諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

改めて「君の名は」とは何だったのか?③ 「80年安保」なる思考様式について。

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宇野常寛「母性のディストピア」より

庵野秀明が失われた理想として、あるいは不可能性として提示したものを可能性として読み替えること。ヘイトスピーチ歴史修正主義の温床となった「オタク」的なものを、(かつて垣間見えた可能性を回復し)非物語的な世界に耐えうる強さを備えたリアルポリティクスに引き戻すこと。世界を非物語的な情報の集合として認識することを受け入れ、戦後的なイデオロギー対立を無効化すること。さらに言えば、敗北した平成の構造改革勢力の理想を新しいかたちに再生すること――これがかつてオタクと呼ばれた想像力の孕んでいた――そして一度は失われてしまった――可能性なのだ。

この可能性を現実にすることこそが「東京駅前のゴジラと付き合っていくこと」であり、その根幹をなすオタク的な成熟こそが、父を演じるのでもなければ、母の膝に甘えるのでもない第三の道であるはずなのだ。

それは未だに「世界を変える」ことではなく「自分を変える」ための想像力しか手にしておらず、世界に、公に、政治に対してはカビの生えた20世紀的左翼の方法論でしかアプローチできないこの国のハイカルチャーの、あるいは倫理としての非政治性から微温的な文化左翼に転向することしかできなかった新人類と呼ばれたサブカルチャーの担い手たちにはできないことのはずだ。

浅羽通明『天使の王国 平成の精神史的起源』より

メインカルチャーとメジャーの権威をも文化資本は解体しつつあり、マイナーが分衆として資本に取り込まれるにはまだ間があった七六~八三年という転形期にあって、低成長下のサブカルチャーは奇妙な活性化を見せていたのだ。『すすめパイレーツ』に『マカロニほうれん荘』。『LALA』に『別マ』に『花とゆめ』。萩尾望都大島弓子山岸凉子。『JUNE』に『ALAN』。諸星大二郎ひさうちみちお。『ビックリハウス』『POPEYE』『写真時代』に『桃尻娘』に糸井重里椎名誠藤原新也。つかこうへいに野田秀樹タモリとたけし。鈴木清順異種格闘技戦新日本プロレス。パンクにレゲエ、テクノ・ポップ、ニューウェーヴ、サザン、RCサクセション。YMO、『よい子の歌謡曲』、『歌謡曲』、『スターウォーズ』。ミニシアター。『ガンダム』に新井素子。世界幻想文学大系やラテンアメリカ文学。メジャー不在の大空位時代にあっては、あらゆる新しいものがマイナーのままでメジャーだった。正義も真理も大芸術も滅び、世の中は、面白いもの、かっこいいもの、きれいなもの、笑えるもの、ヒョーキンなものを中心に回るしかない。この幸福な季節を、橋本治中森明夫は八〇年安保と呼ぶ。

宇野常寛「母性のディストピア」より

後に「80年安保」と呼ばれるサブカルチャーの量的爆発が発生した80年代初頭は同時に、ここで紹介されている「新人類(後の「サブカル」)的なもの」と、本書で取り上げた「オタク」的なものが明確に分離していく時代だった、と言える。

一般的には前者は都市のインターナショナルなライブカルチャーで、後者は全国区のドメスティックなメディアカルチャーだとされている。前者は基本的に輸入文化であり欧米のユースカルチャーに対して敏感であり、その洗練されたローカライズを競うものだったと言えるだろう。ジャンル的にはその中心に音楽があった。対して、マンガ、アニメ、ゲームなどを中心とする後者は「一般的」には国内のマンガ雑誌とテレビアニメを基盤とする国内文化だったと言える。私が思春期の頃は前者こそがサブカルチャーの中心であり、後者は80年代末の幼女連続殺人事件の犯人がいわゆる「オタク」だったことの影響もあり、ほとんど犯罪者予備軍のようなイメージで見られることも多かった。こうした彼我の相対的な位置は、世紀の変わり目のあたりで逆転する。インターネットの普及を背景に、若者のサブカルチャーの中心は後者に移動し、(国の掲げる「クール・ジャパン」政策の空回りを横目に)日本のオタク系サブカルチャーがグローバルに支持を集めている現実が広く知られるようになり、ドメスティックだと思われていた後者の文化はむしろグローバルな輸出文化としての期待を集めるようになった。

