こういう考え方もあるんですなぁ…本当に「稀」だと思います。
だが今の日本で正統な共産主義組織を広めるのは多くの障壁がある。となれば本邦に拘らず近隣海外の「共産党」をあらゆる形で支援するのも大きな手段だ。“マレ主義の公正な運用法”たるスターリン主義を汲む近隣共産党は朝鮮労働党や中国共産党。このうち,労働党へは総連を通じての支援が可能である。
— みのり。@小池は民意を恐れよ (@Minori_LSM_1917) 2016年8月10日
「マレ主義=マルクス・レーニン主義」なんて表現、これまで一度も見た事ありません。検索にも一切引っかかってきません。本当に「稀」な存在と思われ。
一体どういう集団でどういう意味合いで運用されている用語なんですかね?
とりあえずWikipediaで検索してみました。
1924年から1953年までソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)の最高指導者を務めたヨシフ・スターリンの発想と実践の総体で、指導者に対する個人崇拝、軍事力や工作活動による暴力的な対外政策、秘密警察の支配を背景とした恐怖政治や大規模な粛清などを特徴とする全体主義、およびそれに通じる思想・体制である。スターリン自身はマルクス・レーニン主義と呼んでいた。
- スターリンは「レーニンの最も忠実な使徒」を自称し、その支配イデオロギーを「マルクス・レーニン主義」と命名し定式化した。また、レーニン死後、彼をレーニン廟やレーニン像などによって神格化することで自らの個人崇拝も推進した。
- 「スターリニズム」(あるいはスターリニスト)という用語をスターリンやソ連の政権およびコミンテルン系譜の世界各国の共産党が自称した事は無い。トロツキーおよびトロツキズムの支持者(トロツキスト)によってはじめて規定された呼称・用語および概念であり、後にはローザ・ルクセンブルクの支持者も使用した。
- 「スターリニズム」の用語は、非スターリン主義の共産主義者にとっては「官僚主義」「専制的な"自称社会主義国家"の崇拝者」「独善的なセクト主義」「個人崇拝」「社会主義革命を実質的に放棄した日和見主義」「世界革命を放棄した一国主義」などを指す蔑視語である。これらの批判はのちにトロツキズム運動、とりわけスターリン死後のスターリン批判の後のコミンテルン系譜の共産党運動の外における「ニュー・レフト」(新左翼)運動の新たな広がりを作り出し、日本においては反スターリン主義という傾向をも生み出した。
- スターリニズムは、その広まった意味では、スターリン時代のソ連という国家で全体主義の形態を持ち秘密警察やプロパガンダや特に政治的抑圧の悲惨な戦術などによって特徴づけられる。
- ブリタニカ百科事典には「スターリニズムはテロと全体主義の支配による統治を特徴とする」とある。
政治理論としての「スターリニズム」の最大の特徴は、スターリン自身が提唱した「世界革命を経なくても(ロシア)一国による社会主義建設が可能である」(一国社会主義論)というテーゼだろう。レーニン、トロツキーをはじめロシア革命期のボルシェビキの指導部は一致した見解であり大前提として「一国による革命と国際革命-世界革命の結合なくして資本家の搾取を廃絶する社会主義体制の建設と確立は不可能である」(世界革命論)を共通の認識にしていた。それは第一インターナショナル以来のマルクス主義の初歩の原則であった、といえる。
