諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【ウルトラモンタニズム】【アナキズム】「あの向こう側からやってくる何か」について。

そもそもアナキズムAnarchism、無政府主義)とは一体何なのでしょう?

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2002年の遺言――『暴力論ノート――非暴力直接行動とは何か』刊行によせて
チンドン屋アナキズム」なる鮮烈なパワーワード…そういえば日本ではチンドン屋やサーカスのテーマとして広まってる「美しき天然1902年)」の歌詞内容って「欧州中世的調和ハルモニアの世界観」すなわち王党派やウルトラモンタニズムultramontanism、教皇至上主義)や公会議主義(Conciliarism)といった(身分格差を容認する和諧社会を称揚する「ガチ宗教右派」理念に立脚していたりしますね。それなのに、何でこんなにも物悲しいの?

 美しき天然 歌詞と試聴 チンドン屋の定番曲

信仰だけでなく、政治的にもローマ教皇の絶対的権威を主張する近代カトリックの運動。中部ヨーロッパから見てアルプスの「山の向こう側羅ultra montes)」にローマ教皇がいるのでいう。 

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起源は、革命直後のフランスでカトリック教会をも国家の一制度にしようとしたナポレオン1世の企図に反対したシャトーブリアン、ド・メーストルらの思想にある。この傾向はベルギー、ドイツなどの諸国にも波及し、社会的領域のみならず、文芸や思想をも含めたカトリック信仰の興隆をもたらしたが、プロテスタンティズムや近代的自由主義の側からは、信仰の自由を侵すものとして批判された。教会内での司教への分権的傾向に対し、教皇の支配的地位を確立した「第1回バチカン公会議1870年)」は、その顕著な成果の一つといえる。
とどのつまり全体としては近代国民国家の成立とそれに結びついた地域主義,自由主義世俗主義などの台頭、すなわちガリカニスムジャンセニスム,フェブロニアニズム(ホントハイムJ.N.von Hontheimがフェブロニウスの名で表明した立場で,教皇は教会会議に従属すべきだとする),ヨーゼフ2世の宗教政策などの各国教会の独自性を主張する動きに対して,カトリック知識人が示した教会の統一と権威を求める傾向の表現であった。

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ガリカニスム…ある意味、フランス・ナショナリズムや(外来者としての王侯貴族や聖職者に反抗する)ケルト民族主義の起源となる。

ジャンセニスム…(カルヴァンの予定説を既存身分体肯定に援用した)貴族的悲観主義や「非健常者(およびそれを生み出す一族)を間引く」伝統的共同体倫理と密接な結びつきが特徴で、ある意味ゴビノー伯爵の人種論などの先祖筋。

*フェブロニアニズム…ある意味、欧州中世の公会議主義(Conciliarism)の復刻版。
公会議主義(Conciliarism) - Wikipedia

そのルーツは、13世紀に絶頂に達した教皇権に対する抑止力としての公会議の役割が注目されたことにある。神学者たちの中でも、公会議の権威が教皇権を超えるものであるという認識を持つものが現れ始めた。たとえばオッカムのウィリアムや、パドヴァのマルシリウスといった神学者たちが公会議主義を支持する思想的枠組みを作った。

14世紀に入るとフランス王の圧力によって教皇アヴィニョンに移動するという事件が起こり(アヴィニョン捕囚)、さらにローマ・アヴィニョン教皇が並び立つという異常な事態(教会大分裂、西方離教)に至ると、公会議に対して「対立教皇廃位し正統な教皇を明確にさせること」「公会議が主導して教会改革いわゆる「頭と肢体の改革」を行うこと」という二つの役割が期待され、公会議主義への期待が高まった。

この流れの中で行われたコンスタンツ公会議1414年〜1418年)は、ピエール・ド・アイイやジャン・ジェルソンといった公会議主義者の主導によって行われた。この中で採択された1415年の教令「ヘック・サンクタHeac Sancta)」は公会議の決定は誰にも覆すことができないと宣言し、公会議主義の頂点の象徴となった。しかし公会議主義は教皇の権威と教会のヒエラルキーを無視するものではなかった。ジェルソンらもあくまで非常事態においての公会議の優位を強調している。

その後、バーゼルフェラーラフィレンツェ公会議(1431年〜1437年)、第5ラテラン公会議1512年〜1517年)へいたる流れの中で、教皇権が求心力を取り戻すと共に教皇首位説が再び盛り返したが、公会議主義が完全に断罪されたわけではなく、教会の非常時に適用される考え方であるという見方が定着していった。このことは教皇不可謬説が19世紀の第1バチカン公会議にいたるまで公式に宣言されなかったことからもわかる。

14世紀、15世紀にはすでにローマ・カトリック教会から離れていた正教会にあっても、もともとローマ教皇権に関する解釈をめぐっての紛糾が分裂の一因ともなっただけに、教皇よりも公会議に至上権があるという公会議主義への共感を示していた。そもそも正教会においては総主教や東ローマ皇帝といえども単独で教義は決定できず、その最終決定はすべて教会会議によるものとされている。

