諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【スィング・ジャズのパサージュ】「卵売り系音楽」の歴史上における現れ方について。

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Tales from Weirdland — When the rats are away, the cats are at play....

私の脳内には「卵売り系サウンズ」なる分類が存在します。どうやらジャンルとしてはBenny Goodman Bandなどが演奏した「Sing Sing Sing1936年)」の様な(主に1920年代から1940年代にかけて樹立したスウィング・ジャズ に分類されるタイプの曲。

*それは同時に「(パーティーの賑やかしとしての)遊び女」がフェミニズム前夜において女性のファッション・リーダーの一イメージとして定着し、かつ排除されていくプロセスでもある?

1.とにかく出発点は 暁テル子「ミネソタの卵売り1951年)」のイメージ。

ミネソタの卵売り コッコッ コケッコー!

ミネソタの卵売り』は、1951年リリースの日本の歌謡曲。作詞:佐伯孝夫、作曲:利根一郎、歌:暁テル子。「コッコッコッコッ コケッコー♪」の歌い出しで有名だ。

日本がアメリカに占領されていた時代の古い歌謡曲である同曲。今日注目される機会があるとすれば、それはテレビ番組「笑点」で林家 木久扇(はやしや きくおう)によりネタにされる場合にほぼ限定されるだろう。

ミネソタに卵売りはいない?

曲名を見ると、まるでアメリカのミネソタ州に実在する卵売りが元ネタになっているかのような印象を受けるが、おそらくはミネソタ州に卵売りはいないだろうし、アメリカ全土を見てもそれは同じであろう。

実在するモデルがないとしたら、一体なぜミネソタなのか?なぜ卵売りなのか?

この謎についてネットで調べると、次のような解説を見かけた。

米国ミネソタに卵売りの習慣はないらしい。 作詞・佐伯孝夫の家にミネソタ州からお客が来た時に卵売りがやってきたというのが最有力説のようです。

これについては根拠となる客観的な資料が示されていなかったため、真否のほどは定かではない。

「〇〇売り」シリーズ三部作の最後

まずおさえておかなければならないのは、『ミネソタの卵売り』は、暁テル子「〇〇売り」シリーズ三部作の最後の作品であったという点である。

当時ビクターレコードから発売された暁テル子の「〇〇売り」シリーズ三部作は次のとおり。

1950年5月『リオのポポ売り』

1950年8月『チロルのミルク売り』

1951年2月『ミネソタの卵売り』

半年ごとに1曲のペースで、海外の地名を冠した「〇〇売り」シリーズの楽曲がリリースされていたことが分かる。

リオはブラジル、チロルはオーストリア南部(イタリア北部)。「ポポ」は落葉高木の「ポーポーPawpaw)」か。

アメリカのミネソタが選ばれた理由とは?

ミネソタの卵売り』がリリースされた1951年2月の日本は、まだ連合国軍GHQによりアメリカの占領下にあった。サンフランシスコ講和条約により日本が独立を果たすのは1951年8月のこと。

講和条約締結へ向けてアメリカと日本の融和ムードが高まる中、暁テル子の「〇〇売り」シリーズ三部作の最後を飾る曲としてアメリカの地名が用いられるのは自然な流れといえる。

そして当時のアメリカを象徴する音楽といえばジャズ。暁テル子にジャズ歌謡を歌わせるにあたり、参考とすべきアメリカの女性ジャズ・ポップス歌手といえば、当時人気が高かったのは、ミネソタ出身の「アンドリューズ・シスターズThe Andrews Sisters)」だ。

このようにして、アメリカのミネソタという地名が曲に用いられることになったのではないかと推測される。

流入したアメリカ文化とタマゴ

残された疑問は、ミネソタとタマゴがどうつながるのかだが、このタマゴというキーワードは、ミネソタの方にかかるのではなく、ミネソタを含むアメリカ全体の食文化に関係しているように思われる。

