上記で取り上げられているのは主に15世紀〜16世紀のドイツなので、とりあえず「イタリア戦争であれほど完膚なきまでにフランス国王フランソワ1世を叩きのめしたカール5世が、どうしてアウクスブルクの宗教和議(Augsburger Reichs- und Religionsfrieden、1555年)でルター派ドイツ諸侯に妥協を強いられたのか?」という話になってくる様です。
宗教改革の「意図せざる帰結」はズバリ「世俗化の進展」だったのだ。今回は、宗教改革によって生じた世俗化を、エリート間の権力バランスの観点から考察し、当時の大学生と建築物のデータによって実証した研究を紹介するのだ。
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宗教改革以前のヨーロッパでは、統治に必要な「宗教的な正統性」を付与する権限は単一のキリスト教会によって独占されていたのだ。「カノッサの屈辱」に代表されるように、世俗の支配者は時にキリスト教会に依存しなければならなかったのだ。
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ここで改めてルターのパトロンが「聖遺物コレクション」を自らの信仰心の拠り所にするザクセン公だった事、中世よりローマ教会と東方正教会の対立を背景にある種の宗教的独立状態を達してきたヴェネツィアが自らの信仰心の拠り所にしてきたのも「聖遺物コレクション」だった事を強調しておきます。塩野七生「海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年(1980年〜1981年)」でも強調されている様にそれは「プロテスタント勃興以前のプロティスタンティズム」すなわち(フランス国家主義に立脚するガリカリムスとはまた異なる)ローマ教会体制の(人間中心主義(Humanism)あるいは人治主義に立脚する)精神的脅威への対抗手段として昨日していたのでした。プロテスタント勢力が打ち出した「聖書のみ(他の宗教的権威の源泉を一切認めない)」なる立場も、同様の要件を背景としています。
16世紀、カトリック教会が発行した罪の償いを軽減する証明書。免罪符とも、免償符とも、贖宥符とも呼ばれる。また、日本においては「罪のゆるしを与える」意味で、責めや罪を免れるものや理由、行為そのものを指すこともある。
その前史
元来キリスト教では、洗礼を受けた後に犯した罪は、告白(告解)によって許されるとしていた。西方教会で考えられた罪の償いのために必要なプロセスは三段階からなる。まず、犯した罪を悔いて反省すること(痛悔)、次に司祭に罪を告白してゆるしを得ること(告白)、最後に罪のゆるしに見合った償いをすること(償い)が必要であり、西方教会ではこの三段階によって、初めて罪が完全に償われると考えられた。古代以来、告解のあり方も変遷してきたが、一般的に、課せられる「罪の償い」は重いものであった。
キリスト教に限らず、世界の多くの宗教に、宗教的に救済を得たいなら善行や功徳を積まなくてはならないとする「因果応報」や「積善説」という考え方がある。カトリック教会は、救われたい人間の自由意志が救済のプロセスに重要な役割を果たすとする「自由意思説」に基づいた救済観を認め、教会が行う施しや聖堂の改修など、教会の活動を補助するために金銭を出すことを救済への近道として奨励した。
実際の歴史上における贖宥状の展開
もともとはイスラームから聖地を回復するための十字軍に従軍したものに対して贖宥を行ったことがその始まりであった。従軍できない者は寄進を行うことでこれに代えた。
ボニファティウス8世の時代に聖年が行われるようになり、ローマに巡礼することで贖宥がされると説かれた。後にボニファティウス9世当時、教会大分裂という時代にあって、ローマまで巡礼のできない者に、同等の効果を与えるとして贖宥状が出された。これはフランスなどの妨害で巡礼者が難儀することを考えての措置であった。その後も、様々な名目でしばしば贖宥状の販売が行われていた。
ローマ教皇ボニファティウス8世(Bonifatius VIII, 在位1294年〜1303年) - Wikipedia
フランス王フィリップ4世およびコロンナ家と争い、最晩年に起こったアナーニ事件の直後に「憤死」した。学術・文化の保護者としても知られる。
教皇登位まで
ローマ市の南東方向にあるアナーニ(ラツィオ州フロジノーネ県)の名門(貴族階級)出身で、本名はベネデット・カエターニ(Benedetto Caetani)。歴代教皇の別荘があるスポレート(ウンブリア州ペルージャ県)などで教会法などを学び、パリやローマで聖堂参事会の会員となり、1276年にローマ教皇庁入りを果たした。枢機卿に昇進したのち、教皇特使としてイタリア半島各地やフランスなどを往復し、各界に多くの知遇を得た。