ヨーゼフ2世の宗教政策…ハプスブルグ君主国皇帝の立場を(ペルシャ帝国やイスラム王朝といった)オリエント専制君主的に「多民族・多宗教の擁護者」なる内容に再定義しようとするもので(スペイン王国やフランス絶対王政の様に)公用語を定めて中央主権的文書行政を実現する「(キリスト教徒の国教化と異教徒弾圧に立脚し、皇帝が宗教権威の頂点も兼ねる)東ローマ帝国帝政ロシア的権力」の実現を目指す動きと表裏一体にあった。

ヨーゼフ[2世](ヨーゼフ)とは - コトバンク

典型的な啓蒙専制君主で,宗教の自由を認め,また農民保護政策を推進した。しかしすべての改革は国家権力強化策と結びついており,それに対する国内の不満と外交政策の失敗のため改革は彼の死とともに瓦解した。
*「郵便貯金制度の父」すなわち「世界が国際的に物流と情報網で結ばれ、近世から近代への移行が始まる引き金を引いた人物」の一人でもある。それは密偵の暗躍や盗聴による国民把握、狂人の隔離といった「国民均質化」に向けての動きの第一歩でもあった。
ウィーン13 郵便貯金局
++ウィーン P6++

父フランツ1世の死後皇帝となる。母マリア・テレジアとの共同統治の時代には急進的な啓蒙主義的改革は抑えられ,母の反対を押しきって進めた彼が崇拝するプロイセン王フリードリヒ2世への接近策は,第1回ポーランド分割(1772年)によって領土を加えたが,バイエルン継承戦争(1778年〜1779年)ではフリードリヒ2世の反対にあった。1880年母の死後単独統治に入って翌81年寛容令,農奴解放令,その後も修道院解散,農民保護のための土地税制の改革,貴族の特権排除,商工業の育成など啓蒙的諸政策を強行し,とくに84年ドイツ語の強制による中央集権的官僚機構の整備は諸領邦貴族や非ドイツ系諸民族の反発を招いてしまったのだった。

また17世紀末にオスマン帝国を破り(オーストリア・トルコ戦争),ドナウ川流域の主要部分を治めたオーストリアは,ドナウ川航行に対する管理体制を確立することに努めた。マリア・テレジアは独自の航行省をつくり,息子のヨーゼフ2世は,河川規制措置を提案し,河川整備工事を推し進めた。そして19世紀に入るとイギリス産業革命の波が中欧にも押し寄せ,水運が見直されるに及んでドナウ川も新しい時代を迎える事になる。

*ここでは特に取り上げられていないが「英国における国教会設立」もローマ教会から距離を置こうとする動きとしては同じアプローチとなる。全体像を貫いてウルトラモンタニスト側として登場するのはスペイン…そう「山の向こう側」とは「ピレネー山脈の向こう側」でもあり続けてきたのである。

*ディズニー映画「パイレーツ・オブ・カリビアン(Pirates of the Caribbean)シリーズ(2003年〜)」も、最初の三部作で(アメリカの仇敵)東インド会社を倒してしまって以降はジワジワと「スペイン人」を敵に回す機会が増えている。

*ところで日本の近代化過程においてこうした形で宗教問題が歴史上重要性を帯びなかったのは、江戸幕藩体制なる「主権国家間の均衡状態」が現出する途上で「職の体系(土地利用権の多重化)」の元凶の一つとなってきた公家領や寺社領が一円領主の押領対象となって次々と消滅していったから。ハンガリー出身の経済学者カール・ポランニーは「大転換 (The Great Transformation1944年)」の中で英国の囲い込み運動を詳細に分析し「後世から見れば議論や衝突があったおかげで運動が過熱し過ぎる事も慎重過ぎる事もなく適正な速度で進行した事だけが重要なのであり、これが英国流なのだ 」と指摘しているが、この時日本で起こったのもまさにこれ。

 ここで案外重要になってくるのが(アパルトヘイト政策の端緒となった「(ハンガリーオーストリア二重帝国同様に、それ以外の勢力との対抗上成立した)オランダ系先住移民と英国系新移民の和解」を喜ぶ様が「エルフとドワーフと人間の共闘路線樹立」という形で表現された)J.R.R.トールキンJohn Ronald Reuel Tolkien CBE、1892年〜1973年)「指輪物語The Lord of the Rings、執筆1937年〜1949年、初版1954年〜1955年)」において「多様性と多態性を重んじる白人社会」の敵が「単一の力の原理で統べられた暗黒大陸アフリカ」と規定されたあたり。トールキンは国教会に飽き足らずカソリックに改宗したキリスト教徒でもあり、そこには「多様性と多態性を重んじるカソリック世界」と「(宗教的権威の頂点を皇帝が兼ねる単一の力の原理で統べられた東ローマ帝国や、スペイン王国や、神聖ローマ帝国や、ナポレオン帝国全体主義」の対峙という図式も見て取れる。しかし現実の歴史は回転し、南アフリカの黒人部族連合は「なまじ一丸にまとまったせいで多様性と多態性を喪失した白人」の対抗馬としてメキメキ頭角を表し「(ゴブリンやオークやオーガなどの多様性と多態性に満ちた異種族連合」を形成して「白人側」に自らを人間として対等な存在として認めさせる事に成功したのでした。

