諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【現状確認】人類が選択した「テクノロジーや社会や市場経済に自分の面倒を見させる」戦略について。

ブログというのは、自分の頭の中でループバックしてる主題を発見するのに適したメディアかもしれません。私の場合だと、例えば以下。

生物は、良い環境であれば繁栄はする。しかし、進化はしない。一方苦境は、生物の進化を生み出す。

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 ①ある意味、猫は「人間に自分の面倒を見させる」戦略を選択する事で自ら進化する道を放棄してしまった生物である。同様に人間は「テクノロジーや社会や市場経済に自分の面倒を見させる」戦略を選択する事で自ら道を放棄してしまった生物といえるのかもしれない。ならば「テクノロジーや社会や市場経済に自分の面倒を見させる」戦略の内諭とは一体如何なるものだったのだろうか?

②狩猟採集段階の人間集団は「(食料調達能力に長ける特定個人のカリスマ性」や「(自然の猛威を含む理不尽な暴力そのもの」との対峙(精神的意味合いにおける服従や対決)以外、後期ハイデガーいうところの集-立(Ge-Stell)システム、すなわち「特定目的達成の為に手持ちリソースを総動員しようとする体制」を戦略的に採用する習慣を持たなかった。そこには早くも「(特定の生活手段への依存が生存戦略上の柔軟性を失わせる事を恐るリスク分散の概念」や「(若き野心に満ちたリーダーが、やがて年老いて自己保全しか考えない老害に変貌して引退を余儀なくされる様に過去の成功例が未来永劫は続かない現実への適応」といった諸概念の萌芽が見て取れる。そして人類は「(隠されていた真価が自ずと露見して必然的に人々を引き寄せる真理Aletheia=アレーティアの神話」や「(フレイザー牧師が「金枝篇(The Golden Bough、1890年〜1936年)」で活写した様な超自然的力の庇護者が次々と代替わりしていく循環史観」に断片的ながら到達する。そしてウラジミール・プロップ「昔話の形態学Morphology of the Folktale、1928年)」によれば「獲物を確実に屠れる狩猟や戦争の道具」や「相応に安定して集団を養える高度な農耕や集団狩猟/漁業技術」の登場がこうした原初的段階からの脱却や新たな集-立(Ge-Stell)システムへの精神依存が発生したのだという。有史段階開始までに人類はすでにここまである種の「前適応」を済ませていたのだった。

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  • 獲物を確実に屠れる狩猟や戦争の道具」や「相応に安定して集団を養える高度な農耕や集団狩猟/漁業技術」がもたらす新たな集-立Ge-Stellシステムへの精神依存…それまでの認識では「理不尽な大自然の猛威」に立ち向かえるのは「(そのカリスマ性で獲物を魅了して寄せ集める狩人や謎理論によって毎年の収穫を可能な限り保証してくれる在野農業指導者」だけだった(ある意味「極めて有用だが迂闊に近づくと殺されてしまう危険なイケメン=CV櫻井孝宏」の概念はこの時代まで遡るのであろう)。そして、その認識が「(使用に様々な制約がつきまとう魔法の狩猟道具や武具」を巡る物語に上書きされていく(そう、まさしく「祝福」と「呪詛」がセットになった「ハルモニアの首飾り / 花嫁衣装」や「ニーベルング族の黄金 / ラインの乙女から奪われた黄金の指輪」の世界)。

  • こうした新たな集-立(Ge-Stell)システムへの精神依存が「(狩猟圏を独占する支配者階層」や「領主在地有力者が全人格的に農地や農奴階層の立場を代表する農本主義的権威体制」を登場させるのである。

    *また「獲物を確実に屠れる狩猟や戦争の道具」や「相応に安定して集団を養える高度な農耕を支える開墾道具 / 農具」の原料となる金属が地域によっては交易を通じてしか獲得出来なかったので、こうして台頭した在地有力者達はたちまちそれを巡る複雑な協力 / 対立関係に巻き込まれていったのである。ちなみにこの条件を満たすのがヴァイキング(北方諸族の略奪遠征)時代を経て諸王国鼎立状態に落ち着いた北欧、そして古墳国家時代を経てヤマト王権樹立に至った古代日本(倭国)となる。要するにここでいってるのは「雄略天皇は群臣応挙の儀礼を経て即位したのに、何時の間にか天皇即位の儀には(途中過程で必須とされた中臣氏の祝詞もいつしか忘れ去られ)三種の神器なるレガリアが必要となっていた」みたいな王権発祥過程にも絡んでくる価値観の変遷なのである。
    レガリア(regalia) - Wikipedia 

  • そして紀元前6世紀前後における「試金石」概念の登場が「経済の貨幣市場化」の出発点になると同時にヘラクレステセウスの様な「全体像を俯瞰してみると周囲を酷い目に遭わせ、自らも悲壮な最後を遂げていく神に選ばれた英雄)」という新たな物語累計を急浮上させる展開を生んだのだった。