第192代ローマ教皇のケレスティヌス5世は有徳の人であったが「教皇の器にあらず」と在位数ヶ月にして自ら退位を希望し、教会法に詳しい教皇官房のカエターニ枢機卿に相談した。ケレスティヌス5世は、夜な夜な聞こえる「ただちに教皇職を辞し、隠者の生活に戻れ」という声に悩まされた末にカエターニ枢機卿に相談したのであるが、実は、部下に教皇の寝室まで伝声管を引かせて毎夜ささやき、教皇を不眠症と神経衰弱に追い込んだ張本人はカエターニ自身であったともいわれている。カエターニ枢機卿は教会法に基づいた辞任の方法を教皇に助言し、ここに存命のまま教皇が退任するという異例の事態が発生した。
ケレスティヌス退任後、ただちに再びコンクラーヴェ(教皇選挙会議)がひらかれ、グレゴリウス10世の定めた手続きにしたがって後継者が選ばれることとなって、その結果カエターニ枢機卿がボニファティウス8世としてローマ教皇に選出された。
ナポリ王国との関係
前任のケレスティウス5世は、その就任時にナポリ王国のカルロ2世に身をゆだね、カルロ王が望む人物を役職につけ、ローマではなくナポリに住むことにまで同意していたが、ボニファティウス8世が就任した当時のローマは繁栄期を迎えていた。
ボニファティウス8世が教皇となって最初にしたことは、ナポリ王カルロ2世が送り込んだ人物を罷免することと教皇宮をナポリからローマに移すことであった。ボニファティウスは、先代のようにカルロ2世を前面にたてることはしなかったが、登位後7年にわたってシチリア島の奪回に意を注いだ。カルロ2世は、称号こそ「シチリア王」の名乗りを許されていたが、シチリアの支配権は失っており、事実上の統治者はアラゴン王国のハイメ2世であった。
コロンナ家との対立
ローマを本拠にしていたイタリア有数の貴族コロンナ家が新教皇ボニファティウス8世に反感をいだいたのは、当初ボニファティウスの傲慢さが原因だったともいわれるが、アラゴン派に属していた彼らは教皇のシチリア政策にも反対していた。そこで、前教皇退位の経緯に着目し退位の合法性に疑問を呈した。もしも、この退任が教会法に違背しているならば、新教皇の正統性が揺らぐこととなる。ボニファティウス8世は、これに対し、みずからの保身のため前教皇をローマ南東36キロメートルのフモーネ城の牢獄に幽閉した。
1297年、コロンナ家はアナーニからローマへ移送中の教皇の個人財産を強奪するという実力行使に出た。その品はのちに返却されたが、コロンナ家はその後も「ボニファティウス8世は真の教皇にあらず」との声明文を発し続けたため、教皇はコロンナ当主とその一族を破門とする命令を発し、一族討伐のための「十字軍」を招集した。1298年、コロンナ家は教皇軍に屈したものの、その年のうちに反乱を起こし、やがてフランスへと逃亡した。
フランス王との対立
1294年、フランス国王フィリップ4世(端麗王)はガスコーニュやフランドルをめぐってイングランドと対立し、イングランド王エドワード1世に対して戦争を開始したが、長期化したこの戦争で必要となった膨大な戦費を調達するため、フランスではじめて全国的課税を実施し、税はキリスト教会にも課せられた。しかし、戦費調達のための教会課税は教皇至上主義を掲げるボニファティウス8世にとって承知できないことであった。敬虔なキリスト教徒の国フランスはローマ教皇庁にとって収入源として重要な地位を占めていたため、教会課税は教皇にとって大きな痛手となったのである。
ボニファティウス8世は、聖職者への課税を禁止する勅書を発行した。しかし、このときの対立はボニファティウスがフィリップ4世の祖父ルイ9世(聖王)を列聖したことで、それ以上の事態には発展しなかった。
聖年祭とローマの繁栄
ボニファティウス8世は1300年を「聖年」に定めて盛大な祭典(聖年祭)を挙行し、ヨーロッパの全聖職者のローマ巡礼を強制して死後の天国行きを確約した。聖年を定めたのはボニオファティウス8世が最初であり、それ以前には聖年を祝うことはなかった。
ローマには多くの巡礼者が集まり、フランス王フィリップの教会課税で苦境に陥ったローマ教会の財政は潤いを取り戻した。ジョット・ディ・ボンドーネをはじめとする芸術家がローマに集まり、サン・ピエトロ大聖堂やサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂などが改修された。彼は、彫刻家や画家たちに自分の像を多数つくらせている。ボニファティウスはまた、聖職者の養成を企図し、1303年にはローマ・ラ・サピエンツァ大学を設立した。
フィレンツェへの介入とダンテ
一方でボニファティウス8世は、フィレンツェの支配を企図して教皇派の内紛(黒派対白派)を扇動した。フィレンツェでは富裕な市民が白派を支持、古い封建領主が黒派を支持し、両者はたがいに対立していた。白派はプリオラートと称される最高行政機関をつくって3名の頭領(プリオリ)を選んだが、ダンテ・アリギエーリはその1人に選出されている[4]。教皇がフィレンツェに圧力をかけたことにより、黒派はその権勢の恩恵にあずかろうとした。
更に教皇庁はフィレンツェに対し教皇に奉仕する100人の騎兵を出せと命令[4]。ダンテはこれを拒否する書簡をローマに送ったが、教皇庁が応じないため、1301年、ダンテはフィレンツェ使節の1人として教皇に会ったが、帰途シエーナに滞在中永久追放の判決を受け、亡命生活を余儀なくされた。ダンテの代表作『神曲』第1部(「地獄篇」)では、ボニファティウス8世が地獄に堕ちた教皇として逆さまに生き埋めにされ、燃やされる姿が描かれている。