この時代の「オタク」たちは(恐らく「結果的に」なのだろうけれども)そこに確固たる世界観を構築しつつあったはずだ。SF、アニメ、特撮、パソコン(特にマッキントッシュ)、ビデオゲーム、輸入ボードゲーム/カードゲームとその国内ローカライズ文化、テーブルトークRPGとメールゲーム、模型、ミリタリー、モータースポーツ……。私よりも少し年上のいわゆる「団塊ジュニア世代」を中心にこの頃、「オタク」的な感性を背景にした教養体系が機能していたのではないか、と私は考えている。そして、これらの体系は、漠然とした、しかし確実に一つの世界観として共有されていたのではないだろうか。

この雑食性と総合性は、一見新人類たちが掲げた「80年安保」と似ている。しかしその守備範囲は、「必修科目」のラインナップは確実に「新人類」のそれとは異なっている。私は仮に、この総合性を強くもった世界観を新人類のそれと対比し「ニュータイプ」の世界観と呼びたいと思う。

グローバル」なるキーワードに手を出した途端、改めて「1980年代パッシング」問題が浮上してきてしまいます。問題は誰がそういう風に仕向けたかという事。

 そもそも、おそらく眉に唾をつけて振り返るべきは「60年安保」「70年安保」「80年安保」が日本を動かしてきたなる「正統史観」そのものなのです。

TVの普及はスポーツ観戦の慣習をお茶の間に定着させ、ここからスポ根物の様な「非現実的な名勝負」の繰り返しで魅せる「一般社会に普遍化できる生き方の見本として、栄光を目指して試練を根性で耐え抜く」物語文法を定着させた。この当時がイタリアの映画監督グァルティエロ・ヤコペッティの手になる「世界残酷物語(Mondo Cane / A Dog's World、1962年)」や山田 風太郎「忍法帖シリーズ(1958年〜1974年)」の全盛期でもあった事を忘れてもならない。戦後復興期の延長線上に現れた高度成長期は、その「(国家間競争が歴史の主体を担う総力戦体制時代特有の)人間を単なる消耗部品として扱う過酷さ」を適度にガス抜きしつつ国民に受容させるイデオロギーを必要としたのだった。

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*当初、総力戦体制下の国家や商品供給企業が想定したモデルは、「T型フォード」や「松下幸之助水道哲学」のそれの様に均質的な内容だったが、皮肉にもその試み自体が特定商品の普及は必ず消費者の心に「自分なりの多様性や多態性の確率への興味の推移」を明らかにしてしまう。

ところが1973年のオイルショックを契機に日本は高度成長期から安定成長期へと移行し、人々の関心は経済的安定や社会的上昇から個々の内面的な充足や多様な価値観を求める志向へと変化した。するとエンターテイメントの世界もそれと並行して日常生活の機微を反映したものへと移行しラブコメ全盛期が訪れる。
*こうした流れの背景には「怒鳴る」「泣く」「殴り合う」「貧乏」「エロ」に執着する「すぐ切れる旧世代」に対する「全てを楽しみたい新世代」の反抗心が潜在していた。

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そして日本においては、ソ連バブル経済の崩壊を契機とする1990年代後半における「焼け跡状態」を克服する形で自主制作アニメ(新海誠)、Web小説(米澤穂信、河原礫)、同人ゲーム(TYPE-MOON07th Expansion)といった「20世紀的価値観の崩壊とそれに伴うルサンチマンの蕩尽完了を前提とした新世代作品群」が登場し2010年代にはエンターテイメント業界のメインストリームの一つにのし上る。

こうした時代の激流に当時の新左翼運動やヒッピー運動はまるでリンク出来ず、従って時代のメインストリームにのし上がる事も出来なかった。そこで彼らはせめて想像の中だけでもそれを達成しようと決意したのだった。

