氏族で順に構成された)から構成された。メトイコイ(在留外国人)と奴隷は、このような組織には入っていなかった。市民権は生まれにより通常決定された。各ポリスは崇拝する守護神、特有の祭儀及び習慣を持っていた。

  • 中世ヨーロッパ都市における富裕な商工業者としての都市住民、ブルジョワ(Bourgeois)…市民と訳されるブルジョワは、城壁(ブール)に囲まれた都市に住む住民に由来している。20世紀の共産主義思想の下で産業資本家を指す言葉に転化し、共産主義者の間では概ね蔑称として用いられた。

  • フランス革命以後の政治的主体としての市民、シトワイヤン(citoyen)ブルジョワが経済階級、あるいは身分としての側面を強く持っていたのに対し、シトワイヤンは階級性を排除した、抽象的な市民概念である。ただし、カール・マルクスによれば、このシトワイヤンの実態とはブルジョワであり、プロレタリアート(下層労働者)は入っていなかった。

  • ローマ市民権」や「アメリカ合衆国の市民権」…市民権(citizenship)は、市民革命を背景にした国や多民族国家では国籍と同義で使われることもあるが、通常は法的な権利と義務との関わり、なかんずく参政権を指して用いられる。公民権と呼ばれることもある。国籍と区別して用いられる場合は、その所属する国家内における市民たる資格を意味し、国籍が他国との関係で問題になるのに対し、市民権は国内問題として扱われる。国内で市民権を持つ者と持たない者を区別する場合は、参政権が完全である者か否かで区別することが多い。日本は参政権の有無で国民(市民)を分ける法制を採っていないが、国籍法に「日本国民たる要件」があるように、国籍が国民(市民)であることと関係している。又、比喩表現として、世間からの公認を比喩的に「市民権」と呼び、特殊または希少な物が広く容認されて一般化することを「市民権を得る」というように使用される。

  • コスモポリタン世界市民地球市民…シノペのディオゲネスは、既存の国家(ポリス)を超越した世界政府を構想した。その世界政府の国民がコスモポリタンである。この思想はストア派を介して近代にも受け継がれた。イマヌエル・カントは歴史の終極としての世界政府の理念を論じ、その現実的な不可能性を認めはするものの、現実に有効な法としての世界市民法の可能性を論じた。彼の世界市民法の具体的な内容は、世界市民として現状の各国の市民(国民の意)は相互に訪問権を認められるべきであるといったものである。

科学的マルクス主義は「人間の国家体制からの精神的・経済的自立」を絶対悪視する方向に発展したが、皮肉にも元来のマルクス思想はまさにそうした拘束状態からの人間解放を目論む内容だった。その精神は「暴力論(Réflexions sur la violence、1908年)」のジョルジュ・ソレルにおいては「アナルコ・サンディカリスム(無政府主義と労働組合運動との結合)」に、「〈帝国〉――グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性(2003年)」のアントニオ・ネグリにおいては「(ある種のコスモポリタンとしての)マルチチュード」に継承される展開となる。
1029夜『構成的権力』アントニオ・ネグリ|松岡正剛の千夜千冊

どうやら「市民=精神的・経済的に自立した状態」という概念が人によっては「無政府主義」を連想して嫌悪感を感じたりするのが状況を複雑にしている様です。
ogatopreto

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実際、カール・マンハイム保守主義的思考(Das konservative Denken、1927年)」もまた、保守主義的思考が最終的にヘーゲル哲学の様な「絶対王政下における各臣民の質的自由(それぞれの個人の発展可能性に応じて割り振られるのであって、決して平等ではない)」という考え方に行き着いたのは(大貴族連合の様な)王権に対する反逆者が台頭する可能性を排除する為と述べています。

1930年代に軍国主義者と社会主義者が口を揃えて「(現実直視から逃避せんとする)小市民映画」を攻撃した逸話を思い出します。そもそも両者の源流は同じとも。

*どどのつまり共産主義軍国主義も最後は「最終戦争論」に到達してしまう。

そしてアメリカにおいては、また異なる美学が育ちます。

各務三郎「ハードボイルドの探偵たち」序文

ハードボイルド小説とはなにか?――非情で簡潔な文体に与えられた小説を指すのか、非情な主人公の活躍する小説を指すのか、それともこの二つの異なった要素を充足させる小説一般を指すのだろうか?……だが、ミステリーの世界にかぎっていえば、次のことが観察できるのではないだろうか?

