諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【学園物の誕生】書簡体小説の登場

書簡体小説(epistolary novel) - Wikipedia

登場人物の書簡を連ねることによって間接的にストーリーが展開していく小説の形式である。18世紀からフランスなどで盛んになった。中世フランスにアベラールとエロイーズの往復書簡があり、これがモデルになっているようである。 

現実的に宮廷文化やサロン文化の成熟に従って「恋文の手本」として実用に供されてきた側面も存在したと推測されている様です。

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  • ポルトガル(1669年)… リルケによるドイツ語訳も著名。こうした著作が流行した背景には(継ぐべき所領がない領主の次男や三男、継ぐべき商圏がない商人の次男や三男、遍歴騎士や食い詰め浪人などが十字軍運動や東欧植民運動や初期大航海運動の最前線に積極的に棄民され、これを生き延びた少数の成功者に起死回生の機会を与えた大開拓時代が終わり)絶対王政の時代が始まると継ぐべきDomain(所領や商圏といった「飯の種」)のない「食い詰め男子」が常備軍の将校や聖職者、さらには(海賊も含む)冒険商人へと吸収される様になる一方、政略結婚に利用されなかった貴族子女が女子修道院に押し込められる様になった時代変遷が存在した。

    書簡体小説の先駆となった手紙。ポルトガルの尼僧マリアナ・アルコフォラードが1665年から1667年にかけてポルトガルに駐屯したフランス軍の士官シャシリー公爵にあてた5通の恋文で,長らく真実の書簡集と思われていたが,現在ではフランスのギュラーグ伯によるものと推定されている。1669年にフランス語でパリで出版された。恋情表現の古典といわれ,日本では1929年佐藤春夫により訳出。

    そしてこうした主権国家下で進行した(伝統的地方共同体の解体と)中央集権化の進行により社会の個人に対する拘束圧身分や階層の固定)が高まり、そのガス抜きとして江戸幕藩体制下においては(近松門左衛門作品に代表される様な)心中道行物、フランス絶対王政下では(アベ・プレヴォー「マノン・レスコー(L'Histoire du Chevalier Des Grieux et de Manon Lescaut 1731)」に代表される様な)駆け落ち物が流行。ただし御上から体制批判として取り締まられるのを逃れる為、そういった作品はすべからず悲劇に終わる必要があった。

  • ペルシア人の手紙(1721年、 モンテスキュー) …ペルシャ人がフランス社会を批判するという設定で書かれた思想書であるとともに、フランス文学に書簡体が流行するきっかけになった。

    1721年に刊行されたモンテスキュー書簡体小説

    小説としての筋自体はきわめて簡潔である。ペルシアの宮廷での政争に疲れたユスベクは友人リカとともにヨーロッパの知恵を求めて故国を離れ、パリに居を構え、そこで故国の友人、召使い、愛妾(あいしょう)たちと手紙を交換する。やがてユスベクは危急を告げる手紙を受け取る。彼の後宮に混乱がおこり、彼の命令で戦慄(せんりつ)と恐怖が後宮を支配するが、愛妾ログザーヌは彼を欺(あざむ)いたことを光栄に思うと彼に告げて、毒杯を仰ぐ。

    他方、ユスベクとリカの手紙には摂政(せっしょう)時代(1715年~1723年)のフランスの風俗に対する風刺や社会批判、政治制度に関する哲学的省察が述べられる。むろん著者の真の意図はここに存する。この作品が大成功を収めたのは、ルイ14世の晩年の陰惨な専制政治から解放された当時の世相にぴったり合致していたからである。

    その批判と風刺の対象はパリのコーヒー店,市民の物見高さといった風俗から,ナントの王令廃止,ルイ14世の死,経済政策,奴隷制などの政治論議,さらには教皇権,宗教裁判,神学論争などの宗教問題と多岐にわたり,軽妙な筆致で論じられる。 

