諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「進歩とは、最上級が確定していないことについての比較級である」

f:id:ochimusha01:20180602073310j:plain

 「筋金入りの修正主義者」を標榜している私の心に刺さる言葉…

 G・K・チェスタトン(Gilbert Keith Chesterton、1874年〜1936年) - Wikipedia

イギリスの作家、批評家、詩人、随筆家。推理作家としても有名で、カトリック教会に属するブラウン神父が遭遇した事件を解明するシリーズが探偵小説の古典として知られている。ディテクションクラブ初代会長。

1874年、ロンドン西部ケンジントンの不動産業・土地測量業の家に生まれる。1887年にセントポール校に入学すると1年下のE・C・ベントリーと出会い、生涯の親友となる。当初は画家を志し、1891年にスレイド美術学校(ロンドン大学付属)に入るが挫折し、文学を志すようになる。ロンドンでは、文壇付き合い、パブに入り浸る生活を続ける。

1900年、『戯れる白髪』、『野生の騎士』の2冊の詩集で文壇にデビューを飾る。
ボーア戦争勃発に際して反イギリス側の論客として頭角をあらわし、自由主義派の有力な論客としてイギリスの政治・社会を糾弾批判。

フランセス・ブロッグという少女と恋に落ち、1901年に結婚。彼女の影響と、盟友のヒレア・ベロックがカトリック教徒であったことから、アングロ・カトリシズムに魅かれていくようになる。
*この部分は「指輪物語」の作者トールキンと重なる?
1904年には、マクミラン社の『英国文人叢書』の1冊として、評伝『ロバート・ブラウニング』を出版、批評家たちから高い評価を得る。また、同年に『ノッティング・ヒルのナポレオン』(『新ナポレオン奇譚』)を出版している。

弟のセシルが無線通信会社のマルコーニ社の汚職事件(マルコーニ・スキャンダル)に絡み、告訴され、裁判に敗れる。弟が第一次世界大戦に出征すると、言論誌『新証言』の編集と経営を引き継ぎ、のちに誌名を『週刊G.K』として終生その重責を担うことになる(弟はフランス戦線で戦い、のちに終戦直前に戦死している)。

1909年、バッキンガムシャーのベコンズフィールドに移住、静かな田園生活を送ることとなる。

1922年、「ブラウン神父(Father Brown、1911年〜1935年)」の主人公のモデルとなった、ジョン・オコンナー神父の手によりイングランド国教会からカトリックに改宗。改宗後はキリスト教歴史観から批評活動をおこなう。後期ヴィクトリア朝時代の物質主義・機械万能主義からくる自己満足(虚栄心)に対し鋭い批判を加えた。得意の警句と逆説を駆使したその文芸批評、文明批評は鋭利で、資本主義・社会主義双方を排撃し、配分主義を提唱した。
H.G.ウェルズとの間で、ウェルズのベストセラーである『世界文化史体系』をめぐり論争をおこなう。これがのちの『人間と永遠』の出版に結びつく。
ブラウン神父 - Wikipedia


1936年に死去し、その葬儀はウェストミンスター大聖堂で行われた。
*このときカトリックの聖職者として葬儀を執り行ったのは、推理作家として有名なロナルド・ノックスである。

評価江戸川乱歩は「チェスタトンのトリック創案率は探偵小説随一」と賞賛している。エッセイや評論にも名品があり、ディケンズの評伝はT・S・エリオットなどによってこの分野の最高のものと見なされた。並外れた巨体でも有名であり、ジョン・ディクスン・カーの創造した探偵ギデオン・フェル博士のモデルとも言われる。

本格派推理トリック創出者である反面、作風として当時の知識層の例に漏れず、キリスト教徒としての視点、また当時の植民地主義に立脚する、黒人やインディアン、インディオ、東洋人など他民族への偏見・蔑視が色濃いことも特徴である。

 なるほど「進歩とは、最上級が確定していないことについての比較級である」なる言葉はアングロ・カトリシズムの立場から発されたものでもあったのですね。