  • かつてシャーロック・ホームズは、ピストルの弾丸を居間の壁にぶちこみVR(ヴィクトリア女王治世)を言祝いだ。なぜなら、ホームズはなによりもまず臣民(サブジェクト)であったからである。国家への忠誠心は、おのれの信条より上位に置かれていたのだ。

  • ハメットがしがない私立探偵サミュエル・スペードに課した意識――それは市民(シチズン)としてのありかただった(小説の主人公の意識・行動が個人主義に律せられている)。おのれの信条を第一とし、友誼を重んじ、仕事を愛した私立探偵にとって、警察当局の権威がなにほどのものでもなかったことは当然の帰結である。

ハメット以前の探偵小説と作中の探偵たちはヨーロッパの影響下にあり、有閑階級に属している。しかし虚構のアメリカ私立探偵たちは、西部の拳銃使いにその源を発している。法のとどかぬ地域社会にあって、国家権力は拳銃使いにとって生活上対立することはあっても、味方には決してなり得なかった。信用できるのは小さな地域社会(これは自警団に直結する)とおのれの信条などである。

ハーラン・エリスン「「悔い改めよ、ハーレクィン!」とチクタクマンはいった(“Repent,Harlequin!”SaidtheTicktockman、1966年、ヒューゴー賞短編小説部門、ネビュラ賞短編小説部門を受賞)」におけるヘンリー・デイヴィッド・ソーロー「市民としての反抗(Resistance to Civil Government, 1849年)」からの引用

大多数の人びとはこのように、人であることを二の次に、むしろ機械として、肉体をもって国家に奉仕している。常備兵、国民兵、看守、警官、州民兵などがそうである。ほとんどの場合、彼らには思慮分別分別または道義心から出た自由な職務の遂行というものはなく、みずから木石なみの地位に満足している。木製の人間でも、おそらく充分その目的を果たすにちがいない。これでは、藁人形や一塊の泥ほどの尊敬も集めることができないばかりか、馬や犬と同じ種類の値打しか持たない。しかし世間では普通これらの人間が良き市民と見なされているのだ。

それ以外のもの――たとえば立法者、政治家、法律家、大臣、公務員の多く――は主に頭脳で国家に奉仕する。しかし道義的な判断に疎いため、意図しないまま悪魔を神と信じて奉仕する危険が大きい。ごく少数だが、人として、あるいは大きな意味での英雄、愛国者、殉難者、改革者として、良心もあわせもって国家に奉仕するものもいる。しかし性格上必然的に国家の方針に反発する場合が多く、そのため通例、国家の敵という貼り紙を押されてしまうのである。

さらに無政府主義スレスレ。その一方で、その「等質性」については、こんな考え方もあります。

近代社会は、生まれではなく功績によってその人の評価が決まるという原則に基づいている。この原則を実質化するためには、法律によって外的に規制するだけでなく、家庭で子供に男女の同権感覚を育ませる必要がある。これは彼が大人になったのち、他者を一個の人格として承認するために必要な素養だ。

だから、実際に男女で真の権利的平等が実現するには相当の時間がかかるが、そうしたプロセスによってこそ、近代社会の正当性である「自由」は空文化せず、実質的なものとなるのだ。

公教育の原理」を著したコンドルセは「公教育の父」とされる。

  • 法律さえ立派につくられていれば、無知な人間も、これを能力ある人間となすことができ、偏見の奴隷である人間も、これを自由ならしめることができると想像してはならない。