    ①まずは出発点から。マザリナードMazarinades)が飛び交ったフロンドの乱Fronde, 1648年~1653年)以降、鬱積する一方だった帯剣貴族と法服貴族のルサンチマンは(サド侯爵の暗黒文学に継承された様な)リベルタン(libertin=自由人)的放蕩の系譜成立と同時進行で、少なくともその一部がロシュフコー箴言(出版1664年~1693年)」出版に見られる様な当時のサロン文化の急速成長に吸収される展開を迎える。モンテスキューペルシャ人の手紙」出版も、こうしたサロン文化の後押しあっての事だったのである。

    マザリナード(Mazarinades) - Wikipedia

    フロンドの乱1648年~1653年)の際に大量に出回ったジュール・マザランに関する文書の総称。

    マザランの視点で書かれた文書が多く、中にはマザラン側のアンヌ・ドートリッシュやコンデ公を槍玉に挙げるものもあった(コンデ公は途中から反マザラン側についた)。マザランへの敵意の示し方は多様で、論理的に非難するものもあれば、風刺の色合いの強いもの、戯れ歌などで貶めるものもあり、中には予言や占いを持ち出してマザラン失脚が運命付けられているとするものまであった。

    こうした反マザランの文書に対し、親マザランの側もマザランを擁護する文書を出して応酬したため、双方の文書は膨大な数にのぼった。このためフロンドの乱は、単にフランス政治史上の重要事件というだけでなく、カトリック同盟期(1585年~1594年)やフランス革命期などとともに、政治文化史と出版史の関係を考える上で、非常に興味深い題材を提供する時代となっている。

    リベルタン(libertin) - Wikipedia

    ルネサンス思想と啓蒙思想をつなぐ役割を果たした思想家群を指す。もともと17世紀においてlibertinなるフランス語は不信仰者と放蕩者を同時に意味していたが、その後次第にもっぱら特定の傾向の思想を抱いた者たちを指すようになり、かならずしも放蕩者でない思想家も指すようになった。

    ヨーロッパのサロンの歴史

    ②当時サロンに出入りしていたインテリ有識者の間で憧憬の対象となっていたのが、スウェーデン女王クリスティー(Kristina, 1626年~1689年, 在位1632年~1654 年)によるルネ・デカルトRené Descartes、1596年~1650年)の招聘(1649年~1650年)であった点を俯瞰しても、サロン文化が体制側傾倒と反体制側傾倒の危ういバランスの上に成立した仇花であった事は明らか。そして体制側としては「シンデレラ」「長靴を履いた猫」「青髭」などの収録で知られるシャルル・ペローの散文童話集「寓意のある昔話、またはコント集〜がちょうおばさんの話Histoires ou contes du temps passé. Avec de moralités : Contes de ma mère l'Oye.、1697年)」に典型的な形で見られる様な形で(「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」や農村や職人組合の様な伝統的共同体の抱える、時として理不尽な既存秩序の押し付けからの解放の代償として)原理的に主権国家(暴力的手段を国家が十分に独占している状態」を法源とする法実証主義に基づき、火器や機動力を十分に装備した常備軍を中央集権的官僚制が徴税によって賄う権威主義的体制)への忠誠心(Loyalty=絶対君主や絶対王政へのコネや服従)の大小が全てを決定する尺度(物差し=単位)となる実証主義(英:legal positivism, 独:Rechtspositivismus)的世界観、反体制側としては「啓蒙思想ディドロDenis Diderot, 1713年~1784年)やダランベールJean Le Rond d'Alembert, 1717年~1783年)による「百科全書L'Encyclopédie, 正式には L'Encyclopédie, ou Dictionnaire raisonné des sciences, des arts et des métiers, par une société de gens de lettres, 1751年~1772年)」編纂を背景に成立した「権力をも統制する天理」に帰依した理神論(deism)にそれぞれ帰結する。

    近世日本の法観念を表しているとされる法諺。その意味は例えば江戸時代中期の故実伊勢貞丈が遺した「貞丈家訓」に「無理道理に劣位し、道理法式に劣位し、法式権威に劣位し、権威天道に劣位する」と端的に述べられている。

