諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「右翼と左翼」定義を巡る誤謬③ 「反進歩主義の二重性」が後世に残した諸問題

この辺りで「自由主義(Liberalism)と進歩主義(Progressivism)を巡る諸問題」の全体構造を整理しておきましょう。出発点はあくまで「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならない。これを妨げる権力が正当化されるのは他人に実害を与える場合だけに限られる」なる立場に立脚する「進歩主義(Progressivism)」の登場。

そこには最初から自由主義が本質的に抱える「究極の自由主義は先制の徹底によってのみ達成される」絶対主義的ジレンマに対して「全員に与えられる権利が真に平等なら、その顕在化は数理的均衡によって未然に防がれる」なる処方箋が盛り込まれていたのですが、多くの人間が今日なおそれを信じていません。というより、そもそも「進歩主義」自体を信じておらず、その事が数多くの問題を引き起こして来たのです。

カール・マンハイム(Karl Mannheim、1893年〜1947年)の思考様式に立脚するなら「(あえて人間中心主義(Humanism)に背を向けた)進歩主義(Progressivism)」の問題点は以下。

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  • あくまで(政治的平等や経済的平等といった)数理で扱える範囲にのみ関心を集中させるその態度故に「社会そのもの」「国家そのもの」に対する直接のアプローチ手段を備えていない。
    *既視感がないだろうか? そう、これは「(数理の追求に特化し)人間そのものの解明を諦めた」第三世代AIに対して従来の人工知能研究家が一斉に浴びせた非難そのもの。そして「そんな(人間性の追求そのものは放棄した)異形のテクノロジー」が人間の知性を超越していく事への恐怖が産んだのが「2045年シンギュラリティ(技術的特異点)」問題そのもの。

  • 数理はしばしば「未発見のパラメーター」や「アルゴリズムそのものが含む誤謬」によってその計算を狂わせる。
    *だからイマヌエル・カント(Immanuel Kant、1724年〜1804年)はデカルト機械的宇宙論を、オーギュスト・コント(Isidore Auguste Marie François Xavier Comte、1798年〜1857年)はコンドルセ侯爵の数学中心主義を批判して「人類は(完璧性という点では全く頼むに足らない)数理以外の「絶対に正解を算出する方法」を発見する必要がある」なる結論に到達したのだった。

  • それでもあえて特定の科学のみで全てを説明しようと試みた科学主義(Scientism)は(フランス啓蒙主義や科学的マルクス主義が典型的な形で辿った様に)ことごとく破綻してきた。

    *そもそもフランス啓蒙主義自体に、あわよくば「(かつてカソリック教会が有していた様な)世界中の知識を網羅する万能性」を復権したいという願望が備わっていなかったともいえない。擁するに博物学自体が備える「尽くし」理念そのものがそういうものなのである。

    *まぁ確かに「王侯貴族や聖職者の様なレンティア(Rentier、地税生活者/不労所得階層)ではなく、実際の経済活動を担う産業者同盟(les indutriels)こそがフランスを掌握すべき」「人間による人間の搾取から、機械による自然の活用へ」といった理念の達成には成功したサン=シモン派もパリ万博などに込めた「フランス中心主義の中枢たる啓蒙主義の復活」自体には失敗しているのである。

    *「レーニンがこっそりカール・マルクスの無政府主義的人間解放論を米国のタイラー主義に差し替えた」科学的マルクス主義もまた、結局はフランス啓蒙主義の亜流に過ぎず破綻を余儀なくされている。(人間中心主義に立脚する)リベラルの進歩主義への反感の背後に「科学的マルクス主義ですら失敗したのだ。数理に立脚する理念などどれも正解に辿り着く筈がない」なるニヒリズムを見てとる向きも。

ここまで徹底して一方的に弾劾されると逆に「全ての人間が生得的に備えた良心から出発するから絶対に間違いを犯さない」と標榜しながら、概ね大半が自由主義が本質的に抱える「究極の自由主義は先制の徹底によってのみ達成される」絶対主義的ジレンマに屈して終わる人間中心主義(Humanism)を疑い返してやりたくもなります。まぁそれがこのブログの基本的スタンスという側面も?

