諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【久遠の安保闘争史観】【全ての歴史観に歴史あり】それは時空間を超えて続けられてきた聖戦?

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安保闘争史観なるもの」…それはもはや「法華経(紀元前1世紀頃〜紀元前2世紀頃に成立)」における「久遠の仏」概念、すなわち「御釈迦様はたまたま古代インドに現れた仏陀の一形態に過ぎない。仏陀自身は大衆救済の為にあらゆる時代、あらゆる地域に顕現してきた」なる汎神論へのコペルニクス的展開だった?

60年代、社会主義を信じ、その夢は連合赤軍が破った。

80年代、資本主義を信じ、その夢はバブル崩壊が破った。

90年代、行き場を失った日本人はオカルティズムに迷い込み、その夢はオウム事件が破った。

00年代、オカルティズムから追い出された日本人は、最後の砦・ナショナリズムに篭城する。

90年代、00年代、10年代の日本は「80年安保」のツケを支払ってるようなもんである(笑)。

この投稿の面白さは、かかる「安保闘争史観」のさらなる拡大を試みてる辺り。
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1930年安保

英米協調か?八紘一宇か?、日本の生命線はアメリカなのか?満蒙なのか?、日本史上最大の判断ミス、そして歴史の必然の10年。
*右翼(軍国主義)と左翼(社会主義)が揃って自由主義を弾圧した歴史は既に記憶から抹消済み? ちなみにその現象は日本だけでなくドイツやアメリカでも観測されている。

*実はアメリカが最も共産主義に接近し、そして裏切られた時期でもある。

1940年安保

国体護持か? 全日本人特攻玉砕か?、国体を守って死んで生きるか?降伏して生きながら屍か?、の時代。帝国陸海軍からマッカーサーのGHQへ。鬼畜米英にギムミーチョコレート。そして戦後日本の「メイン」カルチャーは、今日までずーっと親米資本主義一色のままとなる。
坂口安吾堕落論(1946年)」や「第1次・第2次東宝争議(1946年〜1947年)」なんて今や誰も覚えていないし、思い出す必要もない?

坂口安吾「堕落論(1946年)」

*ある意味「冷戦、およびそれに伴う倫理観年の判断停止」が始まった時期でもある。

1950年安保

無思想。とにかく今日の飯、明日の仕事、荒廃からの復興が全てで、思想もクソもない。尊皇愛国は地に堕ちたが、民主主義も身に付かない、徴兵と空襲がないことだけがありがたい時代。
*「主義者」にとってノンポリの生活保守が次第に増大していくこの時代ほどつまらないものはない? まぁこれはアメリカも同じ。

1960年安保

社会主義ソーシャリズムの時代。社会主義への夢があった時代。戦後高度経済成長も始まり、資本主義の勝利が見えてきたが、学生たちは社会主義に賭けてデモをやった。
*当時独特の雰囲気を伝える1961年刊行のSFマガジンの内容…

*実は当時盛り上がった学生運動には「GHQの教育改革による大卒者の価値低減への反抗」なる側面もあったとも。しかもそれを主導したのは「戦前日本を敗戦に追いやった政治的エリート階層の子息達」。こうして「1930年安保」「1940年安保」と「1960年安保」は思わぬ連続性を見せる展開に。

*ちなみに当時国際的に若者中心の新左翼運動が盛り上がったのは、皮肉にも実際には「科学的マルクス主義」の伝統的権威性が揺らぎ旧左翼陣営の土台が揺らぎ始めたせいでもあったりした。

1970年安保

社会主義の残り火と、社会主義への幻滅と迷走の時代。1970年代初頭に「連合赤軍事件」が発覚、社会主義への夢は壊滅する。若者は政治にシラケて、敬遠するようになる。
*あれ、この時代を特徴付ける「反差別主義への傾倒」も視野外? 後世になって「左翼は歴史上ずっと反差別主義を貫いてきた」なる歴史改変が行われたせいかも。

*それから共産主義諸国が(科学的マルクス主義思想の権威失墜を受けて)祖国防衛戦争のスペクタクル史劇化で民族意識高揚を画策する様になり、互いに戦争もする様になって、すっかり「普通の国」になってしまった時代でもあった。

1980年安保

資本主義=キャピタリズムの反乱の時代。バブルと呼ばれる日本経済の絶頂期。モノやお金が溢れ、好景気の恩恵を皆が享受した。今では当たり前のパソコンが初めて登場したのもこの頃。丸井や西武セゾンが象徴する消費資本主義全面肯定、プラザ合意、バブル景気、ジャパン・アズ・ナンバー1…・おそらく日本史上、日本人がもっとも幸福だった、不安が少なかった、爛熟の10年。日本人はバブル景気に土地神話にNTT株に踊り狂った。

*この時代には既に「デフレ・スパイラル」が始まっていたが「輸出に依存する生産体質」を内需拡大によって克服しようとする試みが「バブル」という形で現れただけとも。

*この時期には「生活保守派の旧世代の価値観の超克」が意外とお大きなトピックとなったのだけれど、もちろん「安保闘争史観」において「生活保守派」は「一刻も早く倒すべき政敵」という形でしか意識されない。あくまでカール・シュミット「敵友理論」における党争上の「敵」なのである。

