諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「反安倍」路線の大源流は「ナチ曽根降ろし成功」へのノスタルジーの産物?

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1930年代におけるナチスの政権奪取。それは結局のところNSDAPと「左翼陣営」が共闘してソ連コミンテルンから「社会ファシズム(独Sozialfaschismus、英social fascism)」のレッテルを貼られたヴァイマル共和制を打倒する事によって達成されたのです。
*ただしこうした展開があくまでヴァイマル共和制のルール占領(1927年)や世界恐慌(1929年)への対処失敗、およびその展開に対する国民の失望と表裏一体の関係にあった事を忘れてはならない。ドイツ近代史の研究家いわく「当時のドイツ国民は、あくまで自ら好き好んで率先して犬肉ソーセージに群がった訳ではない」との事。要するに他に選択肢がないほど、当時のドイツは外交的経済的に追い詰められていたのだった。

歴史のこの時点においては既にヴァイマル共和制も(カール・シュミットが絶賛した)「大統領内閣制」と呼ばれるある種の強権的独裁体制に変貌していた。

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  • 要するに歴史のこの時点に至るまでに既にドイツにおいては議会制民主主義が滅んでいた。既に、手段を選ばぬ党争のみが政治の全てとなっていたのである。

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  • こうした状況に思いを馳せれば、以降の展開は単なるエピローグに過ぎなかった現実が浮かび上がってくる。①「ヴァイマル共和制=社会民主主義支持派」脱落に続いて「神聖ローマ帝国時代の分封状態の回復や労働者自治を指向する)無政府主義勢力」と「(民主集中主義を標榜し、ソ連コミンテルンの指示に忠実に従おうとする)共産主義勢力」に分断された左派が各個撃破され、「伝統的人間中心主義=個人崇拝(Tradisional Humanism)に立脚する指導者原理(Führerprinzip)」を標榜したNSDAPが最終勝者となる。②そうした展開を軍事的に支えてきたドイツ突撃隊(Sturmabteilung:SA)内の左派シンパもまた「長いナイフの夜事件(Nacht der langen Messer、1934年)によって粛清される。
    突撃隊 - Wikipedia
    長いナイフの夜 - Wikipedia

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    *ドイツ突撃隊を見舞った悲劇は、フランス革命勃発前夜よりずっとブルボン家打倒の機会を虎視眈々と狙ってきたオルレアン家がフランス7月革命(1830年)に実動部隊として投入した炭焼党(イタリア語カルボナリ(Carbonari)、フランス語シャルボンヌリー(Charbonnerie))内の急進共和派が、その後六月暴動(1832年)によって一斉粛清された歴史展開と重なる。フランスにおいてはこうした流れが2月/3月革命(1848年〜1849年)に連動した6月蜂起(1948年)、普仏戦争(1870年〜1871年)敗戦に伴う共和制への移行に連動したパリ=コミューン殲滅といった形で繰り返されていく。

ソ連本国と衛星国モンゴルにおける大粛清(露Большой террор、英Great Purge)によって独裁体制を樹立しつつあったスターリンは、こうした「ドイツでNSDAP勝利していく過程=社会民主主義や集団指導型共産主義が敗北していく過程」に大いに励まされたという。

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*その一方で共産主義者はこれ以降、ナチスを絶対悪の象徴としてあらゆる弾劾に利用する様になった。「(身内と思って油断していたら、突如として裏切られ、殲滅され、全資産を押収された)背後の一突き(Dolchstoßlegende)」が与えたトラウマは、それだけ深かったのである。

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*ところで同時期(ヴァイマル共和政を軍事的に支えてきた)フライコール(Freikorps、ドイツ義勇軍)の末裔達、すなわち「ドイツ右翼」は何をしていたのだろうか。千坂恭二によれば「国内亡命」によって生き延びたのだという。

そして「歴史は繰り返す。1度目は悲劇として。2度目は喜劇として」?

