諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【火星の大運河】最初に盛り上がったのは1920年代〜1930年代?

そういえば江戸川乱歩が1930年代に発表した通俗小説にも「火星の大運河」の話が出てきたりします。記憶によれば確か「暗黒星1939年)」辺りにも…あれ、記憶違い?

江戸川乱歩「暗黒星」(講談社文庫)

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 「黄金バット紙芝居化1930年〜、貸本漫画化1947年〜)」の敵役「怪人ナゾー」の正体が宇宙人だったとしても何ら不思議ではない?
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*流石に(ナチス・ドイツ残党と手を結んだ)ナゾーの登場は1950年以降とも。

黄金バットの素晴らしさ

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まぁ火星については現在なお、こういう「事件」が…

後からのフォローが効かなかった様だ? 

【事象や言語ゲームの地平線としての絶対他者】「正しいものの味方」としての「モスラ」と「鉄腕アトム」

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60年安保の直後に撮影された東映特撮怪獣映画「モスラ1961年)」 …

  • 事象や言語ゲームの地平線としての絶対他者」がその座に留まり続けるのは、あくまでその振る舞いがどうやっても既存常識の範囲に収まってくれない、すなわち予測が次々と裏切られ続けるうちだけである。
    *わかりやすいのがマイケル・クライトンアンドロメダ病原体(The Andromeda Strain、1969年)」で「世代ごとに振る舞いが全く異なる」という事実が明らかになるまでアンドロメダ病原体が次に引き起こす現象の予測は外れ続ける。その一方で人類がその知識を獲得した瞬間にそれは「事象や言語ゲームの地平線としての絶対他者」である事をやめ「(ある程度までその振る舞いが予測可能な)既知の存在」の仲間入りを果たす。そしてまさにその瞬間にこそこの作品のカタルシス、すなわち「真理(アレーティア=自ずと明らかになる秘密)の顕現」が宿っているのである。

  • 後期ハイデガーは集-立(Ge-Stell)システム、すなわち「特定目的達成の為に手持ちリソースを総動員しようとする体制」は樹立後自己目的化し「真理アレーティアの世界」への到達を却って妨げる様になるとした。
    *逆を言えば「真理(アレーティア)の世界への到達」そのものを目標に掲げる集-立(Ge-Stell)システムは「対応マニュアル化」が完備した時点でその役割を一旦終えてしまう。要するに「怪獣が現れる事が当然化した世界」においては、もはや「新たな怪獣の登場=新たな脅威の登場」とは認識され得なくなってしまうのである。それぞれ「新たな脅威」としての実体を伴っていた「ゴジラ(1954年)」や「ラドン(1956年)」に比べ「ゴジラの逆襲(1955年)」や「大怪獣バラン(1958年)」の作品としてのインパクトがどうしても弱くなるのはこの辺りが理由だったといえる。

  • 行き詰まるとどうなるかというと「問題検討方法の多角化」が始まる、要するに「軸ずらし」が必要となり後期ウィントゲンシュタインいうところの言語ゲームSprachspiel)論やベンヤミンいうところのパサージュ(Passage)論の出番となる。見方を変えればその段階で既存知識体系に居場所を得たという事でもある。

こうしたそれまでの特撮怪獣物の歴史的流れから「モスラ」は自然と「新機軸」に手を出す展開に…

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【米禍再び】たかが豚足、されど豚足?

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流通網が全世界を網羅した」商業至上主義時代の貿易戦争は、思わぬ範囲に思わぬ影響を及ぼす様です。

米中貿易戦争が始まる以前には、米国の豚肉加工企業が輸出する豚の足や頭部の9割が、中国・香港市場向けだった。なぜなら、他のどの国よりも高い価格で売れたためだ。足や頭部以外にも、ほとんどの米国人が食べようとしない心臓、舌、胃、腸などの豚の部位は、中国の食文化の中でも、ひいては米国の豚肉輸出業者の利益率という点でも、特別なポジションにあった。

「こうした製品のおかげでプラントを維持していける、という声をよく耳にする」と、米国食肉輸出連合会でエコノミストを務めるエリン・ボラー氏は語る。

高い利益率を誇るこうした豚肉の部位は総称で「くず肉」と呼ばれるが、中国が米国産豚肉輸入に課す2種類の関税を合計で50%に引き上げたことで、その販路は急速に閉ざされつつある。

このため、米豚肉加工企業は、これらの部位をペットフードや畜産飼料の原料として、安い価格で売らざるを得ない状況に陥っている。

米農務省の最新のデータによれば、中国が4月に初めて25%の関税を米国産の豚肉に課したことで、副産物であるこれらの部位の米国輸出量は、4月から5月にかけて約3分の1減少した。

