いわゆる欧州封建制とは何かについて考える上で「なぜフランス騎兵は反省しなかったのか?」なる設問と同じくらい鍵となってくるのが「どうしてヴァロワ朝第9代フランス国王フランソワ1世(François Ier、1494年〜1547年、在位1515年〜1547年)は誰とでも同盟を結んだのか?」という疑問だったりします。
イタリア戦争(1494年 〜1559年) - Wikipedia
そもそも十字軍運動開始以降、欧州商業の中心地として栄えてきたイタリア諸都市国家は、大国として急速に台頭してきたオスマン帝国がコンスタンティノープル陥落(1453年)によって東ローマ帝国を滅ぼしたのを契機にローディの和(伊Pace di Lodi、1454年)が締結されるまで、以下の五大国が覇権を争う形で血で血を洗う激しい内戦を繰り広げてきたのである。
*スイスの文化史学者ブルクハルトやドイツの歴史哲学者ゾンバルトの見解によれば、主権国家が誕生するには、それに先立って「主権者として自らの欲望を追求する道に目覚めた」統治者が現れねばならず、その起源はパレルモを首都とするシチリア王国をノルマン貴族から簒奪し、アルビジョア十字軍(仏Croisade des Albigeois, オック語Crosada dels Albigeses, 1209年〜1229年)によって南仏オック語圏を追われた宮廷詩人達を迎え入れた神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(Friedrich II., 在位1220年〜1250年、シチリア王1197年〜1250年)、イタリア王1212年〜1250年、ローマ王1212年〜1220年)、エルサレム王1225年〜1228年)や、アヴィニョン捕囚(1309年〜1377年)時代に退廃的生活を送った「領主化した教皇達」に遡るという。
戦乱の最初の一歩を踏み出したのは英仏百年戦争(英Hundred Years' War、仏Guerre de Cent Ans、1337年/1339年〜1453年)終結を受けて新たな対外戦争の相手を探していたフランス国王であった。
第一次イタリア戦争(1494年〜1498年)
1494年、フランス王シャルル8世が「ヴァロワ=アンジュー家からナポリを継承した」と主張し、イタリアに遠征。それに先立ってシャルル8世は、1493年に神聖ローマ帝国とサンリス条約を、アラゴン連合王国とバルセロナ条約を、イングランド王国とエタプルの和約をそれぞれ締結し、イタリア以外のヨーロッパ諸国との関係を改善している。
この親征の過程でメディチ家がフィレンツェから追放された。翌年ナポリを占領するが、教皇アレクサンデル6世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、アラゴン、ヴェネツィア、ミラノが神聖同盟を結び対抗したため、撤退する。第二次イタリア戦争(1499年 - 1504年)
1499年、フランス王ルイ12世が「父オルレアン公からミラノを継承した」と主張し、ミラノ出身のジャン・ジャコモ・トリヴルツィオを最高司令官とするフランス軍が侵攻(オルレアン公はヴィスコンティ家の血を引いていた)。1500年にノヴァーラの裏切りで、スフォルツァ家のイル・モーロを幽閉、ミラノ公国を征服(1513年まで)。1503年、スペインのコルドバ将軍がナポリを征服。以後、スペインのナポリ総督が支配する。1504年、ブロア条約により休戦。フランスがナポリを放棄。
カンブレー同盟戦争(1508年〜1516年)
1511年、教皇ユリウス2世がアラゴン、ヴェネツィア、イングランド、スイスと神聖同盟を結び、フランスに対抗。1513年2月にボスコリ事件でニッコロ・マキャヴェッリが失脚、3月にメディチ家から新教皇レオ10世(在位1513年〜1521年)が誕生、6月6日にミラノからフランス軍が追放される(ノヴァーラの戦い)。スフォルツァ家が一時復帰。1515年、フランス王フランソワ1世がミラノに侵攻(マリニャーノの戦い)。スフォルツァ家を追放し、ミラノを支配する。
*ちなみにこのマリニャーノの戦いを契機としてスイス連邦が領土的野心を放棄し「欧州全体に対する傭兵供給国」への変貌を果たす。ウルビーノ戦争(1517年)
