諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

遂に21世紀日本で「正義」が実現する?

遂に「 ヘイトスピーチ・デモ」を一言も発する暇も与えず葬ったなり!!
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M A L A S U E R T E, kazucrash: Vampire Savior: The Lord of Vampire...

「川崎ヘイトデモ中止」「渋谷は“完走”」この差はどこから?

 実際ヘイトスピーチがあり、それでデモが途中終了を余儀なくされるのはOK。届け出段階でヘイト要素が盛り込まれたデモに認可が下りないのもOK。ただデモの届け出内容そのものに人種差別要素がなくても、自称「反人種差別団体」が予防的に潰す事が絶賛される社会は大変恐ろしいのです。

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Lady Fiszi's Artwork — She was the second one I wanted to draw from...

実際海外でもヘイトスピーチ法が制定されると、それを通した民族団体が反対意見の封殺に乱用に邁進し、かえって民族間憎悪が煽り立てられて双方の襲撃事件や殺人事件を急増させて廃案や改正に追い込まれるケースが相次いでいます。

大目に見るべき正義感ののちょっとした暴走に過ぎない? いいえ国際的にはカール・シュミットの「敵友」理論に基づく冷徹かつメジャーな正攻法的政治技法と認識されています。民族主義団体の多くが最も本気で憎むのは「敵=レイシスト」というより彼らの活動に無関心な圧倒的多数を占める穏便派同胞。こうした層を動揺させ、反動的に熱狂的支持者へと変貌させるには、かえって相互間の民族間憎悪を煽って復讐合戦が日常化するのが望ましいのですね。だからその方向に世論を誘導するのが国際正義の実現という事になる訳です。

もちろん彼らだってそれなりには平和主義者なのです。あくまで政敵と味方の裏切り者を一人残らず殲滅し尽くす事こそが最も価値ある平和維持活動と確信している点を除けば。この思考様式についてはしばき隊が名台詞を残しました。「殺せと命じられた相手も躊躇なく殺せない様な偽物の平和主義者は、我々本物の平和主義者がその全員を殺し尽くす」。世界からナチズムとレイシズムを駆逐する聖戦は、誤爆も含め味方の犠牲を伴うのが必然問いう次第。その裏側には「恐怖なしに正義は存続し得ず、人はそれなりに合理主義的に納得し得てしまう残酷な振る舞いには決して恐怖を感じる事はない」なる冷徹なリアリズムも顔を覗かせます。これ実は中華王朝の科挙官僚が受験段階で叩き込まれる権威主義的信念。もしかしたら黒龍会北一輝といった大陸浪人経由で日本に伝わったのかもしれません。

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実際、学生運動全盛期には派閥関係が複雑過ぎるせいで、内ゲバ誤爆が相次いで次々と無関係の学生や一般人の犠牲者が出ましたが、むしろ当事者達は反省するどころか、誇らしくさえ思っていたそうです。

恐怖なき正義は無力であり、いつどこで襲われても不思議でない理不尽な恐怖が蔓延してこそ、誰もが正義への同情を熱狂的に表明し続けるしかない理想社会が実現する。誰もが絶対悪を憎み、それを少しでも擁護しようとした人間が絶えず私刑で惨殺されたり、監獄や精神病院に送られる都度、絶賛しかしなくなる人類にとって最も望ましい状態に至るには、無関係な人々の血も巻き添えとなって絶え間なく流され続けねばならぬ

ああこの世界観、完全に欧州普遍主義(oikoumene)そのものですね。
沖方丁「微笑みのセフィロト」

暗黒時代とは誰もが楽しげに歌い踊り続ける明るい伝統的社会だった。それは少しでも集団の和を乱す反乱分子と認識された人間は、誰もがすかさず魔女裁判に掛けられ、処刑されてしまう世界でもあった。 

ガリレオ・ガリレイの天動説告訴と有罪判決は誤爆ではなかったか? いや、むしろだからこそ欧州インテリ層の間に恐怖が蔓延し、カソリック教会の権威は相対的に否応なく高まりました。権力者が何を考えてるか誰にも理解出来ない狂人であればあるほど、権威主義はその本来の姿たる神の如き至高の完成状態に近づくのです。ロシアのイヴァン雷帝、そして日本の織田信長

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ディズニー映画「ズートピア」の主題もこれでした。欧州文化のカウンター・カルチャーとして育ってきたからこそ到達し得たスタンスだったのかもしれません。
*例えば米国黒人運動に目を向けても、今では「白人が黒人を殺すから、黒人も白人を殺す」をモットー1960年代後半から1970年代にかけてに武力闘争を繰り広げたブラックパンサー党(Black Panther Party, BPP)やネーション・オブ・イスラム(Nation of Islam, NOI)が一般黒人からさえ忌避される様になる一方で、自ら差別是正措置(affirmative action)撤廃を提言する様な穏健多数派が中心となってきている。これは前者が「男尊女卑こそ守るべき黒人文化」なんてトンデモ発言を繰り返したり「殺すべき白人の範囲は? ユダヤ人やイタリア人やロシア人やメキシコ人やインド人も入りますか?」なんて批判も受ける様になったせいでもあります。差別是正運動の本来あるべき展開というべきかもしれません。

究極的には自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」。まさにこのジレンマこそが問題。とはいえ自らその原理に完全に委ねてしまった「正義の味方」は、決っしてそれをジレンマとは思いません。「理想社会の顕現」としか考えられなくなってしまうのです。

それでも、遂に21世紀日本において「正義」が実現しようとしている?