- ロシア革命を成就させ、「反革命干渉戦争」に勝利したソビエト政権だったが、レーニン、トロツキーらが展望したヨーロッパ革命はドイツをはじめすべての国で敗北してしまう。また、ソビエト国内においても干渉戦争と「反革命」勢力との内戦によって多くの人命が失われ、国土が荒廃した結果、民衆の革命への熱意は低下する。1924年のレーニンの死去にともなって当時ソ連邦共産党書記長に就任したスターリンは、疲弊したロシア民衆と共産党内の意識を背景に「世界革命がなくとも社会主義は建設できる」と打ち出し、その権力を利用して「レーニン記念入党運動」と称して出世志向の者を大量に党員に採用することで党内で多数派を形成し、トロツキーら革命時のボルシェビキ指導部を追放。党員の大量採用による多数派形成は、ボルシェビキ-ロシア共産党にとっても「意識的な共産主義者の党」だったあり方からの極端な転換である。
- またスターリンは、ソ連邦共産党の権威を背景にコミンテルンにも君臨し、各国の共産党の左派的な部分を「トロツキスト」として追放する。以後、コミンテルンは「世界革命路線」を実質放棄した「ソ連邦防衛のための道具」とされ、「各国革命運動の利益」よりも「ソ連邦の利益」が世界各国の共産党にとって優先された。
- 1934年にソ連共産党党政治局員キーロフが何者かに暗殺される。スターリンは、この事件を「トロツキー一派の仕業」と決めつけ(でっち上げであることは確定している)「社会主義の建設が進めば進むほど、帝国主義に援助された"内部の敵"の反抗も激烈になる」(いわゆる「階級闘争激化論」)というテーゼをもって、1936年に本格的に「大粛清」を開始する。スターリンは、自らに反対する者、あるいは抹殺してしまいたい者に対して「トロツキスト」というレッテルを多用した。ここで言う「トロツキスト」とは「ソ連邦の破壊を目論むトロツキーを頭目とする反革命分子で帝国主義の手先の群れ」あるいは「ファシストの第五列」などと定義されたが、実際は粛清された多くの者はトロツキーあるいはトロツキーの指導する「左翼反対派」の組織(のちに第四インターナショナルを形成する)とは無関係であった。このレッテルとしての「トロツキスト」という用語は、「スパイ挑発者」あるいは「左翼を装った反革命」を意味するものとして、世界各国の共産党によって第二次大戦後も長らく使用されることになる。大粛清は、共産党内からソビエト赤軍、ソ連邦に亡命していた各国の共産党・コミンテルン活動家、そしてソビエト社会全般へとおよび、その犠牲者は最大約700万人にのぼるとも推定される。
- 「マルクス主義」に「民族(排外)主義」あるいは「ナショナリズム」の概念を持ち込んだのも、スターリンの"功績"と言える。トロツキーをはじめ、革命期のボルシェビキ指導部の多くがユダヤ人であったが、スターリンは反ユダヤ的宣伝で彼ら政敵の追放を口実にできた。また「一国社会主義建設論」自体も、民族主義的に鼓舞した側面もある。
- スターリンが、その「民族主義」を最も鼓舞したのは、ナチス・ドイツによるソ連邦侵攻の時期であろう。スターリンは、その反撃戦を「大祖国戦争」(露名 Великая Отечественная Война 英訳 Great Patriotic War)と名付け、「ロシア民族の命運を賭けた決戦」として過去のロシア歴史における英雄、神話を宣伝し、国民・兵士の士気の高揚に利用した。またソ連軍の苦戦の中、それまで聖職者・修道士・修道女・一般信徒多数の殺害や、大半の聖堂の物理的破壊などを伴う弾圧を正教会に加えていた姿勢を一転させ、ロシア正教を利用することで「ロシア・アイデンティティー」を極限まで扇動した。
*あれ? 「スターリンは国家主義的立場から祖国防衛戦争に向けて国民を総動員する一方で、民族主義=国家をエスニックグループに分割しようとする分離主義を原則として認めなかった」という常識も通用しない?- この時期の各国の共産党の反枢軸・レジスタンス戦争は、フランス共産党やギリシャ共産党、中国共産党などに代表されるように、民族主義・愛国主義の色彩を濃くしていた。スターリンは1943年には「反ファッショ戦争」においてコミンテルンを解散させ、コミンテルン系譜の共産党の"スターリニズム"の特徴として「プロレタリア国際主義」よりも「民族主義」を強調する綱領・方針が挙げられる(日本共産党においては「民主民族統一戦線」という綱領、あるいは「真の愛国者の党」という宣伝に表現されている)。
