諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

ナショナリズムの歴史② 「産業報国運動」という名の市民社会と国民国家の鍔競り合い。

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大日本帝国は確かに「国民国家」の創出には成功した様です。

それでは、それと重なる形で「市民社会」も存在してきたといえるのでしょうか?

 ①「究極の個人主義」を求める動き自体は、1910年台〜1920年台前半にピークを迎える。インテリや文学青年の無政府主義と「ヘル・イム・ハウゼ(Herr im Hause)」式の資本家温情主義が激突した時代。逆をいえば、この時期の日本人にはまだまだ「社会」という観点が欠落していたともいえる。
*ただむしろ「総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)」終演後に回帰すべきは当時の心理状態という指摘もある。特にネット社会は「社会不在」という点で重なる部分が多い。

大杉栄「僕は精神が好きだ(1918年2月)」

僕は精神が好きだ。しかしその精神が理論化されると大がいは厭いやになる。理論化という行程の間に、多くは社会的現実との調和、事大的妥協があるからだ。まやかしがあるからだ。

精神そのままの思想はまれだ。精神そのままの行為はなおさらまれだ。生れたままの精神そのものすらまれだ。

この意味から僕は文壇諸君のぼんやりした民本主義人道主義が好きだ。少なくとも可愛い。しかし法律学者や政治学者の民本呼ばわりや人道呼ばわりは大嫌いだ。聞いただけでも虫ずが走る。

社会主義も大嫌いだ。無政府主義もどうかすると少々厭になる。

僕の一番好きなのは人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。しかしこの精神さえ持たないものがある。

思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そして更にはまた動機にも自由あれ。

与謝野晶子 激動の中を行く(1919年)

巴里のグラン・ブルヴァルのオペラ前、もしくはエトワアルの広場の午後の雑沓初めて突きだされた田舎者は、その群衆、馬車、自動車、荷馬車の錯綜し激動する光景に対して、足の入れ場のないのに驚き、一歩の後に馬車か自動車に轢ひき殺されることの危険を思って、身も心もすくむのを感じるでしょう。

しかしこれに慣れた巴里人は老若男女とも悠揚として慌てず、騒がず、その雑沓の中を縫って衝突する所もなく、自分の志す方角に向って歩いて行くのです。

雑沓に統一があるのかと見ると、そうでなく、雑沓を分けていく個人個人に尖鋭な感覚と沈着な意志とがあって、その雑沓の危険と否とに一々注意しながら、自主自律的に自分の方向を自由に転換して進んで行くのです。その雑沓を個人の力で巧たくみに制御しているのです。

私はかつてその光景を見て自由思想的な歩き方だと思いました。そうして、私もその中へ足を入れて、一、二度は右往左往する見苦しい姿を巴里人に見せましたが、その後は、危険でないと自分で見極めた方角へ思い切って大胆に足を運ぶと、かえって雑沓の方が自分を避けるようにして、自分の道の開けて行くものであるという事を確めました。この事は戦後の思想界と実際生活との混乱激動に処する私たちの覚悟に適切な暗示を与えてくれる気がします。

大杉栄「新秩序の創造 評論の評論(1920年6月)」

『先駆』五月号所載「四月三日の夜」(友成与三吉)というのがちょっと気になった。

それは、四月三日の夜、神田の青年会館に文化学会主催の言論圧迫問責演説会というのがあって、そこへ僕らが例の弥次やじりに行った事を書いた記事だ。友成与三吉君というのは、どんな人か知らないが、よほど眼や耳のいい人らしい。僕がしもしない、またいいもしない事を見たり聞いたりしている。たとえば、その記事によると、賀川豊彦君の演説中に、僕がたびたび演壇に飛びあがって何かいっている。

しかし、そんな事はまあどうでもいいとして、ただ一つ見遁みのがす事の出来ない事がある。賀川君と僕との控室での対話の中に、僕が「僕はコンバーセーションの歴史を調べて見た。聴衆と弁士とは会話が出来るはずだ」というと、賀川君が「それは一体どういう訳だ」と乗り出す。それに対して僕がフランスの議会でどうのこうのと好いい加減な事をいう、というこの最後の一句だ。何が好い加減か。この男は自分の知らない事はすべてみんな好い加減な事に聞えるものらしい。

僕らの弥次に対して最も反感を抱いているのは警察官だ。

警察官は大抵仕方のない馬鹿だが、それでもその職務の性質上、事のいわゆる善悪を嗅かぎわけるかなり鋭敏な直覚を持っている。警察官の判断は、多くの場合に盲目的にでも信用して間違いがない。警察官が善いと感ずることは大がい悪い事だ。悪いと感ずることは大がい善い事だ。この理屈は、いわゆる識者どもには、ちょっと分りにくいかも知れんが、労働者にはすぐ分る。少なくとも労働運動に多少の経験のある労働者は、人に教わらんでもちゃんと心得ている。そしてそれを、往々、自分の判断の目安にしている。いわばまあ労働者の常識だ。

僕らの弥次に反感を持つものは、労働者のこの常識から推せば、警察官と同じ職務、同じ心理を持っている人間だ。僕らは、そんな人間どもとは、喧嘩をするほかに用はない。

元来世間には、警察官と同じ職務、同じ心理を持っている人間が、実に多い。

たとえば演説会で、ヒヤヒヤの連呼や拍手喝采のしつづけは喜んで聞いているが、少しでもノオノオとか簡単とかいえば、すぐ警察官と一緒になって、つまみ出せとか殴れとかほざき出す。何でも音頭取りの音頭につれて、みんなが踊ってさえいれば、それで満足なんだ。そして自分は、何々委員とかいう名を貰って、赤い布片でも腕にまきつければ、それでいっぱしの犬にでもなった気で得意でいるんだ。

奴らのいう正義とは何だ。自由とは何だ。これはただ、音頭取りとその犬とを変えるだけの事だ。

僕らは今の音頭取りだけが嫌いなのじゃない。今のその犬だけが厭なのじゃない。音頭取りそのもの、犬そのものが厭なんだ。そして一切そんなものはなしに、みんなが勝手に踊って行きたいんだ。そしてみんなのその勝手が、ひとりでに、うまく調和するようになりたいんだ。

それにはやはり、何よりもまず、いつでもまた何処どこにでも、みんなが勝手に踊る稽古けいこをしなくちゃならない。むつかしくいえば、自由発意と自由合意との稽古だ。

この発意と合意との自由のない所に何の自由がある。何の正義がある。

僕らは、新しい音頭取りの音頭につれて踊るために、演説会に集まるのじゃない。発意と合意との稽古のために集まるんだ。それ以外の目的があるにしても、多勢集まった機会を利用して新しい生活の稽古をするんだ。稽古だけじゃない。そうして到る処に自由発意と自由合意とを発揮して、それで始めて現実の上に新しい生活が一歩一歩築かれて行くんだ。

新しい生活は、遠いあるいは近い将来の新しい社会制度の中に、始めてその第一歩を踏み出すのではない。新しい生活の一歩一歩の中に、将来の新しい社会制度が芽生えて行くんだ。

僕らのいわゆる弥次は、決して単なる打ち毀しのためでもなければ、また単なる伝道のためでもない。いつでも、またどこにでも、新しい生活、新しい秩序の一歩一歩を築き上げて行くための実際運動なのだ。

弁士と聴衆との対話は、ごく小人数の会でなければ出来ないとか、十分にその素養がなければ出来ないとかいう反対論は、まったく事実の上で打ち毀されてしまった。

怒鳴る奴は怒鳴れ、吠える奴は吠えろ。音頭取りめらよ。犬めらよ。

権力者,支配者が被支配者,従属者からの権利要求あるいは外部からの強制によることなく,いわば自主的に恩恵的諸財を与え,そうすることで被支配者の不満,反抗を曖昧にして階級的対抗関係 (労使関係あるいは地主=小作関係) を隠蔽しようとするイデオロギー,あるいは支配者の政策のことをいう。したがって階級的対抗関係を表面化させようとする動きに対しては強力な弾圧をもってのぞむ。必ずしも日本に特殊なものではないが,第2次世界大戦前の日本では家族主義イデオロギーという形で存在し,大きな役割を果した。
*この様に「社会現象の一種」として解説される事が多いが、むしろ温情主義(paternalism)の最大の特徴は「(全てを身内問題に還元する事による)社会性の排除」といってよい。米国においては(「ジェファーソン流民主主義」を心理的に支え、南北戦争(1861年〜1865年)勃発の原因となった)家父長制(Patriarchy)と奴隷制を守り抜くべく中央政府に逆らった開拓地農場主の無政府主義と関連づけて語られる事が多い。

第一次世界大戦(1914年〜1918年)特需が終焉し、経済事情が悪化した1920年台後半以降は急速に「マルクス主義VS軍国主義」といった全体主義的対立構図が浮上してくる。そうした最中にあっても一応「砂漠の春」的風景なら存在したのである。

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  • 大正12年(1923年)9月1日の関東大震災を契機に横浜港と関東養蚕家が大被害を受けると、日本経済の中心は神戸港を擁し、それまで(関東経済圏に抗すべく)独自路線で大陸進出を進めてきた大阪産業界に推移する。