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 そういえばヘルムート・プレスナー「ドイツロマン主義とナチズム、遅れてきた国民(1935年)」もマックス・ウェーバーゾンバルトといったドイツ社会学者達が「社会学実証主義科学としての純化」にばかり執着してその政治への応用可能性を切り捨てた事が在野における(現実の政治に対する処方箋としての)民族生物学(Ethnobiology)の流行を引き起こし、これがヴィルヘルム皇帝の暴走やナチス台頭を準備したと厳しい口調で弾劾しています。

マンハイムが「保守主義的思考(Das konservative Denken、1927年)」を発表したのもまた、こうしたドイツ政治の迷走期。同様に背景に議会政治家と学者の無策に対する苛立ちの高まりが背景にあったとされています。

大日本帝国においても第一次世界大戦特需の終焉後、アメリカにおいても世界恐慌(1929年)同様の傾向が台頭してくるが、どちらのケースでも真っ先に「(民間の窮乏を黙殺して贅沢な暮らしを続ける)資本家階層」が叩かれている。ドイツでそういう展開が起こらなかったのは既に当時与党だった社会民主党SPD)ばかりかドイツ共産党スパルタカス団や革命的オップロイテといった極左勢力が既に一貫してこぞって大資本家と中流階層の排撃を進めており、そういう姿勢がドイツ国民の反感を買っていたからだったとも。

おそらくマンハイム当人は当時におけるドイツ保守党の躍進を後援する形で「(数理上の人間の平等を要求する進歩主義に対抗して)各個人の価値の伝統的不平等を強調する代わりノブレス・オブリージュnoblesse oblige)も実践する気高き保守主義」の概念を創造し、それによって自由主義が本質的に内包する「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」絶対主義的ジレンマや(現実の国家存続の危機に関心すら示そうとしない)議会政治家や学者の無策を超克しようと試みたのです。

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千反田江留「傲慢なところがまったくない人というのは、自信がない人のことじゃありませんか。誰からも強欲と言われない人は、きっと家族を養うことも難しいでしょう。世界中の人が誰にも嫉妬しなければ、新しい技術が生まれるとは思えません」

しかしながら(当時国民の期待を集めた)ドイツ保守党自体は、マンハイム言う所の「既存の伝統主義を(神が用意した一般的救済プロトコルにあえて背を向け、自らの内側から届く声にのみ耳を傾ける形で自らの認識を再統合し善悪の彼岸の超越を目指す悲壮な生涯を全うしようとする)ロマン主義導入によって乗り越える」真の保守主義に到達する事が出来ずあっけなく人気が凋落。代わって「ロマン主義など、そもそも主観化された機会原因論(occasionalism)に過ぎない」と退け「(現状懐疑派の現状維持派に対する勝利をもたらす)例外状態を巡る無限闘争状態」を全面肯定するカール・シュミットの政治哲学が勝利を飾ります。それ自体は社会民主党SPD)の大統領内閣制を正当化する為に創造された理論でしたが、結果として「ナチス共産党の最終決戦」が準備される展開を迎える羽目に陥ってしまったのでした。
*かくしてこのブログの最初期の主題だったカール・シュミットの「敵友理論」が思わぬ形で回収される運びとなった。要するにそこに見受けられる「あえて絶対悪を設定する事により、味方に政治的立場の同化を強要する」戦略そのものが「(あくまで多数派として君臨し続ける)現状維持派(漸進派)」が「(普段は互いに殴り合う事で現状維持派の耳目を集め、彼らを自らの影響下に置こうとしている)現状懐疑派(急進派)」を屈服させる時空間を超越した普遍的戦略の一環に過ぎなかった訳である。まぁこうした予想外の展開もまたブログ投稿の醍醐味?

