諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【インフルエンサー・マーケティング】新時代に突入?

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インフルエンサーマーケティング」新時代に突入?

「コンテンツの質」に徹底してこだわることは、一見すると至極当然のように見えるが、実は、違う。多くの場合、まず、ここが疎かになる。

なぜなら、「コンテンツの質」にこだわればこだわるほど、莫大な「費用」と「人的工数」がかかるからだ。

もし、自身が「コンテンツの質」が高い「商品(サービス)」を創り出す能力がない場合、その能力を習得するために、多くの「時間」を費やす必要が生じることだろうし、あるいは、すでにその能力を習得する人を雇うには、報酬として多くの「費用」が費やされることになる。

それゆえに、起業当初は、必然的に「コンテンツの質」よりも、「ビジネスモデル」を重視する戦略を取りがちである。

「コンテンツの質」を高めることに資金と時間を費やすよりも、「ビジネスモデル」を構築するのに費やしたほうが、費用対効果が高いと、「錯誤」してしまうからだ。

多くの起業家やフリーランスも、自分もこの流れに乗らなければと焦り、課金方式などの「ビジネスモデル」を重視する戦略を取ろうとする。そして、多くは失敗する。

『殺し屋のマーケティング』においても、主人公の七海は、「ビジネスモデル」を重視して、最初の起業に失敗している。

それは、なぜか?  理由は、単純明快である。

「コンテンツの質」を重視しなかったからだ。

商品である「殺し」を外注に依存し、ビジネスモデルの構築でビジネスを拡大しようとした。

しかし、考えてもみてほしい。 たとえば、「コンテンツ」力のない商品(サービス)に対して、人は、定額課金を選択するだろうか。「ブランド」力のない人の有料メルマガを取るだろうか。有料サロンに入るだろうか。

もそも、「ビジネスモデル」とは、質の高い「商品(サービス)」があってこその話であって、「コンテンツの質」を担保できないままに、「ビジネスモデル」を考えるのは、まるで中身がないのに包装だけを立派に整えるようなものだ。

「コンテンツ」の質を高めるには、莫大な資金と費用を費やす必要があると先に説いたが、それだけは、おそらく、足りないのだろう。顧客に最高の商品を出し続けるのだという「覚悟」が必要となる。

おそらく、その想いやこだわりがあるからこそ、それが顧客に伝わり、結果論的に「行列」が伸びるのだろう。

これって本当に「昭和時代の職人的姿勢」への回帰なんですかね? むしろ「(専門分野以外での妄言は笑ってスルーされる)目利きの時代」への移行の流れの一環」とか認識したら駄目なんですかね?