イノベーション(技術革新)と芸術表現の思わぬ関係について。
こんな風に飛ぶミサイルの描写なんてどう描けばいいんだよ。
— 叫骨(キョウコツ) (@fpsg1) July 17, 2018
「ポップコーンみたいにはじけ飛んでからソレは、標的にと向かっていった」とかか?! 知らなかったら、そんなわけねーだろって言われるわ。 pic.twitter.com/fCfs4s12Eo
フォロ外より失礼、浮かんだのは以下二文でした。
— 詩柳耶琴 (@ykt_kty) July 17, 2018
第一の噴射は垂直の跳躍、第二は上方へ煙が上がる位置修正。そして、三度の内最大出力の後方へ推進噴射で、ソレは真っ直ぐ飛び込んで爆裂した。
跳躍、体勢修正、そして飛び込み散る。そのロケットは、まるで飛び蹴りをするかのように駆けていった。
「それは発射されたのち、旧世代のミサイル開発者が揃って爆笑し、数秒後に思いつめた顔で辞表を出しに行くような軌道を描いて、的に命中した」
— ホワイトフレア@VRChat (@whiteflare_vrc) July 17, 2018
「タネを明かせば潜水艦発射ミサイルの系統なのだろう。圧縮ガスでポップさせてから、ミサイル自身の姿勢制御モータで転回、そしてメインモータに着火だ」
アン、ドゥ、トロワ。 地を蹴るように飛び上がったミサイルは、続けて軌道修正、目標へ推進した。
— ボロニア (@Lasagna_ayaya) July 17, 2018
三度の点火がまるでリズムを刻むように、生きているかのようなおかしな動きで、しかし生きているものの命を奪うのだ。
アメリカ国歌の「The Rocket's Red Glore, The Bombs Bursting in the Air(砲弾は赤く発光し、宙で炸裂せり)」という表現を思い出しました。ロケットは第二次独立戦争(1812年6月〜1815年2月)当時の最先端の兵器だったのですね。
ロケットの歴史は古く、西暦1000年頃には中国で、今のロケット花火の形態が発明され武器として利用されていた。1232年、モンゴルとの戦いで使用されたという記録がある。その後、モンゴル人の手に渡り各地で実戦に投入された。14世紀半ばには中国の焦玉により多段式ロケットが作られた。
ロケットという言葉の由来は、イタリア語からきています。1379年にイタリアの内戦で使用されたとき、イタリア語の糸巻きを意味する「rocchetto(ロッケッタ)」という呼び名が使われるようになり、やがて英語のroket(ロケット)という呼び方に変わっていきました。
1792年にはインドのマイソール王国(1767年〜1799年)の支配者ティプー・スルターンによって対英国、東インド会社とのマイソール戦争で鉄製のロケットが効果的に使用された。マイソール戦争終結後、このロケットに興味を持った英国は改良を加え、19世紀初頭までにコングリーヴ・ロケットを開発した。開発の中心人物はウィリアム・コングリーヴであった。
1814年の米国におけるボルティモアの戦いでは英国艦エレバス(HMS Erebus)からフォートマクヘンリーにむけてロケットが発射され、観戦していた弁護士フランシス・スコット・キーによってアメリカの国歌星条旗に歌われるに至った。同様に1815年のワーテルローの戦いでも使用された。
初期のロケットは回転せず、誘導装置や推力偏向を備えていなかったので、命中精度が低かった。初期のコングリーヴのロケットでは長い棒をつけた。(現代のロケット花火に似ている)大型のコングリーヴのロケットは重量14.5kg、棒の長さは4.5mだった。1844年にウィリアム・ヘール(William Hale)によって改良されたロケットでは噴射孔に弾体を回転するための偏流翼が備えられ、回転するようになり安定棒が無くても命中精度は向上したものの、改良された大砲に射程距離、命中精度が劣ったので下火になった。
徐々に改良が加えられたが、ライフリングや鋼鉄製砲身等の大砲の改良により射程距離、精度が高まってくると、誘導装置のないロケットの使用は信号弾等、限定的なものになっていった。後年、カチューシャ、バズーカ、MLRS(Multiple Launch Rocket System=多連装ロケットシステム)などの形で復活する。
ちなみに南北戦争当時使われたヘール・ロケット(Hale Rocket)は迫撃砲の御先祖筋に見えます。
日露戦争(1904年~1905年)
日露戦争は第一次世界大戦の前哨戦とも言え、新兵器である機関銃と塹壕・堡塁を組み合わせた本格的な野戦防御陣地が構築された初の大規模近代戦争であり、迫撃砲のプロトタイプである小型軽量の近接支援火器も本戦役で初めて登場する。