    • 道理の通らぬ事。
    • 人々がおよそ是認する道義的規範
    • 明文化された法令
    • 権力者の威光
    • 全てに超越する抽象的な天の意思

    儒教の影響を強く受けながら、権力者が法令を定め、その定めた法令は道理に優越するというリアリズムを反映したものであった。

    • 中世日本の法観念としばしば対比される。その時代にあっては基本的に最重視されたのが「道理(法源としての自然)」であり、「(明文化された自然法)」は道理を体現したもの、すなわち道理=と一体のものとして認識されていた。
      *ただしここでいう「法源としての自然」は「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」、すなわち(神秘的先祖起源譚などによって正当化される)伝統的在地有力者の地域割拠、教会組織や農村や都市や職人ギルドなどの王権からの自由を保障をも保証する法源として乱用されており、その決着は暴力で解決する「自助主義」もまた、まかり通っていたのである。まさしく「究極の自由は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマそのもの。

    • 権力者は当然、道理=に拘束されるべき対象であり、道理=は権力者が任意に制定しうるものではなかった。
      百年戦争(英Hundred Years' War, 仏Guerre de Cent Ans, 1337年/1339年~1453年)の過程で中央集権制を強めたフランス王家に対してフランス諸侯連合が叛旗を翻した公益同盟戦争(1465年〜 1477年)において大義名分として掲げられた「公益」もまた、こうした中世的概念に立脚する内容だったが、フロンドの乱(Fronde, 1648年~1653年)同様に中央集権化に抵抗する諸侯連合は常にまとまりに欠け、連帯して動くどころか内ゲバに流れやすく、勝手に自滅していくのである。

      江戸幕藩体制でいうと、末期に模索された「雄藩連合体制」が近いとも。

    こうした中世期の法観念が逆転し、権力者が優越する近世法観念の発生したことを「非理法権天」概念は如実に表している。

    理性の崇拝

    ③ところで欧州貴族の間ではローマ教会的イデオロギーから脱却するべく、盛んに古代ギリシャ・ローマ時代の古典が学ばれたが、これが欧州に伝わったのが(保守的な法学者達からの干渉から逃れたかったイスラム諸王朝の権力者達からのパトロネージュを受けた)アラビア哲学者の注釈書経由だった事、歴代フランス国王が(スペインとオーストリアを支配するハプスブルグ朝との対抗上)オスマン帝国と盟友関係を構築してきた事などが重なって、ある種の絶対王政優位論とイスラム文化優位論の融合が進行したのである。そう、近世欧州世界は必ずしもその全期に渡って欧州中心主義に立っていたとはいえない状態にあったのだった。その意味合いにおいてモンテスキューペルシャ人の手紙」出版には、マラトンの戦い(Μάχη του Μαραθώνα, 紀元前490年)やサラミスの海戦(Ναυμαχία της Σαλαμίνας, 紀元前480年)に従軍した古代ギリシャ悲劇作家アイスキュロスサラミスの海戦で敗北したペルシア人の反応を題材とするギリシャ悲劇「ペルシア人希Πέρσαι, Persai, 羅Persae, 初演紀元前472年, 散逸せずに現存しているギリシア悲劇作品の中では、最古の作品)」の影響が色濃かった事が窺える。

    まぁどの文化圏にも「隣の芝は青い」状態なら存在したといえよう。その一方で、かかる「我々の認識可能範囲外を跋扈する絶対他者」に統一的アイデンティティを求める心の働きは、現実世界には絶対存在し得ない「傴僂せむしで鳩胸の怪物」を量産してきたともいえそうなのである。

  • パメラ(1740年~1741年, サミュエル・リチャードソン) / 新エロイーズ(1761年,  ジャン=ジャック・ルソー) / 若きウェルテルの悩み1774年, ゲーテ)…かくして殆ど必然性を帯びて書簡体形式の「恋愛ロマン主義文学」が成立。