  • 天才は自由であることを欲するものであって、いっさいの束縛は天才を委靡させるものである。

  • 法律を愛するとともに、法律を批判することができなければならない。

コンドルセはまず「公教育は国民に対する社会の義務である」と主張する。

  • 「人間はすべて同じ権利を有すると宣言し、また法律が永遠の正義のこの第一原理を尊重して作られたとしていても、もし精神的能力の不平等のために、大多数の人がこの権利を十分に享受できないとしたら、有名無実にすぎなかろう」。つまり彼にとって公教育とは、権利の平等を実質化するのが本質と認識されていたのだった。

  • フランス革命を経て、市民は法律によって「自由」と「平等」を手に入れた。しかしコンドルセは言う。この「自由」と「平等」は、教育によって初めて十全なものになるのだと。「権利の平等の実質化」、そして、そのためにすべての子どもに「知識および品性とその獲得の手段を保証する」こと。これがコンドルセの提示した公教育の原理である。

  • その一方でコンドルセはこうも主張する。「公教育は知育のみを対象とすべきである」「公権力は思想を真理として教授せしめる権利を有しない」。専制政治からの解放によって、市民は思想の自由を手に入れた。それゆえこの思想の自由を保障するために、公教育は思想教育を排し「知育」に限定するべきであると考えた訳である。

また彼は男女共学の思想の先駆者でもある。「男子に与えられる教育に、女子も参加することが必要である」。市民の権利は皆平等だ。だからそこには男女の区別はない。コンドルセはそう主張した。ルソーですら「エミール」の中で男女の教育は別々が当然だと書いているにも関わらず。その意味で、コンドルセのこの思想はきわめて先駆的なものだったといっていい。

与謝野晶子 激動の中を行く(1919年)

巴里のグラン・ブルヴァルのオペラ前、もしくはエトワアルの広場の午後の雑沓ざっとうへ初めて突きだされた田舎者は、その群衆、馬車、自動車、荷馬車の錯綜し激動する光景に対して、足の入れ場のないのに驚き、一歩の後に馬車か自動車に轢ひき殺されることの危険を思って、身も心もすくむのを感じるでしょう。しかしこれに慣れた巴里人は老若男女とも悠揚として慌てず、騒がず、その雑沓の中を縫って衝突する所もなく、自分の志す方角に向って歩いて行くのです。雑沓に統一があるのかと見ると、そうでなく、雑沓を分けていく個人個人に尖鋭な感覚と沈着な意志とがあって、その雑沓の危険と否とに一々注意しながら、自主自律的に自分の方向を自由に転換して進んで行くのです。その雑沓を個人の力で巧たくみに制御しているのです。私はかつてその光景を見て自由思想的な歩き方だと思いました。そうして、私もその中へ足を入れて、一、二度は右往左往する見苦しい姿を巴里人に見せましたが、その後は、危険でないと自分で見極めた方角へ思い切って大胆に足を運ぶと、かえって雑沓の方が自分を避けるようにして、自分の道の開けて行くものであるという事を確めました。この事は戦後の思想界と実際生活との混乱激動に処する私たちの覚悟に適切な暗示を与えてくれる気がします。

こういう立場はしばしば「窓があるモナド」と呼ばれる様です。ライプニッツのオリジナルは(神がプログラミングした)予定調和性を証明せんとする内容でしたが、より動的安定性を強調する内容に発展。

この辺りの葛藤は「第二世代フェミニズムと第三世代フェミニズムの間の思想的断絶」という話にもつながってきそうです。第三世代の多様性が、第二世代には許せない…

そういえばインターネット普及が始まったばかりの1990年代には「誰もがネットに接続して情報源を共有する様になった結果、絶望的なまでに均質な全体主義社会が出来上がる恐怖」を主題とする作品が沢山生み出されました。実際に普及してみるとちゃんと「等質性」は保たれる事が明らかとなり、下火になっていきます。

最近国際的に「インテリの死」「リベラルの死」が叫ばれる様になりましたが、それはこういう図式の中に居場所が見つけられなくなりつつあるかもしれません。