かぐや姫と風立ちぬって同時期の映画だけど、どちらも男のいやらしさ、無責任さ、ナルシシズム、非情さが女を打ちのめして殺す作品なんだよね。かぐや姫がそれを醜悪なものとして描いているのに対し風立ちぬはそういった犠牲を男の立身のための必要悪のように描いてる。やはり高畑勲を贔屓してしまう。
— jiji (@traductricemtl) 2018年5月18日
実は、国際SNS上の関心空間に滞留する匿名女性アカウント集団の評価は真逆でした。
- 「かぐや姫の物語(2013年)」に投げつけられた最も辛辣なコメント。「自分が幸せになりたいとか、誰かを幸せにしてあげたいと願う事自体が罪ならば、もう、みんな生まれてすぐ死ぬしかないじゃない!!」
- 「風立ちぬ(The Wind Rises、2013年)」については、何故かヒロイン菜穂子について「実は療養所に残してきた同病で瀕死の夫がいる。急いで帰宅したのは彼の容態が急変したから」説が流れた。日本文化マニアが堀辰雄「菜穂子(1934年)」の内容について語って聞かせた影響らしい。つまり「人生をつまみ食いされた」のは主人公の堀越二郎の方というおそるべき解釈…
*というか「風立ちぬ」の物語展開をシャーロット・ブロンテ「ジェーン・エア(Jane Eyre、1847年)」の性別逆転バージョンと解釈すれば当然、謎めいた存在たる「菜穂子=ロチェスター伯」は「療養所=屋敷」に何か隠しているに違いないという方向に想像力が働くのである。こうした視野角超展開、意外と西洋文学では良く見掛ける。
*そうまさにスティーヴン・キング「シャイニング(The Shining、原作1977年、映画化1980年)」を巡る議論が「217号室(237号室)の秘密」に集約していく様に。
判断基準は案外シンプル。
OASIS創始者ジェームズ・ハリデー「ようやく悟ったんだよ。現実世界がどれほど恐ろしくて、どれほどつらい場所であっても、真の幸福を見いだせるのは現実の世界だけだとね。現実の世界はリアルだからだ。私の言いたい事がわかるかい?(That was when I realized, as terrifying and painful as can be, it's also only place where you can find true happiness. Because reality is real. Do you understand?)」
これは「痛みなんてその気になれば全部消せちゃうんだ」は駄目という話。その上での「(現実世界か仮想世界か問わず)五感で感じるこの全体像だけが現実」という覚悟…まぁこれぞ2010年代前半的思考様式といった感じ?