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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「臣民」の歴史⑨ 「国民国家」大日本帝國の臣民達が軍国主義へと傾倒していく流れ 

世界史的見地からいえば大日本帝國は割としっかり、しかも迅速に「国民国家」への移行を済ませた部類に入ります。

ある意味それは当然の話。なにしろ「大政奉還(1967年)」「王政復古の大号令(1868年)」「版籍奉還(1969年)」「廃藩置県(1871年)」「藩債処分(1872年)」「秩禄処分(1876年)」の連続コンボによって基本的に流血を伴う事なく迅速に江戸幕藩体制を解体してしまった事は「世界史上の奇瑞」といわれてるくらい。
*「流血を伴う事なく」…実際は戊辰戦争(1868年〜1869年)や士族反乱(1874年〜1877年)をあったが、世界史的観点からすれば英国名誉革命(1688年〜1689年)同様、誤差の範疇に含まれてしまう。理不尽? まぁそれが「ホイッグ史観」の本質ではある。
ボイン川の戦い(1690年) - Wikipedia
ホイッグ史観 - Wikipedia

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5e/BattleOfBoyne.png

  • これがアメリカで実践可能だったら南北戦争(1861年〜1865年)はなかった。

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  • これがイタリア王国で実践可能だったらファシズム台頭はなかった。

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  • ドイツ帝国で実践可能だったらナチズム台頭はなかった。
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  • というか西洋的価値観に詳しい 「初代文部大臣」森有礼(1847年〜1889年)に至っては、はっきりと「こんな滅茶苦茶な手口、欧米でやらかしたら必ず反革命を誘発してしまうよ」なんて口にしている。迂闊に王侯貴族や高位聖職者からその所領(Property)を取り上げ様とすれば、必死の抵抗は免れない。それが欧米社会の現実だったが、日本の領主はむしろ「納得のいかない経営をしたら平然と領主の寝首を掻く領民の視線」をこそ恐れたのだった。さて、このケースにおいて「主権者」は一体誰に該当するのだろう?
    戊辰戦争(1868年〜1869年)の一挿話としてこんな話がある。官軍と幕軍どちらにつくか領主が悩んでいると、地元最大手の庄屋が領民を代表して訪ねてきた。「もう官軍が随分直近まで迫ってる。そろそろ旗色鮮明にしちゃくれませんかね。こっちはこっちでやりにくくていけねぇや」。領主は「ああ、こりゃ下手に官軍に対して反旗を翻したら、確実に誰かから手土産代りに寝首を掻かれるわ」と覚悟を決め、官軍に帰順を申し出たという。ちなみに英国の「領民」もふてぶてしさでは日本と五十歩百だったとされている。

種明かししちゃうと、そもそも「日本においては既に、律令体制下で公地公民の精神が根付いていたから」という話になってくる様です。要するに日本全国に古墳や国分寺 / 国分尼寺が築造され、東大寺盧遮那仏像が建立されてきたプロセスそのものが重要な準備段階となっていたのですね。

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無論、それだけで「国民国家」の要件が満たされた訳ではありません。所謂「藩閥政治」から脱却して「議会制民主主義の導入」と「政党政治への移行」を達成する必要がありました。まぁここまでは割と順調に近代国家への移行が進んできたのです。第一次世界大戦(1914年〜1918年)特需の波に乗って高度成長が遂げられたのも重要な成功要因となりました。
*この間、大日本帝国日清戦争(1894年〜1895年)や日露戦争(1904年〜1905年)の戦時借款返済に追われる重税期を挟みつつ、国内総生産を明治18年(1885年)から大正9年1920年)にかけて3倍増させている。そして1911年には不平等条約の完全撤廃に成功し、第一次大戦後には債務国から債権国へ、輸入超過国から輸出超過国へと転換。

ややこしくなってくるのは、ここからの流れ。

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ここからの話では1920年代後半から1930年代前半にかけての当時の日本人の心の動きを出来るだけ正確に追跡出来るかが鍵となります。
昭和金融恐慌(1927年3月〜) - Wikipedia
満州事変(昭和6年(1931年)9月18日〜)事変

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昭和恐慌というデフレからの脱却の歴史がおもしろい|思考の整理日記

昭和恐慌はなぜ起こったのか?

昭和恐慌の説明として、Wikipedia には次のように書かれています。

1929年(昭和4年)秋にアメリカ合衆国で起き、世界中を巻き込んでいった世界恐慌の影響が日本にもおよび、1930年(昭和5年)から翌1931年(昭和6年)にかけて日本経済を危機的な状況に陥れた、戦前の日本における最も深刻な恐慌。

第一次世界大戦による戦時バブルの崩壊によって銀行が抱えた不良債権が金融システムを招き、一時は収束するものの、その後の金本位制を目的とした緊縮的な金融政策によって、日本経済は深刻なデフレ不況に陥った。

昭和恐慌でポイントになるのは「金本位制」です。

金本位制とは、金(ゴールド)を通貨価値の基準とする制度です。中央銀行が紙幣を発行する際にその裏付けとなる金(ゴールド)を保有しなければならない制度。紙幣を発行量の上限は、ゴールド保有量までとなります。

紙幣とゴールドの交換レートは固定され、人々は紙幣を銀行に持っていくと、必ず一定量のゴールドと交換できます。(金本位制を取っている)世の中全体で、マネー量 = 金(ゴールド)の量となります。

第一次世界大戦後、各国は一時的にやめていた金本位制を戻す流れになりました。日本でも、当時の井上準之助(大蔵大臣)が戦争前の金本位制への復帰を主張します。

日本で金本位制に戻すためには、戦時中に増えたマネー量を減らす必要がありました。というのも、戦時中は軍隊への財政支出を増やすためにマネーを大量に発行し、武器/弾薬を調達していたからです。これを戦前のマネー量に戻す必要があったのです。

日本の金本位制復帰のために、井上は世の中のお金を徹底的に減らす政策を実行しました。超緊縮財政を取ったのです。

日本は1920年代当時、戦後の復興により設備や人の生産活動が再開し、モノの量が戦前よりも増えていました。にもかかわらず、第一次大戦前の水準までお金の量を政策として強制的に減らしたのです。当然、世の中全体でお金不足になり、お金とモノの量のバランスが崩れます。結果、急激なデフレが発生しました。

日本が金本位制に復帰したのは1930年1月でした。そのわずか1ヶ月前、1929年ニューヨーク証券取引所で起きた株価暴落(ブラックマンデー)し、世界的な不況が起こっている最中の金本位制の復帰、デフレ発生だったのです。

昭和恐慌の発生は、井上準之助金本位制復帰によるマネー量減少→デフレ→不況、という流れです。

昭和恐慌からの脱却

ところがその後、昭和恐慌は政策変更により、2年で終了します。日本はこの後、奇跡の復活と高度成長を遂げるのです。

歴史的な背景として、1931年の満州事変をめぐり、当時の第二次若槻内閣は閣内不一致が起こり、その年の12月に総辞職されます。井上準之助も大蔵大臣を辞することになりました。その次に誕生したのが犬養毅内閣。新しい大蔵大臣には高橋是清(たかはしこれきよ)が就任します。

高橋是清が昭和恐慌脱却のキーパーソンでした。

高橋はどんな政策を実行したのか。大蔵大臣就任後すぐに、日本の金本位制からの離脱を宣言しました。

結果、日本円は対ドル為替レートで40%近く円安になりました。昭和恐慌時の急激な円高で苦しんでいた輸出企業が復活し、株価も上昇します。

高橋は金本位制離脱により通貨発行の上限を撤廃しています。さらに、日銀が日本国債を直接引き受けることで、つまり、日銀が新たにお金を刷って国債購入することで、マネー量を増やしたのです。

政府と中央銀行である日銀が一致協力し、日銀が直接大量の国債を購入する(世の中にお金を供給する)という金融緩和でした。

昭和恐慌の原因が金本位制復帰のためのマネー量の急減であり、その結果のデフレ→不況だったので、根本のところを元に戻したわけです。

その後、日本の景気は良くなりすぎました。急激な円安シフトは各国からも抗議を受け、貿易摩擦も生じました。金本位制離脱から5年後の1936年、加熱気味の景気を引き締めるため、高橋是清は緊縮財政を実施します。

予算はカットされ、それは軍事費にも影響しました。一方で、軍備拡張したい軍部には不満だったのです。

1936年、「2.26事件」が起こります。青年将校らによるクーデーター未遂事件でした。緊縮財政で軍事費削減にも取り組んでいた高橋も狙われ、事件の混乱の中、暗殺されてしまったのです。

案外馬鹿に出来ないのが、五味川純平「戦争と人間」における一連の描写。当時独特の雰囲気が巧妙に盛り込まれていたりするのです。

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五味川純平「戦争と人間(1965年〜1983年)」運命の序曲3

とある日本陸軍兵の学科講義(1930年)

「……満蒙はわが帝国の生命線である……」

兵舎内での学科の時間に、教官が初年兵全員にそう云った。

「広大な、しかも肥沃な農地と、無限の鉱物資源がある。面積はわが国の約二倍、人口は三千万に満たない。土地や資源は開発されるのを待っておる。気候は、北満においては冬は寒気はかなりきびしいが、東北健児のお前たちには苦になるまい。ひるがえって、今日のわが国の事情、お前たちの故郷の状態を考えてみるがよい。農耕地は狭く、お前たちの兄弟で都市へ出稼ぎにいかねばならなかった者は多数あるはずである。それも、安定した職業にありつければ、まだよい。実情は、数年来の不景気で工場の閉鎖や操短、わかるな? 操業の短縮などのために職を失う者が続出しておる。職にある者も実収賃金は、大正十五年を百とすると、現在は約八十に落ちておる。つまりだ、五年前に較べると、約八割しかないわけである。お前たちの知人、縁者、家族、……姉、妹のなかには、苦しい生活の犠牲となって身売りした者、しなければならなかった者もあるだろう」

