立憲君主制とは一体何か? まずは(以前投稿の機会を逸して以降放置してきた)以下の話題の蒸し返しから始めねばならない様です?
チンギスハン曰く、
— Tatsuo Shibata (@tstateiwa) 2018年2月23日
「男たる者の最大の快楽は敵を撃滅し、これをまっしぐらに駆逐し、その所有する財物を奪い、その親しい人々が嘆き悲しむのを眺め、その馬に跨り、その敵の妻と娘を犯すことにある」(モンゴル帝国史)
チンギスハンの遺伝子を有する人(子孫)は、世界に3200万人いるらしい。
チンギス・ハンの影響というのは現代に対してさえ大きくて、現代の遺伝子調査によると、かつてモンゴル帝国の支配下だった地域の(現代の)男性の実に8%が同一のY染色体を保有しており、それは恐らくただ一人の男チンギス・ハンに遡れるY染色体なのだという。
— シータ (@Perfect_Insider) 2018年2月24日
*そういえば上掲の台詞、オリバー・ストーン脚本映画「コナン・ザ・グレート(Conan The Barbarian、1982年)」で奴隷戦士時代のコナンが言わされてた奴…ちゃんと欧米にも広まってる。
*そして、おそらく「ち○○ん」ギャグの元ネタはこの曲のサビである「♪チン、チン、チンギスーハン」と思われる。そしてこの曲でも二番で子供作り放題…
ちなみに「政治的に正しい筋」の反応としてはこんな感じ。いや、そこはちゃんと上掲の様な歴史的背景もついでに蒸し返しながら和解に持ち込もうよ!!
漫画雑誌でチンギス・ハンの顔に落書き 小学館が謝罪 | NHKhttps://t.co/aUZDfcNl8j
— みずばしょう (@mizubasyo) 2018年2月23日
駐日モンゴル国大使館はじめ多くのモンゴル人が抗議し、小学館が謝罪。
一方で作者の吉野あすみ @yoshinoAsumi 自身はtwitterアカウントに鍵がけて逃亡し現在も謝罪なし。
卑怯者のまま、少年マンガ家を続けますか? pic.twitter.com/wE6HzKxtJ6
吉野あすみ「やりすぎ!!!イタズラくん」のチンギス・ハン侮辱問題。
— みずばしょう (@mizubasyo) 2018年2月23日
チンギス・ハンの肖像画に落書きを描いて投稿するようハガキ頁つきで募集をしているので、『コロコロコミック』2018No.479 3月号を回収しないといけませんね。
作者が謝罪せずに出版社と編集長だけ謝罪というのも問題。#モンゴル pic.twitter.com/A8VTI62PBa
誠実な謝罪とすみやかな対応があれば、日本の友国のモンゴルは、必ず許します。
— みずばしょう (@mizubasyo) 2018年2月23日
中国や朝鮮とは違います。
ていうか、日本とモンゴルの国際問題に発展してんのに作者が鍵かけて逃亡してんのすげえな。 pic.twitter.com/LxiYiaOVTi
— Endless Anniversary (@tori_555) 2018年2月24日
例の漫画、チンギス・ハンの顔に落書きしただけだと思ってたけど、応募ハガキにチンギス・ハンの肖像画を付けて「君も落書きをして送ってきてね!」とかやってたのか…。やべえな。
— Endless Anniversary (@tori_555) 2018年2月24日
だが多様で多態的な現実への的確な対応は想像以上に難しいとも?
