諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【立憲君主制とは一体何か?】出発点はモンゴル世界帝国の敗退とチンギス統原理(Chingisid principle)の超克過程?

立憲君主制とは一体何か? まずは(以前投稿の機会を逸して以降放置してきた)以下の話題の蒸し返しから始めねばならない様です?

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*そういえば上掲の台詞、オリバー・ストーン脚本映画「コナン・ザ・グレート(Conan The Barbarian、1982年)」で奴隷戦士時代のコナンが言わされてた奴…ちゃんと欧米にも広まってる。


*そして、おそらく「ち○○ん」ギャグの元ネタはこの曲のサビである「♪チン、チン、チンギスーハン」と思われる。そしてこの曲でも二番で子供作り放題…

ちなみに「政治的に正しい」の反応としてはこんな感じ。いや、そこはちゃんと上掲の様な歴史的背景もついでに蒸し返しながら和解に持ち込もうよ!!

だが多様で多態的な現実への的確な対応は想像以上に難しいとも?

おそらく最大の問題はこれ。

あれ、この問題思うより根深い? それにつけても、一体どうして「チンギスハンの子孫」は世界中にどうしてこんなに多いのか? 実はこれ、モンゴル世界帝国解体後、多くの後継国家においてそれが統治者の条件となった為、執拗なまでに政略結婚が繰り返された結果らしいのです。

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チンギス統原理(Chingisid principle) - Wikipedia

主に14世紀以降の中央ユーラシアのモンゴル・テュルク系遊牧民の社会において広くみられた王権の正統性に関する思想で、民衆の支配者たるカアン(ハーン)の地位は、ボルジギン氏であるチンギス・カンとその男系子孫であるアルタン・ウルク(黄金の氏族の意、モンゴル語: Алтан ураг, Altan urag)によってのみ継承されるべきとする血統原理のことである。

そもそも中央ユーラシアの遊牧国家では、同一の男系に属する氏族のみしか君主になることができないとする血統原理を有することが古代の匈奴の頃から一般的であって、チンギス・カンの建てたモンゴル帝国もその例外ではなかった。ところが、モンゴル帝国が元、チャガタイ・ハン国ジョチ・ウルスイルハン朝など、いくつかの地域的なまとまりにゆるやかに解体・再編し、さらにそれぞれの地域でチンギス・カンの血を引かない有力者が実力を持つようになった14世紀後半以降に至っても、モンゴル帝国の支配した地域では、チンギス・カンの血を引くものでなければカアン(ハーン)になることはできない、という観念が長く残ることになった。

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いずれにせよモンゴル世界帝国(1206年〜1634年)の記憶が薄れるにつれチンギス統原理(Chingisid principle)だけで国家を保つのは困難となり、やがて多くの君主が臣民の安定統治の為、イスラム教やラマ教ロシア正教といった現地宗教の「善導」に屈する道を選ぶ展開を選んできたのです。そういえば中東にも一応は「預言者ムハマンドおよび初期イスラム教団を支えた英雄達の末裔」が権力闘争上有利だった歴史的経緯がありますが、その影響力はここまで絶大的ではありませんでした。

何故なら、古くから「部族的紐帯によって辺境から成り上がってきた成り上がり者の支配階層」を(彼らが文弱化して新たな支配階層に打倒されるまで)現地イスラム法学者が精神的指導下に置く循環史観がまかり通ってきたからです。これに対してイスラム諸王朝のシャーやアミールやスルターンといった君主側は古代ギリシャ時代や古代ペルシャ時代の古典とイスラム古典の比較を通じて新たな統一原理を編み出そうとするアラビア哲学者やアラビア歴史哲学者の叡智を通じて対抗しようとしてきたのです。

そしてこうした歴史遺産の多くが18世紀に入ると「(その大半が絶対君主を頂点に戴く主権国家火砲を大量装備した常備軍を徴税によって養う官僚制間の均衡状態」へと移行した欧州に流入する展開を迎えたのでした。

 この 時期最大のパラダイムシフトを経験したのがフランス王国。なにしろ公益同盟戦争(1465年~1483年)やフロンドの乱Fronde, 1648年〜1653年)の時代までは「国王およびその直臣達の中央集権志向は地方自治志向の大貴族連合の手で挫かねばならぬ」なる発想一色だったものが(大貴族連合が所詮は内部利害の調整も出来ぬ烏合の衆に過ぎず、たとえ一時的勝利は飾っても内ゲバによって自滅するしか能がないという現実が周知となって)「フランス国王の大権など所詮はローマ教会の大権同様あらゆる人間が先天的に備える合理的理性の統一原理の影に過ぎぬ」なる(歴史的にイスラム法学者チベット僧侶が時の権力者達を精神的指導下に置く口実として使ってきたのと同種の)理論に不可逆的な形で差し替えられる形となったのですから。これを後世の人間は概ね「啓蒙主義思想」と呼んでいます。

欧州において宗教がこの種の戦いから排除されてしまったのは、英国においては国教会が設立され、フランスにおいてガリカニスムGallicanisme)が台頭してきたからでした。そして、こうした流れの大源流には(西欧においては一旦ほぼ完全に失われ、後に主にイスラム諸国に伝わるギリシャ語やペルシャ語ヘブライ語アラビア語の古典のラテン語翻訳を通じて復元された)ヘレニズム思想の復権という歴史的流れが存在していたのです。

とはいえ第一次世界大戦1914年〜1918年)敗戦を受けてオスマン帝国やハプスブルグ君主国や帝政ローマが解体を余儀なくされるまで、かかるイデオロギーは(オスマン帝国)スルタン=カリフ制や、(ローマ教会やスペイン王国教皇至上主義(ultramontanism)や、(トロイアの王子と女神ヴィーナスの末裔を称し帝政ローマを開闢したユリウス氏族のさらなる末裔と称した神聖ローマ帝国皇統ハプスブルグ家が提唱したローマ帝国統治原理や(東方教会の頂点を帝政ロシアツァーリが兼任するツァーリズムに立脚した東ローマ帝国統治原理と並列的に「主権国家間の均衡状態を生み出す方便の一つ」として語られてきただけだったのです。 

そして以降、皮肉にも当時の啓蒙主義的発想はむしろ共産主義諸国に継承される展開を迎え、そしてここに「歴史上における最終的敗北」を迎える展開となったのでした。最後にトドメを刺したのはコンピューターとインターネットの発達だったとも。

立憲君主制とは一体何か?」について語るとは、本来はこうした実相に沿ってあらためて全体像を見直すアプローチに他ならないという次第…