フランシスコ会との関係
13世紀前葉、清貧をモットーにアッシジのフランチェスコによって創設された托鉢修道会のフランシスコ会は、13世紀中葉まで歴代教皇の恩顧によって司牧活動における諸々の特典を認められており、それが各地の司教の反発を招いていた。1279年に教皇ニコラウス3世が「エクジイト・クィ・セミナート」でフランシスコ会の司牧特典を擁護したことをめぐって激しい論争が巻き起こったが、これが問題となったのは、この時期の貨幣経済の進展が著しく、司教たちが秘蹟の授与など司牧活動に収入源を大きく依存せざるを得なくなってきたという社会の変化と、フランシスコ会への特典がすべて教皇の個人的な恩顧によるものであり、教会法のなかで規定を設けない状態のままになっていたという法的不備の問題が背景にあった。そこで、ボニファティウス8世はこの問題を決着させるべく、1300年に教皇勅書「スーペル・カテドラム」を発布して聴罪や葬儀に関わる限定的な一部の規定以外の特典を廃止する決定を下した。
また、フィオーレのヨアキムの著作の影響がフランシスコ会にもおよび、1255年にフランシスコ会修道士のボルゴ・サン・ドンニーノのゼラルドによってヨアキム主義的な『永遠の福音入門』が出版されると、その反響は大きく、教皇アレクサンデル4世はヨアキム主義を否定したが、13世紀後半には、北イタリアから南フランスにかけての地域で、ヨアキム主義の影響を受けたフランシスコ会の少数派が清貧の厳格な実践を唱えるようになった(スピリトゥアル主義)。北イタリアのスピリトゥアル主義(心霊派、厳格派)は、1280年以降フランシスコ会内部でも弾圧されたが、教皇ケレスティヌス5世はこれに同情的で「教皇ケレスティヌスの貧しき隠遁者」として分離が赦された。しかしボニファティウス8世は、これを弾劾している。
アナーニ事件
1301年、フランス王フィリップ4世は再びフランス国内の教会に王権を発動し、教会課税を推しすすめようとしたが、この問題について、ボニファティウス8世は1302年に「ウナム・サンクタム(唯一聖なる)」という教皇回勅を発して教皇の権威は他のあらゆる地上の権力に優越し、教皇に服従しない者は救済されないと宣した。「ウナム・サンクタム」は、教皇の首位権について述べた最も明快かつ力強い声明文であり、歴代教皇が政敵から身を守る際の切り札として利用された。さらにボニファティウスは、「聴け最愛の子ら」という回勅を発してフィリップ4世に対し教皇の命にしたがうよう促した。
1302年、フィリップ4世は国内の支持を得るために聖職者・貴族・市民の3身分からなる「三部会」と呼ばれる議会をパリのノートルダム大聖堂に設け、フランスの国益を宣伝して支持を求めた。人びとのフランス人意識は高まり、フィリップ4世は汎ヨーロッパ的な価値観を強要する教皇に対して国内世論を味方につけた。ボニファティウス8世は怒ってフィリップを破門にしたが、フィリップの側も悪徳教皇弾劾の公会議を開くよう求めて両者は決裂した。このとき、ローマ教皇とフランス王の和解に反対し、フィリップ4世に対し、教皇と徹底的に戦うべきことを進言したのが、「レジスト」と称された世俗法曹家出身のギヨーム・ド・ノガレであった。
フィリップ4世は、腹心のレジスト(法曹官僚)ギヨーム・ド・ノガレに命じ教皇の捕縛を計った。ノガレの両親はかつて異端審問裁判で火刑に処せられていたためローマ教皇庁に対する復讐に燃えていた。いっぽう、教皇の政敵で財産没収と国外追放の刑を受けていたコロンナ家は、フィリップ4世にかくまわれていた。ノガレは、コロンナ家がフランスの法廷で証言した各種の情報をもとに、教皇の失点を列記した一覧表を作成し、これを公表した。
1303年9月、ノガレはコロンナ家の一族と結託して、教皇が教皇離宮のあるアナーニに滞在中、同地を襲撃した(アナーニ事件)。
ギョーム・ド・ノガレとシアッラ・コロンナは、教皇御座所に侵入し、ボニファティウス8世を「異端者」と面罵して退位を迫り、弾劾の公会議に出席するよう求めた。教皇が「余の首を持っていけ」と言い放ってこれを拒否すると、2人は彼の顔を殴り、教皇の三重冠と祭服を奪った。これについては両者の思惑が異なり、シアッラは教皇を亡き者にしようと考えていたが、ノガレは逃れられないよう教皇をつかまえてフランスに連行して会議に出させ、いずれは退任させる腹づもりであった。2人は激しい言い争いになり、それが翌日までつづいたが、そうしている間にローマから駆けつけた教皇の手兵によりボニファティウス8世は救出された。教皇の監禁は3日間にわたり、ナポリ王カルロ2世とシチリア王フェデリーコ2世が教皇に対して暴力が振るわれていることを聞きつけて、その救出のための準備をしていたという。ボニファティウス8世は民衆の安堵と大歓声に迎えられてローマへの帰還を果たしたが、辱められた彼はこの事件に動揺し、この年の10月11日、急逝した。高齢と長年の不摂生で腎臓を患っていたのが死因であるとされているが、人びとはこれを「憤死」と表現した。