小学館のコロコロコミックの漫画にモンゴルの英雄であるチンギス・ハンの顔に男性器を描いた内容があって朝青龍が激怒し駐日モンゴル大使館が抗議文を発表する大問題に発展していますが、ここで昔トリビアの泉の「トリビアの種」というコーナーで紹介されていた中学生の教科書の落書きを見てみましょう pic.twitter.com/KGxb3KnYBb
— 蜃気浪 (@shinkirounin) 2018年2月23日
他のドマイナーな英雄を掘り出して馬鹿にしたならともかく、チンギス・ハンなんて無限にネタにされて慣れっこなんだと思ってた。
— にゃほ (@Temp002a) 2018年2月23日
スター・トレックでの悪役としての出演はどういう扱いなんだろう。
チンギス・ハーンの件は異世界テニスと同じで作者は悪くないけど、抗議したもん勝ちな所はある。
— METHIE (@METHIE34) 2018年2月23日
チンギスハンの顔に落書きがどうとかいう話があるが、まあ、征服者として名を馳せたわけだから、フリーコンテンツ扱いされる程度のことは許してやれよ、とちょび髭の人が言ってた。
— 総統 (@soutou_d) 2018年2月25日
コロコロコミックのチンギスハン問題のおかげで、FGOにチンギスハンが来ることなさそうだな
— ヤスイリオスケ (@yakkun99) 2018年2月23日
チンギス・ハーンに男性器を落書き https://t.co/ITx1cp2fNL
— 須藤玲司 (@LazyWorkz) 2018年2月24日
これ、漫画の是非はおいといて。
モンゴル人が怒るのは正当だし、モンゴル外務省が抗議するのもまあしょうがない。小学館が謝罪するのはそれぞれの判断。
ただ、日本の外務省は、民間への抗議を取り次いじゃいけないんじゃないかなあ…。
チンギス・ハーンがモンゴル人にとってどれぐらい神聖不可侵なのかぜんぜん知らないのですが。
— 須藤玲司 (@LazyWorkz) 2018年2月24日
「チンギス・ハーンの正体は源義経」って説、たぶんモンゴル人は嫌がるだろなあと昔から思ってるのですが、もしモーニング連載中の瀬下猛『ハーン』がモンゴルから怒られたらどうなっちゃうんでしょうか。 pic.twitter.com/W7Mnec59Hr
チンギス・ハーン下ネタ化問題でいちばん気になること。
— 須藤玲司 (@LazyWorkz) 2018年2月24日
800年前のクスコ王国初代国王って、現地でどれぐらい伝説の英雄なのか知りませんが、日本でいじってきた歴史が長いのでペルー人から抗議されたらずいぶん混乱しそうです。 pic.twitter.com/rOOaEpNA5B
さいきん えらいひとの え に らくがきがもんだいになってるけど ネパールには もともと らくがきしたみたいな かみさまの え あります。でも これはちゃんとした かみさまの え です#落書き#チンギスハン#国際問題#カーリー#ネパール pic.twitter.com/uL9qxYZk7E
— 本格ネパール・インド料理 サラムナマステ(Salam Namaste)新高円寺本店(公式) (@salamnamaste01) 2018年2月24日
コロコロのアレ、別にチンギス・ハンだけってわけではなく、
— SCP-682@不死身の爬虫類 (@SCP_682_sns) 2018年2月24日
ちゃんと足利義満にも喧嘩を売っているのでとても好感が持てる。
まぁアーサー王を美少女にして10年後に宮本武蔵を美少女にした国だ。
その辺りの義理は守るのだろう(?????)
ドルジがチンギス・ハーンをネタにされて怒ってるが、日本人が過去の偉人を外国人にネタにされて怒ったら、香山リカ辺りが「自分と他者を区別出来ないナショナリスト」とか批判的な分析をするだろうね
— 田山さとし (@battery_brides) 2018年2月23日