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時代は「(国家間競争が全てだった)総力戦体制期(1910年代後半〜1970年代)」から「(主体を官から民に移しつつ、総力戦体制期の衣鉢を継いで国家総動員を志向した)産業至上期」を経て、いわゆる「(インターネット普及による個人間の直接交流トラフイック増大を背景とする)多様性容認期(1990年代〜)」へ。しかしながら「他人の自由」が何より嫌いな極右や極左はこうした流れについていけず、互いに殴り合いながら「今日なお戦時下」を強調し、世界を一昔前の画一的な時代に戻そうと懸命な努力を続けている様に見受けられるのでした。

 

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【雑想】やはり日本人経営者には分析能力が欠如している?

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(高度な分析を経た上での)選択と集中」なら分かります。経営者のセンスが問われるのは、まさしく「何にリソースを集中する」なのですから。だが、ここでまさか「欲しがりません勝つまではイデオロギーが飛び出してくるとは!!

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*そういえばウォルト・ディズニー制作が制作し1943年にアカデミー賞短編部門を受賞した「総統の顔(Der Furher's Face、1943年)」も同様のテイストの作品。

これだから日本人は「兵士は兵士以上、指揮官は指揮官以前」なんて言われてしまうのでしょう。もはや、ある種の共依存関係? 案外、現在のマスコミの手段を選ばぬ安倍政権叩きも「鬼畜米兵、撃ちてし止まん!!」という戦い方しか知らないが故の必然的選択に過ぎないとも。

出展は古事記の神武東征の中に出てくる歌謡、「みつみつし 久米の子が 頭椎 石椎もち 撃ちてし止まむ 」に起源をもつが、これが大々的にPRされたのが、1943(昭和18)年第38回陸軍記念日である。

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陸軍省は、この日に備え、2月23日に、5万部のポスターを全国に配り、当日一斉に掲げるよう支持した。この日のために、2月23日東京・有楽町の日劇ビル壁面には、約100畳の大きさの「撃ちてし止まむ」の大写真ポスターを掲げ、この日、多くの市民の見守る中陸軍軍楽隊が「愛国行進曲」などを演奏。唱和する場面もあったという。

大画面の写真を撮影したのは、金丸重峯。二人の兵士が敵陣に突入する瞬間をとらえていて、悲壮感漂う迫力満点の出来栄え(この時の画像が冒頭に貼付のもの)。又、陸軍兵士が銃剣をかざして星条旗を踏みにじり敵陣に突入する絵のポスターは、画家宮本三郎が描いた。そして、「撃ちてし止まむ」は資生堂歯磨やマツダランプなど民間の広告にも盛んに使われるようになる。しかし、内閣情報局の指示で戦意高揚のスローガンの方を大きくし、自社の名や商品名を小さくしなくてはならなかった。この「献納広告」にしか、許可が下りなかったのだ。(朝日クロニクル「週刊20世紀」)。

1938(昭和13)年には国家総動員法が成立し国民は一致団結して、難局に立ち向かうことを求められていたが、更にこれ以降、国内では臨戦態勢が一段と強化されることになった。それはとりもなおさず自由な商業活動と消費の抑制、縮小を意味しており、広告もまた本来の機能と活動の場を失って冬の時代を迎えたのである。

「献納広告」と言うのは広告主が新聞などのスペースを買い上げ自社の商品広告ではなく時局にあったメッセージを掲載するという臨戦体制下ならではの広告形態である。かつての華やかな嗜好品・贅沢品などの広告が姿を消し、広告の大半を日用品などが占めるようになった。

ある意味、これこそがまさに(国家間の競争が全てだった「総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)」の衣鉢を継いで「国民総動員体制」樹立を目指した)産業至上主義(1960年代〜1990年代)」が必然的に辿り着く終末的景色だったとも。