人物評価
同時代のフィレンツェの政治家ディーノ・コンパーニによる年代記には「この法王は猛烈果断な気性と卓越せる才能を持ち、自我流に教会を導き、自説に同意しない者を斥けた」と記されている。
聖職にある身としてはめずらしいほどの現実主義者であり「最後の審判」は存在しないと信じていた。敬虔な人から悩みを打ち明けられても「イエス・キリストはわれらと同じただの人間である」と述べ、「自分の身さえ救うことのできなかった男が他人のために何をしてくれようか」と公言してはばからなかったともいわれている。
何ごとによらず華美を好み、美食家で、宝石でかざったきらびやかな衣服を身にまとい、金や銀などの宝飾品を常に着用していた。賭博も好み、教皇庁はまるでカジノのようであったという。性的には精力絶倫で、あやしげな男女が毎晩のように教皇の寝所に出入りしたともいわれている。
政治的に対立したフィレンツェのダンテ・アリギエーリからは、上述のように、主著『神曲』のなかで「地獄に堕ちた教皇」として魔王のルシフェルよりも不吉な影をもって描かれた。
その一方で学問の造詣深く、ヴァチカンの公文書保管庫を改造して蔵書の目録をつくらせ、ローマ大学を創設し、ジョットら画家や彫刻家のパトロンとなって文化・芸術の保護者となった。以上、さまざまな点でルネサンス時代およびルネサンス教皇を先取りするかのような印象がもたれる教皇である。
教皇レオ10世がサン・ピエトロ大聖堂の建築のための全贖宥を公示し、贖宥状購入者に全免償を与えることを布告した。中世において公益工事の推進のために贖宥状が販売されることはよく行われることであったが、この贖宥状問題が宗教改革を引き起こすことになる。
ローマ教皇レオ10世 (Leo X、在位1513年〜1521年) - Wikipedia
ルネサンス期のローマ教皇。本名はジョヴァンニ・デ・メディチ(Giovanni de Medici)。メディチ家出身で、派手好き、イベント好きの教皇のもと、ローマのルネサンス文化は最盛期を迎えた。
生涯
フィレンツェの黄金時代を築いたロレンツォ・デ・メディチの次男。父と教皇インノケンティウス8世の後押しにより1492年、16歳の若さで枢機卿となる。同年ロレンツォの死去後、メディチ家の権勢は衰え、1494年に兄のピエロ、弟のジュリアーノと共にフィレンツェを追放される。追放中はイタリア各地を転々としたのち、ローマに落ち着く。1503年の兄の死後、ユリウス2世の支持の元、1512年スペイン軍と共にフィレンツェに侵攻。メディチ家の復権を果たしている(教皇選出後はフィレンツェを親族に任せ、間接的に統治した)。
1513年、ユリウス2世の死後、37歳で即位する(「最年少にして、最も醜男の教皇」と呼ばれた)。戦争好きであったユリウス2世とは対照的に、平和主義者として振る舞い、外交ではイタリアを巡るフランスと神聖ローマ帝国の対立の中にあって、父譲りの政治感覚を発揮した。
1515年、フランス国王フランソワ1世がミラノに侵攻する状況になると、フランスと妥協し、ボローニャ協定を結ぶ。1519年、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世の死後に行われた皇帝選挙では、マクシミリアン1世の孫、カール5世の即位を阻むため、フランソワ1世を支援するが失敗。カール5世が皇帝に選出されるが、マルティン・ルターの宗教改革に対抗する必要上、秘かにカール5世と同盟を結んだ。
内政では前教皇ユリウス2世によって始められた第5ラテラン公会議を継続したが、結局、根本的な改革には手を付けないまま終了してしまった。一方でメディチ家の勢力拡大を図り、1513年からフィレンツェを任せていたジュリアーノが死去した1516年に後を継いだ甥(ピエロの遺児)のロレンツォをウルビーノ公に指名、本来のウルビーノ公フランチェスコ・マリーア1世を追放したが、ロレンツォは1519年に一人娘カテリーナを残して急死、フランチェスコ・マリーア1世が復帰して領土拡大に失敗した。
レオ10世が教皇として業績を残したのは政治面というより文化面であった。前教皇が着手したサン・ピエトロ大聖堂の建設を引継ぎ、ミケランジェロ、ラファエロらの芸術家のパトロンとなり、ローマを中心とするルネサンス文化は最盛期を迎えた。教皇戴冠式の際に建てられた仮設凱旋門には、「かつてウェヌス(アレクサンデル6世)が支配し、その後マルス(ユリウス2世)が治め、今やミネルヴァ(レオ10世)の時代が来らん」という銘文が掲げられた。
聖堂や広場、洗礼堂の修復を行い、前教皇に続きラファエロを贔屓にし、自らの肖像画やシスティーナ礼拝堂の壁掛け、バチカン宮殿回廊の天井画・壁画などを制作させた。ラファエロが若くして亡くなったときは非常に悲しんだ。
ミケランジェロとは幼い頃から共に過ごした仲であるが、芸術家の気難しい性格を敬遠してローマから遠ざけ、フィレンツェでサン・ロレンツォ教会(メディチ家の礼拝堂など)の仕事を行わせた。