中国向けに輸出される部位のうち、豚の後足は他の国ではほぼ無価値だという。

アイオワ州立大学で農業エコノミストを務めるダーモット・ヘイズ氏によれば、後足には食肉処理工場で豚を逆さまに吊す際につけられた穴が空いており、消費者から嫌がられるため、中国以外でこれを販売することは不可能に近いという。

「中国市場が完全に開放されているならば、中国以外の国ではほとんど価値のない後足にもかなりの値がつくだろう」とヘイズ氏は語る。

中国の打撃は限定的か

中国が、米国に代る新たな豚くず肉の供給源を見つけることは、それほど難しくないとアナリストはみている。

中国の養豚産業は拡大しており、貿易を巡る対立が始まる以前から、バイヤーのあいだでは米国産豚肉への依存度が低下していた。

また、中国バイヤーが、欧州から豚肉を輸入することも可能だとアナリストは指摘する。欧州における豚肉価格は、少なくともここ2年間で最も低い水準で取引されている。

「米国産豚肉に対する今回の報復関税導入によって、中国側が打撃を受けることはない」。米最大手の豚肉生産社マシュホフスのケン・マシュホフ会長はそう断言する。「チリや欧州、あるいは他の誰かが、『使われない豚の胃やレバー、足はたくさんある』と言い出すだろう」

スミスフィールド・フーズや、シーボード(SEB.A)傘下のシーボード・フーズ、そしてブラジルJBS(JBSS3.SA)傘下のJBS米国事業部といった米国の大手食肉加工会社は、今回の輸出鈍化によって打撃を受けている。

昨年、米国全体で豚くず肉の収益が過去最高の11億ドル超に達する中で、こうした企業もその恩恵にあずかっていた。

そういえばアメリカ独立戦争American War of Independence、1775年〜1783年)勃発の遠因の一つになったのって(当時ラム酒の原料に使われていた糖蜜への課税と密輸取り締まりとかじゃなかったでしたっけ?

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【川西蘭が勝った気がした】未来は常に本当に予想外の形で訪れる?

まさかこういう展開があるとは。

このサイトにおけるこれまでの投稿と付き合わせると、以下の流れが交わった形?

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  • ヒッピー運動の成れの果てとしての「正義の盗電行為」。

  • 試金石の発見」の延長線上に現れた経済活動の最前線としてのデータ・マイニング事業。

20世紀後半を彩ったTV系サイバーパンク文学は「テクノロジーに強くなったチンピラが、身の程を超えた欲望に突き動かされる形で巨大な陰謀に巻き込まれる」英雄譚の一種でした。

しかし実際に起こる事件は何故か「(21世紀のギャングが産業廃棄物処理事業や鰻の乱獲を重要なシノギとする様になった弱い者達が夕暮れ、さらに弱い者を叩く」世知辛さに満ちてますね。川西蘭「パイレーツによろしく1984年、1988年映画化)」に登場する凄腕プログラマーの実際の仕事がラブホテルのシステム設計だった悲しさを思い出しました。現実はこっちの方角に向かったか…

【Reality is Real】「私」など所詮「想像されただけの架空の存在」に過ぎなかった?

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これまでネット上で散々「ネトウヨ」とは罵られてきましたが、まさか「架空のマイノリティに憑依しての妄想代弁者」呼ばわりされるとは。日本のフェミニズム運動の動向が、国際SNS上の関心空間に2010年代以降集った「多様性と多態性を重視する」第三世代フェミニズム運動の挙げてきた成果とあまりに異なってしまった不思議を指摘したかっただけなんですが。

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【究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される】「商業至上主義時代」の一つの到達点?

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FUJI ROCK IS NOT ON Mt.FUJI.:三島由紀夫とディズニーランド - livedoor Blog

最近読んだ大塚英志サブカルチャー文学論』に収録されていた「三島由紀夫とディズニーランド」という評論がかなり面白かったのでちょろっと紹介しときます。要するに三島由紀夫が、アメリカ旅行の際ディズニーランドに立ち寄って、これにいたく感心したというエピソードがあって(ここからしてもう意外!意外!意外!の連続なんですが)そこから推し量ると、どうもそのディズニーランドを包括する理念のようなものが、三島の考える理想的な天皇のありかたに近かったんではないか、という斬新な切り口。

いわゆる「普通の右翼」に言ったら顔を真っ赤にして怒りそうな提案だけど。TDLは「堕落したアメリカ帝国主義文化侵略の象徴」なわけで。

「色彩も衣装も、いささかの見物的な侘びしさを持たず、いい趣味の商業美術の平均的気品に充ち、どんな感受性にも素直に受け入れられるやうにできてゐる」ディズニーランドに、本来誰からも愛される存在であるはずの天皇をかさねあわせるのは、偏見なくみればそこまで無理のある飛躍はしていない。それを意外に思うのは、あまりに僕が三島に対して固定的なイメージを持ちすぎているからにほかならないのだけれど。これが後に自衛隊で割腹自殺をした男の言うことだったと考えると途端に苦しくなる。そんな怖そうで痛そうなのは、「どんな感受性にも受け入れられる」とは言いがたいじゃん!と思う部分はある。