司馬遼太郎は「大日本帝国を暴走に追い込んだのは軍人と官僚。しかしながら太平洋戦争敗戦によって「軍部」は解体され「自衛隊=純粋に国家や国民が必要とする危機管理サービスの供給のみを心掛けるプロフエッショナル集団」に生まれ変わり、その残滓はむしろ(内務省的体制を濃厚に残したままの)日本政府の官僚制に継承される事になった」を持論としていた。しかし実際に大日本帝国を暴走に追い込んだのは軍人と官僚とメディアであり、最後のそれこそがまさに歴史の現時点における「最後の牙城」になってしまったとも。

*そういえば朝日新聞の経営陣は太平洋戦争敗戦直後、真っ先に「新聞社の第一の使命とは社員を食べさせていく事にあり、その崇高な理念ゆえに戦時下において遂行されたあらゆる国民向けプロパガンダについて一切の責任を負う必要がない」なる声明を発表。さすがにそれでは社内の執筆陣の収まりがつかずある種の革命騒ぎが勃発したが、オーギュスト・ブランキも指摘している様に革命なるもの、体制転覆に成功した瞬間から(次の革命勢力に狙われる)保守派への転向を余儀なくされるものとも。

あまり知らない人が多いと思うが、朝日新聞は業界では珍しい民主集中制である。たとえば慰安婦問題で「強制性を糾弾する」という方針を社として決めると、それに反する記事は許さない。マニュアルをつくって研修をやり、それ以外の立場で原稿を書かないように教育する。

これはいい面もある。多様な言論がある中では、朝日が反政府の方針を鮮明に出し、その方針がいやな記者はやめればいい。しかし現実には、日本の労働市場にはそういう流動性はないので、社の方針についていけない記者は面従腹背の左翼になる。「非武装中立」の論陣を張った阪中友久編集委員は、毎日、皇居に遙拝していた。

読売は渡辺恒雄主筆の独裁体制だが、あれほどわかりやすいと記者も対応しやすいし、彼の意見は(政局以外は)常識的だから、現場の評判は悪くない。クレームをつけられたら、すべて「ナベツネのせい」といえばいいからだ。NHKは、よくも悪くも大勢に従う以外の社論はない。だから逆に、最大公約数を代表する池上氏の行動が大きなインパクトをもつのだ。

はっきりいって、業界では朝日だけが狂っている。それも特定の独裁者ではなく、社内の左翼的な「空気」が暴走している(地方紙はそれをまねている)。これに歯止めをかけるのは、現場の「下克上」しかない。
*これが2014年段階での記事。そして現状を鑑みるに…

何たるテロメア(telomere)めいた因果応報…

むしろ「革命家にとっては革命家による革命の為の革命の継続が全て(大衆の支持など終始当てにしない)」としたオーギュスト・ブランキの「一揆主義(Putschism)」あるいは「革命永劫回帰」の反合理主義的(反資本主義的/反議会民主主義的)ニヒリズムの方が時代を超越した生命を獲得するという奇妙な展開。
反合理主義的(反資本主義的/反議会民主主義的)ニヒリズムアルベール・カミュAlbert Camus、1913年〜1960年)が19世紀政治的ロマン主義について述べた「神のみに向けられる利己的ダンディズム」に該当。「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマからの脱却を狙う動きの一環で、オーギュスト・ブランキはこれを天体運動に擬えたし、その精神はある意味ドーキンスの「利己的遺伝子論」へと継承される展開となった。

利己的遺伝子とは

オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』書評:阿部重夫主筆ブログ:FACTA online

そしてもちろん、こんな戦い方では支持者の数に物を言わせる政治的勝利は見込めないという次第…

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【雑想】「子供は大人の実際の振る舞いを模倣しながら成長する」?

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よく「子供は大人の教える事を覚えるのでなく、大人の実際の振る舞いそのものを模倣しながら成長する」といいます。発想の原点はタルド模倣犯罪学あたり?
1318夜『模倣の法則』ガブリエル・タルド|松岡正剛の千夜千冊
発達からみた、子どもの「模倣」の重要性 | NPO法人 療育教室 楽しい広場

さて、こうした時代の子供達はどんな大人に育つのでしょう?