教官は兵隊たちを見渡した。教官にそそがれている暗いひろがりを持った視線の束から、脱落して行く眼がそこここにあった。

「われわれ日本人の怠慢によってそうなったのであるならば、自業自得だが、そうではない。日本人は勤勉にして優秀な民族である」

教官は、伏せた兵隊の眼が上って来るのを拾いながら、つづけた。

「その証拠に、日本は、欧米諸国が過去数百年を費して到達した水準に、明治以来僅々数十年をもって到達し、現在は世界の五大強国の一となっている。しかしながら、国土の狭隘はいかんともなしがたい。資源もほとんど開発し尽されてしまった。このままでは、国民の勤労と創意工夫を活かす余地がない。このままでは、やがて二流国、三流国に落ちてしまう怖れなしとしない。だが、幸いにして、われわれには日清、日露の両戦役によって貴重な権益を獲得した満蒙の天地がある。これを開発すれば、ありあまる農産物、巨大な規模の工鉱業を興し得て、無限の繁栄を期待することができる。国民には失業の心配もなくなり、なくなり、われわれの姉や妹や娘が、苦界に身を沈めるというが如き悲惨を、二度と繰り返す必要はなくなるのである。ところが、最近、満蒙においては、地方軍閥の首魁にすぎない張学良、お前たちも知っているだろう、馬賊上りの分際で皇帝を僭称し、先年列車もろともふっ飛ばされた張作霖の息子だ、これを頭目とする軍官憲が、日本の権益を圧迫侵害すること目に余るものがある。張学良は二十万の兵を擁して、二万に満たないわが関東軍を侮っておる。われの精兵をもってすれば十倍の敵を打ち破るのは易々たることだが、わが方が隠忍自重しておるのを、やつらはわが方が怖れているものと思い上っておる。これから云うことは教官一個人の意見であるが、日本人にして心ある人にはすべて共通する考えであろうと思う。すなわち、張学良以下の暴慢無礼に対して断乎鉄槌を下す日が来るのは、そう遠くないということである」 

教官は爛々と眼を輝かした。兵隊たちに対しては「暴慢無礼」の内容を説明することも、「暴慢無礼」であることを証明する必要もなかった。特定の事態を表わすことばだけを叩きこんで、疑義をさしはさませないことが軍隊教育では必要なのである。
*ここまでは石原莞爾流の世界最終戦論的世界観の投影も見られるとはいえ(兵士供給階層でもある)東北農民に対する配慮もあり、当時の観点からすればとりわけ過激な意見という訳でもなかった。ましてや昭和農業恐慌(1930年〜1931年)や昭和東北大飢饉(1930年〜1935年)の時代に突入すればなおさらの事。
昭和農業恐慌 - Wikipedia
昭和東北大飢饉 - Wikipedia

*ここで重要なのは、こうした動きと日本を果てしなく続く消耗戦に追いやる発端を生み出した「(妙な陰謀論に駆られた)関東軍の大陸での暴走」を一緒くたにしない事。後者は(ボーア戦争1880年〜1900年)を取材した英国人記者ホブスンが「帝国主義論(Imperialism: A Study、1902年)」で告発した様なタイプの)「帝国主義Imperialism」、すなわち「内政で行き詰まって国民の目を対外戦争に向けたがってる政党政治家、植民地に既得権益を有する冒険商人と軍隊の共謀」そのもの。あくまでその線で裁くべきなのである。

「固苦しい話だから、肩が凝るだろう。腕を伸して、あくびをしてよし」

教官が云った。兵隊たちは、遠くで浪が岩に当ったように低くどよめいた。

「あくびが終わったら、よく聞け!」

教官が一声で、人いきれのする重い空気が忽ち沈澱した。

「満蒙をめざすわが国運の進展に関して、不遜な言動をなすやからは、張学良の一味だけではない。遺憾ながら、わが国民の一部にもそういう不逞の徒がいる」

今度は、標拓郎が、眼を伏せる番であった。彼は、教官の鋭い視線が、銃剣術の猛者である下士官の容赦ない刺突同様に突き刺さって来たように感じた。周囲の同僚たちからも白眼で刺されたように思った。

思いすごしだ!

そう思おうとした。

標と同じ最下級の兵隊たち、貧農出身の多い兵隊たちが、そんなはずがない。

「お前たちを一人前の立派な兵隊にするために演練を共にしておるこの俺は、お前たちのなかには、そういう不心得者は一人もいないことを知っておるが、これも兵隊の精神の問題として、耳の穴をよくほじくって、よく聞け。いいな?」

教官は、何の気なしだろうが、実際に小指で自分の耳の穴をほじくった。兵隊たちは笑った。

「これら、社会主義者とか、共産主義者とかの徒輩は、支那から手を引けとか、満蒙の権益を返還しろとか、先方の御機嫌をとって、肝腎の国民同胞に対してどんな尽し方をしているか? こやつらは、外国の御機嫌伺いをして、失業しているわれわれの同胞をどうやって救うか、困難な生活をいかにして豊かにするするか、お前たちの姉や妹が身売しなければならぬ悲惨をいかにして幸福に転ずるか、一つでも具体策をお前たちに示したことがあるか? いかにすれば日本人八千万が充分に生活できるか、その方策を示したことがあるか? こやつらは、外国から金をもらって、自分たちはそれで食いながら、同胞の糧道を断とうとする売国奴である。お前たちは、敵は外にも内にもあることを銘記しなければならぬ。精神を堅固に武装しなければならぬ」

標拓郎は猫背のように体がまるくなるのを避けられなかった。教官から「売国奴」と云われたからではない。標たちが司直の苛烈な弾圧の下で、危険に対する覚悟と誇りをもって従事していた運動の欠陥を、彼らが資本家の走狗と蔑んでいた職業軍人から衝かれたからである。彼らの運動がどんな具体策を持っていたか、彼は上級機関から一度も聞いたことがなかった。彼は上級機関の指令に従って行動した。ビラ貼りも、ピケも、小さな会合でのアジも、連絡も、無数にやった。すべてが闘争ということばに集約されていた。「支那から手を引け」も確かにあった。「満蒙の権益の返還」も確かにあった。その代案はなかった。それなら、どうやってこの狭い国で食っていくのか? という反問に、不思議に接しなかった。接しなかったのは、標拓郎などは雑魚にすぎなかったからかもしれない。反問されたら、返答に窮したにちがいないのである。彼は逮捕され、頑健な肉体と強固な意志によって拷問にも尋問にも耐えたつもりだったが、これも彼が雑魚にすぎないから、ある程度で放置されたためかもしれないのだ。 挫折は、内部から来た。ほとんど絶対的な信頼と尊敬を寄せていた幹部たちが、遊興中に逮捕されたとか、大金を遊興に費していたという、信じられないような事実を、同じ幹部の一人があばいたことからである。幹部たちは五百円、千円、千五百円というような大金を、運動費として分け持っていたらしい。日給一円二十五銭の標拓郎にとっては、手が届かない大金という意味では一千円も一万円も同じことである。そうした金をふところふところに入れて、警戒の眼をくらますという口実の下に幹部たちが遊廓で「運動」していたという事実は、標を憤激させるよりは、絶望させたのだ。

講義の後で

標拓郎は自分の班に戻りかけたとき、教官に呼びとめられた。

「標、俺の部屋までちょっと来い」

拓郎は同年兵たちの視線を背なかに意識しながら、教官について行った。

(中略)

「……お前の班長の話では、お前は、入営当時と同様に無口だそうだな?」

「……話をすることは不得手でありますから」

教官は幽かに笑ったようであった。けれども、逆光線で表情を正確に読み取ることはできなかった。標の方は、表情が細大洩らさず教官に見える位置に立っている。

「話が不得手で労働運動などがよくできたな」

教官が皮肉を楽しそうに云った。皮肉は皮肉でも、舌舐めずりしながら追いつめるような陰性な残忍さはない。

「近ごろは争議が頻発している。大きいのでは東京市電ストがあったな。知っているか?」

「はい」

「鐘紡では目下争議中だ。小さいところまで勘定すれば算えきれきれない。お前がもし地方にいれば、やはり、やるか?」

真向からの単純率直な質問である。こういう単純な攻撃に備える答えは用意していなかった。

「……状況がわかりませんから、お答えはできませんが、私は、脱落しました……」

「身上調書にはそうなっておる。俺が聞きたいのはその理由と本心だ。お前の既往はどうでもよろしい。お前は現在俺の教導下にあって、不都合の節はない。俺は、脱落したと云うお前を、よく知っておきたいだけだ。脱落の理由は、弾圧を怖れたのか?」

「そうではありません」

「将来不利になると判断してか?」

「そうではありません。不利なことに変りはありませんでしたし、将来有利になるとも考えられません」

「どうしてだ?」

「……私の弟は十五歳になりますが、自活しております。兄がいても、面倒をみてやることはできません。将来も、私の就職の見込みはありますまいから、同じことだと思います。弟は中学に行っていましたが、夜間部に転入しました。心配は要らないと書いてよこします。私は、心配してやることさえできません……」

「軍事救護の申請を隊長殿にお願いしてみたが、駄目だった。しかし、だれを怨むことでもないぞ、これは。わかっているな?」

「わかっております」

「……俺が聞いたところによると、共産党の中央指導部の実力者どもは、党の活動資金をもって遊興していたそうだな? 裸で娼婦と同衾中を逮捕された痴れ者がいたという話だ」

標は返答に迷った。鬱憤をぶちまけてしまいたい衝動に圧倒されそうになった。こう答えるのは、既に裂けている自分の心をさらに引き千切るのにひとしかった。

「……知りません。聞いたことがありません。信じられないことことであります」

「庇っとるな」

 教官が歯を見せて笑った。

「信じたくはなかろう。お前も遊びでやっておったのではあるまいからな。だが、標、中隊事務室の特務曹長の前では、そんな忠義立ては通らんぞ。各連隊ともアカの潜入に対して最近監視を特に厳重にしておる。したがって前歴者のお前は、現在はいかに立派な兵隊となっていても、一応疑惑の眼をもって見られることは避けがたいと思わねばならん。検閲が終れば、お前は俺の手から離れて、各種の勤務につくことになる。俺はお前の既往を問わんと云ったが、既往を問う者もいるのだ。言動によく注意するんだぞ。いいな?」

「はい」

「無口すぎるのもよくない。陰性で何事かを企らんでいると誤解されんでもない。わかるな?」

「はい」

「よし。帰れ」

標は室内の敬礼をして出て行こうとした。

「ちょっと待て」

教官がまた呼びとめた。

「まだ時間がある。云い忘れたことを云っておく。さっき、お前は、知っておって知らんと云ったが、幹部の腐敗堕落は共産党にかぎらん。国務を司る者にしてからがそうだ。朝鮮疑獄、私鉄疑獄、越鉄疑獄、売勲疑獄、悉くそうだ。機構の末端部にある正直者は、営々と働いて利用されるだけだ。国体と相容れない共産党は断じて許されんが、不正を糾弾せんとするお前らの心情を、俺は買う。尊重する。私利私欲を貪る輩は撲滅せねばならんのだ。産業合理化と称して、結果的には国民一般を塗炭の苦しみに陥れ、特権階級の福利のみを図る政治家、資本家のたぐいは、これを許すことはできない。わかるだろうな、俺の云うことが」

「はい」

「その点では、お前も俺も同じ見地に立っているはずだ。将校、下士官、兵を問わず、矛盾をひとしく感ずる者が全国にいる。さっきの俺の講義を思い出して、よく考えてみろ。何か心に感ずるところがあったら、いつでもかまわん、俺のところに来い」