旅順における日本第3軍の死闘はつとに名高いが、最前線では敵の塹壕に至近から爆薬を投擲しあう肉弾戦が展開され、両軍ともに甚大な損害を出していた。これを憂慮した日本軍攻城砲兵司令部の今沢義雄中佐が、より遠方へ爆薬を投射するために打上花火の仕組みを応用して即製の擲弾発射機を考案し、「敵に迫って砲撃する」という意から迫撃砲と名付けられた。
このとき各部隊で急造された擲弾発射機は、木製の筒に竹の箍(たが)を連ねて補強した口径12-18cmの砲身をもち、黒色火薬の装薬に導火線で点火するという簡素な構造であった。また、砲弾と装薬が分離しており、第一次大戦で登場したストークス型迫撃砲のようにカートリッジ方式ではない。
なお、この木製砲は後に技術審査部における鉄製の十糎半携帯迫撃砲の開発へと発展し、明治38年8月には下志津原で射撃試験が行われた。しかし、砲身が破裂して死者3名と負傷者多数を出す事故を起こし、改良を模索しているうちに日露戦争が終結してしまい実戦には間に合わず開発中止となった。これ以降、第一次世界大戦が始まるまで日本における迫撃砲の開発は停滞することになる。
*日本軍は他にも口径7cm・12cm・18cmの迫撃砲を開発していたことが記録に残っている。この12cm迫撃砲は、幕末に購入した旧式の十二栂臼砲の砲弾を再利用していた。また、明治38年付の資料には、後の擲弾筒を彷彿させる口径44mm・砲身長200mm・全長329mmという軽迫撃砲が記載されている。同様の小型曲射兵器はロシア軍も使用しており、レオニード・ゴビャートが開発した擲弾発射機は「ボーンプィエ(Бомбомёт)」と呼ばれ、第一次大戦が終わる頃までは迫撃砲を意味していた。ゴビャートが考案した迫撃砲は後に「スピガット・モーター」として彼の著書と共に欧米へ広まり、第一次大戦で広く使用されることになる。
なお、本戦役には外国からも多数の観戦武官が日露両軍に随伴し、新兵器の威力や従来とは異なった戦闘の推移について多くの報告が本国に送られたが、極東における局地戦の一事象としてほとんど顧みられず、続く世界大戦で各国は日露戦争以上の代償を支払うことになる。
第一次大戦期(1914年~1918年)
第一次世界大戦では日露戦争以上の塹壕戦が特徴であり、西部戦線においてスイスから北海に至る長大な前線に張り巡らされた塹壕の総延長は40,000kmに達した。これは、日露戦争でもその威力を発揮した「機関銃」の普及により、砲兵による攻撃準備射撃と歩兵の突撃という従来の戦術では敵陣地突破が困難になったためである。その防御火力は絶大で「1挺の機関銃が1個大隊の突撃を阻止する」と言われたほどであった。
攻撃前にどれほど砲弾の雨を降らせても塹壕内に伏在する機関銃を完全に排除することはできず、戦線は長期にわたって膠着状態に陥り、交戦する両陣営ともに敵の機関銃陣地を沈黙させることが最重要目標の一つとなった。そこで、砲兵による攻撃の後は、前進する最前線の部隊が敵の機関銃を発見次第に近傍から直接攻撃して破壊する方法がとられることになる。
その結果、協商国側では「ストークス・モーター」、同盟国側では「ミーネンヴェルファー」という二つの小型曲射砲が誕生する。ミーネンヴェルファーは直訳すると「爆薬投射機(mine launcher)」で、大きな仰角をとることが可能な小型で精密な曲射砲である。一方、ストークス・モーターは現代の迫撃砲と同じ構造の簡易曲射砲であった。いずれも従来の砲とは異なり小型軽量だが、特にストークス・モーターはかなり狭隘な塹壕内でも設置できるほどコンパクトな上、僅か数名の兵員で携行・操作できた。
ミーネンヴェルファーもストークス・モーターも塹壕戦を契機として誕生した砲だが、ストークス・モーターは塹壕戦に留まらず歩兵の直協支援火器として以後も更に発展し、それとは逆にミーネンヴェルファーは第一次大戦後に廃れていった。これは、ストークス・モーターの方が簡易な構造で生産が容易であり、軽量で扱い易く歩兵が直接扱えたためで、現代の迫撃砲はストークス・モーターを原型としている。
なお、迫撃砲を発明した始祖はイギリスのウィルフレッド・ストークス(Sir Frederick Wilfrid Scott Stokes)だが、その標準化に影響を及ぼしたのはフランスのエドガー・ウィリアム・ブラント(Edgar William Brandt)である。ブラントが開発した60mm・81mm・120mmの迫撃砲が各国でライセンス生産され、弾薬の互換性を保つために後継の砲でも同じ砲口直径のものを用いざるを得なかったため、現代でもNATO標準規格(STANAG)ではこれらと同じ口径の迫撃砲弾が指定されている。