 ある意味こういう流れ(党争の純粋化)の進行が「ナチス再来」を準備したりするものです。「(他者同士の衝突を不可避とする)個別的なるものへの多種多様な執着心」を完全に捨て去る事に成功すれば、後に残るのは単なる人間の抜け殻だけ?

【七夕の国】「残念ながら、お前の手は決っしてそこまで届かない」?

何たる一コマ漫画としての完成度…そしてそれがもたらす完膚なきまでの絶望感…

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「流産」を連想させる不吉な響き。千反田「江流」も泣いている?

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*ちなみに原作はむしろ千反田「江流」側を「地獄」に突き落とす展開に。これこそがまさしく「ファンなら誰でも知ってる」米澤穂信ワールドなの?

何故か脳内でこの曲が再生されました。

涙に Turn again!!

昨日を数えて眠るなよ!!

振り返るたびに cry ダメになるのさ!!

風のDestination(届け先)!!

朝のDestination(届け先)!!

ゴールなんてなくていいのさ、星を掴もう!!

 そして同日話題となったのがこれ。

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古代ギリシャ神話形成史①「スケリア島の王女ナウシカ」から「風の谷の族長の娘ナウシカ」へ。

ある意味、古代ギリシャ神話の世界には、日本神話における「古事記(712年編纂)」や「日本書紀(720年)」の様な決定的文献に欠けています。

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*この条件は北欧神話アイルランド神話における「ある時期まとめて筆記された口承伝承群」も満たしてはいないし、日本の神界における秩序も「新撰姓氏録(815年)」までに様々な変遷を経ていたりする。

『新撰姓氏録』氏族一覧

逆を言えば、むしろ堂々と各時代ごとに全く異なる形で「民族統合の柱と為す為の強引な編纂」が行われてきたが故に「全時代を貫く神話的本質」と「各時期において支配的だった政治的状況」の分離が比較的容易なのが研究者にとっては魅力の宝庫というべきなのかもしれません。それでは「全時代を貫くギリシャ神話の本質」とは?

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【雑想】「典型的ナチス論法」について。

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オーストリアの名家出身で、実際にナチスからの迫害を受けて英国への亡命を余儀なくされたピーター・ドラッカーは「正義の絶対的批判者」の仮面を被る一方、自らへの言及は決っして許さないのがナチスの典型的やり口と断言し、これに反駁する形で自らのマネージメント理論を構築してきました。

まぁこの手口で(ソ連コミンテルンから「社会ファシズム」のレッテルを貼られた絶対悪たる)ヴァイマル共和制をドイツの共産党共闘して打倒した後、さらに「共産主義者が政権側に存在していいと思いますか?」 と問題提起して彼らをも粛清。以降共産主義者達の間には「ナチスこそ真っ先に倒すべき絶対悪」というイメージが刻み込まれる事になったのです。いずれにせよ気付いたら国民の選択肢は NSDAPしかなくなっていたというのが当時の実情だったという次第。

ナチスは色々酷い事もやらかしたが、実は政党としてのナチス自体にはどれほど独善性はなく、その独善性がどこから来たかが問題だったりする。

*上掲のピーター・ドラッカーの回想で最も興味深いのは(比較的リベラル寄りながらそれまで熱狂的にナチスに協力してきたのに、後に「長いナイフの夜(1934年)」であっけなく粛清された)SAの隊員から「君には一緒に最後まで戦い抜いて欲しい」と申し出られた時に最もゾッとしたという記述。おそらく彼の目には既にSAが必然的に辿り着く破滅的未来が既に見えていたのであろう。(7月王政期はオルレアン派として繁栄を甘受した)ヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル(Les Misérables、1862年)」が称揚した六月暴動(1832年)と同種の構図。「民衆の歌(Do You Hear the People Sing?)」など歌った方が負けなのだ?

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【雑想】「最後の民進党支持者」をまとめて薙ぎ払う捨て身のブーメラン?

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またもや民進党が捨て身で渾身のブーメランを放った模様?

