諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【明治150年】1968年のプロイセン侍「平松武兵衛」

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9月1日

 9月2日

 9月3日

 9月4日

そもそも「結局は最新兵器とそれが入手可能な経済力の確保」みたいな話にしかならない訳ですし…

蝦夷植民地化計画(1968年、構想のみ)

戊辰戦争さなかの1868年(明治元年)、新政府軍(官軍)と戦っていた会津・庄内両藩が、プロイセンドイツ)から資金を借りる担保として「蝦夷地(えぞち)の領地を99年間貸与すると申し出た」と記した駐日公使発本国向けの外交書簡を、五百旗頭(いおきべ)薫東大教授らの研究チームがベルリンで発見した。内容通りなら、ドイツの蝦夷地租借構想が水面下で具体化していたことになる。東大史料編纂(へんさん)所の箱石大(はこいしひろし)准教授は「戊辰戦争が長引いていれば実現していた可能性がある」とみる。

これまでは、日大のアンドレアス・バウマン教授が1995年にドイツ連邦軍事文書館で見つけた文書から、1868年7月に両藩から蝦夷地の土地売却の打診を受けたものの、10月に本国のビスマルク宰相が却下し、交渉は立ち消えになったとみられていた。

その後、ボン大学の研究者と箱石准教授が同文書館で、宰相が3週間後に一転、交渉を認可していた文書を見つけ、本国側ではゴーサインが出ていたことが明らかになっていた。

今回見つかった外交書簡を書いたのは、横浜にいた駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラント。貸与期間を具体的に盛り込むなど、両藩との間で交渉妥結の下地が整っていたことがうかがえる。

マックス・フォン・ブラント(Maximilian August Scipio von Brandt, 1835年〜1920年) - Wikipedia

プロイセン王国ドイツ帝国の外交官、東アジア研究者。黄禍論の提唱者と言われている。

プロイセン王国の将軍で軍事著述家のハインリヒ・フォン・ブラントの息子としてベルリンに生まれる。プロテスタントの堅信を受け、ベルリンのフランス・ギムナジウムに学ぶ。最初軍人となり、1860年のフリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク伯爵の率いるプロイセン王国東アジア使節団に武官として随行し、1861年文久元年)1月24日の日普修好通商条約調印に立ち会う。
フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク(Friedrich Albrecht Graf zu Eulenburg, 1815年〜1881年) - Wikipedia

プロイセンの海外貿易が拡大し、東南アジアや東アジアの交易国を調査する使節団の代表に選ばれた。1859年10月、日本(江戸幕府)や、中国(清王朝)、タイ(シャム)に向けて出発。

1861年1月15日、かねてより助力を得ていたオランダ系アメリカ人ヘンリー・ヒュースケンがプロイセン王国の宿舎善福寺からの帰路で薩摩藩の襲撃に遭い、翌日死去。事件の影響は無く、1月24日に日英修好通商条約をベースにした条約を江戸幕府と締結(日普修好通商条約)。同年9月には清国と、3年前にイギリスとフランスが結んだ天津条約と同様の修好通商条約を締結した。尚、日本では交渉中に担当者の堀利煕が謎の自殺を遂げた為、後任の村垣範正と条約を締結。

帰国後の1862年12月8日、プロイセン内相に任命された。1864年、1866年にプロイセン王国は行政区域を拡大させた為、この機会に旧区域でも包括的な行政改革を実施。ところが、西部ではカトリックの、東部では自由主義者の抵抗に遭ってしまい、交渉は成果が上がらなかった。

普仏戦争前の1870年7月13日にはバート・エムスで療養中のヴィルヘルム1世に随伴してフランス外交官ベネデッティ伯爵と交渉。その内容をベルリンのビスマルクに送ると、電報内容を改竄して公表するエムス電報事件が起こった。

エムス電報事件(1870年) - Wikipedia

プロイセン王国宰相オットー・フォン・ビスマルクが、同国国王ヴィルヘルム1世から受け取った電報に意図的な編集を行って世間に公表した事件。当時のスペイン王位継承問題に端を発するもので、普仏戦争の直接の原因となった。

1868年9月、スペインで非民主的な当時の政権に対し、フアン・プリム将軍がカディス武装蜂起すると、政権への不満は各地の蜂起を促し、革命は全土に波及した。1865年に王室財産の不正利用が明らかになった女王イサベル2世は軍隊の支持も失い、第二帝政下のフランスへと亡命した。