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  • 当時の大阪産業界の大陸進出の特徴は江戸時代から続く繊維産業の延長線上において現地に生産拠点と市場を求める姿勢にあった。したがって平和を前提とし、三度にわたる山東出兵(1927年〜1928年)も、マスコミを駆使したキャンペーンを駆使して「現地邦人の保護」以上に拡大させる事はなかった。
    *かくして福沢諭吉が嘆いた「田舎住民と都市住民の相互不信」なる伝統的構図が「(朝鮮米の輸入量を制御する朝鮮総督府の行政内容を厳しく監視する)農民層と(大陸繊維市場への尖兵として様々な形で朝鮮人を利用する様になった)繊維産業界の緊張感ある対峙」に発展。
    マスコミ史的には「(政府寄りの)東京朝日新聞」と「(関西財界人寄りの)大阪朝日新聞」が対立状態にあった 時期と認識されていたりする。
    朝日新聞の誕生・社史には載らない歴史
  • 破局世界大恐慌(1929年)以降に訪れる。昭和11年(1936年)の2月26日から2月29日にかけて帝都を震撼させた二・二六事件が勃発するまでに大阪のみならず日本全体、いや世界全体の産業が縮退。大日本帝国においてもドイツにおいても産業界は「軍人と官僚の暴走」の抑止力となるどころか、その尻馬に乗ろうという姿勢を見せる様になる。
    *「国際的な産業界の縮退」に加え、まだまだ農業依存比率の高かった大日本帝国は、昭和農業恐慌(1930年〜1931年)や昭和東北大飢饉(1930年〜1934年)で大ダメージを受けてしまう。かくして「マスコミは戦前は戦争、戦後はGHQに依存先を乗り換えた」といわれる時代が到来。
    朝日新聞の戦争責任/最大のA級戦犯は朝日自身だ 【賢者の説得力】

こうした時代的流れとナショナリズムの関係に目を向けると「産業報国運動」なるキーワードが浮上してくるのです。建前に掲げられるのはあくまで「断じて舶来を要せず(サントリー鳥井信治郎社長)」の精神ですが、割と「ともすれば全てを完全統制下に置こうとする中央集権側に対する市民社会側の自治権拡大運動」を裏テーマとする事も多く実際の展開は極めて複雑を極めます。
*例えば川内康範原作のTV番組「月光仮面(1958年〜1959年)」石井輝男監督映画「スーパー・ジャイアンツ・シリーズ(1957年〜1959年)」といった特撮ヒーロー物の草分け作品は「フライシャーのスーパーマン(Superman、1941年〜1943年)」の日本放映(1955年)、特撮戦隊物の草分け「忍者部隊月光(1964年〜1966年)」は「コンバット!(Combat!、1962年〜1967年)」の日本放映を契機に「このままでは国内エンターテイメント産業が輸入コンテンツに蹂躙されてしまう」という危機感が高まった産物だった。日本魔法少女物の起源に至っては、もっと複雑なエピソードの積み重ねで彩られている。
スーパーマン (1940年代のアニメ映画) - Wikipedia
月光仮面 - Wikipedia
スーパージャイアンツ - Wikipedia
コンバット! - Wikipedia
忍者部隊月光 - Wikipedia

①そもそもの発端は江戸幕藩体制初期まで遡る。スペイン=ポルトガル同君統治体制と絶縁するするに当たって幕府は生糸の輸入元を(清朝との密貿易に長けた)朝鮮商人と(清朝と公式に交易していたばかりかベトナムでの養蚕産業振興に取り組んでいた)オランダ商人に推移させたが、これに食いついてきたのが大阪の西陣商人や上越・関東・東北の田舎大名達で、急激に自給率がアップ。そもそも戦国時代日本は木綿も輸入に頼っていたが、こちらに至っては早期のうちに自給率100%と廉価化が達成されている。
*「キャラコの自給」を目指して英国産業革命初期を牽引したキャプテン・オブ・インダストリー(Captains of Industry)もまたこういう存在で、毛織物産業や砂糖産業に依存するジェントリー階層と複雑な関係を構築してきた。江戸時代日本における「御用商人と株仲間の戦い」もそうだが「市民社会」は決して(当事者がそう見せ掛け様としているほど)一枚板の存在ではなく、裏側では様々な怨嗟と思惑が渦巻いている。
キャプテン・オブ・インダストリー

*こうした産業展開の足跡が日本全国に「小京都」を足跡として残す事になる。

*オランダ商人が次の輸入の目玉として持ち込んだ「糖三盆」も、生産地で反乱が勃発したのを契機として西国大名が大幅に食い込んだ。そしてこれが倒幕の原動力となる

②近代に入ると、こうした次元の戦いに、さらに「国民国家市民社会の主導権争い」「工業化に伴う品質低下による労働者を動員するモチベーションとして機能喪失」といった複雑な展開が加わる事になる。

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  • 17世紀後半に輸入香辛料依存状態から決別し地産地消路線を重視する様になったフランス宮廷料理がフランス革命によって大衆化を余儀なくされ、さらに「(日本にも伝わった)デミグラ・ホワイトソース依存状態」から脱却する形でヌーベル・キュイジーヌ(nouvelle cuisine)へと移行していく様は、もはやそれ自体がドラマといって良い。

  • 当時ロンドンに亡命していたカール・マルクスも「資本論(Das Kapital:Kritik der politischen Oekonomie)第一部(1867年)」の中で「英国において白パンが辿った数奇なる運命」について詳細な解説を試みている。

日本でこうした展開が最も顕著な形で現れたのは近代以降の酒造文化の世界においてであったとされています。

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日本酒産業の工業化と洋酒報国運動

サントリー明治12年(1879年)鳥井信治郎が大阪の両替商・米穀商の鳥井忠兵衛の次男として生まれる。

【日本酒】明治32年(1899年)、政府が自家製酒税法を廃止。これを以って自家製酒(どぶろく)の製造と消費を禁止。違法化によって「どぶろく」という語そのものが「密造酒」なるニュアンスを帯びる展開に。

  • 政府の歳入獲得を目的としての措置だった。当時酒類消費の大勢を占めたどぶろくを禁止すれば、国民の需要は酒税のかかる清酒へと向き、それがそっくり歳入に反映するだろうと明治政府は考えたのである。ところが実際にはそうは運ばず、以降も酒税の歳入に占める割合が増加する事はなかった。

  • どぶろく禁止」は「国民の食生活への国家の介入」として根深い反論を招き、1980年代後半のどぶろく裁判などを経て、2002年(平成14年)の構造改革特別区域でいわゆる「どぶろく特区」が設けられるまで続く。2009年現在なお、どぶろく特区以外では家庭でどぶろくを作ることは法的に禁止され続けている。

サントリー明治25年(1892年)鳥井信治郎13歳で大阪道修町の薬種問屋小西儀助商店(現在の接着剤製造のコニシ)に丁稚奉公に出る。

  • 後に鳥井信治郎は「このときそこで扱っていた洋酒についての知識を得た」と述懐している。

  • 明治28年(1895年)には博労町の絵具・染料を扱う小西勘之助商店に移った。

  • そして明治32年(1899年)、20歳で大阪市西区に鳥井商店を起こす。

【ニッカ】明治27年(1894年)6月20日竹鶴政孝広島県竹原町(現・竹原市)で酒造業・製塩業を営む竹鶴敬次郎の四男五女の三男として生まれる。

  • 竹鶴家は地元の塩田の大地主として製塩業を営み、その傍ら酒造業も営んでいたので幼い頃から酒に触れることが多く、自然と酒に興味を持っていった。

【日本酒】明治34年(1901年)白鶴酒造が一升瓶詰めの日本酒を発売。

  • 以前は、江戸へ下り酒として大量輸送される灘のような大ブランドを例外として、基本的に日本酒とは地産地消される商品だった。要するに祭礼などの場に地元の酒が四斗樽で運ばれて皆で自由に飲まれるか、比較的に裕福な階層が自前の徳利などを携えて酒屋へ行き、酒屋は店頭に並べたコモかぶりの酒樽から枡で量り売りをするのが通例だったのである。このため、今でいう地酒がその町や村から外に出る事自体、ほとんどなかった。
    灘五郷 - Wikipedia

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  • だが明治後期から少しずつ、酒が瓶で売られる様になり、生産された町や村を離れての流通が始まる。そして「一升瓶」登場以降、大手メーカーが日本酒を瓶詰めで売るのが当然視される様になっていく。とはいえ量り売りをする酒屋も戦前昭和時代まで見られた並行して存在し続けた。
    宮島醤油ホームページ 会長コラム::一升瓶の話::
    一升瓶 - Wikipedia
  • 酒が瓶詰めになったことは、人の酒の飲み方、すなわち消費形態や食生活にも変化をもたらした。すなわち日本人の平均的な日本酒の飲み方が「年に数回だけ振る舞い酒を、枡の角に盛った塩を舐めながら飲み、飲んだからにはとことん泥酔する」様式から「酒屋から瓶で買ってきた自分の好みの銘柄を、ほとんど毎晩晩酌や独酌として、食事や肴とともにたしなみ、そこそこに酔う(当時の表現で「なま酔い」という)」様式へと推移したのである。

  • このような消費様式の変化が明治後期から昭和初期にかけてゆっくりと浸透。戦中戦後の闇市の時代をまたいで、現在の消費形態の土台となっていく。 

サントリー明治39年(1906年)鳥井信治郎鳥井商店を「寿屋洋酒店」に改名。スペイン産の葡萄酒を販売するが売れなかった。

  • 「それなら日本人の味覚に合った葡萄酒をつくる」と決意して幾度となく甘味料の配合を重ねる日々が始まる。

サントリー明治40年(1907年)4月寿屋洋酒店が「甘味果実酒」赤玉ポートワインを発売。総合洋酒メーカーとしてのサントリーの土台を築きあげた商品として有名であり、今日なお発売され続けている。

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  • 米1升が10銭する当時、その4倍に相当する40銭という高級品だった。

  • 当時の帝国大学医学博士らなどの協力を得て、商品の安全性と滋養などの効能を謳い、また行頭に「赤玉」と背中に書いた法被を着せて歩かせたり、芸者らなどに赤い玉の模様のついたかんざしを配ったりと、積極的なパブリシティをおこなう一方で、赤玉ポートラインを売り込む為に赤玉楽劇団を創設。

【日本酒】明治44年(1911年)、日本酒精より新式焼酎が発売される。

  • 醸造業の近代化とはすなわち「酒の工業的生産」の始まりでもあった。そして、そもそもは陸軍砲兵本蔽に所属する火薬製造所で開発された「純度の高いアルコールを蒸留する技術」が、アルコール飲料の開発に応用されるようになり、工業生産されたアルコールに水を加えた新式焼酎が開発される運びとなったのである。