またスターリンは、ソビエト政権が戦時共産主義による干渉戦争と内戦での勝利とともに開始させた「新経済政策」(いわゆるNEP)から転換、1928年にゴエルロ・プランを巨大化させた第一次五ヶ年計画を開始する。それは西側陣営にハイペースで追いつこうとする産業化政策であり、軍事力を高めることを目標とし、また、産業化を後方で支援するための農業の集団化(コルホーズ)をセットとした。そこでは、労働者への極端なノルマを課した成果主義(スタハノフ運動)と「富農(クラーク)の絶滅」が叫ばれた。発電所やダム建設などの巨大プロジェクトによって労働者は動員され、強制収容所から「(作り出された)囚人」が無報酬で働き、農作物は強制的に徴発され、広範な飢餓地帯(とりわけウクライナ)と大量の犠牲者を生み出すことになる。これらの政策によりソ連の国力は第二次世界大戦前までにはヨーロッパを超え、アメリカに次ぐ超大国の地位を得た。
以下のような、スターリンおよびソ連邦共産党、コミンテルン系譜の各国共産党の実践形態・実践結果を総称して、非スターリニズム左翼は「スターリニズム」と定義している。
- ボルシェビキは、元々野次すらも議事録に残し、政策・方針によっては分派活動の形成を容認する党内民主主義の度合いの強い組織だった。ロシア内戦期に、指導部の強化を目的にして分派形成は禁止されたが、少なくともレーニン、トロツキーらにとっては、「内戦期という非常事態における一時的措置」として位置づけられていた。これをスターリンは、レーニン死後、「党は実践集団であって、討論クラブではない」という命題によって、「一枚岩の民主集中制の絶対原則」として分派形成を禁止する。この「原則」が、「指導部批判=敵対者」と規定される土壌を作り出すことになる。各国の共産党も、例外なくこの「原則」を倣っていくことになるが、この「絶対原則」によって、党内討議・党内民主主義(批判の自由)よりも指導部の「指令」「指導」が絶対化される官僚主義が各国の共産党を共通して蝕んだ大きな根拠となっていく。
- 「真理は一つであり、その真理に立つ労働者階級の前衛党は各国に一つでしかあり得ない」または「統一した党は労働者階級と革命の司令部であり、司令部がいくつもあったら命令指揮系統が混乱する」とする一国一前衛党論は、自派以外の共産主義党派および共産主義者を排撃し、民衆の運動は自派によって指導されなければならない、とする独善主義の論理として作用する。それは「共産党主導でなければ革命は起きない」あるいは「大衆運動や労働組合などの大衆組織は共産党を拡大するために存在する」「共産党の指導外の運動は破壊してもよい」というような思考をもたらし、「大衆運動の利益」よりも「共産党の利益」を優先する体質を形成してきたと言える。
1930年代にスターリニズムに基いて成立した一国型社会主義(特にその国家体制)を指してソ連型社会主義とも呼ばれるこれらの国家が実現したものを社会主義と呼ぶべきかどうかについて長い間、非スターリニズムの党派・活動家の間では議論が戦わされた。
- ソ連邦およびスターリン、ソ連共産党、コミンテルン系譜の共産党を支持しない社会主義者からは社会主義の語から区別するために「官僚的に歪められ、堕落した労働者国家」(トロツキー)、「官僚的集産国家」(マックス・シャハトマン -トロツキー派から分裂したアメリカの活動家)、「国家資本主義」(トニー・クリフ -トロツキー派から分裂したイギリスの活動家)、「赤色帝国主義」(黒田寛一)、「スターリニスト官僚国家」(中核派など)などと規定された。