    *もちろんこうした英雄像は間違いなくフレイザー牧師が「金枝篇(The Golden Bough、1890年〜1936年)」で活写した様な伝統的王権交代論の延長線上に現れたものである。そして、かかる「神に選ばれた存在が世界維持の為に持てる全てを搾取され尽く集-立(Ge-Stell)システム」の延長線上に同性愛スキャンダルで国外亡命を余儀なくされた英国人作家ウィリアム・トマス・ベックフォードスイスにおいてフランス語で執筆した「ヴァセック(Vathek、1785年)」、自衛隊の一部隊が「巨大な歴史的意志」に召喚されて捨て駒とされる半村良戦国自衛隊(G.I. Samurai 、原作1971年、映画化1979年)」、夢と希望に満ちた少年少女がその全てを搾取され(その残骸としての)冷酷な暴君に変貌した後に世界外に破棄されるミヒャエル・エンデはてしない物語(Die unendliche Geschichte、原作1979年、映画化1984年)」、冒険者が冒険を続ける為に次々と恐るべき対価を支払わせられ続ける「杜子春」的ファンタジーであるつくしあきひとメイドインアビス(単行本2013年~、アニメ化2017年~)」などが登場する。
    芥川龍之介「杜子春(1920年)」 - Wikipedia

    *そして遂には「巨大なる歴史的意志の搾取対象」が人ですらなくなる衝撃の「ラプトル侍」が現れる。日本人は気づくとアメリカ人を今日なお悩ませ続けている 「エミリー・ファッセルマンのウサギ」問題を解いてしまっていたのかもしれない。

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    *要するに「(全ての他要因を忘れての)純粋なる集-立(Ge-Stell)システムとしての本願の追求」が処方箋。河原礫「ソードアートオンライン(2001年〜)」「アクセルワールド(2009年〜)」もこの路線を選択した。そして「二刀流の黒の剣士キリト」や「閃光のアキナ」を表現するに相応しい(元来はフィリップ・マーロゥのセリフの誤読に過ぎなかった)以下のテーゼが続く事になるのである。「タフでなければ生き延びられない。タフなだけでは生き延びる資格がない」。

    *ここでもう一点興味深いのが、「ヴァセック」やホレス・ウォルポール「オトラント城奇譚(The Castle of Otranto、1764年)」といったゴシック・ロマンス文学が「ウォルポールの平和(1713年〜1739年)」構築後に失脚したホイッグ穏便派の末裔の手で執筆されたという辺り。当時の英国は議院内閣制の根幹をなす責任内閣制の概念の成立期といわれるが、要するにこうして「再起を恐るあまり失脚した政敵は粛清によって滅ぼし尽くそうとする(そして、それに失敗して逆に自陣営が彼らの反撃によって全滅したりする)」血で血を洗う構想からの脱却は静かに進行していったのだった。
    ウォルポールの平和(1713年〜1739年)

    *そしてこの展開自体が英雄王ギルガメッシュ(Gilgames)が地母神イシュタルの求婚を、英雄クー・フーリン(Cú Chulainn)が地母神モリガンの求婚を退ける事で積極的に、英雄ヘラクレスヤマトタケルが政治的成り行きで消極的に回避した「王権への到達者は、必ず最終的には挑戦者に倒されて滅ぼされる」王朝交代の伝統からの脱却からの脱却を意味している。悲しいかな(南米諸国の多くや中国や韓国を含めた)多くの国々がこの段階にまで到達しておらず、しかもむしろこうした展開を「時代遅れの後進的発想」と蔑みながら「独裁者が台頭しては滅ぼされる」修羅の歴史を刻み続けている。

  • ここで興味深いのが、シューティングゲームの歴史に、こうした人類史と重なる側面が指摘されている辺り。

③人類史に「特定の集-立Ge-Stellシステムへの依存」なる概念が登場してくるのはその規模が十分大きくなってから、すなわち一般に古代メソポタミア古代エジプトといった文明圏における「天文学に長けた神殿宗教が管理下に置く奴隷制大規模灌漑農業や交易の需要が大量の住人を養う都市国家システム」の登場を嚆矢とする。というのも、それを巡って最初に「部族的紐帯を武器とする辺境部族が文明の恵みメー)」を独占した弊害ですっかり文弱化した支配階層を打倒し、しかも自らが新たな文明の恵みメー)」の独占者となった時点から即座に新たな文弱化が始まる」循環史観が刻まれ始めて以降となる。「反抗的な神殿宗教を神殿破壊と信者の強制移住によって滅ぼす」多民族状態を前提とする「帝国」システムがメソポタミアに登場しペルシャで完成すると存続の危機が訪れたが「(啓典を宗教の拠り所とする啓典の民」なる概念が登場すると逆に「帝国」システム側が脅かされる様になる。一部帝国システムは「啓典宗教の国教化」によってこの矛盾を解消しようとしたが、かえって衰退を招く結果に。

