諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【SF小説】そもそも左翼イデオロギーなの? それとも右翼イデオロギー?

おっと、こんな議論が…

*「裸足で国道に飛び出すがごとき」「パジャマ姿でヒグマの森をうろつく」「アメリカのアニオタの百年戦争にサンダル履きで突っ込んで字幕派に肩入れする蛮勇」「拳銃一丁にスク水姿でゾンビ村へ突撃」で、ふとモーリス・センダックかいじゅうたちのいるところ(Where the Wild Things Are、1963年)」を思い出した。こちらは多くの御伽噺の主人公同様に「こまけぇことはいいんだよ」で助かるパターン。

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それでは科学的マルクス主義の「神人同形論Anthropomorphism/アントロポモルフィズム)」に徹底抗戦したスタニスワフ・レムソラリスの陽のもとにSolaris,1961年、映画化1972年、2002年)」やストルガツキー兄弟丘の上のピクニック/願望機1977年)」は、そもそも左なの? それとも右?

  • こうした作品群はアーサー・C・クラーク幼年期の終りChildhood's End、1953年)」や「2001年宇宙の旅2001: A Space Odyssey、1968年)」にインスパイアされる形で主に共産主義諸国で執筆され(ドラッグを捨て「脳を再プログラミングする道具」コンピューターに入れ込んだ)1980年代以降のティモシー・リアリーの「元ヒッピーベトナム反戦運動の一環としての徴兵忌避でカナダに移住した)」ウィリアム・ギブスンなどへの働きかけを通じてによってTV系サイバーパンク文学ブーム開始に大きな影響を与えている。ただし正確な科学的知識に裏付けられていなかったので次第に時代遅れとなってインターネット普及が始まった1990年代以降は衰退。後世の再読に耐え得るのはJ.P.ホーガンやルディ・ラッカー程度で、前者の「仮想空間計画Realtime Interrupt、1995年3月、邦訳1999年)」が河原歴「ソードアートオンラインWebへの連載開始2002年〜、刊行開始2009年〜)」シリーズ、「未来からのホットラインThrice Upon a Time、1980年)」が「Steins;Gateシュタインズゲート、2009年〜)」シリーズの基本的世界観に強い影響を残した。

  • 同時期、南アフリカにおいては長年喧嘩し合う関係だったオランダ系先住民と英国系移民が(原住民との共闘を念頭に置いて)合同。当時の祝祭的ムードを反映して「長年宿敵関係にあったエルフ族とドワーフ族が揃って闇の勢力に対抗する人類の戦いに手を貸す」J・R・R・トールキン指輪物語The Lord of the Rings、執筆1937年〜1949年、初版1954年〜1955年)」が執筆されたが「」が単一化したせいでかえって「原住民」は団結力を高め、同じ南アフリカ出身のノーベル賞作家J・M・クッツェーが「夷狄を待ちながらWaiting for the Barbarians、1980年)」を発表した時代のアパルトヘイト隔離政策)は「蛮族に滅ぼされていくローマ帝国的悲哀」なる色彩を帯びる様になる。そして1994年にこれが実際に廃絶されると「それまで黒人と白人を隔ててきた境界線廃止後のリアル緊張感」が(「宇宙人とのファーストコンタクト」や「知性のデジタル化がもたらす人間の機械の境界線の曖昧化」といったギミックを現実の暗喩としてとして巧みに振り回す)ブロムカンプ監督を登場させるのである。

    *長年喧嘩し合う関係だったオランダ系先住民と英国系移民の合同が生んだ祝祭的ムード…それまで本当にガチで殴り合ってきた現実が生んだのがボーア戦争泥沼化と、それに伴う対ロシア戦力減退を補う為の日英同盟締結。とっくの昔に日本はこうした歴史的展開に巻き込まれてきたのだった。

    *そしてこの方面でも「(十分な科学知識を有した)J.P.ホーガンやルディ・ラッカーだけが生き延びた」現象が観測される展開に。


    *かくして当初はゴブリンやオークの大軍の来襲に例えられ、ゾンビ集団の様に新たな文化を構築することなく世界をニヒリズム的破滅で満たしていく「まるで癌細胞の様に際限なく増えていく闇」とイメージされてきた西洋文明繁栄を終わらせる黙示録の怪物達…そちら側が実際に勝利を手中に収めていく過程を描いたファンタジーが「グレイテスト・ショーマン(The Greatest Showman、2017年)」だったという次第。