- 一方、スターリンの指導下のコミンテルンの系譜に属する共産党は、スターリニズム政党であるか、すべてがそうであった時期を経験している。特にフランス共産党は、スターリニズムの影響を最も強く受けており、「モスクワの寵児」「モスクワの長女」(モスクワからの意向にはほぼ従う、という意味)と呼ばれていた。
- 第二次世界大戦後、世界の3分の1の領域を支配した社会主義国家群は、ソ連型社会主義国家であり「スターリニズム」に支配された国家だったといえる。これらは東欧諸国や北朝鮮のように、ソ連から強制もしくは移植された外発型のスターリニズムと、中華人民共和国やユーゴスラビアのように、自ら革命を達成し社会主義を選択した内発型のスターリニズムに分類される。外からの革命によって建国された前者がアルバニアや北朝鮮などを除いてソ連の影響下から離れにくい全体的な傾向なのに対して、内発的な革命を経験した後者は長い時間をおかずしてソ連と対立するという現象がみられた。
- 「ローザ主義者」およびアナキストはレーニン時代のボリシェヴィキ、あるいはトロツキズムもスターリニズムのルーツとして批判し、同質の強権的な「国家共産主義」として批判している。1991年のソ連崩壊以降、世界各国の共産党は党名の変更および社会民主主義への転向を大勢とし、影響力の低下は否めない。それとともに、残存共産党の「スターリニズム」の体質の弱まりも指摘される。
またカール・ウィットフォーゲルはアジア諸国の制度の研究から「東洋的専制主義」の概念をつくり、これを適用してスターリニズムを説明しようとした。実際、西側諸国では地理的にも政治的にも民族的にも旧ソ連はヨーロッパとは異質の存在(東方正教会文明)とされ、ユーラシアや北アジアと扱われた。また、孫文の大アジア主義はソ連をアジアの国としている。
僕は、ソ連スターリン主義の最大の罪は「マルクス主義」を語りながら、その神髄をゆがめたものをまき散らしたことにあると思っている。
— 甦る労働組合BOT (@yomigaerurouso) 2016年8月10日
そのソ連スターリン主義が崩壊して以降、「マルクスは時代遅れ」と大宣伝された。
しかしそれから10数年たって、今本物のマルクス主義が復権する時が来ている。
ネット上では、このTweetみたいな考え方を一番よく見掛けますね。しかし以下となると…本当に一体どうなってるの?
反スターリン主義(反スターリニズム、英:Anti-Stalinism)
スターリン主義に反対する政治思想や運動。広義には共産主義の外部からも含めた、スターリン主義への批判・否定の総称。狭義には社会主義や共産主義の内部の思想の1つで、既存の社会主義国やコミンテルンを系譜とする各国の共産党を「スターリン主義」として批判・否定し、乗り越えようとする立場を指す。歴史的・思想的に多数の立場・潮流がある。
- 改良主義の社会民主主義や修正主義によるスターリン批判…マルクス主義の革命主義やプロレタリア独裁を批判。
- アナキズム(無政府主義、極左的反共主義)によるスターリン批判(革命的反共主義)…スターリン主義の粛清や圧制を徹底的に批判。単にスターリン主義を独裁や圧政の張本人とするのでなくボリシェヴィズムそのものが独裁と圧制の元凶とし、トロツキズムも同類と位置付けた。バクーニンが『国家と無政府』の中で展開した先駆的批判に基づき、マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』の中で提唱したプロレタリア独裁も後にスターリン主義として展開される独裁と圧制のルーツと見做す。バクーニンはまたマルクス主義の権威主義そのものも批判している。
- ローザ・ルクセンブルクによるスターリン批判…マルクス主義の立場からレーニン主義(ボリシェヴィズム)の一党独裁は非難したが、スターリン同様にレーニンの民族自決主義は否定した。
- 左翼共産主義によるスターリン批判…ローザ・ルクセンブルクの後継者的位置付けの彼らは、反レーニン主義の立場からソ連型社会主義を「国家資本主義」と否定する。