民進党蓮舫代表は4日の党会合で、「最前線で引き続き頑張りたい」と述べ、代表を続投する意向を表明した。

蓮舫氏は会合で都議選について「極めて深刻で、非常に残念な結果となった」と反省の弁を述べたうえで「猛省をし、厳しく総括をして改善していきたい」と続投を表明。会合後、記者団に「地方選なので、直接的に責任をどうこうとは考えていない」と強調した。

早々の続投表明に、党内からは不満の声も上がっている。加計学園疑惑調査チーム共同座長を務める桜井充政調会長は4日、記者団に「執行部が誰も責任を取らないのはおかしい」と批判。同日開かれた旧維新の党の松野頼久衆院議員らのグループ会合では、蓮舫氏らの責任論が噴出した。

都議選投開票日の2日には、憲法改正の議論停滞などを理由に藤末健三政調会長代理が離党届を出したばかり。民進党は、自民党惨敗に乗じ、政権批判を強めるが、足元はぐらついている。
*こうした展開が「安倍政権は都議会選における歴史的敗北の責任をとって総辞職すべし」なる声を打ち消した。彼らが「安倍政権打倒を目指すのは良いとして、代案はあるの?」と問われて自暴自棄に陥り「まずそんな屁理屈を捏ねて我々の正義に逆らう輩を一人残らずガス室送りにするのが我々のナチズムとの戦い方なのだ!!」と言い出したのもさもありなん。

なんだか「安倍政権をヒトラー自民党ナチスと弾劾する日本共産党独裁」みたいな構図とぴったり重なってくる様です。 

日本共産党委員長志位和夫は2,000年から委員長やってます。16年間、日本共産党のトップだったわけです。この間、改選はありませんでした。

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党首に任期無く、改選を動議する党員もおらず、党首選挙は無い。実質、この人がやりたいだけ党首をやってられるのです。これは、一応トップに任期がある中国共産党より、独裁色が強く、北朝鮮ポルポト時代のカンボジアのような有様となっています。
*というより中国共産党ベトナム共産党といった「現存し、かつそれなりに国際協調体制下で成功を収めている共産主義国」において、むしろそんな展開は有り得ない。

和夫が党首になった2000年、共産党の衆議員は20名でした。今年は21名になりましたので、和夫の功績と言えば16年間で衆議員を1名増加させた、ということになるのでしょうか。

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16年やって1名増加が、そんなに功績なんでしょうか。一般共産党員はそのことに不満も言えないのです。もちろん、党首選が無いのだから、自分たちのリーダーは自分たちで選ぶ、という1票を行使することもできません。完全な独裁です。
*ちなみに文化革命当時「健全な愛国青年こそが国で最も尊ばれるべき」と考えて紅衛兵を組織した憤青の鬱屈したエネルギーは次第に遺伝子的優生論と結びつき、外国人や障害者排斥運動を伴う様になっていった(毛沢東が彼らの下放を決意した最大の要因の一つとされる)。その思考様式は北朝鮮に温存され、韓国の従北左派や日本の共産党系青年集団にも影響を与えているという。どうやら「若者の鬱屈を政治利用するだけで、その声に一切耳を傾け様としない権威主義的中央集権体制」は(その憤懣が自分達に向くのを恐るあまり)ガス抜きとして彼らのそうした「不道徳」を次第に必要悪と認めざるを得なくなっていくものらしい。ナチスを倒すのに手段なんて選んでいられないんだよ?

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*まぁ、かくして「健全者の自尊心をないがしろにする障害者対応の横行」を「一刻も早く撲滅すべき安倍ナチス政権独裁の弊害の一つ」に数える人達が現れる図式自体はソ連コミンテルンから「社会ファシズム」のレッテルを貼られたドイツ社会民主党(いわゆる「ヴァイマル共和制」)の政治的経済的無策に対する若者の憤懣を共産党NSDAP(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei、国家社会主義ドイツ労働者党)が吸収していったプロセスと重なるとも。