  • 危険な関係1782年, ラク)…「恋の駆け引きについての描写が、本格的な(軍事的な意味での)心理戦の域にまで到達している」なる当時特有の奇妙な絶賛は、物語詩「ヴィーナスとアドーニスVenus and Adonis, 1593年)」同様、芝居封切りが禁止されていたロンドン・ペスト流行期において(イタリア・ルネサンス文化の英国への導入者の一人と目される)ウィリアム・シェイクスピアが純粋な出版物として刊行した物語詩「ルークリース凌辱The Rape of Lucrece, 1594年)」を連想させる。

    危険な関係(Les Liaisons dangereuses , 1782年) - Wikipedia

    フランスの作家コデルロス・ド・ラクロによって書かれた書簡体小説。18世紀後半のフランス貴族社会を舞台に、貴族社会の道徳的退廃と風紀の紊乱を往復書簡という形で活写した。なお、ラクロの本職は職業軍人であり、恋の駆け引きの描写は本格的な(軍事的な意味での)心理戦の域にまで達していると評される。

    構造主義的立場に立つジョエル・ファインマンは、この作品に伝統的詩論を根本から脱構築したものだと主張している。

    • ファインマンはこの詩の悲劇的な事件の動機となったのは夫コラタインの誇張されたルークリースへの賞賛であったことに着目する。それはコラタインの「ルークリースを支配する自慢」に他ならず、それがタークィンの野卑な欲望に火を点けた。ルークリースが実際に貞節であるというより、コラタインの賛美がルークリースに「貞節の名」を与え、犯罪を誘発したのである。ファインマンの解釈では、コラタインの賛美は逆説的に賛美した妻をのみならず、修辞的な賞賛自体の全一性をも滅ぼす状況を作ったわけである。
    • さらに詩自体がコラタインの運命的な賛美のレトリックと共犯関係にある。「凌辱の対象」ルークリースがあたかも芸術作品のように描写され、物質的富のようにオブジェ化される一方、「凌辱の主体」タークィンの行為はまるで難攻不落の要塞を攻略しているかのように描かれ、さまざまな肉体的特質が征服されていゆく過程でも同じレトリックが執拗に用いられ続ける。

    この様にこの作品の言語的過度さは、純粋な理想化に向かうレトリックの伝統を崩壊させる言語の具体性をその中に持つ新しい詩の兆しであった。  

  • ヒュペーリオン (1797年 - 1799年、ヘルダーリン)…当初は「中二病患者の為の、中二病患者による、中二病患者の中二病的成長譚」という側面が強かったドイツ教養小説を代表する作品の一つ。神秘主義への傾倒が悲劇的最後に結実したり、それを仄めかしつつ未完に終わる事が多かったが大衆小説化の過程で「現実的成長に結びつく」ハッピーエンドを迎える様に…

    ヒュペーリオン(Hyperion、第一部1797年、第二部1799年) - Wikipedia

    フリードリヒ・ヘルダーリン書簡体小説で。正式な題は『ヒュペーリオン、あるいはギリシャの世捨て人(Hyperion oder Der Eremit in Griechenland)」。ヘルダーリンの残した唯一の小説作品でもある。ギリシャの一青年が祖国解放戦争や女性への愛などを経て祖国の自然に目覚めるまでを描く。

    1792年から書き始められ、何度も改稿を重ねている。その間ヘルダーリンは家庭教師先の女性ズゼッテ・ゴンタルトSusette Gontard)夫人と出会って恋愛関係を持っており、彼女をディオティーマ(プラトンの『饗宴』に登場する、ソクラテスに愛の本質を示したマンティネイアの女性祭司の名)と呼んで小説の中のディオティーマのモデルにしている。

  • フランケンシュタイン (1818年、メアリー・シェリ)…当時のロマン主義文学に登場する灰汁の強いキャラクターは、その多くが怪奇小説に登場する怪物の題材とされたがその代表例の一つ。

そういえば「口語英文学の祖」ジェーン・オスティンもまた、最初期には書簡体小説を執筆したりしてるんですね。