- トロツキズム(トロツキー主義)によるスターリン批判…レーニン主義の立場からその一国社会主義論を批判。スターリン主義のソ連は「官僚的に歪められ、堕落した労働者国家」であり、官僚を打倒して堕落を是正する労働者による政治革命が必要とした。その一方で堕落はしていてもまだ「ブルジョアジーによる生産手段の所有を廃した労働者国家である」という視点から、帝国主義からの破壊策動に対して無条件擁護を提唱している。同様に非政権共産党についても、反スターリン主義的な「国家権力と同等な打倒の対象」とはみなさず「誤った綱領・路線で指導されているとしても、労働者階級内部の革命をめざす一潮流」と認知し、批判しつつも必要な共闘は追求するという立場を取る。
- 日本のトロツキズム(トロツキー主義)の反スターリン主義…第四インターナショナル統一書記局派の日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)及びそこから派生した諸党派は、歴史的に独自候補を擁立できない場合は「プロレタリア統一戦線戦術の一環」として「社共へ投票せよ」と呼びかけてきた。これは他の新左翼党派が「反議会主義」を掲げ棄権を呼びかけたり、中核派・革マル派ら反スターリン主義派が社会民主党や民主党(以前は日本社会党)などへの投票を呼びかけることはあっても、共産党候補への投票を呼びかけることはあり得なかったのと著しく異なる行動である。国際組織第四インターナショナル統一書記局の共通の立場であるらしい。
- 黒田寛一(日本の新左翼)の反スターリン主義…現在でも革マル派や中核派などの基本理論となっている。彼の提唱した「反帝国主義・反スターリン主義(反帝・反スタ)」は、「真のマルクス・レーニン主義」の立場から、スターリンによる「マルクス主義の歪曲」や「世界革命への裏切り」、日本共産党による1955年の武装闘争路線の放棄である「六全協」などを批判し、更に「トロツキズムの乗り越え」として「スターリン主義と帝国主義は同時に打倒されなければならない」とする(のりこえの論理)。
- 毛沢東主義のスターリン主義批判…中国の毛沢東主義もまたスターリン主義の一つであり、スターリン主義のアジア的専制形態とされる。一時期、中ソ対立によりソ連のスターリン主義と対立したことから、一部の反スタ派の中には毛沢東主義を支持する動きもあったが(南米を基盤とするポサダス派第四インターなど)反スターリン主義の歴史全体からすればエピソードの域を越えることはなかった。
1956年以降のスターリン批判…ソ連共産党第二〇回大会(1956年2月)において、ソ連共産党第一書記フルシチョフがに(1953年に死去した)スターリンの名前こそ直接は挙げなかったものの、それまでのソ連共産党の公式見解である戦争不可避論(資本主義陣営との戦争は避けられないとする考え)を批判して、西側との平和共存路線への転換をはかり、また暴力的手段によるのではなく議会制度を通して平和的に社会主義への移行することが可能であることを呼びかけた事を指す。共産党による一党支配を直接否定する内容ではなかったが、従来のスターリン体制からの大きな転換を意味していた。
スターリン批判
政治の分野でレーニン主義(レーニズム)またはボリシェヴィキ主義(ボルシェヴィキズム)に反対する思想や立場の総称。通常は社会主義や共産主義の内部からの反対を指すが、広義には社会主義や共産主義の外部からの反対や批判も含む。
マルクス主義からの反対