*そういえばバラモンや仏僧がウシャニパッド哲学を研鑽してきた「先進文化圏」インド北部が、ユーラシア大陸全体を網羅する国際的中継交易網に組み込まれたデカン高原のドラヴィタ人や南部沿岸部のタミル商人の「後進文化圏」に次第に屈していく歴史的過程においても、同様の展開が確認されている。要はどこかで「歴史を語る主体」が入れ替わってしまうのである。

*こうした物語文法を「反対側」から再編すると黒人映画「ブラックパンサー(Black Panther、2018年)」やオーストラリア映画界が総力を挙げた「グレイテスト・ショーマン(The Greatest Showman、2018年)」の展開になるとも。

*想像してごらん、以下を歌いながら「中原の人類」から怪物扱いしかされず蔑まれている(しかもまとまりが悪く反撃もままならない)ゴブリンやオークやオーガなどが集まってきて自らを組織して「アフリカ大陸のローマ」ヨハネスブルグを攻略する場面を。まさにそれこそが「21世紀のコンスタンティノープル陥落」なのである。まさしく平野耕太ドリフターズ(DRIFTERS、2009年〜)」における人類廃滅軍、和ヶ原聡司「はたらく魔王さま!(2011年〜)」における魔王軍の世界、そして「ブラックパンサー」のキルモンガー(演マイケル・B・ジョーダン)が夢想したビジョンそのもの…それにしても(黒人と在日コリアンのハーフたる)Crystal Kayが「This is Me」を歌ったのか。現実設定がリアル「ロキ(演トム・ヒドルストン)」そのもの。日本人が滅ぼし尽くされていく過程で「あなたも日本人ですよね?」と問いかけてくる生き残りを笑顔で踏み潰す場面とか想像しちゃったよ…

*かかる急激なパラダイムシフトが20世紀後半に残した「キリマンジャロ山頂の豹」が、特撮怪獣映画「モスラ(1961年)」やJ・M・クッツェー「夷狄を待ちながら(Waiting for the Barbarians、1980年)」となる。まさしく「エスニックなるもの」に対する「文明側」の反応の変遷史…

アーネスト・ヘミングウェイ「キリマンジャロの雪(The Snows of Kilimanjaro、原作1936年、映画化1952年)」 - Wikipedia

アフリカのキリマンジャロ山は、別名「神の家(ンガジェガ)」ともよばれている。その頂近くに、不毛の頂上を目指し登り、力尽きて死んだ豹の亡骸があるという。豹が何を求めて頂上を目指したのか、知る者はない。

*それ以前にもラドヤード・キプリング王になろうとした男(The Man Who Would Be King、1888年、1975年映画化)」からジョージ・オーウェル「象を撃つ(Shooting an Elephant、1936年)」の間にパラダイムシフトが存在する。要するに「白人の責務(The White Man's Burden)」なる概念の崩壊過程…

ラドヤード・キプリング「王になろうとした男(The Man Who Would Be King、1888年、1975年映画化)」 - Wikipedia

ジョージ・オーウェル「象を撃つ(Shooting an Elephant、1936年)」

*そして21世紀に入ると京都アニメーション作品「たまこまーけっと(Tamako Market、2013年)」の中で「南の国王の嫁を探す鳥占い師」チョイ・モチマッヅィが、何事もなかったかの様に謎の踊りや「黒い桃」を披露したりする。これはこれで新たなる「21世紀におけるキリマンジャロ山頂の豹」とも?

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ここで新たなるパワーワード黒い桃」が急浮上。日本の左翼陣営にとっては「自称ファシスト外山恒一が指摘してる様に「1970年代における日本の左翼陣営の反差別主義受容」が、あらゆる転落の始まりだった? 「あらゆる差別への反対は、一見絶対正義の無限の供給源と映るけど、究極的には自らも粛清対象として滅ぼさざるを得なくなる緩慢な自殺である」。そう、まさに「リベラルの迷走」の始まり…

本当の無政府主義はそんな底の浅い代物じゃないのにねぇ…

名探偵・外山恒一の冒険「アナーキー・イン・ザ・U.K.」の秘密 

以下、私が訳した「Anarchy in the U.K.」、「日本をメチャメチャに」である。

 おれはアナーキストでオウムが大好き
 欲しいものなど特にないが
 その気になれば何でも手に入る
 そのへんの奴らをブチ殺してやりたい
 もっとメチャメチャになればいいのに
 誰かにシッポをふって生きるのはゴメンだ

 ニッポンをメチャメチャに!
 きっといずれそうなる
 ろくでもない時代を作ってやる
 交通もマヒさせる
 おまえらの頭の中は
 ショッピングの計画でいっぱいだろうが
 おれはこの街をメチャメチャにしてやりたいんだ

 欲しいものを手に入れる方法なんて
 いくらでもあるというのか?
 だがおれの方法がベストだ
 これは最後の手段であり
 敵も利用する無茶なやり方だ
 おれは何もかもメチャメチャにしてやりたいんだから
 これが唯一の方法だ
 ダメなら死ぬまでだ