* まぁこの分野においては「傷痍軍人となって帰国するくらいなら名誉の戦士を遂げた方がマシ」が合言葉だった「大日本帝国軍国主義化を支えた近代右翼思想」も全然人の事が言えない側面が備わっていたりする。確かに「軍国主義」と「身障者保護」の間には切っても切れない共依存関係が存在するのである。

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江戸川乱歩「芋虫(1929年)」が軍部から睨まれたという話もさもありなん。現代人の観点からすれば、むしろ「右寄りからの批判も左寄りからの戦争の悲惨さ云々の賞賛も意に介してなかったってのがいい」という指摘も。

*そういえばマーガレット・ミッチェル風と共に去りぬGone With the Wind、1936年)」にも、南北戦争渦中において「年端もいかない南部の深窓の令嬢」達が真剣に「障害の程度次第によっては、既に聖戦参加の大義名分は果たしてるし、再徴兵もないしお得じゃね?」と傷痍軍人との結婚について真剣に話し合う場面が登場する。実際「戦場で下手に勇気を発揮して傷痍軍人として故郷に戻る羽目に陥入れば、残りの人生全てを棒に振る」では最前線の兵士の士気に関わる。それで様々な工夫が凝らされたし(「風と共に去りぬ」にも「傷痍軍人向け結婚斡旋センター」なんてのが登場する)まさにこの次元における駆け引きこそが「性選択の主体」たる女性にとっては当時の最前線だったのである。この辺のドロドロへの言及抜きに(国家間の競争が全てに最優先された)総力戦体制期(1910年代後半〜1970年代)は語れない。まぁ映画化(1939年)に際して、あっさり全削除されてしまった要素でもあるのだが「亭主元気で留守がいい」なる流行語の裏には、確実に「(子供の父親でもある)夫を、そう簡単に消耗品として使い潰されてしまっては困る」なる恋人/妻/娘の切実な本音が表裏一体を為す形でガッツリ組み込まれていたという次第

もしかしたら、全ての根源にあるのはベネディクト・アンダーソンが「想像の共同体(Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism、1983年)」の中で述べた「市民革命の理想視はむしろ現実のアメリカ独立戦争フランス革命の忘却によって成立した。かかる状況が現実世界に革命の可能性をもたらすと同時に、一旦実践に移された革命がその無慈悲さによって当時者を打ちのめす不毛な繰り返しを産んだ」ジレンマなのかもしれません。いわゆる「ブーメラン」は、既に歴史のそうした段階において仕込まれていたとも。
*それにしても、どうして必ず「人類は全て平等に扱われなければならない」なる崇高な理念はしばしば残酷無比の民族浄化に結びついてしまうのか? 実際「人類平等の理念を実現するには、特定の誰かを滅ぼさねばならぬ」という発想こそが「(王党派と教会支持者が蜂起したヴァンデ反乱を鎮圧する為に)女子供を優先的に襲って妊婦の腹を裂き赤ん坊を竃に投げ込むジャコバン派恐怖政治の代理人としての「地獄部隊」、ナチスユダヤ人に対するホロコーストポルポト派政権によるベトナム系市民への民族浄化の原動力となってきたのである。

さらなる悲劇は「特定の政治的苦境を解決する処方箋として登場する革新的思想の寿命が思うより短いのに対し、手段を選ばず伝統的思考様式の「最良の部分」を未来に継承しようとする保守的思想の寿命は思うより長い(ハンガリー出身の経済人類学者カール・ポランニー)」「いかなる革新的思想も、一旦政権奪取に成功すれば保守的思想への転落を余儀なくされる(「19世紀欧州において左右両陣営から最も危険視された一揆主義者」オーギュスト・ブランキ」といった達観への到達とも。

そして21世紀に入ると遂に「老兵は死なず。消え去りもしない」現実が浮上する展開に。「全体主義が猛威を振るった)20世紀に対するノスタルジー」の最後の残滓。

さて、こうした時代にあって「一刻も早く倒すべきナチス」なる罵倒語は何を表すスローガンへとして成長していく事になるのでしょう?