最近しばらく「国際SNS上の関心空間における黒澤明監督映画評」を追っかけていました。どうやってそれは国際性を獲得してきたのか?
- 「国際SNS上の関心空間」においては①女子およびLGBTQA系アカウント、②黒人系アカウント、③カソリック系(スペイン・ポルトガル語圏系)アカウントが三大勢力だが「Samurai Movie」人気には、こうした勢力の「共通語」の一つという側面もあったりする。
*女子およびLGBTQA系アカウントのお気に入り
*②黒人系アカウントのお気に入り
http://windwaver.tumblr.com/post/155264155871
*③カソリック系(スペイン・ポルトガル語圏系)アカウントのお気に入り?
*③は単純でなく「イエズス会系」とでも呼ぶべき別系列が存在する。
- 各アカウントの性癖から見るに①「ドアーズ(サイケデリック)・マカロニウェスタン世代(岡本喜八監督・橋本忍脚本映画「大菩薩峠(1966年)」が好き)」、②「(揃って黒澤明監督ファンだった)南イタリア勢(特にフランシス・コッポラ監督とマーティン・スコセッシ監督)およびスピルバーグ監督とルーカス監督に傾倒した世代」、③「タランティーノ監督ファン層(日活ニューアクション映画(1970年〜1971年)で活躍した和田アキ子や梶芽衣子、東映のピンク・バイオレンス映画やも好き)」なんて重層的展開が見て取れたりする。
*①ドアーズ(サイケデリック)・マカロニウェスタン世代の評価軸
*②南イタリア勢&スピルバーグ監督&ルーカス監督ファンの評価軸
*③タランティーノ監督ファン層の評価軸。①のリヴァイヴァル的側面もある?
- 常に背景で踊り続けてきたのは、米国においては産業革命本格化前夜に詩人ホイットマンが、日本においては終戦直後に坂口安吾が提唱した「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」なる行動主義?
しかしながらニーチェ「善悪の彼岸(Jenseits von Gut und Bose、1886年)」には「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ(Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird. Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.)」という警句もあります。こうしたある種のの「地獄巡り」は当然、相応の「代償」も伴ったのです。
女子アカウントの評価は割と清少納言「枕草子」っぽかったりします。
- 三船敏郎は「尻」。
★【映画評】『七人の侍』と黒澤明と三船敏郎の話flourella.wordpress.com
最初に衝撃を受けたのはその色気。男の色気とはいうけれど、ここまでフェロモンだだ漏れの男って見たことない(笑)。
とにかく『羅生門』を初めて見たときは芸術性なんかそっちのけであの筋肉に目が釘付けだった(笑)。黒澤と違ってチビ(174cm)なのに。わざとらしい作った筋肉じゃないのがいいね。当時の私はべつに筋肉フェチでもなく、どっちかというと筋肉は嫌いだったのだが、有無を言わせぬオスのフェロモンがあるよね。
『七人の侍』はその三船の尻がたっぷり鑑賞できるというすぐれものなのだが、尻丸出しで泥に突っ伏して死んでてもあれだけかっこいいって、これはもうハリウッドアクターには逆立ちしても真似できまい。
- 仲代達矢は「眼」。
Film - Yojimbo , Akira Kurosawa , 1961.
Strange Memories - Tatsuya Nakadai in The Sword of Doom (1966)
岡本喜八監督版「大菩薩峠」を初めて見た。仲代達矢の机龍之介は完全な狂人で、ひたすら人を斬り殺す映画。未完の大長編小説が原作で、最初は前後編の予定で橋本忍の脚本もそのように書かれていたが、会社の都合で1本の映画になって伏線が全く回収されておらず、無茶苦茶なストーリーになっている。
— 竹熊健太郎《一直線》 (@kentaro666) 2017年1月9日
肉体的超越性を暗喩する「三船敏郎の尻」に精神的超越性を暗喩する「仲代達矢の眼」。これはもはや、単なるエロティズムで語れる範疇を超えた領域の話?
- 欧州の肉市場では、年端もいかない少女達が皮を剥いた兎肉の尻を凝視し、肉の付き具合を検分する景色がしばしば見られるという。まさしく「私達は別に男の裸が見たい訳じゃない。(天に代わって)肉体を照覧しているだけだ」と豪語し、男性の尻や下腹部に群がる(だがしかし「初心なうち」は恥毛の生え際とか性器が視野内に入ると一斉に逃げ散る)女子アカウントの行動原理そのもの。
こうした脊髄反射的反応の最源流は「逃げ散る獲物の群れの尻をざっと俯瞰して標的を見定める捕食動物(狩猟民族)の視線」にまで遡るのかもしれない。
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一方、ロシアの民俗学者ウラジミール・プロップ(Vladimir IAkovlevich Propp, 1895年〜1970年)は鋭利な刃物、殺傷力の高い弓矢や鉄砲といった武器、機動力を増大させる馬などが伝来してそれが魔力の源と想像される様になる以前の狩猟社会では「(獲物を好きな様に動かす)魅惑の視線」こそが魔力の源として想像されていた。そして人身御供の習慣が廃れてその対象が「娘を生贄に捧げる事を要求する悪竜・悪獣の類」へと転落していった様に「(悪役の)邪眼」へと変遷を余儀なくされたという。
*仄かに科学的マルクス主義的唯物論の香りが漂うが、それ自体はロシア系諸族から徴収した膨大な量の昔話・伝承の類の分析結果から産み落とされたもので無下には否定出来ない。アフリカから中東にかけて存在する「斜視の人間を邪眼として忌み嫌う」伝統とは明らかに別系統。1958年に英訳が出版されるや数多くの言語に翻訳されるようになり、現在では構造主義の先駆的仕事として評価されている。この考え方は日本古来の家長制などとも相性が良い。
最も興味深いのは、こうした観点が2010年代以降顕在化してきた「(Smart PhoneのFirst Screen化を背景とする)ネット人生のFPS(First Parson Shooting)化」なる流れとも極めて相性が良い事だったりします。
さて我々は一体どんな時代に漂い出そうとしてるんでしょうか?