諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【サン=シモン主義】「フランス的なるもの」=「ゴール人=グランゼコール的なるもの」+「フランク人的なるもの」と置いた場合の残滓、すなわち「ノルマン人的=リベラルアーツ的なるもの」について。

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今回の投稿の出発点はこれ。

これへの意見。

ここに乱入。

しかし皮肉にも、こうした考え方の突破口もまたフランスから現れるのです。

ここでいう実証主義(Positivism)は「いかなる形而上学的概念にも寄らず科学的に経験可能な範囲によってのみ構成されている」なる科学主義的俗流でなく「限界効用逓減(Diminishing Marginal Utility)の超克統計学的分散範囲維持による多様性確保絶えず新要素が追加され続ける事に対するパラダイム保守過程などを(建前上)超越した一貫したスタイルで捌き続ける事」なるフランス伝統主義的原義によって定義されるものとします。そしてこうした全体構造こそが「(ヘーゲル流にいう)現代の時代精神」であるという信念によってのみ人類は「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制(土地運用だけでなく資源や交易権の排他的独占によってもこれに類する権威体制は存在し得る)」と文化実証主義や(その部分集合としての)科学実証主義に依らずその正当性を説明しようとするあらゆる陰謀論疑似科学の類をその枠組みの外側に排除出来るのです。

要するにフランスにおいては「リベラルアーツ的なるもの」に対抗する形で「(エコール・ポリテクニークに代表される)グランゼコール的なるもの」なる概念が台頭。

  • まさに私が「地獄から帰ってきた懐かしのアライさん」に言わせた「教養で文明と戦わなくなったインテリなんて、ネズミを獲らなくなったイエネコと同じなのだ。人類に可愛いと思われなくなった途端、このアライさんと同じで駆除指定生物の仲間入りなのだ(You,Intelligentsia…are house cats no longer catch mice, if you no longer fight civilization with your cultivation. And you will join vermin lank like us, if they  are no longer considered you Kawaii.)」なる台詞における「教養」概念と「文明」概念の衝突に対応する。「文明」はただひたすら現実主義的であるだけで人間を救済するとは限らない。この部分を補完しないなら「その外部(にしか存在し得ない諸概念)」を代表する「教養」に存在意義はないという考え方。

リベラル・アーツ(文法学・修辞学・論理学・算術・幾何学天文学・音楽)」の由来は複雑であり、簡潔に説明するのは専門家でも困難とされる。

  • 英語の「リベラル・アーツ(liberal arts)」の語源は、ラテン語アルテス・リベラレス(artes liberales)」である。これは古代ギリシア語「エンキュクリオス・パイデイア(ἐγκύκλιος παιδεία)の翻訳であった。
  • ラテン語アルテス(単数形: アルス, ars)」はギリシア語「テクネー(τέχνη)」にも対応する。古代ギリシアにおいて「パイデイア」は「教育」や「教養」、「テクネー」は「技術」や「学芸」を意味し、どちらも多義的かつ重要な語だった。傾向としては、「パイデイア」は自由人のもの、「テクネー」は職人奴隷のもの、という意味合いがあったが「テクネー」の内でも伝統的に修辞学(弁論術)などは自由人のものとされてきた。

この様な背景下「エンキュクリオス・パイデイア」なる語が(プラトンが『国家』第7巻で説いたような)基礎諸学科を指す語として使われたのである。

  • プラトンは、体育(古代ギリシアにおける体育)やムーシケー(文芸や詩歌、古代ギリシアにおける音楽)に加え哲学的問答を学ぶための準備として、17~18歳までの少年時代に、算術幾何学天文学を学ぶ必要があると説いた。プラトンによれば、これは職人のための学問とは区別される哲人国家論における統治者のための学問とされたのである。
  • プラトンの学園アカデメイアでも、同様の基礎諸学科すなわち「エンキュクリオス・パイデイア」が学ばれた。ただし「エンキュクリオス・パイデイア」の語はヘレニズム哲学の諸派においても使われ、含まれる学科もまちまちだった。
  • 古代ローマにおいては、キケロ発想論」「弁論家について」、セネカ倫理書簡集」第88書簡、ウァッロの佚書アウグスティヌス秩序論」など、様々な文献で「アルテス・リベラレス」や類似表現が使われたが、当時はまだそれを構成する学科がまちまちだった。例えばキケロ弁論家について」第3巻127節では、エリスのヒッピアスの言葉を引く形で「自由人にふさわしい高尚な学問(liberales doctrinae atque ingenuae)」として幾何学音楽文学詩人の薀蓄自然学倫理学政治学を挙げている。ちなみにキケロプラトンと異なり哲学よりも修辞学を上位のものとしていた。
  • 5世紀~6世紀(古代ローマ末期・中世初期)になるとマルティアヌス・カペッラカッシオドルス、ボエティウスら複数の人物が、後の「自由七科(セプテム・アルテス・リベラレス、septem artes liberales、七自由学芸)」に含まれる七科を決定付けた。カペッラは「フィロロギアとメルクリウスの結婚」で、文法学修辞学論理学算術幾何学天文学音楽の七学科を擬人化した。カペッラは上記のウァッロの影響を受けていた(ただしウァッロは七科ではなく九科としていた)。カッシオドルスは「綱要」第2巻で「アルテス・リベラレス」の語源を説明した上で、カペッラを意識しつつ同じ七科をあてた。ボエティウスは「三位一体論」などで、カッシオドルスと同様の学問分類を行った。
  • 8世紀~9世紀(カロリング朝ルネサンス)になるとカール大帝の学問振興政策により、自由七科が教育の根幹に位置づけられ、アルクインアルス・グラマティカ(文法学)」などで自由七科が論じられた。
  • 10世紀には教皇シルウェステル2世ボエティウスの影響のもと自由七科を扱った。
  • 12世紀ルネサンスにはシャルトル学派のテオドリクス(シャルトルのティエリ)が「ヘプタテウコン(七自由学芸の書)」を著した。
  • 13世紀大学(ストゥディウム・ゲネラーレ)が学問の中心地になると神学部法学部医学部に進む前の学芸学部(哲学部や教養学部とも)で自由七科が教えられた。1215年には教皇特使ロベール・ド・クールソンによって、自由七科の最初の体系的カリキュラムが示された。

