諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【マカロニ・ウェスタン】【怪奇/オカルト/超能力/UFOブーム】そして何故か「爽やかな青春ラブコメ」に着地

1960年代からのハリウッド大作映画の不調は、ムッソリーニの創立した欧州有数の巨大映画スタジオ『チネチッタ』などを利用した史劇ジャンル衰退をも意味していました。

それで、これまでそれに寄生する形で制作されてくた「ソード&サンダル映画(大予算映画のセットを流用し、演技力はなくても見栄えの良いボディービルダーやプロレスラー中心にキャスティングする事で制作費を安く上げてきた剣闘士物などを中心とするB級史劇ジャンル)」の制作陣もたちまち路頭に迷う事となったのです。

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そこでユーゴスラビアやスペインをロケ地とする西ドイツ制作の西部劇に注目した事がマカロニ・ウェスタン(Macaroni Western)あるいはスパゲッティ・ウェスタン (Spaghetti Western) の起源。こうした事情から制作面や俳優面で西ドイツ映画界が相当関与していたり、脚本に古代ギリシャ古代ローマに関連するモチーフが数多く散見されます。そして、セルジオ・レオーネ監督「荒野の用心棒(1964年)」が世界中で爆発的な人気を博するとフォーマットも固まり、イタリアでは1965年以降、500本以上にのぼる作品が量産される事になったのでした。

 春日太一「仁義なき日本沈没―東宝vs.東映の戦後サバイバル―」

これまでは映画館には幅広い層が来ていたが、1960年代後半から1970年代初頭にかけてにかけては二十歳前後の若者が主体になっていった。当時の若者の多くは、学生運動が盛んになる中で、従来にはない激しさと新しさを映画に求めた。その結果、イタリア発のマカロニウエスタン、アメリカ発のニューシネマ、日本でもピンク映画と、従来の価値観に「NO」を叩き付けるような反抗的な「不健全さ」が受けるようになる。
東映はこうした時流に乗り、任俠映画とポルノ映画で隆盛を迎えるのである。

考えてみればアメリカで仲代達矢主演・岡本喜八監督映画「大菩薩峠(The Sword of Doom、1966年)」が大流行した時代って、アメリカでドアーズがカリスマ的人気を誇っていた時代と重なるのです。当時の若者が求めていたのは「既存秩序的整合性すら破壊する勢いの何か」だったのかもしれません。

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春日太一「仲代達矢が語る日本映画黄金時代」 

仲代が岡本喜八の映画に初めて主演したのは「大菩薩峠(The Sword of Doom 1966年)」だった。中里介山の伝説の超長編小説を映画化した大作時代劇だ。本作で仲代は、無差別的に人を斬りまくる主人公、机竜之介を演じている。

『大菩峠』は、かつて東映内田吐夢監督が片岡千恵蔵さん主演で撮ったり、大映市川雷蔵さんを主役にして作ったのを、今度は東宝藤本真澄プロデューサーが、私の主演でキハっちゃんに撮らせようという企画でした。

橋本忍さんのシナリオもなかなか面白かった。原作では主人公の机竜之助が大菩峠で巡礼のじいさんを殺すというところから始まるんです。それを中里介山という人は文学として『大菩峠』を書いた、仏教的な輪廻観を描いたと、文芸批評家は解釈していましたね。内田監督もそうだったと思います。そしたら、キハっちゃんや橋本さんは「あれは理由なき殺人」だと。仏教的思想じゃなくて、単なる「理由なき殺人者」として扱ったんです。

私なんかからすると面白いんですけど。ただ、批評家の人は、竜之助がああやって人を殺していかなければならなかった原因というものを追究するわけですよ。ところがその理由が全くわからない。

それで、日本ではあまり評判がよくなかったんです。どうしてもやっぱり内田吐夢さんが作ったのがイメージに残っていましたしね。でも、アメリカでは受けましてね。当時、私の特集をジャパン・ソサエティーってとこでやっていただいたんですけど、そのラインナップの中に『大菩峠』が入っていた。そしたら、熱狂的に受けたんです。特に黒人がたにね。「ヤクがあの時代あったのか!」って。