    The Sound of Silence (Original Version from 1964)

    Ten thousand people、 maybe more
    数万人、いやおそらくそれ以上の、
    People talking without speaking
    言葉を発しないまま語らう人々
    People hearing without listening
    音声を遮断して耳を傾け続ける人々
    People writing songs that voices never share
    誰からも聴かれない声で歌われる歌を作詞し続ける人々
    And no one dare Disturb the sound of silence.
    その誰もが全て「姿なき姿、声なき声」に奉仕する存在に過ぎない。

    “Fools” said I、 “You do not know Silence like a cancer grows”
    「なんて馬鹿な事を」という言葉が思わず口を突いて出る。「まるで癌細胞じゃないか。その沈黙は際限なく増えていく闇だ」
    *まさしくこれこそが1960年代前半の米国で(ユダヤ系インテリを中心とする)繊細なニューヨーク知識人が抱いていた世界終末のイメージ。その代表格の一人たるリチャード・ホフスタッターが「アメリカの反知性主義(Anti-intellectualism in American Life、1963年)」を発表するのもまさにこの時期。

    ナチス迫害を逃れる為にブラジルへと亡命し、現地でリオのカーニバル期間中に大日本帝国シンガポールを陥落させたニュースに接して「私の様な生粋の欧州人が生き延びられる様な時代はもう終わった」と遺言して夫婦心中を遂げた「欧州の古き良き時代が残した最後の知性」シュテファン・ツヴァイクはこうした未来を地獄の到来として幻視して絶望してしまったのだった。

    *その日本で彼の残した「マリー・アントワネットMarie Antoinette、1932年)」を原案とする池田理代子の漫画「ベルサイユのばら(1972年〜1973年)」が大流行して(「外国人王妃」を常に悪党視してきた)フランスの伝統的歴史観の普及を阻む(しかもそこに描かれた「(「悪魔の様な殺人狂」オルレアン公の陰謀から)マリー・アントワネット妃を守り抜く男装の麗人」オスカルが(宝塚劇場文化に起源を有する)手塚治虫リボンの騎士( 少女クラブ版1953年〜1956年、続編「双子の騎士」1957年〜1959年、なかよし版 1963年〜1966年、アニメ版1967年〜1968年)」と「少女革命ウテナ(1997年)」を結ぶ鍵として世界中の少女漫画ファンに再発掘される)なんて超展開、本当に想像を超えている。

    *ところで、その日本においてすら「ベルばら」が全体としてどんな物語だったかなんて、今やほとんど忘れ去られている。英国人が再発見し、ミュージカルに再編して国際的ヒットを飛ばすまでの「レ・ミゼラブル」がそうだった様に。その映画化の最新版においては(なまじ「完全映像化など不可能」とまでいわれた大作だったがゆえに)制作費が抑え込めるオーストリア勢が大活躍。そう、同様に「完全映像化など不可能」といわれていた「指輪物語」「ホビットの冒険」の映像化に際してニュージーランド勢が大活躍した様に(その勢いで「キングコング」も「トーキー映画の大流行や世界恐慌の影響で零落していく映像作家と大道芸人の起死回生に向けての決死の冒険」なる原点に立ち返る形でリメイクされた)。ちなみに、予算不足で失敗に終わった1970年代末における「指輪物語」アニメ化プロジェクトの残滓が日本の下請けアニメスタジオのトップクラフト、すなわち1980年代以降、狂った様にアニメーション大作映画のヒットを飛ばす様になるスタジオ・ジブリだったりする。さて「下部構造(現実世界における映画制作体制)が上部構造(実際に正確される映画の内容)を決定する」としたら、こうした制作体制の変遷は映画の内容をどう変えてきたのだろうか?