アメリカの朝食では、カリカリに焼いたベーコンと目玉焼き、またはスクランブル・エッグなどの卵料理がよく見られるが、これらがGHQ占領下の日本でも提供され、アメリカの食文化として認識が広まっていたと想像できる。

もちろん日本の朝食でもタマゴ料理はあっただろうが、アメリカの食文化としてタマゴが目新しく見えた時代だったのではないだろうか。

ミネソタを含むアメリカ全体の象徴として、この「タマゴ」というキーワードが組みこまれ、「〇〇売り」というフォーマットにそのまま機械的に当てはめられたため「卵売り」というありそうでなさそうなフレーズが誕生したのではないか。

タマゴは栄養があるので、戦後食糧難における国民食として摂取を進める宣伝ソングの意味合いもあったのかもしれない。

もしかしたら、参考にしたジャズのリズムが「コッコッコッコッ コケッコー」に空耳で聞こえ、そこからタマゴ売りを思いついたなんてことも想像できる。

最終的にはレコード会社か作曲者の公式見解を待つしかないが、 アメリカ→ジャズ→アンドリューシスターズ→ミネソタの流れは結構当たっているのではないかと思われる。皆さんはいかがお考えだろうか?

コッ、コッ、コッ、コッ、コケッコ~♪
私はハウスの~、た・ま・ご・めん~♪

こんな歌い出しからはじまるCMソングで人気を博したハウスの『たまごめん』。この歌はオリジナルソングではなく、1951年にリリースされた暁テル子のヒット曲『ミネソタの卵売り』が元ネタ。余談ですが、この楽曲、あまりにもキャッチーなため、80年代にイシイ食品の『たまごにべんり』のテレビCMにも同じく替え歌として使用されていました。 

  • すでに戦中期には「ブギウギ・ビューグル・ボーイBoogie Woogie Bugle Boy、1941年)」を国際的に流行させていたミネソタ出身の「アンドリューズ・シスターズThe Andrews Sisters)」の影響は、大日本帝国敗戦直後のヒット曲東京ブギウギ1947年)」制作秘話にも色濃く取れる。


    東京ブギウギ(1947年) - Wikipedia

    作詞鈴木勝、作曲服部良一、歌唱笠置シヅ子。ブギのリズムを日本でヒットさせた歌謡曲であり「青い山脈」「リンゴの唄」などと並んで、戦後の日本を象徴する曲として有名である。


    1947年、作曲家服部良一終戦直後一面焼野原となった銀座で「星の流れに」を耳にし、ブルースをイメージする。

    『焼け跡のブルース』はどうだろう。」 意見を求められたジャズ評論家、野川香文は「今はブルースではない、明るいリズムで行くべき。」と助言、服部は戦時中に楽譜を入手していたアンドリュー・シスターズの「ブギウギ・ビューグル・ボーイ」を思い出す。

    翌1948年1月鈴木勝の作詞、服部良一の作曲、笠置シヅ子の歌唱による「東京ブギウギ」発売。明るく開放的なこの歌は大きな反響を呼び、その後の一連のブギウギ作品と共に一世を風靡する。

    東京ブギウギの大ヒットは、当時笠置が10月14日から翌月まで公演を行っていた「踊る漫画祭・浦島再び竜宮へ行く(日劇)」の挿入歌として歌われたことがきっかけとされている。ただし、この曲が最初に歌われたのはそれ以前の9月、大阪の梅田劇場(現・HEP)でのことであった。

    作曲した服部は、電車に乗っている時レールのジョイントの音と吊革の網棚の淵に当たる音からメロディを思いつき、急ぎ駅を降り飛び込んだ喫茶店のナプキンに書いた。ただし、小川寛興の証言では、楽譜を紛失した服部が記憶をもとに書き直したものとしている。なお、笠置の吹き込み時にはスタジオに米軍関係者も詰めかけ、彼らの声援の中大乗りの雰囲気で行われた。