三島が近代の天皇制を戦前、戦後をつうじて批判していると言うくだりが面白かった。要するに明治憲法のもと官僚機構によって人為的につくられた、建武中興とか皇紀2600年とかに言及したりする、極めて「歴史的」な意味を持たされた天皇は誤りで、本来そうした歴史的なものとはかかわりをもたない文化的装置としての「脱歴史的」な天皇こそがあるべき姿であると。
*そういえば三島由紀夫谷崎潤一郎「黄金の死(1914年)」を高く評価していた。江戸川乱歩が安っぽい見世物小屋テイストに惚れ込んでいた様に「(駄菓子の元ネタの様に)実物に決して届かない儚いオーバードライブ感」を愛していた様である。この事とそうした事は一体どういう関係を持ってくるのだろうか?
『金色の死』谷崎潤一郎 1914(大正14)

ある意味(ウォルト・ディズニーが精査した)ディズニー・ランドも(宮崎駿監督が精査したジブリ作品も(スティーブ・ジョブズが精査したiPhoneも「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される自由主義のジレンマの究極形として顕現した訳ですが、それが与えてくれる感動について私達はどう受け止めるべきなのでしょうか?

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【現状確認】自分なりの「正義のイメージ」について。

最近、過去投稿のこの辺りについて随分と踏み込んだ検討をしてるんですが、根幹の部分は意外と揺らいでいないので却って驚いていたりします。

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  • 出発点はあくまで「ロシア革命1917年によるソ連誕生まで、事実上マルクス主義思想の最終勝者と目されていた修正主義Revisionismusの領袖」ベルクシュタインの「私には道程こそが全てであって、目標などないに等しい」なる基本スタンスであり続けている。

    *実際の歴史上のベルクシュタインはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(Wilhelm II., 在位1888年〜1918年)の軍事的積極主義や第一次世界大戦(1914年〜1918年)を支持して色々言われているが、そもそもそうした事前策動があったからこそ戦間期における社会民主党SPD)政権誕生が準備されたという事実もまた見逃せないのである。

  • エドマンド・バークが「フランス革命省察Reflections on the Revolution in France、1790年)」の中で提唱した「(ある世代が自分たちの知力において改変することが容易には許されない)時効の憲法prescriptive Constitution)」概念や、ハンガリー出身の経済人類学者カール・ポランニーが「大転換(The Great Transformation、1944年)」の中でのイングランドにおける囲い込み運動の研究を通じて到達した「運動推進側も反対側も同じくらい正しく、かつ間違っていた。しかしながら歴史上重要だったのは、両者の衝突が現地住人の価値観変遷に必要な時間を稼ぎ出す事に成功した事、それのみだったのである」なる結論については相変わらず熟慮に値すると考え続けている。
    *ただインターネット上を徘徊する「添削AI」に指摘された様に、この問題における「程度の判定」は困難を極めるのである。

  • 英国映画「アメージング・グレースAmazing Grace、2006年)」や、スティーブン・スピルバーグ監督作品「リンカーンLincoln、2012年)」において展開する「(人間の多様性と多態性を重んじる泥臭い議会制民主主義」を信じる。

    *その立場から「ユーロコミュニズムの祖」グラムシにも相応の敬意を払っている。「市民社会の成熟が十分でなかった帝政ロシアにおいて暴力革命が不可欠だったからといって、市民社会が十分に発達したイタリアにおいても同じことがいえるのだろうか?」まさに彼のこの獄中における閃きこそが暴力革命路線とプロレタリア独裁論を破棄し、民主集中制と分派禁止規定を廃止したユーロコミュニズムの出発点となるのである。

    *そういえば上掲の投稿をしてた2016年頃に国際的に話題となっていたスペインの急進左翼政党ポデモス(Podemos)は相変わらず覇権達成には至ってないらしい。ポデモスが開発した「勝利の方程式」を模倣した保守政党が現れて票を奪われたりして色々苦労を重ねている模様。日本の政治の回転速度向上の為には、この種のダイナミクスが必要なのである!!

こうした立場ゆえに「バージョンアップ履歴の管理」が重要となってくる訳ですが、その部分においてナポリ出身の「近代歴史哲学の創始者」ジャンバッティスタ・ヴィーコの主著「新しい学Principi di scienza nuova、1725年)」における「歴史的事象の集合体としての歴史観は、それ自体のみでなく後世のパラダイムシフトに備えその策定過程にあった全ての論議も履歴として残さねばならぬ」なる立場を採択。

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