その後スペインでは、1869年1月に初の普通選挙が実施され、同年6月に憲法が発布されたが、その中で革命後の政体は立憲君主制に定められた。革命後も各地で混乱が続き、共和主義者による蜂起も発生したため、新政府にとって新国王の選出は体制安定のための緊急課題となった。

1870年、フランス亡命中のイサベル2世は、息子である後のアルフォンソ12世に王位を譲ったが、スペインのプリムはこれを認めず、スペイン国王の王位継承問題が発生。この継承候補者として、ホーエンツォレルン家の本家筋で宗教改革後もカトリックに留まっていたホーエンツォレルン・ジグマリンゲン家のレオポルトの名前が挙がり、プリムやビスマルクもこれを推薦。これに対しフランスは(かつてのフランス王フランソワ1世の様に)自国がホーエンツォレルン家の王を戴く国家に挟まれることを危惧し、プロイセン王ヴィルヘルム1世に翻意を求めた。

ヴィルヘルムはもともと執着なく、レオポルト自身気乗りがしていなかったこともあってプロイセン側が折れ、7月12日にレオポルトは正式に王位を辞退した。このプロイセンの譲歩によって事態は平和的に解決したかに見えた。

しかし、あくまでも干渉の権利を有すると信じるフランスは、レオポルトの王位辞退だけでは満足できず、将来に渡ってスペインの王位候補者をホーエンツォレルン家から出さないとの約束をヴィルヘルム1世に求めるため、1870年7月13日、ドイツ西部の温泉地バート・エムスで静養中のヴィルヘルム1世に大使を派遣した。同地を訪ねたフランス大使ヴァンサン・ベネデッティ伯爵は国王に会見を求めたが、既に王位辞退という形で譲歩を行っていた国王は無礼な要求としてこれを拒否し、ベルリンのビスマルクに事の経緯を打電。

国王から報告の電報を受け取ったビスマルクは、この電報を政治的に利用することを思いつき、電報の一部を意図的に省略、非礼なフランス大使が将来にわたる立候補辞退を強要し、それに立腹した国王が大使を強く追い返したように文面を編集した上で、7月14日に新聞や各国へ向けて公表した。文章の省略によって国王の大使への拒絶は強調され、さらにビスマルクが故意に事実と異なった状況説明を行ったため、かねてからくすぶっていたフランス・プロイセン両国間の敵対心は煽られ、両国の世論は一気に戦争へと傾いた。

なお、翌朝の新聞報道を読んだヴィルヘルム1世自身が「これは戦争だ」と叫んだといわれる。開戦反対の声がまったく無かったわけではなかったが、戦争を求める強い世論に流されるまま、フランスは7月15日に開戦を閣議決定し、7月19日にプロイセンに宣戦を布告。これにより(最終的に皇帝ナポレオン三世廃位に追い込まれドイツ帝国が建国される普仏戦争が始まってしまう。

その後、ビスマルクの干渉もあったため1878年11月30日に辞任、後任は甥のボート・ツー・オイレンブルクとなる。

1881年、ベルリンで死去。

1862年文久2年)12月、プロイセン王国の初代駐日領事として横浜に着任、ついで北ドイツ連邦総領事、1868年(明治元年)にはプロイセン王国代理公使、1872年(明治5年)に駐日ドイツ帝国全権公使となった。1875年(明治8年)、清国大使となり、離日した。
駐日ドイツ大使 - Wikipedia

  • 明治3年(1870年)、尾張藩主だった徳川慶勝は新政府に対して、名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出た。金鯱は鋳潰して、明治になり職を失った武士の帰農手当や城地の整備費用に充当する予定であった。しかし、マックス・フォン・ブラントと陸軍第四局長代理の中村重遠工兵大佐の訴えにより、明治12年(1879年)12月、陸軍卿・山縣有朋名古屋城と姫路城の城郭の保存を決定。この時、天守は本丸御殿とともに保存された。

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1882年、朝鮮と通商修好条約を締結。東アジアに通じ、知日派と知られ、現地でその歴史や文化を深く学んだ。その知識や飾らない人柄により、北京の外交界で一目置かれており、各国公使の長老的存在だった。外交官としては欧州各国共通の中国権益保護を主張、ドイツの中国における権益拡大に務め、中国への定期郵船航路開通や1889年の上海市におけるドイツ・アジア銀行設立へと導いた。