そしてそれぞれの歴史的背景から「欧州」と「日本」だけがこの悪循環より逃れ切る。

  • 欧州の場合、皮肉にも貴族の誉れたる「鎧で踏ん張る重装槍騎兵の密集突撃」の軍事的威力への対応の遅れが「(ヴァイキングの末裔たるノルマン貴族と西ゴート王国の末裔たるアストゥリアス貴族とランゴバルド族の末裔たるロンバルティア貴族とブルグンド族の末裔たるブルグンド貴族の部族的紐帯に支えられたロマネスク時代の終焉」=王朝交代史観に基づく権力構造一新とならなかった辺りが循環史観からの脱却につながったと目されている。特に英国においてはノルマン・コンクエスト以来の「(ハスカール制に立脚する君臣間の紐帯」が、そのまま立憲君主制の土台となっていく。この点、ノルマンディ地方に定住する様になったヴァイキングフランク王国末裔との政略結婚を果たしたパリ辺境伯が家臣団に迎える事に成功したフランスの王権概念形成史と全く異なるのである。

  • 日本史でいうとこの問題は「源平合戦時代に木曽義仲が田舎者過ぎて最終勝者とならなかった」「戦国時代に武田信玄が時代遅れ過ぎて最終勝者とならなかった」辺りに求められる。要するに「文明の恵みメー=京都」なる概念が(都市と田舎の対立構造が最後まで克服出来なかった欧州を除く諸外国と異なり)複雑な発展を遂げてきた事が戦国時代より江戸幕藩体制にかけての「主権国家間の均衡状態」出現に寄与したといえそうなのである。

  • この辺り、帝政ロシアオスマン帝国といった多民族帝国における展開は「主観国家間の均衡状態に至るはずの動くが全て民族運動に還元されてしまう」絶望的な形を辿ったし、同じ欧州でも神聖ローマ帝国ハプスブルグ君主国)の歴史的展開は同様に絶望的でイタリア王国ドイツ帝国の離反まで招いてしまう。こうした過去の負債の一掃が(参加国全てが史上初めての総力戦を強制された第一次世界大戦1914年〜1918年)当時まで持ち越された歴史は、決して忘れるべきではない。

④いずれにせよ現代社会からの逆算では「(古代循環史観を成立させてきた部族的紐帯を武器とする辺境の遊牧民諸族の襲来を完全に圧倒しきれるだけの火器を備えた常備軍を中央集権的官僚制の徴税によって養う集-立Ge-Stellシステム」としての主権国家の均衡状態が現出させられたかどうかのみが問われる。ウォーラーステイン世界システム論(World-Systems Theory)が指摘する通り、その段階へと移行するのに失敗した世界は必ず「世界経済」段階に突入する事なく「世界帝国」樹立とそれを契機とする制度腐敗によって必ず衰退を経験してきたからである。多くの人間が指摘している様に、ある意味(伝統的循環史観の集大成ともいうべき)モンゴル世界帝国(1206年〜1634年)の建設こそが時代変遷の境界線となったのであるが「(文書行政のインフラというべき」「(国際地図と国際海図の完成に向けての動きのインフラというべき羅針盤」「(野戦築城技術の発展と並んで部族的紐帯や宗教的熱狂を武器とする遊牧民族による乗馬密集突撃を無効化に重要な役割を果たした火薬」を発明した中華王朝自体は辛亥革命1911年)勃発まで伝統的循環史観から脱却出来ず、しかも以降すぐに(確かに「主権国家の均衡状態」の一種ではあるものの、周回遅れ感が甚だしかった軍閥割拠状態へと突入してしまう。

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  • 欧州において(現在の国際社会の基礎をなす)国際協調体制が樹立したのは三十年戦争Dreißigjähriger Krieg、1618年〜1648年)停戦を契機に成立したウェストフェリア体制成立以降とされるが、その基調を為す「人類の宗教的平等の精神」は、実は(宗教戦争継続の為にスペイン王国が新大陸から大量に持ち込んだ金銀が「価格革命」を引き起こした展開から「貨幣価値論」に到達し、かつコンキスタドール(Conquistador)の南北アメリカにおける「異教徒」インディオ虐殺を違法としたスペイン王国の知性の精髄たるサラマンカ学派(西Escuela de Salamanca、英School of Salamanca)と、その影響を色濃く受けた(なまじ祖国が宗教面における寛容を打ち出したせいで様々な神学論争に巻き込まれて消耗した一方、「公海」の概念を提唱して英国との対立を招いた)オランダ人法学者グローティウスであった事実を忘れてはならない。とはいえ(イングランドやフランスと異なり大貴族連合が国王率いる官僚団に政争で勝利したスペイン王国も(オランダ総督の地位を世襲し、フランス絶対王政を模倣しようとしたオラニエ=ナッサウ家と各商業都市の都市貴族の利害が激しく対立したネーデルランド連邦そのものも「主権国家間の均衡状態」において、それなりに重要な役割を果たす事はなかったのであった。