  • 飲用に使われるようになって、官能的に感知される不純物を除去するため、アルコールの蒸留技術はさらに進化していき、それを応用して大正10年(1920年)に鈴木梅太郎合成清酒の製法で特許を獲得した。

  • 「ほんらい食用に回すべきお米を酒にしてしまう」との発想から、酒が不届きなぜいたく品のようにも考えられた当時は「成分中のアルコールが米に由来しない」ということが近代的で良いこととして解釈され、合成清酒は新清酒とも呼ばれて、大和醸造から科学の酒『新進』として発売されたのだった。これがやがて昭和時代の三倍増醸酒へと至る技術の一端となる。 
    人造酒、合成酒、人工酒の歴史

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【ニッカ】大正5年(1916年)竹鶴政孝、大阪高等工業学校(現・大阪大学)の醸造学科を卒業後、大阪市の洋酒メーカーの摂津酒造に入社。主任技師として模造ワインなどの製造に携わりはじめる。
*現宝ホールディング。岩井喜一郎が大正8年(1919年)に合成清酒を開発し、工業的大量生産の創始となった会社。
岩井喜一郎 - Wikipedia

  • その年の夏、アルコール殺菌が徹底して行われていなかったぶどう酒の瓶が店先で破裂する事故が多発した。しかし、竹鶴が製造したぶどう酒は徹底して殺菌されていたため酵母が発生増殖することがなく、割れるものが一つもなかったと言われる。このことで政孝の酒造職人としての評判が世間に広がることになる。

  • 同年12月、政孝は徴兵検査を受ける。幼い頃から柔道などをたしなんでいたため体力に自信のあった竹鶴は甲種合格を確信していたが、検査官が竹鶴の履歴書を見た際、「アルコール製造は火薬製造に必要な技術であるので入隊させずに今後も製造に従事させたほうが軍需産業を活性化させる」と判断し、乙種合格とされたため軍隊に入隊せずにすんだ。

【ニッカ】大正7年(1918年)、摂津酒造に主任技師として就職した竹鶴政孝が社長の命を受けて単身スコットランドに赴き、グラスゴー大学で応用化学を学ぶ。

  • 19世紀にウイスキーがアメリカから伝わって以来、日本では欧米の模造品のウイスキーが作られていただけで純国産のウイスキーは作られていなかった。摂津酒造社長の阿部喜兵衛はそこに目をつけたのである。

  • 竹鶴政孝は現地で積極的にウイスキー醸造場を見学し、頼み込んで実習を行わせてもらうこともあった。ウイスキー用の蒸留釜(ポットスチル)の内部構造を調べるため、専門の職人でさえ嫌がる釜の掃除を買って出たという逸話も残っている。

  • 帰郷後、摂津酒造はいよいよ純国産ウイスキーの製造を企画するも、不運にも世界恐慌が起こり資金調達ができなかったため計画は頓挫してしまう。

サントリー大正10年(1921年)、株式会社寿屋を大阪に設立。


【ニッカ】大正11年(1922年)竹鶴政孝が摂津酒造を退社して大阪の桃山中学(現:桃山学院高等学校)で教鞭を執り生徒に化学を教える。

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サントリー大正11年(1922年)、当時プリマドンナだった松島恵美子を起用したヌードポスター(寿屋で広告文案を担当していた片岡敏郎と同じく寿屋でデザイナーとして活動していた井上木它らの手により制作)を行う。

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  • こうした努力の結果、大正後期には「赤玉ポートワイン」が国内ワイン市場の60%を占めるまでに成長した。

サントリー【ニッカ】大正12年(1923年)、寿屋が本格ウイスキーの国内製造を企画。社長の鳥井信治郎スコットランドに適任者がいないか問い合わせたところ「わざわざ呼び寄せなくても、日本には竹鶴という適任者がいるはずだ」という回答を得た。鳥井は以前摂津酒造に模造ワイン製造を委託していたことがあり、竹鶴政孝とも数度面会したことがあった。

  • 鳥井信治郎はウィスキーの国内製造に挑戦する気になった背景として、こんなエピソードを紹介している。「ある時、海外からウイスキーとは名ばかりの模造アルコールに近い商品を手にした。当然これでは売り物にならないため、葡萄酒用の樽に寝かせておいたのだが、数年後この液体が琥珀色に熟成した。現在の基準では到底ウイスキーと認められないものだが、この液体を「トリス」と名付けて売り出したところ、あっという間に売れた。それ以降、日本におけるウイスキーの可能性について考える様になった」。

  • 同年6月、竹鶴政孝が寿屋に正式入社。年俸四千円という破格の給料だったがこれはスコットランドから呼び寄せる技師に払うつもりだった額と同じと言われる。

  • 竹鶴は、製造工場はスコットランドに似た風土の北海道に作るべきだと考えていたが、鳥井は消費地から遠く輸送コストがかかることと、客に直接工場見学させたいという理由で難色を示した。

  • 仕方なく大阪近辺の約5箇所の候補地の中から、良質の水が使え、スコットランドの著名なウイスキーの産地ローゼスの風土に近く、霧が多いという条件から山崎を候補地に推し、工場および製造設備は自ら設計した。特にポットスチルは同種のものを製造したことのある業者が国内になく、竹鶴は何度も製造業者を訪れて細かい指示を与えた。

サントリー【ニッカ】大正13年(1924年)11月11日、山崎蒸溜所が竣工され、その初代工場長となる(山崎工場竣工日は、麦芽製造開始日の12月2日とされることもある)。

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  • ただし、この工場は社員は竹鶴のほかに事務員1名がいるのみの小工場であった。酒造りに勘のある者が製造に欠かせないと考える竹鶴は醸造を行う冬季には故郷の広島から杜氏を集めて製造を行った。

  • 当時の酒は製造時の量に応じて課税されていたが、貯蔵中に分量が減るウイスキーに対してこの方式は不利であったので当局に掛け合って樽に封印をすることで出荷時の分量で課税するよう認めさせている。

  • 鳥井は最大限、竹鶴の好きなように製造をさせたが、金ばかりがかかって全く製品を出荷しない山崎工場は出資者らから問題にされ、鳥井はやむなくそれとなく発売を急ぐよう指示した。出荷ができるほどに熟成した原酒は最初の年に仕込んだ1年分のみで、ブレンドで複雑な味の調整をすることができないため竹鶴は難色を示したが、それ以上出資者を待たせるわけにもいかないということも承知していたので、出荷に同意する。

サントリー昭和4年(1929年)4月、初の国産ウイスキーの「サントリーウイスキー白札」(現在のサントリーホワイト)と「サントリーウイスキー赤札」(現在のサントリーレッド)を発売。

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  • 赤玉ポートワインの「赤玉」を太陽に見立ててサン(SUN)とし、これに鳥井の姓をつけて「SUN+鳥井=サントリー」とした事になっている。

  • しかし竹鶴が製造した最初のウイスキーサントリー白札』は模造ウイスキーなどを飲みなれた当時の日本人にはあまり受け入れられなかった。竹鶴が本場同様に入れたピートの独特の臭いが受け入れられなかったという説もあり、このことも含め鳥井自身は竹鶴がスコッチにあまりにもこだわりすぎるのを疑問視していた節がある。
     

  • 同年 寿屋が買収した横浜のビール工場工場長兼任を命じられるが政孝は工場の距離が離れすぎていることや、異なる種類の酒であることから当初あまり乗り気ではなかった。

【日本酒】1930年代前半、ビールとの戦いが本格化する。

  • 大正15年(1926年)には、国家歳入の酒税に頼る割合は24.4%にまで下がってきていたが、依然として所得税を抜き首位であった。

  • 主要な輸出品でなかった日本酒は、昭和4年(1929年)の世界大恐慌の打撃をまともに受けることはなかったが、かえってビール業界の伸長に圧迫され、昭和4年(1929年)から昭和6年(1931年)まで連続年10%の減産を余儀なくされる。

  • 昭和3年(1928年)、同5年、同7年と立て続けに鑑評会で優等賞を取った佐藤卯兵衛の秋田『新政(あらまさ)』の秋田流低温長期醗酵が注目を集め、ここから分離された新政酵母が昭和10年(1935年)に第6号酵母となった。第6号酵母は現在も使われている酵母としては最も古い清酒酵母であり、また低温長期醗酵はのちの吟醸造りの原型となった。

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  • 酒米も、大正13年(1923年)に山田穂と短稈渡船を交配させ、昭和11年(1936年)に兵庫県奨励品種として登場した山田錦が鑑評会上位を占めるようになった。

サントリー【ニッカ】昭和8年(1933年)11月、寿屋が突然、横浜ビール工場を売却。

  • 経営不振の為にスモカ歯磨の製造販売権同様にや買収したビール事業も手放さざるを得なくなったとも。

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  • 購入額よりはるかに高値であったことから良い商談ではあったが、工場長である竹鶴に事前に何の連絡もなかったことから、寿屋に対し不信感を持つようになる。

【ニッカ】昭和8年(1934年)3月1日、後続の技師が育ってきたこと、帝王教育を竹鶴に任されていた鳥居の長男・吉太郎に一通りの事を教え終わったこと、最初の約束である10年が経過したことから、竹鶴が寿屋を退社。

  • 同年4月、北海道余市町ウイスキー製造を開始することを決意して資本を集め、7月に大日本果汁株式会社を設立し、代表取締役専務に就任。筆頭株主は加賀証券社長加賀正太郎だった。

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  • ウイスキーは製造開始から出荷までに数年かかるため出荷までは当然ウイスキー製造による収益がないので竹鶴は、事業開始当初は余市特産のリンゴを絞ってリンゴジュースを作り、その売却益でウイスキー製造を行う計画を立てていた。

  • このため農家が持ってきたリンゴは出荷できないような落ちて傷ついたリンゴでも1つ残らず買い取り、しかも重量は農家の自己申告をそのまま信用して買ったので、大日本果汁の工場にはリンゴを積んだ馬車の列ができたという。