その東アジアに関する多数の著書は当時のもっとも優れた民族学的記録でもあった。英語、フランス語にも堪能だった。1893年の引退後はヴァイマルに居住した。東アジア美術の収集家でもあり、ベルリンの博物館に多数の中国美術品をもたらしている。

日清戦争後の下関条約の締結を快く思わないブラントは、1895年4月9日、内謁してヴィルヘルム2世に黄禍論を教唆した。この思想は同月の三国干渉を推進する役割を果たした。

1920年8月24日、ヴァイマルで死去。

最初の妻は1891年に死去したが、彼女との間に生まれた娘ヘレネはベルリンでサロンの主宰者となり、フリードリヒ・フォン・ホルシュタインやレオ・フォン・カプリヴィといった有力な外交官や政治家と親交を結んだ。2番目の妻はアメリカ合衆国駐朝鮮総領事・参事官オーガスティン・ハードの娘ヘレン・マクシマ・ハードであった。この妻との間に娘エリザベートが生まれている。

とはいえ、ブラントが横浜から本国の宰相に新発見書簡を発信した日付は1968年11月12日で、すでに会津藩の降伏から6日、庄内藩主が降伏を申し出てから5日経過しており、現実には交渉そのものが意味をなさなくなっていた。

書簡の保管先はベルリンの連邦文書館。五百旗頭教授らが2013年に着手したドイツの史料発掘プロジェクトの中で、国立歴史民俗博物館千葉県)の福岡万里子准教授が読み解いた。

それによると「シュネル(当時東北にいたプロイセン人の仲介役)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間、担保として与えるとする会津・庄内領主の(シュネルに対する)全権委任状を持ってきた。100平方ドイツマイル(5625平方キロ)の土地を得るのに30万メキシコドルで十分だ」などと書かれているという。
*そういえば(アメリカ合衆国南北戦争(American Civil War、1861年〜1865年)へと突入した隙を突いて始められた)皇帝ナポレオン3世のメキシコ出兵(Segunda intervención francesa en México、1862年〜1867年)を牽引したのも(アメリカ大陸におけるカトリック帝国の発展によるプロテスタントとの勢力均衡、ソルフェリーノの戦いなどで敵対したハプスブルグ君主国との関係を修復すべくオーストリア皇弟フェルディナント・ヨーゼフ・マクシミリアン大公を後援といった大義名分こそあったものの)、結局はメキシコ北西の豊かな鉱山資源目当てだったのではなかったか?
メキシコ出兵(Segunda intervención francesa en México、1862年〜1867年) - Wikipedia

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幕末期の会津藩の領地は現在のオホーツク、根室管内の一部、庄内藩は留萌、上川管内の一部など。書簡には「会津庄内藩蝦夷地の領地に良港はないが、ひとたび足がかりをつかめば他の地の購入が容易になるだろう」ともつづられており、海軍拠点確保に向けた意図が読み取れる。

当時のプロイセンは2年前の1866年に対オーストリア戦争に勝利して北ドイツ連邦の盟主となっており、ドイツ帝国の形成に向かう軍備拡張期だった。(報道センター編集委員 小坂洋右

北海道新聞2016年09月21日号より

そもそも「主権国家」の最もプリミティブな定義が「十分な火力を有する常備軍を中央集権的官僚制の徴税によって賄う体制」だったりする訳で。まずこの条件を満たさないと存続自体が不可能となってしまうのです。

欧州でもこの問題はスイス、ポルトガル、オランダ、イタリア半島内諸国や神聖ローマ帝国内連邦諸国などを苦しめてきたのです。

そして、日本史上においても…

幕末においては執政として藩政を担った河井継之助。父は家禄120石の勘定奉行と、さほど良い家の出身ではありませんでしたが、若い頃に日本のあちこちを放浪しながら勉学に励んでいたそうで、特に長崎を訪れてからは開国論に傾きました。

継之助にとってラッキーだったのは、藩主・牧野忠雅が非常に話のわかる人だったことでしょう。忠雅は幕府の老中としてペリーの黒船来航へ対処したこともあり、身分を問わず家臣から幅広い意見を募っていました。