コロコロのチンギスハン落書き、自分も子供の買った本読んで知ってたが、抗議が来たら来たで対応したのは良かったと思う。ただ、中身見れば判るようにモンゴルを貶める意図はないと思う。もしそうなら米国もフランスも抗議しなきゃいけなくなる。 pic.twitter.com/uwpRw8pr1l
— EVAはいいねえ (@grappler_a2c) 2018年2月25日
モンゴル皇帝チンギスハンが落書きされたって朝青龍が怒ってたけど、あのヒトラーですらこのザマだし歴史の教科書に載る=絶好の落書きの素材になるという事でもある pic.twitter.com/S9NqBHhhNP
— 🇦🇹東城 (@best_korea1919) 2018年2月24日
#コロコロコミック に漫画で源義経じゃない、チンギス・ハンの肖像にティン子の落書きしたのが、問題になってるけど、これなんか、よく考えたら、塩の柱にされるレベルだったな。 pic.twitter.com/Bmdfxq3OsD
— 『モテる狼』ラナイ (@k66kkxIMjzECmPi) 2018年2月23日
チンギス・ハンの頭にチンチンを描くギャグ漫画にモンゴル人が「天皇陛下だったらどう思いますか?」と激おこですが、
— 須藤玲司 (@LazyWorkz) 2018年2月23日
エンペラー・ヒロヒトが「我々日本人のチンチンは超小さい」としつこく繰り返しながら真珠湾を再爆撃するサウスパークの「チンポコモン」は超面白かったです。 pic.twitter.com/VUJwqnp18v
コロコロコミックのチンギス・ハン落書き問題
— ドルチル (@majibekomi) 2018年2月24日
日本人「英雄の顔に変なラクガキしてごめんね…」
モンゴルの人「うん」
日本人「今度美少女キャラ化するから許して…」
モンゴルの人「違う。そうじゃない」
モンゴル人に「別にチンギスハンだけを咎してるわけではないんだ。ただ、日本では大体の歴史や神話の人物を色々創作でネタにするから。ほら、日本の最高神の天照だってこんな扱いだし」って、エロCG見せればどうだろうと思ったけど、「こいつら頭おかしい」と思われるだけだった。
— 織部ゆたか (@iiduna_yutaka) 2018年2月23日
「別にチンギスハンだけを咎してるわけではないんだ。ただ、日本では大体の歴史や神話の人物を色々創作でネタにするから。ほら、フビライハンもとあるゲームではこんなんだし」 pic.twitter.com/XqCUzkIHKq
— チェリオット🍒 (@UPIUPA_md) 2018年2月24日
ええ、大体みんなそんな感じですからねえ
— 織部ゆたか (@iiduna_yutaka) 2018年2月24日
おそらく最大の問題はこれ。
作者っていうよりGO出してしまった出版社の責任だと思うけど、コロコロコミック相手に大使館が抗議ってのもどうなのw>RT
— 岡沢 秋(maat) (@Aki_Okazawa) 2018年2月25日
まあモンゴルさん、ここ最近でチンギス・ハンの神格化すごい推してるからパフォーマンスの一環でもあるんだろうけど
日本人が日本の偉人をオモチャにされても笑って流せるのは、「日本人」というアイデンティティに揺らぎがなく、他所の差異化も意図的にやる必要がないからだと思う。その偉人を先祖と思うこと、崇めることが「日本人である」アイデンティティの一部だったら、話変わるっしょ。
— 岡沢 秋(maat) (@Aki_Okazawa) 2018年2月25日
げに明治維新は偉大なりや
— おまもりさん@T. Yamada (@Omamori41) 2018年2月25日
あれ、この問題思うより根深い? それにつけても、一体どうして「チンギスハンの子孫」は世界中にどうしてこんなに多いのか? 実はこれ、モンゴル世界帝国解体後、多くの後継国家においてそれが統治者の条件となった為、執拗なまでに政略結婚が繰り返された結果らしいのです。
やっぱり元朝秘史は名作だなあ。最高ッス。
— うどん@ (@udon0401) 2017年12月13日
・元朝秘史のいいとこ1 オルドが遊びじゃねえ!