 これじゃ極左テロ集団?
 それとも極右?
 それともカルト教団
 おれはむしろ日本政府のやり方をマネしてるつもりだ
 まあどこの国の政府も似たようなもんだけど
 おれはもうひとつの政府をやってんだ

 すべてをメチャメチャにしてやりたい
 とにかくメチャメチャに
 言ってること分かるだろう?
 おれはアナーキストでありたいんだ
 汚物にまみれながら、ブチ壊してやる

*私のこの訳詞に対して、英語の達者な知人が一つだけ誤りを指摘してくれた。ラスト一行、「I get pissed」の部分である。これを私は素直に受動態ととったわけだが、知人によれば「get pissed」は「酔っぱらう」という意味の俗語表現だとのことである。つまりまあ、「酔った勢いでムチャクチャやってやる」とでも訳すべきで、東京の「貧乏人大反乱集団」(後の「素人の乱」の松本哉が2000年頃に主宰していたグループ)みたいなことを云っていたのである。

蛇足ながら、同時期のパンク・ロックの他の有名曲についても少し。例えばストラングラーズの「No More Heroes」の歌詞カードである。

この出だし、「Whatever happened to Leon Trotsky? He got an ice pick. That made his ears burn.」を、プロ氏は「レオン・トロツキーに何が起こったんだ かれは自分の耳をほてらしてアイスピックを持っていた」などと訳している。これが完全な誤訳であることは、健全な常識人であれば誰だってすぐに気がつくだろう。「He got an ice pick」、中学生なら「彼はアイスピックを手に入れました」と訳すかもしれない。しかし我々は大人である。大人なら歴史に関する一般常識として、トロツキーがアイスピック(正確にはピッケルだが)を頭部に突き立てられて暗殺されたことぐらい知っているはずである。だから耳のあたりが「ほてって」いるのである。教科書には載っていなくても、例えばやはり載っていない「坂本龍馬暗殺の際、一緒に中岡慎太郎も殺されました」というのと同程度の有名なエピソードである。その程度のことも知らない、単に多少は英語わかります、みたいな非常識人が訳すから、「彼はアイスピック(の一撃)を食らいました」という正しい訳詞が書けない。

あるいはクラッシュの「White Riot」である。これを「白い暴動」と訳すのは、間違いではない。しかしその意味するところは「白人暴動」である。こんなことは、5秒考えれば分かることである。そう思って実際に歌詞を見ると、案の定「黒人は何かあればすぐ投石するのに、我々白人は臆病なチキン野郎ばかりだ」なんてことがいきなり書いてある。それをなぜわざわざ「白い暴動」などという直訳に「戻す」のか? 最初にこの邦題をインプットされると、なんだか抽象的かつ精神的、あるいは象徴的な「暴動」をイメージして、それっきりになってしまう。私自身、なんとなく邦題をそのまま受け入れて、たった5秒考えてみるということをしなかったために、こんな簡単なことに最近まで(15年間ほど!)気がつかなかった。たぶんこういう例は無数にあるはずだ。

英米のロックの影響を強く受けているはずの日本のロックが、こんなにもくだらないのは、ひとつにはこうしたデタラメな訳詞しか歌詞カードに載っていないからではないのか?

*おや、想像以上にローリング・ストーンズThe Rolling Stones)の「黒く塗れ!(Paint It, Black )」の世界観をストレートに継承してる感がある?

*だがロンドン・パンク・ムーブメントにおいて最終勝者となったのは、ある意味「(エネルギッシュな素人の逆襲に「奴らもう勝ったつもりでいますぜ」「では教育してやるか」と呟いて参戦した)玄人変態集団」ポリスではなかったか?

*そしてスティングは、英国産業革命を支えてきた炭鉱農夫が原子力発電のもたらす不確かな未来を呪う「黒い傷跡(Black Seam、1985年)」に到達する。パンク精神はわずか数年でここまで成熟したのだった。

*最近案外、パンクムーブメントにおけるこうした側面こそがRADWIMPSの伝説的怪作「五月の蝿(2013年)」の歌詞世界を読み解く鍵じゃないかと思うことも。

私は個人的に民主集中制Democratic Centralism)に立脚するボルシェビキズム(Bolschewismus)や、結局のところ絶対王政Absolute monarchism)に堕してしまったスターリニズムСталинизм)に絶対反対を唱える「左の右」の立場なので、こういう話には特に敏感に反応してきたものです。

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民主集中制(Democratic Centralism)とは - コトバンク

レーニンによって提唱されたボルシェビキ党の組織活動上の立場。党員による民主主義的選挙に基づいて選出された指導部を中心に中央集権主義的に党組織を運営するもの。民主的中央集権主義ともいう。批判の自由と行動の統一を保障し,党組織の政治的発展と組織的強化をいかに実現するのかという問題を解決するものとして提唱されたが、こうした立場は党内論争の目的意識的な組織化が実現されていかないとき,しばしば官僚主義へと転落する危険性をはらんでいる。スターリン時代のソ連共産党がその例で,そこでは民主集中制の名のもとに官僚的締めつけが強化され,反対派の大量粛清が行われた。 1989年にはイタリア共産党がこの原則を放棄するにいたっている。