その中で継之助が提出した第二次長州征伐(幕府が敗北する)へ幕府側に立って参戦することに反対する意見書が目に留まり、「お前に任せたい仕事があるから、長岡へ戻って来い」と命じられるのです。

1866年、大抜擢された継之助は、家伝の会計能力と西洋の知識を存分に生かして藩政改革に力を注ぎます。彼が目指したのが、まず「庶民を豊かにすることで藩の財政を立て直す」という、現代の日本人が聞いても羨ましい立派なものでした。

実際に、

  • 代官の収賄禁止
  • 100石以上の藩士の禄は減らし100石以下のものは増やす
  • 水が腐ったような土地の免税
  • 川の通船税取立て廃止

などを敢行。

そしてわずか1年で藩の余剰金9万9000両を残すのです。当然、重臣たちから「殿に気に入られたからって偉そうに!」と反感を買ってしまいました。が、空気なんて読まない継之助はめげません。

その後、大政奉還などいろいろあった後に戊辰戦争が勃発します。当初、長岡藩は新政府軍にも幕府軍にもつかず、中立を保ちながら両軍の仲立ちをしようとしていました。「国内でごたごたしてもしょうがないだろ!今外国が攻めてきたらどうする気なんだ!」というわけです。

ただ、大政奉還後に、幕府と薩長を調停しようと名乗り挙げたのはいいのですが「もう一度、徳川に任せたらどうだろう」なんて、藩主の名代としてKYなことを言ってしまったのが後に響きます。長岡藩の牧野家は、薩長のような外様大名ではなく、徳川に恩のある譜代大名だったからです。

丸腰ではダメ! →連射可能なガドリング砲を購入する

長岡藩は、「武装中立」を目指していたので、継之助の財政改革の結果、潤沢な資金で当時の最新武器を外国から買い集めました。

丸腰の相手の言うことをすんなり聞いてもらえると思うほど、小身から藩の事実上のトップに上り詰めた彼は理想主義者ではありません。

このとき買った武器はアームストロング砲・ガトリング砲・エンフィールド銃などでした。

アームストロング砲はいわゆる大砲のこと。

会津鶴ヶ城に大ダメージを与えた大砲として有名ですが、会津側にたった長岡藩も持っていたのです。

ガトリング砲は現在の機関銃とは随分形が違いますが、画期的な連射式の銃でした。

エンフィールドはいわゆるライフル(筒の中に螺旋状の刻みを入れることで飛距離が大幅にアップする)で、これらを江戸の藩邸や家宝を売り払ってまで買ったというのですから、継之助の有無を言わせない姿勢が窺えます。

それでも落城時には11万両の資金があって、余裕で払えたというのだから、その経済手腕はすばらしいものがありますよね。

金持ちケンカせずを貫けなかったサムライスピリッツ

この背水の陣ともいえる姿勢で新政府軍と交渉に臨みましたが、聞き入れてもらえず、いよいよ幕府側として戦闘に参加せざるをえなくなってしまいます。

長岡藩は東北の諸大名が組んでいた奥羽列藩同盟として新政府軍と戦うこといなるのですが……。

ここでもギリギリまで武装中立を貫こうとします。すでに領内では同盟の会津軍が新政府軍と激戦をしています。

その中で、継之助は苦しい判断を部下に下します。「朝廷の命令は聞け。ただし徳川への恩を忘れるな」。もう戦闘が始まっているのに、これまたKY。

必死に、現実主義者としての一面と、殿への恩顧を尽くす面とで悩み抜いたことはわかるのですがね。

そして、5月1日に、新政府軍のもとへ行き、相手の軍監の岩村高俊に「というわけで、今までのうちの藩は挙動不審ですみませんでした。でも、主人は恭順のほかなにも考えていません。ただ藩内の議論をその方向でまとめたいのでしばらく時間の猶予をお願いしたい」と直接伝えました。

が、岩村は「なにを今更! いまドンパチやっているの見えんのか! 猶予とかいって戦闘準備をしようというんだろ!」と怒るわけです。まあ、そうでしょう。

この時点で長岡藩1800vs新政府4000だったので、5月19日に長岡城は炎上、奪われてしまいます。

それでも継之助は諦めません。1万6000両の大金で、外国の死の商人スネルから銃器弾薬を買い入れます。新政府軍も補給線が伸びて弾薬不足だったのです。

7月24日、まるで小説かゲームのような展開ですが、大雨と闇夜の隙をついて城を奪い返すのです。ところが、このときに継之助は左足に銃弾を受けてしまいます。相当な重傷で、指揮をとることもままならなくなりました。