1517年にサン・ピエトロ大聖堂建設資金の為にドイツでの贖宥状(俗に言う「免罪符」)販売を認めたことが、ルターによる宗教改革の直接のきっかけになった。また、行列や宴会など、とにかく贅沢が好きで湯水のように浪費を続けた。享楽に満ちた聖都ローマは、ルターに「新しきバビロン」と非難された。教皇庁には未曾有の財政破綻が起こり、「レオ10世は3代の教皇の収入を1人で食いつぶした。先代ユリウス2世の蓄えた財産と、レオ10世自身の収入と、次の教皇の分の3人分を」とも言われた。
1521年10月11日、ルターを非難したイングランド王ヘンリー8世に「信仰の擁護者」の称号を授けたが、後にヘンリー8世は離婚問題で教皇クレメンス7世と対立した果てにイングランド国教会を創設、皮肉にもプロテスタントの一派を形成していった。ただし、教義自体はカトリックとの共通点が多く、称号も後のイングランド王に代々受け継がれていった。
同年、45歳で急死。風邪をこじらせた、あるいはマラリアのためとされるが、毒殺説もある(1517年にも暗殺計画が発覚している)。また暴飲暴食が原因など様々な死因が伝えられているが、実際は病弱であった。次の教皇は1522年にハドリアヌス6世が選出されたが、僅か1年で死去、従弟のクレメンス7世が1523年に教皇になった。
宗教改革がヨーロッパ全域の中で特に神聖ローマ帝国(ドイツ)で起こったのには理由があった。ドイツで最も大々的に贖宥状の販売が行われたからである。この大々的な販売は当時のマクデブルク大司教位とハルバーシュタット司教(Bishopric of Halberstadt)位を持っていたアルブレヒトの野望に端を発していた。彼はブランデンブルク選帝侯ヨアヒム1世の弟であり、兄の支援を受けて、選帝侯として政治的に重要なポストであったマインツ大司教位も得ようと考えた。しかし、司教位は本来1人の人間が1つしか持つことしかできないものであった。
アルブレヒトはローマ教皇庁から複数司教位保持の特別許可を得るため、多額の献金を行うことにし、その献金をひねり出すため、フッガー家の人間の入れ知恵によって秘策を考え出した。それは自領内でサン・ピエトロ大聖堂建設献金のためという名目での贖宥状販売の独占権を獲得し、稼げるだけ稼ぐというものであった。こうして1517年、アルブレヒトは贖宥状販売のための「指導要綱」を発布、ヨハン・テッツェルというドミニコ会員などを贖宥状販売促進のための説教師に任命した。アルブレヒトにとって贖宥状が1枚でも多く売れれば、それだけ自分の手元に収益が入り、ローマの心証もよくなっていいこと尽くしのように思えた。
アルブレヒトの思惑通り、贖宥状は盛んに売られ、人々はテッツェルら説教師の周りに群がった。しかし、義化の問題に悩みぬいた経験を持っていた聖アウグスチノ修道会員マルティン・ルターにとって、贖宥状によって罪の、果たすべき償いが軽減されるというのは「人間が善行によって義となる」という発想そのものであると思えた。しかし、そのときルターが何より問題であると考えたのは、贖宥状の販売で宣伝されていた「贖宥状を買うことで、煉獄の霊魂の罪の償いが行える」ということであった。本来罪の許しに必要な秘跡の授与や悔い改めなしに贖宥状の購入のみによって煉獄の霊魂の償いが軽減される、という考え方をルターは贖宥行為の濫用であると感じた(テッツェルのものとしてよく引用される「贖宥状を購入してコインが箱にチャリンと音を立てて入ると霊魂が天国へ飛び上がる」という言葉は、この煉獄の霊魂の贖宥のことを言っているのである)。
*「煉獄の概念」…これ実はヴァイキング(北方諸族の略奪遠征)時代(9世紀〜10世紀)を経てノルマン貴族がアストゥリアス貴族(ピレネー山脈以北に落ち延びた西ゴート王国遺臣)やロンバルディア貴族(イタリア半島北部に侵攻したランゴバルト王国遺臣)やブルゴーニュ貴族(ドナウ川流域より南下してきたブルグント王国遺臣)を緩やかに束ねつつ東ローマ(ビザンチン)帝国やイスラム諸王朝の文化を吸収したロマネスク時代(10世紀〜12世紀)に栄えたクリューニュー修道会が(おそらく大胆に世俗信仰を模倣する形で)導入したものと考えられている。ハイネいうところの「五感を通じて得られる官能、とりわけ華麗な儀礼や建築物やそれを司る偉人」を信じたがる「ラテン=ゴシック」文化と「魂で探す神秘主義的秘跡」を信じたがる「ゲルマン=北方」文化の鋭い対比がここでも…この煉獄の霊魂の贖宥の可否についてはカトリック教会内でも議論が絶えず、疑問視する神学者も多かった。ルターはアルブレヒトの「指導要綱」には贖宥行為の濫用がみられるとして書簡を送り、1517年11月1日、ヴィッテンベルク大学の聖堂の扉にもその旨を記した紙を張り出し、意見交換を呼びかけた(当時の大学において聖堂の扉は学内掲示板の役割を果たしていた)。ルターはこの一枚がどれほどの激動をヨーロッパにもたらすかまだ知らなかった。これこそが『95ヶ条の論題』である。ルターはこれを純粋に神学的な問題として考えていたことは、論題が一般庶民には読めないラテン語で書かれていたことからも明らかである。しかし、神聖ローマ帝国の諸侯たちの思惑によって徐々に政治問題化し、諸侯と民衆を巻き込む宗教改革の巨大なうねりの発端、プロテスタントの勃興となった。