    *そう、帝政ロシア時代のスラブ民族主義者ゲルツィンが既に19世紀において予告していたではないか。「欧州人は事あるごとに「ロシア人が来る!!、ロシア人が来る!!、ロシア人が来る!!」と怯えてきた。だが彼らはモンゴル軍の様に、あるいはナポレオン軍の様にある日突然国境を超えた大群として襲いかかって来る訳ではない。(神聖ローマ帝国皇統たる)ハプスブルグ家や(プロイセン王国王統たる)ホーエンツォレルン家の要請に従って「国際的解放者」として派遣されてくるのだ。それにつけても果てさて、何から何を解放するというのだろう?」。どんな歴史観にも欠陥ならある。なまじ「ベルばら(すなわちオーストリア)史観」で欧州史を学ぶと、2月/3月革命(1948年〜1949年)当時、ハプスブルグ家に招聘された帝政ロシア軍が「世界の憲兵」名目で東欧において何をやらかしたのかに疎くなる。さらには、その帝政ロシアが太平洋方面でも同様の強面の立場を貫こうとした時「義和団事件(1899年)鎮圧の英雄」大日本帝国がこれを撃破したので「国際的解放者」の称号を(部分的ながら)継承する展開になった事、その大日本帝国が太平洋戦争でアメリカに敗れたので、この称号がアメリカに渡った事、そのせいでアメリカがどういう目に遭わされたかが見えなくなってしまうのである。実際「国際的解放者の責務」の現実は、ジョージ・オーウェルが「象を撃つ」で活写した派出所警官の役割みたいなもので実に味気ない。

    ジョージ・オーウェル「象を撃つ」撃つ

    *ゲルツェンの予測を裏切ってホーエンツォレルン家は欧州にロシア軍を呼び込まなかった。代わりにアジアに派兵する様に扇動したのである。だが日露戦争後はフランスもロシアも英国の同盟国に変貌し第一次世界大戦勃発の準備が整う。

    *そもそも当時実際に最初に国境を超えて欧州に襲い掛かったのはモンゴル軍団でも帝政ロシア軍でもなくなく、飢餓輸出される東欧の穀物や大西洋の向こう側から機関車や汽船が運んで来る冷凍肉だったのである。そしてかかる供給を受け止める為、欧州経済は消費の主体をインテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層から庶民に切り替えた大衆経済への移行を余儀なくされたのだった。そして「下部構造(経済の実相)が上部構造(そこで取引される商品の内容)を決定する」ルールが導出したのが女性向け小説やパルプマガジンの大流行、さらにはハリウッド映画業界の大勃興だったという次第。

    *本題に戻すと「SF小説」の大源流もこうした時代まで遡る。果てさて当時のSF小説は「左翼」だったのか、それとも「右翼」だったのか? これって案外深い問いだったりして…

    *そしてハリウッド映画業界がトーキー化とカラー化による制作費増大を(スペクタクル映画やミュージカル映画といった)大本命以外の映画製作を外国に委託する様になった事が「下部構造が上部構造を決定する」ルールに新たな展開を与えたのだった。すなわちカラー恐怖映画の英国発注、カラー特撮映画の日本発注…こうした流れが「指輪物語」「ホビットの冒険」のニュージーランド発注、「レ・ミゼラブル」のオーストラリア発注を経て英国芝居業界においてまず名を挙げ「アメコミ界における「カナダ人」ウルヴァリン」「クリストファー・ノーラン監督の実存映画における「欧州貴族の末裔」偉大なるダントン」「レ・ミゼラブルにおける「新興産業階層の象徴」ジャン・バルジャン」なるアイデンティティを勝ち取ってきた「オーストラリア人俳優」ヒュー・ジャックマンが「(世界びっくり人間を集めて開催される)サーカス興行の創始者」P.T.バーナムを演じる「グレイテスト・ショーマン(The Greatest Showman、2017年)」が製作される運びとなったのである。

    *こうした一連の流れが第二の「バットマンの乳首」事件とならなかった展開に世界の文化的成熟を感じずびはいられない。

  • 同時代日本で進行していた事態。既に(産業革命当時の印刷革命と女性向け小説の大流行を背景に始まったパルプマガジン文化(19世紀末〜1950年代)を嚆矢として英米大衆文化の一環を担ってきたペーパーバック文化やコミック文化、日本の「月刊少年少女向け雑誌」「週刊少年漫画雑誌」「少女漫画誌」に匹敵する歴史的展開。

    *ああ、まさに「下部構造(情報頒布手段の変遷)が上部構造(そうしたインフラ下で行われる創作活動)を決定してきた歴史」そのもの。

    *最新の大変革は2000年代前半における「Web連載小説」「自主制作アニメ」「同人ゲーム」の登場と2000年代後半以降の「人生のFPS化」となる。

 (こうした全体像を俯瞰するなら)こまけぇことはどうでもいいんだよ?