*彼が開発した迫撃砲の中でも最も普及したのは口径81mmの中迫撃砲である。ブラント81mm迫撃砲Mle27/31はフランス軍の正式装備となっただけでなく、日本やアメリカ、イタリア、チェコスロバキアなどでそれぞれ九七式曲射歩兵砲、81mm迫撃砲M1、81mm迫撃砲M35、Vzor36 81mm迫撃砲としてライセンス生産された。さらにはドイツの8cm GrW 34やソ連の82mm迫撃砲の開発の参考にもなっている。「敵の群がっているコンクリート製掩蔽体の真上に落として敵だけを殲滅出来る」破壊力の使い勝手が良かったせいとされる。
戦間期~第二次大戦期(~1945年)
出現した当初からストークス型迫撃砲の完成度は高く、第二次世界大戦期に更に洗練され、現代に至るまで基本構造に大きな変化はない。主要な参戦国の地上部隊は必ず迫撃砲を装備していた。
第二次世界大戦では歩兵の機械化が進み、自走式の迫撃砲も登場した。軽量の迫撃砲は車載化も容易で、トラックの車台に既製の迫撃砲を搭載しただけのものから、既存の装甲車両を改造して固定武装化したものまで様々である。
そしてもちろん曲射兵器の発達は弾道学の進歩と二人三脚で進んだのです。
発射された弾丸(砲弾)、爆弾、誘導弾、ロケット弾などの飛翔体の移動と挙動に関する学問(軍事学)の一分野。
- 当初大砲の発生と共に始まったが、更に遡れば投石器やカタパルトなど飛び道具による投射の研究にその萌芽を見出すことが出来る。
- 軍事学の一分野ではあるが、物理学から力学を介して数学にまで関係し、その一方では物性にも絡んで化学との接点も持つなど、多様な分野に関係している。コンピュータもその黎明期より強く関係し、膨大な弾道計算を処理する機械計算の延長で必要とされENIACなどの開発がすすんだ。現代でもコンピュータ・シミュレーションの分野で主要なテーマの1つとなっている。同分野では計算対象が飛翔のみに留まらず、爆燃や轟燃、侵徹過程といった詳細な実験観測が不可能な物理現象まで広がりを見せている。
- 弾丸や砲弾の発射においては、弾丸が砲身内に存在する状態と、発射口から飛び出す瞬間、空間を放物線を描いて弾道飛行している間、物体に衝突して運動エネルギーが対象の破壊となって現れる段階と、幾つもの段階によって細分化されており、その各々に専門の研究者さえ存在する。それぞれは砲内弾道学・過渡弾道学・砲外弾道学・終末弾道学(破壊弾道学・侵徹弾道学)などと呼ばれている。
- 最も単純な弾道学モデルは真空中に砲弾を投射した場合で、これは重力の影響を受け軌道が逸れながら運動を続ける。それを体現しているのが人工衛星で、一定速度(第一宇宙速度)で発射された物体は「延々と地平線の向こうへ落下し続け」る状態となる。ただ実際の弾道学では、弾丸の形状によって発生する空気の流れ(流体力学)や重力を含む他の力(コリオリ力なども)の影響など様々な要素が複雑に関係してくるため、単純な計算式でその軌道を表すことが出来ない。これらを予測の範疇内に収めようと観測や実験や計算を繰り返す学問といえる。
元々は兵器の有効性を高めるための軍事研究の1つではあったが、宇宙開発では弾道学で培われた知識が必須のものとなり、弾道学は軍事だけに留まらない科学研究分野の1つとなっている。
それ自体が独自の身体性を備えた極めて完成度の高い「(後期ハイデガーいうところの)集-立(Ge-Stell)システム」すなわち「特定目的達成の為に手持ちリソースを総動員しようとする体制」だったという次第。そして、その芸術表現が人類全体の「(後期ウィントゲンシュタインいうところの)言語ゲーム(Sprachspiel)」を豊かにしてきたのです。
*この次元で最初に存在したのは「正確な数表を(出来ればリアルタイムに)獲得したい」なるアルゴリズム概念の基礎を為す欲求だった。
もちろん「言語ゲーム(Sprachspiel)」の一環に組み込まれた時点で「集-立(Ge-Stell)システム」特有の目的一貫性は失われてしまうのですが、そもそも弾道学自体その目的性を「軍事面での勝利」から「宇宙開発競争での勝利」に推移させてきた訳で、ましてやその副産物として研鑽されてきたコンピューター工学に至っては…
*ただし「概ね想像の対象があくまで原則としては物理的方面に止まる」という点で「(人間の知性の複製なる問題が表面化してきた)コンピューター工学の発展史」より「揺らぎ幅」が小さいとも?