    このあと「大阪ブギウギ」・「名古屋ブギウギ」などご当地ブギが作られた。

    NHK紅白歌合戦では、1953年12月の「第4回NHK紅白歌合戦」で笠置によって歌唱されている。1993年の「第44回NHK紅白歌合戦」では「服部良一メドレー・紅白バージョン」の一節として少年隊が、2005年の「第56回NHK紅白歌合戦」では松浦亜弥が本楽曲を歌唱。

    日本音楽著作権協会JASRAC)の著作権使用料分配額(国内作品)ランキングでは、2012年度と2013年度の2年連続で年間4位、2014年度の年間5位、2015年度の年間8位と4年連続でトップ10入りを記録した。

    また、アメリカでもColumbiaから笠置シヅ子が歌ったものが、なぜかTokyo Columbia Orchestra名義で45回転のシングルレコード(レコード番号Columbia 4-39954)として発売されている。

  • こうした流れからは、以下の様なトンでもない「世紀末サンプリング音楽」の系譜も生まれている。 

  • そもそもYMOメンバーの当時の回想によれば「グルーブのないテクノサウンドの樹立は、それが純粋に経験則で継承されてきたエスニック・サウンズを扱う新たな数理モデルの樹立過程の副産物に過ぎなかったという。特ににEthnic Groove大源流たるMartin Denny「Fire Clacker1959年)」を、あえて無機質なキーボード・ベースによってカバーする「Electric Chunky Disco」構想が「中国女La Femme Chinoise、1977年)」や「Solid State Survivor1979年)」を経てボーカル曲へと結実していくプロセスが、それまで解析対象外だった何かの「可視化」に成功した事実は揺らがない。

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    *ここまで範囲を広げると細野不二彦Gu-Guガンモ(原作1982年〜1985年、アニメ化1984年〜1985年)」の主題歌やバラード調の明石家さんまの「しあわせって何だっけ(1986年)」あたりまで範疇に含まれてくる?

    そう「Electric Funky Disco」ならぬ「Electric Chunky Disco」。かかる試行錯誤プルールこそが今日米国で再評価されている日本の「1980年代City POP」の大源流…

    どうしても思い出さずにいられないのが「5+3」の8拍子に度肝を抜かれたVan Halenの「Dont Tell Me1995年)」…「JUMP1984)」が始めた何かの一つのディストピア的到達点…

    *これだけは決して忘れてはならない。本物のBAKEMONOには、それを可視化して隔壁を落として切り捨てる処方箋なんて存在しないものなのである…


    *それにつけても「グループサウンズマカロニ・ウェスタンの魂、百までも」だったりする?


    *途中から「トーキング・ヘッズトレヴァーホーンからヒカシューへ」の流れも加わってくる。

2.時計の針を1950年代日本に巻き戻すと、次に「卵売り系音楽」が現れるのは、石原裕次郎主演映画「嵐を呼ぶ男1957年)」となる。

石原裕次郎主演映画「嵐を呼ぶ男(1957年)」 - Wikipedia

石原裕次郎の代表作の一つ。その後も主演渡哲也(1966年)、近藤真彦1983年)によってリメイクされている。北原三枝演じるヒロインの女帝マネージャーのモデルは当時女性マネージャーのはしりとして注目を集めていた渡辺美佐である。主題歌も裕次郎自らが歌い、彼にとっての最初のヒット曲となり、独特の歌い方が今日でもものまねの対象になっている。

物語

ジャズバンドのプロモーター福島美弥子は、ある夜、音楽大学の学生国分英次から兄の国分正一をドラマーとして売り込まれる。人気ドラマーのチャーリー・桜田が急に仕事を休んだため、美弥子は喧嘩して留置所に入っている正一の身元引受人になり、ステージに出す。チャーリーが持永の事務所に移籍したため、美弥子は正一を自宅に住まわせ、兄の福島慎介と新バンドでデビューさせる。音楽評論家の左京徹は正一に、美弥子との仲を取り持ってくれるなら正一を宣伝すると取引する。