カンブレー同盟戦争でフランスとヴェネツィアが教皇に勝利したのに乗じて、前年に破門されウルビーノ公位から追放されたフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレは教皇から公国を奪還する画策をはじめた。
1517年のはじめ、フランチェスコ・マリーア1世はウルビーノでコンドッティエーレのフランチェスコ・デル・モンテ率いる教皇軍を撃退、市民の熱烈な歓迎の下で入城した。
教皇レオ10世はあわてて1万の軍勢を雇い、ロレンツォ2世・デ・メディチ、レンツォ・ダ・チェーリ、ジュリオ・ヴィテッリ、グイド・ランゴーニなどのコンドッティエーレをウルビーノに送った。ロレンツォ2世は4月4日のモンドルフォ包囲戦で銃傷を負いトスカーナへ戻ってしまい、代役のビッビエーナ枢機卿は無能で統率がうまくいかずポッジボンシで大敗、ペーザロまで撤退した。
形勢有利なフランチェスコ・マリーア1世だったが、彼は資金繰りに失敗してヴェローナで雇った傭兵に払うお金がなくなった。トスカーナやウンブリアでの戦況も膠着したため和平を模索するようになる。9月、フランチェスコ・マリーア1世と教皇は平和条約に署名した。
1517年にレオ10世がサン・ピエトロ大聖堂建設資金の為にドイツでの贖宥状販売を認めると、ルターは95ヶ条の論題でこれに抗議した。神聖ローマ皇帝選挙(1519年)
神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の死後、孫のスペイン王カルロス1世とフランス王フランソワ1世が皇帝選挙で争い、1519年にカール5世が神聖ローマ皇帝に即位してスペイン王を兼ねた。ハプスブルク家とヴァロワ家の間には以前から確執があったが、フランスはハプスブルク家に両側(ドイツ・スペイン)から挟まれる形になり、重大な脅威を受けることになったため、フランスは戦略上イタリアを確保することが必要になった。
異教徒であるオスマン帝国の存在や、折から始まった宗教改革もこの混乱に輪をかけた。イタリア各国も利害が相反してしばしば対立して、一致して対抗することなくハプスブルク家あるいはヴァロワ家と結んだため、付け入る隙を与えることになった。16世紀のイタリアはルネサンス文化の最盛期でもあるが、外国の圧迫を受けて国内が分裂し、時には戦場と化していたことになる。第三次イタリア戦争(1521年〜1526年)
1521年以降、ヴァロワ家(フランス)とハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)がイタリアを巡り争った。1521年、教皇レオ10世(メディチ家出身)は神聖ローマ皇帝カール5世と結び、フランス支配下のミラノを攻め、奪還。
1522年のロドス包囲戦でロドス島の聖ヨハネ騎士団とヴェネツィア共和国の連合軍がオスマン帝国に敗北する。
1525年2月24日、パヴィアの戦いでフランス王フランソワ1世は捕虜となり、マドリードに幽閉される。 1526年、捕虜となっていたフランソワ1世はカール5世とマドリード条約を締結することを余儀なくされ、釈放される代わりにイタリア、フランドル、ブルゴーニュへの請求を全て取り下げた。コニャック同盟戦争(1526年〜1529年)
1526年5月22日(2代前のレオ10世の従弟でパッツィ家の陰謀で殺害されたジュリアーノの遺児だった)教皇クレメンス7世は神聖ローマ帝国の勢力の増大を憂慮し、コニャック同盟を結成する。同盟の成員は教皇領、フランス王国、イングランド王国、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国、ミラノ公国だった。1527年、コニャック同盟に報復のため神聖ローマ皇帝軍がローマを攻める(ローマ略奪)。ローマは蹂躙され、教皇庁は屈服する。一方、ローマ略奪の報が伝わると、フィレンツェからメディチ家が追放される。1529年、ジェノヴァがカール5世の支援を受け、フランスの支配下を脱する。ボローニャにイタリア諸国(メディチ家追放中のフィレンツェを除く)が集まり、カール5世に服することを決める。オスマン帝国のスレイマン1世による第一次ウィーン包囲(9月 - 10月)。「貴婦人の和約」でフランスは賠償金を支払い、イタリアを放棄(10月)。