その後、29日に、再度城は奪われ、物資も兵も損失していた長岡藩士達は退却せざるを得ませんでした。

継之助は板の乗せられ、会津藩を目指して密かに山道を落ち延びます。しかし途中の会津領の塩沢村(福島県)というところで息を引き取りました。

先に会津へ落ち延びていた藩主が派遣した幕府のお医者さんの治療も受けたのですが、当時の技術では、銃創に対する適切な処置ができなかったのでしょう。直接的な死因は、破傷風だったと言われています。42歳でした。

熱い思いは修造に受け継がれアサヒビールができた

継之助は塩沢村の前に立ち寄った村でも、既に死期が迫っていることを悟っていたらしき言動をしています。「藩主の跡継ぎを亡命させてくれ」「今後は庄内藩を頼れ」などなど、気にかかることは全て言い残しておこうとしたかのような発言の記録が残っています。

目をかけていた外山脩造(とやましゅうぞう)には、「今後は身分制度がなくなるだろうから、商人になって財力を蓄えるように」と、先見の明を示しました。外山はこの言いつけを守り、明治になってからアサヒビールなど数々の会社の創業に関わることになります。
外山脩造 - Wikipedia

甲子園にあった外山脩造の銅像


スネル兄弟 - Wikipedia

幕末期の商人。兄はジョン・ヘンリー・スネル(John Henry Schnell、日本名:平松武兵衛、1843年? - 1871年?)。弟はエドワルド・スネル(Edward Schnell、1844年? - 没年不詳)。詳細な出身地も没年も不明と、謎の多い兄弟である。

長らくオランダ出身とされていたが、プロイセン出身であること、彼らの父の仕事の都合によりオランダの植民地であったインドネシアで育ったこと、そして開港直後に横浜に来たことが判明した。

横浜開港の1859年には、兄弟はそれぞれ16歳と17歳だったが、すでに長岡藩の商人が「バケテスネル」という商会でランプを購入した記録が残っている。G・バテッケという人物とスネル兄弟が所属し、西洋雑貨を売っていたと考えられている。横浜の旧居留地ではオランダ人として登録されていたが、当時ここに居住していた人間は実際はそのほとんどがプロイセン人だったと推測されている。

さらに兄弟は居留地のはずれに牧場を経営し、牛肉や牛乳を販売していた。ここで搾乳を学んだ上総国出身の前田留吉という男が武蔵国大田村で牧場を開き牛乳を販売したのが日本初の牛乳屋とされている。しかし、1861年文久元年)にはその牧場も人手に渡っていたようだ。

同じころ、商人でスイス使節のルドルフ・リンダウは文久遣欧使節の通訳にスネル兄弟のいずれかを推薦している。彼によるとスネルは英・仏・日本語の心得があるということだったが、結局随行はかなわなかった。

その前年、1860年万延元年)にプロシアが日本と通商条約を結んでおり、1862年文久二年)11月に初代領事としてマックス・フォン・ブラントが赴任することとなり、兄・ヘンリーはその下で書記官として雇われる。着任早々、ブラントとヘンリーの二人は馬で移動中片肌脱ぎの浪人に割り込まれ、襲撃されかけるという危機を味わったという。

ヘンリーは誠実な職員で、1866年(慶応二年)に横浜で大火が起きた際は、自分の家が燃えているにも関わらず領事館へと向かい公文書を非難させたという。

他方、弟・エドワルドは翌1863年文久三年)には若干十代ながら居留地の代表者に選ばれていたが、この年来日したスイス使節団の書記官として雇われた。1864年(元治元年)、ルドルフ・リンダウがスイス領事に任命された際には、エドワルドは引き続き書記官を務めた。スイスの居留地に土地問題が発生した際に、エドワルドが使者として江戸に派遣されたこともあった。

さらに横浜でフランソワ・ペルゴ(ジラール・ペルゴ創業者の義弟)と共にスイス時計の輸入商社シュネル&ペルゴを設立するが、武器販売を優先しようとしたことからペルゴと対立して商会は解散した。プロイセンとスイスとの間に土地の所有権が持ち上がった際には、兄弟がそれぞれの当事者の書記官として職務を行っていたということもあった。