左京はテレビで正一を持ち上げ、正一とチャーリーのドラム対決公演を提案。だがその前日、正一は持永の子分と喧嘩し、左手を怪我してしまう。翌日の公演では、チャーリーの演奏が優位であったが、正一は右手でドラムを叩きながら歌い、観客の喝采を浴びる。ジャズミュージシャンとして売れっ子になった正一は、やがて美弥子と結ばれる。弟の英次も自作曲がリサイタルで演奏されることが決まる。

左京は約束を守るよう正一に迫る。正一は美弥子の元を去り、母・貞代のアパートに戻るが、英次は大家の娘島みどりと婚約したと聞かされ、追い返される。行き場を失った正一はダンサーのメリー・丘の元に身を寄せるが、持永の逆鱗に触れ、子分たちに襲撃され、左手をつぶされる。正一は行方をくらまし、英次のリサイタルの日を迎える。いきつけのバーでラジオから流れる英次の曲を聞いていた正一を美弥子たちは探し当てる。音楽活動に反対していた貞代もようやく正一を認め、母子は和解する。 

逆を言えば「太陽族映画1955年〜1956年)」、特に「狂った果実1956年)」の時代まで、映画音楽におけドラマティックな展開は全て劇伴の交響曲楽団が担当。良くも悪くもミュージック・ホールは(現実の憂さを忘れル為の)明るいラテン系ポピュラー音楽が流れている空間的認識としてのみ存在して来たのである。そしてジャズの導入が「幕末太陽傳1957年)」辺りから始まる。

ジャズの本格的導入自体は松竹蒲田撮影所が製作した日本初の本格的なトーキー映画「マダムと女房(1931年)」にまで遡るとも。ただしモダンな「上海バンスキング」の世界は軍国主義台頭に伴う「Jazzは敵性音楽」なる思想の普及によって一旦は完全に駆逐されてしまうのである。

ここで興味深いのが洋画と邦画のピンポン進行。①ドストエフスキー白痴Идиот、1868年)」の翻案としては黒澤明監督映画「白痴1951年)」より「狂った果実1956年)」を喜び、ここからゴダール監督映画「勝手にしやがれ仏題À bout de souffle、英題Breathless、1959年)」や「気狂いピエロ仏題Pierrot Le Fou、1965年)」が誕生。アメリカン・ニューシネマ(New Hollywood、1960年代後半〜1970年代中旬)の大源流の一つとなる。②「悪い奴ほどよく眠る1960年)」にインスパイアされる形でフランシス・コッポラ監督が「ゴッドファーザーPart1/Part2The Godfather、1972年/1974年)を制作。さらに深作欣二がこれにインスパイアされる形で「仁義なき戦いシリーズ1973年〜1976年)」を制作。これがアジア映画におけるハードボイルド・アクション物の基本フォーマットとなる。③本国では赤狩りによって駆逐されてしまった米国ハードボイルド文学の伝統を継承した「用心棒1961年)」「椿三十郎1962年) 」の影響を受けてマカロニ・ウェスタンなるジャンルが成立。その流れで「13人の刺客1963年)」「大菩薩峠1966年)」の様なウルトラ・ヴァイオレンス物も海外で高く評価されたが、国内評論家は黙殺。④大日本帝国末期、情報部から「(重厚なイタリア音楽やドイツ音楽と異なりクオリティが低く、デカタンで、エロティックで、ノイジーなため価値がない」と決めつけられた黒人音楽の中でも極め付けにデカタンでエロティックなソウル・ミュージックの分野が、当時の日本で流行していた「エロティズムに関する閉塞的状態を打破すべく、それを芸術に昇華した」路線の一作たる大島渚監督映画「愛のコリーダ仏L'Empire des sens、英In the Realm of the Senses、1976年)」の主題歌を再評価。この流れが同じ大島渚監督の映画「戦場のメリークリスマスMerry Christmas, Mr. Lawrence、1983年)」主題歌の国際的ヒットに繋がっていく。