1990年安保

資本主義への幻滅と、オカルティズムへの暴走の時代。キーワードは 「バブル崩壊」そして「オウム真理教」。「社会主義」に代わって「オカルティズム」の時代だった。「新世紀エヴァンゲリオン」も、この90年安保=オカルティズム革命の象徴。

*当時の左翼は自らを統合するイデオロギーを喪失し「諸派の野合」に変貌。「オカルティズム革命」は、そうした「諸派」の一つの暴走に過ぎなかったというのが正しい理解かと。

*それでも完全分裂を免れたのは「ナチ曽根」なる共通の敵が存在したからとも。

2000年安保

ナショナリズム復権の時代。ナショナリズム革命。社会主義が崩壊し、資本主義が低迷し、オカルティズムが暴走に終わって、「ナショナリズム」がトレンドに。その象徴が「サッカー日韓ワールドカップ」。外国といえば「アメリカ」しかなかった日本に、久々に韓国や支那が再登場し日本のナショナリズムを刺激した。
*その一方で国際的に「サヨク無双」の時代でもあった。

*そして当時は「バブル世代」が時代についていけなくなり始めた時期でもある。

2010年安保

今のところキーワードは「東日本大震災」と「集団的自衛権」。原発は大きく頓挫し、韓国や支那の存在も日常化し、日本の景気もどんよりしたまま、そもそも日本経済自体が支那の上海株で左右される時代に、もはや単純なナショナリズムでは通用しそうもない。
*「管理する側とされる側の二項対立の終焉の時代」とも。

 2020年安保

オリンピックの競技場騒動やエンブレム騒動から見るに、高度経済成長時代の東京オリンピックみたいに好景気で底抜けに明るくもなく、ナチスベルリンオリンピックのようにナショナリズムの狂気の暴走でもなく、やることなすこといい加減な「ズンドコ日本」になりそうな予感。

肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」なる伝統的思考様式に従って、淡々と試行錯誤を続ける立場を「行動主義的ロマン」と呼ぶとしたら「精神主義=この世界は認識が全て。一切何も勝ち取れなくても、それどころか一切何も試みなくても、精神的勝者にならなれる」なる魯迅阿Q正伝1921年)」における精神的勝利法の思考様式に従って勝利宣言を続けるこうした立場は「認識論的ロマン」と呼ぶべきかもしれません。こんな感じでOKなら、さらにその期限を20世紀初頭まで遡る事が可能となります。

1900年安保

新しい世代の消費者」に対応した私小説の台頭期。ある意味「認識論的ロマン」の大源流。

*この系譜が田山花袋菊池寛を経て1950年代における「松本清張が主導した社会派ミステリー革命」へと繋がっていく。

一方、司馬遼太郎によれば日比谷焼打事件(1905年9月5日)の頃までは日本に右翼(軍国主義)と左翼(社会主義)の違いはなかったという。

日比谷焼打事件 - Wikipedia

1910年安保

第一次世界大戦特需を背景とする自由主義の日本への本格的定着。与謝野晶子フェミニズムや、大杉栄の無政府主義… 

大杉栄文学史観では「新ロマン主義の時代」に該当。

*しかしながら当時既に「軍靴の跫(あしおと)」は既に迫っていた。ちなみに「薩長幕府討伐運動」の足跡は米騒動(1919年)まで続く。

 1920年安保

大正デモクラシー(1910年代〜1920年代)後期? 第一次世界大戦(1914年〜1918年)特需は終わったものの、世界大恐慌(1929~1933年)到来まで消費者文化の円熟化が進行した。谷崎潤一郎に私淑した江戸川乱歩がまだ「文学者」として認められてて「新青年」に投稿していた時代(1930年代に入ると「エロ・グロ・ナンセンス」を代表する通俗小説作家に転身)。今日から振り返ると実存不安の蔓延に圧倒される。実は同様の特徴は1980年代のバブル期にも見受けられるとも。

江戸川乱歩「白昼夢(1925年)」

宮沢賢治が「オツベルと象(1926年)」を発表し、モダン小説「歯車(1927年)」を残した芥川龍之介が同年自殺した時代でもある。
歯車 (小説) - Wikipedia
芥川龍之介 歯車

*まぁこうした「大日本帝国下における自由主義の発展」を右翼(軍国主義)も左翼(社会主義)も全面否定する形で「1930年安保」は始まるのである。

これでやっと「安保闘争史観なるもの」と「実際の戦後日本政党史」を突き合わせる準備が整いました。

  • 安保闘争史観なるもの」で最も重要なのは「旧左翼陣営内での内紛」や「旧左翼陣営と新左翼陣営の衝突」に関する歴史がまとめて抜け落ちている事。間違いなく1970年代後半以降の「左翼連合の野合化」が残した最も重要な爪痕の一つがこれなのである。
  • 安保闘争史観なるもの」のもう一つの重要な特徴が「生活保守派に対する階級闘争的な態度」。しかしながら「全ては有史以前から続く絶対悪「ナチ曽根=アベ政権」との対決だった」と単純化された発展形においては、彼ら(日本のマジョリティ)もまたずっとサヨクの味方だった事に設定が変更されている。
    *この辺り第二次世界大戦下においてカール・シュミット自身の「敵友理論」が「陸の国と海の国の最終戦争」史観に縮約していった流れを彷彿とさせる。そういえばこの辺りの指摘が私のブログの出発点なのである。

まさしく「全ての歴史観に歴史あり」という事?