大嶽秀夫『新左翼の遺産』読書ノート

歴史的に言えば新左翼(New Left, nouvelle gauche, neue Linke)とは、社会民主主義(アメリカの場合には民主党リベラリズム)とスターリン主義の双方を批判しつつ、かつ自らを『真の』左翼と自認し、社会主義ないしはリベラリズムの刷新を求めて、『長い60年代(long sixties、1958年〜1974年)』に登場した①思想、②政治運動、そしてその両者と密接な関連をもつ③文化運動・文化現象の総称である。

1950年代後半からの先進諸国における社会運動が、豊かな社会の実現によってその革新的な立場を弱めていき、資本主義の枠内で労働組合員の限られた利益を追求する圧力団体として既得権益を保守する存在となり、社会民主主義政党も福祉国家ケインズ主義路線へと軌を一にして転じた。この転換に幻滅した人びとの間で、これまでの左派社会運動内に共有されていたブルジョア的な文化から離れて、ライフスタイルと芸術の両側面でカウンター・カルチャーへと向かう動きが形成される。この過程でジャック・ケルアックの『路上』や、ボブ・ディランにも多大な影響を与えたアレン・ギンズバーグの『吠える』などのビート・ジェネレーションが、参照点として幾度目かのブームとなった。

ジャック・ケルアック - Wikipedia

*一応は日本の「太陽族(1955年〜1957年)」の方が先行している形となる。

*しかし東大安田講堂陥落(1969年1月、大学側より依頼を受けた警視庁機動隊が学生運動家のバリケード封鎖を粉砕。同年の東大受験は中止)が陥落すると学生運動家達からバイブルの様に崇められていた「白土三平の忍者漫画」が一気に人気を喪失し「近未来における人類破滅を暗示するジュブナイルSF小説」も紙面から消え、その空隙を埋める形で以下の様な20世紀一杯続くロングセラー作品が目白押しとなる。

  • 「アニメ版サザエさん…突然打ち切りになった「白土三平忍者アワー」の後番組としてスタート。

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  • 藤子不二雄ドラえもん(原作1969年〜1996年)」…それまで掲載されてきた「人類の滅亡を暗喩するジュブナイルSF小説」に代わって児童誌の顔に。

    http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20150810003340_comm.jpg

  • 山田洋次監督作品「映画版男はつらいよシリーズ全48作(1969年〜1995年)」…「今の人間の感覚には合わない」と弾劾され絶滅寸前だった伝統的任侠物のパロディとして製作されたTV版(1968年)が思わぬ反響を呼んで映画化が始まった。
    *ちなみにTV版の最終回で渥美清演じる寅次郎は死んでしまったが、それを惜しむ声が殺到したのが発端となっている。

    https://www.tora-san.jp/resources/img/files/pc_scene04.jpg

*こうした展開に飽き足らない若者層は益々映画館に足を向ける事に。しかしその数は必ずしも映画業界側を納得させる規模ではなかったとも。

大嶽秀夫『新左翼の遺産』読書ノート 

本書のタイトルにある「遺産」とは、ポストモダンにつながるものを新左翼が準備したという点におかれており、副題が示すように新左翼ポストモダンとの関係が本書の重要なテーマとなっている。そして、新左翼からポストモダンへと受け継がれた「遺産」が――もちろん一定の留保を伴いながらではあるが――高い評価を与えられているように見える。そこで、この問題について多少考えてみたい。

本書における「ポストモダン」という語の意味は、「ポストモダン哲学そのものではなく、この哲学思想に表現されたある時代精神、時代の感覚、気分、ないしは特定の問題群に対する関心といった、曖昧ではあるが、より広く70年代以降の思想の核心にあるものを指す概念」とされ、キーワードとしては、「あらゆる権威への反抗、とくに近代合理性への権威に裏打ちされたテクノクラート支配への反抗」、「近代が排除した周辺への関心」、「身体、とくにセクシュアリティの問題の提起」、(場合によっては資本主義の消費文化に堕する傾向すらもつ)「快楽の崇拝」などが挙げられている。