- レーニン死去以前…ドイツのローザ・ルクセンブルクはレーニンの前衛党論や民族自決論を批判した。ロシア社会民主労働党内でのレーニン主義への反対は、1903年の第2回党大会での、ボリシェヴィキとメンシェビキへの党派分裂に遡ることができる。メンシェビキによるレーニン主義やボリシェビキ主義への反対は、基本的にはその権威主義の評価などの組織論や、マルクス主義の国家を達成するための方法論に起因した。この反対は、後の十月革命でのマルトフの告発などで高まった。ロシアの共産主義における他のレーニン主義への反対は、1917年から1924年のレーニンの統治期間に国のリーダーから追放された人々にも見られる。これには、戦時共産主義を極端すぎると見た穏健主義者や、ネップを資本主義への降伏主義と見た人々の両方が含まれる。
- レーニン死去以降…1924年のレーニン死去以前は多数の人々からレーニンへの反対があったが、1924年以後はレーニン主義の原則への反対として集約されていった。マルクス主義の立場からのこのような反対には「ロシア革命では共産主義の理想は裏切られ、正反対の国家資本主義が設立された」と信じ、この立場にはイギリス社会党 (SPGB)や世界社会主義運動などがある。
マルクス主義以外からの反対
- レーニン死去以前…レーニン主義への初期の反対は、ツァーリの王党派や、1917年の革命発生までのロシア社会の現状維持派などである。革命発生後はレーニンを権力から追放しようとする人々や国々で、ロシア内戦の期間中は白軍を援助した海外勢力などである。またこの期間にソビエト政府に開戦したポーランド(ポーランド・ソビエト戦争)や、ロシアからの独立を求めたフィンランド内で発生したフィンランド内戦で勝利した白軍(白衛軍)などもある。ロシア内部では反レーニンともみなせる多数の事件があり、Tambov Rebellionやクロンシュタットの反乱などがある。ロシア内部での最後の反レーニンの動きは、ロシアのアナキズム運動であった。この対立は第一インターナショナルでのアナキズムとマルクス主義の初期の分裂にも遡れるが、レーニンが国家を近い将来には解体しないつもりである事が明確になったために高まった、クロポトキンなどの反レーニン主義のアナキズム運動である。
- レーニン死去以降…レーニン主義や、共産主義、マルクス・レーニン主義、社会主義、毛沢東主義、トロツキズムなどに対する反対は、現在でもマルクス主義の思想に基づくあらゆる体制への反対として、多数実践されている。またアナキズム運動によるレーニン主義の教義への強い反対も続いており、その中には前衛党などがある。
なおトロツキズムは、反スターリン主義の立場からソビエト連邦を「裏切られた革命」「堕落した労働者国家」と批判するが、「反レーニン主義」ではない。
*「王党派との対峙だけでは反体制派の立場が維持できない」状況が(隙あらば全権を握ろうとするその権威主義的態度をバクーニンら無政府主義者達から批判されながらも)理論家としてのマルクスを台頭させた辺りまでは歴史的事実でもあるので容易に理解可能だが(マルクスの知らなかった)普通選挙実施後の議会制民主主義の世界も「マルクスがその存在を承認していない」という理由で否定するなら、ファシズムやナチズムとの差別化が難しくなる。実際、第二次世界大戦後のドイツで形成された「戦う民主主義」の概念は双方に等しく「民主主義の敵たる全体主義」のレッテルを貼っている。
登場した時系列に沿って「(共和主義革命挫折を背景とする)マルクスの主張」→「(国家主義に合流した)改良主義(社会民主主義)や修正主義の主張」→「(ロシア革命の現実に呼応した)レーニンやとロッキーやスターリンの主張」→「(1956年のスターリン批判以降台頭した)新左翼運動の主張」みたいに大雑把に把握してるだけだと何を言ってるのかさっぱり分かりません。
- そもそも「1956年のスターリン批判以前に新左翼運動は存在しない」という前提が崩壊している。19世紀にまでさかのぼって「その登場以前jから既にスターリン主義者は反対者に包囲されており破綻していた」とか叫ばれても、どう反応していいか分からない。「現実と願望の区別など些事に過ぎない」とでも言いたいの?