【ニッカ】昭和10年(1935年)5月竹鶴が日果林檎ジュース出荷開始。

  • 品質へのこだわりがジュースにも及び、他社が6銭の果汁入り清涼飲料を作っていたのに対して30銭もする果汁100%ジュースしか販売しなかったため、あまり売れなかった。

  • 混ぜ物をしていないため製品が濁ることがあり、誤解した消費者や小売店からの返品も相次いだ。

サントリー昭和12年(1937年)10月8日、「サントリーウイスキー12年(現在のサントリー角瓶)」を発売。

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  • 鳥井は以前より竹鶴が本場スコッチにこだわりすぎるのを疑問視しており、彼の契約満了に伴う退社を経てウイスキーづくりについての姿勢を根本から改めた。そして「白札の失敗」から期間を置くこと8年、「これが失敗したら、寿屋は倒産するしかない」という危機的状況下のもと、満を持して発売されるのがこの「角瓶」だったのである。それはある意味、「断じて舶来を要せず」を旗印に大正12年(1923年)より身を削りながら国産ウイスキー事業を定着させ様と試み続けてきた鳥井が長年求め続けていた「日本人のための国産ウイスキー」そのものでもあったのである。

  • おりしも日本が戦時体制に突入しつつある最中で、舶来産のウイスキーが輸入停止になった事、スモーキーな熟成を重ねた味が日本人の舌をとらえた事などが重なって売り上げは好調に推移。さらに当時の日本海軍(英国海軍をお手本にしていたため、海軍士官の嗜好酒はウイスキーというのが主流であった)への大量納入に成功して「大日本帝國海軍指定品」の箔付けを得た事からサントリーウイスキーの歴史の礎を築く一品となり、抱えた損失を一掃するほどの成功を収める。

  • この製品の成功により、サントリーウイスキー事業が軌道に乗ることになる。

【日本酒】昭和12年(1937年)日中戦争が始まると状況が暗転。

  • 日本酒も前線の兵士へ送るために徴用され、品質の良い酒が市場に出回らなくなった。さらに食用としての米を確保するため、昭和13年(1938年)国家総動員審議会によって酒造米200万石が削減させられ、さらに勅令789号によって米穀搗精制限令(通称「白米禁止令」)が公布され、生産は半減することとなった。

  • 昭和5年(1930年)の縦型精米機の登場によって、一時は飛躍的な発展の可能性がかいまみえた吟醸酒の技術に関しても、昭和13酒造年度(1938年-1939年)から精米歩合が65%以下に規制されて出鼻をくじかれ、本格的な発展にはなお三十年近い歳月を待つことになった。

  • 酒の値段も、政府のさだめる公定価格によって統制されることになり、このことが太平洋戦争末期から戦後の混乱期にかけて別個に存在する実勢価格(闇値)で取引される素地を、すなわち闇市場を作った。この公定価格制度は昭和35年(1960年)まで残った。

  • こうして日本酒の需要と供給は大きくバランスが崩れ、酒小売店では酒樽を店頭に出す前に中身へ水を加えてかさ増しするところが続出。金魚が泳げるくらい薄い酒ということで金魚酒と名づけられたこのような酒を取りしまるために、昭和15年(1940年)にアルコール濃度の規格ができ、政府の監査により日本酒級別制度が設けられた。当初は「特級」「上級」「中級」「並」の4階級であった。階級の分け方は時代とともに変遷していったが、制度そのものは平成4年(1992年)まで続いた。

【日本酒】昭和14年(1939年)満州でいわゆる「増産酒」が開発される。

  • 日本人が多く入植した満州でも日本酒の需要は高かったが、現地の水がひじょうに硬水だったこと、内地からの米の輸入が不自由だったこと、いまだ安全醸造に至らない貧弱な設備の蔵が多かったこと、既成の日本酒は現地の極寒の気候では凍ってしまうことなどの理由から、それら問題点を解決する酒が、満洲国経済部官長島長治と奉天にあった嘉納酒造の技師安川豪雄によって研究されていた。

  • そしてやがて、ワインへ行なわれていたアルコール添加の技法にヒントを得て日本酒へ大量にアルコール添加することで容量を増やし、さらにそれでは辛すぎて飲めないという事から糖類を添加して飲む方法が開発された。これが第1次増産酒である。

  • この手法では、添加するアルコールは30度まで希釈して、過マンガン酸カリウム活性炭濾過によって精製したものを、上槽の三日前に、白米10石の醪につき3石から5石を加えるというものであった。昭和15年(1940年)に実施された試醸で、アルコール臭はほとんど感じることなく火落ち菌による変敗も認められなかったと報告されたため、昭和16年(1941年)には満州全土の酒蔵で実用に移された。

サントリー【ニッカ】昭和15年(1940年)ウイスキーが統制品に。

【日本酒】昭和18年(1943年)、「増産酒」関係法令が整備される。

  • 昭和16年(1941年)、太平洋戦争が始まり米不足に拍車がかかった内地では、昭和17年(1942年)食糧管理法が制定され、酒造米も配給制となった。このような中、いかに米を使わないで酒を造るかが研究され、満州における第1次増産酒が内地55場の酒蔵で試醸され、その結果、元の清酒の量の3倍になるまでアルコールを添加する手法が編み出された。これを第2次増産酒といい、戦後の三増酒の直接の原型となる。

  • これに伴い昭和18年(1943年)、政府は清酒の原料にアルコールを追加できるよう酒税法を改正、またアルコールを酒類製造業者へ売り渡しできるようアルコール専売法を改正するなど関係法令の整備をおこなった。

  • 昭和19年(1944年)にはすべての酒造業者が第2次増産酒に切り替えたが、識者から日本酒の純粋性と品質低下を招くとの根強い批判があったために、大蔵省は第2次増産酒は原則として清酒三級として取り扱うよう通達を出した。

  • 添加する醸造アルコールは当初おもに芋から供給されたが、やがて芋も不足してくると、野山に動員された小学生が拾ってくるドングリが、さらにガソリン原料の無水アルコールが転用された。

  • 昭和18年(1943年)酒類もすべて配給制となり、これ以後はもっぱら闇市場で取引されるようになった。酒の闇値はほぼ半年で2倍の割合で上昇していった。横流しの酒のほかに、家庭に配給された酒までが換金のために闇へ流されるようになった。酒蔵は、隠れて仕込んでいる酒が発覚すれば、醸造設備すべてをスクラップとして供出しなければならなかった。 

サントリー【ニッカ】昭和20年(1945年)敗戦以降、各社が相次いで低質のウイスキーを発売。中には原酒を全く使っていないものまで。

  • 寿屋は昭和21年(1946年)に「トリスウイスキー」を発売。当初は原酒を5%入れていた三級ウイスキーとして登場したが、徐々に原酒の配合割合を上げる営業策が取られ、やがて10%に引き上げられて二級ウイスキーとして発売されるに至る。ウイスキーメーカーとしてのサントリーの原点となる洋酒であり、またロングセラーのブランドとして重視された。従来は1960年代に若者であった層に愛飲者が多かったが、2003年にラインナップを一新したことにより、新たな若者層にも愛飲者を拡大させている。

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  • 竹鶴は「わしゃ三級は作らん」とこのような低質の製品を作ることを拒否していたが、筆頭株主だった加賀らに説得され、昭和25年(1950年)、安価な三級ウイスキーを作ることになる。この時もあえて原酒を当時の酒税法上の上限いっぱいの5%まで入れさせてせめてもの抵抗をしている。着色料も粗悪品ではなく、わざわざ砂糖を原料に自社生産したカラメルを使用したという。 

【日本酒】日本酒業界も相変わらず闇酒が横行

  • 戦争によって醸造業も壊滅的な打撃を受けた。戦火に焼かれた酒蔵だけでも223場にのぼり、昭和20酒造年度(1945年-1946年)の全製成量の17%の酒が失われ、杜氏や蔵人などの人的損失もたいへん大きかったが、わけても深刻だったのが食糧難、とくに原料となる米の絶望的な不足であった。

  • 昭和21年(1946年)5月19日の「飯米獲得人民大会」(いわゆる「米よこせメーデー」)を抑えこんだ連合国軍最高司令官総司令部GHQ)は、日本政府へ酒類の製造を禁止する命令を下した。 しかし、過去アメリカにおける禁酒法が実効をあげなかったこと、闇酒が多くの犠牲者を出していたこと、大手ビール会社が確保していた大麦の一部を供出したこと、などの要因によって命令は実施に至らず。

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  • 兵士たちの復員などによって飲酒人口が急増し、また暗い世相を反映して酒類への需要が高まり、供給が追いつかなかったためメチル、カストリ、バクダンなどの密造酒が大量に横行するようになった。どぶろくなどの従来の密造酒と比べてアルコール濃度が高く、激烈で有害なのが特徴で、闇市場で売買されることから闇酒ともいう。

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  • メチルとは、戦争中に石油燃料の代用とするために製造されたエチルアルコールを水で希釈したものに、人が間違えて飲まないようにわざわざメチルアルコールを混ぜ、目立ちやすいように桃色に染めたものであったが、戦後の食糧難のなかで人々は危険を半ば承知でこれらに手をつけた。それも必ずしも下層階級ばかりでなく、分別も教養もある人々が酒への渇望から飲み、失明したり死亡したりした。新聞では「目散/命散(めちる)」などと書かれた。

  • カストリとは、本来は酒粕を蒸留して作る伝統的な焼酎の一種であったが、当時は密造の粗悪な芋焼酎のことを指し、飲んだ後のコップが油ぎって汚れるのが特徴であった。関東では多摩川をはさんで大田区から川崎市川崎区、近畿では尼崎市が生産地として有名であった。

  • バクダンとは、戦時中の航空基地などで使い残された燃料用アルコールの変成したものを、活性炭で脱色し水で薄めたもので、闇市の酒場では「即席焼酎」などと呼ばれて売られ、さらに他の酒へ割り込むこともあった。失明・死亡率が最も高かった。 

