諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【衝撃の1969年】突如蘇る「1960年代末の雰囲気(Atmosphere)」

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リベラル系フェミニストの歴史捏造が明らかになりますね。

 ちなみに過去投稿ではこういう扱い。

東大安田講堂陥落(1969年1月、大学側より依頼を受けた警視庁機動隊が学生運動家のバリケード封鎖を粉砕。同年の東大受験は中止)が陥落すると学生運動家達からバイブルの様に崇められていた「白土三平の忍者漫画」が一気に人気を喪失し「近未来における人類破滅を暗示するジュブナイルSF小説」も紙面から消え、その空隙を埋める形で以下の様な20世紀一杯続くロングセラー作品が目白押しとなる。
http://pbs.twimg.com/media/B6eORjdCYAAl1iX.png

  • 「アニメ版サザエさん…突然打ち切りになった「白土三平忍者アワー」の後番組としてスタート。

    http://pds.exblog.jp/pds/1/200809/10/89/b0097689_2141968.jpg

  • 藤子不二雄ドラえもん(原作1969年〜1996年)」…それまで掲載されてきた「人類の滅亡を暗喩するジュブナイルSF小説」に代わって児童誌の顔に。
    http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20150810003340_comm.jpg

  • 山田洋次監督作品「映画版男はつらいよシリーズ全48作(1969年〜1995年)」…「今の人間の感覚には合わない」と弾劾され絶滅寸前だった伝統的任侠物のパロディとして製作されたTV版(1968年)が思わぬ反響を呼んで映画化が始まった。
    *ちなみにTV版の最終回で渥美清演じる寅次郎は死んでしまったが、それを惜しむ声が殺到したのが発端となっている。

    https://www.tora-san.jp/resources/img/files/pc_scene04.jpg

こうした展開に飽き足らない若者層は益々映画館に足を向ける事に。しかしその数は必ずしも映画業界側を納得させる規模ではなかったとも。

大嶽秀夫『新左翼の遺産』読書ノート 

本書のタイトルにある「遺産」とは、ポストモダンにつながるものを新左翼が準備したという点におかれており、副題が示すように新左翼ポストモダンとの関係が本書の重要なテーマとなっている。そして、新左翼からポストモダンへと受け継がれた「遺産」が――もちろん一定の留保を伴いながらではあるが――高い評価を与えられているように見える。そこで、この問題について多少考えてみたい。

本書における「ポストモダン」という語の意味は、「ポストモダン哲学そのものではなく、この哲学思想に表現されたある時代精神、時代の感覚、気分、ないしは特定の問題群に対する関心といった、曖昧ではあるが、より広く70年代以降の思想の核心にあるものを指す概念」とされ、キーワードとしては、「あらゆる権威への反抗、とくに近代合理性への権威に裏打ちされたテクノクラート支配への反抗」、「近代が排除した周辺への関心」、「身体、とくにセクシュアリティの問題の提起」、(場合によっては資本主義の消費文化に堕する傾向すらもつ)「快楽の崇拝」などが挙げられている。

ポストモダニズム一般は必ずしも政治的「左翼」と結びつけられるものではない――あるいはむしろ、「右か左か」という問題設定自体を拒否するのがポストモダンの特徴だとも考えられる――が、ポストモダニズムのうちの「左翼的なヴァージョン」に限定して考えるなら、著者の主張は比較的分かりやすい。序章で述べられているように、抵抗の対象たる「権力」概念の拡張と「社会権」への注目、マイノリティに対する「普通の人々」による差別の問題や「アイデンティティの政治」への注目、またフェミニズムや環境問題などへの取り組みといった点がその特徴であり、これらの特徴は新左翼からの連続性・継承性を物語るということになる。もっとも、新左翼ポストモダニズムもともにきわめて広い概念であるため、それらの間に連続性があるという指摘も、より具体的に議論を詰めていかない限り、茫漠とした印象論となり、ある意味では常識論となってしまう。余談だが、私自身は1970年代〜1980年代のポストモダニズム流行に接したときに軽い反撥のようなものを覚え、安易に流行に乗りたくないと考えた記憶がある(そのせいもあって、あまりきちんと吸収することがなかった)。それは、一つには、あらゆる流行に逆らいたがる天邪鬼な性格のせいだが、もう一つには、その問題提起の中にかつての全共闘運動の中で聞いた話と似たものが多々あり、どことなく既視感を拭えなかったという事情もあった。

 いずれにせよ1970年代以降(特にオイルショック以降)は政治的イデオロギーより商業至上主義が優先される展開に。

そして、これ。

 そうか、永井豪デビルマン1972年〜1973年)」のTV版オリジナルストーリーを構成し、横山光輝戦国獅子伝1972年〜1973年)」原作を担当する事になる御仁が…

果たして私達はどちらに向けて漂流しているのでしょう?