それから、チャンバラがすごかった。私は撮影で十日間、ずっと人を斬りまくりました。あれだけチャンバラで人を斬ったのは、ギネスブックに載るほどで。とにかく最後の二十分間ぐらいは斬りっぱなしでしたから。それが外国で受けたんだろうと思います。

春日太一「仁義なき日本沈没―東宝vs.東映の戦後サバイバル―」

東映は時代劇から任俠映画に向かう過程で、それまでの華麗な様式美の殺陣から、刀身の短いドスの特性を活かした生々しい肉弾戦の殺陣に変貌、それも任俠映画の人気の一因になっていた。一方、黒澤時代劇で殺陣の表現に革命を起こした東宝だったが、その荒々しい牙はいつの間にか薄れてしまっていた。

  • 「時代劇」…1960年代前半には、黒澤明監督映画「用心棒(1961年)」や「椿三十郎(1962年)」といった「(人が人を生々しく斬る)リアル時代劇」が引き起こしたパラダイム・シフトによって、それまで東映映画が大量生産してきた「(スター俳優が様式美に従って華麗な殺陣を展開する)昔気質の時代劇」がたちまち時代遅れの遺物と化してしまった。

  • 「任侠映画」…対策として東映は時代劇スター俳優達をそのまま「義理人情に厚く正しい任侠道を歩むヒーロー」にシフトさせ、1960年代一杯は「チョンマゲを取った時代劇」と言われる虚構性の強い仁侠映画の量産によってなんとか食いつなぐ。そして観客層の変化によってこの路線も通用しなくなると仁義なき戦い(1973年〜1976年)」に代表される「実録ヤクザ物」へと、さらにシフトしていく展開をたどる。
    *「実録ヤクザ物」への転換は、フランシス・コッポラ監督映画「ゴッドファーザー (The Godfather 、1972年)」が日本でも大ヒットした影響も色濃く受けている。その「ゴッドファーザー」における「冒頭の結婚式がラストの悲劇的結末に結びつく展開」は黒澤明監督映画「悪い奴ほどよく眠る(1960年)」の影響を色濃く受けている(というか結婚披露宴で「妹を幸せにしなかったら殺すぞ」と脅迫した兄がその宣言を実践して父の後を継ぐバージョンそのもの)。こういう思わぬ形での「東宝映画から東映映画へのDNA継承の系譜」もあるのが映画史の面白いところである。

代表的なのは1966年、岡本喜八監督の「大菩薩峠」でのエピソードだろう。ラスト、仲代達矢扮する主人公・机龍之介は狂気にかられ、周囲にいる新選組を凄まじい勢いで斬りまくる。仲代の鬼気迫る演技と岡本監督のスピーディなカット割りが合わさり、ド迫力のアクションシーンに仕上がっていた。だが、オールラッシュ(スタッフ向けの試写)を見た東宝映画の藤本真澄社長はラストシーンの改変を求めてきたという。

「仲代が新選組の一人を刺すだろう? 抜く時にグッとエグる、あれイヤだねえ! ザンコクだよ! 刺したらサッと抜きゃあいいじゃないか?」

これは、岡本なりにリアリティを求めて、こだわった描写だった。なぜそのような描き方をしたのかを説明するする岡本だったが、藤本は聞かない。

「それは屁理屈だ。切れ」

藤本は当時、馬場にこう語っていたという。

「苦しくなったからといって裸にしたり、残酷にしたり、ヤクザを出したり……そうまでして映画を当てようとは思わない。俺の目の黒いうちは、東宝の撮影所でエロや暴力は撮らせない」

大菩薩峠(1966) - みんなのシネマレビュー

まさにこういう時代背景を抜きに「マカロニ・ウェスタンの国際的流行」は語り得ないのでした。当時の若者が求めていたのは単なるエロやバイオレンスではなく、もっと何か本質的な形での「既存秩序の破壊」だったのです。