また中世初期から「アルテス・リベラレス」と対になる「アルテス・メカニカエ(artes mechanicae)」も理論化された。12世紀サン・ヴィクトルのフーゴは「ディダスカリコン(学習論)」で織物制作武具製造商業農業食料生産医術演劇の七技芸を「アルテス・メカニカエ」と称している。

最古のグランゼコール国立土木学校であり、1747年ルイ15世の勅令によって、国家建設に不可欠な土木・建築領域におけるテクノクラート養成を目的として創立された。現在名門とされるグランゼコールの多くは18世紀に設立された。これらの歴史の古いグランゼコールの殆どが理工系技術者の専門職養成学校である。これは、フランス革命によって貴族制が否定され、新国家再建のために高度な専門知識・技術を有する人材が求められたのに対して、フランスの大学はリベラルアーツ教育を目的としており、実学の職業教育を行う機関が存在せず、それを国家が用意する必要があったためである。その後、理工系グランゼコールを卒業した者は、フランスの富国強兵政策の技官として、また富国強兵政策の立案者としての役割を担ってきた。

理工系のグランゼコールが充実すると、商業系のグランゼコールも設立され始める。しかし、この時期に設立されたグランゼコールが現在のような専門分野での地位が高まるのは、第二次世界大戦後になって、現在国際的にも知られているフランス国立行政学院が設立されて以降のことである。

すごくゴチャゴチャしていて複雑怪奇ですが、まさにかかるフランス的韜晦を、フランスが近世から近代に移行する過程で以下の様にスッキリとまとめたのが「唯物史観提唱者たるカール・マルクスすらこっそり援用したサン=シモンの偉業だったのです。

  • フランスにおけるランツィエ(rentier、王侯貴族や聖職者の様な「不労所得階層」あるいは「地税不労所得階層」)すなわち「(産業革命がもたらした大量生産・大量消費スタイル導入によってその他大勢に消費者代表の座を譲り渡した)伝統的インテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層」を「ノルマン人的なるもの」と要約する。乱暴だが「フランス革命ナポレオン戦争の時代(1789年~1815年)」以降、とりあえず(叙任権闘争から派生した)教皇派VS皇帝派の党争(南イタリア争奪戦を経て神聖ローマ帝国皇帝空位時代に突入。ハプスブルグ家台頭によって終焉)、ビザンティン帝国の興亡(十字軍運動やアンジュー帝国の興亡と連動し英仏百年戦争終結コンスタンティノープル陥落によって終焉)、ハプスブルグ君主国とフランス王国のイタリア争奪戦(大航海時代到来によって欧州経済の中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に推移した事によって継続の意味が消失)、宗教戦争(カソリック連合とプロテスタント連合の衝突という形で始まったがウェストフェリア条約(1648年)締結によってフランス絶対王政スウェーデンといった外野が漁夫の利を得る形で終わる。ただしその後スウェーデンはその座を帝政ロシアに明け渡し、フランス王国フランス革命ナポレオン戦争の時代に自滅。最終的に大英帝国が漁夫の利を得る)といった「形而上学的観念に振り回された時代」にまで遡って考える必要がなくなったので、それで良しとする。