「……はい」

標は答えて、少しためらってから、思いきってきいた。

「……教官殿、お尋ねしてもよくありますか?」

「何だ?」

「教官殿の御出身は何でありますか?」

「地主だよ。大きくもなく、小さくもない」

教官は標を見据えた。

「貧農の出でなければ、信用できんか」

「……そうではありません」

共産党の指導部に純然たる労働者出身がどれだけいる? いたとしても、争議の解決に人を介して敵側から袖の下をせしめるせしめるようなやつだ! 参考までに教えておく。俺などは元気なだけが取柄の士官にすぎんが、陸軍の青年士官で、純真な愛国心と革新の情熱を持っておる者には、中産階級の出身が多い。不思議なことだが、お前らが親近感を持てるはずの下から叩き上げた者には、保身の術に長けた、正邪の別に暗い者が多い。人生斯くの如しと云えばそれまでだが、不思議なことだな。お前も心眼をひらいてよく観察してみろ」

「……はい」

「もう時間だ。帰れ」

標は教官の部屋を出た。少しのぼせていた。何か、生暖かい混乱がはじまっていた。

注釈 疑獄事件

浜口内閣は政権交替と同時に、財政界の汚職事件摘発を開始、これは民政党が政綱として掲げた「政治の公明」、「綱紀の粛正」にもとづいて、政党献金に名を藉りながらほとんど公然化した高官連の贈収賄に対する国民の批判に答えようとするものであった。だがこの摘発には、野党の政友会より議席数の少ない民政党内閣が、翌五年二月に実施される第二回普選に備え、自党に有利な素地を作るための、意識的な政友会の旧悪暴露の意図が秘められていた。摘発が進むにつれ、内閣賞勲局総裁・天岡直嘉、田中内閣の副総理格であった前鉄相・小川平吉朝鮮総督・山梨半造など、現職高官を含む大物が涜職罪で次々に召喚され、ついには告発の当事者である浜口内閣の文相・小橋一太まで喚問されるという事態へ発展した。

「売勲事件」をひきおこした賞勲局総裁・天岡直嘉は、三度宰相の座についた公爵・桂太郎の女婿で、昭和二年四月に、二十数万円の借金で破産宣告を受けたが、その直後に田中・政友会内閣が成立すると、桂と同じ長州閥に属する田中義一の推挙で、賞勲局総裁の椅子におさまった。桂から受けた恩顧への義理とは云え、破産宣告を受けたばかりの人間を起用した田中人事の非常識さは驚くばかりだが、天岡はこのポストを、彼の財政建直しのために最大限に利用した。日魯漁業社長・堤清六に対して、一万三千円の賄賂とひきかえで勲三等の叙勲に成功すると、昭和三年十一月の即位大礼の大規模な叙勲を好機に、最高一万三千円、最低五百円の「売勲」を行ない、収賄総額は八万余円に達した。金にものをいわせて、勲章で身を飾りたいという栄誉欲に駆られていた実業家たちは、天岡の願ってもない上顧客であった。四年十一月に事件は表面化し、天岡はのちに懲役二年の判決を受けている。

昭和初年の数多い疑獄のなかで、涜職史上空前といわれるのが、前鉄相・小川平吉を中心とする「私鉄疑獄」である。昭和二年七月博多湾鉄道、同年十一月北海道鉄道、三年四月東大阪電鉄、同年六月伊勢電鉄、及び奈良電鉄の五私鉄に関して、政府による鉄道買上げ、鉄道敷設許可促進のために、鉄道大臣としての小川が収賄した金額は五十六万円にのぼるといわれる(今日の数億円に該当)。 昭和四年九月二十六日、小川・前鉄相召喚、同日市ケ谷刑務所へ収容。この報を聞いた田中義一・政友会総裁は、党建直しのため画策中であったが総裁引退を決意したといわれ、三日後の二十九日には急逝している。小川自身は翌五年一月十九日に、五百円の保証金を積んで百余日ぶりに保釈出獄した(天岡と同じくのちに懲役二年の刑)。

この私鉄疑獄にからんで、政界の大物たちがあいついで取調べを受けたが、その過程で小橋一太・文相(民政党内閣)にも涜職の事実のあることが公けにされたのである。小橋は、憲政会と合流し民政党を創立した政友本党の幹事長時代、昭和二年初めに、越後鉄道政府買上げの斡旋謝礼として二万円を受取った(越鉄買上げは政変などで実現をみず)。また三年九月には、東京山手急行電鉄創設に関し、政府許可促進の代償として同社の株五千株の提供計画のあったことも暴露されるに至り、小橋は四年十一月二十九日に辞任。身柄不拘束のまま五年一月二十一日に涜職罪で正式に起訴されたので、政友会の旧悪暴露どころか、政友、民政両党ともその腐敗をあばきあう結果となり、泥仕合の様相を呈したのである。陸軍大将・山梨半造は、田中義一の膨大な機密費の出所にからんでとかくの噂のある人物だったが、昭和二年十二月十日から四年八月十七日斎藤実にかわるまで朝鮮総督の職にあった。昭和三年末、朝鮮釜山に米穀取引所設置問題が起こると、利権ブローカーは山梨を動かしてことを有利に運ぼうとし、東莱温泉地払下げ許可とあわせて山梨の内諾を得た。その報酬として新聞紙に包んだ現金五万円を受取ったことから、朝鮮総督辞任後間もなく「朝鮮疑獄事件」の被告として裁かれることになった。五年十一月二十一日の検事の求刑は懲役一年六ヵ月であったが、六年二月二十三日には無罪の判決がおりている。

これらの疑獄事件と平行して、昭和三年夏からの東京市会の汚職事件公判が、世間の注目を集めていた。これは、築地魚市場の板舟権、京成電車上野乗入れなどをめぐり、民政、政友両党の別なく収賄容疑で取調べもしくは拘引留置された市会議員五十数名(市会の議席過半数)を数える事件である。五年四月十日の予審終決において、収賄罪に問われた市会議員三十三名、民政党代議士・三木武吉、政友会代議士・中島守利、ならびに正力松太郎なども贈賄幇助で有罪となった(昭和五年四月十日『報知新聞』)。これらの汚職事件は、いってみれば氷山の一角にすぎない。そして告発を受けた人々は、その社会的地位を利用して莫大な金銭を受授した事実をよそに、裁判は多数の弁護士を動員して結審まで長時間を費し、ほとんどが証拠不十分を理由に微罪もしくは無罪となって、その責任をまぬがれた。

緊縮財政と世界的恐慌による不況に、その日その日をようやく送っていた市民の生活とは比較にならない巨額の金銭が受授され、一部少数の上層階級の私腹をこやし、しかもそれが問題化しても、その責任追及がきわめていい加減なものであることを目のあたりにみた国民大衆の政治に対する不信と絶望は、想像以上のものがあったと思われる。国民生活の安定よりは政権欲の亡者となって自己の利権確保を第一義とした政党政治家は、こうした自殺行為を重ねて、軍部ファシズムの側へ国民を追いやる要因をつくったといえる。
江戸川乱歩1920年代末から1930年代にかけて執筆執筆した通俗小説の多くが「(後ろ暗い方法で蓄財したに違いない)金持ち一族が連続殺人鬼に狙われて次々と殺されていく」展開なのは決して偶然ではない。そこには当時の「金持ちに対する貧乏人の嫉妬心」の投影が確実に存在した。

江戸川乱歩の通俗小説のもう一つの人気題材が「有名女優やレビューガールや若い有閑マダムや勤労婦人の惨殺」で、その背景には「上京して都会の華やかさに圧倒された田舎青年の復讐心」の投影が存在した。興味深いことに、当時のアメリカのパルプマガジンにも同様の傾向が見て取れる。

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俊介( 伍代財閥の御曹司)と女中の滝の絵画

「ほんとは、本郷座へ劇を観に行ったんだ。〝西部戦線異状なし〟をやってたから……」
*アメリカ映画「西部戦線異状なし(All Quiet on the Western Front)」…本国では 1930年4月21日(プレミア)、日本では1930年10月24日公開。

「お一人でいらっしたんですか!」

「はじめは(貧乏なプロレタリアート絵画の画家)灰山さんと行くことにしてたんだよ。だけど、灰山さんはお金がないだろ。僕がいっしょに行ったら、灰山さんは僕の分まで切符を買わなきゃならない。僕が灰山さんのを買ってあげたら、灰山さんは体裁が悪いにきまってるものね。だから、一人で行ったんだ。凄かったな! 壁ぎわに警官が顎紐かけて並んでるんだ。塹壕でドイツ兵が自分が突き殺したフランス兵の死体を抱いて叫ぶところは、台詞がカットされてて、ドイツ兵が口をパクパク動かしてるだけなんだよ。それでも、わかるんだ。観てる者が拍手したり、叫んだりした。そしたら、おまわりのやつが拍手した人をひっぱって行こうとするんだ」

俊介は、女の子のようなと形容するには鋭くなりすぎた眼をキラキラ光らせた。

「……僕はその晩、標君の兄さんたちがやろうとしてたことが、わかりかけたような気がした。やっちゃいけないことと、やらなくちゃいけないことの区別が、学校でおそわることとはちがうときがたくさんあるんだってことも、わかったよ。本を読んだら、カイザーも糞をする、と書いてあった。カイザーって、皇帝だろ。カイザーは金ピカの服を着て、偉そうな髭をはやして、うまいものを食ってふかふかのベッドで寝る。兵隊は泥んこになって死んでいく。日本の兵隊もシベリアの雪のなかで凍え死んだよ。うちのおやじはどうやってか知らないけど、会社を大きくした。千八百円のフォードぐらい何台だって買える。満洲にも工場を持って行くだろ? 日露戦争満洲で死んだ兵隊さんは儲けやしなかった。そうだね? 僕はお父さんにアトリエを造ってもらって、灰山さんよりお小遣を余計に持っている。僕はどうしたらいいんだろう? お滝さんが云うように、僕が一日に一度ずつ御飯を抜いたって、食べられない小学生が一人だって減るわけじゃないってことはわかるけどさ……」

「……俊介さんは綺麗な心を持っておいでです」

滝は、このとき、おそらく、俊介に対して、母親に最も近い感情を抱いただろう。それと同時に、伍代由介という男の太い運命の綱に綯いこまれてしまった女であることを、したたかに意識しなければならなかっただろう。