1530年、教皇クレメンス7世がカール5世に戴冠式を行う。フィレンツェが皇帝軍に包囲され、凄惨な戦闘の末に敗北。メディチ家が復帰する。メディチ家はハプスブルク家との結びつきを深め、フィレンツェの支配体制を確立する。こうしてイタリアにおけるハプスブルク家の優位が確定する。これ以降もフランスとの戦闘は続くが、覆ることはなかった。フランソワ1世はカール5世に対抗するため、カトリックであるにもかかわらずドイツのルター派プロテスタント諸侯を支援し、異教徒のオスマン帝国皇帝スレイマン1世ともひそかに同盟を結ぶ。1532年、フランスがシュマルカルデン同盟と同盟。第四次イタリア戦争(1536年〜1538年)
1535年、ミラノ公フランチェスコ2世・スフォルツァが死去した。フランチェスコ2世に跡継ぎはなく、カール5世がミラノ公妃クリスティーヌ・ド・ダヌマルクの母の兄にあたるためミラノ公を継いだ。当時は民衆もイタリア諸国も反対しなかったが、カール5世の子フェリペが公国を継承すると、フランソワ1世はイタリアに侵攻した。
フランスの大将フィリップ・ド・シャボーは1536年3月にピエモンテへ進軍、翌月トリノを落城させたが、ミラノの包囲は失敗した。カールは反撃してプロヴァンスに侵攻、エクス=アン=プロヴァンスまで軍を進めて1536年8月に占領したが、フランス軍がマルセイユへの道を塞いだため進軍が止まってしまった。その後、防御を整えたアヴィニョンを攻めずスペインへ撤退した。
一方、イタリアにおいてフランソワ1世の軍勢はピエモンテで補給してジェノヴァへ進軍していた。また1536年、ジャン・ド・ラ・フォレの外交努力でオスマン帝国との同盟を結び、年末にはマルセイユでフランス=オスマン連合艦隊が集結し、ジェノヴァを脅かしていた。艦隊がジェノヴァを砲撃する一方フランス陸軍がジェノヴァを包囲する、という作戦案も定められたが、フランスとオスマン帝国にとっては不幸なことに、1536年8月に連合軍がジェノヴァに到着する頃にはジェノヴァの守備が大幅に強化されていた。その代わり、連合軍はピエモンテで荒らしまわり、多くの城を占領した。1537年、バルバロス・ハイレッディンがイタリア海岸で海賊行為を繰り返したのちコルフを包囲したが、あまりフランスの助けにはならなかった。
カール5世は緒戦で不利だった上、フランスとオスマンとの二正面作戦の危険もあるため、結局折れて1538年6月18日にフランソワ1世とニースの和約で戦争を終結させた。第五次イタリア戦争(1542年〜1546年)
フランス王フランソワ1世は再びオスマン帝国のスレイマン1世と同盟を締結、1542年7月12日に神聖ローマ帝国に宣戦布告し、ミラノはまたしても戦争の口実となった。フランソワ1世は自身の最後となるイタリア侵攻において、まずはペルピニャン包囲戦(英語版)に取り掛かった。1543年8月22日、バルバロス・ハイレッディン率いるフランス・オスマン連合艦隊はニース包囲戦に勝利してニースの町を占領[8]、続いて城塞を包囲した。城塞の軍は1か月内に救出されたが、キリスト教とイスラム教の軍勢が共同してキリスト教徒の町を攻撃することは当時において考えられないことだった。したがって、フランソワ1世としてもオスマン軍の役割を軽く扱う必要があった。しかし、彼はその政策をさらに進め、トゥーロンをオスマン艦隊の冬営用にバルバロスに貸し出した。
アンギャン伯フランソワ率いるフランス軍は1544年4月14日のチェレゾーレの戦いで勝利した[9]が、ロンバルディアへさらに深く進軍することはできなかった。同年6月4日、セラヴァッレの戦いで第6代ペスカーラ侯爵アルフォンソ・ダヴァロス(英語版)率いる帝国軍がフランスのイタリア傭兵隊を撃破したことでイタリアにおける戦いが終わった。
フランス本土ではイングランド王ヘンリー8世が1544年7月14日にカレーに渡り、すでに進軍していたイングランド軍と合流、そのままブローニュ=シュル=メール包囲戦は7月19日に始まった。