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スターリニズム(Stalinism)とは - コトバンク

旧ソ連スターリン政権時代の政治路線。対外面では米国との冷戦、東欧諸国の衛星国化、内政面では粛清による独裁政治と党官僚主義を特徴とする。

  • おそらく全てのアナキストAnarchist、無政府主義者)の出発点は、カール・マルクスが「経済学批判Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」の中で開陳した「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない本物の自由意思や個性が獲得したければ認識範囲内の全てに抗え)」なる人間解放論である。そしてこの種の「解放」は、しばしば暴力の暴走を伴う。
    *この時社会側が要求されるのは「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならないが、他人に実害を与える場合には国家権力が諸個人の自由を妨げる権利が生じる」としたジョン・スチュアート・ミル「自由論(On Liberty、1859年)」の原則に従った冷徹な態度。国際SNS上の関心空間上に集う匿名アカウントも「トム・リドル(Tom Marvolo Riddle)は私!!」「鎌田君(Kamata-Kun)は私!!」「オブスキュラス(Obscurus)は私!!」と連呼しながら、決して命乞いはしない。「幾つかの選択肢が間違っていたら自分がなっていた存在」だからこそ、速やかな処分を願っている側面すら見て取れる。結局のところ「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」自由主義のジレンマは「主権者間の均衡」によってしか克服し得ないという覚悟…

  • その一方でアナキズムAnarchism、無政府主義)概念の精髄の一つは、オーギュスト・ブランキLouis Auguste Blanqui、1805年〜1881年)いうところの革命のジレンマ、すなわち「革命家とは勝利と無縁の存在だ。何故なら体制転覆の成功は常に新たな反体制派弾圧の開始しか意味しないのだから」なのである。後期ハイデガーは「あらゆる集-立Ge-Stellシステム、すなわち特定目的実現の為に手持ちリソース全てを総動員しようとする体制は、必ず最終的には自己目的化などによって人間を真理アレーティアが顕現する世界から遠ざける」とした。そしてイタリアのパゾリーニ監督は遺作「ソドムの市Salò o le 120 giornate di Sodoma 、1975年)」の作中、とあるファシストに「我々ファシストだけが無政府主義を実現した。力による無政府主義」と豪語させる事によって「究極の自由主義専制の徹底によってしか達成されない自由主義のジレンマを国際的に表面化させた。

    *ここでややこしいのが「究極の自由主義専制の徹底によってしか達成されない」自由主義のジレンマがディズニーランドやiPhoneをも生み出してきたという現実とどう折り合いをつけるかなのである。

  • もう一つの重要な特徴が(坂口安吾が「堕落論(1947年)」日本に紹介したり、詩人ホイットマンが米国中に広めた様な)行動主義的立場。「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」。それは純粋な形での反知性主義というより「あらゆる既存の集-立Ge-Stellシステムは真理アレーティアの世界への到達を妨げる」後期ハイデガー哲学から必然的に導出される戦略的スタンスとも。
    坂口安吾「堕落論(1947年)」

    「力が知識なのではない。脳も筋肉なのだ。そして俺は全身でお前より賢い」

    「筋力は全ての物語性を上書きする」?

  • そしてここに突如として「自由は自由発意と自由合意の訓練を通じてしか獲得出来ない」なる新たな概念が割り込んでくる。それはインターネットと国際SNSの普及によって益々重要となってきた新概念…

    大杉栄「僕は精神が好きだ(1918年2月)」

    僕は精神が好きだ。しかしその精神が理論化されると大がいは厭いやになる。理論化という行程の間に、多くは社会的現実との調和、事大的妥協があるからだ。まやかしがあるからだ。

    精神そのままの思想はまれだ。精神そのままの行為はなおさらまれだ。生れたままの精神そのものすらまれだ。

    この意味から僕は文壇諸君のぼんやりした民本主義人道主義が好きだ。少なくとも可愛い。しかし法律学者や政治学者の民本呼ばわりや人道呼ばわりは大嫌いだ。聞いただけでも虫ずが走る。

    社会主義も大嫌いだ。無政府主義もどうかすると少々厭になる。

    僕の一番好きなのは人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。しかしこの精神さえ持たないものがある。

    思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そして更にはまた動機にも自由あれ。

    大杉栄「新秩序の創造 評論の評論(1920年6月)」

    『先駆』五月号所載「四月三日の夜」(友成与三吉)というのがちょっと気になった。

    それは、四月三日の夜、神田の青年会館に文化学会主催の言論圧迫問責演説会というのがあって、そこへ僕らが例の弥次りに行った事を書いた記事だ。友成与三吉君というのは、どんな人か知らないが、よほど眼や耳のいい人らしい。僕がしもしない、またいいもしない事を見たり聞いたりしている。たとえば、その記事によると、賀川豊彦君の演説中に、僕がたびたび演壇に飛びあがって何かいっている。

