陰鬱で閉塞感に満ちた1990年代末から「むしろ絶望の渦中にこそ希望を見出そうとする」2010年代に至る歴史的流れ。
これまでの投稿において、それは和製エンターテイメントの世界においては以下に見いだせるとしてきました。
http://pomifumi.tumblr.com/post/159601747327/drew-some-motivational-magical-girl-stickers-u
- 構想十年の「プリンセスチュチュ(Princess Tutu、2002年〜2003年)」から「魔法少女まどか☆マギカ(2011年〜)」に至る流れ。
- J.P.ホーガン「仮想空間計画(Realtime Interrupt、1995年3月、邦訳1999年)」から河原礫「ソードアート・オンライン・シリーズ(2001年〜)」に至る流れ。
- 片渕須直監督映画「アリーテ姫(2001年)」から「マッドマックス 怒りのデス・ロード(Mad Max: Fury Road、2015年)」や「この世界の片隅に(2016年)」に至る流れ。
背景にあったのは思わぬ二つの流れの合流。
- 米国産ハードボイルド文学を源流とする「あえて泥の大海に蓮の花を探す」焼け跡センチメンタリズムの系譜。
- 第三世代フェミニズムの多態化(Polymorphism)志向。
アメリカ人はアメリカ人でこれをナボコフ「ロリータ(Lolitta、1955年)」から「ペーパー・ムーン(Paper Moon、1973年)」や「タクシードライバー(Taxi Driver、1976年)」や「ベティ・ブルー 愛と激情の日々(37°2 le matin、Betty Blue、1986年)」やデビッド・スレイド監督映画「Hard Candy(2005年)」や浅野いにお「おやすみプンプン(2007年〜2013年)」を経て「ローガン(Logan、2017年)」に至る「美少女ロードムービー」あるいは「少女ハードボイルド」の系譜として認識してきた様です。
*実際国際SNS上の関心空間においては、多くの女性アカウントが以下の作品を重複して愉しんでいる。
*考えてみればアメリカン・ニューシネマを代表するマスター・ピースたる「卒業(The Graduate、1967年の映画)」も基底にあったのは「母親と娘の対峙」だった。そりゃ日本と「ロリコン(Lolicon)」のイメージがズレる訳である。
そして実はテッド・チャン「あなたの人生の物語(Story of Your Life、1999年)」から映画「メッセージ(Arrival)」に至る流れもこうした全体像の一環に位置付けられるという次第。
この系譜におけるこの作品の最大の特徴はトリミングの中心を「母娘問題の母親側」にもってきた事。「ロリコン死すべし!!」と連呼するフェミニストは多いですが、そもそもこのジャンルの物語文法においては、「タクシー・ドライバー」のトラヴィス・ビックル(ロバート・デ・ニーロ)や「マッド・マックス」のマックス・ロカタンスキー(メル・ギブソン)や、ウルヴァリン(ヒュー・ジャックスマン)や、ホークアイ(ジェレミー・レナー)の様な「男性的要素の結晶」ですら主役の座は狙えず、それどころかしばしば最後までの生存すらおぼつかないという有様なのでした。
*ここで意外と重要味を帯びてくるのは「タクシー・ドライバー(Taxi Driver、1976年)」において「主人公のエゴで勝手に救われる少女娼婦」を演じたジョディ・フォスターが「羊たちの沈黙(The Silence of the Lambs、1991年)」においてレクター博士に振り回されるクラリス捜査官であり、かつ同じファースト・コンタクト物たる「コンタクト(Contact、1997年)」のエリナー・アロウェイ博士でもある点とも。
ここで意外と重要味を帯びてくるのは「タクシー・ドライバー(Taxi Driver、1976年)」において「主人公のエゴで勝手に救われる少女娼婦」を演じたジョディ・フォスターが「羊たちの沈黙(The Silence of the Lambs、1991年)」においてレクター博士に振り回されるクラリス捜査官であり、かつ同じファースト・コンタクト物たる「コンタクト(Contact、1997年)」において異星人との接触を主導するエリナー・アロウェイ博士でもある点とも。何しろ「あなたの人生の物語」の方に登場する母娘を一人二役で演じてる感じがするのです。