四駿四狗すら敵に寝返る元朝秘史では、親族マジ大事。ノーモアジェルメ。故にオルドコマンドは本作の最重要コマンド。途中で飽きて子作りが作業感になったら、それはそれでリアル。 pic.twitter.com/wXlNhTOY9G
チンギス統原理(Chingisid principle) - Wikipedia
主に14世紀以降の中央ユーラシアのモンゴル・テュルク系遊牧民の社会において広くみられた王権の正統性に関する思想で、民衆の支配者たるカアン(ハーン)の地位は、ボルジギン氏であるチンギス・カンとその男系子孫であるアルタン・ウルク(黄金の氏族の意、モンゴル語: Алтан ураг, Altan urag)によってのみ継承されるべきとする血統原理のことである。
そもそも中央ユーラシアの遊牧国家では、同一の男系に属する氏族のみしか君主になることができないとする血統原理を有することが古代の匈奴の頃から一般的であって、チンギス・カンの建てたモンゴル帝国もその例外ではなかった。ところが、モンゴル帝国が元、チャガタイ・ハン国、ジョチ・ウルス、イルハン朝など、いくつかの地域的なまとまりにゆるやかに解体・再編し、さらにそれぞれの地域でチンギス・カンの血を引かない有力者が実力を持つようになった14世紀後半以降に至っても、モンゴル帝国の支配した地域では、チンギス・カンの血を引くものでなければカアン(ハーン)になることはできない、という観念が長く残ることになった。
- たった一代でティムール朝(1370年〜1507年)を建国した叩き上げのティムール(Taymūr, 1336年〜1405年)も、政局安定の為にチンギスハンの血を引く王族と結婚。従ってその末裔がインドに鉄砲抱えて攻め込んで建国したムガル朝(1526年〜1858年)の王統もチンギスハンの血を引く。
ティムール朝(Temuriylar、1370年〜1507年) - Wikipedia
中央アジアのマー・ワラー・アンナフル(現在のウズベキスタン中央部)に勃興したモンゴル帝国の継承政権のひとつで、中央アジアからイランにかけての地域を支配したイスラム王朝(1370年〜1507年)。その最盛期には、版図は北東は東トルキスタン、南東はインダス川、北西はヴォルガ川、南西はシリア・アナトリア方面にまで及び、かつてのモンゴル帝国の西南部地域を制覇した。創始者のティムール在位中の国家はティムール帝国と呼ばれることが多い。
王朝の始祖ティムールは、チャガタイ・ハン国に仕えるバルラス部族の出身で、言語的にテュルク化し、宗教的にイスラム化したモンゴル軍人(チャガタイ人)の一員であった。
ティムール一代の征服により、上述の大版図を実現するが、その死後に息子たちによって帝国は分割されたため急速に分裂に向かって縮小し、15世紀後半にはサマルカンドとヘラートの2政権が残った。これらは最終的に16世紀初頭にウズベクのシャイバーニー朝によって中央アジアの領土を奪われるが、ティムール朝の王族の一人バーブルはアフガニスタンのカーブルを経てインドに入り、19世紀まで続くムガル帝国を打ち立てた。ティムール(Taymūr, 1336年〜1405年) - Wikipedia
14世紀初頭にモンゴル王族カイドゥの王国を乗っ取る形で中央アジアの東西トルキスタンに勢力を拡大したチャガタイ・ハン国は、1340年頃には早くも分裂に向かい、東トルキスタンの東チャガタイ・ハン国とマー・ワラー・アンナフルの西チャガタイ・ハン国に分かれた。西チャガタイ・ハン国では多くの有力部族が地方に割拠したためにハンの権力は早々に喪失し、各地に分領を持つ有力な遊牧貴族による群雄割拠の態をなす。この中で盗賊的な活動を行いながら小さいながらも自己の勢力を築きつつあったのが、チンギス・ハーンの出たボルジギン氏と同祖の家系を誇る名門バルラス部族の出身であるが、父の代までにすっかり零落していた没落貴族の息子ティムールであった。1360年、東チャガタイ・ハン国(モグーリスタン・ハン国)のトゥグルク・ティムールが西チャガタイ・ハン国に侵攻し、一時的にチャガタイ・ハン国の東西統一を成し遂げると、ティムールはこれに服属してバルラス部の旧領を回復する。