    しかし、そんな事はまあどうでもいいとして、ただ一つ見遁みのがす事の出来ない事がある。賀川君と僕との控室での対話の中に、僕が「僕はコンバーセーションの歴史を調べて見た。聴衆と弁士とは会話が出来るはずだ」というと、賀川君が「それは一体どういう訳だ」と乗り出す。それに対して僕がフランスの議会でどうのこうのと好いい加減な事をいう、というこの最後の一句だ。何が好い加減か。この男は自分の知らない事はすべてみんな好い加減な事に聞えるものらしい。

    僕らの弥次に対して最も反感を抱いているのは警察官だ。

    警察官は大抵仕方のない馬鹿だが、それでもその職務の性質上、事のいわゆる善悪を嗅かぎわけるかなり鋭敏な直覚を持っている。警察官の判断は、多くの場合に盲目的にでも信用して間違いがない。警察官が善いと感ずることは大がい悪い事だ。悪いと感ずることは大がい善い事だ。この理屈は、いわゆる識者どもには、ちょっと分りにくいかも知れんが、労働者にはすぐ分る。少なくとも労働運動に多少の経験のある労働者は、人に教わらんでもちゃんと心得ている。そしてそれを、往々、自分の判断の目安にしている。いわばまあ労働者の常識だ。

    僕らの弥次に反感を持つものは、労働者のこの常識から推せば、警察官と同じ職務、同じ心理を持っている人間だ。僕らは、そんな人間どもとは、喧嘩をするほかに用はない。

    元来世間には、警察官と同じ職務、同じ心理を持っている人間が、実に多い。

    たとえば演説会で、ヒヤヒヤの連呼や拍手喝采のしつづけは喜んで聞いているが、少しでもノオノオとか簡単とかいえば、すぐ警察官と一緒になって、つまみ出せとか殴れとかほざき出す。何でも音頭取りの音頭につれて、みんなが踊ってさえいれば、それで満足なんだ。そして自分は、何々委員とかいう名を貰って、赤い布片でも腕にまきつければ、それでいっぱしの犬にでもなった気で得意でいるんだ。

    奴らのいう正義とは何だ。自由とは何だ。これはただ、音頭取りとその犬とを変えるだけの事だ。

    僕らは今の音頭取りだけが嫌いなのじゃない。今のその犬だけが厭なのじゃない。音頭取りそのもの、犬そのものが厭なんだ。そして一切そんなものはなしに、みんなが勝手に踊って行きたいんだ。そしてみんなのその勝手が、ひとりでに、うまく調和するようになりたいんだ。

    それにはやはり、何よりもまず、いつでもまた何処どこにでも、みんなが勝手に踊る稽古をしなくちゃならない。むつかしくいえば、自由発意と自由合意との稽古だ。

    この発意と合意との自由のない所に何の自由がある。何の正義がある。

    僕らは、新しい音頭取りの音頭につれて踊るために、演説会に集まるのじゃない。発意と合意との稽古のために集まるんだ。それ以外の目的があるにしても、多勢集まった機会を利用して新しい生活の稽古をするんだ。稽古だけじゃない。そうして到る処に自由発意と自由合意とを発揮して、それで始めて現実の上に新しい生活が一歩一歩築かれて行くんだ。

    新しい生活は、遠いあるいは近い将来の新しい社会制度の中に、始めてその第一歩を踏み出すのではない。新しい生活の一歩一歩の中に、将来の新しい社会制度が芽生えて行くんだ。

    僕らのいわゆる弥次は、決して単なる打ち毀しのためでもなければ、また単なる伝道のためでもない。いつでも、またどこにでも、新しい生活、新しい秩序の一歩一歩を築き上げて行くための実際運動なのだ。

    弁士と聴衆との対話は、ごく小人数の会でなければ出来ないとか、十分にその素養がなければ出来ないとかいう反対論は、まったく事実の上で打ち毀されてしまった。

    怒鳴る奴は怒鳴れ、吠える奴は吠えろ。音頭取りめらよ。犬めらよ。

    与謝野晶子 激動の中を行く(1919年)

    巴里のグラン・ブルヴァルのオペラ前、もしくはエトワアルの広場の午後の雑沓初めて突きだされた田舎者は、その群衆、馬車、自動車、荷馬車の錯綜し激動する光景に対して、足の入れ場のないのに驚き、一歩の後に馬車か自動車に轢ひき殺されることの危険を思って、身も心もすくむのを感じるでしょう。

    しかしこれに慣れた巴里人は老若男女とも悠揚として慌てず、騒がず、その雑沓の中を縫って衝突する所もなく、自分の志す方角に向って歩いて行くのです。

    雑沓に統一があるのかと見ると、そうでなく、雑沓を分けていく個人個人に尖鋭な感覚と沈着な意志とがあって、その雑沓の危険と否とに一々注意しながら、自主自律的に自分の方向を自由に転換して進んで行くのです。その雑沓を個人の力で巧たくみに制御しているのです。

    私はかつてその光景を見て自由思想的な歩き方だと思いました。そうして、私もその中へ足を入れて、一、二度は右往左往する見苦しい姿を巴里人に見せましたが、その後は、危険でないと自分で見極めた方角へ思い切って大胆に足を運ぶと、かえって雑沓の方が自分を避けるようにして、自分の道の開けて行くものであるという事を確めました。この事は戦後の思想界と実際生活との混乱激動に処する私たちの覚悟に適切な暗示を与えてくれる気がします。