「ですけれどもね、男は、心が綺麗なだけでは駄目なのですよ。昔から申します。男は一歩外に出たら、七人の敵がいると。おわかりですか。男は、一人前になったら、毎日が戦争なのです。勝つか負けるか、男の人の一生には、それがついてまわります。心が綺麗だからといって、勝負を免除してもらえるような世の中ではございません。勝てば、お父さまのように立派におなりです。絵描きさんでも、学者でも、同じことです。負ければ、一生、女房子供に惨めな思いをさせ、自分はもっと惨めな落伍者になります。俊介さんは貧乏な人に同情しておいでですが、貧乏は同情されてなくなるものではございませんのですよ。貧乏は綺麗ごとではございません。俊介さんが、だれか尾羽打ち枯らした人を助けてあげると致しましょうか。その人は、うわべうわべは俊介さんを神さまのように拝むでしょうけれども、内心は俊介さんにおぶさって楽をしようと考えるだけです……」

「そんなことないよ!」

俊介は顔を桜色に染めて叫んだ。

「そんな人ばかりじゃないよ! そんな狡い人ばかりだったら、自殺したり、一家心中したり、気違いになったりするもんか! コソ泥か強盗になるよ! お滝さんは一日に鉄道の飛込自殺が五人以上もあるのを、知らないんだ!」

「わかっています、わかっております、おっしゃることは。滝が申上げたいのは、俊介さんの同情が貧乏に負けた人に傾きすぎていらっしゃりはしないかということなのですよ。ぎていらっしゃりはしないかということなのですよ。貧乏でも、ちゃんとした人は、必ず自分の力で泥沼から這い上って来ます。俊介さんは灰山さんがお描きになった絵をお持ちですね! 眼の不自由なお婆さんが地べたに落した銅貨を探している絵……」

「アトリエにかけてあるよ」

「……滝が灰山さんをもっと前に存じ上げていましたら、灰山さんに別の絵を描いて俊介さんに見せてさし上げていただきとうございました」

滝は椅子にかけた膝を揃え、その上に手を重ねて置いて、温か味のある唇のあたりに笑いを漂わせた。眼は笑ってはいなかった。

「どんな絵?」

「……もうさきおとどしのことになります。たいへんな年でございました。銀行が次から次に倒産致しましてね。滝は旦那さまから一週間ほどお暇を頂戴して郷里へ行って参りましたが、覚えていらっしゃいますか?」

俊介はうなずいた。

「……僕は六年生だった」
「そうでしたね。……滝の村に、お婆さんで魚の行商をしている人がいました。村は海に近こうございましてね、獲れた魚を浜で漁師から買って、町へリヤカーを曳いて売りに参るのです。頼りになる身寄りはございませんで、縁者はあっても、却ってお婆さんの厄介になるくらいのものでございました。なにしろ、不景気はそのころからたいへんなもので、大の男が仕事にあぶれたり、仕事はしても給金はろくにもらえないようなありさまでした。そのお婆さんは魚や貝を売り歩いて、冬は手があかぎれだらけになり、まともな形をした指は一本もございません。夏は渋団扇のように陽灼けして、煮しめたような手拭で頬かむりしているのですけれども、汗をかいた顔の皺に埃がいつも溜っていました。何を楽しみに生きているやらと、この滝でさえ思ったほどでしたが、そうして稼いだお金を五銭十銭と貯金したのでしょうね。町の銀行の通帳になにがしかの貯えがあったようでございます。その銀行が倒産しましてね、払い戻してもらえなくなったのでございますよ。通帳は反古になってしまいました。何年もかかって、腰が曲るほど働いてやっと貯めた僅かばかりの貯金が、そのお婆さんにしてみれば、いのちの綱でございましょう? それが一文にもならなくなりました。お婆さんお婆さんは通帳を握って、家の柱を揺さぶるようにして泣くのでございます。訴えるところもなく、この世は地獄でございましたでしょう。だれが何を云って慰めても、耳に入りは致しません。泣き声が怖ろしゅうございました。喚くように高くなったり、まるで幽霊がすすり泣くようにかぼそくなったりしましてね、柱を爪で掻きながら泣いていたあの姿や声を、滝はまだ覚えております……」

俊介は声を洩らすまいとするかのように口を固く結んでいた。声の代りに涙が溢れて来て、転げ落ちそうになった。

滝はいとしそうに俊介を見守った。

「……俊介さん、いつか、その絵をお描きなさいまし。でも、お忘れになってはいけません。そのお婆さんは、自殺もしませんでした。気違いにもなりませんでした。もしもだれかが施しでもしようとしたら、あのお婆さんは薪のようにささくれ立った手で払いのけることでしょう。その後もお婆さんは、やはり毎日リヤカーを曳いて働きに出ました。……俊介さんは、いま、同情して涙をお見せになりましたね。そういうお気持を滝はとても嬉しく存じますけれども、はっきり申上げておかなければならないことが一つございます。お金持は、貧乏人の味方には決してなれませんのですよ」

「なぜ?」

「お互いに、どちらも決して信用できないからでございましょうね。片田舎の貧乏育ちのこのわたくしでさえ、伍代家の家族同様にしていただいているいまとなっては、田舎へ帰ってもまるでよその人間でございます」

「……じゃ、人間には、涙や同情なんか、要らないんだ。要らないものは、なくなるはずなんだ」

「そのとおりでございますよ」

「信じられないや! いくらお滝さんの云うことでも」

「あなたはお父さまのお子です。負けた者の立場に御自分を置いて、物事をごらんになったり、お考えになったりしてはいけません。あなたは、これから、勝ち負けのきびしい掟をいろいろいろいろお知りにならなければならないのですよ。お父さまがお拓きになった道を、もっと先へお進みになることです。お仕事の種類は、たとい何でありましてもね。貧乏に同情することだけが美しいことではございません。お父さまがよくおっしゃいます、お聞きでございませんか? 足の大きな者と小さな者が、同じだけの地面を踏むわけには参りません。滝は、俊介さんがおやさしいのが、却って気がかりです。滝では手に負えない猛々しいくらいのお子になっていただきたいと存じます……」

帝国主義者にとっての王道楽土あるいは「乳と密の流れる地」としての満州

不景気からの脱出を、実際に満洲へ渡ることによって果そうとした日本人の数は、まださほど多くはなかった。
*在満日本人人口 昭和5年(1930年)の在満洲日本人人口は、関東州の116,052名、満鉄附属地の99,411名、附属地外居住の18,266名で、合計233,749名、これは当時の日本の人口の0.3%弱。統計数字は、満史会編『満洲開発四十年史』上巻所収の関東局調査による。

けれども、日本の発展のためには満洲が絶対に必要だという考え方、考え方というよりも理窟を抜きにした感情は、既にほぼ全国的な規模にひろがっていた。もし問いつめれば、日清・日露両戦役の莫大な戦費と幾多の同胞の血を代償とした土地だから、から、という紋切型の答弁しか期待できなかっただろう。
*これはロシア人も好む言い回しで、その事が北方領土問題ばかりか黒海沿岸などにおける(ハプスブルグ君主国やオスマン帝国との)国境問題も複雑化させてきた。

人びとは満蒙の広大な地域に無限の富を夢みた。これは「先覚者」たちの無責任な放言や、杜撰な調査に基づく宣伝を鵜呑みにした結果である。確かに、農産地帯としては有望であった。林産資源も豊富であった。鉱産資源も埋蔵量の数字においては驚くべきものがあった。だが、鉄鉱石は概ね甚だしい貧鉱であった。石炭は灰分が高く、弱粘結性で製鉄用炭には不適当なものが多かった。このことは、重工業の基礎部門――製鉄業の発展の上に決定的な作用を及ぼした。さらに、満洲では、二十世紀のエネルギー源ともいうべき石油資源が皆無にひとしかった。錫も銅もモリブデンマンガンもなかった。
*最大の皮肉は、探索次第では大慶油田中国東北部黒竜江省)が発見されていた可能性もあった事だった。台湾人も一緒になって悔しがってくれたりする。
「乳と密の流れる地」 - 牧師の書斎
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それでも、満洲は、人間だけがたくさんあって他には何もない日本に較べれば、確かに豊庫であった。永田鉄山・大佐を頭脳的中心とする陸軍部内の経綸家たちにとっては、この豊庫はソ連に対する鉄壁の要塞を兼ねる必要があり、日本が世界のなかに屹立するためにやむなく孤立する場合には、この豊庫は長期長期持久の兵站部の役割を果すものでなければならなかった。したがって開発は急がなければならず、開発するためには満洲をなんらかの形で完全に支配しなければならず、そのために如何なる方法を採るにしても、基礎的条件としては、国民の満洲に対する関心が急速に沸騰点に達する必要があった。

長期持久の兵站部の役割を果すものでなければならなかった。したがって開発は急がなければならず、開発するためには満洲をなんらかの形で完全に支配しなければならず、そのために如何なる方法を採るにしても、基礎的条件としては、国民の満洲に対する関心が急速に沸騰点に達する必要があった。

井上・緊縮財政と幣原・協調外交を両輪とする浜口・民政党内閣も満洲問題を等閑に附していたわけではない。ただ、ペースやリズムがちがっていただけである。「強硬政策」といい「軟弱外交」といっても、他国の土地の上に何らかの収穫を期待する点では、本質的な差異はない。
*まさしく(ボーア戦争1880年〜1900年)を取材した英国人記者ホブスンが「帝国主義論(Imperialism: A Study、1902年)」で告発した様なタイプの)「帝国主義(Imperialism)」、すなわち「内政で行き詰まって国民の目を対外戦争に向けたがってる政党政治家、植民地に既得権益を有する冒険商人と軍隊の共謀」そのもの。とはいえこういうケースに限って情報流布がトップダウンに展開したか、ボトムアップに展開したか見定めるのが難しい。ちなみに独立後の韓国も朴正煕大統領時代にベトナム戦争(1955年〜1975年)への韓国軍派兵に便乗する形で東南アジアが「乳と密の流れる地」に見立てられ、数多くの民間人が進出して多数の「ベトナム成金」が生まれている(同時期には中東進出も企てられた)。もちろん欧州大開拓時代(11世紀〜13世紀)や大日本帝國の大陸進出(20世紀前半)同様、それは棄民スレスレのギャンブルだったのであり成功者以外はあっけなく忘れ去られてきたのである。常に一方的に侵略者に蹂躙されてきたかと思えば中々どうして。中国人はこの状況を「奴らは中国に匈奴が攻め込んできた時も、モンゴル人が攻め込んできた時も、満州族が攻め込んできた時も、日本人が攻め込んできた時も常に敵側にいた。朝鮮戦争ベトナム戦争でも敵側だった」なんて総評したりする。逆を言えば、日本が唐朝代だけ公式に中華王朝と蜜月状態にあった様に、朝鮮半島宋朝代と明朝代のみ中華王朝と公式に蜜月状態にあったのだった。

大慶(ターチン)油田 - Wikipedia

中国東北部黒竜江省に存在する油田。命名は地名からではなく、油田が建国10周年の節目で発見されたことに因む。100km四方に広がる中国屈指の大油田であり、この油田の開発は第二次世界大戦後輸入に頼っていた中国の石油事情を一変させた。2000年前後から原油生産は減退傾向にあり、天然ガスの生産にシフトしつつある。