【日本酒】昭和24年(1949年)三増酒が登場

  • 闇酒の横行は国民の健康を損ねるだけでなく、治安を悪化させ、政府にとっても税収の低減につながるため、合法的でなおかつ米を原料としない酒が真剣に研究された。清酒合成清酒を混ぜた混和酒が考案されたが、政府が採用したのが戦前の第2次増産酒を応用した三増酒であった。

  • 三増酒(三倍増醸酒)とは、醪をしぼる前に、その醪から生成すると見込まれる清酒の2倍量のアルコールに、あらかじめ調味料を入れて調味アルコールとし、醪に加えて圧搾にかけ、結果的に約3倍の製成酒を得るというものであった。合成清酒や混和酒と区別するために、調味料として使える原料はブドウ糖、水飴、乳酸、コハク酸グルタミン酸ソーダ、無機塩類にかぎられた。

  • この手法を実現するためには、より純度の高いアルコールに含まれる不純物を加水抽出する技術が必要であったが、昭和24年(1949年)10月フランスの蒸留機メーカーであるメル社のアロスパス式加水蒸留が日本蒸留工業にもたらされて問題点を解決するに至り、三増酒の生産が昭和24酒造年度(1949年-1950年)に本格的に導入されることになった。全国で200場の酒蔵が試醸に参加した。 ちなみに、このように生産される工業アルコールはのちに、日本酒だけでなく、焼酎、ウィスキー、ワインにも使われることになる。

  • 戦禍から即席に再生させた醸造設備は乏しく、せっかく貴重な原料米を入手しても健全醗酵できず、腐造に至る場合も相次いで起こった。それでも市場における供給不足は深刻なので、曲がりなりにも酒として出荷しなければならない。そのためには大量のアルコールを添加し、辛ければ調味料で甘くするしかない。このような背景から、ほとんどの酒蔵でかさ増しのためのアルコール添加が行なわれ、三増酒が合法的な日本酒の主流となっていった。酒税法を守らせる立場の監督官庁ですら「建前を言っている場合ではない」と、醪を腐造から守るために率先して法定上限をはるかに超えるアルコール添加をおこなっていたという。

  • 日本酒をめぐる需給バランスは敗戦直後よりもむしろ悪化する一方で、昭和23酒造年度(1948年〜1949年)あたりが最悪であった。昭和22年(1947年)の全国の製成量は昭和初年の10分の1を下回り、同年3月の配給酒1升の公定価格は43円であったが、闇市での実勢価格は500円を上回っていた。日本酒への原料米の割り当てが昭和20年(敗戦時)の水準に戻ったのは、じつに昭和26年(1951年)である。

【日本酒】昭和25年(1950年)12月、日本政府が闇酒撲滅の為に明治維新以来はじめての全酒類減税に踏み切る。 

  • 昭和20年(1945年)はさすがに鑑評会・品評会ともに行なわれなかった。

  • 昭和21年(1946年)には鑑評会と品評会が両方ともかろうじて再開された。しかし当時の食糧難を反映して、精米歩合も70%までと規制が設けられた。

  • 70%以下という精米歩合帯で有利になった長野『真澄』が鑑評会・品評会ともに上位を独占し、この酵母が分離され協会第7号酵母として全国に頒布され、出品酒の8割以上に使われるようになった。

  • 昭和24年(1949年)5月6日酒類配給制が解かれ酒類販売の自由化がなされた。配給制から自由化に移行するに当たって、各都道府県に指定の卸が置かれることとなった。この卸の役割を担ったのが酒造メーカーであった。

  • 江戸時代から続く、小売店の店頭で小銭を払って酒を立ち飲みする風俗は、昭和18年に酒類配給制となってから途絶していたが、この販売自由化によって復活した。

  • 全国清酒品評会は隔年の秋に、主にひやおろしを対象として昭和25年(1950年)まで開催されたが、やがて行われなくなった。いっぽう産業振興よりも醸造技術の修得・向上が目的とされる全国新酒鑑評会は、賛否両論を浴びながらも現在に至るまで毎年春に行われている。

  • 昭和25年(1950年)6月朝鮮戦争が勃発し、日本に特需景気をもたらし始めると、密造酒の撲滅のためにその機会を狙っていた政府は、同年12月、明治維新以来はじめて全酒類の減税に踏み切った。引き下げ率は平均30%近くという画期的なもので、これがやがて「酔えば何でもよい」という闇酒への需要から日本人が脱却するきっかけとなった。

  • 昭和27年(1952年)にアメリカ軍が撤退すると、ようやく日本酒の消費は伸び始める。 しかし三倍増醸酒は高度経済成長期にも根強く残り、ひいては石油危機に始まる日本酒の消費低迷期を招くこととなる。

【ニッカ】昭和27年(1952年)、会社名をニッカウヰスキーに商号変更し、本社を東京都中央区日本橋に移転。同年、港区麻布(現在の六本木ヒルズ所在地)に東京工場を設置した。

  • この工場は瓶詰めを行うためのものであった。余市から東京への輸送コストを抑えるのが主目的であるが、当時、ウイスキーは出荷時に課税されていたため、輸送時の破損分への課税を防ぐためにも大消費地に瓶詰め工場を置くことが必要だったのである。

【日本酒】昭和27年(1952年)に茨城の明利酒類『副将軍』より(複数説あり)協会第10号酵母が分離され、また昭和28年(1953年)に熊本『香露』から協会第9号が分離されると、これを用いて盛んに吟醸酒が試みられるようになる。 

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  • 吟醸酒」という言葉はすでに大正時代からあり、鑑評会に出すために「吟味して醸した酒」という意味であった。製成のしくみが科学的に解明される前にも、一部のいわゆる名人の域に達した杜氏たちは経験的に吟醸麹の造り方を心得ていたが、配下に働く蔵人はおろか蔵元にも教えず、技統を継がせる一番弟子だけにかろうじて語られる門外不出、一子相伝の代物であった。

  • 科学的な解明は、国立醸造試験所などにおける1920年代の清酒酵母の研究に始まる。 これによって、ある種の特殊な酵母を用いて醸造した酒は、それまでの日本酒にはない洗練された香味を醪に内包させ、水に溶け出さないこれらの成分も、アルコール添加によって引き出せることが技術的に知られてきた。

  • したがって吟醸酒とはそもそも、合成清酒などが未来志向の「科学の酒」として意欲的に開発された時代に、のちに三増酒の流通によって多分に悪いイメージを背負いこむことになるアルコール添加を前提として研究された概念であった。

  • 当初は市販流通を目的として造られた酒ではなく、その造りには高度な醸造技術を要することから、蔵人たちの修業研鑽のために、また鑑評会への出品酒とするために、ごく限られた量だけ実験的に造られていた。

  • 昭和5年(1930年)には縦型精米機の登場などによって精米技術が飛躍的に発達し、吟醸酒を造るのに欠かせない高い精米歩合が容易に実現されるようになった。これによって、それまで一部のごく限られた愛飲家だけに楽しまれていた吟醸酒が、市販流通に耐えうる量を生産できる展望が開かれたが、昭和12年(1937年)日中戦争の勃発によって頓挫した形となった。

  • 昭和28年(1953年)『香露』を造っていた熊本県酒造研究所の野白金一によって、低温でも醗酵力が旺盛で華やかな芳香を出す酵母が分離され、協会第9号として認定された。これが現在の吟醸酵母の原型となる。

  • しかしこのことは、戦前に開発され当時の酒米の主流となっていた山田錦を用い(Y)、『香露』の酵母を用い(K)、精米歩合を35%まで高めれば(35)吟醸酒ができるといった定式化(YK35)が誠しやかに流布される発端ともなった。

  • 昭和20年代末に、すでに吟醸酒を出品酒に留まらせず商品化した蔵元や、特級酒にブレンドするということを試した蔵元もあらわれたが、市場がいまだ高級酒を欲していなかったため、いずれも一般に膾炙するには至らなかった。 

【ニッカ】昭和29年(1954年)、病床にあった加賀が死期が近いことを知り、死後の株券の散逸を防ぐために他の主要株主と共同で朝日麦酒(現アサヒビール)に保有全株式を売却。この時点で朝日麦酒は過半数の株を持つことになり、ニッカは朝日麦酒グループ入りすることになった。

  • 御主人様とまで呼ばれた事実上の社主の突然の行動にニッカ社内は騒然となるが、社長の竹鶴は、当時の朝日麦酒社長が知人であることや、ニッカの品質至上主義に対する理解が得られると信じたことから全く動じなかった。加賀は敢えて竹鶴の知人を売却相手に選んだのだと考えられている。朝日麦酒は役員1名を派遣したのみで製造には口を出さなかった。

  • 当時、ニッカの二級ウイスキー(かつての三級ウイスキー)は他社製より高く、あまり売れていなかった。朝日麦酒から派遣された役員が、売り上げが倍になれば、品質を落とさなくても他社と同価格で販売できると竹鶴を説得し価格を下げる事に同意させた。

【ニッカ】昭和31年(1956年)、新二級ウイスキーの丸びんウヰスキー(通称、丸びんニッキー)を、業界首位の寿屋の主力商品、トリスウイスキーと同価格で発売。

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  • 積極的なセールス活動を行った結果、実際にニッカの二級ウイスキーの売り上げは1年で倍増し、ニッカの販売額も業界3位から2位に浮上した。またこれにより他社のセールス活動も激化。ウイスキー販売戦争となった。当時、洋酒ブームが起きており、ニッカ以外も含めた日本でのウイスキー消費量全体も増加した。

  • 戦時中にウイスキーの味を覚えた元兵士達が反応したと言われる。

【日本酒】昭和31年(1956年)、「もはや戦後ではない」と言われるようになり、メチルやカストリといった危険な密造酒は大幅に減じ、甲類焼酎さえも昭和31年を境に消費減少へ転じた。このことは日本酒に、戦前と同じような恵まれた消費環境が戻ってきたかに見えた。しかし内実は、まるで違うものとなっていた。