*そもそもマンハイム保守主義は本質的に「国王を擁立する常備軍と官僚団が効率よく全てを統括するのが理想と考える中央集権志向」と「これに対抗して王権を制限し続けようとする大貴族連合の地方分権志向」の両側面を備えているものとしつつ、長らく神聖ローマ帝国的領邦分断状態に苦しめられてきたドイツ語圏には後者の伝統が育つ余地がなかった事を嘆いている。イタリアの歴史にも同様の側面があり、だからこうした国々では国家存亡の危機に際してファシズムやナチズムの様な「指導者原理」に熱狂する流れが支配的になったという次第。

ソ連や中国やイタリアやドイツと異なり、以下の国々では自由主義が本質的に内包する「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」絶対主義的ジレンマへの反感、すなわち反対進歩主義スターリニズム毛沢東主義ファシズムやナチズムの様な形態で全体主義を選択する可能性自体が存在していなかった。

  • 王権の伸長を警戒する大貴族連合が薔薇戦争(1455年〜1485年/1487年)によって自滅し「国王の藩屏」たるジェントリー階層の貴族主義(宮廷貴族と郷紳が滑らかに連続し、しかも新興産業階層に開かれている上、時代の潮流についていけない旧世代は容赦無く脱落していく)に移行した大英帝国。こうした先進的体制から(その起源が農本体制時代にまで遡れる)英国流資本主義や産業革命や議会制民主主義の発信地となる。

  • 同様に公益同盟戦争(1465年〜1477年)やフロンドの乱(1648年〜1653年)によって大貴族連合自体は自滅したものの「宮廷貴族が郷紳や新興産業階層の仲間入りを阻む」閉鎖性への対策が不十分だった為に革命が勃発したフランス。最終的に「馬上のサン=シモンナポレオン三世産業革命導入成功を経て「ニ百家」あるいは「権力に到達したブルジョワ」と呼ばれる政治的エリート階層(やはり同様に新興産業階層に開かれている上、時代の潮流についていけない旧世代は容赦無く脱落していく)の寡占体制へと推移。

  • 南北戦争(American Civil War、1861年〜1865年)によって連邦主義(Federalism)の(家父長制と奴隷制を維持する為に中央からの介入に断固抵抗する)ジェファーソン流民主主義(Jeffersonian democracy)に対する最終勝利が確定。以降産業革命導入が本格的に加速したアメリカ合衆国。要するにこの国においては最初から「政治的エリート階層が同様に新興産業階層に開かれている上、時代の潮流についていけない旧世代は容赦無く脱落していく」図式が自然な現実として顕現している。

  • 近代化の必要にかられると(戦国時代における地方分立状態の残滓ともいうべき)江戸幕藩体制をあっけなく「版籍奉還(1869年)」「廃藩置県1871年)」「藩債処分(1876年)」「秩禄処分(1876年)」などの履行によってフランス的郡県制に解体してしまった大日本帝国。ただし議会制民主主義は元来「国王を擁立する常備軍と官僚団が効率よく全てを統括するのが理想と考える中央集権志向」と「これに対抗して王権を制限し続けようとする大貴族連合の地方分権志向」の緊張感を背景に培われる。この理論から俯瞰すれば必ずしも健全な展開とはいえない側面も存在し、実際第一次世界大戦特需が終わり世界恐慌(1929年)が勃発すると成熟が不完全だった議会制民主主義と資本主義が破綻して軍国主義台頭を招いてしまう。
    *当時を実際に生きた司馬遼太郎は「日本は軍国主義化する事によって、世界中のどの国よりも早く世界恐慌のパニックから抜け出した。軍国主義は国内的な変質を遂げてはじめて可能なもので、その為狂信的な民族主義化を必要とした。ただの人間であってはならず、誰もが日本人である事に自己崇拝を持たねばならなかった」と簡潔に述べている。「軍国主義が台頭するにつれ対立思想が次第に敗北していく」というような悠長な展開ではなく、ある意味最初から「生活」が掛かっていたのだった。
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    *これ実に根深い問題で戦国時代日本を訪れた外国人宣教師も「ヨーロッパにおいて戦争とは王侯貴族や聖職者が(領土継承問題や宗教論争といった)政治問題を解決する為に起こすもの。だから原則として領民の関心は低く動員可能な兵力も限られている。ところがこの国において戦争とは諸要因によって食えなくなった領主と領民が一丸として起こすもの。だから動員規模と本気度がまるで違う」と述べている(16世紀から17世紀にかけての同時代証言として実に興味深い)。実際江戸時代に入っても(それどころか明治維新を迎えて以降も)地方農村は「水争い」などに勝利する為の準軍事組織であり続けるのである。