- クロポトキンはシベリアにおける各集団の協力体制の実地調査から編み出した「相互扶助を中心概念に据えた無政府共産主義(トクヴィルが「アメリカの民主政治(De la démocratie en Amérique、第1巻1835年、第2巻1840年)」の中で語ったアメリカ的地方自治との関連性が興味深い)」を提唱しつつ、ロシア革命成功後は中央政権に対する批判を一切の控えて地方行政に専念。普通に考えれば「思想的に完全に無関係」としか言えない筈なのだけど、無論 カール・シュミットの「敵友理論」に準拠した「理性の声に導かれるまま敵味方を確実に峻別し、敵側とは徹底して対峙しながら、味方側には同化以外の選択肢を与えないのが政治」なる立場からは、そんな中立性など許されるものではない?
- 「中国共産党や北朝鮮をスターリン主義の忠実な継承者とする考え方は一時期の気の迷いとして存在しただけである」と断言する割には現存するし、内部批判の対象となる事もない。今が「全左翼合同」の時代だから?
全体を俯瞰しているうち、なんとなく「どうして新左翼運動はどうして最終的に内ゲバの殺し合いに発展せざるを得なかったか」「そしてその状況は現在なお一切解決されてない」というあたりまでは理解が進みました。
SEALDsの発信する民主主義が「同調しない国民はバカだから排除せよ」「自分の意見に賛同しない奴は愚かな敵」である事が判明 牛田氏のツイートが炎上 - 政治外交思考新聞
堀 潤 JUN HORI@8bit_HORIJUN
なぜ宇都宮さんが叩かれるのか?もはや全体主義だな。
UCD@ILLMATIC_UCD
宇都宮さんが市民の足を引っ張っているからです。叩くのはよくありませんが、政治的判断力に著しく欠けているのだから批判はされてしかるべきでしょう。それを一括りに「叩く」という表現にして、全体主義と言ってしまうのはあまりに短絡的です。
UCD@ILLMATIC_UCD
いま、鳥越さんを支持ししないこと、鳥越さんを支持しない人の肩を持つことが、小池百合子を消極的に支持することになるとなぜ思い至らないのか。お客さんなの?当事者意識がないの?現実見れないの?なんなの?
UCD@ILLMATIC_UCD
なに、局面から考えて消極的には極右の小池百合子を支持することにはなるけど、それでも鳥越陣営に不利になるようなことをつぶやいて、それが多様性だとでも思ってんの?それが民主主義なの?本末転倒だから。
UCD@ILLMATIC_UCD
僕は民主主義よりも大切なことは、先ず立憲主義や基本的人権を守ることであり、それは何が悪であるかを見極め、徹底的にその悪と戦うことだと思います。民主主義?そんなもの手続きにすぎない。手続き的に善を目指して、根本的な悪を通してどうする。甘いんだよ。もっとギリギリの戦いをしてんの。
UCD@ILLMATIC_UCD
「多様性を認めないのは全体主義だ」とか言う前にもっと真面目に目の前のことを考えてください。そんな紋切り型聞き飽きたわ。
*選挙終了後、鳥越陣営はWEBとSNS上において選挙に出馬していた証拠となるページを全削除。「マネージメント上の配慮により」以降は選挙に出馬した事実を認めない事を宣言した。「マネージメント上の配慮」って一体何?
こんなやりとりも拾いましたけど、日頃から事あるごとに「民主主義って何だ? 俺達の事だ!!」などとシュプレヒコールして「自分達こそ主権者」という意識を高め続け、カール・シュミットの「敵友理論」に準拠するが如く「理性の声に導かれるまま敵味方を確実に峻別し、敵側とは徹底して対峙しながら、味方側には同化のみを選択肢として与え続けるのが政治」と思い詰め続けてきたら、こんな物言いになるのも仕方がない? まさしく「究極の自由は専制の徹底によってのみ達成される」というジレンマそのものなのである。
そういうタイプの人間は明治時代から日本に存在し続けていて、福沢諭吉は「政痴」という呼称を与えています。今こそ復活させるべき用語かもしれません。