  • 日本酒の消費は伸び続けていたが、戦後の米不足の一時的救済策として開発された三増酒が、その消費の主流として定着してしまっていた。消費者が、以前の良質な日本酒には見向きもしなくなっていたからでもある。

  • 戦後に成人した世代は、旧来の日本酒との接点を持たずに大人になり、増産酒以前の日本酒に味覚的郷愁を持っていなかった。そのため闇酒、粗悪な焼酎、ビール、ウィスキーから飲み始め、日本酒といえば「頭が痛くなる」「気持ち悪くなる」三増酒のことだと思うようになっていったのだった。

  • もう少し下の世代は下級ウィスキー(その時々の級別制度によって「三級ウィスキー」から「二級ウィスキー」になっていった)から飲み始めた。大量のアルコール添加をしている点では三増酒と同じであったが、調味料が入っていないこと、国産でも西洋のイメージがあること、アルコール度が高いものを水割りにして飲むことなどから、三増酒に向けられるような泥臭い印象は持たれなかった。下級ウィスキーは昭和43年(1968年)頃まで庶民によって旺盛に消費されていく。

  • たとえ三増酒であっても、右肩上がりの経済成長期で「造れば造るだけ売れた」時代であったので、そうした現状に疑念や危機感を持つ酒蔵がまだ少なかった。良質な酒を生産しようと志しても、いまだ昭和17年(1942年)に制定された食糧管理法の下に国民には米穀通帳(べいこくつうちょう)が発行され、酒造米も配給制となっていたために、満足のゆく原料の調達が困難であった。

  • しかも配給量は日中戦争開始以前、まだ小作農が農業人口の大半を占めていた昭和11酒造年度(1936年-1937年)の米の生産高に基づいて算出されていたため、戦後の農地改革が経て、農業もたぶんに機械化され、すっかり富裕になった1960年代の日本の実態にまったく即していなかった。

  • 原料である酒造米の配給高が蔵ごとに決められているということは、製成酒の生産高も戦前のそれに準じて規定されていることに等しかった。それで「造れば造るほど売れる」、「造りに手を抜いてもアルコール添加で最終調整すれば出荷できる酒に仕上がる」、「よい酒を造っても消費者に見向きもされず、しょせん販売価格は同じになる」のであれば、生産者も企業努力をしなくなる。その結果が三増酒による量産主義となり、そうでない酒はつぎつぎと市場から姿を消していった。

  • 算定基準である昭和11酒造年度には、まだ大メーカーと地方の零細蔵の生産量の格差は小さかったため、割り当てられる酒米の量の差も小さかった。ところが生産の主流が三増酒という「工業製品」になると、この格差は広がった。設備投資のしやすい大メーカーは急速に成長し、製成高も急増したため、原料が不足しがちとなる一方、旧来然とした素朴な設備しか持たない零細蔵は、自分たちの販売能力を上回る酒造米を割り当てられていたからである。

  • そのため、零細蔵が製成した酒をタンクごと、大メーカーが買い取るようになった。これを売り手(零細蔵)から見て桶売り、買い手(大メーカー)から見て桶買いという。桶売り・桶買いは、経済学的には日本酒のOEMととらえられている。

  • 酒は瓶に詰めて出荷された時点で課税対象になるので、その前段階すなわち桶売り・桶買いの時点では取引に関わる納税の義務が生じない。そのため未納税取引ともいう。これは両者にとって経営上、重要な節税のテクニックでもあった。

  • 大メーカーは、桶買いによって集めたあちこちの蔵からの酒をまぜあわせたり、自社醸造の酒の割り増しに使ったり、あるいはそのまま自社ブランドの瓶に詰めたりして販路に乗せた。

  • このような流通システムでは、それぞれの酒蔵に特有の味が消費者に届かなくなる。酒蔵としても酒造家という、一種の工芸品の作者としての造り甲斐がなく、企業努力をしなくなる。加えて、買い手である大メーカーの言うままに酒を造っていればよかったので、蔵の本来の持ち味はどんどん失われていった。

  • 酒米配給制は昭和43年度米まで続いた。

【日本酒】昭和32年(1957年)宝酒造がビール業界に参入。ビール業界の日本酒市場圧迫が始まる。 

  • 余裕ができファッションに関心が向き始めた日本人に対して、「お米は太る。パンでスタイルを良くしましょう」といった、科学的根拠に乏しい宣伝も盛んになされた。経済企画庁の発表する生活革新指数も、国民生活の「革新」の度合いを測るのに「穀物消費中のパン支出割合」が一つとして採用された。このような中で日本人はしだいに主食を米からパンへと乗り換えていった。

  • すると、どうしても食生活そのものが和風から洋風になる。肉、食用油、乳製品の消費が急増し、料理と合わせる酒も、日本酒から洋酒へと変化していった。

  • このような背景から1950年代後半は洋酒、とりわけ気軽に飲めるビールの伸長がめざましかった。 昭和32年(1957年)宝酒造がビール業界へ参入し、昭和34年(1959年)日本麦酒からサッポロ缶ビールが発売された。当時はまだスチール缶であったが手軽さが受け、ビールは瓶から缶で流通する時代に入っていき、やがて自動販売機で手軽に入手できるようになる。このことはのちに1980年代、日本酒のシェアが急速にビールに奪われていく素地となった。

  • 昭和35年(1960年)10月1日、政府によって昭和14年(1939年)4月に定められた酒類の公定価格が撤廃され、酒の値段は市場原理に沿って決められるようになった。というのも、このころには酒類市場は飽和に達しつつあったからである。瓶や缶など手軽な容器の浸透と、潤沢な供給の実現によって「飲みたいときに飲みたいだけ飲める」世の中になっていた。

  • こうなると酒類市場の大きさは、人間の飲む能力、もっと言えば、摂取したアルコールを消費者たちの肝臓が生理的に分解するスピードをある意味で上限とし、あとはその市場規模の中でのシェア争いとなる。人々の欲求とともに無限に需要が伸びていく可能性が語られる、たとえば今日のIT産業とは根本的に性質を異にする市場であった。

  • 昭和36年(1961年)、日本人の米の総消費量がついに減少へと転じた。

  • 実態に合わない食糧管理制度は、かつての米不足とは正反対の、深刻な米あまり現象を招き、その結果減反政策が実施された。これによって雄町、穀良都、亀の尾など優秀な酒米もしだいに栽培されなくなり、多くの品種が絶滅していった。のちに消費低迷期を迎える日本酒業界は、すでに内実が空疎な状態になっていたのである。

  • 昭和37年(1962年)、酒税法が大幅に改正され、それまで「雑酒」と呼ばれてきた中からウィスキー・スピリッツ・リキュールの名が初めて分類上の名称として清酒・焼酎・ビールと並べられることになった。いわば日本の酒文化のなかにこれら洋酒を認知する手続きであった。

  • またこの改正によって、酒税は申告によって納税するよう改められた。明治時代に30%前後だった、酒税の歳入に占める割合はすでに12%前後にまで下がっており、もはや国家にとって酒税は主たる歳入源ではなくなっていたからである。さらに下って昭和54年以降は5%前後で推移していくことになる。

  • 昭和39年(1964年)「ワンカップ大関」が登場し酒の消費形態が変化した。これは平成時代の「ワンカップ地酒ブーム」の起源でもある。

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  • 昭和40年(1965年)、佐藤和夫らにより宮城県浦霞』から協会第12号酵母が分離された。

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  • 昭和43年(1968年)、酒造米の配給制度がようやく終わりを告げた。

  • 昭和45年(1970年)、古米や古々米などの在庫が増加の一途をたどったため、政府は、新規の開田禁止、政府米買入限度の設定と自主流通米制度の導入、一定の転作面積の配分を柱とした米の生産調整を開始した。これによって未納税取引は割高につくようになったため、やがて減少していく端緒となった。また、そのため多くの酒蔵が近代化促進計画の元で転廃業や集約製造への参加を余儀なくされた。

  • 酒蔵の近代化とはすなわち、もっと工業的にコスト削減をめざすということであった。その一環としてこのころ昭和40年代、「短期蒸し理論」という製法理論が編み出された。

  • これは、酒米処理の蒸しの時間を、従来の約1時間よりも、米のデンプンがアルファ化する(糊状になる)までの20分程度に短縮するというものであった。燃料コストの削減から多くの酒蔵がこの理論を採用したが、これではデンプン以外の成分で、蒸すことによって変成するタンパク質などが処理されないため、製成酒は鈍重に仕上がってしまう。けれども、大量のアルコール添加をして三増酒にすることを前提としているので、鈍重さは問題とされなかった。

  • 蒸しの節減・省略はさらに進み、やがて別の工場で蒸し最初から糊状になっているアルファ化米や、白米にデンプン糖化酵素剤を加えて溶解させる液化仕込みが開発された。これら新技術の登場は、たしかにコスト削減には役立ったが、外硬内軟といった蒸し米の基本を踏んでいないために酒質はさらに低下せざるをえなかった。

  • 昭和46年(1971年)は日本人の洋食化を物語る象徴的な年となった。

  • マクドナルド1号店が銀座にオープンし、稲の減反政策が本格化した。ビール業界では朝日麦酒から「飲んで、つぶして、ポイ」のアルミ缶が登場し、四社寡占(この年でキリン60.1%、サッポロ21.3%、アサヒ14.1%、サントリー4.5%)の体制が定着した。

  • 1月に、いわゆる外圧に押し切られた形でウィスキーの貿易自由化が行なわれ、飲用に供するすべての酒は数量や取引金額の制限なく輸入できるようになった。これは日本の酒類業界に不快なダメージを与えた。なぜなら、1880年代の欧化政策以来、政府は数々の優遇措置をもって国民に洋酒を紹介し、国産洋酒の生産や消費を促してきたわけだが、その延長線上にやってきたのは結局「そろそろ舌になじんだころだろうから本場、外国産の洋酒をどんどん買ってくれ」というべき状況だったからである。