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  • 1953年に中華人民共和国国務院地質部長のモンゴル族地質学者李四光が松遼盆地の調査を開始。1959年に原油が確認され、1960年から1963年にかけて掘削、1963年から生産が開始される。
    *多数の労働者を人海戦術で投入。他国(少なくともアメリカ合衆国)の技術を用いずに施設を完成させたとして、労働者の模範的職場として賞賛され「工業では大慶に学べ」というスローガンが生まれた。

  • 1997年には原油生産量として過去最大の5600万トンを記録。1999年に採算部門を集約した株式会社中国石油天然気(中国石油)と非採算分野の国有会社中国石油天然気集団公司に分離。
    *最盛期には日本の原油輸入量の3割に相当する年間5000万トン以上の生産量を誇った。中国の原油生産を一手に担い大量生産を続けてきたが、2000年前後には採掘される原油に占める含水率が9割前後に達したと伝えられなど、生産量は後退期に差し掛かっている(2007年の原油生産量は4170万トン。天然ガス生産量は25.5億立方メートル)。また、廃水処理に伴う環境対策などコスト増が無視できない状況になっている。2004年からの世界的な原油価格高騰により、こうしたコスト回収には一定の目途がつくものと考えられるが、中国奥地の油田開発が進むこともあり、かつてのような偏重的な生産は行われないものと考えられる。

  • 2002年に大規模デモが発生し、2003年に対日輸出終了。2004年に天然ガス噴出事故の発生。
    中華人民共和国世界貿易機関加盟(2001年)により国際的な価格競争にさらされ、1990年代以降は著しい合理化が進められた。この結果、労働者の大量リストラ、レイオフが発生し、中国では珍しい退職者も含めた大規模デモ(2万人規模)が発生した。また、大規模な天然ガス噴出事故に伴う労働災害(従業員・地域住民243人が死亡。周辺住民10万人が一時退避)が発生するなど、中国における労働者事情を語る上で、未だ頻出するキーワードの一つとなっている。

2005年から2007年のかけて生産減退をカバーするための新たな鉱区(油田、ガス田)を探索した結果、原油1億トン、天然ガスが1000億立方メートルを発見したと報道されるが、事業化できるかどうかは定かではない。

青年トルコケマル・パシャへの感激から生まれた桜会

ノックがあって、武居が顔を出した。

「何か御用でしょうか?」

「君が云っていた陸軍の若手の動き、何か掴めたかね?」

桜会ですか……」

武居は市来に挨拶して、脇の椅子に腰を下ろした。

「……元気のいいのが多勢集ったようです。中心は、参本ロシア班長の橋本欣五郎中佐ですね。これに参本支那班長の根本博中佐、坂田義朗中佐、土橋勇逸少佐、長勇大尉、田中清・田中弥の両田中大尉などが中心的なメンバーでしょう。そうそう、参本支那課長の重藤千秋大佐も加担しているようです」

「目的は何です?」

市来がきいた。
「趣意書には美辞麗句で謳ってありますが、要するに、国家改造をもって終局の目的とする、これが為要すれば武力を行使するも辞せず、ということです。大体、橋本中佐がトルコ駐在武官だったときに、ケマル・パシャの武力クーデターに心酔して、それが桜会結成の原動力になっているようですから……」
*ここでまさかの「ケマル・パシャ」に「青年トルコ」である。名前から察せられる様に、その着想の起源はヴィクトル・ユーゴーを精神的主導者に選びテオフィル・ゴーティエに先導された若き文学者集団「青年フランス」や「イタリア三傑」筆頭マツィーニ(日本の「維新三傑」では吉田松陰に該当)が組織した「青年イタリア」に遡る。まさしく欧州における政治的浪漫主義の申し子。背後で急進共和派が生んだ「ヨーロッパで最も危険な男」オーギュスト・ブランキが踊っている。要するに日本軍国主義の大源流の一つは確実に左派(「右派=王党派や教皇至上主義者」に対する急進共和派)なのだった。
青年トルコ/統一と進歩委員会

「いくら軍人だって破壊するばかりが能じゃないだろう」

由介が云った。

「その辺は、どうなんだね?」

「……大体、三とおりあるようです、何ごともそうですが。破壊本位の橋本・長一派、建設案を研究しようとする田中清の一派、それと両者の中間を泳ぐ連中と……」

「……国家改造って、何が気に入らないんだろうね?」

市来が白髪を撫で上げながら云った。

「軍人の給与は悪いといっても、大尉になれば年俸二千円ぐらいは取れるんじゃないかね?」

「それはそうですが、山梨軍縮、宇垣軍縮以来、軍人は冷飯を食わされていると思いこんでいます。それに、昨今の疑獄の連続がありますね。もう一つには、これが大きいと思われますが、下層社会の困窮ぶりは世界共通の現象だといっても、彼らには通用しませんです。不況イクォル政治の腐敗、こういう受け取り方が圧倒的ですから……」

「会の資金は、だれが出しているらしいかね?」

と、由介の眼が短く閃光を放った。

「私が云うのは、軍の機密費か、財政界のだれかが乱暴者の御機嫌とりに金を出してやしないかということだが」

「……それは、いまのところ、ないようです。参謀次長の二宮治重中将が建川参本第二部長を通じて出しているらしいのですが……」

「それだけ聞き出すには、財布がだいぶ薄くなったろう」

由介が笑った。武居は内心ほくそえんで、頭を下げた。軍人に接近することは、将来のための投資だと考えている。それを由介が埋めてくれる気なら、なおさら悪くない。

「わかった。もういいよ。休みたまえ」

武居はていねいに二人の資本家に挨拶をして、引き上げた。

「……どうだろうね」

市来が上体を起こした。

「その連中が軍の主流だろうか?」

「……私はそうは思わないね。その結社には、首から上がない。エネルギーはあっても、学生のストームみたいなものだ」

「剣や鉄砲を持った連中のストームは困るじゃないか」

「……いずれ、何かは起きますよ。武居の表現によれば、腐敗だが、こう世間が行きづまって、人気が悪くなってくるとね。……幣原さんなんか危いな。浜口さんも井上さんもだが」

「それはあり得る」

市来も同意した。

実は、この夜から幾日もたたぬうちに、由介の予想は部分的に的中した。首相・浜口雄幸は陸軍大演習陪観のため西下しようとして、東京駅で、右翼団体・愛郷塾の佐郷屋留雄に狙撃された(昭和5年11月14日)。表向きは、国民の生活窮乏の責任を弾丸をもって問われたのである。蔵相・井上準之助は、辞職後、昭和7年(1932年)2月9日、血盟団員によって暗殺されることになる。

由介が満蒙問題に絡んで一番先に狙われるだろうと予想した外相・幣原喜重郎は戦後まで生きのび、天寿を完うした。 

注釈 桜会趣意書

一、熟々帝国の現状を見るに万象の悉く消極に堕し 新進の鋭気は地を払ふて空しく明治維新以来隆々として発展し来りし国勢は今や衰頽に向はんとし 吾人をして痛嘆憂愁措く能はざらしむものあり 若しそれ斯くの如き状態を以て進まんか、吾人大和民族は到底現在に於ける世界的地位と名誉とを保持し得ざるざるは勿論、勢の趨く所史上に一朝の盛観を止めて遂に希臘、和蘭の班に堕し 恨を千載に残すべきは昭々乎として明らかなる所なり。 

而して我国が斯くの如き状態に至りし所以のものは 其の基因する所多々あるべしと雖も 吾人は先づ其の核心たるべき為政者の重大なる責任を指摘せざるを得ず 試みに眼を挙げて彼等の行動を見よ 国民の師表として国政を燮理し 上陛下に対し奉り重責を担ふべきに拘らず 其大本を没却して国是の遂行に勇なく 大和民族興隆の原素たる精神的方面は恬として之を顧みず 唯徒らに政権、物欲の私欲のみに没頭し 上は聖明を蔽ひ下は国民を欺き 滔々たる政局の腐敗は今やその極点に達せり。 

国民も亦挙げて此の弊風を感知しあるも 意気消衰せる現社会の雰囲気に同化せられ 既に何等の弾力なく 政界の暗雲を一掃して邦家の禍根を剪除すべき勇気と決断とは到底之を求むるに由なく 国民は挙げて自ら墓穴を深うしつゝあるものを独り左傾団体にのみ見出さざるべからざるの奇現象は果して吾人に何ものを教示するか 而して今やこの頽廃し喝せる政党者流者流の毒刃が軍部に向ひ指向せられつゝあるは 之れを「ロンドン」条約問題に就て観るも明かなる事実なり 然るに混濁の世相に麻痺せられたる軍部は 此の腐敗政治に対して奮起するの勇気と決断とを欠き 辛うじて老耄既に過去の人物に属すべき者に依りて構成せられある枢密院に依りて自己の主張せざるべからざる処を代弁せられたるが如き不甲斐なき現象を呈せり。 

軍部が斯くの如き状態に陥りし所以のものは、其原因一にして足らずと雖も 泰平の久しき士風漸く衰へ 一般将校に一定の主義方針と武士道の名に於ける熱烈なる団結とを欠如しあるを以て第一義原因となす 過般海軍に指向せられし政党者流の毒刃が近く陸軍々縮問題として現はれ来るべきは明かなる所なり 故に吾人軍部の中堅をなす者は充分なる結束を固め 日常其の心を以て邁進し 再び海軍問題の如き失態なからしむるは勿論 進んでは強硬なる愛国の熱情を以て 腐敗し竭せる為政者の膓を洗ふの慨あらざるべからず。

二、現今の社会層を観るに高級為政者の悖徳行為政党の腐敗、大衆に無理解なる資本家 華族 国家の将来を思はず国民思想の頽廃を誘導する言論機関、農村の荒廃、失業、不景気、各種思想団体の進出、靡爛文化の躍進的拾頭、学生の愛国心の欠如、官公吏の自己保在(存)主義等々 邦家の為め是に寒心に堪へざる事象の堆積なり 然るに之を正道に導くべき重責を負ふ政権に何等之を解決すべき政策の見るべきものなく 又一片誠意の認むべきもなし 従て政権の威信は益々地に堕ち 経済思想政治上国民は実に不安なる状態に置かれ 国民精神は逐次弛緩し明治維新以来の元気は消磨し去らんとして 国勢は日に下降の道程にあり 更らに之れを外務方面に観るに 為政者は国家百年の長計を忘却し 外国の鼻息を窺ふことにのみ之れ汲々として何等対外発展の熱を有せず 維新以来の積極進取の気魄は全く鎖磨し去り 為めに人口食糧の解決の困迷は刻々として国民を脅威しつゝあり 此の情勢は帝国の前途に一大暗礁を横ふるものにして 之が排除に向ひ絶叫するは吾人の主張が為政者により笑殺し去られつゝある現状は 邦家の前途を想ひ寔に痛憤痛憤に堪へざる所なり。 