    *だがどうしても活動単位を政治的に有意味な規模まで引き上げようと思い立ったらカール・シュミッツの政治哲学、すなわち「敵友原理」を駆使して「例外状態(Ausnahmezustand)」を生み出そうとする集-立(Ge-Stell)システム、すぐに自己目的化して本来の役割を果たせなくなる難物中の難物の導入を考えねばならないというジレンマに直面する事になる。そして、さらには「生活が安定している限り一般市民は蜂起しない。まずは匪賊を嗾けて平和な日常を奪い、次いでその匪賊を討伐して信頼を勝ち取るのである」式の毛沢東の残酷な政治理論も流入して来る。

     *そもそもこの次元では「アナキストの党派性」とは一体何かが問われるのである。

    *「婆娑羅」も「歌舞伎」も、根幹部は対決対象としての体制矛盾をちゃんと見据えた上での「政治的運動」だったのを思い出した。もちろん当時から「似非婆娑羅」や「ファッション歌舞伎」は大量に混じっていた訳だけど。

そういえば「ブコメ元祖」ジェーン・オスティン(Jane Austen、1775年〜1817年)は、自らが執筆し世界中に広めた「(フランス革命戦争ナポレオン戦争の最中に毎日狩猟大会や舞踏会に邁進する郷紳地方ジェントリーの牧歌的生活」が「(海の向こうから渡って来るジャコバン思想の様な危険思想に隣人が感染するのを未然に防ぐ監視社会」と表裏一体の関係にあった事を暴露しています。四方を海に囲まれた英国にとってはウルトラモンタニズムジャコバン思想も「海の向こう側」からやってくるものだったのですね。そして実際、こうした恐怖の源を「ゾンビ化細菌」に置き換えても物語がちゃんと成立する事を証明してみせたのが迷作「高慢と偏見とゾンビPride and Prejudice and Zombies、映画化、2009年、2016年)」だったという次第。そして、こうした「楽観的」世界観とSex Pistolsの「Anarchy in the U.K.1976年)」やアラン・ムーア原作漫画「 V for Vendetta1982年〜1985年、映画化2005年)」「Watchmen1986年〜1987年、映画化2009年)」の「悲観的」世界観は、英国人にとってはあくまで表裏一体の関係にある様なのです。学園物に「アウトサイダーとしての不良」が付き物な様に?

そういえばロンドン・パンク・ムーブメントもまた(東海岸の文化的中心地」ニューヨークに上京して「西海岸のカリスマ」ジム・モリソンの音楽と出会ったパティ・スミスなどが始めた)ニューヨーク・パンク・ムーブメントが大源流。


*当時パティ・スミスが「両性具有のキース・リチャーズ」と呼ばれてたり、音楽の端々にQueenの影響が感じられたりする辺りも時代を感じさせられて興味深い。そもそもプログレッシブ・ロックもハードロックも英国起源…で、インスパイア元はアメリカ音楽だったりする。


この様に「言語ゲームSprachspielやパサージュPassage論や事象の地平線Event Horizonの向こう側を徘徊する絶対他者」の起源を辿ると概ねこうした「認識範囲の越境問題」が登場し、その先まで辿る意味が消失してしまいます。

*まさしく以前の投稿で述べた「妖怪は境界線に潜む」の世界。そういえば分類という行為そのものが典型的な集-立(Ge-Stell)システムの一種とも?

無政府主義Anachism概念を巡る歴史」にも確実にそういう側面があって、その大源流は例えば「(フランス革命初期の18世紀末にフランス東部フランシュ=コンテに存在した炭焼人のギルドがナポレオンのイタリア遠征に従軍したネオ・ジャコバン主義者のサン=キュロットによって伝えられ、1806年頃ナポリ王国においてこれを模す形で結成された秘密結社炭焼党伊カルボナリ (Carbonari)、仏シャルボンヌリー(Charbonnerie)、イタリア独立を主目的に掲げていたがオルレアン公やルイ・ナポレオンのパトロネージュを受けてフランス7月革命(1830年)に実動部隊として参加) 」や「(1834年にパリでドイツ人亡命者や遍歴職人が結成した秘密結社「追放者同盟(Bund der Geächteten)から1837年に分離独立した最初のドイツ人共産主義結社たる正義者同盟der Bund der Gerechten)」といった古色蒼然の中世的秘密結社に遡ったりするのですが(何しろ国外追放者の集まりなので)運動が国境を超えての移動を繰り返すうちに「既存の説明には決して完全な形では当て嵌まらない何か」へと変貌していった感があるのです。この辺りの感覚が日本の左翼陣営にはまるっきり欠けている? 