やがてトゥグルク・ティムールが本拠地の東トルキスタンに帰ると、ティムールは東チャガタイ・ハン国から離反し、西チャガタイ・ハン国の諸部族と同盟と離反を繰り返しながら勢力を広げ、1370年までにマー・ワラー・アンナフルの覇権を確立した。彼はチンギス・ハーンの三男オゴデイの子孫ソユルガトミシュを西チャガタイ・ハン国のハンとして擁立し、自身はチンギス・ハーンの子孫の娘を娶って、「ハン家の婿婿(アミール・キュレゲン)」という立場においてマー・ワラー・アンナフルに住むチャガタイ人の諸部族の統帥権を握った。一般に、この年をもってティムール朝の確立とする。
新王朝の確立後、ティムールは東トルキスタンに遠征してモグーリスタン・ハン国を服属させ、マー・ワラー・アンナフルの西のホラズムを征服した。さらにジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)から亡命してきたトクタミシュを支援してジョチ・ウルスを再統一させ、北西のキプチャク草原を友好国として中央アジアの支配を固めた。
続いて、1335年のフレグ王家断絶後、イルハン朝(イル・ハン国)が解体して諸勢力の割拠していたイラン方面の経略を開始し、1380年にはマー・ワラー・アンナフルからアム川を越えてホラーサーンを征服、1388年までにイランの全域を服属させ、アルメニア、グルジアからアナトリア東部までを勢力下に置いた。1393年にはイランのファールス地方を支配するムザッファル朝を征服してイランの全土を完全に制圧し、さらにカフカスからキプチャク草原に入って、ホラズムの支配をめぐってティムールと対立したトクタミシュを討ち(トクタミシュ・ティムール戦争)、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の都サライを破壊した。
1398年には矛先を変えてインドにも侵攻し、デリー・スルタン朝の都デリーなどを占領した。1400年には再び西方に遠征してアゼルバイジャンからシリア、イラクを席巻してマムルーク朝を破り、1402年にはアンカラの戦いでオスマン帝国を破って一時的に滅亡させ、シリア、アナトリアの諸侯国にまで宗主権を及ぼしてサマルカンドに帰還した。こうしてティムールは30年間でモンゴル帝国の西半分をほぼ統一することに成功した。
1404年には「ティムール紀行」で知られるルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホがティムール朝を訪れたが、ティムールの病の為にフランス王シャルル6世とカスティーリャ王エンリケ3世への返書を得ること無く帰国した。改めて東方のモンゴル帝国の大ハーン直轄領(元)回復をこころざし、元に代わって中国を支配した明への遠征に向かう途上の1405年にティムールは病死した。ムガル帝国(Mughal Empire、1526年〜1858年) - Wikipedia
チンギス・ハーン以来モンゴル帝国系の諸将によってインダス川流域やカシミール地方から度々侵入を受けたが、インドの諸政権はムガル帝国の成立までモンゴル帝国一門に連なる諸勢力による領土的な支配を許していなかった。
ムガル帝国の創始者バーブルは中央アジア出身で、ティムール朝の王族ウマル・シャイフを父、チンギス・ハーンの二男チャガタイを祖とするモグーリスターン・ハン家のユーヌス・ハーンの娘クトルグ・ニガール・ハーヌムを母とするテュルク・モンゴル系の遊牧貴族で、モンゴル帝国におけるチンギス・ハーン家と同族の帝国重臣バルラス部の出自かつモンゴル帝室の王女を后として娶って帝室の娘婿となるキュレゲンの家柄を誇る名門であった。彼がティムール朝の中央アジアにおける没落を機に現在のアフガニスタンからインドに移って第二次ティムール朝と言えるこの帝国を建国した。
こうした経緯から、ムガル帝国は最後の君主バハードゥル・シャー2世の治世まで一貫してティムールを始祖と仰いでおり、ティムールの称号「アミール・ティムール・グーラカーン」、すなわち「チンギス・ハーン家(グーラカーン ペルシア語: گوركان Gūrakān)より子女の降嫁を受けたその娘婿(グレゲン mon:Güregen 、キュレゲン trc:Küregen)であるアミール・ティムールの一門」という意味で、自らは「グーラカーニー(ペルシア語: گوركانى Gūrakānī)」などと呼んでいた。
- 帝政ロシア建国の基礎固めを遂行した「雷帝」イヴァン4世(1530年〜1584年)もまたチンギスハンの血を引いていた。従ってその末裔として帝政ロシア建国の基礎固めを遂行したピョートル大帝を輩出したロマノフ家も、これと政略結婚を繰り返してきた貴族階層も多くが「チンギスハン末裔」とカウントされる展開を迎えたのだった。