以上内治外交の政策上の行詰は 政党者流が私利私欲の外一片奉公の大計なきに由来するものにして 国民は吾人と共に真実大衆に根幹を置き真に天皇を中心とする活気あり明らかなるべき国政の現出を渇望しつゝあり 吾人固より軍人として直接国政に参劃すべき性質に非ずと雖  一片皎々たる報公の至誠は折に触れ時に臨みて其の精神を現はし 為政者の革正、国勢の伸張に資するを得べし 吾人茲に相会して国勢を慨し 自ら顧みて武人の操守を戒むる所以も亦此の埒外に出づるものに非ざる也。

(『現代史資料・国家主義運動1』所載。句読点以外の一字あきは、著者による。)
*「国民は挙げて自ら墓穴を深うしつゝあるものを独り左傾団体にのみ見出さざるべからざるの奇現象は果して吾人に何ものを教示するか」…そもそも「桜会」の源流には「青年フランス」「青年イタリー」「青年トルコ」といった欧州急進共和派が存在したし、さらに同時代における無政府主義者共産主義の暗躍に直面して自らを相対化した側面もあったという次第。ただし共和派的志向が強かった青年トルコ」が「偽スルタン=カリフ制(神格化されたスルタン=カリフの権威を党利実現の道具としてのみ重宝する)」に堕せざるを得なかった様に、その影響を受けた日本軍国主義もまた半ば必然的に「偽天皇主義(神格化されたスルタン=カリフの権威を党利実現の道具としてのみ重宝する」へと堕していく。

桜会 - Wikipedia

日本の軍事国家化と翼賛議会体制への改造を目指して1930年(昭和5年)に結成された超国家主義的な秘密結社・軍閥組織である。

  • 1930年9月、参謀本部橋本欣五郎中佐、陸軍省の坂田義朗中佐、東京警備司令部の樋口季一郎中佐が発起人となり設立した。参謀本部陸軍省の陸大出のエリート将校が集まり、影佐禎昭、和知鷹二、長勇、今井武夫、永井八津次などの「支那通」と呼ばれる佐官、尉官が多く、20数名が参加していた。

  • その設立趣意書には、政党政治の腐敗と軍縮への呪詛が述べられ、軍部独裁政権樹立による国家改造を目的としていた。会員は翌1931年5月頃には100余名まで増加したが、内部は破壊派・建設派・中間派の三派があり、絶えず論争があったという。

  • 橋本・長らを中心とした急進的なグループは、大川周明らと結んで、1931年(昭和6年)3月の三月事件、同年10月の十月事件を計画(いずれも未遂)。軍部の独走を助けた。桜会の会合は毎月偕行社を利用していたが、やがて資金が豊富になると急進派は新橋桝田屋で美妓を侍らせておこなったので、のちの青年将校に”宴会派”と呼ばれるようになった。

桜会は十月事件後に解散させられたが、その残党たちは、統制派寄りの清軍派という弱小派閥を形成した。

陸軍初の軍閥 桜会

会の目的は端的に言うと「国家改造を以て終局の目的となしこれがため、要すれば武力を行使するを辞せず」ということであり、三月事件、十月事件に暗躍した。

三月事件とは、昭和6年(1931年)3月、桜会の橋本、長ら中堅将校が立案して、それを小磯国昭軍務局長、建川美次(参謀本部第二部長)、重藤千秋(参謀本部支那課長)らが支援した。密かにではあるが陸軍次官杉山元、参謀次長二宮治重も支援者であった。

さらに大川周名、徳川義親、清水行之助ら民間人に亀井貫一朗、赤松克麿無産政党までもが加担していた。

シナリオは、今開催中の議会(第59回帝国議会)を大川・亀井等が一万人の大衆を動員して議事堂を包囲し、鎮圧の名目で軍隊を出動させる。この混乱に乗じて宇垣陸相を担ぎ出して軍部独裁政権による国家改造を断行しようとするものであった。

が、結局この計画は宇垣・小磯らの動揺→変心で中止となった。

実はこのシナリオの土台となったのは永田鉄山が計画案を立案し、それを橋本らが編集し直した草稿という話もある。

事件に対する首謀者の処罰もなくウヤムヤに終わったおかげで、満州事変の当事者にある程度の安心感を覚え十月事件へ、青年将校は2.26事件(1935年)へと波及することになろうとはこの時、陸軍中央は想像もしてなかった。

三月事件については陸相宇垣も一枚噛んでいたし、彼らを取り締まるべき立場である軍務局長らでさえ加担していたのだから証拠隠滅も可能であった。

ちなみに宇垣らが支援したのはただ若い連中から取り残されるのを恐れた為であったという。折しも下克上の空気が蔓延していたのが一因であろう。

のちに内大臣木戸幸一東京裁判において「三月事件がその後もろもろの事件の元凶である」と指摘した。さすがに鋭い洞察力を持っている。だてに内大臣という要職を任されてはいないのだ。

同年10月には、同じ桜会メンバーで今度は9月に石原・板垣らが中心となって勃発させた満州事変を成功させるための国内改造を狙い、当時青年将校らから大人気であった荒木貞夫教育総本部長を首班とする革新政権を樹立せんとした事件、十月事件が起こった。

橋本欣五郎はこれを「錦旗革命」と称した。

さて事件は起こったというよりも今回もまた、未遂に終わったのである。

これは荒木に担がれる気がなく、内部分裂、脱落なので結局断念せざるを得なくなったというものである。

今回の首謀者達には転属・訓告など軽い処分を受けたが、今回もまた上層部には波及しなかった。

軍人の政治介入に関して、宇垣は戦後回想録の中で、自分自身は三月事件に関わりなかったと述べている。

しかし、彼が無関係であろうはずもなく、桜会に便乗する形で内閣首班を考えていたであろうことは否定できない。

そういえば、陸相を通じる以外の軍人の政治関与は軍人勅諭でも「世論に惑わず政治に拘わらず・・・」と禁じられてきたところ、昭和6年1月に陸相宇垣自らが「国防は政治に優先する」と述べて、軍人の政治関与を是認しているではないか。

ともかくも宇垣の人望はこの三月事件で完全に潰えたと言える。

後の昭和12年に広田内閣の後を受けて組閣の大命が彼に下ったが、陸相のなり手が得られず、流産内閣となった。

これは宇垣軍縮の復讐というよりも、三月事件での心変わりへの反感によるものと言えるだろう。

三月事件のあと、宇垣は浜口内閣の余命が短いことを確信し、サッサと伊豆長岡の旅館に引きこもった。いずれ自分にお鉢が回ってくるだろうから、それまでのんびりしようと思ってたのであろうが、4月14日に第二次若槻内閣が成立し、6月になってようやく彼に回ってきたのは予備役編入と島流しとも言える朝鮮総督のポストだったのである。

さて私達はこうした「素材」からどういう情報を引き出すべきなのでしょうか?

『大学は出たけれど』-2:小津の切り返しショット[1] : 知ったか野郎のボヤきサイト

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  • ナチス時代を経験したドイツ人の常套句というのがある。「最初から何も信じてない絶望した貧民は、決して自ら行動を起こさない。むしろ活発に行動するのは、高度成長期に生活レベルが上がり、再転落を恐れる中産階層」。若き日の毛沢東は、中国の農村調査を通じてさらに詳細な分析を行っている。「余裕ある金持ちは社会がどうなろうと柔軟に立ち回る。新興階層はかえって体制に従順な生活保守派の温床となりやすい。革命家を輩出するのは常に従来の生活レベルが保てなくなる恐怖に脅える没落層、しかもそれに属する若者層」。当時の大日本帝國臣民の振る舞いを分析しても同じ結論にしか到達し得ない。

    *というか戦後の学生運動の参加 / 不参加層を分析しても同じ結論となる。割とこれは世界普遍の法則なのであろう。

    戦前に教育を受けた世代は「1%〜20%のエリート」と「80%〜99%の一般人」から構成されている訳だが、さらに以下の様な世代に分類される。

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    • そもそも曲がりなりにも戦前の安定期に相応の教育を受け、終戦直後の第一次出産ブームに乗じて所謂「全共闘世代」を生み落とした親世代(現在は90代?)は「政治的エリート」が国民を善導するのに馴れており、大日本帝国敗ともなって政治不信を強める事はなかった。しかし、だからこそ逆に昭和54年(1979年)に共通一次試験が導入されるまで「(東大をはじめ旧帝国大学が集中する)1期校に入れなければ、革命でも起こさない限り一生落ちこぼれのまま」という危機感が2期校の大学生の間に蔓延し焦燥感から「よど号ハイジャック事件(1970年)」「山岳ベース事件(1971年)」「テルアビブ空港乱射事件(1972年)」「あさま山荘事件(1973年)」などを次々と引き起こす過激派への人材提供の温床となってきた(現在では60代〜40代)。

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    • 一方、戦間期に若者時代を過ごしたせいでロクな教育を受けられず、最前線と銃後で下っ端として酷い目に遭わされ続け、生活不安に明け暮れる終戦直後の焼け跡期に子供を産んだ親世代(現在は80代?)は「(それが学士様だろうが大日本帝国時代の将校様だろうが)政治的エリート」への不審感が強い一方で自分達の子供には真っ当な教育を受けさせてやりたいと考える生活保守派(その自分中心主義故に犯罪率も前後の世代に比べて格段に高い)の温床となった。この傾向はその子供の世代(大衆が新左翼運動に見切りを付け、海外旅行ブームの前史的にカニ族(北海道を巡るバックパッカー)が流行した1970年代前半に青春時代を送り、資質ある人が作家などより官僚や学者や金融損保関係といった手堅い方面に向かった一方で「競争は嫌いだ」などと口にしつつ常に競争してしまう現代の50代)にまで継承される事態となる。

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    統計上の数字だけ眺めていると第一次ベビーブーム前後の出生者を「団塊世代」とか「全共闘世代」といったキーワードでまとめて扱えそうな気もするが、いかんせん「大学のマスプロ化」が掛け声だけで完成途上にあった時期に育った人々なので中身はかくのごとしという訳である。 