ムッソリーニから最大の論敵と恐れられ投獄された「イタリア共産党ユーロコミュニズムの父」アントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci、1891年〜1937年)もまた「イタリアでロシア革命が起こる可能性など最初から皆無だった。代わってファシストが政権を握った」現実をどう説明するべきかについて散々悩んでいる。

ドイツにおいても左派が「ヒトラーナチスが台頭したのは(ワイマール体制を主幹した)社会民主党SPD)が無能だったから」とする立場が相変わらず根強い。

近年では中華人民共和国ベトナム人民共和国の様に「資本主義段階に到達した共産主義国」も現れたが、これらの国々もその過程でスターリン主義毛沢東主義からの脱却は経てきている。むしろ資本主義圏のマルクス主義者がこの事実を認められず支離滅裂な発言を繰り返してきた。
*ならば「習近平主義」とは一体何なのか? 最近最もホットな話題はこれで、私個人的にはフランス第二帝政(Second Empire Français、1852年〜1870年)の様な歴史的段階では十分ありかもしれないと考えている。中国人自身の反応も様々。

こうして全体像を踏まえると「大日本帝国時代には、自由主義が右翼(軍国主義者)にとっても左翼(社会主義者)にとっても共闘して倒すべき絶対悪と認識されていた」「なにしろ当時最先端のマルクス主義者だった戸坂潤(1900年〜1945年)も「自由主義はあまりにも容易に絶対主義へと転化してしまう」と嘆いている」なる現実を受容する心理的障害が大いに下がります。まぁ当時は世界中が同じ問題を抱えていた訳です。

アメリカにおいてもフライシャー兄弟のアニメ・スタジオや「スクリューボール・コメディの達人」フランク・キャプラ監督が同種の攻撃を受けて屈服し発表作品をつまらなくしていく展開が見られた。むしろそうした同調圧に一切屈せず「白雪姫(Snow White and the Seven Dwarfs、1937年)」「ピノキオ(Pinocchio、1940年)」「ファンタジア(Fantasia、1940年)」「ダンボ(Dumbo、1941年)」「バンビ(Bambi、1942年)」といった娯楽/芸術至上主義大作を発表し続けたウォルト・ディズニーや、そうした無謀な試みを資金面で支え続けた(南イタリア移民互助会を起源とする)バンク・オブ・アメリカこそが(ナチスドイツの宣伝省長官ゲッペルスをも嘆息させたほど)世界史上突出した形で狂っていたのであり、手塚治虫宮崎駿といった戦後日本のクリエーター達に「日本が戦争の泥沼に突入していく時代にアメリカではこんな映画が制作されていたのか(最初から負けるのは決まっていた)」なる衝撃を与える事になる。

*それにつけても当時のディズニー映画は残酷極まりない時代性を反映して本当に恐ろしい。未成年の喫煙がその実害の提示と一緒に許容される反面「遊んでばかりの子供はロバになる」。

*その一方では「未成年の飲酒」が閉塞した状況の突破口になったりもする(しかもそうした妄想の最後は何故か当時の人間を悩ませていた機械文明批判に到達)…このエピソード、ウォルト・ディズニーが「ウォッカに浸したドーナツを朝食として好んだ」アル中だった事を念頭に置くと「なまじ決っして世間に認められる事がない性癖の持ち主であるが故にマーケティング技術を本気で研鑽し、その部分だけは後世再評価された」サド侯爵作品の数奇な運命を連想させる。


*それにしてもディズニー映画における初期のヴィラン(悪役)が概ね「魔法も使わず、権力もなく、しゃべしもせず、姿すら見せない事でかえって世界中の子供達にトラウマを与えた存在」であり、これに対抗するにはRAVE(空元気)しかなかったという分析は鋭い。
*まさに映画「ダンケルク(2017年)」におけるドイツ軍。降伏か全滅か迫られる状況だからこその「スピットファイアーの栄光」…予告編において日本語への翻訳の難航を繰り返し思い知らされる「Mission of Surrender(降伏の試練)」概念。ならば当時「絶対悪」だったのは誰で「絶対善」だったのは誰?