マカロニ・ウェスタン(Macaroni Western)/スパゲッティ・ウェスタン (Spaghetti Western) 」作品のフォーマットをほぼ定めたセルジオ・レオーネ監督「荒野の用心棒(伊Per un pugno di dollari、英A Fistful of Dollars、1964年)」

基本的コンセプトは「アンチ・アメリカ西部劇」。

  • ドイツにはEdelwestern「高級西部劇」という言葉があるが、当時アメリカでハワード・ホークスジョン・フォードなどが制作していた西部劇は主人公は処女地を開いて新しい国を作った矜持から高潔で、ストーリーもピューリタン的、清浄で見ていて気分がよくなるようなものだった。

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  • マカロニウェスタンはあえてその逆を突き「見ていると気分が悪くなるとまでは言えないが、良心などというものの皆無な主人公」「その周囲を囲むさらに輪をかけて褒められないタイプの人々」「たまに高潔な人物が出てくるとたいてい殺される」といった路線を志向。

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  • さらには映画音楽と絵との関係も変え、従来作品の様に常にオーケストラをバックに流し続けるのではなく「音で絵を描く、セリフの代わりに音楽にストーリーを語らせる」路線を樹立した。

  • 制作費を安く上げるためにスペインでロケをし、ハリウッドの駆け出し俳優(当時はまだ売り出し中のクリント・イーストウッドバート・レイノルズなど。ちなみに主人公はハリウッドでは悪役専門だったリー・ヴァン・クリーフ)などを使って、残忍で暴力的なシーンを多用した斬新な作風が、当時の西部劇の価値観を大きく変える事になる。

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口笛を使ったエンニオ・モリコーネのテーマ曲も一世を風靡。ストーリーは黒澤明の『用心棒』をそのまま使い、後に盗作で訴えられている。

 「マカロニ・ウェスタンが日本に与えた影響」

ブームの頃にはマカロニ・ウェスタンの要素を取り入れた作品が多く作られている。

これらの作品が若者を中心に支持を集めた。当時は劇画ブームの時代でもあり、そちらも盛り上がった。

 「マカロニウェスタンの終焉」

1970年代に入ると、急速にそのブームは失速。

  • マカロニ・ウエスタンは「既成のヒーロー像の反対を行く」という基本コンセプトは様々なアンチ・ヒーローを生み出してきた。棺桶を引きずったヒーロー、口のきけない主人公、盲目のガンマン、聖職者のガンマン、ホモセクシャル

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  • しかし量産を重ねるうちにアイデアが枯渇し,1970年代に入るとインパクトに欠ける様になって観客も食傷気味となった。その状態を打破するた為に「メキシコ革命もの」「ドタバタ喜劇路線」といったサブジャンルが生み出される。

  • 1973年製作のトニーノ・ヴァレリ監督による『ミスター・ノーボディ(My Name Is Nobody)』が事実上最後のマカロニ・ウエスタンとなり、これ以後見るべき作品は生まれなかった。
    *その後このジャンルの制作スタッフの少なくとも一部は(フランシスコッポラ監督映画「ゴッド・ファーザー(The Godfather、1972年)」やその続編(1974年)、および 深作欣二監督映画「仁義なき戦いシリーズ8本(1973年〜1976年)」の影響もあってか)フィルム・ノワール映画に転戦。

  • 1976年には『Keoma』,1993年には『Jonathan degli orsi』といういずれもフランコ・ネロ主演のマカロニウェスタンが作られているが、かつてのような精彩は感じられない。

1987年には『続・荒野の用心棒』の正式な続編がやはりフランコ・ネロで撮られたが(Django 2: Il grande ritorno)、完全な失敗作に終わっている。 

メキシコ革命もの」

アメリカではなく、メキシコ、あるいはアメリカとメキシコの国境付近を舞台に、フアレスなどが率いたメキシコ革命を扱った作品。

セルジオ・コルブッチ、セルジオ・ソリーマ(Sergio Sollima)などがこのモチーフを手がけている。特にソリーマは最初から社会派路線を行くマカロニウェスタンを撮り続けた。