  • この貿易自由化を皮切りとして、やがて洋酒の輸出国は、日本の従価税のかけ方では輸入酒に運賃や保険料の分まで税金がかかってしまうとして、アルコール度数に応じて課税するという西洋諸国の税制に日本も変更するようさらなる要求をしてくることとなる。そして、その変更が昭和時代後期の消費低迷への重要な伏線となっていく。

  • 昭和47年(1972年)ワインが急伸しはじめ、同50年に甘味果実酒の出荷数量を越え、ワインブームと呼ばれる時期へと入っていく。ワインもまたこのころからバブル経済の時期にかけて、着実に日本酒のシェアを奪っていくことになる。 

サントリー昭和38年(1963年)、現社名に変更。


【ニッカ】昭和44年(1969年)、竹鶴が勲三等瑞宝章を授章。これ以前に勲四等の打診があったが、もし受け取ると、今後、ウイスキー製造者全員が最高でも勲四等止まりになってしまうという理由で固辞したことがあるという。


【ニッカ】昭和45年(
1970年)竹鶴がニッカウヰスキー代表取締役会長に就任。1979年、没。


サントリー昭和48年(1973年)、本来「ポートワイン」とはポルトガルで製造される葡萄酒を意味する言葉なのでポルトガル政府から抗議等があったり、商標権の問題を抱える事になったりしたので名称を「赤玉スイートワイン」に改める。


【日本酒】同年、日本酒の消費が減少へと転じる。

  • 何か原因となる決定的事件がこの周辺に起こったわけではない。これは昭和12年(1937年)以降、もしくはもっと古く大正時代以降の小さな変化や事件の重層的な積み重ねの結果であり、構造変化が目に見えるかたちとなって現れたのがたまたま昭和48年であった。

  • それまで小さな要因が蓄積するあいだに、同時代的に警鐘を鳴らす者が皆無だったわけではない(参照:低迷からの模索)が、結論から言えばそういう者たちは当時は圧倒的な少数派で、脚光を浴びるには至らなかった。

  • さらに、日本酒の消費低迷とは、ひとり日本酒のみの問題ではなく、焼酎・ビール・ウィスキー・ワインなど競合するすべてのアルコール飲料との市場シェア争いという観点なくして分析することができない。

 奇しくも昭和48年は、昭和30年(1955年)以降ずっと減少していた焼酎の消費が、日本酒とは逆に増加に転じた年である。また、二年前(1971年)にはウィスキーの貿易自由化が発表され、前年(1972年)にはワインブームが始まっている。貿易自由化された輸入ウィスキーの消費はこの後十年で約20倍になった。

利便性の追求と思い入れの消失 (1890年代~1900年代)

かつて1890年代から1900年代にかけては、日本酒が一升瓶で流通するようになったために、日本人の酒の消費の仕方が、年に数回だけハレの日に振る舞い酒をとことん泥酔するまで飲む様式から、ほとんど毎日ケの日に自分の好みの酒を晩酌や独酌としてほどほどに酔う(なま酔い)様式へ変化した。しかしいまや高度成長を経てどんな山奥の僻村でも酒類が入手でき、都市部ではどこでも自動販売機で缶ビールやワンカップが買えるようになったこの時代、消費の形態にも次なる変化が起こっていた。

  • 「飲んでつぶしてポイ」のキャッチコピーに象徴されるように、人は酒にありがたみを感じることがなくなった。また、酒屋へ行ってあれこれ思案し「今日はこの酒を飲もう」と思い入れを以って酒を買ってくることがなくなった。それは酒類に限らず、技術革新が生活の諸方面にもたらした意識変化であり、何につけても軽薄短小が好まれ、ポスト・モダンなどということがもっともらしく語られる時代の空気でもあった。地方文化の持つ入り組んだ複雑な体系よりも、「あーだこーだむずかしいこと言わない」平明さばかりが好まれた時代であった。

  • 戦後の闇酒全盛の時代は、思い入れのあるまともな味の酒が市場になかったために、人々ははじめ仕方なく、思い入れも味もない雑酒を選んだわけだが、いまや酒類も食糧も巷間にあふれ返っているにもかかわらず、上記のような背景から人は思い入れを以って味を選択しなくなってきていた。あふれる情報に惑わされて選択できなくなってきた、と言ってもよい。

  • またこうして、かつての「とことん泥酔」から「ほどほどなま酔い」も、さらに局所的な濃度が薄まって、より日常的な微酔へと変化していくのである。

  • その延長線上に来るのが、水割りウィスキーやチューハイの出現であり、飲料の低アルコール化であり、ノン・アルコール世代の出現となっていく。

  • 消費者は、祭りのときに泥酔していた時代とは異なる意味で、酒の「味」よりも「酔い」を求めるようになったわけである。思い入れを以って飲む酒、かみしめるように味を鑑賞しながらほどほどに酔う酒である日本酒は、そうした時代の趨勢と懸け離れたまま、どんどん低迷していくことになる。「味」よりも「酔い」を追い求めた消費者たちの需要と欲求は、安価な三増酒の消費を促進しただけでなく「酒道」などとも表現される一種の文化、すなわちかつて1930年代前半洗練された飲み歩き方をも衰退させ、次世代の明敏な飲み手を育成することを阻んだ。

  • また当時は現在よりもアルコール依存症に対する認知が低く、飲酒運転にかかわる罰則もゆるく、大学のコンパなどでは今では立派に犯罪となるような「先輩からの強要」や「イッキ呑み」などが日常的に行なわれていた。

  • 背後には、「おれもかつてやらされたのだからお前もやれ」といった虐待連鎖に近い因習があり、また「自分も胸襟を開くのだからお前も開け」といった性急なコミュニケーション欲求があった。こうした中、新歓コンパから新入生が急性アルコール中毒で救急車で病院にかつぎこまれ、そのまま死亡するケースも多かった。ほんらい「楽しみ」の具であるはずの酒が、「いじめ」「虐待」「意地の張り合い」の具となっていたわけである。

1960年代ごろまでの生まれの世代は、若いころにコンパその他で三増酒を年上の酒呑みから飲まされ、ああいう「飲むと頭痛や吐き気がする」ものが日本酒だと思い込んだまま中高年になっていることも多い。もっと個人主義的な次の世代となると、上の世代からそのような話を聞かされているので、「酒とは恐ろしいものだ。関わってなるものか」というある種の固定観念を深いところで持ち、若者のアルコール離れが進んでいくのである。

 飲料の低アルコール化(1970年代~1980年代)

昭和48年(1973年)にはアルコール添加の量を三増酒よりはるかに減らした本醸造酒が一般市場に売り出されるようになった。2008年現在では、それ以前の三増酒本醸造酒はアルコール添加をしているという意味で同じように考えている消費者もいるようだが、これはまったく違うと言わなくてはならない。

  • もはや安全醸造が保証された時代であるため腐造防止は目的にあらず、米不足の時代は脱していたので原料に米をできるだけ使わない苦肉の策でアルコール添加をする必要もなくなっていた。したがって本醸造のアルコール添加は、香味の調整の目的で、重量比10分の1以下に限られる。

  • 1990年代から2000年代には全量純米で造る純米蔵宣言をする酒蔵が話題となっているが、同じようなインパクトを以って1970年代には「本醸造宣言」する酒蔵が話題になったものである。

  • 昭和49年(1974年)オイルショックが起こった。原油価格は前年比4倍となり、経済成長は戦後初のマイナスを記録した。大手メーカーは成長が止まり、未納税取引がほとんど行なわれないようになったため、桶売りに完全に頼っていた地方の零細蔵は相次いで倒産し、なんとか自立のきっかけをつかんだ蔵も地酒としての生き残り方を真剣に模索せざるをえなくなった。

  • 昭和57年(1982年)、清涼飲料水業界に表面をプラスティック・フィルムで保護した軽量ワンウェイ壜が導入され、これを利用して昭和58年(1983年)炭酸飲料サワーが発売された。サワーは、それ単独で飲むよりも、高濃度のアルコール飲料、とくに焼酎に加えて飲むもので、焼酎をサワーで割ったものを、焼「酎」と「ハイ」サワーに由来してチューハイと呼んだ。かつてハイボールと呼ばれていた、ウィスキーを割ったものもこのころはウィスキーハイなどと呼ばれた。

  • それ以前より、一部の居酒屋ではチューハイまたはそれに類する物はメニュー化されていたが、新容器の登場が清涼飲料業界を一変させ、その余波として居酒屋で飲むチューハイが家庭で手軽に作れるようになったのだった。

  • 飲料の低アルコール化は、それまでの「酒」と「水」、「アルコール」と「ノンアルコール」の境界線を曖昧にしていく歴史作用も持っていた。古くは祭事などの折に年に数回、泥酔するほど飲むが、日常生活には徳利の影も見当たらないような明治時代以前の酒のありようから、食卓に晩酌がなじんできたそれ以降の酒のありようへの変化も、その境界線を曖昧にしていく歴史作用であったが、その延長線上にあるものである。

  • それまで峻別されていた「酒を飲む場・時・人」と「酒を飲まない場・時・人」が境界線を溶かされることで共存し始めたといってもよい。とりわけ女性の場合、飲酒につきまとう旧来の負のイメージから解放されるのに役立った。

  • こうした流れのなかで宝酒造は、デビッド・ボウイシーナ・イーストンなど、およそ従来のドロ臭い焼酎のイメージから程遠い外国人タレントを宝焼酎『純』のCMに起用し、焼酎ならびにチューハイの一般化を図り多大な成果を挙げたため、焼酎に限らず大手アルコール飲料メーカーは競うようにして同様の商品、すなわち瓶はスタイリッシュだが中身はあまり本格性のない焼酎甲類を発売するに至った。

  • 飲料の低アルコール化という現象そのものは日本以外の国々でも進行しつつあったし、日本でもウィスキーの水割りが一般化してきた昭和40年代にも予兆を見ることができるが、上記のようなサワーの登場と焼酎甲類の急伸が、昭和58年(1983年)から昭和60年(1985年)にかけてチューハイブームを一気に加速させた。