*この意味合いにおいて「ソー・バトルロイヤル(2017年)」はまさにディズ二ー映画のこうした伝統的側面にきちんと寄り添っている。それまでの作品における「別離」の描写の連続があったればこその新海誠監督映画「君の名は(2017年)」ラストの異様な感動もあった訳で、「パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊(2017年)」ラストにおけるエリザベス・スワンの再登場が観客に与えた衝撃もそれに依る所が大きい。もはやそれは宗教的奇跡の顕現に近かった?

*そういえば「人間が直感でしか到達し得ない宗教領域の奇跡は、この世界においては主幹的誤謬と区別し得ない領域でしか起こり得ない」なる諦観を受容した魔術的リアリズム文学が登場したのも、ほぼ時期だったりする。総力戦体制時代(1910年代〜1970年代)とは何だったのかについて振り返る上では、こうした観点は欠かせない。

とはいえ、そうなる要因は既にジョン・スチュアート・ミルが「自由論(On Liberty、1859年)」の中で「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならない。それを妨げる権力が正当化されるのは他人に実害を与える場合だけに限定される」と宣言した時点で埋め込まれていたのです。
*ミルの「自由論」は中村正直の初訳「自由之理(1872年)」以降、日本国内で貪る様に精読されてきた。要するに日本人はこうした功利主義的価値観体系を知らなかった訳でなく「日本文化には別の考え方がある」として頑なに抵抗を続けきただけなのである。

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かくして「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」絶対主義的ジレンマを克服すべく「(数理上の人間の平等を要求する進歩主義に対抗して)各個人の価値の伝統的不平等を強調する代わりノブレス・オブリージュnoblesse oblige)も実践する気高を強調した」「既存の伝統主義を(神が用意した一般的救済プロトコルにあえて背を向け、自らの内側から届く声にのみ耳を傾ける形で自らの認識を再統合し善悪の彼岸の超越を目指す悲壮な生涯を全うしようとする)ロマン主義導入によって乗り越え様とするマンハイム流の「真の保守主義」理念は、ドイツ以外では国際的に共有されていた「富裕層の温情主義(Paternalism)の中途半端に対する苛立ち」を背景に新たな現状懐疑派集団(急進派集団、それぞれは少数派に過ぎずそれぞれ政治的立場や背景理論を異にするが「互いに殴り合う事で現状維持派(圧倒的多数を占める漸進派)の耳目を集め、これを支配下に置こうとする」点で利害が一致する)をライバルとして擁する事となる展開を迎えたのでした。要するにこれが「進歩主義の二重性」問題の出発点。かくして「進歩派」に対抗する形で派生した「保守派」が国際的に反自由主義の立場に立つリベラル階層から一緒くたに叩かれる図式が国際的に定着していくのです。
*「守旧派と革新派」なる分類の問題点は、歴史上こうした価値観の逆転が幾度となく起こってきた事をあくまで黙殺しようとするあたり。

こうして全体像を俯瞰してみると、当時発祥した社会自由主義(Social Liberalism)概念が(自らがそれを行使する立場に立つまで)「富裕層の温情主義(Paternalism=新興産業階層の間でも流行した再版家父長制)」を絶対に認めない立場から(自由主義保守主義が本質的に内包する)「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」絶対主義的ジレンマや「個人に(数理上の都合のみを追求する進歩派が認める)多様性や多態性を認める自由主義的立場」への反感を表明し続ける反自由主義的/反進歩主義的立場が当時の共産主義ファシズムやナチズムと重なるのは致し方ない事としか思えなくなってきます。実際、当時は共産主義ファシズムやナチズムと一緒くたに「互いに殴り合う事で現状維持派(圧倒的多数を占める漸進派)の耳目を集め、これを支配下に置こうとする」現状懐疑派集団(それぞれはマイノリティに過ぎない急進派)を形成していた訳ですし。

むしろ解き明かすべき謎は「後世の人間は何故、そんな代物を特別に抽出してむやみやたらと有り難がる様になったのか?」自体かもしれません。いずれにせよこうした観点は1970年代に「我々は遥か昔よりずっと差別と戦い続けてきた」なる自意識を獲得して以降、国民感情とのさらなる乖離を経験する展開を迎えます。

さて私達は本当に一体どちらに向けて漂流しているのでしょうか?