1867年(慶応3年)7月15日、スネル兄弟が馬車で江戸に戻ってきたところ、突然、沼田藩士三橋昌が馬の前に飛び出してきた。ヘンリーは馬首を廻らせて男に触れずに通り過ぎようとしたが、馬車が斜め前に来たところで三橋は刀を抜き、ヘンリーの隣に座っていたエドワルドに一撃を浴びせようとした。ヘンリーは拳銃で反撃したが、誤って下駄商幸次郎の雇人淺次郎を傷つけてしまった。事件から2日後の17日、 沼田藩は三橋昌を拘禁したことを書面をもって幕府に報告している(ヘンリー・スネル襲撃事件)。

大政奉還の際には、ヘンリーはエドワルドの大阪出張の先遣隊として派遣されるが、その船中で初めて長岡藩主牧野忠訓河井継之助と知り合うこととなる。その直後の12月22日にヘンリーはプロイセン書記官を退職し、エドワルドも12月いっぱいでスイス書記官を退職した。

弟・エドワルドはオランダ総領事ポルスブロックの斡旋で、新たに開港される新潟港にオランダ・スイス・デンマーク副領事代行の肩書で赴任することとなり、ヘンリーと会津出身のその妻とともに新潟へ移住する。新潟でエドワルドはエドワルド・スネル商会を設立。会津藩家老・梶原平馬越後長岡藩家老・河井継之助を仲介にエドワルドからライフル銃780挺と2万ドル相当の弾薬を、河井も数百挺の元込め銃とガトリング砲を2挺購入。

兄・ヘンリーは梶原の案内で会津にやってくる。慶応四年、北越戦争のさいに米沢藩家老千坂高雅と面会し軍事顧問となるように頼まれ、これを承諾。会津藩主・松平容保はヘンリーに平松武兵衛の名を与え、屋敷も提供した。 また、羽織袴に容保から授けられた小脇差を差したいでたちで前線を視察、自らの手で大砲を撃ち、その狙いは正確で弾はことごとく土塁の中に打ち込まれたという記述が残っている。

北越戦争 - Wikipedia

戊辰戦争が起こると上海や香港から武器弾薬を運び、奥羽越列藩同盟に送り込んだ。北越戦争で新潟港が陥落したとき、エドワルドはまさに武器弾薬の陸揚げ中だったが、薩長軍に捕縛されるもののすぐに釈放されている。
奥羽越列藩同盟 - Wikipedia

兄・ヘンリーは明治維新後、1869年(明治2年)にカリフォルニア州に、日本人妻のジョウを含む会津若松の人々約40人と共に移住した。サンフランシスコの北東にあるゴールド・ヒルに「若松コロニー」という名の開拓地を建設した。しかし、日本から持ってきた茶や桑などが育たず、1年ほどで若松コロニーの経営は行き詰まった。1871年4月、ヘンリーは金策をしてくると言い、日本へと向かったとされるが、彼がこの地へ戻ってくることは無かった。日本で秘密裏に暗殺されたとも言われる。

若松コロニー(Wakamatsu Tea and Silk Colony) - Wikipedia
若松コロニー、ヘンリー・スネル、

弟は新潟から東京へ移り、そこで商会を開いた。1882年(明治19年)頃まで日本国内で活動していたが、それ以降の消息は不明。

 かくして…

  • 究極の自由主義専制の徹底によってしか達成されない」ジレンマは勢力均衡によってしか緩和不可能である。

  • ところがこの世界においては「冷戦構造」とか「三国鼎立」といった感じで比較的対等な条件で均衡状態が成立していた時期の方が遥かに少ないのである。ただし大勢がどの勢力に傾いているかは、時局によって変遷を遂げたりもする。
    *最近のノーベル経済賞の焦点ともなっている。さらには「(日英同盟による大日本帝国の国際協調社会参入といった形での)ヨーロッパ世界の拡大」とも。

こうした観点に立つとイタリアン・ファシズムやドイツ・ナチズムについての見解も相応のパラダイムシフトを余儀なくされるにです。とにかく焦点は「マイノリティなら、もうそれだけで手段を選ばない抗戦が許されるのか?」だったりもする訳ですが。