このころ、カールは資金不足に悩まされ、さらに宗教問題にも対処しなければならなかった。カールとフランソワの代表は1544年9月18日にクレピーでクレピーの和約に署名した。
1545年9月までに戦争が完全なステイルメイトとなった。どの国も兵員と資金の不足になやまされ、ドイツのプロテスタント諸侯に支援を乞うたが失敗した。結局、最後まで粘ったヘンリー8世も折れ、1546年6月7日、アルドレスの和約がフランス代表とイングランド代表の間で署名された。
第六次イタリア戦争(1551年〜1559年)
1547年3月31日、フランソワ1世が死去し、息子のアンリ2世が即位する。1551年、アンリ2世はカール5世に宣戦布告、イタリアを再征服し、ヨーロッパでの覇権をハプスブルク家から取り戻そうとした。フランスはまずロレーヌに侵攻、ある程度の成功を収めたが、続くフィレンツェ公国への侵攻は1553年に止められた。フランスは1554年8月2日にマルチャーノの戦いで大敗するが、フランス語話者が主流なメス、トゥール、ヴェルダンは併合に成功した。
戦争の最中の1556年、カール5世は神聖ローマ皇帝からもスペイン王からも退位した。神聖ローマ皇帝はカール5世の弟フェルディナント1世が継承、スペイン王位はカール5世の息子フェリペ2世が継承した。すなわち、カール5世の退位はフランスを包囲したハプスブルク帝国を分割させた。これ以降、神聖ローマ帝国とスペインの結束はカール5世の同君連合時代の緊密さからだんだんと緩くなっていく。
この時点で戦場はイタリアからフランドルへと移り、フェリペ2世はサヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルトとともに1557年8月10日のサン=カンタンの戦いを戦い、フランスに大勝した。しかしフランスはサン=カンタンでの敗北の後に元気を取り戻し、戦闘を再開した。1557年にイングランドが帝国側で参戦すると、フランスは1558年1月にカレーを包囲、陥落させた。さらに、フランスはネーデルラントにおけるスペイン軍を撃破した。
戦争はもうしばらく続くかと思われたが、その終わりは突如訪れた。1557年、スペインとフランスは相次いで破産を宣言した。さらにフランスはユグノーにも対処しなければならなかった。アンリ2世は1559年4月3日のカトー・カンブレジ条約受諾を余儀なくされた。条約により、アンリ2世はイタリアへの請求を全て取り下げる。これによってイタリア戦争は完全に終結。
同時代には(ヴェネツィアのレパント交易独占に対抗すべく)騎士修道会残党が主導する「ポルトガルのアフリカ十字軍」を嚆矢としていわゆる「(インド到達を目指す)アフリカ大陸西回り航路」の開発が進んでいました。先頭に立つ冒険商人や探検費用の主要供給源となってきたのは(国家としては破綻していて五大国には加われなかったヴェネツィアの永遠のライバル)ジェノヴァを筆頭とするイタリア商人達…
しかしながら「小国」ポルトガルには自らが切り開いた巨大商圏に徴税を強いるだけの制海権が捻出出来ず、1530年代以降その主導権を「大国」スペインに乗っ取られてしまいます。
しかしながら「陸国」スペインもまた、かかる巨大商圏の制海権掌握に失敗。この分野におけるオランダやイングランドの台頭を許す事になってしまうのです。
ある意味、こうした形での欧州における「陸国」と「海国」の対峙の最終局面となったのが外交革命(独Umkehrung der Allianzen, 仏Révolution diplomatique, 英Diplomatic Revolution、1756年)によって歴史的和解を遂げたフランス王統ブルボン家と神聖ローマ帝国皇統ハプスブルグ家を相手取ってプロイセン(およびその戦いを金銭的に援助したイングランド)が衝突した「七年戦争(英Seven Years' War、独Siebenjähriger Krieg、1754年〜1763年、主要戦争は1756年〜1763年)だったのだとも。フランソワ1世を走り続けさせた「どうして私(フランス国王)が神聖ローマ皇帝を襲名してはいけないのか?」なる設問には、それだけ根深い「深度」と「強度」が存在したという話なんですね。