カトリック教会はヨーロッパ諸国に広がった宗教改革の動きに対し対抗宗教改革を行い、綱紀粛正を図ったが、トリエント公会議の決議により、金銭による贖宥の売買は禁止されることになった。
なお、贖宥状の金銭での売買は禁じられたが、発行そのものは禁止されておらず、以後も行われた。
こうしたラテン文化とドイツ文化の軋轢の当時における一つの最終到達点が「ローマ劫掠(Sacco di Roma、1527年5月)」だったのです。
ローマ劫掠(Sacco di Roma、1527年5月) - Wikipedia
神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世の軍勢がイタリアに侵攻し(ルターに「新しきバビロン」と非難された)教皇領ローマにおいて(主に南ドイツで徴募された神聖ローマ帝国の傭兵ランツクネヒト(独: Landsknecht、複数形: Landsknechte)が主体となって)殺戮、破壊、強奪、強姦などを行った事件を指す。
この頃、イタリアを巡ってはヴァロワ朝のフランス王国と神聖ローマ帝国による衝突が繰り返されてきた(イタリア戦争)。1515年にはフランス王フランソワ1世の軍がミラノに侵攻し、1521年にミラノ公国を支配するスフォルツァ家を追放するが、神聖ローマ皇帝カール5世は教皇レオ10世と結んでミラノを攻めたので、フランス軍はミラノから退去している。しかし教皇クレメンス7世(レオ10世の従弟)はフランス王と皇帝のどちらに就くか揺れており、フランスと結んだ事が、ローマ略奪のきっかけになる。
1526年、パヴィアの戦いに敗れカール5世の捕虜になっていたフランソワ1世が釈放されると、カール5世に対抗するコニャック同盟を結成した。教皇もこれに加わり、皇帝と同盟していたフェラーラ公アルフォンソ1世・デステを破門し、ローマに幽閉した。これに対し、カール5世はローマへ軍勢を差し向け、スペイン兵、イタリア兵などからなる皇帝軍とドイツの傭兵(ランツクネヒト)がローマに進軍した。ドイツ兵にはカトリックを憎むルター派が多かったという。また長期の行軍に給料の支払いも悪く、飢えた兵も多かった。
1527年5月6日、ローマで皇帝軍と教皇軍の衝突が始まるが、クレメンス7世はサンタンジェロ城に逃げ込み、教皇軍は敗北した。この時、皇帝軍の指揮官であったブルボン公シャルル3世が戦死したが、指揮官を失ったにもかかわらず、配下の兵たちの士気はむしろ高まった。そして統制を失った軍勢はローマで破壊と略奪の限りを尽くした。市民らはなすすべもなく、6月に教皇は降伏した。皇帝軍がローマを撤退したのは翌年であった。
モーリス・セーヴはその惨状を以下のように綴っている。「 駝鳥〔カール5世〕の呼び声を聞いた天翔ける鹿〔ブルボン公〕は荒らされたねぐら〔没収されたブルボンの領地〕をはや捨てて飛び立つ舞い降りたのはヨーロッパの一番高きとこと〔ローマ〕そこならば平安と休息を得られると信ずるがゆえ神聖この上なき彼の地を、天翔ける鹿は侵すその悪名高き冒涜の手〔ドイツ傭兵隊〕をもって……」
ローマに集まっていた文化人・芸術家は殺され、あるいは他の都市へ逃れた。文化財は奪われ、教会なども破壊され、ルネサンス文化の中心だったローマは壊滅、停滞の時期を迎えた。これによって1450年代から続いていた盛期ルネサンス時代は終わりを告げた。
カール5世自身はカトリック教徒であり、これほどまでの略奪を意図していたわけではなかったが、事態は皇帝側に有利となった。1529年、教皇と皇帝はバルセロナ条約を結んで和解、イタリアはカール5世の支配下に入った。1530年、ボローニャにおいて教皇クレメンス7世の下、カール5世に対して神聖ローマ皇帝の戴冠式が行われている。アルフォンソ1世も破門を解かれ、モデナとレッジョを与えられた。
なお、フィレンツェ共和国を治めていたクレメンス7世の庶子アレッサンドロもこの騒ぎに乗じた市民に追放されたが、1530年にカール5世の支援で復帰、1532年に公爵位を授与され、フィレンツェ公国を成立させた。
こうしてローマ教会中心に展開した「盛期ルネサンス(1450年頃〜1528年)」が終焉してより内省的なマニエリムス芸術に推移する一方、1480年代にレパント海の覇権をオスマン帝国に奪われて以降「(オスマン帝国の文書行政を支えてきた製紙産業を出発点とする)出版文化」「(観光客を引き寄せる為の)カーニヴァル文化やオペラ文化の振興」「(東方正教会のイコン文化の影響を受けて生まれ観光客に土産物として売られた)キャンパス絵画の流行」に力を入れてきたヴェネツィアが後期ルネサンスの担い手として台頭してきたのです。
かくして「産業化された」ルネサンスはさらに「大航海時代到来による欧州経済中心地の地中海沿岸から太平洋沿岸への推移」なる地殻変動を受けてフランドル(オランダやベルギー)やフランスへと推移していったのでした。それではドイツは?