ポストモダニズム一般は必ずしも政治的「左翼」と結びつけられるものではない――あるいはむしろ、「右か左か」という問題設定自体を拒否するのがポストモダンの特徴だとも考えられる――が、ポストモダニズムのうちの「左翼的なヴァージョン」に限定して考えるなら、著者の主張は比較的分かりやすい。序章で述べられているように、抵抗の対象たる「権力」概念の拡張と「社会権力」への注目、マイノリティに対する「普通の人々」による差別の問題や「アイデンティティの政治」への注目、またフェミニズムや環境問題などへの取り組みといった点がその特徴であり、これらの特徴は新左翼からの連続性・継承性を物語るということになる。もっとも、新左翼ポストモダニズムもともにきわめて広い概念であるため、それらの間に連続性があるという指摘も、より具体的に議論を詰めていかない限り、茫漠とした印象論となり、ある意味では常識論となってしまう。余談だが、私自身は1970年代〜1980年代のポストモダニズム流行に接したときに軽い反撥のようなものを覚え、安易に流行に乗りたくないと考えた記憶がある(そのせいもあって、あまりきちんと吸収することがなかった)。それは、一つには、あらゆる流行に逆らいたがる天邪鬼な性格のせいだが、もう一つには、その問題提起の中にかつての全共闘運動の中で聞いた話と似たものが多々あり、どことなく既視感を拭えなかったという事情もあった。

 要するに…

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  • 政治的なるもの」が最優先課題だった1960年代の「怒れる日本の若者達」は「60年安保」によって国家の暴走を食い止めた。

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  • 精神的自由の獲得」が最優先課題だった1970年代の「日本の怒れる若者達」は国家の脅威ばかりか権威的家父長制や性表現規制にも果敢に挑戦し、一般人のこれからの解放を主導した。後世から振り返ると、その全体像こそが「70年安保」だったとする。
    *今から思えば当時を彩る角川春樹ジョージ・ルーカスオリバー・ストーンといったカリスマ達の多くが父親との問題を抱えていた。そこに彼らが自己投影する隙を見出したともいえなくない。

  • そして、かかる歴史の延長線上に「80年安保」は達成された。
    *別の筋からは「新左翼と旧左翼の野合」と批判されている流れ。

    *その一方で国際的には「(PC普及を背景に意識改革の道具をドラッグやフリーセックスから「コンピューターによる脳の再プログラミング」に乗り換えた)ティモシー・リアリー博士の転向」にフォーカスする事も不可能ではない。かくしてサイバーパンク文学が生まれたのは事実。

ええとこどり」、しかも(自分は消費者や利用者として参加しただけの)勝利も全部自分達のものとしてきたかかる幼児的自尊心。その切実な思いを最近になって無残に打ち砕いたのは、彼らを「ナチス化したリベラル層」へと型抜きした以下の様な容赦なき歴史的展開だったのです。

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*どうして「◯◯は絶対悪」と叫んではいけないかというと、そもそもナチス自体が「社会ファシズム社会民主党SPD)は絶対悪と決めつける事で国民の熱狂的支持 やドイツ共産党の部分的協力を引き出して政権獲得に成功してるから。

  • 「政治的ニヒリズム」…そもそもナチスとは「守るべき数理を見失った進歩主義者の野合」と「守るべき伝統を見失った保守主義者の野合」の双方を取り込む事に成功した「ええとこどり政権」だった。その一方で取り込んだ相手をすらことごとく滅ぼして独裁を達成するそのやり口は、しばしばシェークスピア版「リチャード3世(The Tragedy of King Richard the Third、初演1591年)」におけるリチャード3世の老獪な処世術に例えられてきた。
    *その世界観においてはあらゆる党争が、支配階層に対する被支配階層のルサンチマンが、絶対王政的勢力均衡論が、「例外状態」や「敵友理論」で構成されるカール・シュミットの政治哲学が、独裁達成の手段として次々と使い捨てにされていく。こういう部分を指して「政治的ニヒリズム」という。

    *一方、大衆はその「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」をモットーとする行動主義を熱烈に支持したが、この考え方はしばしば「究極の自由主義は先制の徹底によってのみ達成される」自由主義のジレンマ、特に「中央部の繁栄を守る為に周辺部に犠牲を強いる」思考様式と結びついた時に最悪の結果をもたらす。いわゆる「デフレ崇拝」がその一環。