フーゴ・バル(Hugo Ball、1886年〜1927年) - Wikipedia

ドイツ帝国のピルマゼンスで、カトリック中流家庭に生まれた。1906年から1907年にかけて、ミュンヘンハイデルベルクの大学で社会学と哲学を学ぶ。1910年に俳優になるためベルリンに移り住み、マックス・ラインハルトと共に活動した。

第一次世界大戦が始まると陸軍に志願したが、健康上の問題で入隊できなかった。ドイツのベルギー侵攻の後、幻滅して「この戦争は紛れもない誤りに基づいている。人間は機械と共に混乱している。」と語ったせいで国家に対する反逆者と見なされ、キャバレーのパフォーマーであり詩人であるエミー・ヘニングスと共に国境を越え、チューリヒに移り住んで1920年に結婚。

チューリヒでは無政府主義とミハイル・バクーニンに対する興味を持ち続け、バクーニンの著書の翻訳に取り組んだが出版されることは無かった。アナキズム哲学に興味を持っていたにもかかわらず、軍事的側面からそれを拒否し、悟りのための個人的な目標への唯一の手段として見なそうとしていた。

1916年には社会の惨状に対する見解についての政治的な声明を出し、究極の真実を所有すると主張した過去の人生観への反感を認めたことによってダダイスム宣言を作成した。その年には詩「Karawane」を著しているが、同作は無意味な言葉から構成される。その意味は無意味さにあり、ダダイスムの背後にある主な原理を反映している。この他の彼の代表作には、詩集「7 schizophrene Sonette」、演劇「Die Nase des Michelangelo,」、チューリヒ時代の思い出を綴った「Flight Out of Time: A Dada Diary」、ヘルマン・ヘッセの伝記「Hermann Hesse. Sein Leben und sein Werk」(1927年)等がある。

キャバレー・ヴォルテールの共同設立者として、彼はチューリヒ・ダダを主導し「ダダ」の名称を辞書から適当に選び出し名付けた人物の一人として見なされる。後に妻となるエミー・ヘニングスもダダのメンバーであった。

ダダ・ムーヴメントに対する彼の関与は約2年続いた。その後ベルンで短期間、「Freie Zeitung」の記者として働く。1920年7月にカトリックに再改宗するとティチーノ州に隠遁。以降は信心深く貧しい生活を送った。この期間に彼は「Hochland」に関与していた。胃癌のため、スイスのサンタッボンディオで1927年9月14日に死去。

彼の詩「"Gadji beri bimba"」は、後にトーキング・ヘッズの1979年のアルバム『フィア・オブ・ミュージック』に収められた「イ・ズィンブラ」で使用された。アルバムのクレジットには彼の名が記載された。ドイツのアーティスト、コミッサー・ヒューラーがギリシャのレーベル、シャーマニック・トランスから2010年にリリースしたLPには「Karawane」のボイスコラージュが収められている。

革命職人ヴァイトリング -コミューンからアソシエーションへ

現代における労働者革命の原点を探る。

【ヴィルヘルム・ヴァイトリング 1808-1871】
1808年マグデブルクに生まれたファガント(漂泊者)ヴァイトリングは、さながら19世紀ドイツの下層社会に出現した第2のイエスであった。1938年ドイツ手工業職人の結社・義人同盟に加入。1839年5月、ブランキら四季協会のパリ蜂起の参加。革命論をめぐるマルクスとの論争。1848年のベルリン革命にいたるまで、共同体(コミューン)創出をめざした結社運動に奔走する。ベルリン革命の敗北後、北アメリカに亡命。1852年プルードンの影響を受けて、ニューヨークで労働者協同企業を創立し、アソシアニストとして活動する。

本書は、この19世紀ドイツの革命職人ヴィルヘルム・ヴァイトリングの思想的展開と運動の軌跡を追究する。そのことをとおして、19世紀の労働者運動のゲマインシャフト=コミューンからアソシアシオン=アソシエーションへの時代思潮的転回を詳細に検証する。

この歴史的理論的解明は、1917年のロシア・ボルシェヴィキ革命の負の教訓をふまえ、現代における労働者革命の原点と構想を探究するための貴重な営為である。

そういえば日本の古代史には「九州北部に連合王国が成立すると、これを警戒して瀬戸内海沿岸や近畿に無数の環濠集落や高地性集落が築造されたが、却って交易は活発化して3世紀には九州北部連合も後に合流した日本初の首都が纏向に建築される」なんて歴史的展開がありました。
*欧州の十字軍運動も、これを契機に欧州と中東を結ぶ地中海交易が活発化しロンバルティア地方やフランドル地方といった「領主が領民や領土を全人格的に支配する農本主義的権威体制」の影響力が弱い地域から商業化が始まっている。まぁいわゆる宗教改革だってドイツにおける(聖遺物公開を伝統的生業としてきた)ザクセン選帝侯と(贖宥状販売で大儲けを企んだ)マインツ大司教ブランデンブルク選帝侯の弟)の泥臭い利権争いとして始まり、しかも(後に新教側と旧教側を往復して影響力を失っていったザクセン選帝侯と異なり、新教離脱の元凶にも関わらず)すっぱり新教側盟主の座に収まったブランデンブルク選帝侯が次第に力をつけてきて最終的にはプロイセン王統にしてドイツ帝国皇統にまで成り上がるのである。イデオロギーとか全然関係ない。

元来はこういう観点からも「グローバリズムとは何か」について考察を深める必要があるんじゃないでしょうか? そしてアナキズムについても…