ロシア・ソ連史(第2回 モンゴルによる征服とモスクワ大公国)
イヴァン4世(Иван IV Васильевич / Ivan IV Vasil'evich、1530年〜1584年) - Wikipediaハーバート・フーバー「裏切られた自由」より
私はある大統領に『スターリンはレーニンの生まれ変わりであり、かつ(恐怖政治で知られる)イワン四世(雷帝)の生まれ変わりであるかもしれない」と語ったことがある。これを聞いた大統領は『それにピョートル大帝とチンギス・カンの血を加えればスターリンが出来上がる』と答えた。
いずれにせよモンゴル世界帝国(1206年〜1634年)の記憶が薄れるにつれチンギス統原理(Chingisid principle)だけで国家を保つのは困難となり、やがて多くの君主が臣民の安定統治の為、イスラム教やラマ教やロシア正教といった現地宗教の「善導」に屈する道を選ぶ展開を選んできたのです。そういえば中東にも一応は「預言者ムハマンドおよび初期イスラム教団を支えた英雄達の末裔」が権力闘争上有利だった歴史的経緯がありますが、その影響力はここまで絶大的ではありませんでした。
何故なら、古くから「部族的紐帯によって辺境から成り上がってきた成り上がり者の支配階層」を(彼らが文弱化して新たな支配階層に打倒されるまで)現地イスラム法学者が精神的指導下に置く循環史観がまかり通ってきたからです。これに対してイスラム諸王朝のシャーやアミールやスルターンといった君主側は古代ギリシャ時代や古代ペルシャ時代の古典とイスラム古典の比較を通じて新たな統一原理を編み出そうとするアラビア哲学者やアラビア歴史哲学者の叡智を通じて対抗しようとしてきたのです。
そしてこうした歴史遺産の多くが18世紀に入ると「(その大半が)絶対君主を頂点に戴く主権国家(火砲を大量装備した常備軍を徴税によって養う官僚制)間の均衡状態」へと移行した欧州に流入する展開を迎えたのでした。
この 時期最大のパラダイムシフトを経験したのがフランス王国。なにしろ公益同盟戦争(1465年~1483年)やフロンドの乱(Fronde, 1648年〜1653年)の時代までは「国王(およびその直臣達)の中央集権志向は(地方自治志向の)大貴族連合の手で挫かねばならぬ」なる発想一色だったものが(大貴族連合が所詮は内部利害の調整も出来ぬ烏合の衆に過ぎず、たとえ一時的勝利は飾っても内ゲバによって自滅するしか能がないという現実が周知となって)「フランス国王の大権など所詮は(ローマ教会の大権同様)あらゆる人間が先天的に備える合理的理性の統一原理の影に過ぎぬ」なる(歴史的にイスラム法学者やチベット僧侶が時の権力者達を精神的指導下に置く口実として使ってきたのと同種の)理論に不可逆的な形で差し替えられる形となったのですから。これを後世の人間は概ね「啓蒙主義思想」と呼んでいます。
欧州において宗教がこの種の戦いから排除されてしまったのは、英国においては国教会が設立され、フランスにおいてガリカニスム(Gallicanisme)が台頭してきたからでした。そして、こうした流れの大源流には(西欧においては一旦ほぼ完全に失われ、後に主にイスラム諸国に伝わるギリシャ語やペルシャ語やヘブライ語やアラビア語の古典のラテン語翻訳を通じて復元された)ヘレニズム思想の復権という歴史的流れが存在していたのです。
とはいえ第一次世界大戦(1914年〜1918年)敗戦を受けてオスマン帝国やハプスブルグ君主国や帝政ローマが解体を余儀なくされるまで、かかるイデオロギーは(オスマン帝国の)スルタン=カリフ制や、(ローマ教会やスペイン王国の)教皇至上主義(ultramontanism)や、(トロイアの王子と女神ヴィーナスの末裔を称し帝政ローマを開闢したユリウス氏族のさらなる末裔と称した神聖ローマ帝国皇統ハプスブルグ家が提唱した)ローマ帝国統治原理や(東方教会の頂点を帝政ロシアのツァーリが兼任するツァーリズムに立脚した)東ローマ帝国統治原理と並列的に「主権国家間の均衡状態を生み出す方便の一つ」として語られてきただけだったのです。
そして以降、皮肉にも当時の啓蒙主義的発想はむしろ共産主義諸国に継承される展開を迎え、そしてここに「歴史上における最終的敗北」を迎える展開となったのでした。最後にトドメを刺したのはコンピューターとインターネットの発達だったとも。
「立憲君主制とは一体何か?」について語るとは、本来はこうした実相に沿ってあらためて全体像を見直すアプローチに他ならないという次第…