  • ウェストフェリア体制のもう一つ重要なポイントは清教徒革命の最中にあったイングランドが参加していなかった点にあり、第二次百年戦争1688年~1815年)においてフランス(および革命戦争で本国を占領されたオランダ)は英国と競合する海外植民地の大半を大英帝国に奪われてしまうが、同時に「アメリカ合衆国」なる英国からの独立を果たした新たなる盟友を獲得する事になったのである。

  • この間巧みに立ち回って北欧諸国は「欧州への主権国家間の均衡状態」への仲間入りを果たしている。そして、これらの諸国への産業革命導入が進むにつれ政治体制的にその導入には無理があるハプスブルグ君主国やオスマン帝国帝政ロシアとの格差が開いていき、その事が(日英同盟(Anglo-Japanese Alliance、1902年〜1923年)締結によって大日本帝国も否応がなく巻き込まれた第一次世界大戦1914年〜1918年)勃発の主要な遠因の一つとなったのだった。

  • こうして全体像を俯瞰してみると日本はやはり応仁の乱1467年〜1477年)に紛れて全国規模で公家領や寺社領の押領が流行し、一円領主の割拠状態を経て江戸幕藩体制に推移した後に株仲間などによる経済面での「グローバル化」が進行した事が大きかった様である。

  • ところでベネディクト・アンダーソン想像の共同体Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism、1983年)」によれば、こうした歴史を通じて国際的にリベラル(インテリ=ブルジョワ=政治的エリート)階層の間で「(アメリカ独立戦争フランス革命の客観的イメージに立脚する現実のそれとは全く異なる理想主義に立脚した市民革命史観」が成立し、実際の歴史に基づく指摘が「歴史修正主義英Historical revisionism、独Geschichtsrevisionismus)」と弾劾される時代が始まったとされる。特にフランスにおいては(革命政府が「貧富格差をもたらす産業革命そのものが絶対悪」なる、後にカンボジアポルポト政権が採用するに至る信念に基づいて産業インフラの徹底破壊と霞弾一斉砲撃や「妊婦の腹を裂き、赤子を竃に放り込む」地獄部隊の投入によって対立勢力の「民族浄化」を遂行したにも関わらず、彼らの末裔が第二帝政(Second Empire Français、1852年〜1870年)終焉後に「二百家」あるいは「権力に到達したブルジョワジー」と呼ばれる支配階層に栄達したことから)現体制こそフランス革命の到達地点である事を疑う事は反逆罪とすら目される様になっていったのだった。

    *こういう立場からの歴史理解では、上掲の様なプロセスもこう映る展開を迎える。

  • その一方で彼らはあくまで貧富の格差を放置して繁栄を貪る資本家階層に過ぎなかったので「(金持ちからしか盗まない泥棒貴族アルセーヌ・ルパンのシリーズ1905年〜1938年)」が熱狂的大衆人気を獲得し「権力フォルスに対する反体制的抵抗バイオレンスはあくまで禁じ得ない」とするジョルジュ・ソレル「暴力論Réflexions sur la violence、1908年初版)」がファシズムやナチズム台頭にヒントを与える事になる。そうした世相下で勃発したロシア革命1917年)が果たしてどれだけ「(「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない(本物の自由意思や個性が獲得したければ認識範囲内の全てに抗え)」をモットーとするカール・マルクスの人間解放論」を継承していたについては様々な議論があったりする。

⑤この様にそもそも「主権国家間の均衡状態」が何時から何時まで存在したか認めるのも困難な状態だが、少なくともそれは国家間の競争が全てとなった「総力戦体制時代1910年代後半〜1970年代)」において極めて重要な要素となり(それまでリベラル階層間では国際的に一枚板と目されてきた共産主義国間の戦争が一般化した)1970年代中旬以降「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」政治的ジレンマが急浮上し、これが1990年代までに「究極の自由はカリスマ的教祖への盲従によってのみ達成される」という個人レベルの問題までダウンサイジングした事が様々な問題を引き起こしてきた。いずれにせよ今日なお「主権国家間の均衡状態」の「主権者間の均衡状態」へのダウンサイジングは必ずしも完全な形では達成されていない。

こうした実際の歴史と、人類が選択した「テクノロジーや社会や市場経済に自分の面倒を見させる」戦略の兼ね合いが歴史上の現段階では一体どうなってるのが探るのが、このブログにおける最新のトレンドとなってきた様なんです?