キリスト教は支配者から種々の特権(税や土地)を与えられ、その代わりに独占的に「宗教的正統性」を与えるという取引が行われていたのだ。じゃあ宗教改革によってキリスト教が分裂すると、その取引はどうなってしまったか?経済学的なアナロジーで考えてみるのだ。
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宗教的正統性が取引される「市場」にプロテスタントという新たな勢力が参入することで独占市場は崩壊し、競争が発生するのだ。特にプロテスタントとカトリックの教義の違いに起因する「宗教的正統性の価格」が重要になるのだ。
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プロテスタントは洗礼と聖餐以外のサクラメント(儀式)を不要と考たりと、要は色々「お手頃価格で」宗教的正統性を供給できたのだ。世俗の支配者はカトリックとプロテスタントを選ぶことが出来る一方で、カトリックは競争相手の出現により「交渉力」が低下してしまったのだ。
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交渉力の低下を表す例として、例えば修道院は当時のカトリックの主要な資産だったんだけど、プロテスタントは修道院を閉鎖し、その富を他の社会保障(例:貧民救済)に使うべきと考えたのだ。そこで支配者はプロテスタントの支援を背景に修道院を閉鎖・没収していったのだ。
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この辺りの展開はイングランドの方が遥かに急進的でした。チューダー朝時代に代わりに制定されたエリザベス救貧法…一方、ガリカリムス路線のフランスはそこまで極端な手が打てず、それでフランス革命による根幹からの破壊を必要としたという説も。
*ただし「フランス革命に従順で土地の小作人への分配が徹底的に行われたブルゴーニュ(格付けの単位が畑)より、領主と領民が一丸となって伝統的生産システムを守り抜いたボルドー(格付けの単位がシャトー)の方がワイン戦争を有利に戦った」みたいな事例もある。そもそもボルドーといえばスペインとの交易で荒稼ぎしており、フランス革命にも独特の足跡を残したジロンド派の本拠地。一事が万事、単純化は良くない?
ただ、修道院から得た全ての資産が社会保障に使われたかというと、そうではないのだ。プロテスタントの側もカトリックと同様、競争相手がいるから世俗の支配者に対して強い交渉力を持てなかったのだ。支配者は修道院の収奪から得た富を何に使うか?当然、自分の権力のためなのだ。
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1480年から1600年までに現在のドイツにあたる地域で新規に建設された建造物のデータを使った分析によると、宗教改革以後のプロテスタント地域では教会の建設は減る一方、非宗教施設(宮殿や軍事施設)の建設は増えていたことがわかったのだ。
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このように、世俗の支配者はこれまで宗教に割いていた資源を自分の権力の強化と拡大の為に使うようになったのだ。さらに、権力を増大させた支配者はこうしたハコモノだけじゃなくて「ヒト」も必要とするようになるのだ。
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「権力(領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制)はすべからず悪である」とし、それに精神汚染される以前のルネサンス期イタリアを理想視したスイスの文化史家ブルクハルトの「イタリア・ルネサンスの文化(Die Kultur der Renaissance in Italien, ein Versuch、1860年)」も「伝統的公式行事においてどれだけ客が集められ、どれだけ満足させられたかを競う王侯貴族や聖職者の接待合戦から、ブルジョワジーが私室で個人的に楽しむ贅沢品まで」を追跡したドイツの歴史家ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義(Liebe, Luxus und Kapitalismus、1912年)」も全ての始まりを「アヴィニョン捕囚(1309年〜1377年)」を契機とする教皇庁権威の凋落と教皇庁領主化に求めています。英国やフランスではこの流れが「火力と機動力を十分に備えた常備軍を中央集権的官僚が国民からの徴税によって養う」主権国家樹立へとつながっていくのですが(歴史上一度も主権国家になれなかった)神聖ローマ帝国や(元来は最初期の主権国家の一つだった)オスマン帝国ではむしろ地方分権的な「領邦国家化」が進行…まさにそういう景色を裏付ける統計結果かと。
1480年から1550年にドイツの大学を卒業した3000人以上の個人レベルのデータを使った分析によると、プロテスタント地域の大学では、宗教改革以後、神学の学位を取得する学生が減る一方、法学や教養(Arts)の学位を取得する学生が増えていたことがわかったのだ。
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さらに、宗教改革以後のプロテスタント地域では、教会職を最初の職にする学生が減る一方で、より世俗的な職(例:法務官などの行政職)に就く学生が増えていたことがわかったのだ。
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まさしくドイツのヘッセン州ヴィースバーデン出身のユダヤ人社会学者ヘルムート・プレスナー(Helmuth Plessner, 1892年~1985年)の「ドイツロマン主義とナチズム、遅れてきた国民(Die verspätete Nation. Über die politische Verführbarkeit bürgerlichen Geistes 1935年)」が活写した「イデオロギー懐疑(Ideologieverdacht)が学者の信念だけでなく一般人の信仰をも破壊していくプロセス」の先駆け。