もともと「水で割る」という対象でなかった日本酒は、こうした趨勢に乗り遅れ、さらに消費を低迷させることとなった。

「若者のアルコール離れ」

飲料の低アルコール化という現象の延長線上には、ノン・アルコール化もしくはアルコール離れといった現象がある。

また、日本酒に限って言えば、従来の愛好者は「味にうるさく」「気難しい」「こわいオジサン」という偏見をもたれがちであったために、新規参入しようかと考える若者にとって、畏怖から忌避の対象となっている側面があると思われる。

「バブル景気の影響」

日本の他のほとんどすべての経済分野と同じく、バブル景気は日本酒業界へもさまざまな影響を与えた。

  • 人々が金の使い道を求めて吟醸酒ブーム、淡麗辛口ブームなどを促進したことは、まだしも僥倖の類いだったかもしれないが、話題性のある小さな酒蔵から出荷された希少酒を、投資目的で買占め、熟成に向かないため早めに飲まなくてはならない生酒であるのにもかかわらず、価格が上がるのを待ち、過大なプレミアムをつけて市場へ放出するブローカーが跋扈したことは、日本酒業界にとっては不幸なことであった。

  • これでは蔵の造った本来の味が消費者に伝わらないからである。無知な購入者たちは「なんだ、話題の割にはひどい味じゃないか」ということで、以後その蔵の飲み手として定着することなく、ひいては日本酒低迷の回復の鍵となることはなかった。

  • また、根底に欧米コンプレックスをかかえる日本人が、ありあまる資金を手にしたときに、やはり食卓に置きたがるのがワインやブランデーなど西洋の飲料であった。「解禁日をいちばん早く迎える国は日本」という宣伝戦略を打ったフランスのボジョレーヌーボーのように、そういう日本人の特性にいち早く目をつけた海外資本は、このときとばかりに巨額の商業的成功をおさめた。飲料そのものの「味」よりも、それを「所有すること」に価値を置いたバブル期の日本人は、「文化的でオシャレで上等な飲み物」ワインを購入することに狂奔したのである。

ときに1980年代、すでに日本酒は長い低迷からの脱却を求めて、酒米酵母の開発や、純米酒の改良など、地道な研究を始めて数年が経っていたが、大半の消費者が引き寄せられる華々しい西洋志向の前には、いまだほとんど無力であった。

日本酒低迷状態脱却に向けての試行錯誤(1950年代~現在)

日本酒の消費低迷期への様々な要因がこうして蓄積していくあいだに、同時代的に警鐘を鳴らす者が皆無だったわけではない。

  • たとえば昭和28年(1953年)国税庁の鑑定官であった田中哲朗を中心として、全国の有志酒蔵が、当時の時流であった三増酒に抗して品質の高い酒を造ろうと研醸会を結成している。

  • また上原浩によれば、昭和42年(1967年)鳥取県で戦後初となる醸造アルコールをいっさい加えない酒の醸造が始められたという。今日でいう純米酒であるが、当時は「アルコール無添加酒」と命名された。

  • 埼玉県はあまり酒どころとして知られてはいないものの、昭和50年(1975年)ごろから蓮田市神亀」(しんかめ)の神亀酒造がいち早くアルコール添加をまったくしない酒造りへの移行を始め、昭和62年(1987年)には全国で最初に全量純米へ切り替えた。当時はこの意味が評価されず、「最初は一滴も売れなかった」と蔵人が回顧しているが、この変革は各地の酒蔵に勇気を与え、石川県「加賀鳶」(かがとび)、「黒帯」の福光屋兵庫県「富久錦」(ふくにしき)の富久錦酒造、茨城県「郷乃誉」(さとのほまれ)の須藤本家などが同様の選択をおこなった。平成時代に入ってこれらの蔵に範を取り、いわゆる「純米蔵宣言」する酒蔵が増えてきている。

  • また長野銘醸によれば「元禄の時代より1年たりとも休む事もなく酒造りを継続し、戦後全面的に三倍醸造法が普及する中で、『清酒の技術を冒濱するようなもんはみとめられん』と大反対し、純米酒を守り続け」たとしている。

  • 一方ではアルコール添加を、かつての三増酒に施した防腐や嵩増しの目的ではなく、あくまでも酒質を高めるための究極の技法として追及している石川県「菊姫」の菊姫合資会社のように、純米蔵宣言とは別の方向で日本酒の品質向上と信頼回復に励んでいる蔵もある。同社では「一切の妥協を排した酒造りのできる次代のスペシャリスト養成」のため、すでに昭和61年(1986年)から酒マイスター制度を導入し、伝承技術と企業ノウハウの両方を身につけた新しい世代の杜氏を育成しはじめた。その門下生たちは、すでに酒造業界の第一線、中堅として活躍している。

  • 日本酒の消費が表向き数字の上では右肩上がりであった昭和時代中期には、日本酒の将来をまじめに考える造り手は圧倒的な少数派であり、脚光を浴びるには至らなかった。 皮肉なことに、昭和48年以降は消費の減退というかたちで日本酒業界の衰退が誰の目にも明らかとなったために、かえって以前の少数派に光が当たり、これ以後はむしろ復活への試みと努力が歴史の表に出てきたのであった。しかしながら、日本酒の低迷はいまだ止まらない。

  • 現在も続く長期低迷を脱しようとして、さまざまな試行錯誤が重ねられており、古代に日本酒が最初に醸されて以来、むしろ品質的にはもっとも高い水準に達していると言ってよい。ニューヨークやパリなどでの日本酒の消費が伸びていることなどを見れば、そのことは国際的にも証明されているのだが、2009年現在いまだに日本国内の日本酒の消費回復には結びついていない。

三増酒」という言葉すら知らずに「日本酒とはああいうものだ」という固定観念を極めて深いところに持ってしまっている世代は、なかなか真の日本酒に目を向けようとしないのが現状といえよう。

 ところで今日、ネット上で「産業報国運動」について検索をかけると出てくるのは大抵こんな感じの情報です。あくまで、こうした「生々し過ぎる実際の歴史」の直視は忌避され続けてるんですね。
産業報国会とドイツ労働戦線の 比較に関する準備的考察

当時第二次世界大戦へと向かう時期の日本とドイツ,両国における労働者組織である産業報国会(運動)とドイツ労働戦線(Deutsche Arbeitsfront,DAF)を比べた文書によれば、産業報国会(運動)側は以下の様な相違点を認識していた。

  • DAFが「何よりもまず在来の労働運動の破壊(正確には再台頭防止)」を重視したのに対し、日本の職場における支配的旧勢力は労働運動ではなかった。当然、産業報国運動の目標も労働運動の破壊にあると設定してはいけない。むしろ破壊の対象として選ぶべきは「資本家の温情主義(paternalism)」などである。

    パターナリズム - Wikipedia

  • DAFの全組織は「自力で発展し自分自身の足で立つ独立の存在ではなく、背後にある強大なる政治的勢力、すなわち独逸国民社会主義労働党〔Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei,ナチス党〕の全幅的支持にその成立及発展を負うている」が、幸か不幸か産業報国会には別にこの様な構造が存在しない。

DAFはまた「官吏以外のあらゆる範疇の「創造人」を組織し,かつ競争組織の並立を許さない全国的な単一組織でもあったという意味で二重に全体主義的な組織だった。だが産業報国会(運動)には「国民国家の完全統制下に置かれまいとする市民社会の必死の抵抗(国民国家側の視点に立つとガス抜き)」というニュアンスすら存在したのである。

日中戦争の開始後,戦時体制下での労資関係調整策として出発した運動。略して産報運動ともいう。中央組織としては,民間組織である産業報国連盟の成立(1938年7月),内務・厚生省主導による大日本産業報国会への再編(1940年11月)を節目とする。

当初,官僚側の戦時労資関係制度への構想は,労資一体の理念のもとに待遇問題をも協議しうる労資懇談制度を普及させることであった。しかし資本家側は,従業員に対する指揮命令権をあいまいにするような指導精神や待遇問題も協議対象とするような労資懇談制度には同意しなかった。

産業報国運動 - ウィキまとめ

労資一体・産業報国の理念のもとに労資関係を疑似共同体的に編成し,労働者をファシズム的に統合する日中戦争期のファッショ的運動。

1938年3月, 協調会時局対策委員会の〈労資関係調整方策〉が発表されて運動が発足。同年7月運動の指導機関として産業報国連盟が設立された。運動の展開によって各企業に産業報国会が設立されたが,主要な大企業では,20‐30年代にかけて設立され活動を続けてきた 工場委員会など各種の企業内団体や組織を形式的に統合するかたちで設立された。

一方,中小企業では,産業報国会の結成に警察が一貫して主導的役割を果した。39年4月,厚生次官・内務次官名で〈産業報国連合会ノ設置ニ関スル件依命通牒〉が出され,政府は産業報国会,道府県連合会,地域別連合会の設立に乗出した。これによって,それまで民間運動的性格が強かった産業報国運動における政府の主導権が確立し,労働組合は急速に解散・減少していった。

このまとめ方では完全に「窮地に陥ると市民社会国民国家は折合うが、自由主義者の振る舞いだけはどうにも制御出来ない雰囲気」とか「いわゆる総力戦体制期(1910年代後半〜1970年代)には一旦、水面下に潜った自由主義者達がその終焉を契機に力を取り戻していくプロセス」が抜け落ちちゃってますね。うまく発展させれば「(貴族主義者と第三身分至上主義者が同じ歴史的事実を共有しながら育んできた)二つのフランス史」みたいなものが形成出来そうなのに、実に残念な展開に。
*まぁ、ここでいう「自由主義」、広義には「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマとか「(従属経済を発生させる)自由貿易至上主義」まで含むので、軍国主義者はおろか社会主義者にも受容し難いとも。

 国際SNS上の関心空間におけるアカウントの振る舞いを見てると「失敗は恐れないが、失敗を繰り返すのは恐る」みたいなコンセンサスが根本にある模様。ここに「肉体主義=肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」式の行動主義的アプローチの突破口がある?

さて、私達はどちらに向けて漂流しているんでしょうか…