「アルジェの戦い」を手がけたフランコ・ソリナスなどもいくつかのマカロニウェスタンで脚本を担当している。

 「ドタバタ喜劇路線」

エンツォ・バルボーニなどに代表される衰退期に現れた作品群だがある程度の成功は収め、いまだにファンが多い。

最も有名になったのが「オリバー・ハーディ&スタン・ローレル以来の最大のギャグコンビ」といわれるバッド・スペンサーとテレンス・ヒル(Bud Spencer & Terence Hill)である。

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この二人を最初に共演させたのはバルボーニ、と思われることが多いが、最初にこのコンビを「発掘」したのは実はジュゼッペ・コリッツィで、その映画はハード路線のマカロニウェスタンである。

実は「七人の侍(1954年)」のリメイクに端を発する「荒野の七人(1960年)」「続・荒野の七人(1966年)」のシリーズも、続編はマカロニ・ウェスタンの影響を影響を色濃く受けていたりします。

  • 「新・荒野の七人 馬上の決闘(Guns of the Magnificent Seven、1969年)」では「アメリカで内戦と開拓の時代が終わり、本国で居場所をなくした敗残兵や無法者がメキシコに死に場所を求めて流入してきた(そして彼らの生き様と死に様が20世紀初頭から始まるメキシコ革命の原動力となった)」なる「メキシコ革命物」を意識した設定が追加されている。
  • 最終作「荒野の七人・真昼の決闘(The Magnificent Seven Ride、1972年)」は政治的背景の一切ない純粋なマカロニ・ウェスタンとして制作された。どうやら「社会派リアリズム」導入は失敗だったらしい。

そういえば手塚治虫原作「海のトリトン(1969年〜1971年、アニメ化1972年)」もこの時期。だから、こういうテーマ曲で「ラストのどんでん返し」だったとも?


モンキー・パンチの漫画「ルパン三世シリーズ(Lupin the Third、1967年〜)」連載開始もこの時期。当初は日活アクションや、マカロニ・ウェスタンの世界が元ネタでした。「面白ければ何でもあり」というぶっ飛んだスタンスをマカロニ・ウェスタンから継承したとも?

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そして時代は「反動」の方向に向けて舵を切る展開に…ただし一度開かれた地獄の釜の蓋は二度と完全に閉まる事はなかったのでした。

ところで、当時黄金時代だった週刊少年チャンピオンに長期連載された作品群。概ね時代に合わせた路線変更を余儀なくされていますが、その過程そのものが歴史のガイドラインと成り得たりするのですね。

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まぁこの流れもまた「若者向けピンク&バイオレンス全盛期(1960年代後半〜1970年代前半)が引き起こした反動」のバリエーションの一つ? エンタメ業界的には「バイオレンス本格派」の南イタリア勢が「ゴッドファーザー(The God Father、1972年)」や「タクシー・ドライバー(Taxi Driver、1976年)」を繰り出して「中途半端な」ニューシネマ(New Hollywood)やマカロニ・ウェスタンを駆逐していったかの様にも見える展開。そして止めが「ロッキー(Rocky、1976年)」。

同時期には「アメリカ人の親が子供怖がる様になった」心理を反映した「エクソシスト(The Exorcist、1973年)」「キャリー(Carrie、1974年、映画化1976年)」「オーメン三部作(Omen、1976年〜1981年)」、そんなの無関係にイタリア本土勢が仕掛けた「サスペリア(Suspiria、1977年)」「インフェルノ(Inferno、1980年)」といったホラー/オカルト映画の国際的ヒットもありました。
*こちらへもマカロニ・ウェスタン制作組の少なくとも一部が流入

これだけヘビーな展開が山積みだったというのに(いや、むしろだからこそ?)時代は「爽やかな青春ラブコメ」に一直線…しかも何と日本だけでなく、アメリカでも同様の展開があったというから驚きです。


実は「Streets of Fire(1984年)」は三部作構想だったらしいのですが、時代が変わってしまい実現しなかった様です。1980年代後半のアメリカでは、また別種のパラダイム・シフトが起こってしまったという事?