ちなみにイタリアではローマ法研究も近代解剖学研究も最先端を「ローマ教皇庁の藩屏」ボローニャ大学が突っ走るという容赦ない歴史的展開がありました。日本の京都も割とこれに近い頑張りを見せています。
これらの分析結果は、宗教改革以後、世俗の支配者は宮殿や軍事施設のような(自分の権力に直結する)行政施設により多くの資源を割くようになり、当時のエリート(大卒者)達も宗教に見切りを付けて世俗的な仕事により大きな価値を見出すようになった、ということを示唆しているのだ。
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まとめると、キリスト教勢力は宗教改革という内部分裂に伴い交渉力が低下し、世俗の支配者が「統治の宗教的正統性」を安く買い叩けるようになった結果、支配者のみならずエリート社会も世俗的になっていった、というのがこの論文の主張なのだ。
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今回の話は、https://t.co/WMPZeZboY6
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からなのだ。
そこまでバリバリに統計的に有意ではないように見えるけど、theme, arguments, dataが面白かったら良いジャーナルにちゃんと載るのかぁ…と思ったのだ。大学生のデータとか建築物のデータとか、ホントよく集めたのだ…。
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「競争する教会:宗教改革と世俗化」として追加しておいたのだ〜。
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ア㊙️イさんのお尻と学ぶ統計学 - Togetter https://t.co/8cClCTFYkz
そして…
[補足]
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素晴らしいコメントを頂いたので、ツリーに追加させて頂きますのだ!https://t.co/GCKqMXXxjv
論考としては説得力を有するが、問題点も多い。第一にカトリックの分析が足りない。例えばヴュルツブルクやインゴルシュタットといった、対抗宗教改革を目的として創立されたカトリック大学は無視できない。第二に、法学の台頭自体はもっと前から都市において起こっている現象である。(続く) https://t.co/DVCFpEzQ4M
— Gregorius Tokionis (@R_Muscheizik) June 23, 2019
寧ろ、領邦都市の拡大が様々な官職の拡大を必要としたとする方が、所謂宗派化論との接合も鑑みると説明がつくのではないか。
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第三に、統治権力と他勢力のパワーバランスを、統治側に偏らせて議論してはいないか。特に大学、学識者といった存在が純粋に官僚的なものとして考え得るかは疑問である。
世俗化の進展、という意味では確かに、改革から百年経って「もうどっちでもいいからいい加減争いを止めろ」という民衆の声もあったが、一方で17世紀末のハノーファーは未だ自らをプロテスタントの擁護者と位置付ける意義があったことも考えると、世俗化の進展を宗教改革に帰すのは早計と思われる。
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結局のところ、「世俗化」をどう定義するのか、という問にも依るのだろうが、現代的な意味での世俗化は宗教改革からは導きにくかろう。宗派的な選択可能性があること、即ち単一の宗教的権威からの解放を指して世俗化というなら適切だろうが、その定義は広すぎて議論に資さないのではないだろうか。
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宗教改革の話をしてるんだからカトリックは無視していい、という向きもあろうが、宗派選択性自体は共通の条件である。プロテスタント諸侯の資金源と活用法を論拠とするならこの場合、カトリック側のそれとの比較も必要だろう。
— Gregorius Tokionis (@R_Muscheizik) June 23, 2019
ヘルムート・プレスナー(Helmuth Plessner, 1892年~1985年)の「ドイツロマン主義とナチズム、遅れてきた国民(Die verspätete Nation. Über die politische Verführbarkeit bürgerlichen Geistes 1935年)」もまた「世俗化」の進行をプロテスタントの登場を特別視するより「プロテスタントかカソリックか領邦ごとに選べる様になった=教会中心主義にせよ国王中心主義にせよ中央集権樹立の障害となった(この辺りが、同様に国土統一が遅れたイタリアにファシズムが発生した様に、ドイツでナチズムが台頭した主要因となった)」 という立場。この辺り国土が諸侯によって分割されていた江戸幕藩体制下においてすら文書行政と法執行の内容について地域差があまりにも少なくライシャワー「日本史(Japan The Story of a Nation, 1978年)」において「法専制主義」なる概念が提起され、実際、明治維新を迎えると「版籍奉還(1869年)」「廃藩置県(1871年)」「藩債処分(1876年)」「秩禄処分(1876年)」が決行されて(フランスが革命の末にやっと導入可能となった)郡県制へとあっけなく移行した日本人には到底想像出来ない何かが水面下に横たわっているのですね。ドイツ人よ、どうして日本みたく上手くやれなかった(挑発)?