日活 - Wikipedia

戦後の「日活株式会社(1945年(昭和20年)に大映の興行権を継承、1954年(昭和29年)に映画製作を再開)」は五社協定1953年)により他社の映画俳優を一切使えなかったなか、月丘夢路三国連太郎、水島道太郎、森繁久彌三橋達也南田洋子小林桂樹北原三枝芦川いづみ新珠三千代などの俳優を移籍で獲得に成功、更に新国劇の俳優も起用して、時代劇、文芸映画を製作。それまでカラーの外国映画を公開していた日活系劇場はいきなり白黒の日本映画に切り替わるというギャップと(この過ちはのちにロマンポルノ→ロッポニカで繰り返している)、五社協定の煽りを受け興行的に苦戦。

その為に新人のニューフェイスなどを登用せざるを得なくなり、宍戸錠名和宏長門裕之らを起用。やがて石原慎太郎原作の「太陽族」映画が当たると、石原裕次郎小林旭浅丘ルリ子待田京介赤木圭一郎二谷英明岡田真澄川地民夫和田浩治、葉山良二、中原早苗、笹森礼子、清水まゆみ、小高雄二、青山恭二、筑波久子らを起用した若者向けの低予算のアクション映画中心の会社に路線変更した。また劇団民藝と提携し俳優を確保した。興行収益が好調な上に事業多角化を推進したため、業績は堅調。これによって石原、小林、赤木、和田による「日活ダイヤモンドライン」と中原、芦川、浅丘、笹森、清水、吉永小百合による「日活パールライン」を看板に掲げた。

しかしながら本格的なテレビ時代の到来と日本の映画産業全体の斜陽化のあおりを受けた上に、北原の引退、赤木の急逝、アクション映画のマンネリ化、企画不足、裕次郎・旭の二大スターの肥満等による人気低下、堀久作社長のワンマン体質からくる過剰な不動産投資、1967年(昭和42年)には堀に反発した江守専務ら映画製作の中枢者を強引に退陣させる等、放漫経営などが次々に災いして1960年代には業績は急激に悪化していったのである。

 

「愛のコリーダ (仏L'Empire des sens、英In the Realm of the Senses、1976年)」 - Wikipedia

大島渚監督、藤竜也、松田暎子主演の日仏合作映画。制作プロダクションのノートには『日本初のハードコア・ポルノとしてセンセーショナルな風評を呼んだ』とある。

題名の「コリーダ」はスペイン語で闘牛を意味する「Corrida de toros」からとっている。フランス語の題名「L'Empire des sens官能の帝国)」は、ロラン・バルトによる日本文化論「L'Empire des signes邦題 『表徴の帝国』)」にちなむ。

昭和史に残る「阿部定事件」を題材に、男女の愛欲の極限を描く。作品内容は神代辰巳監督の「四畳半襖の裏張り1973年)」に大きな影響を受けており、大島自身も制作に当たって一番参考にした作品であることを認めている。

映画では主に藤竜也吉蔵役)と松田暎子(定役)の性的シーンはすべて無修正であり、二人の陰部が無修正で写されているシーンもあるため、日本国内では大幅な修正が施されて上映されたが2000年に「完全ノーカット版」としてリバイバル上映された。

3.それまでムーディなJAZZの世界に浸ってきた映画音楽作曲家ジョン・ウィリアムスが黒澤明監督映画「隠し砦の三悪人1969年)」の影響を色濃く受けた「スターウォーズStar Wars、1977年)」で 「虎変易経によれば君子の「豹変」や小人の「革面」に先行して顕現する大人の態度)」。どういう関係にあるか明確ではないが、この映画におけるエイリアンが集う居酒屋で演奏されていた曲がまた「卵売り」系だった。

題名で「パサージュ」と断ってる通り、まだまだ全然ちゃんとした歴史観の形に落とし込めてない感じですが、とりあえずメモがてら…