そして「あなたの人生の物語(Story of Your Life、1999年)」のヒロインはこうした全体像を俯瞰し、閉塞感と諦観に満ちた1990年代末を制した作品らしく「もし、未来を知るという経験がひとを変えるのだとしたら? それは切迫感を、自分はこうなると知ったとおりの行動をすべきだという義務感を呼び覚ますのだとしたら?」「未来を知ることは自由意志を持つことと両立しない。選択の自由を行使することをわたしに可能とするものは、未来を知ることをわたしに不可能とするものでもある。逆に、未来を知っているいま、その未来に反する行動は、自分の知っていることを他者に語ることも含めて、わたしはけっしてしないだろう。未来を知る者は、そのことを語らない。『三世の書』を読んだ者は、そのことをけっして認めない」なる「新たなる意識段階」へと進むのです。
*当時の流行語でいうと「過去=純真無垢の乙女」「現在=全てを背後から仕切る賢婦人」「未来=裕福な家母長としての老婆」なる「女性三態」の地母神的統合。源流を遡るとウルトラ・フェミニスト御用達の理論家バーバラ・ウォーカーの「失われた女神たちの復権(The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets、1983年)」辺りに遡る。日本では萩尾望都や山岸涼子といった女性漫画家が広めた。
*トリミング箇所を変えればそれは「メインヒロインの母達」すなわち「魔法少女まどか☆マギカ(2011年〜)」シリーズにおける鹿目詢子、「君の名は(2016年)」における宮水二葉の物語となる。これらの作品においてメインヒロインがメインヒロインたり得たのは彼女達が自発的に「悲劇の主人公の座」を禅譲したからに他ならない?
【ファン必見!】鹿目詢子のセリフ・名言集
*そういえば「新世紀エヴァンゲリオン(TV1995年、旧劇場販1996年〜1997年)」にも「赤木リツコと、コンピュータ化された母の人格(「科学者」「女」「母」に三分され管理されている)との対峙」なんて強烈な図式が存在した。2011年前後には国際SNS上の関心空間を漂う女性アカウントのヤンデレ化が著しく、アスカが生理について「子供なんて産む気は全然ないのに、どうしてこんな現象に定期的に苦しまなきゃいけないの?」と嘆く場面が人気投稿となった。女性内部における「母親的要素と娘要素の対立」は最終的にはここまで立ち入る展開となる?
*国際SNS上の関心空間で、とある女性アカウントが「結局、私達(母親とその娘たる自分)の間には殺し、殺される主体性の奪い合いしかないんだよ!!」と気炎を吐いていた。いわゆる「エンジェル・ウォーズ文法」は、ここで見られる様な「母親の地母神的存在感(あるいは父親に言いなりの無力感)にミニスカート姿で立ち向かおうとする娘側のカウンター・アクション」なんて壮絶な構図抜きに語ろうとするとたちまち形骸化してしまう。
ところが映画販「メッセージ(Arrival、2016年)」におけるヒロインは「例え最初から結末が分かっていたとしても、そこに至るまでの無数の瞬間の輝きは決して失われない(全て神から与えられた恩寵として愉しむべき)」なる、全く別の境地に到達するのです。これは最終的に「母親」の立場に到達する「この世界の片隅に(2016年)」におけるすずさんと「(救えなかった)義理の姉の娘」や「(被爆した)その義理の娘」の関係と重なってきます。
悲劇は登場人物たちが最初からそのような運命を背負っていることを我々が映画の始まる以前から知っている、という点にある。だが話は戦争のなりゆきについてだったろうか? 我々にとってそうではないし、結局、すずやその家族にとってもそうではない。この映画が戦争についての映画ではなく単に戦中に設定されたのとちょうど同じように、すずの人生はその前の、あるいはずっとさかのぼった環境によって決められていたのだ。
爆撃はたしかにすずがそれまでずっと親しんできた風景を描く能力を奪ったかもしれない。だからといってその風景がもうないわけでもなければ,そこになかったことになるわけでもない。戦争に苛まれたからといって、すずが人生をまっとうしなかったということにはならない。
それにつけても「絶対他者と私の関係」がクローズアップされるファースト・コンタクト物の要素が強まっても、母娘物の要素が強まっても、いずれにせよ影は薄くなる「父親の存在意義」。なんかもう「亭主元気で留守が良い!!」「パパは元気で留守がいい!!」と妻と娘に口裏を合わせられちゃう切なさ。
この言葉はまさしく真理。
まごうことなき大人の本音。
男と女の行きつく形。さようなら、私の少女時代。
こうした状況を現実として受容し、いかなる「反撃」が可能なのか真剣に考えるのが2010年代後半の課題とも?