  • その一方でフランスにおけるそれ以外の要素を「産業者(実際のフランスにおける「日常」を支えてきた非不労所得階層)=ゴール人的なるもの」と要約し、その大同盟を提唱する。ここで重要なのは、かかる新体制を実証主義(Legal Positivism)の法源となる「(国家の体裁を保つのに十分なだけの火力と機動力を備えた常備軍や警察を中央集権的官僚制による徴税で養う)主権国家体制(Civitas Sui Iuris)の国際協調」と置いた為、産業者概念がテクノクラート(技術官僚)や軍人金融業者裁判官法律家徴税使管財人などを含む大集団に膨れ上がり、マルクスが想定した様な「(資本家と労働者に大別される)単なる生産従事者」だけに止まらなかった事、さらにいうならそこで知識階層に超越する地位を与えなかった事である。これを嫌がってオーギュスト・コントは袂を分かち「科学者独裁体制(ただしその頂点に立つのは実証主義哲学者でなければならないとした点で哲人政治の伝統を継承)」を提唱。しかし皮肉にもオーギュスト・コント自身はエコール・ポリテクニーク中退者である事を自らの権威付けに利用しており、かかる「グランゼコール的なるもの」の大幅な定義拡大による「リベラルアーツ的なるもの」の大幅な定義縮小なる全体構造においてはあくまで「恩恵を受けた側」に分類されるのである。

  • その一方でオーギュスト・コントサン=シモンと袂を分かつに至ったもう一つの原因、すなわちその「王政は、それが産業者同盟内部における(および諸外国との協調体制における)利害関係の調停者の立場に徹するなら存続を許される」なる立憲君主制を容認する立場においては「自らを要素として含まない集合の集合(例えば「犬種リスト」における「犬そのもの」の概念)は自分自身を要素として含むかどうか決定できない」と考えるラッセルのパラドックスが炸裂する。実際「シャルルマーニュの血統を継ぐ元貴族」としてのサン=シモンの思想は第三の民族的立場として「(全体の統治者としての、例えばそれこそカール大帝による治世を理想視化した様な)フランク人的なるもの」を容認し、むしろあえてその隙を「(先代「平等公フィリップ(Philippe Égalité)」の名乗りを継承した)フランス国民の王ルイ(roi des Français)」や「馬上のサン=シモン(Un Saint-Simon à Cheval)」皇帝ナポレオン三世に突かせる事によって公的政策として実践される機会を得たのとも考えられる訳である。

    ラッセルのパラドックス

    ラッセルの集合をイメージにすると次のようになるのではないだろうか。すなわち、「自分自身ではないものが詰まったいろいろな箱を集めてせっせと1つの箱に詰めていて、ふと気がつくとその箱自体が自分以外のものを詰めこんだ箱だった。」ということである。そうして、こういう箱に、自分自身でないものが詰まった箱「全て」を詰めこむのは不可能なのである。

    この問題は「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」からの脱却を考える場合に必ずつきまとう。逆にいえば「農業、漁業、工業、商業それぞれの分野から代表を招集しただけの議会になんて、到底国家の運営は任せられない(フローベール感情教育(L'Éducation sentimentale,1864年~1869年))」という不信感をどう克服するかという話であり、共産主義はこの問題を克服する為に「共産主義精神を注入された共産党員が他の全労働者を代表する民主集中制(Democratic Centralism)概念を方便として生み出したが(オーギュスト・コントの「科学者独裁」構想はそういう形で実践の機会を与えられたとも考えられる)、実際には(党首が党員間の利害調整機能によってその能力を図られ、無能だと党員から罷免される構造を備えていないが故に)より酷い独裁体制が顕現する事を証明しただけに終わってしまう。

この様に(フランスへの産業革命導入なる偉業を成し遂げた)サン=シモン主義を「フランス的なるもの(実証主義と経済実証主義を担保する主権国家とその国際的協調体制)」=「ゴール人的=グランゼコールなるもの(実際の生活者=非不労階層)」+「フランク人的なるもの(カール大帝の治世の理想視)」と図式化した場合、それが失敗した場合の担保として外部に捨て置かれた残滓は自明的に「ノルマン人的=リベラルアーツなるもの(上掲のシステム運営に直接関わらない不労階層)」と規定される展開を迎えます。

ああ、なるほど…

地獄から帰ってきた懐かしのアライさん教養で文明と戦わなくなったインテリなんて、ネズミを獲らなくなったイエネコと同じなのだ。人類に可愛いと思われなくなった途端、このアライさんと同じで駆除指定生物の仲間入りなのだ(You,Intelligentsia…are house cats no longer catch mice, if you no longer fight civilization with your cultivation. And you will join vermin lank like us, if they  are no longer considered you Kawaii.)」

ここでいう「教養」が「ノルマン的=リベラルアーツなるもの」、「文明」が「ゴール人的=グランゼコールなるもの」に対応すると考えれば良さそうですね。そもそも「(ビサンティン文化やアラビア文化の先取者であったうちだけ敬われた)ノルマン人」なる表現自体に「閉世界仮説に従うなら本来は空たるべき全体集合の補集合に次々と現れる新要素を一貫したスタイルで捌くフランス的実証主義の精神が埋め込まれていると考える? 

一方(第日本帝国同様にサン=シモン主義を継承した)ドイツ帝国はまた別系統の「王党派イデオロギー」台頭に悩まされる時代を迎えます。

また何だかややこしい話が…