  • 数理(内的整合性)の維持を放棄した科学主義」…オーストリアの名家出身で、実際にナチスからの迫害を受けて英国への亡命を余儀なくされたピーター・ドラッカーは「正義の絶対的批判者の仮面を被る一方、自らへの言及は決っして許さない」のがナチスの典型的やり口と断言している。それは奇しくも科学的マルクス主義の形骸化が進み、単一のイデオロギーを旗印にまとまる事が不可能となって以降左翼陣営が選んだ道でもあった。

  • ポストモダン的人間中心主義」の凋落人工知能研究や量子コンピューター研究が第三世代以降、数理の追求に専念する様になった結果、そこに人間中心主義(Humanism)を投影し続ける事が不可能となって反進歩主義の立場が固定。
    *そもそもPCの普及以前は「資本主義は絶対悪」「(その発展を技術面で支える)コンピューター技術(およびそれの立脚する数理)は絶対悪」と叫んでいたので原点に戻っただけとも。しかもPC普及後もむしろ「(人間を一切の非人間性から解放する)超人工知能の実現こそ絶対正義」と勝手に叫んでいただけだった。ちなみに最近は「グローバル資本主義を解体する」ブロックチェーン技術に同様の期待を寄せているらしい。

それでは、こうした問題意識は新海誠映画「君の名は。(2016年)」においてどういう形で表されていたのでしょうか。上掲の様に日本の評論家は概ね「あえて全て黙殺したくだらない作品」と酷評。しかし海外の評価は微妙に違う様なのです。

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  • 様々な仄めかし(ミスリード?)を仕込みつつ、本質的には問題意識をあえて「濃厚過ぎて自らを滅ぼしかけている田舎の人間関係」と「都会人の他人に対する無関心」に集中させた。

  • しかも「(カップルのそれぞれが自らの意思で相手を選ぶ)ラブストーリー」として成立させる為、あえてそこに「田舎者が都会人に抱くルサンチマン」とか「標準化されていく地方の悲劇」といったネガティブな要素を過度に盛り込み過ぎない様に配慮した。
    *こうした要素はほとんど「都会で綺麗なものと眺められた彗星が田舎を滅ぼす不平等」に集約されており、だからこそ「普通の(?)」カップルの手に負える内容となったのである。

    *なにしろ「田舎者のルサンチマン」に傾倒し過ぎるとヒッピー世代が傾倒したグノーシス主義的(反宇宙的)二元論を復活させてしまう。

そう、むしろ「作中で手に負える特定の問題意識のみを抽出する(その一方で「語り得ないものについては沈黙すべきである」式に残りの全てを「ぼんやりとした背景」に追い込んだ)進歩主義的態度」が高く評価されている様なのですね。これ実は片渕須直監督映画「この世界の片隅に(2016年)」が勝ち取った国際的評価とも重なってくる部分があります。

「自分が本当にやりたいことがある人は、それ以外のことはすべて雑音(どうでもいいこと)になります。目標に向かって動いている人は、他人が何をしてようと、人から何を言われようが、そんなことには無関心になれる。結果、他人にキレないわけです。せいぜい、『あー、世の中にはそういう人もいるよね』程度です」

「加えて、自分の進むべき方向性が明確になっている人は、日々の生活の中でも充実感が生まれ、心のバケツに不安も溜まらないのです。そして、これは怒りのマネジメントとして大切な話なのですが、その目標は壮大なものである必要はなく、はたから見たならほんの小さな目標でもいいのです。しかし、それが他人から与えられたものではなく『自分が設定した』、ということが重要なのです」

それでは「自分が絶対評価を獲得出来ない事に怒り狂い、復讐を誓う老人達」に対して若者はどう対処すべきなのか。「君の名は。」における回答は「忘れ去る」という容赦ないものだったりするのです。

まぁ確かに「両立はあり得ない」という話になってきます…

それでも宇野常寛氏は「我々はずっと虚構の世界を生きていただけだった」と認めただけ誠実な部類。とはいえ当然、その立ち位置、「ナチスは絶対悪」派の人達にとっては「(絶対悪たるナチスを倒す為に)偏見の極みを持って虫ケラの様に容赦なく踏み潰すべき裏切り対象」に過ぎないという…