  • 儒教教育の影響からか)戦前日本の政治的エリート集団やインテリ=ブルジョワ階層は思想の左右を問わず「(福本イズムめいた)民衆の隷従を当然視し、外敵との勝負より(絶対的正統性を勝ち取る為の)内部党争における勝利を優先する傾向」を有していた。ポーランド王国ベトナム王朝や朝鮮王朝に至っては内紛が生じる都度平然と外国勢力を引き込み、それによって祖国を滅ぼしたという曰く付きの悪癖。一方、戦前日本の政治史には「選挙の都度、与党が政府機関を挙げて野党議員の当選を妨害する」困った悪癖が存在する。何度政権交替を経ても払拭出来無かったのは要するに復讐合戦の様相を帯びる様になっていたからで、これと失態の庇い合いが次第に「政党政治に対する国民の不信感」を高めていったのだった。
    *「福本イズムめいた日本のインテリ=ブルジョワ階層独特の悪癖」…これが当時彼らの間でいとも簡単に「転向」が繰り返された主要因の一つかもしれない。将棋のように「王将以外は、勝てないとわかれば自己保存本能に従って相手側に寝返る」のが日本においては伝統的摂理だったのである。
    福本理論の眼目と歴史的意
    *こうして民衆がインテリ=ブルジョワ階層そのものの在り方に対して不審の目を向けている状況下において、彼らがそれを奉じても社会主義思想や共産主義思想が民衆に受容される筈がなかった。ちなみに同時期のドイツはさらに滅茶苦茶で、ナチス共産党コミンテルンから「社会ファシズム(独Sozialfaschismus、英social fascism)」のレッテルを貼られたヴァイマル政権打倒の為に「共闘」する場面がしばしば見受けられたのである。

  • もちろん「(国民統合を機能の前提とする)国民国家」にとって、かかる「政治的エリート集団やインテリ=ブルジョワ階層 VS 民衆」「都会生活者 VS 田舎農民」といった図式での相互不審の高まりは存続の危機をもたらす。ファシズムやナチズムや日本軍国主義は、かかる事態に対するトップダウンともボトムアップともつかない処方箋として台頭してきたともいえる。この点に関してのみは中国が2004年以降掲げる様になった「和諧社会」構想自体もあまり変わらない。要するに元来は必ずしも権威主義的強制の体裁を取るとは限らず、かえってそれが恐ろしいとする声もある。

    和諧社会 - Wikipedia
    中国共産党和諧社会」構想(2004年)…確かにそれ自体には別に問題はない。困るのは2014年以降掲げる様になった「一帯一路」構想と組み合わせるとファシズムやナチズムや日本軍国主義と似た景色を現出させてしまう点にある。

    *そもそも中国が海外から批判されている「チベット人ウイグル人の弾圧」の背景にあるのは(故郷で食えなくなった)漢族の移民(棄民)政策。その範囲を世界中に広げようというのが「一帯一路」構想なのだから、たとえ侵略行為を伴わなかったとしても(満州開拓事業に突破口を見出そうとした)日本軍国主義的色彩を帯びてしまうのは仕方のない事なのである。要するに当時の問題の本質は大日本帝國の侵略行為というより「朝鮮排華事件(1931年)」にあったという事。
    朝鮮排華事件 - Wikipedia

  • 欧州では最近、極左と極右を一まとめにして「現状懐疑派」と総称し、「現状維持派あるいは漸進派(左右両極端を切り捨てた中道派。共産主義理論上でいう「修正主義者」)」に対峙させる論調が静かに広まりつつあるが、その発想はこの投稿で扱った「日本軍国主義台頭前夜の景色」にも応用が利きそうだったりする。無論、極左と極右の党争は熾烈を極めるが、両者は「主義や絶対的正統性を勝ち取ろうとする意欲を持たない人間への侮蔑感情」なら共有しており、案外その範囲でなら国際的に「修正主義者(あるいは漸進主義者または現状維持派)に対する共闘」が成立するものだったりするらしい。
    *かつてネット上における論争で、とある沖縄独立派アカウント(国籍不明だが、おそらく非日本人)から「貴様は繰り返し沖縄独立を支持する沖縄人がたった3%に過ぎないと繰り返し強調するが、そんな数字、残り97%さえ粛清してしまえば、たちまち100%になるんだよ」と反論された事がある。ISIS関連の投稿で「人間の盾が非人道的というが、少なくとも彼らは自らも信じるイスラムの大義の為に死んでいくんだ。帝国主義の犠牲となって無念の死を遂げるのとは訳が違う。当人もきっと本望だろう」なる発言も見掛けた事がある。もちろんこんな極端な意見がリベラル派の間でコンセンサスを得る事などあるまい。その傲慢な口振りから察するに、実際の政治活動に参加してるかさえ怪しい(おそらく参加していたとしても正体を隠してる)。しかしとりあえず、これこそがまさに「そもそも現状懐疑派は現状懐疑派以外を人間と認めない(だから無差別テロだって良心に呵責を覚える事なく平然と遂行出来る)急進派の理念」なのであって、一般人の観点からすれば思想の左右を問わずシャットアウトしたい発想である事実は動かない。

    ファシズムやナチズムや日本軍国主義の台頭」の最も許してはいけない側面とは、まさにここでいう「現状懐疑派に現状維持派が勝利する局面の顕現」に他ならない。先例を鑑みる限り「必要最小限だけ許す」みたいなコントロールは一切効かず、一度許可してしまったら歯止めもなく影響範囲が広がっていくだけとも。
    *ドイツの場合、ドイツ社会民主党メンバーで当時国防大臣だった「人殺しノスケ」が第一次世界大戦帰還兵を集めてドイツ義勇軍(Freikorps=フライコール)を編成してドイツ革命鎮圧、スパルタクス団殲滅、バイエルン・レーテ共和国打倒などに投入した時点で既に限度を超えていたとも。そして日本の場合も幕末の尊王攘夷志士の暴走まで遡る「暴力の伝統」が存在した。

    http://skepticism-images.s3-website-us-east-1.amazonaws.com/images/jreviews/freikorps-munich.jpgf:id:ochimusha01:20170320091142j:plain

    こうした状況下、五味川純平「戦争と人間」の何よりの面白さは「何時、誰がその限度を超えたか」読者の想像にまかせている辺り。それは関東軍による張作霖爆殺事件(1928年)のタイミングだったのか、5.30暴動(間島共産党暴動、1930年)のタイミングだったのか、満州事変(1931年)のタイミングだったのか、それとも…それは当時を実際に生きた人間が共通して抱える「決っして正解が見つからないパズル」のようなものだったのかもしれない。
    張作霖爆殺事件 - Wikipedia
    間島共産党暴動 - Wikipedia
    満州事変 - Wikipedia

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    五味川純平「戦争と人間(1965年〜1983年)」運命の序曲3

    国民政府は葫蘆島築港に関して、北寧鉄路局長・高紀毅とオランダの財団ハーバ・ワークスの間に借款契約を締結させ、公表した。在満日本人が憤慨するのは、築港が完了すれば、満鉄に対して平行あるいは包囲網を形成しつつある支那側鉄道による貨物は、悉く葫蘆島へ搬出され、満鉄という大動脈の起点に当る大連港は死命を制せられるからである。大動脈の血流が悪くなり、日本自慢の海港都市大連がさびれれば、満洲へ進出した日本の勢力はほとんど無にひとしくなる。張学良や国民政府はそれが狙いだし、日本側はそうさせまいとして、外交折衝を重ねもし、謀略を用いてまで武力干渉の機をうかがっているのである。
    *いっその事、柳条湖事件(昭和6年(1931年)9月18日)に続く軍事展開で張学良軍(20万人規模)が関東軍(4万人規模)を確実に返り討ちにしていたなら、事後の対応も随分変わっていただろう。ところが実際には逆に大軍を擁する張学良軍が、数的に圧倒的に劣る関東軍と(内地の命令体系を無視して勝手に出張ってきた)朝鮮軍にあっけなく蹴散らされてしまう。その後、両国を見舞う悲劇的展開は、まさにその瞬間から始まったのだった。それにつけても、このタイミングにおける張学良や蒋介石の強気の態度は一体何だったのか。
    満州事変

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    「中華流」不平等条約撤廃交渉

    ちょうど第二次若槻内閣が成立した昭和6年(1931年)4月14日、駐華代理公使・重光葵代理公使・重光葵は対支外交の根本的対策を協議する必要があって、帰国の挨拶のために南京で王正延外交部長と会見した。

    王は革命外交を唱えて、その実行方針を五つの期間に分けて公表していた。第一期は関税自主権の回復。第二期は治外法権の撤廃。第三期は租界の回収。第四期は租借地の回収。第五期は鉄道利権、内河航行権、沿岸貿易権の回収である。

    重光は、この革命外交のプログラムについて、

    「これは王外交部長の真意であるか?」

    と確かめると、

    「まさにそのとおりである」

    という返事であった。そこで、さらに、

    租借地の回収とあるが、これは日本の大連、旅順などの関東州を含むものか?」

    と質した。

    「もちろん含むものである」

    そういう返事であった。
    「鉄道利権とは満鉄をも含むものであるか?」

    「もちろんのことである」

    そこで、重光は形勢容易ならずと判断して、この大要を幣原外相に電報で報告した。その際、これが洩れると両国間に感情の縺れが生じて外交折衝が難航する怖れがあるので、重光は王正延の言明を外部に発表しないように本国へ要請した。ところが、外務省情報局部長の白鳥敏夫(のちの日・独・伊、枢軸協定の立役者の一人)が、この極秘電を東京の主な新聞通信社の論説委員たちに参考のためにと云って詳細に披露してしまった。これが外電から中国側新聞へ流され、日本の新聞に逆輸入されて、世論を激発したのである

    大連や旅順を回収するとは何事であるか!

    九十九ヵ年租借ということは、永久ということである!

    満鉄を回収するとは何事か!

    満鉄とその付属地は日本の国土であり、財産であり、日本人の血の代償である!

    満洲では青年連盟の面々が先陣に立って、激越な感情を煽った。感情には、それ自身、自己陶酔する側面がある。沙河口(大連市)大正小学校講堂での青年連盟の演説会の開会の辞にそれが端的に現われている(六月)。

    「我々が起つ時は遂に来た、我々は全満の同憂同志に総動員の命令を下したのである」

    前年十一月、永田鉄山・軍事課長が渡満した際、秘密の打合せをし互いに諒解点に達していた関東軍参謀の板垣大佐、石原中佐にとっては、在満邦人の軍国的気圧が上れば上るほど都合がよかったにちがいない。
    *もしかしたら、この当時から一貫して中国外交とは「国内の政敵を意識しての面子の張り合い」に過ぎなかったのかもしれない。日本国内で騒ぐ対外硬派の政党政治家を敵に回してまで地道な交渉を続け、不平等条約完全撤廃(1911年)に成功した大日本帝国の苦闘とは一体何だったのか。当時の中華民国の振る舞いには、どう考えてみても(アメリカの干渉もあって)日本側があっけなく山東半島にまつわる既得権益を手放したのを目の当たりにして「日本人など所詮、劣等民族だから強気に出れば簡単に向こうから土下座してくる」と踏んだとしか思えない側面があるのである。

    万宝山事件 - Wikipedia

    昭和6年(1931年)7月2日に長春北西に位置する万宝山で起こった、入植中の朝鮮人とそれに反発する現地中国人農民との水路に関する小競り合いが中国の警察を動かし、それに対抗して動いた日本の警察と中国人農民が衝突した事件。

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    • 満州の権益を持っていた日本政府は、1930年5月の間島共産党暴動で追われた朝鮮人200人を万宝山に入植させた。朝鮮人は早速水路を引く工事を始めたが、地主の了解を取っていなかったため、地主の要請で中国の警察は朝鮮人を10人逮捕して工事の中止を求めた。これに対して日本の長春領事館は警官を送り、朝鮮人の保護に動いた。

    • 1931年7月2日に現地中国人農民数百名が工事中止を求めて銃を持って実力行使に出たため、武装した日本の警官50人が対峙したが、中国警察の呼びかけでその場は収まった。その後、日本の警察が警備に当たり7月11日に水路は完成した。田代重徳領事は「鮮農五十余名は歓喜して万歳を連呼し我等は永久にこの地を死守すべしと絶叫するものあり」と報告している。ここまでの展開では死者は出なかった。

    • 朝鮮語の大手新聞であった「朝鮮日報」は“2日の衝突で多数の朝鮮人が亡くなった”と報じたが、この記事をきっかけに朝鮮半島での中国人への感情が悪化。主に都市部で中国人排斥運動が起こった(朝鮮排華事件)。朝鮮半島のみならず、日本でも在日朝鮮人が在日中国人を襲撃する事件が相次ぎ、この排斥運動による中国人の死者は109人、負傷者は160人であった。運動のきっかけとなった記事を書いた朝鮮日報満洲長春支局長金利三(本名:金永錫)は14日の朝鮮日報に「日本の情報に基づいて記事を書いたが誤報だった」とする謝罪文を掲載したが、翌日同じ朝鮮人によって銃で殺害されている。

    その後も在満朝鮮人は襲撃を受けるようになり、一斉に満州鉄道沿線に避難。その後、秩序の回復に伴って戻っていったが完全には回復せず、北満の水害もあって、多くの避難民が残ることになった。
    *時々ニュースで流れる「漢族とウィグル人やチベット人の衝突」なども、背景を探っていくとしばしばこうした「大陸的多民族間紛争」に行き当たる。日本人がその場にいようがいまいが、同種の事件が頻発し続けるのが中国大陸における伝統的特殊事情。おそらく当時の大日本帝国がしばしば途方に暮れた様に、中国共産党も途方に暮れている側面が確実に存在すると推定される。

海外ニュースをしばしば「韓国における政治対立がやばい」とか「タイの政治対立がやばい」みたいなニュースが流れますが、元来日本人がそういう局面で真っ先に思い浮かべるべきなのは、こうした「日本の議会制民主主義と政党政治が本当にやばかった」時期の悲惨な実例なのではないでしょうか。

韓国における政治対立軸の変化

どうしてそれが不可能になってしまったかというと、おそらく「長い1960年代(1958年〜1974年)」と呼ばれる国際的な政治的浪漫主義期(特にそれが日本でも吹き荒れた1960年代後半〜1970年代前半)に歴史観の大幅な改竄が為されてしまったから。
*実際1970年代の学校では「突如発狂した帝国陸軍と帝国海軍が日本人と植民地人の弾圧に着手と侵略戦争に着手して自滅した」的な粗雑な歴史観が教えられていた。まさにそうした思考様式こそが(現実より個人的感動を重視する)政治的浪漫主義の典型例だという事実が世に知れ破綻するのは、皮肉にも「我らが目指すべき地上の楽園はポル・ポト政権が実現した」なる彼らの共同幻想が、それまで彼らが応援してきたベトナム軍の侵攻によって破られたせいだった。大虐殺が生んだ見渡すばかりの骸骨の山…インテリ=ブルジョワ階層やベトナム系市民に対する徹底的なまでの民族浄化…それが彼らの理想視した「楽園」の正体だったという次第。だが彼らの記憶改竄能力はあくまで徹底していて、全てはなかった事にされてしまう。

*とある分析によれば、「長い1960年代(1958年〜1974年)」的ロマン主義は「貧困からの脱却」をテーマとし現実との同一視が強調された「1960年代的=梶原一騎的(スポ根的)想像力の時代」と、それが過去のものとして忘れ去られ「(マカロニ・ウェスタン的)際限なき性と暴力への耽溺」だけが残され虚構性が強まった「1970年代的=永井豪的(ハレンチ学園的、デビルマン的)想像力の時代」に二分されるという。同時に1960年代後半から1980年代にかけては「怪奇/オカルト/超能力/超古代文明/UFO/サイキック・ブーム」の時代でもあり、ここにも現実性と虚構性の錯綜なら見て取れる。

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それにつけても1970年代に入ってからの「歴史改竄」は激烈でした。これまで紹介してきた五味川純平「戦争と人間(1965年〜1983年)」さえ、映画版三部作(1970年〜1973年)においては「すべての日本人が狂っていった大日本帝国時代、唯一共産主義者だけが正気を保ち日本人の良心として機能していた」なんて設定のヒーロー群像物に変貌してしまいました。もはや単なる共産主義(それも中国共産党ソ連共産党)のプロモーション映画。冷静に比較してみると「もはやこれ原作付きの意味なくね?」といった有様ですが、当時の時代精神にあっては、そんな無茶さえ「元気があってよろしい」と笑って許すロマン主義的雰囲気が充満していたのです。同時期には真剣に戦前日本人の抱えていたジレンマと向き合おうとした吉本隆明の「転向論」や白土三平の忍者劇画などもまとめてゴミ箱に放り込まれています。
1139夜『カムイ伝』白土三平|松岡正剛の千夜千冊

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*こうした(「長い1960年代(1958年〜1974年)」を特徴付ける享楽性の延長線上に現れた)「都合の悪かった歴史なんて一切なかった事にすれば良い」という思考様式こそが、1980年代から1990年代前半にかけて日本を席巻した「軽薄短小で商業主義的な文化」を準備したとも。

ただ時代は変わりました。確かに「誤解」が歴史を動かす事もあります。ベネディクト・アンダーソンも「想像の共同体(Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism、1983年)」の中で「フランス革命は、その実態がどうであったかははともかく、意識して達成すべき目標を設定したという点が違大だった」と主張しています。しかし、それならそれで「長い1960年代(1958年〜1974年)の遺産」が目指した「意識して達成すべき目標」とは一体何だったのか、以降の時代でどんな役割を果たしたのかが改めて問われる事になるのです。

*なにしろ日本の左翼団体は、この時期から「黄金期」と呼ばれた1980年代にかけてゆっくりと、自らの存続そのものを最優先課題と考える、現実からも大衆からも乖離した保守主義的団体への変貌を遂げていったのだという見解すら存在する。

いずれにせよ当時のロマン主義的展開はまさしく現実、すなわち東欧革命(1989年)やバブル崩壊(1991年3月〜1993年10月、1973年12月から続いた安定成長期の終焉。「失われた20年」と呼ばれる低成長期の始まり)、ソ連崩壊(1991年12月)などに打ちのめされる結果となりました。この時「我々が想像可能な世界は確実に少し狭くなった」のです。

*「我々が想像可能な世界は確実に少し狭くなった」…この言い回し、皮肉にも米国連最高裁判所が「同性婚は合憲」という判断を下した2015年6月26日にネット上で仕入れたもの。同性愛が異常視されていた時代の物語文法において、同性愛者は「決っして観客の賞賛の的となってはならない」ギャングやその情婦の同類とみなされ破滅的最後を遂げるのが常だった。またその禁じられた立場ゆえにSex Fantasyの重要な供給源の一つと目されてきた。要するに「罰がなければ、逃げる楽しみもまたない」の世界が少し縮んだのである。

どこまで狭くなり得るかという極限値は既に明らかになっています。
碧海純一「科学的な物の見方と科学万能主義」 - バートランド・ラッセルのページ

http://russell-j.com/cool/TPJ-SO.JPG

  • 啓蒙主義者」コンドルセや「古典的自由主義者」ジョン・スチュワート・ミルが到達した「数理にのみ忠誠心を誓う臣民」の世界…ここでいう「数理」とはヘレニズム時代のストア派哲学や古代ローマ時代の哲人政治セネカに起源を有する欧州貴族の「存続を最優先課題とする功利主義」の究極形態であって、単なる快楽主義や利己主義の範疇は軽く凌駕している(戦前にはそういう認識がなかった事が自由主義思想弾圧の原因となった)。

  • 絶えず「何かを見逃してるリスク」や「採用したアルゴリズムそのものが間違ってるリスク」に苛まれ続ける実存不安との共存を強いられる立場ゆえに「科学理論(仮説)は実験によって検証できなくてはならない(科学を科学たらしめているのは、その「検証可能性」ではなく「反証可能性」である)」とするポパーの科学哲学や(集団の存続を損なわない範囲での)多様化の容認…アメリカには「リベラルな福音派」という概念が存在する。当人が世界終末論を信じていようが、進化論を信じていなかろうがそれは個人の自由。他人に同様の信仰を強要しない限り「リベラル派」に分類されるというもの。
    *こういう立場に立てば当然、人間の政治的立場はとりあえず「現状維持派(漸進派)」と「現状懐疑派(急進派)」に二分される事になる。この時点で左翼と右翼を峻別する意味が吹き飛ぶ。

  • この立場は、究極的には宮本イズムやカール・シュミッツの政治哲学のような「党争の勝敗こそが政治的正しさを担保する」とする思考様式と共存し得ない…ただしその事が何を意味するかについては慎重な判断を下す必要がある。ハンガリー出身の経済人類学者カール・ポランニーは「大転換 (The Great Transformation1944年)」の中で英国の囲い込み運動を詳細に分析し「後世から見れば議論や衝突があったおかげで運動が過熱し過ぎる事も慎重過ぎる事もなく適正な速度で進行した事だけが重要なのであり、これが英国流なのだ 」と指摘している。この考え方はアイルランドプロテスタント出身の政治家エドマンド・バークが「フランス革命省察(Reflections on the Revolution in France、1790年)」の中で述べた「(ある世代が自分たちの知力において改変することが容易には許されない)時効の憲法(prescriptive Constitution)」概念とも重なる。

「意識の大変革」とか不可欠と思いきや、さにあらず。割と既存スタンスの多くがそのまま存続を許される様です。本当のパラダイムシフトが起こる瞬間というのは、案外そんなものなのかもしれませんね。

さて、私たちはいったいどちらに向けて漂流しているのでしょうか…